高得点作品掲載所     海巳さん 著作  | トップへ戻る | 


理論派のための恋愛術

 夕方にも関わらず殺人的な熱気が街にたちこめている。私は逃げるように駅に駆け込んだ。ひんやりと冷やされた空気が体を包み、汗ばんだ制服が肌に張り付く。呼吸を整えながら、智佳の姿を探す。
 智佳との約束の時間から、すでに20分も遅れていた。その事実に、暑さによるものとは別の汗が流れる。智佳、怒ってるだろうな、時間にうるさいやつだし。
 智佳に説教される姿を想像すると憂鬱になった。あいつの説教は、長い、辛い、痛いの三点セットが揃った拷問だからだ。
 改札まで駆け足で向かう。そこにすらりと背を伸ばして立つ智佳がいた。
 目に飛び込んだその姿に、軽く息をのんだ。なんだ、あれは。
 氷室 智佳――私、早坂 祐実の一つ年下の従姉妹――はネイビーのシックなワンピースを着ていた。夏らしいサラサラとした素材のワンピースの縁には、オレンジ色のラインがアクセントとして入っている。高校生には上品すぎる服だったが、大人びた智佳にはこれ以上ないほどマッチしている。細い肩、真っ白な首もと、彼女を構成するすべてのパーツが、透き通った芸術品に見えた。
 しかし、それらが束になってもかなわないような強烈な違和感。それが今、彼女から発されている。道行く人たちがちらりちらりと彼女に好奇の視線を向けていく。携帯で写真を撮っている人さえいるではないか。その理由が彼女の頭に鎮座している。
 そう、彼女の頭上に燦然と輝く――ネコミミ。ネコミミ。ネコミミ!? あまりに予想の斜め上を行くその存在に、私はただリフレインすることしかできない。
 ネコミミなんて漫画の世界でしか見たことはなかった。最近のブームの関係で、そういうものが売られていることは知っている。しかし、それと智佳はどうやっても結びつかない。連立方程式とキティちゃんくらい無茶な組み合わせだった。
 思考がゆっくりと淀む。これはなんの冗談だ。
 私の焦りをよそに、智佳は寄せられる視線にも全く動じず、彫像のように立っていた。いや、むしろその存在感から言えば、そびえ立っていたと言ってもいい。
 その真っ黒なネコミミがこちらを向いた時、私はやっと我に返った。彫像は私に視線を合わせ、口を開く。知的な声が流れ出した。
「祐実、22分の遅刻だ」
 智佳の冷徹なまなざしが私を射貫く。汗が一気に引いた。
「君はかのベンジャミン・フランクリンの至言を知らないのか? タイム・イズ・マネーだ。社会生活を営む者として外せない原則だろう。――それで、全うな理由を聞かせてもらえるのだろうね? 返答如何によってはただでは済まさないが」
 智佳本人はいつもと変わらない調子だ。それに少しだけ安堵を覚え、私は応える。
「うん、それよりもまず先に聞いてもいい?」
「かまわない」
「その頭のふざけた物体は何?」
「あぁ、これか」
 智佳はそのふさふさとしたネコミミを撫でながら、にこりともせずに告げた。
「『ぷりちー』だと思わないか?」
 私は視界が暗くなるのを感じた。そして、喉まで出かかったコメントを命がけで食い止める。――お姉さん、すっごいシュールです。


「いいかい、祐実。遅れた側の人間がいきなり弁解から入れば、待たされた方はたまらない。部活だ何だと言い訳をしてはいるが、それはあくまで君の都合だ。そうだろう? そして待ち合わせは私たち二人の都合だ。どちらの優先順位が高いかなんて明白だろう。私がここに訪れるという予定は1週間も前に決まっていたのだから、そのための準備を怠った君に責任がある」
「その通りです。私めが悪いのであります。閣下」
 智佳のねちねちした追求を聞き流しながら、駅を出る。早速燃えるような太陽の洗礼を浴びる。眩しさに顔をしかめながら、横の少女がここに来るまでの経緯を反芻した。
 市外に住んでいる智佳が私の家に遊びに来たいという旨のメールを送ってきたのが2週間前のこと。初めは気が乗らなかった。私は智佳という人間が嫌いではなかったが、彼女には少なからず苦手意識があったからだ。
 例えば、口調。彼女のそれは大人びている、とかいう次元の話ではなく、明らかに女子高生のそれではなかった。まるでミステリィに出てくる探偵のようなしゃべり方をするのだ。しかも毒舌。知らない人が聞いたら、ぎょっとするだろう。もっとも、彼女の容姿にあまりに似合っているので、一部には根強いファンもいるわけだが。
 そのきつい口調で、智佳はまだ私に説教をする。
「祐実、誠意が感じられない。謝りさえすればいいとでも思っているのか?」
「じゃぁ、どうしろと」
「ハーゲンダッツ、ストロベリー」
「たかる気かよ! 私の財布なめんなよ、今200円しか入ってないんだぞ」
「君それでよく外を歩けるな。下手に電車にも乗れないじゃないか。仕方ない、またの機会にしよう」
 またの機会にするだけで、やめないのが智佳流だ。こんな調子で、年下とは思えないような態度で話しかけられると、私だって疲れる。もっとも、もう慣れたけど。
 そんな苦手な相手でも、今回は特別だ。私が気が変えて智佳を泊めることにしたのは、彼女の目的を訊いたからだった。なにしろ、あの智佳がメールで「恋愛に関する相談がある」と持ちかけてきたのだ。
 彼女が私に頼るだなんて珍しいことなので、すっかり舞い上がってしまって、私は快諾した。その相談というのが、智佳がその15年の生涯で全く無縁だった恋愛相談と言えば、応えない方が無体だ。本音を言えば、好奇心を抑えられなかっただけなのだが。
 智佳は共学に通う私とは違い、中高一貫の女子校に通っている。恋愛の機会がほとんど掴めずに、この年になるまで笑っちゃうくらい奔放に育ってきた。
 ところが、この夏彼女にふって沸いた『グループデート』の企画。ぶっちゃけちゃうと、合コン、ということになるのだろうか。高校生のくせに。
 なんでも、近くの共学の男子達と遊びに行こう、という企画らしい。名目上はクラブの交流会だそうだが、明らかに下心がある企画なんだとか。智佳の所属する女性陣は肉食獣よろしく息巻いているそうだ。智佳自身も初めはあまり興味を示さなかったが、まわりの熱に押され、参加を余儀なくされた。なにしろ智佳は美人なのだ、参加するだけで意義がある、とかなんとか言われたらしい。
 智佳はやると決まれば本気を出す女である。参加することが決まった以上、一番目立って、感じの良い男を捕まえて見せようと決意した。彼女はその作戦について、私に相談を持ちかけてきたのだ。はい、回想終了。
 私は智佳に視線を戻す。彼女も日差しに眉を寄せていた。
「例えばどんな作戦をたてたの?」
「うん、そこが問題だ。私は今まで男性にほとんど触れたことがない。絶対的なデータ量が足りなすぎる。戦争に必要なのは、補給と情報とよく言うだろう? まず敵を知るために相手方の主催者の男子にメールでいくつか参考質問をした」
「言いたいことはあるけど、流すね。それでなんて送ったの?」
「どんな娘に来てほしいか、といったことをな」
「返事は?」
 智佳は軽く息をためた後、さらりと言った。
「『ぷりちーな子ぷりーず』だそうだ」
「そいつ、頭大丈夫!?」
 思わず反射的に叫んでしまった。道行く人が振り返る。思わず、私は声を落とす。
「……悪いことは言わない。蹴ってしまえ、そんな企画」
「落ち着け、祐実。おそらく茶目っ気のつもりだったのだろう。それほど過剰に反応することはない。――なぁに、可愛らしいじゃないか。こちらの緊張をほぐそうと、なんとかエスコートしようと背伸びしている姿勢が感じられる。悪くない印象だ」
 智佳はふっと鼻で笑う。なんでこいつこんなに男前なんだ。
「とにかく私は、相手方の要望通り『ぷりちー』な少女になって、来るべき決戦に望むことにしたのだよ」
「律儀というか、なんかあんたの真面目さって方向性ズレてるよね。で? それであのネコミミなわけ? チャレンジ精神は買うけど、流石に安易なんじゃないの」
 智佳の頭からネコミミはすでに外してある。というか全力で外させた。あれはいろんな意味で破壊力が高すぎる。今は普通のおしゃれ少女である。口さえ開かなければだが。
「あれは実験だ。実際に衆目の目にさらすとどんな反応が観測できるか試したかった」
「なんだその鉄の心臓……」
「しかし芳しくなかったな。好意よりも距離感を感じだ。まぁ私もな、こんな簡単な手で『ぷりちー』になれるとは思っていなかった。ネコミミをつけるだけで『ぷりちー』になれるなら町中の少女たちがネコミミをつけていてもおかしくはないだろう」
「想像しそうになるからやめて。でも、あんたなりに――あぁこれあんまり口にしたくないな――『ぷりちー』になるための努力はしたわけだ。頑張ったね」
 私は褒めたつもりだったが、彼女は少し表情を曇らせた。
「そうだ、私なりに調べてみた。しかしだ」
 彼女はピンと右手の人差し指を立てた。私は思わず背筋を伸ばす。彼女がこの動作をしたときは長い台詞をしゃべる前触れだ。
「『ぷりちー』というワードを調べに漕ぎ出した私を出迎えたのは、凄まじいまでの情報のどしゃぶりだった」
 はい、語りモードはいりました。語り出した智佳を止める方法はない。語り終わるまで待つしかないのだ。
「そう、体に打ち付ける膨大なまでの雨――もとい情報の氾濫だ。高度産業化社会の活力は世界を絶え間なく動かし続け、めまぐるしく大量の情報を渦巻かせている。ただでさえ大量の情報が溢れているにも関わらず、この情報社会では情報がメディアによって時々刻々と作り出され続けており、絶え間なく報道され、印象の面においても情報の笠が肥大してしまうのだよ。調査の際は、もっぱらいらない情報を捨てるのに労力を裂いた」
 私は適当に聞き流しつつ、要点だけを掴もうと心がけた。
「『ぷりちー』とは言うまでもなく英語prettyが元になっている言葉だ。主にオタク圏に分布するこの言葉は、可愛いといった意味を持つ。しかし、その使われ方はあまりにも多岐にわたっている。メイド、ネコミミ、幼女、妹、はては宇宙人やロボット。萌え属性と呼ばれるこれらの要素は日々新しい分野が開拓されており、漫画やゲーム、アニメにライトノベルなど様々なメディアで紹介され、それはとうとう現実の世界にまであふれ出てきて境界を曖昧にしている。メイド喫茶などが良い例だろう。こういった現実では得られないような刺激に対して、男たちは『ぷりちー』と叫ぶのだ。私はこれらのデータを集め、考察し、比較検討した上で、余計な情報を排除していった。そしてこう思った」
 智佳は感慨深げに頷きながら、言い放った。
「――奥が深い」
「目覚めちゃダメぇッ!!」
 通行人が振り返る。もう知ったことか。智佳は悪戯っぽく口元をゆがませると、ともかくと言葉を継ぐ。
「調べれば調べるほど、現実と乖離して、参考にできなくなっていくのだ。相手のオタク度による部分もあるし、私は調査に行き詰まりを感じ始めていた。そこで、私は調査のスタイルをがらりと変える決断を下した。演繹的アプローチから帰納的アプローチへ」
「……文系の私にも分かるような言葉を使ってね」
「私は先に『ぷりちー』という概念を見つけ出し、それに自分を適合させようとした。しかし、それではダメだと分かった。だから、まず実物の具体例から『ぷりちー』という概念のにおいを掴もうと思ったのだ。すなわち、実際に共学で恋愛にいそしんでいる少年少女が、どんな瞬間に『ぷりちー』を感じるのかを調べ、そこからより現実的な『ぷりちー』を導き出そうと決めた」
 やっと流れが掴めた。女子校では情報が少なすぎる。かといってインターネットでは情報が多すぎる。的確な線が見えてこなかった智佳は、大胆にも現場で調査をしようと思い立ったのだ。
「そういうわけで、祐実。明日も部活があるのだろう?」
「え、うん。吹奏楽部は割とハードだからね。コンクールも近いし、毎日やってるよ」
「それは良かった」
 智佳は我が意を得たり、という顔で当然のように私に提案した。
「私を明日、学校へ連れて行け。そして調査の協力をするんだ」
「え、やだよ。そんなの聞いてない」
「それは、言っていないからな。でも祐実は私に口答えできる身分かな? 昨年の夏、課題で出されていた新書感想文を書いてあげたのは誰かな? うん?」
「いや、その節は本当にお世話になりましたけど……」
 思わず敬語になってしまう。私が智佳を苦手に思うもう一つの理由が、この彼女の計画性の高さだった。
 去年、夏休みも終わりに近づいていた時を思い出す。吹奏楽に明け暮れていた私は、課題のほとんどを未消化の状態で残していた。写せる宿題は友達に協力してもらえば良いが、どうやっても写せない感想文だけはどうしようもなかった。他の吹奏楽部員も宿題に追われていて声をかけづらかったし、頼れるのは智佳だけだったのだ。智佳はこちらが新書のタイトルを告げると「それなら読んだ」と一言答え、翌日には規定枚数をクリアする見事な評論文を書き上げ、メールで送ってくれた。
 その文章は校内の作文コンテストでなんと堂々の優秀賞を叩き出してしまい、私は教師や同級生に驚かれたものだった。やりすぎである。
 「どうせ写したんだろ」と言う人もいてちょっと心が痛むこともあったけれど、いいこともあった。私(というか智佳)と同じ優秀賞をとっていた恵太郎君が声をかけてくれたのだ。「早坂さんの作文、良かったよ」と。天にも昇る気分だった。
 まてよ、――恵太郎君。
 その時、私の中に素晴らしいアイデアが閃いた。そうだ、これは恵太郎君に近づくチャンスかもしれない!
 私はなけなしの演算能力を駆使する。この計画はいけるだろうか。いける、きっといける。
 智佳はめまぐるしく思考する私の顔を訝しげに見ている。余程変な顔をしていたのだろうか。でもそんなことはどうでもいい。一年分の片思いが前進するかもしれないのだ。
 私の作戦はこうだ。智佳の調査に便乗して、普段話しかけづらい恵太郎君にアタックを仕掛けるのだ。
「任せなさい、智佳ちゃん。お姉さんがばっちり! なんとかしてあげちゃいましょう!」
 いきなりテンションが上がった私に、智佳は眉をひそめたが、追求はしなかった。
「うん、それでは一週間よろしく頼むよ」
「おーけーぃ、ふふふ、やってやるぞー」
 はやる気持ちを抑え、明日の計画を脳内に展開させていった。展開図の先に希望が待っていると信じて。


 小日向 恵太郎君は私が一年の時のクラスメイトであり、私と同じ吹奏楽部に所属している部活仲間でもある。パートはコントラバス。そしてなにより、私が淡い恋心を寄せている相手なのだ。
 初めて見たときから、「あぁ、この人はいいな」と思っていた。誰が何と言おうと運命である。
 長身とその整った顔立ちから、恵太郎君は他の男子からはっきりと浮かんで見えた。彼の動作は一つ一つがとても繊細で、コントラバスの弦に松ヤニを塗っている姿でさえ、鑑賞に値する美しさだった。頭の回転もとても速く、紳士的で、べらぼうにモテる。
 でも、彼はなぜか女の子と付き合わないのだ。何人も彼に告白しては、丁重に断られてしまったらしい。それを聞いた私は、どうしても彼にアタックするのを尻込みしてしまった。いつも視線で彼を追っているだけだった。
 二年になってクラス替えの紙が廊下に張り出されたときなんか、自分の名前よりも先に彼の名前を探してしまった。そんな健気な私の思いも、現実では儚く散る。同じクラスにはならなかった。当然だ、私は文系で彼は理系なのだ。
 クラスも変わってしまい、彼を目にできるチャンスは部活の時だけ。しかし、部活の時の彼はとても真剣に練習しているので、なかなか話しかけづらい。こんな風にうじうじしているうちに彼が誰かと付き合ってしまったら――そう思うと気が気でなかった。
 ――しかし、そんなやきもきする生活も今日までだ。私は一大決心をした。この夏、彼に一歩でも近づいてみせると。今の私には、智佳という口実がある。
 男の子にいきなり恋の話を振るのは、とてもハードルが高い。でも、智佳がそのきっかけを運んできてくれた。智佳はなにしろ恋愛に関するアンケートをとっているのだ。そのときそばにいれば、智佳を通して彼の恋愛観を聞き出せるかもしれない。上手くいけばそのまま会話を発展させて、こっこっ告白にまで漕ぎ着けるかも……。
 頭の中で妄想を繰り広げながら、朝食を頬張る。正面で智佳がコーヒーカップを片手に、不審そうに見ていた。
「祐実、朝からなにがおかしいのか分からないが、そのにやにや笑いはどうにかならないのか」
「ふふふ、安心して智佳ちゃん。計画は完璧よ」
「そのちゃん付けはやめてくれ。胸がむかむかする」
 智佳の毒舌も気にならない。こちらが全くこたえていないのを見て、智佳も何かをあきらめたみたいだった。その時、ふと思いついた問題を口にしてみる。
「智佳はどうやって校舎に入るの? うちの制服もってないでしょ?」
「そんなことか。それは祐実の体操服を貸してくれればいい。今は夏休みだから運動部の人間だと言い張れば大丈夫だろう」
 背格好も同じだしな、と言葉をつなぐ智佳。なるほどな、とは思った。でも、芸術品じみた容貌の智佳にうちの学校のダサイ体操服を着せるのは、軽い罪悪感を感じる。当人はそういうことにはほとんど関心がないようだけど。


 制服に着替えた私と、体操服をまとった智佳は、学校まで歩いて向かった。私の荷物は軽い。楽器のトロンボーンは重いので、学校に置かせてもらっているのだ。
 通り道にある商店のショーウィンドウはまだ暗いままだった。私はウィンドウに移り込んだ自分達の姿をなんとなしに見る。
 制服姿の私は髪をゴムでくくって頭の後ろ高めににまとめている。スカートは膝より少し上くらいの短さにして、折り目もきちっと揃えておいた。アクティブな私、出来上がりである。自分でも「可愛くなくはない」ぐらいには思える。
 しかし、隣を歩いている智佳の存在感には敵わない。相手はただの体操服を着ているだけなのに、なぜかきまっている。姿勢がいいのもあるのだろうが、やはり素材が違うのが大きい。従姉妹なんだから、遺伝子の一部は確かに共有しているはずなのに、と少し恨めしくなる。
 智佳は小さなメモノートの端っこにパンチで穴を開け、ひもを通して首からぶら下げていた。彼女曰く「探偵スタイル」なんだそうだ。いつでもアイデアをメモできるように、とのことらしい。が、行き詰まったクリエイターにしか見えない。似合っちゃいるけど。


 学校に着いて、早速音楽室に向かう。時間はまだ午前八時。昼間ならグラウンドで声を張り上げている運動部も、黙々とトラックを走っているだけだ。
 夏休みなので、吹奏楽部の部活は昼からだ。この時間にはほとんどの部員はいない。練習熱心な一部の有志が朝練をしているだけだ。恵太郎君はその一人のはず。
 音楽室への廊下にさしかかったところで、私ははたと思考を止めた。まてよ、隣にいるのはあの智佳なのだ。こちらの予想通りに動いてくれるとは限らない。先に予行演習しておいたほうがいいのではないだろうか。
「ねえ、智佳。これからアンケートにこたえてくれる男の子のこと、昨日話したでしょ。ほら、写真も見せた――」
「小日向 恵太郎。いけすかない優男」
「うふふ、お姉さん今機嫌いいから許してあげるねー。もう一回言ったら殴るけど。ともかくね、その人に失礼がないようにしてほしいの。これ、絶対だからね」
 智佳の肩をぐっと掴んだ。智佳が自信ありげに任せろと応える。お前だから心配なんだよ。
「よし。念を入れて質問の練習しよう。私を恵太郎君だと思って。はい、スタート!」
 智佳は面倒くさそうな顔をしていたが、私が折れそうにないことを察すると、素直にいずまいを正した。
「こんにちは、私は祐実の友人の智佳です。今、調べ物をしているので、少しアンケートにご協力いただけますか。お時間はとらせないと思います」
 私は思ったよりまともな智佳の口上に、ほっと胸をなで下ろす。ちゃんと敬語使えるじゃん。
「うん、少しなら大丈夫だよ」
「ありがとうございます。それでは、最初の質問ですが――」
 智佳はメモノートをめくりながら、にこりと微笑んだ。
「性欲に基づく主我的肉体関係についてどう考えますか」
「アウトぉぉッッ!!」
 私は反射的に叫ぶとともに、智佳の頭をはたいた。智佳が猛然と顔をあげる。
「なんだ、祐実。君が真面目に練習したいと言うから協力したんだぞ。私がこれだけ真面目にやっているのに、どういうことだ」
「どういうことだは、あんたの頭だよ! なんで初対面の相手に性欲の話をぶつけちゃうわけ!? あんたが知りたいのは『ぷりちー』になるための方法じゃなかったの」
「必要な質問だ。『ぷりちー』という概念が恋愛感情を元に存在している以上、恋愛というものの本質について考察する道は外せない。恋愛とは本来、性交渉への期待からもたらされるものだ」
 智佳はぴっと右人差し指をあげる。うわ、語りモード入りやがった。
「愛という概念が西洋から輸入され、自由恋愛が認知され始めたのが明治のことだ。しかし、元来東洋にはキリスト教的宗教基盤がないため、平等という概念が存在しなかった。そこには西洋の愛とは違う、恋という東洋由来の性的肉体関係を元にした文化が根付いていたのだ」
 智佳は畳みかけるように続ける。
「その結果、当然近代日本には愛の虚偽が発生する。現代の女性は西洋式の結婚式を挙げ、永遠の愛を誓おうとするが、そこに宗教という概念が存在しない以上、それは本質的には空虚な幻影なのだ。人々は愛し合っているのではない。恋し、慕い、執着し、強制し、束縛しあっているのだ」
「知るかぁぁっ!」
 我慢できなかった。私は智佳の発言を無理矢理遮って叫ぶ。
「そんな殺伐した話をいきなり振って応えられる高校生なんていない! いい? 恵太郎君にだけはそういうのだめだからね。恵太郎君の前では絶対――」
「おい、祐実」
「何!?」
「その恵太郎君が後ろに」
 私は後ろを振り返る。音楽室のドアから身を乗り出した恵太郎君がにこやかに手を振っていた。
 みーんみーん、というセミの声が場を支配する。朝の穏やかな太陽の日差しにキラキラと反射する埃さえ、はっきり見えた。私の時間は完全に停止していた。正直、もう動かないでほしかった。永遠とも思える一瞬。
 気が遠くなったが、なけなしの根性で智佳に怒りをぶつけることにする。
「ちょ、なななななんで恵太郎君が見てるのよ!」
「いや、それは君が廊下で騒ぐからだろう。恵太郎、恵太郎、って連呼してたし」
「――おはよう、早坂さん。僕が何か?」
「ふぎぃ!」
 私はすぐそばまで歩いてきていた恵太郎君に向き直り、必死に弁明する。
「あ、恵太郎君、実はこれ、私の従姉妹で、えっと、この子は智佳で、私の従姉妹で、夏休みだから遊びに、違う、自由研究の調査に、えっと、元気っ!?」
 もうボロボロだった。いきなりの展開の加速にキャパシティは完全オーバー。脳内には赤いランプがクルクルと回転していた。わーにんぐ、わーにんぐ。あぁ、穴があったら入りたい……。そのまま埋葬して欲しい……。
 恵太郎君は面白そうに私達二人を見比べたあと、「とりあえず中に入りなよ」と、音楽室を指さした。
 あぁ、もうどうにでもなれ。


 ガラリと音楽室の扉が開かれた。見慣れた音楽室に踏みいる。いつものように整然と、合奏ができるスタイルにパイプ椅子が並んでいた。
 恵太郎君はそこから三つひきぬいて、どうぞ、と差し出した。音楽室には私達しかいなかった。他の部活メンバーは、校舎に散って練習しているのかもしれない。
「あ、その、邪魔じゃなかった? 恵太郎君」
「僕は大丈夫。来たばかりだよ。すぐには練習を始めるつもりもなかったんだ。スコアを確認しておきたかったし」
 恵太郎君が座ったので、私達も座った。恵太郎君は座る動作もどこか上品だった。つい注視してしまう。平凡な学生服も、恵太郎君のようなスタイルのよい人が着ると、コントラストがメリハリを作って格好良かった。ワイシャツにもきちんとアイロンがかかって清潔だ。あぁ、いかん、ドキドキしてきた。あんまりじろじろみると気づかれちゃう――。と、つま先を横から蹴られた。智佳だ。
「おい、さっきから挙動不審にもほどがあるぞ、祐実。私の紹介はまだか」
「あ、いけない」
 私は気持ちをしゃきっとさせるために、頬を軽く叩いた。恵太郎君がゆっくりでいいよ、とフォローしてくれる。
 私は智佳とは従姉妹の関係であること、今丁度市外から遊びに来ていること、恋愛に関するアンケートをとろうと思っていることを伝えた。恵太郎君は調査の協力を、快諾してくれた。柔軟だなぁ。
 さあ、ここは正念場だ。智佳を暴走させないように気をつけつつ、恵太郎君の恋愛観を引き出さなければならない。
「じゃぁ、私から質問してもいいかな」
「うん、かまわないよ」
 智佳が横目で睨んだ。なんでお前が質問するんだ、という顔だ。まったくもってその通りだけど、これはあんただけの問題じゃないんだよ。智佳の暴挙を牽制する意味でもある。
 頭の中でとっさに質問を作る。一番訊きたいのは、恵太郎君はどんな子が好きなのかだ。でも、それでは直球過ぎる。よし、可愛い子とは一般的にどんな子なのか、あたりでいこう。上手くいけば、発展するかもしれない。
「それじゃ、聞くけど」
「うん」
「恵太郎君はどんな子が好きなの?」
「え?」
「……あれ?」
 しまった、本音と建前がエクスチェンジ――!! 全然落ち着いてないじゃん自分!
「え、えっと、これは一般的な答えでもいいんだけど。ほら、どんな感じの女の子に魅力を感じるか、色んな人から聞けば、参考になるじゃない?」
「ああ、なるほど。うん、そうだね」
 セぇーフっ。いや、むしろ起死回生じゃないか。自然な形で核心に近づけたような気がする。すごいぞ、私。
 智佳の剣呑な眼差しが横っ面にビシビシ当たって痛いけど、なんとか耐える。恵太郎君の答えに、耳をそばだてて集中する。
「そうだね、僕の場合一番注目するのは」
「注目するのは?」
「――顔かな」
「ゑ?」
「ほう」
 智佳でさえも驚いていた。ノートに初めてペンを走らせる姿が見えた。
 私の中の時間がまたしても停止する。こちらは絶好の内角高めの球を投げ込んだと思ったのに、凄まじいピッチャー返しを食らったような気分だった。
 だって、顔ですよ。そりゃ、基本と言えばそうだけど。当たり前と言えばそうだけど。まさか恵太郎君の口からそんな俗っぽい回答をされるとは。っていうか、それ言われちゃうと、私の希望がかなり薄くなるんじゃ――。
 混乱を極める私のほうを悪戯っぽく眺めた後、恵太郎君は続けた。
「顔、といっても容姿のことじゃないんだ。勿論、それもなくはないんだけど、もっと重要なのは表情かな」
「え、どういうこと?」
「例えば、自分と会うたびに笑顔を向けてくれる女性がいたとしたら、その女性のことはきっと脳裏に残ると思う。その女性からは『あなたのことを気にかけています』という意志が感じられるからね」
 智佳が軽く頷いた。納得のいく意見だったのだろう。
「それは、メラビアンの法則のことだろうか。人間のコミュニケーションにおいて重要なのは言葉の内容以上に視覚や聴覚の情報だという」
 智佳の相づちに、恵太郎君も笑顔で頷く。
「うん、そうだね。もう少し言えば、笑顔などのポジティブな表情だけが、良い印象をはぐくむ訳じゃない。物憂げな表情や怒った表情などを見せられることで、その人の深いところを見たような気持ちになれることもある。結論としては、いろんな表情や自分自身を、惜しげもなく見せてくれる人には、惹かれると思うよ」
 恵太郎君は流暢に語ってくれた。智佳は素早くメモをとっている。
 私はというと感心していた。なるほど、流石は恵太郎君である。目の付け所がいい。それなら私にもチャンスがあるかもしれない。胸をなで下ろした。
「今度は私が聞いても良いだろうか」
 気を抜くまもなく、智佳が割り込んできた。さっきのこともあるのでドキリとする。しかし、この流れだと遮れない。
 智佳はペンの尻でこめかみのあたりをトントンと叩いた。質問を考えているのだろうか。いや、智佳のことだから質問自体はとっくに考えついていて、それが相手に通じるかを計っているのかもしれない。
「性欲に基づく主我的肉体関係についてどう思う?」
「――っ」
 やっぱりやりやがったこいつ! それはさっきあれほど駄目出ししたでしょうが!
 私は恐る恐る、恵太郎君を伺った。恵太郎君は少し思案げな顔で、一拍黙った。 
「近代においても、恋というものにはそういう肉体的要素が支配的だと思う。まだ観念的な要素が入る前の日本では、恋とはすなわちエゴだったから」
 答えてる! 私は畏怖すら感じた。私が思っていた以上に、恵太郎君は大物だった。
 対する横では、珍しいものが見えた。智佳が笑っていたのだ。いつもの計算じみた笑いではなく、自分の意図したことが伝わったことを素直に喜ぶ子供のような笑い。「氷室 智佳記念館」を創立したら、永久保存しなければならないくらいレアな表情だった。
「昔の恋愛というのは、やはり所有欲の延長にあったと思う。現代よりももっとエゴがむき出しになった時代だったからね。愛というものが永遠でないことを皆理解していた。だから結婚という制度でお互いを自分のものにして、安心したんだ。でも、明治になって島崎藤村を初めとする浪漫主義が愛という概念を西洋から持ち込んだ」
「自分の教え子との恋を描いた『若菜集』などのことだな。うん、彼が姪と肉体関係をもってしまった事実を告白した『新生』などは、まさに西洋キリスト教の懺悔の精神で書かれたものだった」
「藤村は愛というものが手に入らないことを知っていた。その本質がエゴだと分かっていたからね。だからこそ相手の女性を犠牲にしてまで、その事実を小説にしたんだろう。残酷ではあるけれど、現代の恋愛観を考える上で、とてもおもしろい作家だと思う」
 理系同士の会話とは思えなかった。感動すら覚えた。なにしろ、智佳の蘊蓄連打と会話が成立する人なんて、初めて見たからだ。内容のほうはさっぱり分からなかったけど。
 智佳もノッてきたのか、頬を軽く上気させながら言葉をマシンガンよろしく打ち出している。メモをとることさえ忘れているようだった。そんな智佳に恵太郎君は、丁寧に、しかし楽しそうに言葉を返していく。
 急に疎外感を感じはじめた。
 三人で輪になっているのに、自分だけ遠くからこの音楽室を俯瞰しているような気分になった。私は意図せず、智佳の言葉を遮っていた。
「智佳、そろそろおいとましないと。練習の邪魔になっちゃまずいでしょ。明日また来よ」
「ん、そうか。それじゃ、もう一つ簡単な質問をして打ち止めとしよう」
 智佳は思いの外素直に引き下がる。私はそのとき智佳の瞳に真剣な光が宿るのを感じた。これこそが一番訊きたかったのだ、とでも言わんばかりの。
「恵太郎、やはり男性が求めているのは可愛い女性なのだろうか。庇護欲をそそる、『ぷりちー』な女の子なのだろうか」
 いつの間に呼び捨ての仲になったんだ、という言葉を飲み込む。大事な質問だった。智佳にとっても、私にとっても。
 恵太郎君もその真剣な空気を察したのか、今までのような明快な即答を避け、少し考えたようだった。
「僕は必ずしもそうは思わない。いくらだって例外はあるよね。ただ、一般的な男性にとって、弱々しい女の子というものは魅力的に写る傾向は否定できないと思う。さっきのエゴの話も絡むけど、男性は自分よりもか弱いものを所有することに安心を覚えがちだから。自分を叱咤激励してくれる女性よりも、自分を無条件に尊敬してくれる女性に惹かれてしまうかもしれない」
 智佳は少しその言葉を脳内で反芻していたようだ。そして、ぽつりと呟いた。
「自分の存在を脅かさない、都合の良い存在のほうが好まれるのか」
 恵太郎君は少しだけもの言いたげに目を細めた。でも、何も言わなかった。智佳の表現はいちいちきついけど、彼も大筋で同意していたということだろう。
 恵太郎君と別れ、智佳と一緒に音楽室を出る。私は「恋愛ってこんな殺伐としたものだったっけ?」と悩んでしまった。エゴ、所有欲、計算、優越感。そんな言葉を頭の中でかき回しながら、帰るという智佳の声に生返事をして見送った。
 頭の中には、恵太郎君の好みを聞き出せたという、満足感だけが残っていた。
 そう、だから気づけなかった。智佳がその時どんな思いでいたのか。何を考え、決意したのか、全く知ることができなかった。


 智佳が私の家に来てから、四日目だった。
 恵太郎君と話をしてから、智佳は他の男子部員にも聞き込みをしていた。お陰様で部活内に凄い衝撃が走っていた。なにしろ、体操服に身を包んだ見ず知らずの美少女が、クールな口調で恋の話を振ってくるのだ。動揺するのも無理はない。
 時々、恵太郎君が智佳に調子を尋ね、智佳が蘊蓄をぶちまける、という光景も見られた。
 人の部活を好き放題にかき回しておきながら、智佳の表情は冴えなかった。物憂げにメモノートとにらめっこしたりしているのだ。
 対する私の調子はすこぶる良かった。今日も部活が終わってから恵太郎君と雑談できたからだ。話題はもっぱら智佳のことだった。
「智佳さんは本当に熱心に聞き込みをしてるんだね」
「あいつ自分がやると決めたことはとことんやっちゃうから。周りは振り回されっぱなしだけど、本人は真面目なんだよね、あれで」
「それはよく分かるよ。恋愛の相談だって言われたのに、歴史や哲学の話にとんだときは僕も驚いた。でも真剣だからこそみたいだ。普通、恋愛なんてもっと感覚的にとらえるものだけど、智佳さんは理屈でつかもうとしてるからね」
 恵太郎君は智佳との会話を思い出していたのか、少しおかしそうに笑った。
「智佳さんのことだから、恋の相手にも真剣に向き合っているんだろうな」
「そ、そうだね」
 言えなかった。合コンで仲間を出し抜き、効果的に相手を落とす手段を調査しているだなんて。
 六時が過ぎ、みんなが解散し始める頃になって、智佳が音楽室にガラッと入ってきた。皆の注目が集まる。もう有名人だ。智佳はそこで部屋中の人間に聞こえるように声を張り上げた。
「この三日、調査に協力して頂き、ありがとうございました。練習のご迷惑をおかけてしまったかもしれませが、お陰でとても参考になりました。今日で私の調査は打ち切ります。コンクール頑張ってください」
 ぴしっと礼をする智佳。えぇー、と男子から別れを惜しむ声が上がった。が、女子に睨まれてすぐに静かになる。
 私は少なからず驚いた。そんな話は今朝もまったく聞いていなかった。
 智佳は何事もなかったかのようにくるりときびすを返して、音楽室から出ようとした。それを恵太郎君が呼び止めた。
「待って。どんな結論がでたの?」
 その問いに智佳は振り返る。セミロングの髪がふわりと舞った。その姿は、智佳にしては妙に大人しく、儚げだった。
「結論はこうだ。――私は『ぷりちー』になれない」
 その回答に私は納得した。さもありなん、智佳はそういうキャラではないのだ。智佳が「できない」と口に出す姿は珍しかったけど、騒ぐようなことでもないと思った。
 でも恵太郎君は、納得のいかない顔をしていた。智佳の表情に何を見たんだろう。
 智佳は今度こそ音楽室を出て行った。その後ろ姿の名残を、恵太郎君はじっとみつめていた。
 彼は突然駆け出し、音楽室をでた。誰が見ても明らかだ。智佳を追ったのだ。
 私は一瞬逡巡した。でも、恵太郎君が智佳に何を言うのか、気になった。
 気がついたときには、私もまた音楽室を踏み出していた。


 二人の姿はすぐに見つかった。校舎の中からでもよく見える、玄関口にいたからだ。智佳はすぐに帰ろうとしたのだろう。私は少し焦りながら、玄関口へと階段を駆け下りていった。
 下駄箱のあたりで、二人の声が聞こえた。反射的に隠れてしまった。別に会話に加われば良かったのに。これじゃストーカーみたいだ。智佳を利用して恵太郎君に近づこうとした後ろめたさからだろうか。いや、本当は――二人に遠慮していたのだ。あの二人には何か通ずるものがあるから。
 出て行く機会を逸してしまったので、腹をくくって盗み聞きに徹する。二人は言い争っていると言うほどでもないが、少し厳しい調子で会話していた。
「なぜ、そんなに簡単に諦められるのかな。あんなに熱心に調べていたんじゃないか」
「調査にどれだけ力をかけるかと、決断にどれだけ時間をかけるかは無関係だ。私には根本から無理だと把握しただけのことだ」
 下駄箱の裏からでは、恵太郎君の影しか見えない。智佳はもう帰る気なのか。そして――もうこの場へ帰ってこないつもりなのか。
「『ぷりちー』という概念の本質はな、『弱い』ということなんだ。男性にとって、自分の期待を裏切らない、自分を非難しない、自分の助けを必要とする思い通りの存在であることが絶対条件なんだ。ツンデレという言葉があるだろう、あれは典型だ。か弱い存在が愛される風潮からの反動で生まれた、主人公にツンケンした態度をとるキャラクターのことだが、それも『最終的には』必ず主人公になびくようになっているのだ」
 智佳はため息とともに、はき出すように言葉を続ける。
「調査でもそれが裏付けられた。私が初め下手に出ながら恋愛相談をすれば、どんな男子でも舞い上がって持論を語ったものだった。しかし、私が圧倒的な蘊蓄を披露したらすぐに態度が萎縮した。こちらが少しでも『相手よりも強い』という態度を示そうとすれば、誰もが距離を置こうとしたよ。当然のことだな」
 智佳の語りに、恵太郎君は反論を差し挟まない。智佳が語り終えるのを待っているのだろう。私の額に、汗が流れた。
「『ぷりちー』は無論悪いことではない。それは相手を立てることであり、古い意味で男性にとっては理想像なのだ。ただ、そのような生き方は私には不可能だと分かった」
「――僕が聞きたいのはそれだ。なぜ、君は無理と決めつけるんだ。やってみなければわからないじゃないか」
 視界に新しい影が加わった。智佳が恵太郎君に近づいてきたのだ。智佳の影が指を伸ばす。右人差し指を立てているのだろう。私は智佳の真剣な表情をイメージした。
 智佳が語りモードに入った。
「私が通っているのは女子校でね、あそこは共学の学生達が思っているような華やかな場所ではない。動物園と同じだ。ボス猿がいて、派閥があって、同じクラスなのに上下関係がある」
 智佳が自分のことを他人に語るのはあまりないことだったので、少し驚いた。恵太郎君には心を開きかけているのかもしれない。
「下手な行動をとれば村八分にされる、そんなことは日常茶飯事なんだ。かくいう私もその標的になった。中学時代だったな、遊びの誘いを断り続けたら『協調性がない』とか言われて隔離された。クラス全員による無視が、半年の間徹底されたんだ」
 私は息をのんだ。知らなかったのだ。私は智佳の中学時代も知っている。彼女とは普通に冗談を言い、笑いあったものだった。その裏で、彼女がそんな戦いをしていたと全く気づけなかった。自分に、嫌悪を感じた。
「はじめは、溶け込もうと思った。だが、無理だった。相手は一度優位に立ったら、もうそれを崩したくない。徹底的にいじめ抜いて、自分の虚栄心を見たそうとするんだ。私は、状況を打開するには、自分が強くなるしかないと悟った。だから、誰も敵わないほど勉強したし、言葉遣いを変えた。相手を打ち負かすような策略を練り、先輩を味方につけ、報復することにも成功した。誰よりも強くなろうとしたんだ。そうしなければ――」
 智佳はぽそりと、呟く。
「生きてこれなかった」
 それは囁くような叫びだった。私はここにきて初めて、智佳があそこまでして『ぷりちー』になろうとした理由を悟った。
 彼女は強くしかあれない自分を憎んでいたのだ。本当は、もっと素直な人間になりたかった。でも、孤立する恐怖心とともにあまりに強く根付いてしまった強さへの渇望が、彼女に『弱みを見せる強さ』を奪ってしまったのだ。
 その強がり故に、自分よりもすてきな人を好きになる、その感覚が理解できなくなってしまった。
 智佳はそれでもそれを理解しようとして、理論に頼った。言葉で恋を分解し、習得しようとした。
 それも、行き詰まった。実際に男性と会話をして、智佳は知ってしまったのかもしれない。自分には恋なんてできないと。
 それに気づいたときの智佳の絶望はどれほどだったろう。
「そういうわけでな、私は可愛くなどなれない。相手を征服しなければ安心できないのだから。なぁ、恵太郎もそう思――」
 その時だった。智佳の言葉がぷつりと途切れた。私は思わず声を上げそうになった。今、二人の影が一つに重なっている。恵太郎君が智佳を抱きしめていたのだ。
 恵太郎君がゆっくりと言葉を紡ぐ。お父さんのような優しい声だった。
「智佳さん、僕は言ったよね。例外なんていくらでもあると。都合のいい相手を好きになる人間は、あくまで多数派に過ぎないって」
 日が傾きはじめ、視界が茜色に染まってきた。今、智佳はどんな顔をしているのだろう。
「僕はね、初めて会ったときからずっとドキドキしていた。君が僕の予想を飛び越えるようなことばかり言うからだ。楽しかったんだ、本当に。僕も、それがはじめ恋だって気づかなかった。それくらい夢中だった」
 智佳は恵太郎君の告白を微動だにせず聞いている。時が魔法のようにゆっくりと流れる。
「いいんだよ、君は強くて。僕だけは、君の弱さを忘れないから。もっと僕を驚かせてほしい。もっと僕を楽しませてほしい。僕は――君が好きだ。僕を夢中にさせる君が、恋を諦める必要なんか全くない」
 情熱的な告白だった。私は、自分が恵太郎君に恋していたことも忘れ、その思いが智佳に届けばよいと祈ってしまった。だって、彼は本気なのだ。あの冷静な恵太郎君が、人目もはばからず智佳を抱きしめているのだ。
 智佳はその恵太郎君の言葉をじっと聞いた後、私には聞こえないような小さな声でなにか囁いた。
 影が身じろぎした。智佳が背伸びをしたんだと思う。二人の影が今度こそ本当に重なろうとするそのとき、私はその場を静かに去った。
 あっけない失恋だった。でも、不思議と心は澄んでいた。
 智佳の相手が恵太郎君で良かった。恵太郎君の相手が智佳で良かった。心からそう思えたから。
 夏の夕焼けがぼんやりと霞んだ。悲しいわけじゃないのに、自然と涙が出た。


 智佳が実家へ帰る日になった。私達二人は、一週間前にネコミミ智佳が立っていた、あの駅にいた。智佳が「そうだ、アイスを買ってくれ、この前の遅刻の分」と無駄に優れた記憶力を発揮したので、おごる羽目になった。別れ際までにくにくしいやつである。
 電車が到着するまで時間があったので、言いそびれていたことを、この際言ってしまおうと思った。
「良かったね。恵太郎君とつきあうことになって。」
「そうだな」
 智佳は淡泊だった。恵太郎君の前で弱音を吐いて楽になったのか、唯我独尊メーターのレベルが一段とアップしているような気がした。
 それでも、きっと智佳には良い変化だったんだと信じたいと思う。
 この前智佳にパソコンを貸したら、ものすごいスピードでタイプしていたので、何事かと思ってみてみると、恵太郎君へのメールらしかった。サブジェクト:脳の汎化作用に基づく記憶。お前ら恋しろよ、って思ったものだ。
「それにしても、恵太郎君があんな情熱の人だとは思わなかったなぁ。あんな告白私が直接聞かされたら一発でのぼせちゃうよ」
 盗み聞きしたことはすぐばれて、当日の夜お説教されました。
 智佳は買ってあげたアイスクリームを頬張りながら、くすりと笑う。
「まぁ、私も恵太郎のあのいきなりすぎる告白には面食らったがな。おかげで、想定していたよりも計画がずいぶんと前倒しになってしまった」
「ふーん。え?」
 聞き流しそうになった。しかし、強烈な引っかかりを覚えた。妙なワードが確かに存在した。計画? 前倒し?
「あの日は伏線を張るだけで、もう少しじらす予定だったのだが。私の打った芝居が思いの外、功を奏してしまったのが原因だろうな」
「ちょ、ちょっと待とうね。なにがお芝居だったのかな」
 私は全身ができそこないのロボットのように強ばるのを感じた。嫌な予感が胸の内を駆け巡り、鼓動が乱れる。
 智佳はにっこりとこちらをむいて、右人差し指を立てる。天使と見まがうような悪魔のほほえみだった。
「いや、だから、恵太郎自身が言っていただろう。いろいろな表情を見せてくれる人には惹かれるかもしれない、と。だからその通りにした。ちょっぴりか弱い智佳ちゃんを演出してみたんだ」
「あれ全部嘘だったのか――!?」
 驚愕のあまり、夏にも関わらず鳥肌がたった。智佳はやれやれ、と肩をすくめる。
「馬鹿だなぁ、祐実。全部嘘だったらすぐに露見してしまうだろう。適度に真実を混ぜたに決まっている」
「そういう問題じゃない! え、じゃあ、なに? あのいじめられてたとかいうのは」
「私に果敢に挑んでくるドンキホーテがいたのは事実だよ。だが、大したことはなかった。『話せば分かってくれた』からね。今では彼女もすっかり『親友』になって、『親切心からよくアイスをおごってくれる』よ。他にも『親友』を何人か『作った』ので、学校生活はとても快適だ。はっはっは」
「私の感動返せよ!?」
 ここにいたって、私は大事なことを失念していたと知った。いじめられた経験をバネにして、頑張る。そんなありがちなストーリーを信じる前に、確認すべき前提があった。
 ――この女は氷室 智佳だった!!
「いやぁ、写真のときはどうかとも思ったが、初めて見たときから、「あぁ、こいつはいいな」と思っていたんだ。誰が何と言おうと運命だな」
「どこかで聞いたフレーズ!?」
「そうそう、恵太郎を落とすのには、祐実も本当に役立ってくれたんだ。感謝しなければ。祐実が中学時代の私を奔放で自由な明るい人間だと紹介してくれたからこそ、ラストの打ち明け話によるパラダイムシフトが劇的な効果をみせたのだよ。ありがとう」
 立ちくらみがした。私が智佳をだしにして恵太郎君を射止めようとしたのと同様に、智佳も私をだしにして恵太郎君を狙っていたのだ。智佳が相手では勝てるわけがない。
「おや、そろそろ時間だ。行かなくては。そうそう祐実、私はもう合コンに行く必要がなくなったから、どうだ。来ないか、私の後釜」
「ふざけんなぁーっ!!」
「いや、君は恵太郎を逃してしまったわけだろう。せめてもの情けにと」
「やっぱり気づいていながら横取りしたのかよ!?」
「横取りとは人聞きの悪い。私がいなければ会話のきっかけすら掴めなかったのだろう?これからは私の話題を出せばいつでも『友達』としてお話しできるぞ」
 許せなかった。「あ、それちょっといいかも」と喜びそうになった自分が、一番許せなかった。
「っく、うぅ、うがぁー!」
 私は叫んだ。だって、言葉が出てこなかった。それほどまでにパーフェクトな敗北だった。
 はっはっは、それでは息災で、と智佳は高笑いを残して、改札へ吸い込まれていく。あとには脱力し、抜け殻と化した私だけが残された。冷房がきいた涼しい駅の中にいながら、疲れのあまり溶けてしまいそうだった。


 一週間前、嵐のように現れた智佳は、私の心の平穏を根こそぎ吹き飛ばして去っていった。お陰様でこの一週間はさんざんだったが、終わってみればどこかすっきりとした余韻が残った。台風一過というやつかもしれない。
 ――本当のところ。
 あのときの智佳の告白が真実だったのか、嘘っぱちだったのかは、本人にしか分からない。智佳の最後の暴露こそが創作で、ただの照れ隠しだった、という線もある。証拠なんてどこにもないのだ。
 そんな希望的観測を抱かずにはいられないほど、彼女の別れ際の笑顔は『ぷりちー』だったと思う。こうして彼女は、今日も世界中の人間を騙し続けている。


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