| 名残惜しむかのように沈み行く夕日が、 一日の仕事を終えて帰路につく人々の影は、例外なく長く伸びていた。 毎日変わることのない、麗らかな昼夜交代の儀式。 気がつけば頬をなでる風も、夕暮れ時の湿り気を孕ませている。 飽くことなく繰り返される紅き自然の芸術が、今日も 「……嫌な感じじゃのう」 立ち止まって見上げれば、誰もが魅入られてしまうであろう美しき落日。 だが、孫娘の手を引くマーシャルは、朱に染まった空にどこか不吉な物を感じ取っていた。 白い顎髭を胸元まで垂らす、腰の曲がり始めた老人である。 生涯かけて使われてきた彼の身体は、 そんな貧弱な 精彩を欠く主とは対照的に、身に纏う黒いインバネスはあたかも存在を誇示するかのように上質な艶を放っている。 そのコントラストは、着用者の意図に反して深い この村の村長であるマーシャルは、若さは無くても金ならあった。 しかし、老い先短い彼にとって、金などあまり意味のない代物である。 いまさら何かを欲しいとも思わないし、財産を潰して豪遊する気力もない。せいぜい威厳を保つために、身なりに投資する程度である。 顔をしかめて、マーシャルは天を仰いだ。 普段の彼なら、この燃えるように赤い空に、何の いや、持てない。 七十年という長大な人生を歩んできたマーシャルにとって、 それを美しいと思う無垢なる感性は、すっかり もはや、いかなる自然の美観も彼の心を揺さぶることはない。 長い歳月は、マーシャルの精神を風化させ、好奇心を枯渇させたばかりか、 その胸中に若し頃の情熱は微塵もない。 今の彼は、言うなれば生気を失った、朽ち果てるのを待つだけの老木。 ただ日々繰り返される自然の営みの中に身を置いて、静かに余生を送っているに過ぎない。 だが、老いれば老いるほど、世界に興味を失えば失うほど、逆に己を取り巻く環境のことが良く分かってくる。 このラピス村で生まれ、嫁を娶り、村長として暮らしてきた彼にとって、この村は自分の庭……いや、すでに己の一部のような物だ。 生い茂る木立、野に咲く花々、村の側を流れる小川のせせらぎ、そのどれもが目を閉じていても その感覚に頼るなら、長閑な田園風景に囲まれた家並みの中を過ぎる、氷刃めいた気配があった。 気のせいではない。 意識を深沈と研ぎ澄ませれば、肌を刺すような異様な空気が流れているのが分かる。 (まさか……) ごくりと、彼は生唾を飲み込む。 そう今は、 昼でも夜でもないこの夕方の時間帯は、古くから 天の守護者である太陽と月。そのいずれからも敬遠されたこの僅かな時は、異界に住む魔性の侵入を許す、いわば世界の綻び。 この世とは位相を異にする闇の世界との境界線がもっとも曖昧となり、魔物どもがこちら側にやって来る恐怖の時間なのである。 無論、人外魔境の存在は夕方となれば常に現れるわけではない。 時間帯の他にも、月齢や天体の配置、その土地の地形などの諸要素が複雑に絡まった時、闇の世界に通じる門が開かれる。そして、血に飢えた魔界の獣どもが、ここぞとばかりに人間狩りに襲来するのだ。 村長に就任してからのマーシャルの半生は、不定期に襲ってくる魔物との闘争の歴史であった。 奴らと相対した記憶は、痛烈な恐怖を伴って老人の脳裏に幾重にも刻まれている。 ここ1,2年は、音沙汰無しの平穏な日々が続いてきたが、それも今日までらしい。 「どうしたのおじいちゃん?」 孫娘のサフィが、夜の泉のように澄んだ黒瞳を上目遣いに向けながら尋ねてきた。 この地方独特の衣装である腰ひもで括ったギャザースカートに、袖にフリルのついたジャケットを羽織った14才の少女。 闇を溶かしたかのような長髪を、そよ風に靡かせる様は 「いや、なんでもないよ」 美しく成長しつつある孫娘の姿に、マーシャルは思わず鼻の下を伸ばしながら応えた。 村一番の器量よしと言われるサフィは、気立ても良く老若男女問わず村人たちから絶大な人気がある。 特に若い男どももが彼女を見る目は、 そんなさかりのついた犬のような連中から、毎週のように自宅のポストにサフィ宛の恋文の投函があり、それらの処分に、はなはだ 自慢の孫娘がモテるのは嬉しいが、マーシャルには赤の他人なんぞに彼女をまかせるつもりなど毛頭無い。 息子夫婦を魔物の襲撃によって失った彼にとって、サフィは唯一心を癒してくれる太陽のような存在だ。 彼女を取り上げられたら、マーシャルの心はたちまち極寒の氷河に覆いつくされてしまうことだろう。 枯れ木同然の老人が切に願うのは、ただただ孫娘の幸せのみ。 地位も金も、そのためなら喜んでドブに捨てよう。 サフィの存在こそが、マーシャルが今なお現世に執着し、長としてこの村を守っている理由だった。 「なんでもないんじゃよ、サフィ」 病弱な孫娘を気遣い、彼は努めて朗らかに諭す。 サフィは生まれたときから心臓を 寝たきりになるような重病ではないが、数十メートル走っただけで貧血を起こしてしまうため、彼女は運動を極力控えている。 そんな それは、いついかなる時でも同じである。 「おい、おまえたち」 「はっ。これは村長」 ちょうど通りがかった巡察中の自警団員たちに、マーシャルは 自警団とは、この村が野盗や魔物の餌食にされぬよう有志を募って組織された治安維持組織である。 王家の威光も届かない辺境のこの村では、自分たちの身は自分たちで守るしなかい。こんな おそろいの紺のジャケットを着た若者三人は、襟を正して直立不動の姿勢を取る。 村長であるマーシャルは、同時に自警団長も兼ねていた。 魔術の基礎知識を有し、村人たちを善導する彼は、この村における絶対権力者である。その意向に逆らうとする者など、ここには存在しない。 耳を貸せと目配せでマーシャルが合図すると、長である青年が素直に 孫娘の前では話しづらいことなのだと察してくれたのだろう。 「 「ま、魔物……!?わかりました早急に対処します」 この世ならざる場所に住む、血と殺戮に餓えた凶獣『魔物』。 その言葉に本能的な恐怖を 「ねえ、おじいちゃん。何かあったの?」 血相変えて走っていった男に、ただならぬ気配を感じたのだろう。サフィが不安げに尋ねてきた。 「なんでもない。心配いらないよ」 気の回らない団員に内心舌打ちしながら、マーシャルは穏やかに微笑する。 (サフィは、何も気にしなくて良い) この娘だけは、平和な明日の来訪を疑うことなく信じて生きて欲しかった。恐怖と理不尽にまみれた脅威の世界から、彼女だけは無縁でいてもらいたかった。 しかし…… 村内に火急の事態を告げる カンカンとけたたましい鐘の音が、宵の口を迎えようとする村全体に 「大変だ!ば、化け物が……魔物が西門に現れたぞ!!」 物見櫓に立った自警団員が、喉を潰すような大声で警告を発する。 その一言に、緊張の気配が電撃のように村内を貫いた。 真っ青になって武器を片手に飛び出す者、色めき立って子供たちを呼び寄せる母親、悲鳴を上げる娘たちが西門付近から駆けてくる。 「なんと、もう現れおったか!?サフィ、急いで屋敷に戻るぞ」 「は、はい」 怯えた子猫のように身を縮ませる孫娘の手を引いて、マーシャルは帰路を急ぐ。 ほんの散歩のつもりが、とんでもないことになってしまった。彼は 怒号と悲鳴が集落を その中で怪異から逃げる人の流れと、怪異を滅ぼすべく集う人の流れが瞬時に形作られる。 力無き女子供は、村長の屋敷に設けられた安全な地下室を目指し、武器を持った男たちは魔物を倒すべく西門に集結していく。 マーシャルが村人に指導してきた魔物対処訓練が、功を奏しているのだ。 混乱に陥ることなく、迅速に行われようとしている避難と殲滅。 一体どれほどの等級の魔物が現れたのか気がかりだが、この調子なら村人の被害は最小限に抑えられるだろう。 そう思った矢先。 目の前の景色が、波紋を広げる水面のように波打った。 「な、なに……!?」 すぐ手前を駆けていた親子らしい女と少年が、面食らって立ち止まる。 通常起こりえない異様な現象に、彼らのみならずマーシャルも肝を潰した。うなじの毛がそそり立つような危機感が、胸を焼く。 この光景は間違いない…… この世界とは位相を異にする別次元の怪物が、世界の綻びから侵入しようとしているのだ! 「いかん!離れ……」 彼が叫ぶのと、歪んだ空間から剛毛に覆われた腕が飛び出したのはほぼ同時だった。 年の離れた男女の上半身が、血煙と化す。馬鹿げた力で殴られ、一瞬にして粉砕されたのだ。 恐怖に染まったサフィの金切り声が、細断された血と肉片のスコールに花を添える。 ぐおぃおお! 石のように目を剥き固まったマーシャルを嘲笑うかのように、獣に似て異なる咆哮が轟いた。 それは闇の世界に住む魔物の歓喜の声。 獲物を手にかけた暗い 揺らぐ景色の中央が影を結び、色彩を帯びて、実体を成す。 斜陽を遮り、 筋骨隆々とした鬼神像のような 「あ、ああ…」 絶望に犯されたサフィの声。 この世ならざる者の金色の巨眼が、立ち そこに宿っているのは、怯える弱者を踏みにじろうとする 人間が備える嗜虐心を持った異形の獣。 針のような硬質の毛を全身に生やした姿は、一見すると熊のようだが、その威容に内包した凶暴性は、熊など比較にならない。百獣の王さえ、この怪物の前では可愛い子猫同然である。 全身の細胞が凍てつくようだった。 圧倒的な恐怖が、マーシャルの全身を束縛する。 目の前に立っているのは、文献でしかお目にかかったことがないが間違いない。魔物の上級眷属に類される破壊の巨人『サイクロップス』である。 (サ、サフィだけは…) 歯の根が合わぬほど震えながら、彼は孫娘だけはなんとか逃がそうと頭を巡らした。 この老体がどうなろうと構わない。サフィだけは、この娘だけは何があっても守り抜かねば…… そんなマーシャルの願いをうち砕くかのように、魔物は無慈悲に剛腕を振り上げた。 人間を原型も留めず破壊する、 空を裂き、残像を伴って迫る打撃を、彼は呆然と迎えた。 |