| へべれけさん 著作 | トップへ戻る | | ||
〜ある老人の話〜 |
|
真夏の太陽が照りつけるグラウンドから乙女達の声が聞こえる。
乙女と言っても数年前は、の話であるが。 日曜の午後。商店街対抗ママさんソフトボール大会準決勝は正念場を迎えていた。七回の裏ツーアウト、一・三塁。西方寺フライヤーズ最後の攻撃はネクストバッターズサークルに四番を残したまま終了しようとしている。 「吉田さーん! 諦めないでー! 私まで回してくれれば絶対に打つから!」 バッターボックスに立った吉田さんは四番の汐見ねこから檄を貰うと、確固たる決意を込めて半歩前に動いた。 三点のリードを受けた辻野宮ビッグマミーズのエース三上は余裕の笑みを浮かべている。過信も有ったのだろう、ついついコントロールが甘くなった。 ツーストライク、ツーボール。一球遊ぶつもりで投じられた変化球はボール二個分インコースに外れ、半歩バッターボックスを移動した吉田さんの肩を直撃した。 「デッドボール!」 審判がコールする。 吉田さんは軽く肩を押さえて一塁ベースへと歩き出した。 「ねこー! 頼んだわよ、こっちは乙女の柔肌痛めてまで塁に出たんだから絶対打ちなさい!」 「ま〜かせて!」 平均年齢三十二歳の西方寺フライヤーズにあって唯一の十代。未婚で彼氏募集中の汐見ねこは満を持して打席に立った。ホームランが出れば一打逆転のチャンス。ベンチは固唾を飲んで見守っている。 ランナーを背負い、前打者を歩かせたエース三上に隙はない。ねこは早くも追い込まれていた。野球と違いファールで逃げる事もできない。 ねこはバットをグリップエンドぎりぎりに握り直した。エンドランはない。そう判断したエース三上は内角ストレートで充分だと思った。 決め球が投じられる。 狙いは空振りの三振であった。コントロールを重視した軽い球は、モーションに入った瞬間バッターボックス内で半歩退いていたねこのバットにすくわれた。 「ぜっこーきゅー!」 キンっという澄み切った金属バットの音色。 キャッチャーは立ち上がり、マウンドの三上は呆然とバックスクリーンを見つめていた。 いつしか会場の熱も冷め、残っているのは幾人かの選手だけである。 「悔しいィィィ!」 ベンチで地団駄を踏んでいるのは誰あろう四番ライト汐見ねこであった。 スコアボードの七回裏の得点は『0』となっている。結局の所ねこはホームランを打ち損ねたのだ。フェンスぎりぎりのセンターフライ。もうひと伸び足りなかった。 「なに言ってんの? こっちはいい夢見させて貰ったわよ。万年最下位だったウチが準決勝まで残れたんだから! 皆ねこのおかげよ」 三児の母、吉田さんがそういうもののねこの表情は釈然としない様子である。 「もう、ねこったら。相手はあのビッグマミーズよ? 負けて当然でしょ」 「そんなことない! 皆がんばったもん! 運命なんてクソ食らえよ!」 「嫁入り前の娘がそういう事言わない。さっ、帰りましょ。買い物行かなくちゃ」 「エッ? もうそんな時間? ……ヤダ、時計止まってる〜。サ〜イテ〜」 高校の卒業祝いに親から貰った腕時計の針が、十二時前で止まっている。ありふれた国内メーカーのクオーツだが大事に扱っていた。どうやら電池切れらしい。 「どうしよ。これからデパート行くのも嫌だな〜」 ねこが腕時計を耳に当てたりして止まっている現実を受け入れるのに苦心していると、吉田さんはさも当然のようにこう言った。 「ウチの商店街に時計屋さんがあるじゃないか。ホラお爺さんがひとりでやってる」 「時計屋さんって、あの犬がなんとか言うアソコ?」 「そうそう、犬神時計店よ。今ならまだ間に合うわ。行ってらっしゃいよ。時間だけならケータイでも分かるけど、それはアンタの宝物なんでしょ?」 「……そうね。うん、ありがとう吉田さん。これから行ってみるわ」 ねこはようやくベンチから腰を上げた。 去り行くねこの背中に吉田さんの声が突き刺さる。 「ちょっと! アンタまたバット忘れてるわよ!」 ――西方寺商店街。 大きなアーケードが空を覆う、昔ながらの下町である。駅裏にデパートができてからは客の流れも変わってしまったが、下火と言う程の過疎化は免れていた。 日も傾きアーケードの外は茜に染まる。 夕飯も近い、食べ物屋からはより一層いい匂いが漂ってくる。一試合終えたねこの胃袋を特に刺激したのは肉屋のコロッケであった。 鼻孔が自然と膨らみグルルっと腹の虫が鳴く。週に三度の花屋のバイトで生計を立てている家事手伝いの身には酷な状態であった。時計の修理にもいくら掛かるか分からない。ここはグッと我慢の子である。 「ここ……だよね?」 商店街の最奥にある寂れた店舗の前でねこはひとり呟いた。 掲げられた看板には犬神時計店と霞んだ文字で書かれている。時計修理よろず承り候とも謳っているので、吉田さんに勧められた店はここで間違いなさそうだ。 シャッターはまだ降りていない。営業時間内ではあるらしかった。だがショーウインドウから中を覗いても店主の姿は見えない。 このまま突っ立っていても仕方がないと、ねこは入店口のドアノブを押した。 カランコロンと鴨居に仕掛けたベルが鳴る。それに負けないカチカチという時計の音がねこの耳朶を打つ。 店内は十坪程度の狭い敷地で腕時計の陳列されたショーケースがふたつあった。壁には古めかしい鳩時計と並び、額に入った写真が掛けられている。被写体は国籍もまばらな白衣の男達でレンズに向かって爽やかな笑顔を向けていた。 ねこが暫らく店内を見回していると、店の奥からひとりの老人が現れた。白髪、丸いレンズの銀縁メガネに切り揃えられた口髭がなんともコミカルである。 「いらっしゃい。なにか御用かな?」 咥えた木製パイプを口から離し、ぎごちない笑顔を作る。 ねこはその笑顔になにか引っ掛かるものを感じながら、ユニフォームのポケットから止まってしまった腕時計を取り出した。 「あ、えと、これなんですけどォ。なんか止まっちゃって……」 「ふむ、では拝見しましょう」 老人はメガネを持ち上げ目を細める。リューズを二〜三度回転させると、電池切れだとねこに告げた。 「十分くらい待ってくれれば交換できるよ? どうするね?」 ねこはそれくらいならと思い老人の勧めで店内で電池交換を待つ事にした。 カチャカチャと老人が腕時計の裏蓋を開ける音がする。年の頃ならもう喜寿も近いだろうに手付きも達者なもので、ねこはこれなら百まで生きるなと密かに感じた。 手持ちぶたさのねこが再び写真に目をやる。先程、老人の笑顔に感じた既視感に合点がいった。 「これお爺さんですか?」 写真の中の日本人に指を差す。すると老人は、はにかみながら相づちを打つ。 「へへ……過去の栄光って奴だね。これでも昔は学者でね。ヨーロッパで講義なんかもしていたんだよ」 「わっ博士なんだ! お爺さんすご〜い。じゃあ今は悠々自適に楽隠居ってわけだ」 「はは。それはどうかねェ。先の見えたつまらん毎日さ。連れ合いにも先逝かれちまったしな」 「お子さんは〜?」 「若い頃、家庭をないがしろにしてね。息子には嫌われてしまったよ。いまじゃ孫がたまに顔見せに来るだけさ……ホラ、あがったよお嬢さん」 「はや〜い! お爺さん若いな〜」 「若い娘がなんちゅう事を言っとる! まったく面白い子だな」 パイプを燻らせながら老人が言う。 ねこは再び時を刻み始めた腕時計をはめ上機嫌だ。老人に修理代二千円を支払い、また来ていいかと尋ねてみた。 「ん〜? あぁそうだな……お嬢さん名前は?」 「汐見ねこ。お爺さんは?」 「犬神万楽。ねこさんや、君は必ずもう一度ここに来る筈だ。その時はぜひ”はい”と言って欲しいもんだな」 「どういう意味?」 老人――万楽はくくく、と笑った。 不可解な彼のセリフには訝ったものの、その時のねこにはそれ以上の追求は無意味に感じた。よくある寂しい老人の世迷言。 ねこには万楽の哀しいジョークに感じたのだ。 ――日もすっかり落ちた頃。ねこは自宅の居間で一息ついた。 「あ! バット忘れた!」 本日二回目の忘れ物は時計屋の壁に立て掛けたままだ。万楽の不可解な予言は俄かに現実味を帯びる。 「まさかね……」 一瞬だけ背筋を走ったゾクリとする感覚を飲み込んで、ねこは西方寺フライヤーズのユニフォームを脱ぎ捨ててシャワールームに消えて行った。 翌日ねこは市の図書館に足を運んでいた。 凛とした静けさの中、古い新聞記事を机上に広げ平日の図書館を独占している。嫁にも行かない家事手伝いのなせるワザだ。 新聞は古いもので三十年前の日付もある。確認しているのはある科学者について書かれた批判記事であった。 ――昨夜の晩御飯。食卓に上った話題のひとつに犬神時計店の話があった。母いわく犬神万楽なる人物は昔、この界隈では知らぬ者はいない程の有名人であったそうだ。 地元が出した物理学の世界的権威ということで、当時は政財界の後押しもあって様々な大学にその名前を連ねていたが、ある事件をきっかけにして彼の名前は表舞台から忽然と消えてしまったという。 時計店の主に収まったかつての天才科学者の哀しい笑顔が、ねこの脳裏に妙に纏わりついていた。どうせバットも取りに行かねばならないのだ。話のネタにと少し調べ物をすることにしたのである。 「え〜と。犬神博士の論文に世界の物理学会が揺れる?」 三十年前の新聞記事にはそう書かれていた。 地方欄に載っていた本当に小さな事件だった。ねこがこの記事を見つけたのは偶然以外の何者でもない。 難しい事はねこには理解できなかったが、万楽は気が触れたのだと書かれていた。あの老人の哀しい笑顔の背景をねこは少し垣間見た気がした。 ****** カランコロンカラン。 ドアに付けられたベルを鳴らして、ねこが犬神時計店を訪れた。二日続けての来店。当たり前のことだが店内に変化はない。だが今日は店主の犬神万楽が最初から店番をしている。 「おじ〜さん! まった来ったよ!」 愛用のパイプを美味そうにふかして万楽は微笑んだ。 「十一時か……ま、こんなもんだろう」 「エッ?」 「いや、こちらの話だよ。用事はこれだろ? ねこさんや」 万楽は腰掛けたカウンターの中から長い合革のケースを取り出した。ねこは照れ臭そうにそれを受け取ると舌をペロっとだして礼を言う。 「へへェ。忘れちゃいました。お爺さんの言う通りになったね。占い師でも食べていけそうね?」 「占いか? そうだな。忘れ物の事までは気が付かなんだが、ある意味占いと同じかも知れん。そんな研究を昔はやっておった……」 遠い目をする万楽。ねこはその表情にあの哀しみを感じ取った。 「ジャーン! これな〜んだ?」 ねこはバックから古めかしい装丁の本を取り出した。背表紙には図書館の銘が入り、そのすぐ上には著者である犬神万楽の名があった。本のタイトルは『確定された事象の観測における量子論的考察』である。ねこには海の物とも山の物とも見当が付かなかった。 「これは懐かしい……図書館へ行ったのかい? 処分されたもんだとばっかり……冥土の土産にいいもの見たな」 「なに急に老け込んでのよ? 本当は元気なくせして。昨日ね、母から聞いたの。お爺さんは有名人だったのよって。それで気になって色々調べてたんだけど……」 ねこが急に言いよどむ。それを察した万楽がさも有りなんと目を閉じた。 「どうせ、ろくな記事は残ってなかったろ? 若気の至りという奴だ」 「お爺さんはなにをやっていた人なの? どうして、研究を続けることができなかったの?」 ねこの率直過ぎる問いに万楽は暫し沈黙した。ややあってパイプを燻らすと、ぽつりぽつりと語り始める。 「もう三十年は前になるか……わしはオックスフォードで研究を続けておった。専門は量子物理学でな。素粒子の観測ではそこそこ名も知れておった」 「は、はァ……」 まだ序盤だというのにねこの頭脳は思考を停止していた。高校時代の物理の成績など思い出すだけ無駄である。テストで赤点を免れるだけの勉強で近代物理学を語れという方が土台無茶な話であった。 万楽はそんなねこを気遣うことなく話を続ける。いつしかその目には生気が宿り始めた。 「ねこさんや。アンタ未来についてどう考えるね?」 「エッ? 未来? そうねェ……いまよりももっと便利になって平和が続けばいいと思ってるわ」 「それにはなにが必要かな?」 「人間ひとりひとりがもっとちゃんと地球の事を考えたり、お互いを思いやる事……かな?」 「ふむ。それはとどのつまり、人間の心掛けひとつで未来は変えられるという事かな?」 「そうよ。私は運命なんて信じない。自分の人生だもの。やりたい事くらい自分で決めるわ」 「そうか……当時のわしは未来とは不動のものだと仮定した。もしそうであるならば、観測することが可能だと考えたのだよ」 「未来を……観測? 冗談でしょ?」 「当時もさんざんそう言われたよ。難しい説明は省くがね。この世で起こるあらゆる事象を、時空を伝達する波動であると仮定する。空間を媒質に時間という縦波が生じる時、粗密波で言えば密なる状態を現在としよう。その先、微かではあるが伝達された波があるのであれば、それはまぎれもなく確定された未来。存在が確定されているのであれば観測は可能であるとわしは考えたのだ」 「なにが省いてあるって?」 万楽としてかなり噛み砕いて説明しているのだが、それでもまだねこには充分難解であった。だが賢しい現代っ子のねこが万楽の研究自体に即物的な価値を見出すのにはそんなに時間は掛からない。 「結局、未来が分かるってことでしょう? 凄いじゃない! 競馬の予想でもすれば大儲けよ?」 「それはちと違うなねこさん。確かにいまのわしなら当たり馬券は幾らでも分かる。だがな、それをわしが買えるかというと全く別の話になるんだ」 「どゆこと?」 「もし明日のレース結果を観測したとしよう。おそらくほぼ百パーセントの確立で全レース的中させられる。次にわしがその当たり馬券を買えるかどうかを観測してみる。結果、買えるという観測データが出ればわしは儲かるが、買えないという結果が出れば絶対に買えない。レース結果だけ分かっても意味ないだろ?」 「エッ? なんでそんなことになるのよ? 結果が分かっているなら買えばいいじゃない?」 「さっきも言ったが、未来はすでに確定しているんだ。遠い未来ほど観測にズレは生じるが、二十四時間以内の観測データはほぼ百パーセントの的中率と言っていい。無理に未来を変えようとしても無駄だよ。〈事象の強制力〉が働くんだ」 「〈事象の強制力〉ってなによ?」 「慣性の法則は流石に知っとるな? あれと同じだ。起ころうとする事象は変化しにくい。未来を知った人間が結果を変えようとしても、時空には慣性のような強制力が働くから改変は不可能だ。繰り返し起きる粗密波の粗の状態でそれは強く現れ、事象に大きく影響する。馬券の例で言えば、買う直前で販売が終了したり金が盗まれるという現象が起きる筈だ」 「え〜なによそれ〜! じゃあサイアクの未来が分かっていても結局変えられないってわけ?」 「さっきから何度もそう言っとるだろう。人生なるようにしかならん。悪あがきはせんことだ」 「……そんなの納得できない!」 ねこは頬を膨らませてそう言った。そんなねこを見て万楽はなにやら楽しげだ。カウンターに置かれた自身の著作物と目の前にいる負けず嫌いな女を見比べる。 万楽はパイプの吸い口をきつく噛み締めた。 「ねこさん。ゲームをしよう。未来に逆らってみないかね?」 万楽の老いた心臓が早鐘を打っている。頭の中は妙に静かで店内を満たしている掛け時計の音ですら聞こえてこない。 彼女の答えを彼は一日千秋、いや一秒千秋の思いで待った。 万楽の視線がねこの口元に注がれる。ポッテリと厚みのある艶やかな彼女の唇がゆっくりと動いた。万楽は言葉よりもむしろ唇の動きで意図を理解する。”はい”であると。 ねこの顔には不敵な笑みすら浮かぶ。 快活な十代の女性の具現だとでも言わんばかりに自信に満ちた瞳である。万楽にはそれだけでも眩しかった。 暫らくして万楽が店の奥へと姿を消す。再び現れた時には両腕に大きなパラボラアンテナを抱えていた。 「なにそれ? いまから有料チャンネルでも見るわけ?」 ねこはカウンターの上に置かれたそれを怪訝な眼差しで見た。どこからどう見ても普通のテレビアンテナ。一般家庭のベランダなんかに据え付けられたアレである。 「見るのはアンタの明日の姿。これが確定事象観測装置EPRオブザーバーだよ。まぁこれはただのアンテナなのは事実だがね。本体は大き過ぎるんで奥に置いてきた」 よく見ればアンテナの後ろからは二本のケーブルが出ていた。 一本は長く。店の奥の方まで伸びていっている。本体という言葉の響きにねこは昔懐かしいテレビゲームを想像したが、見当違いである可能性が高い。 もう一本のケーブルにはUSB端子が付いている。その先にはノートパソコンがあり、万楽がなにやら操作している。どっちかと言えばそのパソコンの方が本体のようにねこには思えた。 「いまは便利な世の中でな。人間ひとり分の観測データならノートパソコンで充分演算できる。学会を追放されて時間だけはやたらとあったからな。ソフトは納得いく物ができたよ」 「……なんで科学者まで辞めちゃったの?」 「わしらの業界ってのは異端児に居場所はないんだ。未来観測なんていう誇大妄想を当時の偉いさん方はお気に召さんかったらしい。それにこの機械で自分の将来もあらかた見ちまったし、この世にもう未練なんぞ有りはせんよ」 「そういうのって哀しいよ。もし私が未来を変えられたなら、また人生に希望って持てる?」 「そうかも知れんな」 万楽はモニター画面を見たまま答える。抑揚のない彼の返答には未来は変えらないという無言の意味合いが含まれていた。 それをひしひしと感じたねこはまたぞろ負けず嫌いの血が騒ぐ。 「ぜぇっっったい、改心させてあげるわ! 覚えておきなさい!」 「はいはいっと。……よし、できた」 ガタガタとプリンターが動き出す。 A4の用紙に合計二十枚の観測データが出力されたが、ねこに渡されたのは最後の一枚きりだった。 その紙には明日の起床時間から夕方に掛けての彼女の行動が、約一時間ごとに簡単な単語で記されている。 ねこはそれをジッと見つめながら頷くと、今度は万楽に視線を移した。 「勝負ね。お爺さん」 「あぁ一世一代の大勝負だ。また明日会おう」 ねこはその会話を最後に店を出た。 三回目の忘れ物はないようだ。観測データにも忘れ物を取りに行くとは記載されていないので間違いないようである。 明朝、汐見ねこは目覚ましに頼らず自然と起床した。不快な電子音による目覚めでは有り得ない爽快感が全身に満ちてゆく。 窓を開け、気持ちのいい朝の空気を浴びる。 ふと目にした机上の腕時計は午前七時を示していた。 「ウソ! なんで?」 慌ててベッドに舞い戻り、目覚まし時計を確認する。針は二時の手前で止まっていた。 「止まってる……恐るべしだわ〈事象の強制力〉……」 昨日、万楽から貰った未来の観測データには起床は七時と記されていた。ねこは検証を兼ね目覚ましの鳴動時間を三十分進めておいたのだ。結果、時計は電池切れを起こして役に立たず、普段起き慣れた時間に目が覚めたというわけだ。 ねこは万楽の言わんとした事を今頃になってようやく理解した。 ――朝っぱらから若干の敗北感を感じながら、ねこは居間へと降りてきた。父を会社に送り出した母親は流しで洗い物をしている。 テレビは朝の情報番組にチャンネルが合わされ、かわいい女子アナが近所の動物園がどうこうと言っているがねこの耳には入っていない。 深煎りのコーヒー片手に観測データの記載されたプリンタ用紙を睨みつけている。眉間には深い縦じわが寄り、母親に顔が怖いと注意される始末だ。 七時 起床 九時 外出 十時 濡れる 十二時 買う 十四時 西へと走る 十五時 病院へ行く 十六時 手紙を読む 「偉そうな事言ってた割には大雑把よね。意味不明なのもあるし、なによ西へと走るって。青春ドラマじゃないんだから」 改めて記載内容を確認すると、やたら抽象的な文が目立つ。午後からの行動ですらあまり具体的ではない。 「こんなもの簡単にしのげるわ。ようは外へ出なきゃいいのよ! そうすれば全部の予想を裏切る事ができるじゃない。甘いわね犬神万楽、この勝負貰ったわ!」 鬼の首でもとったかのようにねこが笑う。 するとテーブルの上で携帯電話が震えた。 「もしもーし。あ、ミサキ〜! おひさ〜、へェ〜番号変えたんだ〜」 通話の相手は高校の同級生。懐かしさも手伝って、暫し観測データのことを忘れる。 「え? うん、うん、うん。あ、全然平気〜! そこってアレでしょ? 駅前の? うん、分かった。じゃ〜また後でね〜。ばいば〜い」 電話を切って思い出す。〈事象の強制力〉の事を。 「ハッ! はめられた! くっそ〜……」 己の忘れっぽさには決して触れないねこなのであった。 ****** 俄かに雲行きが怪しくなる中、ねこは駅前にあるカフェへと向かっていた。外出時間だけでも前倒しにしようと尽力したが、母親に要らぬ用事を押し付けられ、結局九時過ぎの出発になった。これ以上遅らせると相手を待たすことにもなる。観測データを覆すのは次なる項目へと望みを託した。 ねこは歩きながら天を仰ぐ。 「降りそうね……降水確率十パーだったから傘持ってないのよね〜。ここは……勝負!」 そう言うが早いか、ねこは健脚を生かして駆け出した。 混みあう繁華街を縫うように突っ切り、待ち合わせのカフェへと急いだ。 決断の早さが功を奏したのか、雨が降り出したのと、ねこがカフェに入店したのとがほとんど同時であった。 ねこは席に案内されると窓の外を見てほくそ笑む。 「ふっ。観測データがなんぼのもんよ! 運命は自力で切り開くものよ、おじーさん!」 「ご注文お決まりになられましたか?」 若い女性店員が温和に尋ねる。足元では親子連れの客の子供達がきゃっきゃと走り回っていた。 「あ、待ち合わせをしているので、後で――」 「きゃ! ああ! すいません、お客さま! すぐタオルをお持ちします……」 水の入ったグラスをテーブルへ置く際、店内を走り回っていた子供が店員に激突した。バランスを崩した店員の手からはグラスは滑り落ち、ねこの太ももに水をぶちまける。汚れても気にならないジーパンだったのは不幸中の幸いだが、当の親子はそそくさと店を出て行ってしまった。 「ぅおのれェ〜運命め〜」 もはや怒りの矛先さえ見当違いであるのにも気が付かず、ねこは苛々を募らせ友人を待った。その後、通り雨も止み。ランチを済ませて繰り出した午後の買い物に拍車が掛かったのは言うまでもない。 ――友人と別れた頃には時計の針も十四時を回っていた。 両手はバーゲンセールの春・夏物で塞がっている。ねこは意地でも西へは行くまいと、携帯電話のナビ機能まで活用して自宅へ向かっていた。幸い彼女の家は北にある。西方寺商店街の西とは印度のことであるらしい。 いままで使った事がないような珍しい道路を歩く。 下町の情緒にタップリと浸れる古民家が軒を連ねる町並み。燻し銀の瓦が、傾きかけた日の光を反射しキラキラと輝く。 ねこのささくれ立った感情も、次第に小波へと変わりつつあった。 ただひとつ気になる事があった。巡回中の警察官の多さである。 一区画通るたびに違う警官と出くわすのだ。彼らの共通点は制服と、手に大きな網を持ってやや上方、古民家の屋根を見ていることだった。 ねこは少し立ち止まる。 訝しげに首を捻るが、警察官を呼び止めて事情を聞くのもなんだか気恥ずかしい。どうしたものかと思案していると、背後から男の怒声が響く。 「おい! 危ないぞ! 避けろ!」 「へ?」 間抜けな声を出してねこが振り向く。すると突如として視界が暗転する。 「きゃあああ!」 びっくりして転んだねこの上に、毛むくじゃらの赤ら顔が小首を傾げる。それは一匹の雄ザルだった。 「待てこの野郎!」 警官の声に反応して、サルはねこから離れ逃げてゆく。口には戦利品のようにデパートの紙袋を咥えて。 「あァァァ! 私のお洋服ゥゥゥ!」 即座に立ち上がったねこは自慢の健脚で追跡を開始する。サルの向かった方角などもはや問題ではない。少ない生活費から捻出したバーゲン品を取り返す事がなりよりの優先事項であった。 「待ァァァてェェェ!」 現役時代は県大会二位の実力を誇った長距離ランナーのねこが猛烈な追い上げを見せる。サルも追いつかれまいと必死の形相だ。特に野性の本能で感じ取った、ねこの怨念にも似た気迫がサルの恐怖感を煽っている。 古民家を屋根伝いに逃走していた雄ザルが、急に通りの交差点へと飛び出した。道路には自転車や歩行者もいる。困惑したサルは動きを止めてしまった。 ねこは耳を澄ます。近くから車のクラクションが聞こえる。 「あの馬鹿ザル!」 止まらない大型トラック。サルはまだ動けない。ねこの脳裏には一瞬、病院へ行くの文字が躍ったが足を止める事はなかった。 「怪我なんかしてたまるかァァァ!」 気合いを入れて交差点へ飛び込んだ。 ねこは雄ザルを抱えるとそのまま反対側の道路へと転がってゆく。トラックの運転手は罵声を上げながらその場を去った。道路に残されたのはズタボロになったワンピースだけである。 「もう! このおたんちん! びびって動けなくなるくらいなら最初から飛び込むなっつーの!」 雄ザルも命を助けられた事が分かるらしく随分と大人しい。 ねこは自分の身体にも異常がないことを確認すると「勝った」と思わずガッツポーズをした。 雄ザルを抱きかかえ辺りを見渡す。 ぼろ雑巾のようになったワンピースには正直哀しくなったが、道路脇でうずくまる少年を目の端に捉えるとドキリとした。 「ちょっと君――」 ねこは絶句した。 少年の右足があらぬ方向へ折れ曲がっていたのだ。暴走トラックの登場で動けなくなっていたのは雄ザルだけではなかったのだ。少年は青ざめた顔をして悲鳴すら上げられない程の痛みに耐えていた。 「きゅ、救急車! 早く!」 ねこは近くにいた警官に雄ザルを引き渡し救急車を呼ぶように叫んだ。頭の中にはただ少年の安否だけが気に掛かり、観測データを覆すことなどいつの間にか忘れていた。 「本当にありがとうございました!」 「いえ……」 病院の待合室で頭を下げられるねこ。彼女に感謝しているのはトラック事故に巻き込まれた少年の母親である。 あのあとすぐ救急車が到着し、現場を知る者としてねこも一緒に乗せられたのであった。トラックの運転手も直後に捕まったが、少年を轢いた事は否認している。 とはいえ少年は一命を取り留めた。 安堵に涙する母親の顔を見ると心から良かったと思える。が、しかし未来を観測するというEPRオブザーバーの事が頭にもたげる。老科学者・犬神万楽の手によるそれは今日ここに至るまでのねこの未来をことごとく的中させてきた。 残るは一項目のみとなったが、それは一番不可解な予言とも言えた。 ねこはプリンタ用紙を手に小首を傾げる。 「手紙を読むって……どゆこと?」 時計を見るとすでに十六時半。 ここまで来ると全部当たって欲しいと願う矛盾した気持ちすら芽生えてくる。そんな事を考えながら、ねこが帰ろうと待合室の長椅子から腰を浮かせた時。 ねこと同い年くらいの青年が突然彼女の前に現れた。 「汐見ねこさん、ですよね?」 青年は落ちついた口調でそう言った。彼は二言三言、言葉を付け足すと、ねこにある病室まで来て欲しいと頼んだ。 ねこは青年に乞われるままその病室に訪れた。ひとりの老人が横たわるベッドの傍に。 「お爺さん……」 犬神万楽は静かに眠っていた。 すでに呼吸装置や点滴すら外されており、ただ傍らに置かれた心電図だけが弱い心拍を打っている。 万楽の孫を名乗る青年は告げた。意識不明の状態であると。 「昨日の晩、急に……。聞かされてはいたけど確認するまで信じられなかった」 「どういう事?」 「あなたもご存知の筈だ。EPRオブザーバーを」 「あッ……」 「そうです。祖父はかつて自分の未来を観測したんです。そして自分の最後を知った。僕も小さい頃にはよく聞かされたけど、子供を喜ばせる作り話とばかり……まさか、本当の事だったなんて……」 「お爺さんは自分の最後をなんて?」 「誰ひとり信じてくれなかった自分の研究を、縁もゆかりもない女性が実証してくれるんだと、そう嬉しそうに語っていました。そしてあなたにこれを渡すようにと、昨晩倒れている祖父の傍らで見つけました」 涙を堪えながら青年が懐から取り出したのは一通の封筒だった。 どこにでもある何の変哲もない茶封筒。宛名は”汐見ねこさま”となっている。 「祖父は昔から自分の最後に書く手紙はラブレターだと冗談めかして言っていました。ねこさん、どうか……どうか、祖父の意図を汲んでやってください」 震える青年の声を聞きながら、ねこは万楽の顔を見た。 まるで肉親の臨終であるかのようにベッドにすがりつくねこ。シーツが濡れるまで、自分が泣いていることすら気が付かなかった。 「まだ! まだ、生きてるんでしょォ?」 嗚咽が裏声になって口をつく。 青年は床に視線を落とし首を横に振った。 「あ……あぁ……おじぃさぁん……」 ねこの悲痛な泣き声は部屋中を哀しみに包んだ。握り締めた茶封筒がクシャクシャになる。ねこは万楽との会話を思い出していた。 ――過去の栄光だよ……つまらん毎日さ。 ――息子には嫌われてしまったよ。 ――未来は不動であると……観測できると考えた。 ――〈事象の強制力〉 時空には慣性のような強制力が働くんだよ。 「お爺さん……?」 ねこの脳裏になにか違和感が生じた。ふと右手を見てみるとそこにはクシャクシャになった万楽からの恋文。しわを伸ばし、ねこは茶封筒を正面から見据えた。 「あの……ねこさん?」 青年が怪訝そうな視線をねこに向ける。先程までの狼狽振りがまるで嘘のようだ。 ねこは軽く深呼吸をする。 心をゆっくり落ち着かせるともう一度万楽の寝顔を見た。深く閉じられたまぶたと真っ白な肌。息をしているのかどうかももう分からない。 ――もしかしたら失敗するかも。 ねこの感情は昂った。 最後に大きく息を吸い込み、思いっきり茶封筒を破った。 「な! ねこさん、あんたなんて事を!」 祖父の純情を踏みにじられ青年は激怒した。 だがねこはベッドに食らいついて必死に叫んでいる 「お爺さん! まだ勝負は着いてないわよ! 起きなさい! 一世一代の大勝負なんでしょ? 見逃したら大損よ!」 ねこが万楽の手を握り声を掛け続ける。起きろ、起きろと。 「あんたいい加減に……」 青年がねこの肩を掴み、敬愛する祖父のもとから引き離そうとしたその時。 万楽の枯れ枝のような指が、ねこの手を握り返した。 「あ、あぁ!」 驚愕する青年。心電図は再び力強い波形を作る。 「せ、先生を呼んできます!」 青年のいなくなった病室にふたりだけの世界が生まれる。 ゆっくりとまぶたを開けた万楽の目に、泣きはらしたねこの顔が映った。 「……余計な事をしよって……」 「素直じゃないのね。嬉しいって言えば?」 「ははは……」 ねこに気遣われ身体を起こした万楽は床に散らばった紙切れを見た。自嘲気味だった笑顔は屈託のない少年の笑顔に変わり、ねこを愛しそうに見つめる。 「手紙を読まなんだか。よく気が付いたの」 「未来は絶対変わらないんでしょ? だったらそれを利用することもできるじゃない。観測結果に翻弄されるだけが人間の運命じゃないわ! だから私は未来に逆らい続ける! この勝負、私の勝ちね!」 ベッドの上の老科学者がかぶりを振った。 その表情に敗北の悲壮感は感じない。 「まったく気の強い娘だな! 今回は引き分けだ!」 「な、なんでよ?」 「わしの分の観測データが古過ぎたんだ。なんしろ二十年前に一度調べたきりだからのう。観測数値にズレが生じたんだな。てっきり意識不明のまま死ぬもんだと思っとったよ」 「え〜、なんか言いわけがましくない?」 「うるさいな! それよりいま何時だ?」 「十六時五十五分」 ねこは万楽に直して貰った愛用の腕時計を見た。 「よし、ギリギリ間に合うな。ねこさんや、そこのペンを取ってくれ」 万楽はベッド脇に置かれたサインペンを手に取ると、真っ白なシーツの上に年甲斐もなく、 ”I love you!” としたためた。 「これで文句なく引き分けだろ?」 万楽からあの哀しい笑顔はもう消えていた。 これからは一緒に笑いあえる親友ができたのだから。 おしまい |