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序 曇った窓のように白く濁っていた視界が、ゆっくりとクリアになる。 ひどくまぶしい。 トタン屋根らしき天井の真ん中が、大きく破れていた。 そこから見える空は透明な青で、雲ひとつない。差し込む光は痛いほどに強く、灰色にくすんだ壁を明るく照らしていた。壁際にふたつ並んだタンクの塗装はほとんど剥げていて、その上部から伸びるパイプは壁に向かう途中で折れている。 視界の真ん中にあるのは、長い間仕事をしていないだろう錆びたクレーンだ。 どうやら仰向けに倒れているらしい。 地面に接している背中から、かすかな振動が伝わってくる。 車や工事現場の振動とは違う、不快で不気味な震えだった。 ぅ。 頭の中に呻き声が漏れると同時に、視界が陰る。 知らない顔が見えた。 細い目以外はさして特徴のない、高校生くらいの青年だ。白い半袖シャツは学校指定の夏服だろうか。胸ポケットには校章らしき青の刺繍があった。 彼はこちらを見ることなく、どこかに向かって激しく口を動かしていた。 表情はよく見えない。ただ、あらん限りの声で叫んでいるのはわかった。 けれど、声は聞こえなかった。 何も聞こえなかった。 音が、ない。 いや、胸の鼓動だけが頭の奥に響いていた。とくんとくんと、規則正しく響いていた。 生きている――呼吸も問題ない。体も動く。 右手を支えにして体を起こし、左手を彼に差し伸べた。 彼の振り上がった右手が、そしてその表情が目に入る。 その手には、鈍い光沢を放つナイフが握られていた。 その目には、力がこもっていた。必死の形相とは間違いなくこの顔だろう。彼は瞬きもせずに一方向を睨みつけているのだ。 怒鳴り続ける彼の、震える右手がこちらに向かって伸びてきた。 熱い。 自分の目尻から流れた涙が、頬を伝って落ちていく。 けれど違う。哀しみのそれとはきっと違う。 自分から伸ばした左手を彼の右手に添えた。 招き寄せるようにして彼を抱きとめる。 水平に寝かされたナイフの刃先が、音もなく服を裂いた。 左胸に、ちくりとした痛み。 その瞬間、全身の感覚が麻痺したように思えた。なのに、ぬるりとした液体が体を濡らしていくのがわかる。粘度の高いそれは、涙よりもずっとずっと熱い。 せ…… 何かを言おうとした。声にはならなかった。 力が抜けていく。 表情を失った彼が、ナイフを引き抜いた。 鮮血の滴るナイフが彼の手から、離れる。 熱い血と冷たい凶器は、重力のままに落ちていった。 カラン。 響いたのは乾いた音。世界に音が戻っていた。 「――らっ……な!」 聞こえたのは彼の声。けれど、意味までは届いてこない。 それでも自分は、微笑みながら彼を見つめていた。 遠のく意識と暗くなる視界の中で、彼の表情だけがよく見える。 歯を食いしばって何かに耐えているような、悲痛な表情だった。 目に焼きついたそれは、最後まで消えない。 その最後がわずか数瞬で訪れるとしても、永く残って消えることはなかった。 そして、地面の不快な震えが止まった。 世界は闇に包まれて、鼓動も止まった。 音が再び、消えた。 一、主人公になる勇気 足早な夏休みが半ばを過ぎようとする八月十日。その正午頃。 登校日の義務を果たして帰宅した高校二年の泊祐人は門先で、 「あのっ……妹なんです」 いきなりそんなことを言われた。 まだ幼さが残る感じの声だった。 「へ?」 当然のごとく、祐人の口からは間の抜けた声が漏れた。 聞こえた言葉の意味がすぐには理解できない。 いつもより二ミリほど見開かれた細い目に映っていたのは、頭のてっぺんが見えるほどに小柄な女の子だった。 祐人が困惑を隠せずに、というより惚けた顔をしていると、 「あ。すみません。わたし、水原楓と言います」 彼女はお辞儀をした。長い黒髪がさらさらと、小さな肩を流れて落ちていく。 「えとっ、わ、わたし……小さい頃に生き別れた妹なんです」 プリーツスカートが揺れた。赤のリボンタイが映える白いシャツには、デザイン化された「高」の刺繍がされている。見るからに真新しい制服を着る彼女はなんだか、無理して姉の制服を借りた中学生にしか見えなかった。それも、なりたての中学生だ。 「そのっ……できれば、なんです。えとっ、お……」 彼女はきゅっと握った両拳を胸の前にもってきて、 「お家に入れてくださいっ」 精いっぱいの勇気を振り絞りましたという感じで言ってきた。 おう。 と、即答するのが必然と思えるくらいに可愛らしい。 が、しかし。祐人の頭はそこまでめでたくなかった。 うーむ。高坂の妹とかで、ドッキリか? 油断してにへら顔になった瞬間、携帯のカメラで撮られるのだ。そのあと、どうからかわれるかは考えたくない。 祐人はレンズを探す。視力検査最下段を余裕で突破する目だ。しかし、 カメラはないか。てことは違う……ま、そりゃそうか。 安堵して分析、そして納得。そもそも高坂という悪友は野球部一ゴツイ男であって、普通に考えれば目の前にいる女の子と遺伝子的な繋がりがあるとは思えない。 ついでを言えば、弱いくせに練習熱心な野球部は今日も明日も部活三昧のはずだ。 となると、これは新手の宗教勧誘か。妹教とか。 特殊な属性をもっている男なら即断即座の勢いで入信しそうだが、 んなわけないか。 あくまで冷静に判断して、指で頬をこりこり掻いた。 「あの……やっぱりダメですか?」 震える声。大きな瞳の女の子は上目遣いで見つめてくる。それでも言い終えた後の唇はしっかりと結ばれ、表情は真剣。からかっているような気配はまったくない。 「妹?」 「え……あ、はい。生き別れた妹です。お話したいことがあるんです」 答える寸前に一瞬考えたふうな、女の子の表情は怪しい。 本当に妹である可能性はなくはないが、なんとなく裏がありそうな嘘に思える。 思えるが、結局は二択だ。 単純化すれば、楓と名乗ったこの女の子を家に入れるか、否か。 否を選ぶと、妹でないことをこの場で確かめて追い返すのだが。 それはもう、すごく哀しい顔をしそうだ。 見たくないな……けど、やっぱり怪しいしなあ。 そう思った祐人は考えてみる。 可愛らしい女の子の訪問を断る理由がどこにあるか、と。 ひと呼吸。 で、結論。 ない、な。 身の危険があるとは思えないし、悪い方向に騙されるとも思えないのだ。あると感じた裏は訳ありな気配であって、嫌な感じではない。当然だが、知らない人を入れてはいけないなんて歳は大昔に卒業している。たぶん小学校の高学年くらいには。 考えられる最悪の状況は、さっき考えた高坂のドッキリなのだが、遺伝子が生み出す必然と自身の直感を信じるならそれもないだろう。 妹ではないと、心に留めながら話せばいい。最初に確認するのも手だ。 「そうだな」 祐人は門に手をかけた。妹である可能性もなくはない。 本当に妹だと……ちょっと嬉しいような惜しいような。 「中で話くらいは聞こう。ここは暑いし」 驚いたように瞬きした女の子はすぐに嬉しそうな笑顔になり、 「はい」 弾むように応えた。 「じゃ、ついといで」 そうして祐人は門を開け、女の子を招き入れた。 両親は結婚二十周年とかで旅行中。三日後まで帰ってこない。 兄弟はいない。 そんなわけで、家に入れば完全に二人きりだ。 なんか、俺の方が騙してるっぽいな。 玄関のドアが開く。女の子――楓は小さくお辞儀をしてから中に入った。 エアコンをつけたリビングのソファに楓を座らせた祐人は、二階にある自分の部屋で汗ばんだ制服を着替えた。乾いた着心地のよい服は脱いだと同じ、制服だ。私服のどれもが微妙なのは知っているから、一番無難で格好よく見えるつもりの選択である。 祐人自身はほとんど無意識の行動なのだが、妹と偽られた可能性が高い程度では男の性は動じないらしい。 鏡で最後の確認すると、朝に直した寝癖が再び跳ねていた。 いつもしつこいそいつを、ムースでぺたり。 こんなもんかと頷いた祐人は、本棚の前に立ち止まってから部屋を出る。 「おわっ」 ドアを開けたすぐのところで楓は待っていた。 「悪いな。髪に手間取った。下にいこうか」 しかし楓はこちらを見上げて、ふるふる。首を横に振って素早く横をすり抜け、部屋に入ってしまった。 祐人が「あ」と振り返った時には、もう遅い。 「えと。この部屋……あなたの部屋ではダメですか?」 小ぶりのちゃぶ台を前に、ちょこん。正座した楓は、借りてきた猫のような感じの不安そうな目で見てくる。 見せるのは恥ずかしい散らかった部屋だが、入ってしまっては関係ない。 「まあいいか。ちょっと待ってな」 こくりと頷く笑顔を確認して、祐人は階段を下りた。 玄関、廊下と抜けて、涼しくなりつつあるリビング。 つけたばかりのエアコンを切って、キッチンだ。 冷蔵庫から麦茶のボトルを、食器棚からガラスのコップをふたつ手にする。お菓子でもあればと思うが、ちょうどよさそうなものがないのであきらめた。少し速足になった祐人は逆順で戻り、開いたままだったドアを閉じながら部屋に入る。 楓はちゃぶ台の前に大人しく座っていて――小さな手に何かを持っていた。 硬直。 祐人はそれを凝視した。 表紙の六割が肌の色をしている、ツヤのある薄い雑誌だ。 一般的に言って、女の子に中身を見られるとまずい本だ。 「ぅのわった!」 麦茶のボトルを床に落とし、コップはほとんど宙に放り投げるようにして、祐人は今までの人生でも最高に近い速さで動いた。 わずか一歩で楓の背後に立ち、右手で本を奪い取る。 左足だけで高くジャンプ。 楓とちゃぶ台を飛び越えてベッドにダイブした。 肩から着地して回転し、勢いよく右手を伸ばす。 投げられた本はベッドと壁の隙間、部屋の暗部に吸い込まれて見えなくなった。 ま、まだ表紙だけだった……はず、だ。 ほとんど肌色だったが、ビキニの水着姿だ。写真集に見えなくもない。 「ははは、はは」 祐人はベッドに突っ伏したまま、ぎりぎり首だけ回して楓を見た。 「男の人の部屋には必ずあるって、本当なんですね」 からかいでもなく、哀れみでもなく、まして軽蔑でもなく――ただひたすらに無垢な瞳の楓は、にこりと微笑んだ。 起きてしまったことはしかたがない。 この経験があれば、この先の人生で待ち受ける多くの困難を乗り越えていけるような気がする。ポジティブに考えればきっとそうだ。 大切なのは過去ではなく、未来。考えるべきはこれから。 とにかく今は落ち着いて、まずは話を元に戻していこう。 「ほい」 何ごともなかったかのように、祐人はコップに麦茶を注いで楓に渡す。あんな不幸が起きたのだから、コップが割れないくらいの幸運がなくては釣り合いがとれない。 「ありがとうございます」 両手でコップを受け取った楓はぺこり。頭を下げた。ひと口だけ飲んでちゃぶ台の上に置くと、大きな瞳を祐人に向けてくる。 微笑んだ表情がまぶしくて、祐人は思わず目を逸らした。 慌てたように自分の麦茶を注ぎ、即座に全部を飲み干す。 いつの間にか渇いていた喉が、しとりと潤っていった。 「ふう。なんか狭い部屋で悪いな。話すならやっぱり下の方が――」 「あのっ。ここがいいんです」 強い意志を込めて言葉を遮ってきた楓は、背筋をしゃんと伸ばして正座している。ベッドを背にした祐人の左側、ちゃぶ台を中心にしてちょうど九十度の位置だ。 六畳の広さがある部屋の半分は、本が積まれた机とダイブで乱れたベッドに占められている。残されたくつろぐエリアの真ん中にちゃぶ台。その周りにCDや本、ブタ型の貯金箱といったさまざまな物体が秩序なく床に散らばっていた。 向かい合わせに座っていないのは、そんなスペースがないからだ。 さて、と祐人は切り出し方を思案した。 楓はきょろきょろと興味深げに部屋を見回している。 妹と嘘をついた女の子の目的がまったくわからない。 いや、ホントに妹か? そんなわけないよな。 黙ったままの祐人が正体の見えない訪問者を眺めていると、 「わ、わたしの顔に何かついてますか?」 その不審げな視線に気づいた楓は、恥ずかしそうに頬を薄赤くした。両手でぺたぺたと自分の顔を触りだす。 どき。 弾んだ鼓動を隠すように、祐人は大きく息を吸った。 強い声で不意打ち気味に、 「で、妹ってのは嘘だろ?」 「あ、はい」 時間が凍って沈黙が落ちる。妄想も許可する妹教があれば、確実に敵に回した。さすがに嘘を暴くタイミングが早すぎる。 楓の表情はゆるゆると変化していった。 眉尻が下がって、口元が弱々しく歪む。 潤んだ瞳の中で光が揺れた。 「あう……ずるい、です。ぅ。今のは……なしで、す。なし……し」 「いや待て。ずるいって言われても」 「せっかく、中に……入れて、もらえ……これ、から」 まずい、と祐人は思った。その瞬間に声が出る。 「悪いっ。今のは卑怯だった。はい。なしだ、なし。なーしっ」 「……本当、ですか?」 慌てて両腕を上げて降参ポーズをとった祐人に、楓は疑いの眼を向けてくる。 じいっ、と。 思わず頭を撫でたくなるくらいに可愛らしい。 祐人が本気で悪いことをしたと思っていると、 「えと……なかったことにして、お話をしてください」 楓は目尻の雫を指先で拭った。 「了解」 肯定。それでいいのか? と一応は思いながら否定の接続詞。 「けど、お話ってどんな?」 「あ。えと……手品、お好きなんですね」 楓の視線は斜め後ろ、本棚へと動いた。 「まあ……素人レベルだけどな。そこに並んでるのくらいはマスターしてる」 頭の片隅に妹の件を追いやったつもりで、祐人も本棚を見上げた。 一番上の段には、太い赤のひらがなで「てじな」と書かれた本が並んでいる。二段目には漢字で書かれた本が並び、読唇術や心理学、超魔術と題された本もあった。三段目には本がなく、あるのはコインやカードといった手品の小道具やタネだ。 「あれはゲームですか? マンガも……えへへ。男の人の部屋って感じですね」 楓は下の方にも目を移したらしい。四段目には小型の液晶テレビとゲーム機本体が乗っていて、そこから下の段にはコミック本が並んでいるのだ。 泊祐人。緑ヶ丘高校二年C組。帰宅部。 身長は平均より二センチ低く、体重は理想体重より四キロ軽い。 特技は手品。趣味はゲーム。 彼女いない暦イコール年齢。 特技以外、帰宅部としての平均的なステータスを誇っている祐人である。 「どんなゲームをしているんですか?」 視線を戻した楓が訊いてくる。その表情が引き締まっていた。 「今は和風テイストのRPGだな。やり直すか迷ってるとこだけど」 「どうしてですか?」 「仲間にできる敵を味方にし損ねたから」 「好きな食べ物はなんですか?」 「トマト。生でも、ソースでも。けど、ケチャップは微妙」 「あ……オムライスのケチャップも微妙ですか?」 「それは別だな。中身もケチャップライスがいい」 祐人が答えると、楓は「よかった」と小さく息を吐いた。そして再び、 「学校は好きですか?」 「ま、嫌いではないな。もちろん、授業以外って条件付きで」 「えと。勉強や運動は得意ですか?」 「どっちもまあ、そこそこ。英語はひどいけど」 「そこそこですか」 と、質問が途切れる。楓の目尻がわずかに上がった。睨んでいる、つもりらしい。 「むー」 小さく尖った口先から不満そうな声が漏れた。 「急にどうした?」 「嘘をつかれました。ひどいです」 「嘘? いんや、全部ホントだぞ」 「なかったことにしてないです。なんだかずっと、ここにしわが寄ってます」 楓が指差したのは、自身の眉間だ。意外と鋭い。しかし、祐人のまねっぽく二本の縦じわを寄せた表情は、困っているようにしか見えない。 「そう言っても、やっぱりなしにはできないなあ」 妹と偽った次は流れも何もない質問攻めである。 この子はなんなのか。 しわの一本や二本が深く刻まれても必然と言うものだろう。 「あの……わたし、追い出されちゃいますか?」 「なんだ。そんなこと心配してたのか。追い出す気はないから安心しなよ」 ぱっと楓の表情が明るくなる。わかりやすくて、微笑ましくて、素直だ。 だからここは、狙いどころ。 もう一度は悪い気もするが、知りたい気持ちが勝った。 小さな胸を撫で下ろして気が緩んでいる楓に、 「じゃ、ホントの目的を教えてくれよ」 「あなたのことを知りたかったんです」 はいっ? 可愛い女の子からそんなことを言われたら、どうなるか。固まるのである。 楓も同じように固まったのだが、目をぱちくりさせると、 「え? ひゃっ」 変な悲鳴をあげた。今度は泣きそうにならず、 「い、今のは間違い。間違いですっ。えと、あのっ」 開いた両手を勢いよく振りながら、否定の言葉を繰り返した。 とてもとても必死だ。 小柄な女の子は、仕草のほとんどで一生懸命さを感じさせてくる。 くすりと笑ってしまった祐人の硬直は解けていた。 「わかったわかった。ホントのとこを教えてくれよ」 自然と零れた笑顔のままで言う。 「なんか別の意味があるんだろ? モテないってのは身に沁みて知ってるし」 「そんなつもりでは……」 しゅんと、うつむいた楓はこちらを見上げてきた。薄紙くらいに開いた口が、再び閉じられる。何か言いたげで言い出せない、思いつめたような緊張が感じられた。 なん、だ? 不穏な雰囲気を察した祐人は笑顔を消し、息を止めて言葉を待った。 やがて楓は意を決したように真剣な表情で顔を上げ、 「世界を救ってもらうためにきました」 今までとちょっと違うような、無理した感じの声で祐人の頭を混乱させた。 ◇ 祐人の口が開いたのは十数秒が経過してからだった。 しっかりと聞こえていたのに、 「今、なんて?」 聞き違いとしか思えず、訊き返してしまう。 「世界を救えるのは、あなただけです。本当のことです」 対象を限定する言葉が加えられて、意味は強くなった。 「世界を救う? 俺が? ないない」 半笑いで、片手をひらひら振った。核戦争を未然に防げばいいのか、地球規模的環境問題を解決すればいいのかわからないが、平凡な高校生にはなんの力もないのだ。 まさかゲームみたく異世界に飛ばされ、伝説の勇者として魔王と戦ったりするわけもない。 ともかくも、まともに思える言葉ではなかった。 しかし楓は澄んだ瞳でまっすぐに見つめてきて、 「予知です」 「予知? 未来を言い当てる……予言か?」 視線を交差させたまま、楓は頷く。 「超能力を研究する国家機関があります。そこに完全なる未来≠ニ呼ばれる、一度も外れたことがない予知能力を持つ……少年がいます。その少年が、危機的状況を救えるのはあなただけであることを予知しました。こちらの不都合になる部分はお話できませんが、完全なる未来≠ェ示す行動を、あなたがとることで世界を救えるのです」 長くて説明的な台詞を、一度だけの澱みで言い終えると、楓はほっとした表情を浮かべた。 似た表情を知っていた祐人は、思わず頬を緩めて、 「えと、説明は終わりです。わかってもらえましたか?」 「そうだな。今のが丸暗記、ってのはわかった」 「え? ちち違います」 「そうか。暗記テストに合格した時の顔かと思ったんだけど」 すまし顔で否定する楓のわかりやすい反応がおもしろくて、 「じゃ、質問。都合悪いところは答えなくていい」 詳しく訊いてみることにした。つつくと、別の表情も見れそうだ。 「超能力を研究してる国家機関なんて、ホントにあるのか? 俺は聞いたことないぞ」 「えと、秘密の機関ですから、知らないのが普通なんです」 「なら、危機的状況ってどんな?」 「あう……わからない、です。でも、とても大変なのは間違いないです」 可愛らしく困るので、ちょっと意地悪をしてみる。 「いやいや。大変とかじゃあ困るな。大変さにもいろいろある」 「えと」 楓はちゃぶ台を見つめて考え、ぱっと顔を上げて、 「大地震みたいな大変なことです。もっとかもです」 言い終えると、少し哀しそうな顔をした。 「完全とか言うのに、曖昧だな。不幸な未来を回避するってのは、占いっぽいし」 「逆説的なんだそうです」 逆説的の意味を訊こうとして、やめた。困った顔をしている楓は、他の誰かが言っただろう言葉の意味を理解していなさそうだ。代わりに流れを無視したことを訊く。 「妹って嘘をついたのはなんで? 嘘をつかれた側としては理由くらい知っときたい」 「あの、それはですね。このお話をしたり……えと、いろいろです」 答えを濁された祐人は無言で楓を見据えてみた。 「ぁ……ぅ、ぇと……家の中に入らないと、ゆっくり難しいお話をできなくて、それにはえと、妹にするのが一番いいって、言われたんです。本当です。すみません」 申し訳なさそうに楓がうつむいたところで、祐人は質問を止めた。やりすぎたかなと思いつつ、楓の話を整理してみる。大きな矛盾はないように思えた。 しかし、映画やゲームの中の場合だ。楓の話は現実そのものと矛盾している。 「あの……ほ、他にも質問はありますか?」 無言で考える表情が怖かったのか、楓が怯えた目を向けてきた。 「ないかな。話の筋はよくわかった」 「えへへ。よかったです。それでは予知を――」 両手を重ねて胸に当て、楓は嬉しそうにする。 「あ、いや。悪い」 意図的な遠回しではなかったので、祐人は驚いたように謝った。安堵の笑顔を消すことを言うのは心苦しくもあるが、この誤解は解いておかなくては。 「水原の話は理解した。よくわかった。けどな、信じたわけじゃないんだ」 一瞬だけ眉頭を寄せた楓は、小さな手を拳にする。 「でも、本当のことなんです……一緒にきて欲しいんです」 「いやな。本当って言われても」 祐人が渋い表情をすると、楓は目を伏せ、 「超能力をもつ人を気味悪く思いますか?」 細い声で訊いてきた。 「……会ったことないからわからないけど、心を読まれたりしなきゃ大丈夫……か」 「わたしが超能力を見せたら、気味悪く思いますか?」 「たぶん思わないと思う……む? 今から見せるって、そういう意味か?」 楓の表情はすがるようで、祐人の声は緊張に満ちていた。 「タネのある手品だと思ったら、遠慮なく言ってください」 抑揚のない宣言。 楓は麦茶の入っているコップを凝視した。目に力がこもっている。 生唾を飲み込んだ祐人の目が、細さを増した。 麦茶の表面が揺らぐ。ゆっくりと麦茶が――コップはちゃぶ台に置かれたままに、麦茶の一部だけが宙に浮き上がった。五つに分かれてビー玉のようになる。音もなく祐人の眼前まで移動し、緩やかなリズムで上下運動をはじめた。 祐人は驚きを隠せずに、しかしタネを暴こうと玉を見据える。 糸は見えない。 素早く右手を伸ばし、玉の上空を手刀で切った。 「これがわたしの能力、五つの自在な手≠ナす」 楓の声と同時に祐人の表情に驚きの色が増す。手刀は空振りに終わっていた。 浮かぶ玉はそれぞれに意志があるかのように、別々に動いている。 「気体や液体の形を自由に変えて操るのがわたしの能力なんです。でも、操れるのはこれくらいの大きさで、五つまでになります」 楓が言うと、すべての玉がすうっと床に下りていった。 「こんなふうに使えます」 落ちていたCDの周りに散った玉は平たく変化すると、協力するようにしてその一枚を持ち上げる。ふらふらと頼りなく運んで、ちゃぶ台の上に置いた。 祐人がどんなに目を凝らしても仕掛けは見えなかった。想像もできない。 「……マジ、なのか。いやいや」 絶句することだけはなんとか堪えて、首を横に振る。 こういう、とても信じられないことが手品の真髄なのだ。 絶対にタネがある。あるとは思うのだが、見つからない。 「念動能力の一種です」 静かに言われたのは、超能力の代名詞とも言える能力だった。麦茶の玉は楓の周囲をくるくると回り、コップに戻った。どう見たって普通ではない。 祐人の頭の中で混乱ばかりが加速していく。片手で顔を覆った。 目の前のことを信じられはしない。 こんなことを、そう簡単に信じられるはずがないのだ。 「わたし、気味悪く思われちゃいましたか?」 「それはない。ホントだ。ただ、信じられない。いや、さっきまでの意味とは違う」 不安そう見つめてくる楓にぎこちない笑みを返した瞬間、 「へえ。けっこういい部屋じゃん」 甲高い子供の声。すぐ真後ろだ。 「――ッ」 祐人の口から声にならない悲鳴が出た。跳ねるように立ち上がって反転。ちゃぶ台に足をひっかけ、バランスを崩す。倒れそうになって手を伸ばした。 左足を横に踏み出しながら片手で掴んだのは、本棚の端だ。 体重が本棚にかかる。 ぐらり。厚みのない家具は簡単に揺れた。地震対策をしておけばと思う暇もない。 「くっ」 呻いて手を離した祐人は踏ん張りきれず、楓のすぐ横に転がった。 仰向けになった祐人の目に、倒れてくる本棚が映る。 反射的に動いた両腕で楓を突き飛ばしていた。小さな悲鳴は聞こえたが、どうなったかまでは確認できない。祐人は致命傷を避けるために両腕を顔の前で交差した。 防御本能で目を閉じる。 全身を硬直させる。 瞬間、すべてが激しく揺れた。 が――くるべき衝撃がこない。 揺れが止まると同時に、何かが割れる音が階下から聞こえた。 「だっ、大丈夫ですか?」 左肩あたりを揺らされて目を開ける。心配そうに見下ろす楓が見えた。 「あ、ああ。なんとか大丈夫っぽい。どこも問題ない」 上半身を起こしながら、小刻みに揺れるだけの本棚を見る。 「今、揺れた?」 部屋を見回すと、机の上に積まれていた本が雪崩を起こしていた。 「あ、はい。ちょっと大きな……地震がありました」 地震の揺れが、倒れそうだった本棚の傾きを相殺して元に戻したらしい。 奇跡に等しい幸運に感謝した祐人は、ふうと息を吐いてベッドを見やる。 「おまえは誰だ? 水原とは知り合いか?」 Tシャツにハーフパンツ姿の、小学生にしか見えない少年だった。サンダルを履いた両足を投げ出してベッドに座り、不敵に歪んだ笑みを浮かべている。 「そだよ。楓とは仲間かな。でさ、妹との語らいは終わった?」 「あのな。妹ってのは嘘だって結論が出てるんだ。それで、おまえも超能力者か?」 「それくらいは見抜いたんだ。くっく」 喉の奥で笑う少年は、こちらを見定めるように見てくる。 「超能力は信じてない顔だね。凡人らしい考え方だけどさ」 「信じるわけ……」 麦茶の玉が脳裏にちらついた。それだけではない。少年が突然背後に現れた方法が頭に浮かぶ。さっき「どうやって現れた」と訊かなかったのは、すべてを認めることになりそうだったからだ。訊けば簡単に答えが返ってきそうで、反論できなそうで。 少年が「いい反応だね」と、にやついた笑みを見せると、 「浩介くんっ。ちゃんと敬語使わなきゃダメでしょ。自己紹介もしなさい」 楓はお姉さん口調で叱った。軽く膨らんだ頬とちょっぴりの釣り目は怒っている証しだろう。 が――少しも怖くなくて、むしろ可愛らしい。 「はいはい。敬語はヤだけど、自己紹介くらいはね」 少年は頭の後ろで手を組み、あごを上げた。顔の位置は祐人とほぼ同じなのに、こちらを見下ろしてくる視線になって、 「僕はAクラスの能力者、田口浩介。遅いから迎えにきてやったんだ」 「浩介くん」 「別にいい」 楓がもう一度注意しようとするのを、祐人は片手で制止し、 「けどな、サンダルは脱げよ」 「あのさ、そろそろ時間がないよ」 祐人の言葉を無視した少年、浩介は楓を見やった。 「あ、うん」 はっとして頷いた楓は立ち上がると部屋を出ていった。とたたっ。軽い足音が遠ざかり、そして戻ってくる。小さな革靴と祐人のスニーカーを手にしていて、 「さっき履いていた靴を持ってきました。これでいいですか?」 「いいじゃん。それで」 答えたのは祐人でなく、浩介だ。 「こら。おまえが勝手に決めるな」 「あう……ダメ、でした?」 「いや、ま。それでいい。一番動きやすいからな」 スニーカーを受け取る。鼓動が速くて、胸にある奇妙な期待感に気づいた。 「ふふん。いちいちつっかかってくるなんて、祐人はホントに子供だね」 「おまえもな」 祐人は立ち上がる。なぜそうしたのか。認めたからだ。 浩介は少し意外そうに眉をひそめ、それから鼻先で笑うと、 「僕はまだ子供だよ。見えないなら、それでもいいけど」 嫌味っぽく口の片端を歪めた。 「時間がないんだろーが。それとも今さら無理とか、確率が悪いとか言うのか?」 「ふふん。歩くより簡単さ」 言葉が終わるとほぼ同時、祐人の視界は斜めに歪んだ。 次の瞬間、見えたのは青い空。 そして、ひとつ浮かぶ白い雲。 「ななな、ちょっ――」 足元に地面はなくて、背筋を寒くする落下感が襲ってくる。 落ちた。 コンマ数秒で、 「――ぅぐがっ」 踵から着地。祐人は勢いよく後ろに倒れ、硬いコンクリートに背中を打ちつけた。 「最初じゃしょーがないけど、情けないんじゃない?」 小生意気に言った浩介は嘲笑を浮かべている。 「わたしも、えへへ。最初は転びました」 スカートを押さえて屈んだ楓が、祐人の顔に影をつくる。 「浩介くんの能力は瞬間移動。繋がる世界≠チて呼んでます」 祐人はゆっくりと上半身を起こした。周囲を見ると、ボディに熱気を帯びた車が整然と停めてあり、正面には見覚えのあるマンション。自分の部屋から見える立体駐車場の屋上にいると、すぐにわかった。 「あなたが世界を救う話……信じてくれますか?」 眉尻を下げながら訊かれ、祐人は呻く。 「あのな。ここまでのことが起きて信じないわけにいくかよ。世界を救う話も、超能力の存在も信じる――信じた」 「よかった。よかったです。ありがとうございます」 「まだ早いだろ。感謝の言葉は世界を救ってからだ」 祐人は唇を強く結ぶ。それは自然と出た台詞ではないのだ。 「はい。約束……です。救ってください」 溢れる不安を抑えるように、楓の声は震えていた。両の瞳は潤んでいる。 「ああ。約束だ」 砂を払いながら立ち、祐人は溶けるような夏の空を見上げた。 やっぱり簡単なこととは違う、か。 ずきりと、胸に鈍い痛みを感じる。 「カッコつけて後悔した――なーんて思ってない?」 からかい声が、心を読んだとしか思えないタイミングで飛んできた。 「あのな」 青空から移した視線で浩介をひと睨み。 「怖いのは否定しない」 祐人は素直な本音を口にした。ゲームの主人公みたいな台詞を絞り出したのは、怖さを薄める誤魔化しなんだと、自分でもわかっているのだ。 息が止まりそうになって、速い鼓動はいつまでも落ち着かない。 怖れ。 怯え。 不安――胸を締めつけるマイナスの感情。 だが、それらがすべてではない。 胸の奥には熱い想いがあるのだ。 マンガやゲームで擬似的にだけ感じることができた、熱い想いが。 「けど、俺だけなんだろ?」 真顔を向けると、楓はまっすぐに見返してきて、 「はい」 「なら、やるしかない。一生に一度くらい、主人公になってもいいはずだろ?」 祐人はわざとおどけた調子で同意を求めた。 楓はほんの少し陰りを残した笑顔になって、 「きっとなれます。わたしは……えへへ。ヒロインに。浩介くんは――」 「あいつは、コメディ担当だ」 半眼で見やると、浩介は「けっ」と息を吐いた。 「軽く言ってくれるじゃん。現実とゲームは違うのにさ」 「ああ違うな。現実は甘くなくて、やり直しのリセットはない。けどな、結果は同じにしてやる。ちょうど今やってるRPGと同じ、世界を救うハッピーエンドにな」 「ふふん。やることもわからないくせに、大言壮語にしか聞こえないね」 鼻で笑った浩介はいきなり表情を消し、重く震える声で言葉を繋いだ。 「こっちは祐人の本気を知りたいんだ……覚悟を、試してやる」 「覚悟?」 「いいか。やれることは全部やったあとって条件だ。即答以外は認めない」 浩介の目元が厳しくなる。 本気で答えなければならない雰囲気が満ちて、祐人は唇を結んだ。 二人の視線が絡み、ひと呼吸あって、浩介は一気の早口で訊いてくる。 「世界は祐人の親友と引き換えに救われる。つまり命を奪う必要がある――さあ、奪えるか、答えろ」 祐人は息を飲む一瞬だけ遅れて、 「……最後まで奪わない方法を考える」 「うわ、祐人ってバカ? 僕が言った条件、聞いてなかったろ」 呆れた顔になった浩介に、やれやれと首を横に振られた。 「聞いてたけど奪えるかよ」 「ゲームにだって犠牲はあるだろ」 「回避ルートに進んでハッピーエンドだ」 「だーから、そんなルートがない場合のことを言ってるんだよ。イエスかノーか、二択だ。いいか、今、僕は迫ってるんだ。現実に、二択を。だからちゃんと、答えろ」 今……現実に迫ってる? はっと気づいた。頭に浮かんだのは厳つい顔――悪友だ。 まさか、高坂が。けど……そん、な。 覚悟を試す二択が仮定から現実に変わって、祐人は表情を失う。現実とゲームは違うと言って、けれどその境界が曖昧だった事実に気づいた瞬間、 「大丈夫です。フィナーレは、みんな笑顔になるハッピーエンドです」 真下から聞こえたのは楓の声だ。 見下ろすと、優しげに口元を緩めた楓がこちらを見上げている。 「大丈夫……?」 「は……ははっ。ごめんごめん。くっははは」 困惑した祐人の耳に、浩介の甲高い笑い声が響く。 「楓にもごめん。やりすぎたよ。くっく。祐人が泣く前に見せてあげなって」 「う、うん。えと、予知によると、するべき最初の行動はこれなんです」 楓が胸ポケットから出したのは、畳まれた一枚の紙だ。 柔らかい風に揺れながら、四つ折りの紙が広げられる。 『ふぁみれすでちゅうしょく』 細いペンで書かれた十二文字は、すべてがひらがなだった。 「……どういう意味か、教えてくれないか?」 「ファミリーレストランで昼食をとるってことです」 屈託のない笑みには、嘘の欠片さえ感じなかった。 ◇ 祐人は訝しげな視線を、空になったパスタ皿に落とした。 「……これが世界を救うのか?」 残っていたトマト色のソースを集めてスプーンですくい、口に入れる。きれいに食べることが重要かもしれない、とか思う。いや、そんなわけはないか、とも思う。 「ちゃんと救うことになります。大丈夫ですよ」 テーブルを挟んで対面に座る楓は、オムライスをまだ半分残していた。 「食べ終わって言う台詞じゃないね」 その隣の浩介が残しているエビドリアは、もうふた口もない。 祐人たち三人がいるのは、歩いて十五分のファミレスだ。 普通に入って注文し、ほぼ同時に三品がきた。そして今に至るわけだが、道中も店に入ってからも、楓や浩介からは何も説明がなかった。本当に文言そのまま、ファミレスで昼食をとることがするべき行動ということらしい。 背もたれに体重を軽く預けた祐人は、腕を組んで周囲を見回した。 騒がしい。 質よりも安さを売りにした昼過ぎの店は、満員に近い状態だ。バイトの人数が足りないのは誰の目にも明らかで、店員を呼ぶチャイムがひっきりなしに鳴っている。子連れの家族が多いためか、ときどき悲鳴にも似た叫び声が聞こえていた。 事件が起きそうな気配は皆無だ。そんなことが起きるとも言われていない。 なんとなくではあるが、このまま店を出ることになりそうな気がしていた。 これはまあ、肩透かしってやつだな。 渋い顔にはなるが、不満はない。誰かを犠牲にするなんて最悪だし、危機を乗り越えて世界を救うなんてのも、今は少し遠慮したい気分だ。それに、嬉しそうにオムライスを注文した楓の表情を見たのだから、悪い気はしない。 ケチャップは別という言葉にほっとしていた理由もわかった。 楓には文句がない。 「おい祐人。なんでニヤついてんだよ。気持ち悪い」 こいつは本当に、いろいろと、余計だが。 「ふふん。そうか。凡人の考えることは、ホントにくだらなくて――」 言葉が途切れた。小生意気な少年の腕を、楓の指が抓っていたのだ。 「呼び捨てにするのはダメでしょっ。あの、本当にすみません」 可愛らしく叱った楓が、浩介の代わりに謝ってくる。抓られたところを擦る浩介は不満顔で、反省の色は少しも見えない。 「いいって。あきらめてるし、水原みたいに礼儀正しいのが珍しいんだし」 浩介に対する嫌味を込めて嘆息すると、祐人は楓を見やって続けた。 「けどな、水原の呼び方だって普通じゃないぞ。なんか滅茶苦茶くすぐったい」 「呼び方、ですか?」 「そう。あなたって言われるたびに、ぞわぞわするんだ。もっと普通に呼んでくれ」 「えと……それではどうしたらいいですか?」 困ったように口先を曲げた楓は「むー」と悩みはじめる。 泊さん――そうだな。やっぱこれが聞きやすくていいか。 祐人が自分の希望を言おうとした瞬間、浩介はにやにやと嫌らしい笑みを見せて、 「お兄ちゃん、しかないじゃん」 「な――ちょ、待てっ」 「うん。いいかも。浩介くんありが……あ、えと……ダメ、ですか?」 「当たり前だ」 両肩を抱いて震えた。喜ぶ男も間違いなくいるが、祐人の肌は粟立っていて、もはや悪寒レベルだ。しゅんと頷いた楓がかわいそうでも、とても耐えられない。 「ち。せっかくおもしろそうなこと……くっく。祐人先輩にしようよ。敬称もちゃんと付くし、完璧じゃん。僕は付けないけど」 浩介が口の端を上げる。 楓が表情を明るくする。 祐人は二人を同時に見て、ぞぞっと身震いした。お兄ちゃんほどではなくとも、やはり普通ではない。 「祐人先輩。祐人先輩……なんだかとてもいい感じです」 しかし楓は気に入ったらしく、嬉しそうに「祐人先輩」を繰り返す。 祐人はにやつく浩介をひと睨みし、片手を広げて突き出すと、 「頼む。苗字にするか、先輩だけにしてくれ」 懇願するように言った。それなら「泊さん」よりもいい。 繰り返しをやめた楓は小首を傾げてから、口元を緩める。 「はいっ。じゃあ、先輩で」 晴れやかで朗らかな声――どうやら重要なのは「先輩」という部分だったらしい。 トイレから戻ってきた祐人は、テーブルに片肘をついて切り出した。 「幾つか訊きたいことがあるんだけどな。妹とか言わせたのは、おまえか」 浩介が舌打ちして顔を背ける。呼び方を決める時の流れから推測したのだが、やはりそうらしい。 「なんだってそんな、すぐわかることをしたんだ」 睨みつけてやると、浩介はゆるゆると首を横に振った。 「知らない女の子がいきなり訪ねてきて自然なシチュエーション――そんなの、考えつかなかったんだ。祐人がモテるタイプだったら、それは別だけどさ。違うじゃん?」 反論しようとして、祐人は言葉に困った。どんな理由でも確かに怪しく思う。 「まあいい。気になったから訊いてみただけだし」 モテるタイプとは違う、という部分は完全に無視することにして、 「それより、室長ってなんだ? そろそろ時間がどうのとも言ってたろ」 「げっ。なんで聞こえて」 「え、先輩?」 浩介が狼狽した顔でこちらを見て、楓は目を丸くした。祐人がトイレから戻ってくる直前にしていた会話の内容なのだが、声が届く距離になる前に話をやめた二人にしてみれば、祐人には聞かれているはずがないことなのだ。 「なんでかは当然――秘密だ。手品のタネは教えられない」 「ち。ムカつく顔しやがって。それで勝ったつもりかよっ」 「室長ってのは、研究室の教授とかか?」 浩介を視界の外に置いて、何かを考えているふうな楓に訊いた。 「あ、はい。そうです」 ほとんど反射的に答えてくれる。隠しごとができないタイプで間違いない。 「超能力を研究してる教授か。スプーンくらいは曲げそうだな」 「えとですね。二研の教授に能力者はいないです」 「二研?」 「あ、えと。略称です。国立非科学研究所第二研究部、って言うんです」 安易で微妙すぎるネーミングも気になるが、 「……聞いてからなんだけど、秘密にしなくていいのか?」 「え、あ、う。どど、どうしよう?」 楓はおろおろと動揺し、隣にいる少年の肩を揺らす。 浩介はひとしきり揺らされたあと、面倒くさそうに頭を掻いた。 「名前なんてのはただの識別記号じゃん。それくらい問題ないさ」 「そうか。それなら、問題あるぎりぎりまで教えてくれよ」 祐人は二人に訊いたのだが、楓は浩介に視線を預けたままだ。しかたなく視線を横に滑らせる。わずかな間があって、心の底からたるそうな浩介のため息が聞こえた。 「二研には第四まで研究室があって、筆頭研究室の一室が主に精神系、僕ら三室が物理系の能力を扱ってる。四室は特殊で、研究対象は大規模超常現象になるね。それから二室。透視や遠見を研究してるけど、中心は一研に移ってる。今は一室のサポート的な存在に成り下がって……本当にしょぼい能力者しかいないね」 そこで区切った浩介は、コップに半分残っていた水を氷ごと口に入れた。 「僕らが言ってた室長は第三室長のこと。で、時間はそろそろ出ようかって話さ」 コップがだんっと音をたててテーブルに置かれる。言えることは全部言ったからもう訊くなという態度だ。 「おまえみたいな子供にこんなことが任されてる理由、それを訊くのもNGか?」 「祐人みたいな子供に世界が託されてるよりは、マシな理由があるけどね」 鼻先で失笑した浩介は「トイレ」と言いつつ席を立った。反撃を断つ完璧なタイミングは、小生意気が服を着ているとしか思えない。 閉口して浩介を見送った祐人は、じっと見てくる視線に気づいた。 「どうした?」 「えと、先輩。さっきのは読唇術ですか?」 「いっ……いややそそれは」 「えへへ。正解みたいです」 楓がくすりと笑んで、祐人は降参の頷きを返した。本棚にあった本を覚えていたのだろうが、それにしても鋭い。浩介とは違う方向に子供っぽい楓の本質は、きっと賢いのだ。変に大人びた話し方といい、どうもアンバランスに思える。 浩介にも通じるそれは、超能力者特有のものなのかもしれないが。 「超能力みたいですね。なんでも読み取れるんですか?」 「いや、わかりやすい単語だけ。教科書の音読みたくはっきり喋ってくれれば、けっこうわかるけど」 「すごい、すごいです。それで、えと……あの。手品を、見せてくれますか?」 不安と期待が満ちる大きな瞳に見つめられた。 「そうだな……ひとつなら。けど笑うなよ」 気が乗らない感じで言うと、右手を楓の前に突き出した。 左手はこっそり別に動いて、ズボンのポケットに向かう。 右手を開きながら軽く笑むと、左手をその横に添えた。派手に動いた右手に意識を向けていた楓は、左手がポケットを経由したことに気づいていない。 祐人は両手を開いたり閉じたりしながら回転させ、何も持っていないことを示した。 「ピンクとブルー、どっちが好きだ?」 「えと。ピンクです」 「ピンクか――了解」 左手を握る。 ひと呼吸ためて、開く。 ぱっ。 空中に飛び上がったのはピンク色の小さな花、一輪。 「正解の色だったから、プレゼントだ」 テーブルに落ちる前に手の中に収めた花を、楓に差し出した。 「も、もらっていいんですか? 嬉しいです。先輩、ありがとうございます」 こちらが申し訳なくなるくらいに喜んで、楓は花を受け取る。造花なのは見てわかるのに、生花よりも大事そうに胸のポケットに挿した。淡いピンク色の花は本来あるべき場所がそこであるかのように、布地の白を背景にしてちょうどよく落ち着く。 少しは磨いた特技なのだが、女の子のこんな反応は初めてだ。だから祐人の気分もいい。本棚からタネをひとつ手にしておいて正解だった。 「またチャンスがあったら別のを見せてあげやっひ、いてっ」 「おいっ。なんでオトそうとしてるんだよ」 「あのな。誰がオトそうとしてるってんだ。たく、馬鹿なこと言うな」 後頭部を叩かれて舌を噛んだ祐人は、立っている浩介を睨みつけた。 それから目を移し、小首を傾げている楓を見た。 「オトすって手品用語ですか? でも、ばかなことって?」 「……なんて言うか、女の子に下手な手品を見せることだ」 楓はふうんと納得した声を出すと、 「でも、下手じゃないです。あ、えと、先輩は手品師になるんですか?」 お世辞ではなさそうなフォローをして、興味津々な顔をした。 「全然。俺は一応、堅実な方だからまあ、たぶん普通の会社に就職だ。けど、手品は隠し芸で活躍させる予定。たまに見せて、驚いて楽しんでもらえたら最高だな」 「わっ。それも素敵な夢ですね。えへへ。そういうの、なんだかいいなって思います」 楓は瞳を輝かせ、憧れを含んだ声で言った。 対照的に浩介は片頬をひくつかせ、ムカつくと言いたげな顔になる。 「けっ。すんげぇ爺むさい。もっとバカっぽい、夢みたいなこと言えよな」 「ほっとけ。おまえこそいつまで立ってるんだ? 子供だからって爺むさい男に遠慮することなく座れよ。席は空いてるぞ」 「凝った言い回しのつもり? そんなんじゃ祐人のバカは隠せないよ」 「ほう。俺のどこが馬鹿か具体的に言えるんだろうな」 「立ってるのは出るからに決まってるじゃん。もう忘れた?」 浩介はくっくと嘲笑する。 祐人はぐうの音も出ない。否定のしようがない完全な敗北だった。 「じゃ、会計は頼むよ」 「んな、俺は一円も持ってないぞ。おまえらが入るって言うからてっきり」 「ふふん。僕はバカじゃないんだ。そんなことはよく知ってるさ」 浩介はポケットから取り出した茶色の物体を放ってくる。受け取ると、祐人の財布だった。部屋の机の上にあったはずなのだが。 「おまえ……最初から俺におごらせるつもりだったのか」 「そーだよ。思ったより入っててちょっと驚いたけどね」 くっくと笑った浩介は頭の後ろで手を組み、一人でレジに向かった。 「すみません。わたしたち、お金ないんです」 楓は申し訳なさそうに眉を寄せた。 「いやな、俺が払うのは別にいいんだ。可愛くないって、そう思っただけ」 「浩介くんがですか? 可愛いですよ。ちょっと上を向いちゃってるだけです」 「水原がなんと言おうと、あれは絶対に可愛くない」 強く言い切った祐人は伝票を手に立ち上がる。 楓も続いた。 並んでレジに向かいながら、祐人は楓の旋風を見下ろす。楓は素直で可愛らしい女の子、浩介は小生意気で可愛さの欠片もない子供――誰もがそう思うはずだ。 けれどまあ、浩介は憎めないタイプには見える……かもしれない。 「で、次はなんだ?」 店を出てすぐに、祐人は横にいる楓に訊いた。 するべき行動を書いた紙は浩介が出してくる。 『ゆうえんちであそぶ(でーと)』 細いペンで書かれた九文字に、鉛筆の括弧書きが添えられていた。 「こ、浩介くん!」 「僕はやることがあるから、ちょうどいいね」 「で、でででも、先輩には――」 「わざわざタネを仕込んでたくらいだ。でもって、怪しいと思ったはずなのに部屋まで通した事実もある。中に入れてから妹かどうか確認するのは、変じゃん?」 こちらを一瞥した浩介は、にやりと口の片端を上げた。 「だからさ、楓が可愛いって思われたのは確実で、好意をもたれてるのは絶対さ」 「ひぇ?」 悲鳴にも似た素っ頓狂な声があがった。 祐人はそちらに視線を向ける。 見上げてくる楓と目があった。 「えとっ。あの、その……ななな、なんれもない、ですっ」 ぽむっ。 そんな音がする感じで頬を朱に染め、楓はうつむいてしまった。 俺……世界を救うのか? どうにも実感がなくなって、祐人は頬を掻いた。 ◇ 額の汗を手の甲で拭きつつ、祐人は一枚の看板を見上げた。 「遊園地だな」 左端に観覧車が描かれた看板だ。草原っぽい背景にライオンやサイといったアニメ調の動物が並び、中央には青い文字で東山パークランドと書かれていた。 ファミレスを出てから十分。動物園を併設した遊園地の入場ゲート前である。 「祐人の財布じゃ、テーマパーククラスは無理だからね」 「少しは悪びれた顔で言えよ。せせら笑ってるようにしか見えないぞ」 「そりゃ、せせら笑ってるからね」 しれっと言われたが、それを注意する声はない。お姉さん役の楓はゲートの真下、声が届かないくらいに離れた位置にいる。園内を覗くその表情は、遠足で遠くまできた子供がお弁当箱を開ける直前のそれに似ていた。 あのあと、適当に誤魔化して妙な誤解は避けた祐人だが、まだ話しにくい。 料金表を見やった。 中学以上が大人扱いで、入場料は四百円。二人なら八百円だ。 「瞬間移動で入れないか、って考えてるね。せこいよ」 「予想外の出費が出たからな。財布へのダメージを減らしたいんだ」 「こういう時にそうするのは最悪な男じゃん。だからモテないのさ」 「鉛筆書きのアレ、付け足したのはおまえだろ」 「モテないってとこを否定しないのは事実なんだね。ファミレスでも無視してたし」 「あのな……俺は確認してるんだ。世界を救うのに間違ったらまずいだろ」 浩介がトイレに立った時にアンケート用の鉛筆で書いたのだろうと、祐人は推測している。しかしその狙いはわからない。可能性が一番高いのは「からかい」なのだが。 「デートは遊びに含まれるじゃん。だから祐人の好きにすればいいのさ。別に恋愛感情をもてってわけじゃない」 一番困ることを言われたような気がする。どうするか。 渋めの思案顔をしていると、浩介の顔が唐突に、にやりと歪んだ。 「そうだ。持ってるお金は全部使っていいよ。たった今、当てができたからね」 「当て?」 訝る祐人に、浩介は下手くそなウインクをして、 「三時間くらいしたら戻ってくる。じゃ、またね」 楓にも届く声で言った。背を向けて最寄り駅の方角に歩いていく。 「浩介くん、ありがとう」 ゲート下から返った楓の声に、浩介は振り向くことなく片手を上げた。小さな背中はそのまま、ビルの陰へと消えていく。 「さてと、チケット買ってくるから待ってな」 「はいっ。待ってます」 弾むような声に押されて、祐人はチケット売り場に向かった。開いている窓口はひとつだけで、周囲に客の姿はない。 「大人二人……と、パンフレット貰えます?」 「八百円」 愛想のない係員にお金を払い、祐人は入場券とパンフレットを受け取った。 ゲート下まで戻り、子供の笑顔で待っている楓にパンフレットだけを渡す。 「そうだな。回る順番は入ってから考えよう」 祐人は楓と並んで入場ゲートに向かった。欠伸をしていた係員に入場券を渡して園内に入ると、黒いアスファルトは熱く、動かない空気もひどく暑い。 最初にすべきは、陽射しをしのげる木陰を探すことらしい。 お? 普段のペースで歩いていると、後ろからシャツの裾を引っ張られた。止まって振り返ると、楓が細い指先で裾を握っている。 「えと、ダメ……ですか? 先輩、歩くの速いから」 不安げな表情と上目遣いというコンビネーションで訊いてくる。 祐人にはその瞳が潤んで見えた。反則だ。 「わ、悪い。なるたけ、ゆっくり歩くようにする」 裏返った声で返事をして、祐人は再び歩き出す。 不覚だ……マジでどきっとした。 心臓がふわふわ浮いていた。急いで座れる場所を探して落ち着かなくては、暑さのせいではなくて倒れてしまいそうだった。 ◆ 殺風景な部屋だ。ファイルが詰まった壁一面の書類棚と小さな事務机しかない。 その色味の少ない部屋に、ふたつの人影があった。 片方は椅子に座っており、もう一方は机を挟んで立っている。 「まさか本気で言っているのですか?」 感情が殺された低い声は立つ側、茶色のスーツを着た女性のものだ。 国立非科学研究所第二研究部第三室長――早瀬朋香である。 三十半ばで二研の副部長も兼ねる彼女は、短い髪を揺らす。音をたてながら机に両手をつくと、座っている老いた男に鋭い視線を向けた。 「無論本気だ。現況を鑑みれば、Sクラスを守る最良にして確実な手段であろう」 Sクラス――最重要として特別視するため、ただひとつの能力に指定される称号であり、その称号は現在、三室の完全なる未来≠意味する。 そのSクラスを失う危険に対し、全力で当たるのは当然なのだが、 「方法が極端すぎます」 「ああ、まだ副部長の肩書きは外れていなかったな。この事態に陥った責任はのちに追及することになろうが、今は意見を言える立場にあるわけだな。よかろう」 薄ら笑う白髪の老人――二研部長は机に肘を立て、両手を組んであごを乗せた。 聞くだけは聞くという態度だが、早瀬としては言うしかない。 「単純に研究所の存在が明るみに出る可能性があります。そこまでいかなくとも、事件となれば警察やマスコミが動くのは確実です。それを抑えるには執行部の力を借りなくてはなりませんが、それは汚点でしょう。部長の望むことではないと思いますが」 「さすが、と言おうか。簡潔でかつ見事。否定するのがはばかられる説得だな。私の至極短い将来まで心配しておる」 自己表現を地位のみに求める俗物は、忌む目で早瀬を睨む。研究部の上位組織である執行部を狙う老人の意志は激しく、そして強い。 だからこそ早瀬の言葉は特効薬であり、過去に効いた実績もある。 「しかしな、事件にはならん。私もそう愚かではないぞ」 「警察やマスコミも愚かではありません。人が死ねば、行方不明であってもなんらかのアクションが起きます。そこに潜む危険を考慮すれば、執行部の心象は悪く――」 「確かに執行部は気にしよう」 二研部長は早瀬の言葉を遮りながら肯定し、それに否定の接続詞を続けた。 「しかし、一三三八番が完成しておる」 「完成して……いえ、完成したからと言って何が――」 「これはその成果も兼ねての指示だ。私は、上にゆく」 宣言が、会話の終了を告げた。 二研部長を睨んでいた早瀬は無言で机から手を離す。 「……わかりました。ですが、こちらもこちらで動きます」 現状で取り得る最大の抵抗を言葉にした。 三室長である早瀬では、一室の能力者を止めることができないのだ。その権限を持つのは、早瀬と同じように一室長を兼ねる二研部長だけ。しかし逆を言えば、二研部長も早瀬を排して三室に干渉することはできない。今はまだという限定ではあるが。 ほくそ笑む二研部長に背を向け、早瀬は肩を怒らせて部長室を出た。 ミスはあまりにも手痛い。ここまで昇ってきたことが無に帰する可能性さえある。 しかし、まだ終わったわけではない。 三室ですべてを解決し、最悪でも室長の立場は守らなくては。 廊下を速足に歩く。カツカツと革靴の乾いた音が響いた。 早瀬を失った三室に二研部長の息が入る――それだけは防がなくてはならない。強引な手法で研究を進める一室からは、いろいろな意味での犠牲者が出ているのだ。十年前まで同じだった三室をやっと変えることができたのに、戻すわけにはいかない。 しかし、室長に残るだけでは足りない。二研部長は、早瀬の責を理由にSクラスの転室を告げてくるに決まっている。一研でも成果がない『完全』レベルの予知能力研究は、執行部に入るための大きな実績となり得るからだ。 全部防いでみせる。ここまできたら、逆にチャンス。やるしかないわ。 決意を自身に強く言い聞かせ、三室のドアを押し開いた。 「揃ってるわね。あの爺さんと完全に敵対することになったわ。二年前と同じよ」 「なると思っていましたから」 五人いた白衣の研究員の一人が、あきらめたように肩をすくめる。 残る四人も似たような表情だが、瞳の奥にはやる気が輝いていた。 「三班に分けるわ」 二年前と同じメンバーに指示を出しながら、早瀬はその時のことを思い出す。 あれも、完全なる未来≠間に挟んだ敵対だった。 二年前、三室に完全なる未来≠ェ発現した直後、二研部長はその転室を告げてきたのだ。当時一室にあったSクラスをAクラスに下げ、そして完全なる未来≠Sクラスに指定し、その上で「Sクラスは筆頭研究室にあるべきだ」と理由をつけて。 拒否した早瀬は室の独立を理由に掲げたのだが、一人では抵抗し得なかった。転室を防げたのは、この五人が最後まで一枚岩で耐えてくれたからなのだ。 「一班はわたしと一緒に泊祐人を追う。浩介の位置探知は機能してるわね?」 「はい。ですが、逆にそれが気になります」 「……そうね。浩介が何も考えてないはずがない。囮の可能性がある……それならわたしは別に動くことにするわ。いきそうなところに心当たりがあるから」 「では、我々は位置探知が示す場所に向かいます。最悪、浩介を押さえますよ」 二人が出ていき、三人が残った。 「あなたたちは二班。予知が示す場所の特定を続けて。そこがどこか判明すれば、すべてを終わらせることができる。いい? 状況によっては一番重要な役目になるわ」 「プレッシャーだけかけてきますね。どうも資料からは探せないようなので、足を使いますよ。ふた手に分かれて、まずは市内から回ってみます」 敬礼のまねをした二人が颯爽と出ていく。残ったのは老年に近い男だ。 「一室の監視を頼めるかしら?」 「わかっとる……とは言え、状況は悪いぞ。二室から一人連れていかれとる。おまえさんが嫌う装置を使うのも止められん。一室の属室なぞ、さっさと潰せばよいものを」 「あれを作ったのは、やっぱり失敗だったわね。いえ、それを成果にして地位を手にしたことがかしら……今さらね――他には何か?」 「もうひとつ。四室からの情報じゃが、泊家周囲で空間異常が観測された」 「空間異常? 原因はわかったの?」 「分析はしとるそうじゃが、小規模でわからぬらしい。そう、その話の中で気になることが……どうもな、『完全』レベルの予知研究はその成果が一研にあるらしい」 「一研に?」 早瀬は眉をひそめる。競争相手である一研の情報は少ないとは言え、聞いたことがない。 「部長も成果はないと言っていたはずじゃが」 「確かに気になるわ。一室の牽制をしながらそちらも調べてみて。もちろん四室との情報交換もお願い。あなたにしかできないことだから、頼りにしてるわ」 「年寄りをおだてても何も出んぞ。ただの罪滅ぼしでしかないからな」 老年の男は目尻にしわを寄せ、ゆらりと部屋を出ていった。 最後に残った早瀬は隣部屋に移動する。ガラクタ部屋と揶揄される早瀬の自室だ。 「泊祐人を、無力化する」 思わず呟いて、早瀬は表情を消した。 棚の戸を開き、右手を奥へと伸ばす。 主導権を……握らなくては。 手にした銃を見やり、ひとつだけ大きく息を吐いた。 二、脇役の事情 ジェットコースターが疾走して、地響きにも似た音が響く。しかし絶叫や悲鳴はほとんどなく、コーヒーカップやメリーゴーランドは思い出したようにしか回らない。遠くに見える小さな観覧車に至っては誰も乗らないのか、もうずっと止まったままだ。 設備が古くなって閉園が噂されている遊園地は、ひどく閑散としている。 暑いな。 胸中で呻いた祐人は、楓と並んでプラスチックの安っぽい椅子に座っていた。 夏の太陽は遠慮を知らないし、紅白のパラソルがつくる日影はひどく小さい。 「冷たくておいしいです」 祐人を見上げてくる楓の口元に、白い跡が残っていた。 「ついてるぞ。ソフトクリーム。右側だ」 指摘すると、楓は「ひゃ」と可愛い声を出した。慌てて右手の指先で口端を拭う。どこから見ても、恋人同士――ではなく、似ていない兄妹という雰囲気だ。 噴水の中央に立つ大時計を見やると、入場してから二時間半がたっていた。 まず回ったのは併設してある動物園――最初に見たのはフラミンゴだ。楓は「本当にピンクなんですね」と感心していた。次に暑そうにしているペンギンを心配し、それからキリンの長い首を見上げて、大きな欠伸をするライオンも眺めた。 一時間ちょっとで全部回れる小さな動物園を、楓はどこか懸命に満喫していた。 強烈な陽射しにも負ける様子がなかった。 遊園地にきて、乗り物を選ぶ時も真剣そのものだった。祐人が「動かしてもらうにしても、観覧車は地獄だぞ」と言った時、十分近く悩んでいた。 少し前の売店で、ソフトクリームとコーラを悩んでいる時も同じだった。 「俺はコーラにするよ。で、半分は水原が飲みな」 祐人の言葉に目を輝かせた楓は、かなり嬉しかったらしい。 そんな感じで、楓が人並み以上に楽しんでいたからだろう。予知のことを気にしていた祐人も途中からは意識しなくなっていた。ただ、別方向には少し意識していた。 「とれました?」 小首を傾げた楓に祐人が頷くと、白い山が近づいてきた。 「はい。先輩もどうぞ。冷え冷えで気持ちいいですよ」 祐人は頬を掻くと、「俺はいいや」と断った。理由はちょっと言えない。 「そう……ですか。それでは食べてしまいます」 少し残念そうに眉尻を下げた楓は、再びソフトクリームを舐めはじめた。溶ける速度に負けないよう頑張っているさまが、バテ気味の祐人を和ませる。 緩んだ口元に気づいた祐人は、テーブルの上の紙コップを手にした。 やっぱ意識してるのか、俺。 恋愛対象としては下に外れていると思う楓なのだが。 いや。暑さのせいだ、暑さの――たく、今日は暑すぎるぞ。 コーラをひと口飲み、テーブルの上に戻した。細かい氷を噛みながら額の汗を拭い、細い目でぼんやりと周囲を見やる。 太陽の強い光の下、世界は全体的に白い。 空気は揺らぎ、アスファルトには逃げ水。 人影がない原因は、設備の古さだけでなくこの暑さもだろう。 けどまあ……楽しいっちゃ楽しいか。 正直、デート――それがもどきであっても、次回はいつになるか。少なくとも高校生活では無縁だろう。下に外れていることはこの際、目を瞑るべきだ。 それが世界を救うための「ごっこ」であっても、悪くはないのだから。 「先輩。えと」 祐人が声の方に視線を向けると、楓がコーラを見ていた。ソフトクリームはコーン部分まできれいに食べられていて、紙だけが残っている。 「ん? ああ、悪い悪い。全部いいぞ。もう半分飲んだからな」 「はい。それではいただきます」 両手を伸ばして紙コップを手にした楓は、んくっと喉を鳴らしてコーラを飲んだ。 「ふぁ」 きゅっと目が閉じられ、小鳥の足跡のようになった。 「び、びっくりしました」 弾けるしゅわしゅわに耐え切ったらしい楓が、驚いた表情で祐人を見上げてくる。目の前でシャボン玉が割れた猫のようだ。 「はは。炭酸は苦手か? それとも子供には強すぎだったか?」 「むー。ばかにしないでください。わたし、子供じゃないです」 頬を膨らました楓は、残りのコーラをゆっくり飲んだ。 穏やかな時間がゆるりと流れて、ずずずとコーラが飲み干される。 「先輩。次はあれに乗りましょうっ」 楓は観覧車の向こうにあるバイキングを指差すと、元気よく立ち上がった。歩き出したその手には紙コップとソフトクリームの紙ごみ――本当によくできた子だ。 祐人も重い動作で腰を上げる。実のところ体力ゲージは尽きかけているのだが、 水原があれだとな。 跳ねるように離れていく楓を見やり、なんとか歩き出した。 最後の乗り物になるかと思うと、ちょっと寂しい。 一セットだけ買った乗り物回数券は残り四枚で、バイキングは二枚設定なのだ。楓が一人で乗ることを拒否するのはもう知っているし、財布には硬貨が数枚しかない。 浩介を信じず、回数券の分くらいは使わずに残しておく選択もあったが、楓の喜びようを見るとそんな考えは飛んでいく。間違いなく買って正解だった。 「せんぱーいっ」 呼ばれて、祐人は目を細める。光に溶けて見える楓はずいぶん先にいた。 「そんなに遅いと、置いていってしまいますよーっ」 ごみ箱のすぐ傍、空になった両手が頭の上で大きく振られている。なんだかつま先立ちをしているような精いっぱいの背伸びは、こちらまで元気にしてくる勢いだ。 祐人は「おーう」と右手を高く上げて応える。軽くなった足で歩調を速めようと、 ぱしゅっ。 耳元で炭酸飲料のプルタブを開けたような音を聞いた。 見ると、ガラスの粉のようなものが煌きながら舞っている。 そしてその向こう、十メートルほど離れた場所には茶色のスーツを着た女性。髪を短く揃えて知性がありそうな顔立ちだが、今は驚愕の極みという表情をしている。 動かないで。動いたら撃つわよ! 体勢はそんな声が聞こえてきそうなのに、危険な雰囲気はまったく感じられない。 「まままっ、まさかわたしの『安らかくん三号』が不発だなんてっ!」 彼女が叫んだのは手にしている銃の名前――直感だ。しかし間違いない。 「センスの欠片もねぇっ」 真っ先に思ったことを口走って、一瞬の空白。 「――な、なななんでいきなり撃ってきてるんだっ!」 「何を聞いたか知らないけど、深くは知らない方があなたのためよ」 驚愕から冷徹に表情を変化させ、彼女は引き金に指をかける。 「眠りなさい」 タメなどなく、あっさりと指が引かれた。確かに引かれた――が、 「あら、どうして? まさか。ええぇっ?」 彼女は銃をぶんぶんと振る。どうも故障らしい。 あまりにも滑稽だが、笑っている場合ではない。祐人は腰を落として足を退いた。 その瞬間、彼女は鋭い視線でこちらを射抜いてくる。 「悪いけど、逃がさないわ。『安らかくん二号』は精度がイマイチだけどっ!」 宣言と同時、袖口から小型の拳銃が飛び出した。映画さながらのギミックだ。 彼女は地面を蹴る。 速い。近距離で確実に当てるつもりなのか、距離は一気に詰まって――彼女の体はいきなり前傾した。前に出るべき右足が出てこない。 革靴の踵がアスファルトの窪みにぴたりとハマっていた。 「やっ、なんでもうっ」 彼女は無理矢理に引っこ抜いて体勢を崩し、そのまま逆の足で跳ねてくる。しかし前傾しすぎた姿勢からは立ち直ることができず、その手は助けを求めて伸びた。 悪気などまったくなく、反射的に祐人は避ける。 正確には、彼女の勢いにたじろいでわずかばかり身を退いた。 一流リアクション芸人も真っ青の、鮮やかで華麗すぎる転倒。 干からびたカエルの死体ができあがった。茶色のスーツがまさにそんな感じだ。 地面、熱いだろうに……これは死んだか? 身の危険を忘れるほどの展開に、祐人は哀れみの目を下に向ける。 「こんなことでっ!」 彼女は跳ね起きた。銃を構えるその距離は、零。 「ちょ――待てよっ。少しはわかる説明をしろって!」 「心配ないわ。ことが終わるまで眠ってもらうだけの、麻酔銃だから」 微笑んだ彼女が引き金を引こうとする瞬間、 「早瀬さん!」 両腕を左右に広げた楓が間に割って入ってきた。祐人はやっぱりと思う。銃を構える彼女は二研絡みの人間なのだ。 「楓。理由はあとで聞いてあげる。だから、今すぐそこをどきなさい」 「嫌です。早瀬さんに迷惑をかけていることは謝ります。でも、わた――」 楓の言葉を、彼女――早瀬はわずかに半歩踏み込むことで止めてみせた。今までのぐだぐだとは正反対の、滲む圧力がある。 「部長を納得させて時間を稼ぐだけの強硬がいるの。どきなさい」 「どきません」 楓は両腕を広げたまま、祐人には意味不明だった言葉に拒否の意志を示した。威圧してくる早瀬の目を見返し、強い声で言い放つ。 「撃ったら暴発します。だからやめてくださいっ」 今度は祐人にも理解できた。 楓は五つの自在な手≠使って、早瀬の銃に空気の栓をしたのだ。引き金を引けば銃は暴発するという、的確な能力の使い方と完璧に近い脅しなのだが。 早瀬は不敵な笑みを浮かべ、銃を投げ捨てる。両腕を素早く左右に広げると、 じゃっ。 銃口が縦に三つ並んだ銃が二丁、その両手に現れていた。 「やっぱり『三ッ星兄弟』を持ってきたのは正解ねっ」 もはや適当につけたとしか思えないネーミングを高らかに披露し、早瀬は祐人を狙ってくる。銃口は六。楓が塞げるのは五つ。ひとつ確実に足りなくて、 おいおい……マジかよ。 絶対絶命の状況を前に頬を掻いた祐人は、なんだかものすごく申し訳なさそうに口を開いた。 「ええっと、どこが塞がれてるかわかってるのか?」 というか、引き金ひとつで全弾発射なら暴発必至だが。 「……そ、そんなこと。当然気づいてたわよ!」 紅潮した早瀬はいきなり突っ込んできた。 足を滑らせた。 額から地面に激突した。 やけに鈍い音が響いた。 楓の足元に、本日二匹目のカエルが干からびる。 「なあ水原……なんなんだ、これ?」 緊張感を失った祐人はカエルを指差した。 「三室長です。みんな自作の銃なんですよ」 「そ……うか」 「えと、本当はすごい人なんです。ちゃんと役立つものも作ってるんです」 「いや、とてもそうは見えな……」 早瀬から視線を切って楓を見た瞬間、カエルは動いた。 「待てっ。暴発するぞ!」 「この距離なら、そうね」 早瀬は微笑み、地面を蹴る。再び突っ込んできて、祐人の盾になっていた楓を突き飛ばした。 突進を止めるには軽すぎる楓の体が、短い悲鳴とともに転がる。 完全に緊張を解いていた祐人はなんの抵抗もできずに押し込まれた。踏ん張るか避けるか、とにかく心構えをしていればできただろう。しかし反応した祐人が早瀬を押し返したのは、数メートルも押し込まれてからだった。 そして、祐人の肩に『三ッ星兄弟』が突きつけられる。 「もう暴発はないわ」 勝者の笑み。祐人は気づく。この距離は五つの自在な手≠フ有効範囲外だ。 「……待てよ。ホントに説明しないつもりか?」 「話のわかる子ってのは知ってる。でも、確実に時間を稼ぎたいの」 「まったく意味がわからん。世界を救わなくてもいいのか?」 「世界を救う? だめだめ。そんな時間稼ぎには乗らないわ」 油断なく言った早瀬の顔にわずかな力が入る。楓が能力の範囲内に近づくのを待つという祐人の策は、あっさりと看破された。問い自体は本気で訊きたいのだが。 「家出するって、あなたの声色で電話しといたげる。起きたら全部終わってるわ」 引き金が絞られる――瞬間、 「待て! 早瀬朋香。撃つなっ!」 切迫した声が飛んできて、早瀬の表情が歪んだ。横に動いた彼女の視線を追うと、そこには全速力で駆けてくる浩介の姿があった。 「戻ってくるだなんて、予想できな――」 声が途切れる。 景色が伸びる。 ひと呼吸する間もなく、祐人の視界は空色に染まった。 「ちょ、いきな――」 両足が地面を探してわずか半秒、視界は再び歪む。浩介の繋がる世界≠ナ、三人は遊園地の外、ひと気のない裏道に出た。地上から数十センチ。着地した祐人が今回は転ぶことなく堪えると、浩介は息を切らしながら忌々しげに見上げてくる。 「はあはあ、祐人が、はあはあ、頼りないから、はっ、僕が、苦労するんだ」 「おまえな、頼りないって――」 反論しかけて、祐人は口を閉じた。ばつが悪そうに視線を逸らすと、 「いや……ホントにそのとおりだな。助けられた……ありがとう」 「いいさ。僕はA、クラスなんだ。頼られるのが当然、じゃん?」 自信と自慢を混ぜた表情で、浩介は鼻を擦った。 「たく、それがなきゃ……まあいい、それよりあれはなんだ? 殺されるって感じはなかったが」 「世界を犠牲にする側の人間ってわけじゃないけど、それに近いね」 「早瀬さんは優しい人です……でも、信じてはくれなかったんです」 浩介は肩をすくめて答え、隣の楓は哀しそうに眉尻を下げた。 「はっきりしないな。世界をどう救うのかがわからないし、水原が言った逆説的の意味もわからない。俺がわかるような説明をしてくれないか?」 「したいのはやまやまだけどさ。僕らにもわからないことがあるし、わかってて教えられないこともあるんだ」 浩介が隣を見やると、楓は小さく頷いた。 「……教えられないことがあるのは、わからなくもない」 祐人は一般人で、楓たちは所属からして特別だ。 「けどな、わからないことが多すぎるだろ。協力できなくなってくるぞ」 祐人は脅すように浩介を睨む。しかし応じてきたのは楓だった。 「あの、すみません。明日……明日の午後には全部をお話します」 「明日の午後? 今日で終わらないのか?」 「祐人がすべき行動をするのに、今日だけじゃ足りないんだ」 さも当然のように言ってきたのは、曇り顔の浩介だ。 意外と面倒だな――祐人は渋い顔で思う。思ってから、世界を救う実感が薄いことに気づいた。世界が懸かっていると本当に感じていたなら、絶対に生まれない考えだ。想像さえできないが、もっとヒリヒリした緊張感の中にあるべきだろう。 しかし、緊張感など出ようがない。具体的な危機が何かもわからないし、ファミレスや遊園地でほのぼの過ごしてきただけなのだ。 さっきの襲撃が初めての緊張だったように思う。 やっぱりきちんと説明させて――と考えた瞬間、 「先輩」 楓がシャツの裾をきゅっと握ってきた。消え入りそうな声で、 「あとひとつだけです。だから――」 哀しげな表情をうつむいて隠した。 何かがある。 けれど、その中身はわからない。ただ、楓が真剣なことだけはわかる。 「……わかった。今は訊かない。けど、また何かあったらその時は教えろよ」 言葉の前半は優しく楓に、後半は険しく浩介に言った。 「ありがとうございます……先輩は気を張らなくても大丈夫ですよ」 顔を上げてきた楓は、祐人の不安を見抜いたように微笑んでいた。 「祐人が理解してくれたところで、動こう。室長にまた見つかると面倒だからね」 「どこにいくんだ?」 先に歩き出した浩介に並んで訊くと、 「祐人がいきたいところがいいじゃん」 「俺がってあのな。適当すぎだろ」 「そうでもないよ。一人でいる間に二研で細工してきたからね。もう向こうは予測で動くしかないんだけど、僕や楓が考えると読まれる可能性があるじゃん?」 どこか不自然さのある返事だったが、楓も「それがいいです」と言ってきた。 何かを隠していそうだが、訊けない。 まあ明日の午後までだし、今はとにかく。 額の汗を拭った祐人は、一番したいことを二人に告げた。 「汗、流そう」 ◇ 「祐人ってさ、意外にお金持ってるじゃん?」 緑のプラスチック椅子に座っている浩介が、隣でくっくと笑う。祐人は肩を落として見返した。二人は裸で、ずぶ濡れだ。 「コツコツ貯めてたからな。気に入ってたんだよ、あの豚は」 「なら感謝しなよ。割らずに中身だけ移動させた、僕に」 嫌味っぽく言った浩介は、泡だらけの頭を温いシャワーで流しはじめた。 かっぽーん。 そうとしか表現しようのない音が聞こえてくる。湯気で満たされた空間は庶民の憩いの場。遊園地から八駅離れた場所にある、無料貸し出しタオル有りの銭湯だった。 祐人の部屋にあった豚型貯金箱の中身が加わったおかげで、財布のダメージは完全に回復している。三人分の入浴ミニセットを余裕で買えるくらいだ。 たく、容赦なく全部持ってきやがって……ま、細かいことはいいか。 汗でべたついた体を洗う快感には、心をおおらかにする魔力がある。 コンビニでおにぎりを買って食べたあと、本屋で調べて銭湯にきたのは正解だった。 水原もさっぱりしてるかな。 泡を頭に乗せている楓を想像した。慌てて頭を振る。ぶんぶんと振る。 危なかった。 想像のカメラが楓の全身を映すところだった。 それは、とてつもなくヤバイ。 「くっく、向こうに飛ばしてやろーか?」 「をい。俺を犯罪者にするつもりかよっ」 ツッコミ気味に返して、祐人は平静を装う。ボディシャンプーを泡立てはじめた。 「なんかそーして欲しそうな顔してたからさ。違うならいいんだけど」 浩介に心を読む能力があるわけではなく、ただの推測からきた軽口らしい。 俺、顔に出やすいのか? 鏡の中の自分をいろいろな角度から睨んでみる――わからない。 わからないが、心配ごとがひとつ。 遊園地で楓を意識してしまった時の顔はどんなだったか。 もしも妙な表情をしていて、それに楓が気づいていたら。 し、してないしてない。してても水原は疎そうだし、大丈夫だろ。 「もしかして、不安? また室長に見つかるんじゃないかって」 「ん? ああ……不安がないって言ったら、嘘だ」 勘違いしたらしい浩介の問いに、祐人は本音を答えた。完成したふわふわの泡で腕を洗いながら続ける。 「けど、予測できる可能性は少ないだろ。適当に乗り換えて降りたとこだからな」 「確かにさ、銭湯なんて思いつかないよ。意外と肝が据わってるね」 「まさか誉めてるのか? 気持ち悪いぞ――て、何す、冷たいだろーがっ」 青の蛇口を全開にされた。冬なら殺意が湧きそうなものだが、 「嫌味で言ったんだ。祐人に度胸があるなんて、思うわけない」 夏でも湧きそうだ。 しかし、反撃すれば子供と同レベル以下。それを避けたい祐人はひと息吐いて、 「ま、別に度胸があるわけじゃない。あの早瀬ってのが悪そうに見えなかったし、水原も敵意を見せてなかったからだ。不安はあってもそんなに怖くはない。けど、世界を救うって実感も正直言ってない。それはたぶん説明が少なすぎるからだ」 訊かないと約束はしたが、浩介にならこっそり訊ける。今は好都合な状況だ。 「ホントに俺が世界を救うのか? あとひとつってなんだ?」 「……おまえの、命を貰う」 無理した低い声に、祐人の手が止まった。 「世界は非情っ。神舞式奥義・零鳴正拳!」 ばっしゃーん。聞こえてきた音は背後の湯船から。 「聖なる刃には光が。シャイン・ストがぼぼぼ」 たぶん、子供が沈んだ。 振り向くと、小学校低学年くらいの子供が一人、悠然と立っている。 そのすぐ前、同じくらいの子供が湯面から顔を出した。 「ずるいじゃないか。主人公は僕なのに勝っちゃうなんてっ!」 「甘いな。甘すぎる。世の理はひとつ。力なき者は死ぬのだっ」 過激な台詞を高らかに、立つ側は拳を振り上げ、 「神舞式は非情なりいいぃっ!」 湯面を叩いた。お湯しぶきを浴びて、顔だけ出ている子供が半泣きになる。 たく……何かと思えば、ゲームのまねごとかよ。 遠くを見る目になって祐人は、頬をこりこり掻いた。むかつくことに、視界の端の浩介はにやついている。 「くっく、ちょっとドキっとしただろ。俺の命を? とか思って」 「……思うかよ。世界を救えるなら俺の命くらい安いもんだ」 「ふふん。誤魔化し方が下手すぎない? あー、カッコ悪っ」 鼻先で笑われて、いろいろ訊こうとしていた祐人の気力は萎えた。大丈夫と言った楓を思い出しながら、 「ほっとけよ。俺は水原を信じてるからいい」 桶に溜まっていた冷水を浩介にぶっかけた。 「単純だなあ。でも、それでいいのさ」 浩介は自分の桶を盾にして水を防ぎ、自信に満ちた相変わらずの口調を続ける。 「祐人が死ぬ確率は新幹線事故より低いし、僕がいるんだ。心配ないね」 確かに浩介の瞬間移動は便利だ。追いかけられた時には強力な武器になる。 しかし過信はできない。ただ素早く移動できるだけの能力とも言えるのだ。早瀬が初撃でしてきたような、不意打ちには対抗できないだろう。 それに弱点はどうか。事実、早瀬は楓の能力をあっさりと無効化した。 確かめておく必要性を感じた祐人は、知りたいことを単刀直入に訊く。 「気持ちよく安心してやるから、繋がる世界≠フ詳細を教えろ」 浩介は半眼で斜めに見てきて、鼻を擦った。 「跳べる距離は見えてる範囲で二百メートル。僕の視界に入ってないと、一緒に跳べない。百メートル走くらいの体力を使うから連続はかなりきつい――って、簡単に並べてるけどね、過去に例がないレベルなのさ。いいかい? 超感覚で跳び先の状況を把握して空間置換タイプの……もう聞いてないじゃないかっ。せっかく教えてるのに」 「そりゃ、理論を知っても俺には意味ないからな。長いのは校長の話だけで十分だ」 「ち。説明しがいがないな」 浩介の不満を無視して、祐人は話を進める。 「それを知ってるやつはたくさんいるのか?」 「研究員はほとんど知ってるに決まってるじゃん。室長ならセンチ単位までね」 「室長か……敵には思えないな。水原もなんか慕ってそうな感じだったし」 さっきも似た言葉を言ったが、その印象に偽りはない。しかし祐人が鏡の中に見た浩介の表情は、不愉快そうにひどく歪んでいた。明らかに楓とは異なる雰囲気だ。 「ふん。室長は基本的にはいい人さ。行き場のなかった僕を拾ってもくれたし、いろいろ頑張ってるのも否定しない」 「嫌ってる言い方だな。間は抜けてそうだったけど、能力的にか?」 「はっきり言って申し分ないよ。あの若さで室長なのは異例じゃん」 洗う動作を止めた浩介は含みのある言い方をしてくる。 「いい人で、能力もある。なら何がいけないんだ? 俺にはわからないぞ」 「合理的だけど、極端な方法をとることがあるんだ。二研じゃマシな方なんだけど、マシなだけ。それで出世にも拘ってる。なんでか知らないけど、出世信者なのさ」 「信者?」 「そうさ。そのためにはかなりのことをする。ひどいのはあの人が作った機械だね」 「ナントカくんとか言ってた麻酔銃のことか?」 「バカだな。どう見たってあれはガラクタだろ。研究用の機械さ」 失笑した浩介は「両手で足りないくらいは作ってる」と補足し、 「その中に出世に直結した機械もあるんだ。僕らは喜べなかった機械……ふん、わかったね? 祐人も賢いじゃないか。そうだよ。僕ら能力者に負担を強いる機械さ」 「出世レースの暗部か」 「まあね。でも、できる人間が競争するのはしかたない。必然ってやつさ」 悟りを啓いた賢者のように言って、浩介は口端をにやりと歪めた。その目が「祐人には理解できないだろうけど」と嘲ってくる。 「俺はわからなくて幸せなんだよ。大学も倍率一以下を志望したいね」 「ふふん。競争するのも、祐人みたいに逃げるのも凡人らしい考えさ」 「あのな。だったら、おまえはどうなんだ? できる側にいるつもりなんだろ」 「僕くらいになるとそんな低次元のことを気にしないのさ。競争なんて、する相手がいてこそだろ」 浩介らしい言葉は、もはや清々しくさえ感じる。 しかし、好き放題言われたままでは気分が悪い。 「ほう。Aの上はありそうなもんけどな。AプラスとかSとか」 「……適当に言うなよ。何がSクラスだって言うのさ」 「例えば完全なる未来≠ニか。外れない予知なんて、Sに相応しくないか?」 自然と口から出てきたものの、祐人はその推測に多少の自信があった。 半ば予想どおりに浩介は一度静かになり、けれど予想以上に――試薬の量を間違えた科学の実験のように激しく反応した。 蹴られた空の桶が、からからと転がっていく。椅子が倒れる音が重なった。 立ち上がった浩介は敵を見るようにこちらを見下ろし、 「なんだって完全なる未来≠フ方が優れてるって思うのさ」 響かない押し殺した声で言った。そして憎々しげに続ける。 「あんな、年に二、三回しか発動しない、制御もできやしない能力なのに」 「おい、待て――」 タオルを持った浩介を止めようとして、祐人はその肩に黒い染みを見つけた。汚れかと思うが、違う。よく見るとAAと読めて、その下にも似たような染みがあった。しかしそれは潰れている。皮膚を焼いたようなそれは浩介のクラスを示すのだろうか。 祐人が痛々しい染みに目を奪われている間に、浩介は出口に向かっていた。祐人と同じで湯船には一度も浸かっていないのに。 「競争……気にしまくってるじゃないか。ちょっと言い過ぎたな」 能力者同士の競争だけでなく、研究される側の辛さまで見えた。 能力者が置かれた境遇はよくないのかもしれない。 祐人は哀れみに近い表情を浮かべて、脱衣所に出ていく浩介を見送る。擦りガラスのドアが閉じられて小さな背中が見えなくなると、再び鏡に向かい合った。シャワーで体の泡を流して湯船に向かう。 さっきの子供たちはもうあがったらしく、姿はなかった。 あごまで湯に浸かり、ひと息ついて、ふうと天井を見上げる。 視線を下にずらすと、祐人の知らない時代を思わせるタイル絵があった。富士山だ。 「せんぱーい。居ますかー? わたしは先に出まーす」 富士山の向こうから楓の明るい声が飛んできた。 左胸に感じていた痛みが和らいで、けれど、 水原はどうなんだ? 祐人は湯の中に沈んだ。浩介みたいに辛い何かを隠していないかと考える。 いや、水原から感じるのは浩介とは別の何かだ。 思い出したのは早瀬から逃れた直後、楓が隠した表情だった。 息が続かなくなって浮かび上がった祐人は、大きく息を吸う。 「わかった。俺ももう少しであがるー」 遅い返事をすると、すぐに「はーい」と声が返ってきた。 本当に少しで、祐人は湯船から出た。かけ湯をして、扇風機が回る脱衣所へ。脱いだだけの服を再び着ると、多少汗臭くも感じる。しかし贅沢は言えない。 暖簾を払いながら待合室に出て、長椅子の端っこに座った楓を見つける。 しっとりと濡れた黒髪が艶っぽくて、上気した頬が朱色で、ちょっと気だるそうに見えて――女の子の風呂上りは、免疫のない男をどきりとさせるには十分だった。 祐人は意識的に焦点をずらして近づく。 こちらに気づいた楓は顔を上げてきた。 「えへへ。もらってしまいました」 結露して冷たそうなコップを見せてくる。いつもの両手持ちに、はにかみ笑顔だ。気のせいかもしれないが、祐人には楓の表情が柔らかくなったように思えた。 何度か見た笑顔と違って、今は口元だけでなく、顔中が自然に明るいような。 「お茶? いいね。どこでもらえる?」 訊くと、答えは別の場所から飛んできた。 「そこの売店さ。タオルもそこに返せばいいって……それと、さっきはごめん」 小上がりに腰をかけている浩介だ。元気のない様子で謝ってきたので、祐人は「いいんだ。俺も悪かったから」と応えた。 「何かあったんですか?」 「男同士の話だから、水原には教えてやれない」 祐人が誤魔化すと、楓は軽く頬を膨らませる。小さな声で「むー」と唸って、非難するようにじいっと見つめてきた。 「暑い暑い。あー、喉が渇いた。俺もお茶もらってくるか」 わざとらしく言って、祐人は楓に背を向けた。 冷えていたのは麦茶だった。昼に飲んだ麦茶とは比較にならないおいしさは、無駄に全力で遊んだ小学生時代、家に帰ってきたあとに飲んだ麦茶に似ている。 途中まで一気に飲んだ祐人は、楓の隣に体半分ほど離れて座った。 『非常に強い台風七号は勢力を保ったまま北上を続け、明後日には本州に影響を――』 高い位置にある古い型のテレビが、気象情報を流している。 見上げる楓は、揃えた両足を伸ばしたり曲げたりしていた。 「ここらへん、直撃はしないか」 「そうみたいです。でも、明日の夜からは雨だそうです。ちょっと……心配です」 二人して台風の動きを見ていると、浩介も移動してきて横に加わった。 気象情報が終わると、表情の硬い男性アナウンサーが画面を独占する。 『続いて今日のニュースです。米ツアー初優勝を――』 三人は火照った体が落ち着くまでテレビを見上げていた。仲のよい兄弟のように。 ◇ 駅へと伸びる陽が落ちた道を、三人はてくてくと歩いていく。 速足で呼吸が乱れる程度の緩やかな上り坂だ。 街灯は点々と続いているが、薄暗い。ほとんどの店はもう閉店している時間で、人通りは疎らだった。コンビニとたまに通る車のライトだけが、目に痛いほど明るい。 坂の頂上にある駅から電車が出ていくのを見ながら、祐人は渋い顔をした。 「さて問題発生だ。寝る場所をどうするか」 「どこかいいところはありませんか?」 楓は祐人の隣を歩いている。乾いた髪が夜風になびいていた。 「最高のところがあるね。あのさ、少しは自分で考えてみなよ」 先を行く浩介が自分の頭をとんとんと指差す。 「公園じゃ虫が多すぎるし、水原には厳しいな。橋の下も変わらないか」 「わたしはどこでも大丈夫ですよ。公園、よくないですか?」 「去年だったか、遅くまでカラオケしたあとに公園でだべってたら、そこらじゅう蚊に刺されまくった。スカートだとたぶん悲惨だぞ」 想像だけで痒くなる。祐人はぞっとしながら楓の足元に目を向けた。 「あう。それはちょっと困ります」 口をへの字に曲げた楓は、スカートの半ばあたりをつまんで布をひらひらさせた。暗い中に白い脚が映えて、祐人をどきりとさせる。 「あのさ。これ以上ない場所だよ? そんな場所なわけないだろ」 後ろ歩きを続ける浩介は頭の後ろで手を組み、自信満々だ。 「またファミレスか? 山盛りポテトでひと晩粘るのは半端ない勇気がいるぞ」 「ビルの屋上はどうですか?」 「外れ。どっちも外れ。二人の最高ってどんななのさ」 最高と言われれば、ふかふかなベッドの中しかない。 「……ああ、そうか」 祐人が確信を持てる答えに気づいた瞬間、 「ねーねー。ちょっとちょっとぉ」 聞こえたのはハスキーに高い声。進行方向からだ。 街灯の光を背に立つ人影を認めて、三人は足を止める。 声からして若い女の子らしい。祐人より少し背が低い彼女は、光の加減でシルエットになっていた。影の形から、長いスカートと右手に持つ長箒らしき棒は見てとれる。 魔女……? ごく自然にそう思う。満月の下を箒ですうっと飛びそうな感じだ。 「やっ、浩介。ひっさしぶりだねー」 軽やかに跳ねた魔女が姿を現すと、ポニーテイルに結われた髪が揺れた。裾の長い黒のワンピースに、華美ではないフリル付きの白エプロン。髪はシンプルなフリルのホワイトブリムで留めている。長箒もよく似合っていた。 しかし魔女ではないそれは、日本の特定地域に現れる正統派のメイドだ。 「げ。奈々美」 浩介が悲鳴をあげて、祐人の体には緊張が満ちる。直感だが、このメイドは二研の関係者だ。浩介の反応からして、味方ではないだろう。 楓が体温を感じさせるほど近くに寄ってくる。その表情は不安げだ。 「浩介、元気になったんだ。心配したんだよっ」 朗らかに言いながら、少女――奈々美は浩介に近づいてきた。 「これ、戦うメイドさんなんだよ。どう? って、知らないか」 くすりと笑った奈々美の視線がこちらに向けられる。 「キミなら知ってるかな?」 「戦うメイドさん……彼杵彼方のコスプレか」 「そっ」 奈々美は一本指を立て、ウインクした。彼杵彼方は祐人が途中まで進めた和風RPGに登場するキャラで、長箒を介して攻撃魔法を使う強力な味方だ。 「一室の人です。どんな能力かは知りません。でも、確かBクラスです」 楓が緊張めいた声で囁いた。 「違うよ、楓ちゃん。あたしは先週からAクラスだよっ。あ、浩介! ちゃんとキミの対策はできてるんだから、変なことしないでね。跳んだって、三連続くらいならすぐ捕まえちゃうよ?」 奈々美は箒を右脇に抱えて、エプロンのポケットに手を突っ込んだ。 「ち。囲んだってこと? 一室にそんな人数がいると思えないけどさ」 そう言いながらも浩介は跳ぼうとしない。嘘と思っても、下手には跳べないのだ。 「くそっ。もう少しで駅だったのに」 地面を踏み鳴らし、祐人は大げさに悪態をつく。 浩介の右手が背中に回り、親指がびっと立った。 意図は通じた。その証拠に浩介は時間稼ぎをはじめる。 「どうしてここがわかったのさ。僕の位置探知システムはおかしくしたし、だいたい一室はシステムを使えないじゃん。予想も絶対無理だし、見つかるわけない」 「二室から遠見の能力者を借りて、ちょいちょいって遠隔視させたの」 「実用クラスはいないはず――まさか、過負荷装置を使ったのか」 拳を震わせ、浩介は殺気立った声で言った。 「そそっ。富士山のある銭湯が見えたみたいだよ。でも最大負荷なのにそれだけで、しかもちょっーと精神が危ないって、低クラスは大変だよね。でも、役立つにはしかたないとこかな?」 どこにでもいそうな女子高生口調で、奈々美は軽く言ってくる。 く……俺のせいか。 意味のわからない言葉が多い会話だったが、何が起きたか、祐人にもだいたいは理解できた。祐人を探すために、一室は能力者に遠隔視をさせたのだ。実用には遠いレベルの力を過負荷装置で強化し、その代償として能力者の精神にダメージを負わせて。 そのダメージがどれほどか、祐人はわからない。けれど想像したくない状態だろう。 なんでだ? 世界を救う話は嘘か? 信じて……いいのか? 疑念を抱いて、祐人は楓を見下ろす。 「先輩の責任では、ないです」 心配してくる楓に、祐人は「ああ」と内心にはない笑みを返した。 「二室からは何人借りたのさ。そんで、あと何人壊すつもりなのさ」 浩介は声に怒気を含め、それでも時間稼ぎをしている。 「もういそうにないよ? 過負荷しても、Eクラスじゃ全然だからね。そっ。ここを逃げられたら、ちょーっと面倒になっちゃうってこと。でもね、それもいいかもっ」 奈々美はポケットから手を抜いて両手を耳に持っていくと、くるりと回転した。優雅にふわりと、スカートが放射状に広がる。 その時、待っていた光が祐人の目に映った。しかし三人の位置が悪い。 「浩介っ、きたぞ!」 楓の手を掴んで走り出す。浩介の視界に入らなければ跳べない。 「んー、楽しくなってきたねっ。でも、先制攻撃はあたしから!」 言うと同時、奈々美小脇に抱えていた箒で地面を掃いた。そのまま振り上がった穂先が浩介の顔を直撃し、「ううっ」と呻き声があがる。 「やっぱね。見えなきゃ跳べないって、ちょーっと不便かな」 「奈々美の能力は洗脳だ!」 浩介が叫ぶと、奈々美は薄い笑みを浮かべた。箒を両手に持って水平に構え、目を閉じ、呪文のような言葉を高らかに紡ぎはじめる。 「我が名は彼杵彼方。魔の瞳もて、音に闇を乗せ、胸を衝く者――」 洗脳って、声かっ。 祐人は両耳を手で塞ぐ。楓の手を離すことになるがしかたない。しかしそれでも塞ぎきれずに呪文は聞こえてくる。 「すべてを開く第一の鍵は……魔の瞳」 呪文の完成とともに、奈々美が目を見開いた。 思わず、祐人はその瞳を見てしまう。抗うことはできず、吸い込まれるように。 「まさか完成して――見るな!」 一瞬遅れて届いた浩介の声に、祐人は反射の速度で視線を逸らす。しかし遅くて、頭の奥に鈍痛のような違和感が生まれた。魅入られたとわかる感覚だ。 視界が揺らいで、吐き気が込み上げてくる。耳鳴りがして、景色が歪んだ。 次の瞬間、祐人は線路沿いの暗い道に落ちていた。 少し離れた場所に、楓も浩介の二人も倒れている。 「う、く」 慣れてきた瞬間移動だったが、祐人は貧血のようになって立ち上がれない。 すぐ間近で、クラクションが鳴り響いた。 浩介の背後からひとつ目のライトが迫る。 大型バイクだ。 ブレーキがかかる。急激な減速。しかしスピードは落ちきらない。 祐人は立つ。が、間に合わない。 間に合ったのは楓だ。浩介の体に覆い被さって守ろうとする。 考えている時間はなかった。だからそれは、楓の心の反射だ。 タイヤが悲鳴をあげる。ハンドルが切られた。 重いバイクが楓の背中に突っ込んできて――ぶわっと宙に舞った。 アスファルトが突然、三十センチほど陥没したのだ。そこに前輪がひっかかって前方回転宙返り。だだんっ、と後輪から着地したバイクは楓たちを飛び越えていた。 奇跡的に倒れなかったバイクは一瞬だけ速度を落とし、そのまま走り去っていく。 「お……おい、大丈夫かっ?」 よろめく足で走り寄ると、浩介の両手が上がった。 楓を見やる。 見えたのは蒼白の辛そうな表情だったが、 「わ、わたしも……大丈夫みたいです」 立ち上がった楓は笑顔を見せてきた。肩で息をしながら、それでも両手を広げて無事をアピールしてくる。 「あのさ、楓。僕は繋がる世界≠ナ避けれたんだ。なのに下手に動くなよ。視界に入れられなくて楓と跳ぶのも無理になったじゃないか。ホントに死ぬとこだよ」 「ごめんなさい。頭真っ白になって助けなきゃって――お姉さんだから」 立ち上がった浩介に責められ、楓は涙声でうつむく。 「こら浩介。言い方があるだろーが。水原……?」 祐人はいきなり腕に重みを感じた。見ると、楓が倒れてきている。小さな体を受け止めると、瞬きする間もなく「すみません」の声とともに楓は離れた。 浩介は陥没したアスファルトを踏みつけながら苛々した声で、 「うるさいなっ。そんなのはあとだ。急がないといっちゃうじゃないか」 「あ、ああ。俺は跳んでもいい。けど水原が」 「ちょっとだけくらくらします。でも大丈夫です。だから浩介くん、跳んで」 楓は気丈に応えてきた。死にかけた怖さと、浩介に責められたショックは胸に隠したらしい。顔色が悪いのは瞬間移動酔いみたいなものか。祐人自身も吐き気を感じているし、後頭部にはまだ鈍痛がある。しかし後者は奈々美の能力によるものだろうが。 なんにしても、今は奈々美から逃げることを優先する場面だ。もう時間がない。祐人は楓の肩を支えて「跳んでくれ」と合図した。 瞬間移動のあと、祐人たちは駅のホームにいた。人影はなく、電車がある。 く……きついな。 ひどくなる吐き気を堪えながら、くたっとしている楓を引き摺るように電車に乗り込んだ。運よく誰も乗っていない。椅子の一番端に楓を座らせ、自分も隣に座った。 呼吸の荒い浩介も祐人の隣に座ってくる。 出発のベルが響いて、電車は走り出した。加速し、駅を離れていく。 「悪いな。おまえ……浩介にばっかり負担かけてる。使いすぎは大丈夫か?」 「ふふん。僕は総合ナンバーワンだ。だから、頼られるのは当然だよ」 「たく、認めてやるよ」 肩をすくめてやった。奈々美が同じクラスになったからか、自身を「総合」と冠した浩介のプライドが少し微笑ましい。そう言えば楓のクラスはなんなのか。 「水原の能力もかなりのもんだろ。あの五つの自在な手≠ヘBあたりなのか?」 「祐人ってさ、けっこう賢いよね」 当たりらしい。おもしろいが、どう使うか迷う能力だ。使い方によっては人を窒息させることもできる怖ろしい能力だが、そんな怖さはない。楓がどんな武器を持っても祐人は怖いとは思わないだろう。陳腐な表現だが、すべては使い手しだいだ。 だからこそ奈々美を怖ろしく思う。明らかに自分とは――普通とは異質だった。 「さっきの……奈々美はどんなやつなんだ?」 「中学の時に二研にきた珍しい能力者さ」 「珍しい?」 「たいていは小学校前にくるからね。奈々美は元からゲーム好きだったんだけど、一室がそれを助長するように育てた。今じゃ現実との区別が微妙になってるよ」 「なんとかに刃物だな。で、どんな洗脳なんだ? 見ちまったけど」 まだ何もない。けれど魅入られたのは確かだ。 「たぶん、完成した三つの鍵≠セ。だから奈々美はAクラスに昇格したのさ」 「三つの鍵?」 「段階を三つ踏んで暗示を完成させる能力さ。僕が知ってるのは未完成版だけど、木の鍵が視覚、魔法の鍵が聴覚、最後の鍵が触覚に働いて効果を発揮する、ゲーム好きの奈々美らしい能力じゃん。あのコスプレがわかるくらいだから理解できるだろ?」 祐人は頷いた。古いRPGに出てくる鍵の種類だ。すべて揃ってエンディングまで進むことができる。それに倣っているのだろう。 「……呪文も聞いたってことは魔法の鍵、二段階目までいったのか」 「違うね。あの呪文は雰囲気だけで無意味だよ。だからまだ一段階だね」 「そうか……けど助かったとは言えないな。で、最後までいくとどうなる?」 「魔法の鍵――言葉で効果を指定してくる。完成してるなら、なんでも指定できるはずだ。制約を加えて効果を重ねてる分、普通の洗脳じゃできないことまでできるね」 「普通とは違う……か」 よく聞くのは、洗脳では自殺を強制できないという話。 祐人はそのまま「自殺させられるってことか?」と訊いた。 「そうだよ。今までにない能力を完成させて執行部に認めさせる――一室の爺さんはそう考えてた」 一室の爺さんとは研究者か。誰だろうと異常な考え方なのは間違いない。 「首吊りも、飛び下りも、心臓麻痺まで可能さ。効果は洒落にならないね」 「次の段階に進む前に解いちゃうとかは無理だろうな」 「衝撃や時間で解けないとは言えないけど、Aクラスは伊達じゃない」 「そうか」 祐人は細く息を吐いた。一番知りたいことは訊けずにいる。 昼の遊園地、早瀬のことを思い出した。 早瀬は祐人を狙ってきた。しかし殺すのとは違った。 それなら奈々美はどうか。最悪な想像しかできない。 浩介から聞いた三つの鍵≠フ効力からすれば、そう考えるのが自然だ。そして、知りたいことはその根本にある。 早瀬や奈々美が自分を狙ってくる理由――世界を救うことのすべて。 ここまできてはさすがに確認しなくてはならない。 今はもう訊かないと約束した例外、「その時」だ。 祐人は唇を強く結ぶ。浩介を見下ろして詰問しようとし、 「水原?」 肩に温もりと重さを感じた。楓がすうすうと寝息をたてている。小さな体で懸命に動き回ってきた疲労が、そして電車の規則正しい振動が、眠りに誘ったのだろう。 それは銭湯の時のように好都合なのだが、詰問はやめた。どういう展開になるかわからないが、声を荒げることになって楓を起こしたくはない。 寝顔は穏やかで可愛くて、なんか負けたのだ。それに祐人自身も、 疲れてる……頭も回ってない。 自覚できる。奈々美の洗脳、第一段階も影響がありそうだ。 体を固めた祐人は、代わりに違うことを確認する。 「寝るのに最高の場所って、家具屋だろ。瞬間移動で中に入ればって考えだ」 「そう正解。それで、家具屋を探して決めるのは祐人の役目だからな」 営業時間終了後にベッドを三つ借りる計画だ。うまくいけば水道も、そしてエアコンの冷房も使える。 「変なドア開けたりすると、警備が駆けつけてくるから注意だな」 「あのさ。そんなことは祐人に言われなくてもわかってるじゃん」 「く……可愛くねえ。少しは水原みたいにしろよ」 肩にかかっている軽い重みに目を向けた。まぶたを閉じた楓が穏やかな寝顔を見せている。このまま目を覚まさなければ背中におぶっていこうと、祐人は心に決めた。 「愛する彼女を心配する顔だね」 浩介のからかいを無視し、祐人は思考を巡らせる。四駅先で降りて五分も歩けば、幹線道路沿いに大型の家具屋があることを思い出した。 一番奥のベッドなら外からも見えない。朝までなんとかなるだろ。 ◇ 薄暗い天井を、祐人は静かに見つめていた。 制服のまま靴だけ脱いで、固めのベッドに仰向けで寝転がっている。展示用に掛けられていた羽毛布団は、隣のベッドに楓たちの分もまとめて置いてある。 家具屋の二階にある寝具売り場だ。同じ階にトイレがあって、警報が作動しないことは確認してある。灯りは点けていないが、幹線道路に面した壁が全面ガラス張りになっていて、街灯の光が仄かに入ってくるからトイレに立つのは不自由がなかった。 入ってすぐにつけたエアコンが効いてきて、半袖には肌寒くなってきている。けれど不満のない、最高の場所だ。 車のエンジン音が聞こえて、天井に丸いライトの光がふたつ映った。 その音が遠く離れていくと、再び静けさが戻ってくる。 すうすう。隣のベッドから穏やかな寝息が聞こえるだけだ。重い足取りで歩いてきた楓は何か言いたげだったのだが、まずは休むように言った祐人に従ってベッドに寝転がると、ほとんど同時に眠ってしまっていた。思った以上に疲れていたらしい。 さらに向こうは浩介のベッドだが、様子はわからない。たぶん眠っているだろう。 落ち着いてるな、俺。 意外だった。殺されかけたかもしれないのに、怖れはない。 それはなぜか――今はとりあえず安全な状態だからだ。 誰もここを推測できないはずだし、遠隔視なんて特殊な手段はもうないのだ。奈々美の言葉が嘘だとは思えないし、一度目の瞬間移動のあとに追っ手の気配もなかったことを考えれば、浩介の言葉どおり人手もないのだろう。見つかる確率は低い。 いや……違うな。 一度得た結論を否定した。安全なはずはない。そう理由をつけただけにすぎない。 奈々美の言葉を本当だと思うのは、ただの印象だ。 そもそもの話、こちらを探す特殊な手段が遠隔視だけとは限らない。 追っ手が声を高くして走ってくるなんてことは、むしろ変だ。 疲労と反比例して、違和感の消えた頭には冷静な思考が回る。 そうか。単純に……実感がないんだ。 死ぬって実感が、俺にはない。リアルじゃないんだ。 たぶんそれが正しい。 ナイフで刺されそうになったのなら、今も震えていたように思う。けれど、奈々美の凶器は身近にはなかった不思議な能力――いや、むしろ身近にある。ゲームにはよくある能力だから、祐人自身もゲームのように感じているのだ。きっとそうだ。 一度は肩透かしと思ったが、展開は謎に満ち、世界を救う最終目的も不鮮明になってきている。 ホントにゲーム的だ。主人公としては、そろそろ謎を解きはじめないといけないんだけど、コマンドが「訊く」しかないのはすごく微妙だな。 思わず苦笑い。祐人にできることなど、ほとんどないのだ。 ファミレスでも遊園地でも、祐人は何をしたかわからない。 世界を救うどころか、むしろ楓と浩介に助けてもらったのはこちらだ。 祐人は体を起こし、隣のベッドを見やる。 楓は布団を掛けずに眠っていた。こちらを向いて寒そうに、まるで猫のように丸まっている。 衣擦れの音に注意しながら、祐人はベッドを降りた。 暗がりに目を凝らし、隣のベッドに向かう。 三枚置いたはずの布団が二枚しかなかった。 たく、ちゃっかりしてやがる。 浩介のベッドに目を向けると、掛け布団に包まる姿があった。心配してやるのは楓に対してだけでいいようだ。 布団を抱えた祐人は隣のベッド脇に立った。楓は無防備に眠っている。 をいをい。 制服のスカートが乱れていて、白い脚が見えていた。短い上着もめくれていて、スカートとの間に柔らかそうなお腹も見える。 視線を逸らした。視界の端の端にいる楓に布団をかける。 「ん……やぁ」 小さな口から漏れた吐息に、心臓が跳ねた。祐人は不自然に覆いかぶさる体勢でじっと息を潜める。背中と足が今にもつりそうで、止めた息は十秒ともちそうにない。 その息が切れる直前、楓は布団を抱きながら寝返りをうった。そのまま祐人に背を向け、再びすうすうと寝息をたてはじめる。 祐人は安堵のため息を殺し、自分のベッドに腰を下ろした。 静かになる。聞こえてくるのは自分の呼吸と楓の寝息だけ。 なんなんだろうな、水原は。 小柄な女の子からずっと感じていたのは、懸命さだ。遊園地では特にそうだった。楓の時間は、祐人の何倍も濃く流れているように思えた。見聞きするすべてを小さな胸に収めようとしてるかのような、どこか哀しげな精いっぱいが印象に残っている。 あとひとつ……か。 それがきっと、すべての答えに繋がる。けれど、何にどう繋がるかはわからない。ただ、世界を救う話は嘘だろう。そう思う方がもう自然だ。 楓の話のどこまでが嘘かはわからなくとも、真実は別にある。 真実か……なんか知りたくないな。 頭に浮かんだのは、シャツの裾を握ってきた楓の哀しげな表情だ。 祐人は自分のベッドにも掛け布団を広げると、静かに潜り込んだ。 後ろ向きなことを考えた途端、疲労した体がこれ以上の思考を拒否してくる。 今すべきは休むこと……なんだろうな。 すぐに思考は止まり、祐人は深い眠りに落ちた。 ◆ 日付が変わる頃の二研、西研究棟にあって唯一灯りが点っている三室で、 「どういうこと?」 早瀬は驚きを隠すことなく声を高めた。 彼女の前には研究員五人が揃っている。 「慌てるな。すべての報告を聞いておるわしがまとめて話そう」 「それがよさそうね。お願い」 「大きく分けて三つの報告がある。まずは予知が示す場所についてじゃが、夕方に発見されておる。廃工場であることを確認して破壊工作を試み、結論を言えば失敗した。設置した爆薬の雷管がことごとく起動しなかったのだが、その原因はわかっておらん。直前に不穏な震動を感じたこともあって、一度帰室したとの報告じゃな」 研究員が一人、首を縦に振った。幸運な発見だったはずなのに、表情は明るくない。 「次は四室からじゃが、三度の空間異常が観測されておる」 「その物言いだと、泊家付近で発生した空間異常と同種のようね」 「場所は遊園地、市街地の駅付近、そして予知が示す廃工場じゃ」 「この件に関係があるのは確実ね」 情報を理解して分析しつつ、早瀬は思案顔をした。 まさか……大変なことって、このこと? 泊祐人の「世界を救う」という言葉も気になる――が、 「どうかしたか?」 老年の男に訊かれて、早瀬は優先すべきことを現状の把握に戻した。 「いえ、続けて。四室とは連携を?」 「うむ。わしの独断でこちらの情報を幾つか渡したのだがな。四室側から情報の共有を願い出てきた。四室はこれを危険な異常事態と考えておるようだ」 「四室のことはあなたに任せてあるわ。それより、最後の報告は何?」 「関連性の、軸じゃな」 「軸?」 「四室が情報の共有を求めてきたのも、おそらくはそこが発端だ」 珍しく勿体つける老年の男に、早瀬は「言って」と促した。 「昼過ぎには不確定と伝えたが、ほぼ確実になった。一研には『完全』レベルの予知能力研究、その成果がある。四室にいる元一研の助手がその存在を知っておった」 「その助手、内容までは知らないのね。できれば、いえ、絶対に内容も知りたいわ」 「調べておる。部長のこともな」 「ふふ。言うことがないわ。わたしは有利に転ぶよう祈るだけね」 感嘆の吐息を漏らした早瀬は、二年前の記憶を引っ張り出した。 あの爺さん、嘘ついてもわからないのよね。 一研に同種の研究がないか確認した時、二研部長は「一研には『完全』レベルの研究成果はない」と断言して、いつもと変わらない薄い寒い笑みを浮かべていたのだ。 敵対が決定的になった直後のその言葉を、早瀬は疑わなかった。一研の情報を二研部長が総括することに不審な点はなかったし、別に信じる最大の理由があった。 二研部長自身が完全なる未来≠フ研究を掌握しようとしてきたのである。一研に成果があったならば、そんな強い関心を示すはずがない。過去に例なき研究だからこそ、その成果が執行部に入る足がかりとなりえるのだから。 早瀬はその判断を正しいと思っていたが、どうやら誤りだったらしい。 でも幸運ね。 早瀬は目を細める。過去のミスが今、チャンスに変わった。意図的に情報を止めていたとしたら、そこには何か――おそらく弱みと成り得る何かがある。気づいていればその時点で消えていたはずのそれが、今もあるのだ。 「楓たちを探すより、こちらから攻めることに注力した方が確率が高そうね」 「うむ。ひとつ追加になるが、位置探知システムの復旧は昼過ぎになるからのう」 研究員が出払ってオペレータだけになった間隙を浩介に狙われていた。 「遅いけどしかたないわ。伝達漏れは完全にこちら側のミスだもの」 「実に、賢い子じゃ」 浩介は新人のオペレータが一人になる時間に現れたのだ。 「もうっ、孫と同い年だからって感心してる場合?」 「うるさいのう。わしの孫は賢い上に、可愛いわい」 しわを大量に増やした老年の男を無視して、早瀬は研究員二人に指示を出す。 「行く当てはピックアップするから、引き続いて楓たちを追って」 「位置探知ができないとなるとかなり厳しいですが、全力を尽くします」 「あとは四室と連携――部長を、暴くわ」 早瀬には逆転への光が見えていた。ここをうまく立ち回れば、いつまでも上にいて邪魔な二研部長を排除できる。執行部に告発できる材料があれば、可能だ。 早瀬の指示に従い、四人が三室を出ていった。残ったのはまた、老年の男だ。 「いきましょ。爺さんに惨めな最後を用意するの」 「うむ……それにしても、ぬしは頑張るのう」 「急に何よ」 「二研を変えたいというぬしの気持ちはわかるが、無理と無茶をしておる。静かに待つだけで部長の地位なぞ手にできたはずじゃし、その方が確実だったではないか」 「それでは遅いの。わたしはできるだけ早く能力者の待遇を改善したい――チップの埋め込みや肩への刻印もやめさせたいの。二研全体の決まりごとを変えるには、上に立つしかなくて、と言うより、早く部長をどうにかするしかないの」 以前にも答えたと同じ理由を言った。すると老年の男は動くことなく、 「その裏を、知りたいと言っておる」 声を低く、視線を鋭くした。答えなければテコでも動かないという構えだ。 早瀬は睨み返し、ややあって嘆息する。重い口を開いた。 「……育った施設にね、幼馴染がいたの。念動能力を持ったその子は、ある日突然いなくなった」 「なんと。ぬしは施設出身か」 非科学研究所は全国の孤児施設に網を張っている。両親を失った子供に能力の発現が見られやすいからで、その喪失が精神に大きな影響を落とすとされているからだ。 「不思議な力があることを知っていて、わたしはこの道に入った。偶然もあってここにきて、その子が三室にいたことも知った。その境遇もね」 早瀬は「いた」と過去形で語った。老年の男が沈痛な面持ちになる。 「すまぬ。その時わしはここにいた」 「二研を変えたいと思ったのは、哀しかったからよ」 視線を逸らした早瀬は「初恋だったの」と付け加えて、 「感情だけの、個人的な理由でごめんなさい。でも、わたしには大きな理由なの」 「うむ。わかった……のう、みんな」 早瀬は「え」と驚き、背後を振り返る。出ていったはずの四人が、いた。 「暴走気味なぬしについていくには理由がいるでな。ひと芝居うったのだ」 「そう……そうね。あなたたちを巻き込んでいたわ」 「なぜに肩を落すかのう。わしらはみな、ついていこうと決めたところじゃぞ」 「でも、わたしの勝手なのよ?」 戸惑う早瀬が瞬きすると、研究員の一人が前に進み出て、 「そういう理由の方がいいんですよ。信念とかいりません」 「まったくです。人間の尊厳がどうとか言われたらついてけませんよ」 「てわけで、室長の亡き彼氏のために頑張ります」 あとを続けた研究員はにやりと笑んで、すぐに背中を向けた。一列に並んだ他の三人もそれに倣うと、映画のワンシーンのごとく廊下を歩いていく。 「……ホントにもう、カッコつけが好きな連中なんだから。練習してたみたい」 「はは。ぬしがそんな連中だけを残したのじゃ」 横を抜けいった老年の男を追って、早瀬も三室を出た。 まだすべてはこれからだが、もはや負ける気はしない。 三、敵役の事情 東向きのビルに柔らかい朝陽が射し込んでくる。 通りの反対側はガソリンスタンドで、その向こうに続くのは一軒家の屋根。朝陽を遮る高い建物はひとつもなくて、家具屋の二階はあっという間に明るくなった。 灰色の薄い闇は色とりどりの鮮やかさを取り戻して、しかし店内はまだ静かだ。 真横から射し入る光は最奥、祐人が眠っているベッドにも届く。 「む……ぅぅう」 呻いた祐人は、かすかに覚醒した意識で体を半回転させた。光を背中で受けるようにして、まぶたを透過してくる明るさを弱くする。まだ五時半……眠、い。 しかしまどろみの時間は駆け足で過ぎ、光は引き波のように後退していく。 「そろそろ……起きるか」 二度目の覚醒で目を開くと、祐人は視線をヘッドボードに向けた。 アナログの置時計が七時を示している。雰囲気を出すための小物だから正確さには欠けるが、昨日の夜に着いた時の時間感覚では、その誤差は分単位だろう。 祐人は仰向けのまま背伸びをして、思考回路のスイッチを入れた。 早く寝たからか、頭と体は順調に目覚めていく。 上半身だけ起こした祐人は、隣のベッドが空になっていることに気づいた。 先に起きた? 丁寧にベッドメイキングされたベッドは、最初に暗がりで見たのと変わらない状態になっている。まるでそこには誰もいなかったかのようだ。 不安が胸を過ぎって、祐人はもうひとつ向こうのベッドに視線を移す。 ひと安心。浩介の背中が見えた。 頭から布団を被った姿に、起きる気配はない。 ふはは。 らしくもない子供っぽさに、祐人は吹きそうになった。 まあさすがに夢じゃないか。水原は顔でも洗ってるんだろ。 苦笑して立ち上がると、窓の外を一瞥して歩き出した。 トイレに向かう。 当然だが、売り場には給湯室がない。上の階の事務室近くにはあるのだろうが、警報が鳴るかもしれないリスクは冒せない。うがいして顔を洗うのはトイレだ。 「おはよ。もうさっぱりしたか?」 タイミングよくトイレから出てきた楓に、祐人は軽く片手を上げて笑顔を見せた。 楓は戸惑いを含んだ顔で立ち止まり、 「おはようございます」 ぎこちない笑みを返してきた。表情は冴えず、はっきりと元気もない。眠る直前まで何か言いたげで、今もそう見える楓は、昨日のことを気にしているのだろう。 祐人は気づかない顔してすれ違うと、トイレに入った。洗面所で手を洗ってうがいをすると、正面の鏡を見やる。 やっぱな……今日も跳ねてやがる。 しつこい寝癖は今日も健在だった。 「ダメか」 濡らした手で撫でつけるがどうにも直らない。いつもはムースで固めてしのぐ相手なのだ。数度繰り返してもやっぱり直らない。 「水原と行動するわけだからな……ここはなんとか」 ひたすらに髪を押さえながら、楓を元気づける言葉を考える。けれど髪は直らず、言葉も見つからない。だんだん苛々してきて、祐人は半濡れの髪を睨みつけた。 くそっ。こうなったら強引にやるしかないぞ。 頭を下げる。寝癖部分に直接水をかけた。 三秒後、顔を上げて正面を見やると、 や……やりすぎたか。 鏡の中の自分は、右肩まで土砂降りに遭ったようになっていた。後悔して、しかしもう遅い。天気予報は台風前の猛暑と言っていたから、すぐに乾くだろう。 祐人はエアータオルで手を乾かすと、トイレから出た。すぐ正面の壁に楓がもたれていて、足を止める。 「せ、先輩。どうしたんですか?」 ひどく驚いたらしい楓は、目をいっぱいに開いた。表情に出た素直な感情が、祐人を安心させる。右半身を濡れ鼠にしたことは無駄にならなかった。 「ん? まあ、いろいろあったんだ。それより何か用か?」 苦笑いで問い返した。 「布団をかけてもらったお礼をしようって思ったんです。先輩ですよね?」 「寒くて途中で起きたからな。ただのついでだ」 「そんな。ついででも、ありがとうございます」 楓は丁寧に一礼すると、口元を真一文字に結んだ。 祐人も口元を引き締め、楓の小さな口から言葉を出てくるのを静かに待った。 沈黙はふた呼吸。 「あ……あの、すみません。嘘なんです」 楓は怯えたように細い声を絞り出して、目を伏せた。 予想していたことに、祐人は驚くことなく膝を折る。 「わかってた」 楓の顔を下から見上げて、優しげに声をかけた。最高のつもりの笑顔を見せる。 「もちろん、怒ってもないぞ。世界を救う話が嘘でも、水原たちが真剣なのはよくわかるし、何かはあると思ってる。その何かの中身を知りたいけどな」 不自然極まりない笑顔だったが、気持ちはきっと伝わった。 「ありがとうございます」 目尻に浮いた雫をそのまま、楓は微笑む。けれどすぐに表情を硬くして、 「でも、先輩。嘘と言うのは――」 「このエロオヤジがっ! 死ね!」 「ぐはっ」 殺意ある声は浩介。肺が潰れたような呻き声は祐人。 それらに掻き消されたのは楓の悲鳴だ。 祐人は呻くと同時に楓を見失い、次の瞬間に天井を見て、最後に床を数ミリの距離から見つめた。左肩に受けた衝撃を遅れて感じ、今の一瞬を思い返す。 結論――つまりは回転しながら吹っ飛んで、床を舐めたのだ。 「だだだ、大丈夫ですかっ」 慌てた声の楓が肩を揺らしてくる。 「ああ」 けっこうな痛みだったがそれを隠して立ち上がり、 「おまえなっ。いきなり何すんだ」 跳び蹴りを放った体勢でいる浩介を睨んだ。 「ちっ。弱かったか。元気に生きてるじゃん」 「どうして蹴飛ばすの!」 祐人が言い返す前に声を荒くしたのは、瞳を怒らす楓だ。 「あれ? 祐人が楓を虐めてるようにしか見えなかったんだけど、違う? なんだ。それならスカート覗いてる変態の方か。げ、どっちでも最悪じゃん」 「もう、先輩はそんなことしません。わたしが謝ってただけなの」 浩介を叱りつける楓に出番を奪われ、祐人はこりこりと頬を掻いた。 水原の気持ちをうまく切り替えるじゃないか。 小生意気な少年の行動に感心しつつ、けれど反撃をしないわけではない。祐人は浩介の頭を両手で掴んで、こめかみあたりを思いきりグリグリしてやった。 「痛い痛い。やめろ、バカ祐人っ」 手足をバタつかせる浩介を放り投げ、祐人はいつもの顔に戻って楓の方を向く。 「話を戻そう」 「あ、はい。えと……」 「待ちなよ。話すなら僕が話す。楓より上手に説明できるからね」 楓の前に歩み出た浩介は、半歩の距離から睨み上げてきた。 「全部、僕が考えたシナリオなのさ。もちろん世界を救うって嘘もね」 「え?」 楓が目を丸くすると、浩介は「いいから」と、自分の手順で説明する意志を示した。 「まあ、考えたやつから聞くのが一番だ。さあ言え。嘘ついたのはなんでだ?」 「祐人を巻き込むためだ。待った。まずは最後まで聞けよ。いいかい? 薄々は感じてるかもしれないけど、能力者の待遇はよくない――じゃなくて、ひどいんだ。一室の低クラスなんかはもうただの研究材料で、マシな三室にだって自由はない……ほとんどの能力者は二研の外に出たことがなくて、それは楓も同じなんだ」 研究される側の冷遇は銭湯でも感じた。低クラスの扱いがひどいだろうことも、奈々美の言葉から知っている。 「僕は繋がる世界≠ナ自由だけど、位置探知チップが埋め込まれてる」 浩介は左胸を親指で示した。なぜ見つからないのかと疑問に思った祐人は、細工をしてきたと浩介が言っていたことを思い出して、細工の中身を察した。 「僕らは所詮研究され続けるだけの存在――それは、高クラスだって変わらない。三室は名前で呼ぶけどさ、他は番号だ。楓は三二〇七番、僕は一三六五番……奈々美は一三三八番って……そう、僕らは囚人と同じなんだ」 吐き捨てた浩介は拳で空を殴る。身を縮める楓を一瞥して、さらに声を荒げた。 「わかる? 楓はさ、二研の外にも出られずに、娯楽なんてテレビくらいで、なんにも楽しいことができずに生きなきゃいけない。友達なんていなくて、祐人もそんなに多くはなさそうだけど、楓には――本当に僕くらいしか、いないんだ」 唇を噛んで話を終えた浩介の意図を、祐人は理解した。小生意気なだけと思っていた子供は、外の世界を楽しませる機会を楓に与えたかったのだ。 「俺がするべき行動ってのはつまり、水原がやりたいことか」 「笑うかもしれないけど、僕らにとっては夢と同じさ」 「そう……か」 ファミレスで堅実な将来を話した時、楓は憧れたように瞳を輝かせ、浩介はムカついていた。二人には思うことさえできない夢への、両極端な反応だったのだ。楓の懸命さも、たまに見せる哀しげな表情も、今という時間が泡のような夢だからだった。 黙っている楓を見やり、祐人はすべてを理解する。そして、別の疑問が生まれた。 「俺を巻き込んだのはなんでだ?」 「祐人がいれば、ファミレスに入りやすいからだよ」 「それなら俺でなくても――てか、入りやすいってだけかよ」 「あのさ、楓一人に遊園地を回らせるのか? 僕は細工をしなきゃいけなかったし、最後は学校なんだ。勝手のわかるヤツがいると楽じゃん?」 肩をすくめた浩介は、嫌らしく口の片端を歪めた。 「祐人を選んだのは、ひひ。ゲーム好きのお人好しって情報を見たからさ」 妹と偽らせた理由はまさかゲーム好きだからか。偏見にもほどがあるのだが、 たく、いつの間に調べたんだ――って、二研か。なら簡単に……ん? 「二研は俺を狙ってるよな。なんでだ?」 「祐人が狙われる理由は予知だよ。楓が話した完全なる未来≠チて能力は本物さ」 「どういうことだ?」 「予知の内容は単純。祐人がその予知能力者を殺すって予知だ」 真実は唐突に告げられ、祐人は惚けて、浩介は続ける。 「二研が祐人を狙うのは、予知を成立させないためだよ。うちの室長もしばらく前から祐人の監視を続けてたんだけど、一室が奈々美を使って強攻策に出てきた。まさかの予想外で僕もだったけど、室長も驚いて焦ったんじゃないかな。それでも殺すことはしたくなくて、ひとまず眠らせる手段をとろうとしてる――たぶんそんなところさ」 「……あ、え――てことは、予知能力者を救うために俺を……か? おいおい、それは冗談になってないぞ」 命を狙われているのは察していたが、その理由は想像外だった。 「冗談じゃないさ。全部ホントのことだ」 「俺が人を殺すはずない――って、無意味か。結局は二研がどう決めたか……だ」 落ち着きを戻しながら、できるだけ冷静に判断する。申し訳なさそうに、そして辛そうにこちらを見ている楓を見返し、浩介を信じると結論を下した。的中するかどうかはともかく、予知の内容と狙われた事実の間に矛盾はないのだ。 ただ、心の片隅ではかすかな不協和音を感じた。それは靴の中にある小石のような違和感で、原因はわからない。 だから手がかりを、唯一見えない浩介の目的に求めた。 「おまえはどうなんだ? 何がしたくてここにいるんだ?」 「祐人たちと逃げ回れば、くっく。二研の連中が泡食うじゃん?」 浩介は喉の奥で笑って、隣の楓をちらりと見やる。 「浩介くん……えと、ありがとう」 「いいのさ。僕は僕ですごく楽しんでるから、楓は楓であとひとつをすればいい」 照れたように言って、浩介はぷいとあらぬ方を向いた。 違和感の原因には繋がらなかったが、わかりやすい反応だ。 「おまえ、水原のこと――」 「祐人ってさ! やっぱロリコンだろ。昨日の夜もじっと楓を見て――痛っ」 祐人は指先で浩介の額を弾いていた。悔しいが声を先に大きくした方の勝ちで、引き分けにするには実力行使しかなかったのだ。 「さてと、開店前には出ないとな」 祐人は話を区切って楓を見やる。わかっている答えを、敢えて求めた。 「俺がすべき行動、最後のひとつを教えてくれ」 「先輩と浩介くんの優しさが嬉しいです。でも……」 「大丈夫だ」 狙われていることを心配しただろう楓に、祐人は軽い口調で言う。 「俺の分析によれば、見つかる確率は低い」 楓が望んだ最後のひとつくらい、叶えたいと思った。 たく……単純だな。 世界を救うことは曖昧で大きすぎて実感がなかったけれど、目の前にいる女の子を笑顔にすることは、心の底から大切に思える。主人公の動機なんて、そんなものだ。 「向こうにはもう遠隔視がなくて、予測でしか動けない。俺に割いてる人数は少なそうだし、見つかる要素は、ない」 昨日の夜に自分を偽りかけた言葉を、楓を欺くために使った。 楓は両手を胸に重ねて、眉尻を下げてくる。 「先輩は……死ぬことが怖くないんですか?」 不意の問いは、祐人の声を詰まらせた。 しかしそれは一瞬で、開かれた口からは本音が零れる。 「正直、わからない……けど、怖くても逃げない。俺は――」 ひと呼吸。 祐人はまっすぐに楓を見つめた。 「主人公だからな」 響かせたのは真剣な声。 似せたのは昨日の台詞。 けれど気持ちは昨日よりも強くて、おどけやカッコつけとは違う。楓が我慢しようとしているささやかな夢を叶えたくて、それを言わせたくて、 「さあ、ヒロインがアップになる場面だ。台詞は、言えるな?」 「先輩……」 くしゃっと、楓の表情が崩れる。 瞳を潤ませて、 唇を震わせて、 「わたし」 泣きそうな顔になって、 「学校に、いってみたいです」 ずっと抱えていた最後のひとつを、はっきりと口にした。 祐人は「ああ」と強く頷いて応え、 「それで、どこがいい? 中学あたりか?」 「あ……えと、先輩の通ってる学校が……」 言葉は途中で途切れた。張られている可能性があると思ったのだろう。 「そうだな。俺が案内できるのはそこしかないからな」 濡れた頭を掻いた祐人は選択肢が他にないことを示すと、 「よし、ベッドを直して出掛けるぞっ」 売り場の方をびしっと指差した。 「あ、はいっ」 祐人の勢いに負けたように返事をして、楓はととっと走っていく。 「ホントにいいのかよ。室長や奈々美に見つからない保証はないじゃん」 残った浩介は頭の後ろで手を組み、眉間にしわをつくりながら寄ってきた。 「なんとかなるだろ。早瀬が相手なら死にはしないし、奈々美が相手でも逃げれないことはない。水原を満足させたあとのことは、その時考える」 「ふーん。カッコつけるじゃん。ご褒美で少し安心させたげるよ」 「ほう。なんだよ」 「逃げるのは長くて数日だ。僕が付き合ってやる。それから室長たちは楓がいきたがる場所を幾つか知ってるんだけど、一室はまったく知らない。知りようがない」 「なるほど。問題は早瀬だけか……さんきゅ。楽に――痛っ」 祐人は浩介の頭をぽんと叩き、ぐーで腹を殴られた。 「濡れた手で触るなよ」 トイレに消えていく浩介を苦笑いで見送り、祐人はベッドに向かった。 ふと、不安を感じる。早瀬や奈々美のことではない。 心の片隅にある違和感が、まだ消えずに残っているのだ。 何か、見落としているような。 もうひとつ別の答えがあるような。 そこには辿り着きたくないような。 そんな不透明な不安はしかし、待っていた楓の明るい表情によって霧散した。 ◇ 校舎の一番高いところにある大時計は九時過ぎを示していた。 よし、大丈夫そうだな。 校門を抜けて敷地に入ると、並木が四階建ての校舎まで続いている。右手には緑のフェンスを挟んで駐車場があり、さらにその向こうには土のグラウンドが見えた。 野太い掛け声と高い金属音が定期的に聞こえてくる。練習好きが集まる野球部だ。 楓と並んで歩く祐人は緊張していた。 小生意気な少年はいない。家具屋を出たあと「三室を混乱させてくる」と不敵に笑って二研に向かったのだ。おかげで早瀬たちと出くわす確率は減っているのだが、 誰もいない……はず。 祐人は落ち着かない様子で校舎の三階を見た。よし。 「え? 先輩、何か言いました?」 心の声が漏れたらしい。祐人は「何も」とだけ返して目を細めた。 校舎へ続くアスファルトの上に、遊園地でも見た逃げ水が見える。 端っこなら木で遮られる……念のためだ。 お盆のこの時期、学校にいるのは物好き集団の野球部くらいなものだが、いないとは限らない。真ん中を無防備に歩いていては上の階から丸見えだ。 祐人は並木の下、濃い影の中に移動した。しかし楓はついてこない。 「こっちの方が涼しいぞ」 「苦手なんです。その……毛虫が落ちてきたら」 楓は首をすくめて並木を見やり、怯えた顔をした。 作戦は失敗だ。祐人はバツが悪そうな苦笑いで頬を掻くと、楓の隣に戻った。 「中庭でいっぱい落ちてきたことがあるんです。それから木の下は怖くて」 「そうか。俺も苦手はあるし、気にするな」 「先輩が苦手なものってなんですか?」 「きゅうり」 恥ずかしそうに答えて、夏らしい青空を見上げた。視線を戻して言い訳を続ける。 「食べられなくはないんだけど、青臭い感じが苦手なんだ」 「えと……好き嫌いは、よくないです。栄養が偏っちゃいますよ」 注意した楓は悪戯っぽい笑顔で見上げてきた。 「でも、えへへ。実は、わたしもきゅうりは苦手なんですっ」 弾むように歩を速めた楓は、たたっと祐人の前に出る。 くるりと反転すると、後ろ歩きで祐人を見つめてきた。 笑顔だ。けれど、表情は一瞬に陰る。それを隠すように楓は背を向けた。淡くて儚い夢の時間なのだと、わかっているのだ。 なら、せめて今日くらいは願いを叶えて――いや、できれば明日も。 胸に鈍い痛みを感じながら、祐人は歩を速めて楓に追いついた。 横に並ぶと楓はこちらを見上げ、「あっ」と短い悲鳴をあげる。 「ん?」 祐人は楓の視線を追いかけ、グラウンド側の空を見た。視界いっぱいの青が、中心から白に塗り変わっていく。 なっ――硬球だ。野球の硬球だ。 当たれば痣ではすまない勢いだ。 完璧な直撃コースだと、認識した瞬間にはもう遅い。覚悟さえ間に合わない。が、直後に白球は急変化。頭を掠めて、ひゅん。風切り音だけを耳の奥に残した。 蒼白になって、祐人は背後に首を回す。大きく跳ねた硬球が見えた。 「せせせ先輩っ、怪我はないですかっ?」 「あ、ああ……大丈夫だ。にしても、昨日から似たような台詞ばっかり聞いてるな」 あわわと瞳を揺らした楓に、祐人は両腕を広げて見せる。腰を捻って無事であることを示した。 「本当に――本当に大丈夫ですか?」 眉尻を下げて、楓は背伸びをしてくる。 「大丈夫。ほら、どこも当たってないだろ?」 怪我を確かめたかったらしい楓は祐人をぐるりと一周して、やっと安堵の表情を浮かべた。 「ま、なんだ。主人公ならこれくらいの運がないとな」 映画やゲームの必然とは違うが、自慢できる幸運だ。 その手前まではやたらと不運なわけだが、それこそが主人公らしい。 「きっと日頃の行いがいいんです」 「いや、それはないな。昨日、不法侵入したばっか――」 祐人が茶化そうとした瞬間、地面が揺れた。 下から突き上げてくる衝撃はしかし、二人が声をあげる間もなく収まる。直後に地面の下からぶちぶちと、編まれたロープが一本ずつ切れるような音が聞こえてきた。 「うおっ」 音が動いてそれを追うと、グラウンド側へ倒れていく一本の木が見えた。数秒でその木はフェンスに当たり、支えられるようにして止まった。いびつに盛り上がった根元からは太い根が飛び出している。聞こえたのは根が切れた音のようだ。 「と、止まったか……短いけどでかかったな。他で被害がなけりゃいいけど」 「はい。えと、先輩は優しいですね」 微笑んだ楓の表情はしかし、どこか陰って見えた。なぜかを知りたくて楓の目を見た祐人に、声変わりを三回したような低い声が飛んでくる。 「当たりませんでしたかー? お、おおっ? 泊じゃないか」 「まじい」 首をぎしぎし、錆びた機械のように回すと、黒く日焼けした顔が見えた。ゴツくてデカい野球部員――悪友の高坂が、こちらの焦りも知らずに走ってくる。 祐人は楓を隠すように立つと片手を上げ、平静な顔で自分から話を振った。 「よっ。昨日ぶり。今の地震、でかかったな」 「あーん? でかい地震だと? そんなんねーぞ」 帽子を脱いで、高坂は額の汗を拭った。それにしても無駄に大きな声だ。楓の元気は微笑ましいと感じるが、こちらはひたすらに暑苦しいだけである。 「おまえは怖ろしく鈍いな。たく、見てみろ。今の地震で倒れたんだ」 祐人が視線で示すと、高坂は無感動に「ほー」と見やった。しばし眺めたあと、怪しく笑う。 「よっしゃ。職員室には俺が報告してやろう」 「……おまえなあ、ただ練習サボりたいだけだろ」 「十メートルダッシュだけはきちーんだよ――て、お? おお? 他の学校の?」 上半身を斜めに、高坂はこちらの背後を覗き込んできた。祐人が無表情に動いて背後を隠すと、悪友は体を起こしてニヤニヤ笑いを向けてくる。恐れていたお約束的勘違いだ。クラスメイトならともかく、この悪友なのは本当に最悪だ。 「学校でデートたあ、やるな。つーか、泊ってロリ?」 「あのな」 放っておけばどこまでも勝手に勘違いして、いつまでもネタにされる。 「親戚だよ。来年ここを受験するから下見に連れてきただけで、なんもない。てか、真顔でロリとか言うな」 ため息混じりに否定して、冷たい視線を返した。 悪くない誤魔化しだろうと思っていると、 「なんだそーか。セキュリティーがどーとかうっさいから、先生に見つかるなよ」 高坂は帽子をかぶり直すと、白い歯を見せてきた。信じたかどうかが微妙な表情はしかし、祐人にはわかる。これは信じていない笑みだ。 「じゃ、そろそろ戻るわ。あれは俺が報告するからほっとけよ」 「ああわかった。うまいことやれよ」 軽く上げた祐人の手をぱんと叩き、高坂は「そっちもな」と駆け出した。転がっていたボールを拾って戻っていく。 「たく、あの馬鹿。休み明けが怖すぎるぞ……ん?」 肩を落としたところで、楓の嬉しそうな表情に気づいた。 「今の言い訳、ずっと考えてたんですか?」 「校門あたりからな。まあ無駄だったけど」 「先輩って、彼女いないんですよね?」 「は?」 予想外の問いに、祐人は一瞬遅れて答えを返す。 「いないな。モテないって、前にも言ったろ」 「えと、言ってました」 「あれはホントだ。まあそういう要素がないからしょうがない。手品は微妙だしな」 進学校で人気のある男は限られている。そこそこには顔がいいことを最低条件に、スポーツが得意とか笑いがとれるとかの要素が必要になる。ワルっぽい雰囲気をまとう方法も有効だが、百パーセント祐人には似合わない。 祐人は言ってみればそこそこの塊で、目立つ部分がないのだ。 そういう男は、自分から行動に出て彼女を見つけるしかない。 ないのだが、祐人はしていない。好きな子がいた時期もあったけれど、勇気も自信もなくて、ただ想うだけで終わった。そして今は、気になる誰かもいない。 「要素――あると思いますよ。だって先輩は優しい。わたしの言うことを信じてくれたんです。すごく、嬉しかった」 「まあ、水原たちの能力を見れば誰でもな。あれで信じなかったらおかしい」 「それから、いろいろつきあってくれました。優しいですよ。今だってそうです」 「優しいって言うか、流されてるだけだ。考え方が単純なんだよ」 「単純なのがいいんです。だって、それは裏がないってことです」 「いや、途中ではいろいろ考えてはいるつもりだぞ。損得も計算してる」 「むー。先輩は自分のことを蔑みすぎです」 頬を膨らませた楓は、不満そうに睨んでくる。けれどややあって、急におろおろすると口を手で覆った。 「す、すみません。つい……先輩があの、あんまり――」 「いいって。ちょっと、まあ、なんだ……俺も嬉しかったし」 頬を掻いて視線を逸らすと、視界の端で楓は表情を変えた。顔中で喜びを表しながら正面に駆け出ると、可愛らしく上半身を傾けてくる。 「先輩はどうして言い訳を考えてたんですか?」 「誰かに会ったら勘違いされそうで、されたままになったら困るからだな」 「あう……困り、ますか……あ、でも勘違いされるって思ったのは――えへへ。ちょっとまあ、えと、わたしも嬉しいです」 祐人のまねをした楓は、スカートをひらひらさせて走り出した。 「勘違いされると迷惑になりますから、先にいっちゃいますねっ」 途中で振り向くと、明るい笑顔で軽口を言ってくる。 小さな背中を立ったまま見送り、祐人はまた頬を掻いた。どうにも楓のペースになっているが、嫌な気はしない。遊園地の時と同じで楓の笑顔が自分にも嬉しい。 けれどこれが「ごっこ」であることを思うと、楓の笑顔が逆に哀しくも感じる。 こういうのでも……優しいって言うのか? 歩き出した祐人は、ほとんど駆け足の勢いで昇降口までいった。 昇降口は生徒が上履きと土足を履き替える生徒用玄関だが、南北に二棟ある校舎の間から飛び出すように設置されていて、南棟の真ん中にある来客用の玄関よりも目立っていた。そのためか、外からの訪問者がよく迷い込む姿が見られる。 それが幸いして、楓は祐人の上履きがある昇降口の前で待っていた。 「えと、先輩の教室はどっちにあるんですか?」 「こっちの三階だな。こっからだと奥だ」 南棟を示した。一階に職員室があって、二階以上が普通教室なのだ。対になる北棟はと言えば三階建てで、特別教室と文化系の部室が集められている。三階までの各階は渡り廊下で結ばれ、移動には不便がない設計だ。 「先輩の教室にいきたいです。席が見てみたいんです」 「俺のか」 昨日の忌まわしい事故が頭を過ぎって、祐人は机とロッカーの中身を思い出した。ほぼ空で、見られて困るものはない。 「いいだろ。けどこっそりな」 「はい」 楓が囁き声で頷いて、祐人は自分の下駄箱に手を伸ばす。蛍光グリーンのスリッパを取り出して履き替えた。 「これ、便所ぞうりって言われてるんだ。変だろ」 「あはは。二研と一緒なんですね」 狙いとは少し違ったが、楓は笑ってくれた。 「水原も適当に借りちゃえよ――て、嫌か?」 「嫌じゃないです。でも……」 「ああ、相手か。気にするな。くるわけないし、休み明けに気づくこともないって」 「そうですか。それじゃ、感謝しながら借りちゃいます」 はにかんだ楓に、祐人は視線の高さにあるスリッパを渡した。 履いた楓はつま先をとんとん。苦笑いした。合わないらしい。 「んしょ」 背伸びした楓は元の位置に返そうとして、手を滑らせた。スリッパが落ちて――途中でふわりと浮いた。ゆらゆら揺れながら上昇し、下駄箱に戻っていく。 「便利だな。ん? さっきのボールも水原か? そいや、昨日の本棚も?」 「す、すみません。違います。えと、本棚もです……あっ」 悪くもないのにしゅんとした楓は最後に笑顔を咲かせて、 「でも、コップはそうです」 「コップ? ああ、俺が放り投げた……そうか。割れなかったのは水原のおかげか、ありがとな。それにしても水原の能力っておもしろいな」 暗部に放った本に話が向いたら困ると、祐人は話を今に戻した。 「そうですか? えと、触ってみます?」 答える前に、祐人の右手は透明な何かに触れる。感覚だけで握ると、そこには確かな弾力があった。楓の力が生み出す空気の玉は、圧し固めたゴムかスポンジのようだ。 「ホント、おもしろい力だな。俺にもこんな能力があったら――」 楽しそうと言いかけ、祐人は慌てて口を閉じた。能力者の境遇を思い出したのだ。 「そんな顔しないでください」 楓が気遣いの笑顔で見上げてくる。 祐人は「ああ」と、強引に笑顔を返した。 「えへへ。サイズぴったりの見つけました。いきましょう」 二人は昇降口を出て、南棟の入り口へ向かった。 「なな、なんだかどきどきします」 両拳を胸の前で握り、厳しい顔の楓は姿勢を低くしてついてくる。 入り口は開いていて、無用心だった。周辺で事件が起きたことのない学校のセキュリティはまだ甘く、夏休みでも生徒の出入りはかなり自由なのだ。 「ちょっと待って」 一階の奥にある職員室の様子をうかがい、誰もいないことを確認する。 いくぞ。 右腕にぴたりとくっつく楓に、視線で合図した。 音を立てない速足で祐人が先行し、すぐに楓が続く。 階段を上りはじめると、むわっと熱を帯びる空気が不快にまとわりついてきた。それは二年の教室が十室並ぶ三階の廊下も同じで、窓が全開だった昨日でもきつかったことを思うと、夏休みが存在する真の意味が知れる蒸し暑さだった。 祐人は楓と並んでゆっくり歩き、簡単な説明をしていく。 「俺はG組だから、奥から四番目」 「こちらからは七番目ですね」 「ああ。手前からAだ。で、このAとBが特別クラス。デキるやつらの集まりだ。けどまあ、普通の連中だな。休み時間まで必死に参考書読んでる黒ぶち眼鏡はいない」 「そうなんですか。むー。勉強になります。なるほどです」 律儀に返事をしてくる楓は、忙しそうに視線を動かしていた。 背伸びして、教室の中を覗き込んで、窓の外にも目を向けて。 ここでもやっぱり懸命な楓を見守りながら、祐人はG組の前まできた。 「で、ここが俺の教室。ここまできて鍵かかってたら――て、おい」 「開いちゃいました」 楓は自分の頭に片手を乗せ、えへへとはにかむ。 「いやまあ、よく考えたら普通教室に鍵なんてないか」 教室に入ると、四十近い机と濃い緑の黒板が目に飛び込んできた。前後にドアがあるごく普通の教室なのだが、空気の熱だけは廊下以上に普通ではない。 祐人は廊下も含めて窓を全開にし、空気の入れ替えを試みた。 「風が、入ってきますね」 窓際に立つ楓の髪が流れる。グラウンドを見下ろしている瞳は、物憂げに見えた。 「授業のまねごとでもしてみるか?」 「え? あ、はい。それは素敵です。でも、見回りとかはないですか?」 「中途半端な時間だからな。たぶんないと思うけど――ッ」 軽く答えた瞬間、ガラリ。廊下から窓を閉める音がした。 祐人の位置からは見えない。しかし気配がある。隣の教室あたりまで開けておいた窓を閉められたのだ。 見回りか偶然かわからないが、教室の窓も閉めにくるだろう。 まずっ、逃げ――無理か。隠れるしかっ。 焦る祐人の目に、スチール製の掃除道具入れが映る。 足音に気をつけて楓に駆け寄ると、その手を握った。 「え? あっ……先輩、あ、きゃっ」 そのまま楓の足が浮くかのように引っ張っていき、抱きかかえるようにして掃除道具入れに飛び込んだ。 扉を閉めようとして、指を挟んでしまう。閉じられない。 目の高さにある細い空気穴に指をかけようとして、できない。 当然だが、掃除道具入れは内側から閉じるような構造になっていないのだ。見回りの先生が半開きの扉に気づき、閉じようと近寄ってくる可能性は低くない。 「指を引いてください」 吐息を頬に感じて、祐人は慌ててそれに従った。 すぐに扉がすうっと動き、ぱたんと閉じられる。 どうやって? そうか――楓の五つの自在な手≠ェ外側から扉を閉めたのだ。 直後に教室のドアが開く音がする。 空気穴から見えたのは、頭が薄くて、けれど固い担任だった。 ほっとして、どきりとする。 薄暗い中、見つめてくる楓はほんの数センチの距離にいた。抱きかかえられた状態で足を浮かし、ぎゅ。落ちないようにか、祐人の体にしがみついている。 楓が小柄だからこそ、なんとか二人が収まれる狭い空間なのだ。息遣いが聞こえるどころか、小さな胸の上下運動さえも感じる。 熱い、頬が。 跳ねる、心臓が。 止まる、呼吸が。 と――不意に、楓が肩のあたりに顔をうずめてきた。柔らかい髪が鼻をくすぐって辛い。細い腰を抱く腕が、重さではなくて別の何かに震える。 無心になろうと、祐人は目を閉じて数を数えた。 永遠か。 一瞬か。 「先輩。もういなくなりましたよ」 「え、あ……おうっ」 楓の声が聞こえて、祐人は確認もせずに掃除道具入れを飛び出した。担任の姿は確かになくて、寄ってきた楓に「大丈夫ですか?」と訊かれる。弱い声で「ああ」とだけ返すと、壁にもたれかかった。息を整えるように二回深呼吸。なんとか落ち着く。 楓は影を踏むほど近くに立つと、なぜだか嬉しそうに見上げてきた。 「先輩の顔、赤かったです。狭くて苦しかったからですか?」 「あ、ああ。暑かったしな」 祐人の反射的な嘘に、楓は目を伏せる。 「そうですか」 呟くと背を向け、拗ねて小石を蹴るようにして歩き出した。その後ろ姿は寂しそうに見えたが、机の群れの中でぱっと振り返ると、 「えとっ、先輩の机がどれか、教えてくれますか?」 明るい表情で両腕を広げた。 数歩歩いた祐人は、教室の最後部にある机の上に座った。 「ここ。居眠りには最高の場所だ。まだ見つかったことはない」 「む。ダメです。もったいないじゃないですか」 楓は隣の席に、きちんと椅子を引いて座った。 「先輩もちゃんと椅子に座ってください」 目元を鋭くしたつもりらしい楓に睨まれて、祐人は机から椅子に移動する。横に視線を向けると、はにかみ笑顔があった。 楓は背筋を伸ばして前を向き、そっと目を閉じる。 「こんなふうに……先輩と授業を受けたかった」 哀しそうに呟いた。 「……まだ、わからないだろ。なんかの拍子で水原も入学できるかもしれない。さすがに俺と一緒は、俺も留年したくないから無理だけど」 単なる気休めだと、祐人自身が痛いほど感じる言葉だった。 「そうですね」 楓は表情の陰りをわずかに残して微笑むと、いきなり口先を尖らせた。 「でもひどいです。わたし、言いました。子供じゃ――」 「世界を広げる第二の鍵は、闇の声。ひと言ならば、心臓麻痺。左胸を打たれて止まったまま、二度と動くことなき心の臓」 楓の声を遮って響いたのは |