レッドアイズ 2部   

第3話 よみがえる右目

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 粘着く水音を響かせて、赤い目の悪魔が近づいてくる。
 血染めのリノリウムを踏みしめて来る魔人を、イルはまばたきもせずに迎えた。
 人間は精神のキャパシティを超えるショッキングな出来事に遭遇そうぐうすると、己の心を閉ざしてしまう。そうすることで、脆く儚い自分の心を守ろうとする。
 普段は気丈に振る舞っているイルだが、さすがにこれだけの恐怖と絶望を味わって、正気でいられる筈もなかった。
 氷河のごとく閉ざされる、思考と感情。
 魔人は、手を伸ばせば触れられる距離までやってくる。
 目の前に立っているのは、人の姿を借りた死神。イルの生殺与奪の権利は、生態系的強者である彼が握っている。
 彼女は弱肉強食の掟に従い、魔人がもたらす運命を粛々しゅくしゅくと受け入れる他なかった。
 それが例え、どんな理不尽なものであろうとも。
「今まで、すまなかった。お前を、こんな汚れた世界に置き去りにしてしまって……」
 なぜか沈鬱ちんうつな声音で、魔人は謝罪めいたことを言う。
 彼の右肩から生えた竜頭が、風船がしぼむように縮小し、何の変哲もない右腕に戻った。
 だが、イルにそれをいぶかしく思う余裕などない。
 限りなく鈍磨した彼女の心は、空漠くうばくの闇と化していた。
 それは、いかなる感情の細波さざなみも立たない、無明の暗黒。
 精神活動を麻痺させることで、彼女は心が押し潰されるのを防いでいた。
「ああ、イルちゃん!?」
 そんなイルの胸中に、一条の光が過ぎる。
 光の投げたのは、嗚咽おえつを上げるジェシカとライカだった。
 彼女らは、いままさに魔人の生け贄にされようとしているイルを目の当たりにして、恐慌きょうこうおちいっている。
(ジェシカ、ライカ……)
 イルは、この悪夢の世界の直中にいるのが、自分だけではないことを思い出した。
 同じ辛酸を舐めてきた姉妹たちが、恐怖にむせびながらも自分の身を案じてくれているのだ。
 絶望の暗闇に沈む心に、小さな炎が灯る。
 その蛍火のような感情の輝きに、彼女はすべてをゆだねた。 
「……イル」
 魔人の手が、微動だにしないイルのほほに伸びる。
 血の通った、確かな温もりと弾力。人間と寸分も違わぬ、生の躍動を伝える肌触り。
 それを感じた瞬間、イルは行動に出た。
「せぇあ!!」
 裂帛れっぱくの呼気と共に放つ、鉄拳。
 腰の捻りを加えた強烈なブローを、彼女は魔人の腹部に見舞った。
「……っ!?」
 鉄板を殴ったがごとき衝撃。
「いたぁあ、くそぅ!」 
 五指が砕けるような痛みに、イルは踏鞴たたらを踏んで仰け反りかえる。
 銃弾の雨さえしのぐ魔法障壁の強度をかんがみれば、当然の結果だ。反動によって拳が破壊されなかっただけ、運が良かったと言える。
「なんと?」
 魔人は、気が触れたような彼女の暴挙に面食らっていた。
 異世界の珍獣とでも遭遇したように、彼は目を白黒させる。
 その隙を、イルは見逃さなかった。 
「ジェシカ、ライカ!私がこいつを押さえている隙に逃げて!」
 イルは心に灯った勇気を振り絞って、魔人にタックルをかます。
 そのまま相手の胴に両手を回し、絶対に離すものかと抱きしめた。
 彼女はとっさに、密着した状態なら、魔人は巻き添えを恐れて攻撃魔法の使用をひかえるのではないかと踏んだのだ。打撃技の失敗が、着付けの一発となって、イルに沈着な思考を取り戻させていた。
「イ、イルちゃん……!?」
 固唾かたずを呑んでイルを見つめていた2人の少女が、目を剥く。
 イルは決死の覚悟で血の繋がらぬ家族を守ろうと、武器も持たずに魔人に挑んだのだ。
「早く、早く行って2人とも!」
 ともすれば、瓦解しそうになる勇気にすがりながら、イルは絶叫する。
 魔人がその気になれば、彼女の抵抗などアっという間にねじ伏せられてしまうだろう。
 人間の小娘の思わぬ反撃に戸惑っている今が、チャンスなのだ。魔人に使役しえきされている魔獣も、今は少年たちをあの世に送ることに熱中している。
「だ、だめよイルちゃん、こ、腰が抜けちゃって」
「それに、イルちゃんを残して逃げるなんて……」
 立ち上がろうとするジェシカとライカの足は、引きつけでも起こしたように震えていた。それでも、2人はお互いの身体を支え合うようにして身を起こそうとするが、とても走れる状態には見えない。
「逃げるんだよ!逃げなきゃ、殺されちゃうんだぞ!」     
 イルは、脳神経が焼き切れるほどの焦燥しょうそうに金切り声を上げる。
 早くせねば、彼女の捨て身の行動が無意味なものになってしまうのだ。3人とも魔人に殺されてジ・エンドなどという最悪の幕引きだけは、絶対に阻止せねばならない。
「驚いたぞ。強い娘になってくれたのだな」
 春風のごとき温もりに満ちた声と共に、イルの身体に小さな圧力が加わった。
 魔人が、彼女を掻き抱いたのだ。
 殺すでも、喰らうでもなく、魔人は愛情すら感じさせる優しい手つきで、イルの背後に腕を回していた。   
 意味不明の抱擁ほうよう
「その目、その髪、その美貌。何もかも母と、私の愛したキャロルと瓜二つだ」
 魔人がイルの身体を離し、その顎に指をのせて上向かせた。
 まるで機械駆動のような強力な力に、彼女はなすがままにされる。
「な、なにを……!?」
 イルは魔人の腕から逃れようと、懸命に身をよじるが微動だにできない。
 この男の注意を引きつけることには成功したが、相手の言動の意図が読めず、彼女は戸惑った。  
 息がかかるほど間近に迫る、怜悧れいりな顔。
 吸い込まれそうな深淵をたたえた人外の瞳に、例えようのない哀愁あいしゅうが宿る。
「すまなかったな、イル。お前が、冒涜ぼうとくに満ちた人間の世界で味わってきた苦しみと辛酸、それを余すとこなく私は知った。まさか、呪われた右目を摘出したことで、皮肉にも人間どもからも《出来損ない》の烙印を押されることになろうとは……」
 魔人は子供を愛撫する父親のように、イルの頬を撫でた。
 触れられた箇所から、電流のような恐怖が全身にほとばしる。人食いの魔物に顔を触られているのだ、彼女は生きた心地がしなかった。
「16年前の過ちを、今こそ是正ぜせいしよう。例え、我らに災いをもたらす存在であろうとも、お前は私の娘。生まれてきたありのままのお前を、私は親として迎え入れるべきだったのだ」
「……娘?」
 イルは、意外な一言に眉をひそめる。
 《お前は、私の娘》と彼は確かに言った。
 そういえば、この壮年紳士は、自分に対して危害を加えようとしていない。さきほどからの言動も、明らかに不自然だ。まるで、こちらを気遣うような……
「なに、それ?娘って、どういうことなの?」
 脳裏に閃いた寒気をもよおす推測に、イルは怒気をはらんだ詰問きつもんを浴びせる。
 人間である自分の父親が、人類の宿敵である魔人のはずがない。
「そうだ、イル。私はお前の父親、アルバトス・イングライム。闇の女王アンジェリカ様より《奈落》のゲート管理を任せられるイングライム伯爵家の当主だ」
 魔貴族アルバトスは、万感を込めて静かに応える。
 イルは、驚愕に声も出ない。
 魔人の告白が心に浸透して来るにつれ、彼女の胸中に複雑な感情が沸き立つ。
 嫌悪、不安、喜び、安堵、憎悪、悲哀、それらがぐちゃぐちゃに入り交じり、混沌をていする。
「驚いているようだな、無理もない……。だが、イルよ。なにも心配することはない。私は2度とお前を手放しはしない。私たちが失った時間を、これから共に取り戻していこう」
 アルバトスの指が、イルの落ち窪んだ右眼窩みぎがんかに伸びた。
 眼球が存在しない。その器のみが鎮座ちんざする《出来損ないの右目》。
 次の瞬間、焼けるような痛みが、その欠損部分を貫いた。     
「きゃぁあああああ!?」
 限界以上に声帯を震わせ、イルは苦鳴を上げる。
 右眼窩に触れた魔人の指が、焼きごてに変じたように熱かった。顔面が炭化し、脳が煮えたぎりそうである。
「辛抱してくれ。魔力の源たる魔眼の再生は、一瞬という訳にいかないのだ」
 赤熱した意識に入り込む、アルバトスの声。
 右目部分を焼く激痛は、さらに全身に波及し、身体全体が炎に包まれたように灼熱した。
 彼女は慌てて身体を見下ろすが、表面的には何の変化もない。痛覚だけが、幻の炎の存在を関知して絶叫を上げる。
 細胞という細胞が、燃え崩れて炭になっていくかのようだった。
 地獄の責め苦が、少女の体内を蹂躙じゅうりんする。
「あ、あぁあ……?」
 許容量を超えた刺激に、意識が途切れる寸前。
 イルの身を焼く見えざる業火は、潮が引くように消えていった。
「もう大丈夫だ、よく耐えてくれた」
 アルバトスが安堵の息をつきながら、彼女の身体を解放する。
 よろめきながら、数歩後退するイル。
(なに?……えぇ!?)      
 その瞬間、イルを取り巻く世界が一変した。
 ディスコを満たしていた薄闇が吹き払われ、何もかもが鮮明化する。
 すべてが見えた。
 凝然と固まっているジェシカとライカ。荒れ狂う魔獣と、それに喰われる少年たち。彼らの息づかいから、心臓の鼓動、果ては体温分布から肉体各部の乳酸蓄積状況まで、なぜか手に取るように分かる。
 この世のあらゆる事象が見通せるような、万能感。
「イ、イルちゃんの右目が!?」
「赤い片目!うそ、アレって聖眼!?」   
 驚倒して自分を指さす2人の少女に、イルは目を瞬く。
 そして気づいた。右目に宿る確かな感覚。右目を通して飛び込んでくる、有象無象の情報の洪水。
 五感を超える超感覚が、周囲の状況をあらゆる角度から観察し、彼女の脳に伝達する。   
「うわぁ!な、なんだ、これ!?」
 初めて味わう経験に、イルは圧倒された。
 右目が伝えてくるのは、彼女が見慣れた世界とはまるで異なる異質な世界。   
「魔眼の再構成は成功したようだな。イルよ、それがお前が本来見るべきだった世界だ。魔眼が見せてくれる、世界の在り方だ」
 何かに耐えるような沈痛な口調で、アルバトスが告げる。
 永遠に光を結ぶことのないと思われていた《出来損ないの右目》。致命的に欠落した瞳。コンプレックスの源でしかなかったそれは、超感覚器官となってよみがえった。
「こ、これって、まさか……」 
 そう彼女の右目は、神に選ばれた戦士に宿るという『聖眼』であった。 

 


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