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ブレーデダールへの転勤を命じられたとき、来るべきものが来た、と感じた。
日本人なら誰でも名前を知っている大手ゼネコンに就職して六年が経過していた。そろそろ一人の人材としてどこまでやれるのか厳しく評価されてくる時期だ。そんな中で、僕は会社内で自分がどう評価されているかある程度わかっていた。 与えられた仕事はきちんとこなすが、自分の意思を持って仕事に臨もうとしない。積極性に欠ける。日頃の上司からの叱咤激励から推測するに、だいたいそんなところだろう。 「その若さでは異例のことだけどな、ここで踏ん張って何を見せられるかが勝負だと思え。期待してるぞ」 急に呼び出された応接室で転勤の件を伝えた後、課長はいつも通りの笑顔でそう言った。日に焼けた肌、腹から出る大きな声。高校時代は甲子園に行ったという経歴を持つ彼はいつもバイタリティに溢れていて、僕とはまるっきり正反対のキャラクターだ。いい人だが、正直言って暑苦しい。彼から見ても、何かにつけて冷めた僕は扱いづらい部下だったろう。 そんな僕に対し、会社の取った措置は決して冷たいものではない。厳しい現場でもまれて一皮剥けて帰って来い、といった意味合いを含んだ今回の人事は、まだ若い僕に対してのものとすれば妥当なところなのだろう。 しかし、そんな配慮もまた僕にとっては暑苦しいものでしかなかった。面倒な段取りを踏むより、早めにあきらめてもらった方がお互いのためではないだろうか。熱っぽく僕への期待を語る上司の前で僕はそんな不遜なことを考えていた。 政府のODAによる橋の建設事業、期間は二年間。 転勤のことは仕方がない。僕が仕事のできない人材だと判断するならば、どこへなりとも飛ばしてくれればいいのだ。 問題なのは、ブレーデダールというその場所だ。 アフリカ大陸にある小さな国。国連統治下から独立したのもそう昔のことではない。街を歩く人にその名前を聞いても知っている人はほとんどいないだろう。 でも僕はその国を知っていた。 行ったことはない。ただ、その国にかつて住んでいた一人の少女を知っていたのだ。 * あれは七年ほど前のことだった。 あの頃の僕は、まだ色々なものを探し求めていた。意味とか、意義とか、何者にもくつがえされることのない絶対の回答のようなものを。迷って、あがきたいのだけれどどうしていいのかわからない。そんな状態の中で、いつかそんなものに出会える、これまでの不満や不安が台風一過の空のように晴れていく、そんな風に夢見ていた。 そして一方で、あきらめかけてもいた。 テレビをつければ、ネットを覗けば、まるで誰かがわざとやっているかのように不安な言葉ばかりがそこに踊っていた。空には穴があき、森は焼かれ、海の氷は溶け出していた。世の中には老人があふれ、弱きものを守るしくみは破綻しかけていた。巨大なビルに旅客機が激突する様は、単に政治の善し悪しだけでなく、この世界がその成り立ちから歪んでいることを強烈に示した。 一人の何の力もない青年が、それでも希望を持ち続けるには、この世界はあまりにも矛盾と歪みに満ち過ぎていた。 朝起きたらバイトに行き、気の合うバイト仲間たちと楽しく働いた。時々は学校に行き、単位を取るための最低限の努力はした。そうやって気楽で楽しく、そして無為な時間を重ねていた。しかしそれはいっとき不安を忘れるために逃げ込んでいる姿にすぎなかった。その内では常に得体の知れない暗い熱情のようなものに駆り立てられ、そして駆り立てられ続けることに少しずつ疲れ始めていた。 メイジーからの最初のメールが届いたのはそんな頃だった。 その日、いつものようにPCを立ち上げメールボックスを開くと、新着メールの中に英文のタイトルのものがあった。それ自体は珍しいことではなかった。十五歳まで海外で生活していた僕には当時の友人たちから時折メールが届いた。これもそんなメールの一つだろうと思い、警戒もせず開封した。しかしそこに書かれていたのは知らない相手の名前だった。 「このメールは無作為に世界中に配信しています。 私はメイジーといいます。ブレーデダールという国のルーデリッツという街に住む十八歳の女の子です。 私の国ではもう十年以上内戦が続いています」 メールはこんな書き出しで始まっていた。 意味不明なメールに書かれた「内戦」という言葉に軽い興奮を覚えた。単なるスパムメールではないと感じた。その異質さ、わずかな文面からでも感じられる緊張感に興味をそそられ、僕は目を離すことができなかった。 「内戦では多くの人が亡くなっています。私の叔父も軍隊にいましたが、戦場で命を落としました。 私は一刻も早く内戦が終わり、平和な日が来てほしいと願っています。私は普通の高校生で、何の政治的な活動にも関わっていません。誰かを責めたり、反対したりするつもりはありません。ただ平和で、誰も戦いで命を落とすことがないよう願っているだけです。 その祈りを込めて、ゴウエブロムの花を掲げています。これは私の国に咲く花です。 同じ願いを持っていただける方には、ゴウエブロムの花のマークを提供しています。自分の部屋、家の壁、軒先、手紙の便箋の上、ウェブサイト上、どこでも構いません。ご自身の目に付くところ、周囲の方の目に留まるところにこの花を掲げてください。そして平和への祈りを共にしましょう。 どうか私たちの国で今何が起こっているかを知ってください。そして一日も早く内戦が終わるよう一緒に祈っていただけないでしょうか」 メールの最後にはURLが掲載されていた。その青い文字に僕は迷わずカーソルを合わせた。奇妙なメールへの警戒心はとうになくなり、その文面から感じられる切実さに引き込まれていた。 表示されたページのトップには小さな花をあしらったマークが掲げられており、その下にブレーデダールの簡単な紹介記事が掲載されていた。 国連統治下から独立したばかりの僕よりも歳の若い国だった。国内に複数の民族が存在していた。 そして内戦のきっかけとなったのも、その民族問題だった。当初オンゴベ族とヨシングル族の民族対立によって始まった内戦は、国内にダイヤモンドや銅などの鉱物資源が多く存在したことが外国の介入を誘い、激化の一途をたどっていた。 少女からのメール同様、国を非難するでもなく、非人道的な行為を責めるでもなく、ただ一日も早く平和な日が訪れることを望む、とそのサイトは語っていた。 記事の最後に、花の写真が掲載されていた。トップに使われていたマークの花の、その実物だった。山吹色の、八重桜のように花弁の多い花が周囲を濃い緑の葉に囲まれ、まるで緑の海の中に浮かんでいるように咲いていた。花の根元には細く白いリボンが巻かれていた。 写真の下にはゴウエブロムという名が記されていた。メールに書かれていた花の名だ。 地味な花だった。何かの活動のシンボルとするにはぱっと目を引く派手さに欠けた。おとなしい色合いは強い主張を控え、ただ祈るのみだとしたこのサイトの言葉を裏付けるようであった。ただ一点、花に巻かれたリボンのその混じり気一つない凛とした白さが、ひたむきな平和への願いの強さを示しているように感じられた。 写真の下には、少女からのメールにあったように、同じ願いを持つ者はこの花のマークをどこかに掲げてほしいと書かれていた。 見知らぬ国から来た、あて先もないメール。少年時代を過ごしたボストンとも、日本とも全く違う未知の異国の空気がそこにあった。そしてそこに綴られた言葉にこめられた真摯さ、切実さは、僕のこれまでの生活では感じたことがないものだった。 まるで物語の主人公になったような気分になった。一通のメールに誘われ、何か派手な冒険の物語へと巻き込まれていくような、そんな空想を僕にさせた。 僕は返事を書いた。日本に住む二十一歳の学生であること、日本では内戦も戦争もほとんど縁がないこと、ブレーデダールのことは今まで知らなかったこと、もしできればブレーデダールのことを色々教えてほしいと思っていること、そして一刻も早く内戦が終結することを祈っている、と。メイジーの活動に感銘を受けた、平和になることを祈っている、そんな空々しい言葉を何の抵抗もなく書けた。それだけ興奮していたのだ。 * それからの数日間は、バイトにも身が入らず、ほとんど上の空で過ごした。遠い外国の空の下に咲く山吹色の花が脳裏に浮かんで消えなかった。家に帰れば真っ先にPCのスイッチを入れ、メールボックスを覗いた。 メイジーからのメールが来たのは三日後のことだった。 「シンゴ様へ メールありがとう。返事がもらえるなんて思っていなかったから本当に嬉しいです(本当はちょっと期待していたけど、今まで返事なんてもらったことなかったから)。 私の送ったメール、日本まで届いていたんですね。なんかすごいって思ってしまいました。送っておいて言うのもなんですけど。あのメールはインターネットに詳しい友人に頼んでやってもらったものなので、私はどうやってるのか実はよく知らないのです。 メールをもらった日は嬉しくて返事することも忘れてて、次の日は一度お礼の返信をしようとしたんですが、そもそも私日本のことを何も知らなくて何て書いていいかわからなかったんです(シンゴもブレーデダールのこと知らないって書いていたからおあいこですね)。それじゃいけないって思って今日は学校で日本のことを先生に聞いてきました。 そしたらびっくりです。私の家の車も、弟が遊んでいるゲーム機もみんな日本の会社のつくったものだったんですね。今まで全く知りませんでした。とても豊かな国だって先生が言ってました。 ブレーデダールのことは、内戦のことはもうご存知ですよね。そちらは置いておいて私の住むルーデリッツの街のことを書きます。とてもきれいな街で、たくさんの人が住んでいます。昔植民地だった名残で建物はみんな欧風です。その中を欧州からの移民系の人たち(ちなみに私もそうです。私の曾祖父はドイツから来ました)や様々な部族出身の人たちが入り混じって住んでいます。街中ではみんな仲良くやっているのに、街の外に出たらどうして喧嘩ばかりしているのかいつも不思議に思います。 話がおかしな方向に行ってしまいました。次は別のお話をしたいと思います。 こちらは今、夏真っ盛りです。そちらは北半球だから冬なのでしょうか。地図で見たらわりと緯度が高そうだから冬は寒そうですね。シンゴも日本のことも色々教えてくださいね。 一緒に平和を祈ってくれてどうもありがとう。 メイジー・クルシュマン」 読み終わったとき、胸から首にかけて体温が上がって、熱気が頬に立ち上ってくるような気がした。異国の空の景色が再び頭の中にはっきりと浮かんだ。せせこましく面倒で、不満ばかりの日常では見られない、鮮やかな色彩の空だった。 それ以来、僕はメイジーとのメールのやりとりに夢中になった。何通ものメールが数日の間隔をあけて海の上を飛び交った。 メイジーの話をたくさん聞いた。 あのゴウエブロムの花を掲げようという活動を始めたのはメイジー自身だった。あのウェブサイトもインターネットに詳しい友人に教わって自分でつくったと言っていた。メールを無作為に大量に送るのもその友人にやってもらったものだった。 ゴウエブロムは彼女の家のそばの公園に植えられた木に咲く花だった。 「国の独立を記念してつくられた大きな公園なんだけど、その中心に大きなゴウエブロムの木があるの。秋になるとたくさん黄金色の花を咲かせてすごいきれいなのよ。だから、あの花が一番いいと思って」 メイジーはゴウエブロムをシンボルマークに選んだ理由をそう言っていた。 ただひっそりとシンボルマークを掲げるだけの運動だったが、彼女はそれを非常に大事なものとして考えていたようだった。 「もしおおっぴらに内戦反対なんて街中で叫んだら、きっと目をつけられて、そのうち治安維持法違反か何かで捕まっちゃうと思う。実際捕まった人もいっぱいいるもの。だからみんな何も言えない。 私はただ早く内戦が終わればいいなと思ってるだけ。それだったら政治家だって軍人さんだって誰だってみんなそう思ってるでしょう。きっと国中みんながそう思っている。 だから花を飾るの。国中がゴウエブロムの花でいっぱいになったらきっと内戦も終わる」 そんな風に語っていた。 彼女とのやりとりとは別にブレーデダールのことを調べてみた。ネットで少し検索しただけで、驚くような内容が次々に出てきた。 それは内戦の凄惨な様子だった。ゲリラの食糧調達のために丸ごと虐殺される村、いたずらに手足を切られ、目をくり抜かれる人。親を失い少年兵として戦場に立つ子供たち。国中に埋められた地雷とその被害者たち。 メイジーのメールからは意外と、と言ってしまっては失礼かもしれないが、豊かな暮らしぶりが感じられた。彼女の話からは日本に住む自分の生活との大きな違いを見出すことができず、そこから内戦というもののリアリティを感じ取ることはできなかった。それは彼女の父親が鉱山会社の重役であり、大都市に邸宅を構えているからの話であって、戦場やそこに近い場所ではその様相は全く異なっているようだった。 おおっぴらに自らのサイトに書くことはできないが、メイジーももちろんそのことは知っていただろう。声なきものたちの代わりに運動を起こす彼女の精神は崇高だった。 そのことに気付いてから、僕は次第に理由のわからないあせりを感じ始めていた。それまで彼女と同じ目線でいるつもりだったのが、負い目のようなものをメイジーに感じるようになってしまった。何かをしなければならないという思い込みに駆り立てられた。何故なのか、とは考えもしないままに。 彼女から初めてメールが来てから数週間経過した頃、僕はあるアイディアを思いついた。 それを思いついた途端、僕はその虜になり、ひたすらその作業に没頭した。 「君のウェブサイトを日本語訳したものを僕がつくる。それで君の国の現状や君のやっていることをもっと日本人にも知ってもらうよ。君の活動の日本支部ってところかな。君のサイトの記事や写真を使わせてもらっていいかな」 そう書いてメールを送った。それに対する返信は、もちろんそれを快く了解するものだった。 「嬉しい! 是非是非お願いします。ゴウエブロムが一つでも増えれば嬉しいのに、それが遠く離れた日本でもそんな風にしてもらえるなんて夢みたい。シンゴに感謝です」 メイジーが喜んでくれたことが、ますます僕を夢中にさせた。僕は無料のホームページスペースを借り、メイジーのウェブサイトの記事を日本語訳して載せた。もちろんトップにはゴウエブロムのマークを掲げた。彼女にアドレスを連絡すると、早速リンクページに掲載された。 「本サイトの日本語版です。日本支部長のシンゴさんがつくってくれました」 そんな簡単な説明文が添えられた。それを見たときは、かすかな満足感を覚えた。 しかし、それはその翌日のことだった。 僕はいつものようにPCを立ち上げた。完成した日本語版サイトを見て、メールボックスを見た。そこで、あれ、と思った。 何か変わったことがあったのではなかった。逆に、何も変わっていなかったのだ。日常はあまりにも普段どおりの日常で、日本語版を立ち上げたからといって何かが劇的に変わることはなかった。 作業中はよかった。完成を夢見ていれば楽しかった。だけど僕はその間に、少しばかり完成に多くを望みすぎてしまっていた。実際には僕が無意識に期待していたような目の覚めるような変化は何もなく、意外なほどそれらは何ももたらしてはくれなかった。 欲求不満が募る中、いったい何を期待していたのか自問自答することになった。 そして、いつも通りその答えは出なかった。 * それからの数週間、僕は欲求不満を埋めるために懸命になっていた。 ネット上での自分の知り合いに日本語版サイトを紹介してまわった。ある人が第三世界の内戦被害や貧困について考えるコミュニティーサイトを紹介してくれた。そこの掲示板で話を出すと、そのサイトの参加者たちはこちらが驚くほど真剣にレスをつけてくれた。調べてみるとその手のサイトは意外とたくさんあり、それらの多くでゴウエブロムのマークが飾られることとなった。 一つずつ、日本語版のリンクページに掲載されるウェブサイトが増えていった。 僕は、楽しかった。初めての場所で自己紹介をするときには緊張したが、その後は様々な人からの反応が得られた。ときには厳しい言葉をぶつけてくる者もいたが、それらはその他大勢の応援のメッセージにかき消された。ゴウエブロムのマークが一つ増えるたびに逐一メイジーに報告した。彼女は本当に喜んでくれた。それが何よりの楽しみだった。 今にして思えばこの頃が一番充実していたと思う。このまま頑張れば何かが変わる、と思っていた。それが明日なのか、来週なのかわからないが、今までと全く違う日が来ると信じられた。 メイジーからチャットの誘いが来たのはその頃だった。 「実はサイトにチャットルームをつくってみたの。やってみない?」 そんな風にメールで提案があった。何度かのメールのやりとりの末、数日後の日本時間午前零時に行うことが決まった。 初めてのチャットの日、僕は待ちきれず十五分前には入室した。するとメイジーも待っていたらしく、すぐ後に入室してきた。 「こんにちは」 「こんにちは、いや、ワウハレポ、がいいかな」 「すごい、こっちの言葉知ってるのね。じゃあ私も、コンニチハ」 アルファベットでこんにちはと綴ってきてくれたのが嬉しかった。彼女はさらに話を続けた。 「そうそうお礼を言わなきゃ。日本語版のページをつくってくれてどうもありがとう」 「いいよ。少しでも役に立てればこちらも嬉しいから」 「こっちもね、少しずつだけどゴウエブロムのマークを増やしてるのよ」 「どんな風に増やしてるの? やっぱりサイトに載せてもらってるの?」 「ううん、パソコンを持ってる人は少ないから。知り合いに話して、部屋に飾ってもらったり、お店の軒先に飾ってもらったり、かな」 「みんな快くやってくれる?」 「半々くらい。嫌がる人もいるし、正直言うとやってくれる人も私みたいな子供がやってることだからって付き合ってくれてる感じ」 「そうなんだ。なかなか難しいね」 「でも頑張るよ。たくさん増えてくればみんな真面目に考えてくれると思う。日本支部に負けてられないよ」 チャットは楽しかった。今まで知りたかった様々なことを知ることができた。僕は常々知りたいと思っていたことを訊いてみた。 「君は何故この活動を始めたの?」 わずかな間をあけて、返答があった。 「叔父が、内戦で亡くなったの」 「前のメールにもそう書いてあったね」 「母の弟だった人なんだけど、すごくいい人で大好きだった」 「だから、なんだね」 「うん、それもあるけど、それだけじゃないの」 メイジーは長い文を書き出した。僕はそれを黙って読んだ。 「あのとき、母も、祖母も、お葬式では泣いてたけど、何日かたつと普通に戻っちゃったのね。普段どおりに生活して、普段どおり笑ってて」 「私それが腹立って、わざと母の前でめそめそしてた。そしたら母にすごい怒られたの。いつまでも泣いてちゃ駄目だって」 「きっと祖母も母も私なんかよりずっと悲しかったんだろうけど、それを我慢してたのね。我慢し慣れてるのよ、大人たちは」 「我慢し慣れてる?」 「この内戦が始まる前もこの国はずっと独立運動をやってて、たくさんの人が亡くなってて、その分だけみんなたくさん悲しんできた」 「だから、そういうときどうしたらいいか、わかってるのよ」 何と言っていいかわからず、僕はディスプレイを見つめていた。しばらく間をあけて、メイジーの言葉が綴られてきた。 「私は、まだわからなかった。だからこの運動を始めたの」 わからなかった、と過去形で書かれていた。それを説明するかのように彼女の言葉が続いた。 「この運動をやってきて、いろんな人の話を聞いて、今は少しだけわかってきたような気がする」 「わかったら、君も慣れるの?」 「私も、慣れる?」 「君も耐えることに慣れてしまって、この運動を辞める?」 「ううん、本当にわかったらきっともっと頑張ると思う。本当は我慢するとか慣れるとか、そんな簡単なことじゃないのよ、たぶん」 また間があいた。そうしたら今度はメイジーが謝ってきた。 「ごめんね。わけわかんないこと言っちゃって。気にしないでね」 本当に、わからなかった。 僕はそのとき思い知らされていた。日本語版サイトをつくる前に感じていたあせりの正体を。メイジーとメールのやりとりをしていても、自分のウェブサイトをつくって活動していても、やはり僕は単なる傍観者だったのだ。 大事な人に死なれた経験はあまりない。小学校のとき父方の祖父が死んだ。周囲の人は悲しんでいたが、いったい僕はあのときどれほどその事実を捉えていただろうか。幼かった。年に一回も会うことのない人だった。僕が感じていたのは、父親の父親という人だから、みんなの集まる場所では悲しい顔をして神妙にしていなければならない、ということだけだったのではないだろうか。 日本は平和で、僕も、僕の周囲の人たちも悲しむことに慣れる必要はなかった。こんな僕らがネット上で花のマークをやりとりするだけの行為がいったい何になるのか、当事者たちが戦場のそばで語る言葉の一つ一つに比べれば、それらは何の意味も力も持たないように感じられた。 これではそれまでと同じだった。結局このままでは僕は何も変えられない、その事実を認めたくなくて僕はまた焦ることになった。 * メイジーとのチャットは数日に一回続いていた。 僕はその間もむきになって日本語版サイトの宣伝を続けていた。リンクページにはますます協力してくれるサイトが増えていったが、僕は少しも満足できなかった。そんな僕の行動をどう見てくれていたのかわからないが、ある日メイジーがこう提案してきた。 「ねえシンゴ。一度ブレーデダールに来ない?」 一瞬意味を理解するのに時間を要した。ブレーデダールに行く、そんなことは考えてみたことすらなかった。ネットの向こうの存在でしかない遠い国だと思っていた。 「行ってみたい、けど」 「そんな危険なところに案内したりはしないわ。でもこの国に来て、この国の姿を見てほしい。外国人のあなたに」 メイジーの言葉は、まっすぐだった。それがチャットの文字であっても熱意と切実さを伝えた。僕は次の言葉をつなげないでいた。 だが、どうやって断るか考えていたわけではなかった。むしろ逆だった。 ブレーデダールに行くこと、それは今まで考えてもみなかった可能性を僕に示した。 僕が黙っていると、困っていると思ったのかメイジーが話を変えてきた。 「ごめんね、急に。やっぱり無茶だよね。危ないし、遠いし、お金だっていっぱいかかっちゃうし」 「いや、そんなことは問題じゃないけど」 「ずっと前から思ってたの。あなたのような人にこの国で何が起こってるのか、もっとよく知ってもらえたらって。いい考えだと思ったらつい言っちゃった。ごめんなさい」 「僕もいい考えだと思うよ」 思わずそう書いた。そして、少し間をあけて、今度は迷わずはっきりと書いた。 「僕も君の国に行きたい」 鮮やかな青い空が、はっきりと見えた。ブレーデダールの空、その下に立つゴウエブロムの木。僕はその下に立ってそれらを見上げていた。傍らにはメイジーの姿があった。 砂漠の国の暑い空気を、一瞬感じた気がした。 彼女の提案は、目の前の閉塞感を一気に晴らす最高のアイディアのように思えた。 何より彼女が僕にそれを期待してくれていた。それを実行すれば、僕は彼女の立つ場所にさらに近づける、そう思った。 「本当に来てくれるの? すごい! ねえ、来られるとすればいつ頃?」 メイジーの問いに、現実的な事柄に引き戻された。バイトのシフトのこと、ある程度まとまった休みとなること。僕ははやる気持ちを抑えて冷静に考えた。 「四月は、難しいな。行けるとすればゴールデンウィーク頃かな」 「ゴールデンウィークって何?」 「ああ、ごめんね。日本では四月下旬から五月上旬にかけて国民の祝日が続くんで大型連休になるんだ。その週のことをゴールデンウィークって言うんだよ」 「へえ、よほど大事な祝日があるのね。どんな日なの?」 「いや、祝日の内容は問題じゃないんだ。憲法記念日とか子供の日とかだけど、その辺はあまり重視されてない。何の日だか知らない人もいるよ」 「それでも黄金の週なの?」 「要は休みがたくさんあって、三日も四日も連休になるってことが嬉しいのさ」 「お休みが、黄金なんだ。なんだか面白い。こちらも五月五日は祝日よ。独立記念日なの。この日は国中がお祭りになるわ。この日ばかりは内戦も休戦ね」 メイジーにはゴールデンウィークの意味がよく理解できないようだった。考え方が違った。独立して日が浅く、なお国内の安定を求めて戦っていた国と、長く平和の続いた国では、祝日の一つ一つが持つ意味合いまでもが違っていた。 だからこそ、僕はブレーデダールに行かなければならなかった。ブレーデダールに行きさえすれば目からうろこが落ちるような体験が次々にできる、僕の状況も、生活も全てを変えてくれるような何かが待っている、いつの間にかそんな思い込みに僕の頭は支配されていた。 * それから僕はブレーデダールへ行く具体的な手段を調べ始めた。 飛行機ではもちろん直行便はなかった。香港、ヨハネスブルグ経由で三十時間以上がかかった。貯金を全て吐き出して航空券を買った。 五月三日から三泊六日、現地でのアテンドはメイジーが申し出てくれた。 「私にまかせて、楽しみにしててね。私も楽しみ」 彼女はそう言ってくれた。 ただ強い思い込みだけが僕を支えていた。脳裏に描いたブレーデダールの青い空とその下に立つ自分たちの姿だけを見ていた。 それでも僕は楽しかった。チャットではどこに行って何を見るかでメイジーと常に盛り上がっていた。思い描いた夢が現実となる日を、クリスマスを待つ子供のようにときめきながら待った。 そうしてブレーデダール行きまで二週間を切った頃だった。メイジーはチャットで珍しく別の話題を振ってきた。 「また海外からメールの返信があったの! 今度は南アフリカに住む男の人から」 メイジーは嬉々としてその様子を語った。 彼女はまだ友人と無作為の大量メール送信を行っていた。今回そのメールに返信してきたのは南アフリカに住む人権保護運動家だった。近隣諸国での内戦や人種差別に関心の高い人のようだった。 その後チャットをするたびにメイジーはその男とのやりとりを嬉しそうに話した。 彼はメイジーのような若い娘が反戦運動をしていることを高く評価しており、自分たちも応援すると言ってくれたそうだ。そしてゴウエブロムのマークを周囲に広めてくれていた。メイジーのもとにはその男から紹介された人たちから、いくつか応援のメッセージが届いたとのことだった。 チャットでその男の話をする時間が長くなっていくのを、僕は苦々しい思いで見ていた。 彼は、いわばこの手の問題の専門家だった。彼らがその気になって手伝えば、メイジーの運動は大きな成果をあげてしまうかもしれなかった。素人の僕がネットでちょこちょこと宣伝してまわるのとは話が違っていた。 脳裏に描いていた、メイジーと二人でゴウエブロムの木を見上げる光景が、焦りに塗りつぶされていった。僕が夢に描いていたものは単なる僥倖の産物でしかなく、現実の前にそのもろさを露呈しかけていた。何とかしなければ、何かをしなければ、という思いに駆られた。それも今までと同じではなく、一気に状況を変えるような何かを。 彼らと同じように、僕も身近な人間を勧誘しようと考えた。そこで、バイト先でブレーデダールの話をしてみることにした。それまではバイト先でこの話をしたことはなかった。当時の僕は映画館で働いていて、学生やフリーターのバイトが五名いた。友達感覚で飲みに行ったり、遊びに行くこともしばしばだった。 ある日、休憩時間の狭い事務所の中でたまたま一緒だったバイトの先輩に、僕は自分のつくった日本語版サイトを見せた。 「なにお前、こんなんやってんの?」 先輩が驚いたように声をあげた。 「で、何でこんなの始めたの? お前そんな真面目な趣味あったっけ?」 僕は最初から説明した。たまたまあて先のないメールが届いたこと、それ以来メールのやりとりをしていること、それで彼女の運動に共感して協力していることを。 「ふうん」 説明が終わると先輩は一瞬黙り、そして笑って言った。 「で、その女の子、かわいいの?」 「知りませんよ。顔は見たことないですから」 「ばあか、お前そんなこと言ってて不細工だったらどうすんだよ。そこが一番大事なとこだろうが。そこまず押さえとけよ」 「何言ってんですか。俺は真面目にやってんですから」 「とか言ってえ、実は出会い系サイトかなんかじゃないの? 花のマークつけてる人と合コンできるとか。あ、それだったらいいよな。俺も参加してえ」 むきになる僕をからかうように先輩は笑った。 「それよりお前、さっき頼んだポスター出しといてくれた?」 「あ、すいません。まだです」 忘れていた仕事をするために慌てて事務所を出て行く僕に、先輩が後ろから声をかけた。 「まあ真面目にやんのもいいけどな、まずは目の前のこときちっとやっとけよ」 僕は倉庫から出したポスターを一枚一枚巻きながら思った。先輩は、断るのも適当に賛同したふりをするのもしたくなくて茶化したのかもしれない。「まずは目の前のことをやれ」という言葉が心にひっかかった。ただこの仕事以外に何かを示唆しているようにも感じられた。しかしその意味はよくわからなかった。 後日、僕は久しぶりに学校に行き、昨年まで語学の授業でクラスメートだった仲間たちにもブレーデダールのことを話した。しかしその反応は先輩と対して変わらなかった。友人たちは皆「僕の話」としてその活動に対し感心し、「他人事」として面白がってくれた。自分がその主体になることなど夢にも思っていないようだった。 あるいは頼めば花のマークを飾ることぐらいやってくれたかもしれない。しかし、単に説明するだけなら簡単だったが、その先のたった一言が重かった。その気がない人たちに何か物事を頼むというのは、思っていたよりもはるかに勇気のいる行為だった。 周囲の人に直接協力を仰ぐ勇気はそれで失せた。 当たり前なのだ。日本人の彼らにとってそれはあまりにも他人事すぎた。動機付けが無さ過ぎたのだ。 皆だって僕と同じなはずだった。誰も現状に満足などしていなかった。不満やいらだちをつのらせ、何かを変えたいと大なり小なり誰もが思っていたはずだった。しかしブレーデダールのことに関しては、彼らは傍観者を決め込んだ。 そのことが「こんなことをしたって何も変えられない」ことを示している、という事実から僕は目を背け続けた。本当はブレーデダールに行ったって何もない、単なる観光旅行に終わるだけで、きっと日本語版サイトを立ち上げたときと同じような空しさを覚えるだけ。そのことに気付き始めて、僕はブレーデダール行きにプレッシャーを感じるようになっていった。 それでもメイジーとのチャットは欠かさなかった。やや彼女がチャットに訪れる日の間隔が長くなっていることが気になり、むしろ毎日のようにチャットルームを覗いていた。 出発まで一週間を切ったその日、チャットに現れたメイジーはやはり例の男のことを語り出した。彼は自分の国で着実にゴウエブロムのマークを増やしていたらしい。 「自分の国じゃないところからも応援してもらえるなんてすごい。なんかどんどん仲間が増えている感じ」 「よかったね」 気持ちのこもっていない言葉を返した。 「ありがとう。なんかこのままいったらすぐに願いがかないそうな気がする」 僕もついこのあいだまでそう思っていた。ささくれた気持ちがとげのある言葉を書かせた。 「そんなに甘くないと思うよ」 「そりゃそうかもしれないけど」 「彼らはしょせん外国人だから。実際には君たち自身が頑張らないと本当の動きはないと思う」 「外国の人に理解してもらうのだって大事なことよ」 「もちろんそうだ。でも実際に内戦が起こっているのも、それに苦しんでいるのもブレーデダールの人たちだろう。その人たちが立ち上がらないと何も変わらない」 返事がない。僕は言葉を続けた。 「外国人に頼っていないで、君たち自身がもっと味方を増やすことの方が先決だと思うけど」 「どうしてそんなことを言うの?」 少しの間の後、メイジーが訊いてきた。 「確かにブレーデダールの内戦かもしれないけど、ゲリラに資金を提供しているのも、武器を売ってくるのもみんな外国人なのよ。この問題はもうこの国だけの話じゃない。世界中で考えてほしい問題なの」 「そうかもしれないけど」 僕はディスプレイに文字を打ちながら、先日の仲間たちの顔を思い浮かべていた。茶化すか、もしくは完全な他人事として話を聞いていた。南アフリカのその男やその仲間だって似たようなもので、ただゴウエブロムのマークだけを安易に増殖しただけなんじゃないか、そんな風に勝手に想像し、話を続けた。 「苦しんでいるのは彼らじゃない。彼らにとってはしょせん他人事なんだよ」 「あなたもそうなの?」 すかさず返ってきたメイジーの問いに息が詰まった。 「あなたにとっても、しょせんは他人事でしかなかったってこと?」 追い討ちをかけるように再度訊いてきた。 僕はなにも返答できなかった。違う、違う、頭の中ではそう繰り返していたが、それを文字にして打つことができなかった。自分の中にそうではないことを示す材料が見つからなかった。もし安直な答えを返していたら、すぐに厳しく追及されただろう。ディスプレイの向こう、はるかに距離を隔てながらまっすぐに僕に向き合っていたメイジーに対し、嘘をつき通す自信は僕にはなかった。 「ごめん、お母さんが呼んでる。そろそろチャットやめなきゃ」 しばらくの間の後、メイジーがそう言ってきた。そのとき僕は心底ほっとした。 「うん、じゃあまた」 「さようなら」 彼女はそう言って退室していった。 僕はすぐにPCの電源を落とし、ベッドに倒れこんだ。頭の中でたくさんの言葉が渦を巻いていて整理がつかなかった。ただ、何か大きな失敗をしたことだけはわかっていた。 明日にでも謝罪しようと思い、その晩はベッドに入った。しかし結局一睡もすることができなかった。 翌日も、その翌日もメイジーはチャットに現れなかった。 それは僕にとってはまさに拷問だった。あんなことを言うのではなかった、もっとこういう言い方をすればよかった、そんな後悔が頭から片時も離れなかった。そこから逃れるには、彼女に普段どおりの言葉をかけてもらうことしかなく、それが得られないまま僕は苦しみ続けた。 そして、あの日が来た。 それは出発の二日前だった。さすがにこのまま連絡が取れないと行ってから困ることもあった。本音は行きたくなかったが、いずれにせよ彼女に連絡を取る必要があった。メールに返答はなく、僕は手段を探して彼女のウェブサイトを訪れた。 いつもどおり何の変化もないトップページから掲示板へと移動する。そこで僕は体中の血が一瞬にして凍りつくような感覚を覚えた。 そこに書かれていたのは、追悼の文章だった。誰もが嘆き悲しみ、冥福を祈っていた。 その対象は、メイジーだった。 それらの書き込みは、メイジーが命を落としたことを告げていた。 まさか、と思った。胸の中を鷲掴みにされるような息苦しさを感じた。何が起こっているのか把握したくて情報を探った。マウスを操作する手が震えていた。 ある現地のニュースサイトでようやくそれらしき記事を見つけた。反戦運動の少女が殺害された、とその記事は伝えていた。 僕などに偉そうに説教されるまでもなく、彼女は自分の活動を一生懸命広めようとしていたのだ。そしてそれは過激派に目をつけられるほどになっていた。何者の犯行かは未だ不明だが、内戦に異を唱えたために保守系の過激派に殺害されたのでは、という見方がなされていた。 彼女の遺体が発見されたのは四月二十九日、最後のチャットの翌日だった。 僕は何も考えることができず、ただぼんやりとその記事を眺めていた。 不思議と落ち着いていた。しばらくして、僕は自分に何ができるだろうと考えてみた。しかし、その結果わかったこと、それは悲しくなるほどに他人事だ、という事実だった。 彼女の姿を思い浮かべて泣こうにも、彼女の顔を知らなかった。真偽のほどを確かめようにも電話番号も知らなかった。すぐに駆け付けたかったが、彼女の家の所在もわからなかった。その絆はあまりにもか細く、切れた後には何の手がかりも残されていなかった。 できることは何一つなく、彼女の死は僕の生活に全くと言っていいほど影響がなかった。僕の前には、いつもどおり何も変わらない、変えることのできない日常だけがあった。 そのとき僕ははっきりとわかった。 結局は夢だったのだ。思うにまかせない現実からの逃避にすぎなかった。そして逃げ切る手段などなく、最後はこの現実を仕方なく受け入れるしかなかったのだということを。 僕の夢見た物語も、ブレーデダールの空の下に広がる風景も、何もかもが変わっていく期待も、全てはそこで消えた。 記事には参考としてゴウエブロムのマークが掲載されていた。山吹色の地味な花のまわりに白いリボンをあしらったマーク。それを見たのはそのときが最後となった。 * 三十時間以上の空の旅に耐え、ようやくルーデリッツ国際空港に到着した。 ゲートを出るとたくさんの人たちがこちらを見ていた。出迎えの人たちだ。彼らの掲げるプラカードの中に自分の名前を探す。ほどなく自分と会社の名前が書かれたものを見つけた。持っていたのは僕と年のさほど変わらない黒人の青年だった。 彼はショーンと名乗った。会社の現地スタッフの一人だった。 「とりあえずホテルに送ってやるよ。それでいいだろ」 ショーンは車のトランクに荷物を荒っぽく投げ込みながらそう尋ねた。僕は黙って頷く。オフィスでは他の社員たちが仕事をしているだろうが、挨拶しに行く気にはならなかった。長旅で疲れていた。 後ろのシートに乗り、体を沈める。ショーンはおしゃべり好きらしく、運転しながらあれこれ話かけてきた。面倒になり適当に相槌を打つ。 転勤が決まってからも、過去のメイジーとの接点を思い起こさせるものには一切手を付けないでいた。犯人は捕まったのか、あのウェブサイトがどうなったのか、内戦がいつ終わったのか、そういったことには目もくれず仕事の資料だけに集中した。早く仕事の場に行き、早く仕事を済ませて帰りたかった。 幸いなことに今日までおかしなことを思い出して振り回されることもなかった。今日空港に降り立ってみてもそこはただの見知らぬ外国だった。本当にここがメイジーにたくさんの話を聞かせてもらったブレーデダールなのかと疑うほどだった。 七年の月日のうちに、果たしてあれらは本当に現実に起こった出来事だったのだろうかと思うようになっていた。想像力豊かな若い時代の空想だったのかもしれない、そう思いたい。車窓の向こうに広がる砂漠を見ながら、僕はそんな風に考えていた。 車はやがてルーデリッツの市街地に入った。道の両脇に家や商店が並んでいる。僕はそれらが流れていくさまをぼんやりと眺めていた。 そこで僕の目はあるものを捉えた。僕は運転席に向かって叫んだ。 「ショーン! 車止めて!!」 「あん? 何言ってんの?」 「いいから車止めろ!」 僕の剣幕にショーンが慌てて車を止めた。 車を降りて、通り過ぎた後ろに向かって走り出す。 向かう先には一軒の小さな雑貨屋らしき商店があった。石造りの建物の前には様々な家庭雑貨が飾られている。しかし、それらの商品には目もくれず、僕はその店の壁面に見つけたそれの前に立った。 僕が見つけたのは、壁面に張られた一枚の紙だった。風雨にさらされ、色あせ、しわがよっているが、そこに描かれたものに見覚えがあった。 ゴウエブロムのマーク、だった。 色が落ちて薄くなっているが、黄色い花弁が幾重にも重なって花の形をつくっている。その下にはリボンが巻かれている。混じり気一つ無いその色の白さがマークの印象を強くしていた。 七年前、一人の少女が起こした運動はとても小さなものだったかもしれない。しかしそれは確かにここにあったのだ。僕の空想でもなんでもなく、彼女の想いの痕跡をその薄汚れた古い紙切れに残していた。 まさか残っているとは、そして出会うことができるとは思っていなかった。 当時の思いが甦る。若い男女が抱いた大それた夢だった。何かを変えたいと強く信じ、でも何も変えられないのだと思い知らされた。でもそれらを語り合った時間は僕らにとってとても大切なものだった。 あのとき、僕らはどんなことでも信じられた。無知で、無邪気で、無鉄砲だった。懐かしい、過去だ。 今の僕は、仕方がないという言葉をちゃんと覚えた。あんな風にむきになることもなくなった。なんであんなに思い込みが激しく、周りが見えていなかったのかと不思議になるほどだ。そのことを思い出したくなくて、みんな幻だと思おうとしていたのかもしれない。あのとき胸に刻まれた傷は、まだ痛みを伴って生々しく残っていた。 ショーンが走ってきた。 「どうしたんだよ、シンゴ」 僕は返事をせず、じっと壁面を見つめていた。ショーンが僕の視線の先を追う。 「なんだ、ゴウエブロムのマークかよ」 「知っているのか?」 ショーンの口ぶりはさも知っている風だった。 「当たり前だろ、ここはブレーデダールだぜ。そんなもんそこらじゅうにあるじゃんか」 ショーンは両手を広げた。 「そこらじゅうって……?」 僕は不思議に思いながら周囲を見回した。 すると、あった。 右隣の店の軒下に。左隣の店のガラスケースに。向かいの住宅の門扉に。その右にも、その左にも、いたるところに同じマークが飾られていた。 あるものは額に入れられ、あるものは無造作に貼り付けられていた。紙ではなく何かの板に描かれているもの、木彫りのオブジェ、通行人のシャツのデザイン、様々な形で街中に昔見慣れた花が掲げられていた。 かつて、メイジーと僕が夢見て語り合った光景が現実に目の前に広がっていた。 「これは、いったい……」 「そんなに興味があるんなら、本物を見せてやるよ。車に乗んなよ」 僕は狐につままれたような思いで、言われるがまま車に乗り込んだ。 車中でショーンが詳しく教えてくれた。 メイジーの死は、当時国内で大きく報道され、話題となった。彼女の活動は口コミで広まり、人々はゴウエブロムの花を掲げ、平和を望んで命を落とした少女の死を悼んだ。国民の誰もが内戦の早期終結を望んでいた。多くの人が彼女の遺志を継ぎ、彼女の死後も運動を続けた。国中にゴウエブロムの花が咲くことになった。 それは国内に留まらず、南アフリカを始めとしていくつかの国で運動が高まり、それは外圧となってブレーデダールに返ってきた。メイジーの死から二年後、世界的にダイヤモンドを寡占的に取り扱う資源メジャーの企業が、ブレーデダールの反政府組織が採掘するダイヤ原石の取引を停止する声明を出した。公開されたその声明文にはゴウエブロムのマークが掲載されていた。反政府組織は資金源を失って活動の継続が困難になり、そして今から四年前の四月二十九日、長い内戦はついに終結した。奇しくもそれはメイジーの命日にあたる日だった。 ショーンの長い説明が終わる頃、車は大きな公園の前で停車した。 「独立記念公園だ。この真ん中にでっかいゴウエブロムの木がある。ちょうど今の季節が満開なんだ」 「ああ、知ってる」 僕は車を降りて公園へと入っていった。 メイジーとのやりとりが思い出される。 「ゴウエブロムとはこっちの言葉で黄金の花って意味なの。本当にきれいな花が咲くのよ」 「黄金の花ってのは言いすぎじゃない。ちょっと地味に見えるけどな」 「そんなことないよ。実際に見たら本当にきれいなんだから。シンゴも見に来ればわかるわよ」 そのゴウエブロムの木が目の前にあった。 木には無数の花が咲いていた。 メイジーの言う通りだった。 花は夕陽にさらされ、まさにその名の通りに金色の輝きをはなっていた。住民たちの手によって施されたのだろう、一つ一つの花に白いリボンが巻かれている。その凛とした白さにも負けぬほど、花は美しかった。 木の前に、一体の銅像が立っていた。その像はまるでゴウエブロムの花にリボンを巻こうとするかのように、やや上を見上げ、右手を宙に伸ばしていた。 若い娘の像だった。僕はそれが誰の像であるかを知っていた。 「やっと、会えたね。はじめまして」 僕は像に向かって言った。 メイジーの息吹を感じた気がした。知るはずのない彼女の声を聞き、彼女の足音を聞いた。確かに彼女はこの街にいて、精一杯生きて、そして死んだのだ。初めて、はっきりとそのことを認識した。 メイジー、君はすごいな。たくさんの人が君のやってたことを認めて、君の想いを受け継いで、本当に世界を動かしてしまったんだ。心の中でそう語りかける。 その途端、涙が出てきた。 例えどれほどたくさんの人が彼女の想いを継ごうとも、いかなる夢がかなおうとも、それによってどれほどの命が助かろうとも、今、もし彼女がここにいたら言うだろう。 そんなことよりも、生きていたかった、と。 「ごめん……」 僕は涙をこぼしながら像に向かって呟いた。 彼女に申し訳ないという想いでいっぱいになっていた。 僕は生きているのに、そして生きていればなんだってできるのに、そのことをメイジーが教えてくれていたのに……なぜ僕は、簡単に「仕方がない」などと言ってあきらめてしまったのだろう。そのことが悔やまれてならない。僕はその場にしゃがみこみ、謝罪の言葉を呟き続けた。 ごめんよ、メイジー。僕はいつも焦りすぎて、結果ばかり求めすぎて、そして難しいと思うとすぐ投げ出してしまった。 彼女の言葉が思い出される。 「私のやってることを、遠く離れた日本で知っててくれる人がいるって、それだけでもすごいことだと思う。シンゴ、ありがとう」 彼女はことあるごとにそう言っていた。 顔を上げた。メイジーの像の向こうに、ゴウエブロムの花が見える。 何をすべきなのか今ならわかる。彼女を知る者として、ちゃんと、生きよう。特別なことなど、必要ない。ただ目の前のことをすればいい。それが償いになるかどうかわからないが、そうすることが一番喜んでもらえるのではないかと思った。生きていればどんなことでもできるのだから。かつてのように興奮するでもなく、思い込みに駆られるでもなく、僕はただそう思っていた。 立ち上がり、膝についた砂を払う。 ブレーデダールの空の下、僕はゴウエブロムの木を見上げた、傍らにはメイジーがいた。 「さよなら……またね。メイジー」 僕はそう言って、車へと歩き出した。 ショーンは気を利かせたのか車の中で待っていた。 「さあ、ホテルに向かおうか」 「なあ、その前にちょっとオフィスに寄ってくれないか。挨拶だけでもしていくよ」 僕がそう言うとショーンは目をむいた。 「日本人ってのはどこまで真面目なんだ。休みの日にオフィス行ったって誰もいやしねえよ」 「今日は休みだったのか?」 「今日だけじゃない。三日前は終戦記念日で明々後日は独立記念日だぜ。その間はみんな休みさ」 つまり、まるまる一週間お休みということらしい。 「ここじゃ今の時期のことをゴウエ‐オシビケって言うんだ」 「ゴウエ‐オシビケ?」 「英語で言えばゴールデンウィーク、さ」 ショーンの言葉に僕は吹き出した。笑いが止まらなくて車のシートの上で身悶える。ショーンが不思議そうな顔で言った。 「今のがそんなに面白かったのか? まあいいや、ホテルに行くぜ」 僕らを乗せた車が走り出す。 笑いはそれでも止まらない。涙を流しながら、僕はいつまでも笑い続けていた。 |