高得点作品掲載所     じゅんのすけさん 著作  | トップへ戻る | 


みずのほし

序章

 決して忘れることのできない言葉というものがある。
 それは母親が嬉しげに口にした誉め言葉かもしれない。親友と仲直りするときの、ぎこちのない愚直な一言かもしれない。死に逝く父親が最後に残した、ひたすらに純粋な「ありがとう」かもしれない。
 ニコ・リヴィエールのケースは、ひと味かふた味くらい、そんな典型例とは異なっていた。
 名も知らぬ少年から告げられた、ひどく不遜で温かみに満ちた命令。その言葉は、今でもニコの心で脈を打っていた。
 生きた言葉だった。
「守ってあげるから、僕の背中を見ていて」
 そう、言われた。その少年がいたから、ニコは今、生きて地に足をつけていられる。


 五年前。人類にわずかに残された生存圏の一つ、アルプスで、それは起こった。
 ニコにとっては、魂をミキサーにかけられた気すらする最悪の事件。
 走りに走り逃げに逃げて、当時一〇歳だったニコは、ついに体力の限界を迎えた。しかし、それで十分なはずだった。目的地には、もう着いたも同然だった。
 後は、シェルターへ続くエレベーターの扉が開くのを待つのみだった。
 安堵のあまり絨毯に尻餅をついた。そんなニコの耳朶を、不吉な舌打ちの音が叩いた。
 舌打ちの主は、ニコをここまで導いてくれた年上の少年だった。名前は知らない。
「追いつかれた……」
 少年は凛々しい眉間に縦の皺を刻み、議事堂の廊下を視線で射た。
 何もない。ただ、川面を連想させる柔らかな絨毯が、水の代わりに長い毛足をふわりとたたえているだけだった。
 それと、音。
 ずる、べた。ずる、べた。
 重い家具を引きずるような、そして濡れ雑巾を床に落とすような。聞き間違えようはずもない、あの怪物の足音だった。
 エレベーターは、意地悪く口を閉ざしたままだった。階数表示のメーターが、温度計でも見ているように変化に乏しく感じられる。
 もどかしさから扉を叩こうとした瞬間、それは起こった。
 ニコたちからほんの五メートル先で、天井が崩落したのだ。瓦礫が滝のように降り注ぎ、廊下を粉っぽい灰色の煙が満たしてゆく。それは轟音とともに展開された光景だったはずだが、不思議とニコは、一切の音声を知覚していなかった。その代わり、天性の視力が粉塵の一粒一粒まで正確にトレースする。まるで、フィルムのスロー再生を見ているようだった。
 そんな世界に音や温度が戻ったのは、階上から落下してきた不気味な怪物をその目に捉えたときだった。
 怪物には、手足がなかった。顔すらない。ただ半透明なゲル状の塊。それが、象のような巨体をぶよぶよと蠢かせながら、床にべたりと着地した。
 生物かどうかも疑わしいその物体は、ほんのわずか動きを止めた後、のっぺりとした体から二本の触手を生み出した。
「見えてるんだ。僕らのことが」
 少年の表情は厳しい。
 ニコは視線を怪物の巨体に固定したまま、恥もなく悲鳴をあげかけた。そんなニコの視界に割りこんできたのが、少年の背中だった。
「怖くないよ」
 少年の声は微笑みに彩られていた。それがなければ、錯乱したニコは闇雲に逃げ出して地獄への扉を駆け抜けていただろう。それほどに、少年の背中はニコにとって広く、大きく、たくましかった。
 少年の背中越しに、ゲル状の怪物が二本の触手を振るったのが見えた。高速の鞭が少年に迫る。
 少年の右腕が一文字に空気を裂いた。
 直後、怪物の触手は水のしぶきとなって八方に飛散した。無数の水滴は壁に衝突するなり、ジュッという、熱した鉄板に触れたような音を立て、瞬く間に蒸発していった。
 ニコの理解を超えた光景だが、それも気にならない。少女の瞳には、少年の姿は正義のヒーローとして、輝かしく照り映えていた。
 だが、怪物は触手を増殖させてなおも襲いかかってくる。苛烈さを増した攻撃に、少年は次第に触手を捌ききれなくなっていった。足に、肩に、全身に、細かい傷が増えていく。
 それでも少年は退かない。
 そしてついに、エレベーターの扉が開いた。
「ごめん!」
 律儀に謝る少年に突き飛ばされ、ニコは不格好にエレベーターの中へと転がりこんだ。
 その瞬間、少年に隙が生じたものらしい。ニコは異音と、苦しげな呻きを耳にした。
 顔に暖かいものが降りかかり、むっと匂いが鼻につく。ニコは反射的にそれを手でぬぐった。ぬめりとした感触も寒々しかったが、ニコが怯えたのは、その、あまりにリアルな赤さゆえだった。
 見れば、少年の左肩からは一本の触手が突き出ている。そこから溢れているのは、ニコの顔を、手を濡らしたものと同じ赤だった。
 ニコは、今度こそ悲鳴をあげた。
「大丈夫だよ」
 ニコの悲鳴を遮って、思いのほかはっきりとした声で、少年は背中越しに囁いた。
「守ってあげるから、僕の背中を見ていて」
 ああ、やっぱりこの人はヒーローだ……。急激に落ち着きを取り戻す意識の中で、ニコはそんなことを思っていた。そして、魔法にかかったような従順さで、ニコは少年の背中だけを見つめ続けた。
 だが、言いつけ通りに硬直している間にエレベーターの扉が閉じ始めた。慌てて開閉ボタンに手を伸ばそうとしたが、不覚にも腰が立たなくなっていた。
 ニコが最後に見たのは、扉が閉じる寸前の隙間から覗いた、少年の悪戯めいた横顔と、赤く染まった背中だった。
 唐突にニコは悟った。ニコの小さなヒーローは、始めからこうするつもりだったのだ。
 閉じた扉を何度も叩き、それが無意味であることを知った。エレベーターはすでにシェルターへの降下を開始していた。
 降下する密室の中、ニコは一つの誓いを幾度となく繰り返し呟き続けた。
「ありがとう、言わなきゃ。絶対にもう一度会って、ありがとう、言わなきゃ……」


 もう、五年も前の話だ。
 ニコは生きている。
 少年との再会は、いまだ果たされないままだ。それどころか、生死も、素性すらもわかっていない。
 それでも、「ありがとう」と言いたい。
 その誓いを抱いたまま、ニコはハイスクールに進学する。

1章

 一度は滅びかけた人類。人々に残された生存圏は、アルプス、アンデス、ヒマラヤの、わずか三カ所のみとなっていた。それでも人類は、子を産み、街を築き、文明を発展させる。人が他の生物に対して誇るところがあるとすれば、それは知性ではなく、生命力のほうだろう。
 生存圏と呼ばれない場所には、ただ水だけがあった。地球の九割以上を覆う、「海」という名の秘境である。海面が今よりも四千メートル下にあった頃は、人類はその数を六〇億にまで増加させていた。後に混沌期と名付けられた、歴史上もっとも人類が輝いていた時代だ。
 水に意思があることが発見されたのは、混沌期の後期のことだった。それを発見した科学者は、どれほどに驚いたことだろう。生物ですらない水に、意思があるというのだから。
 もともと当時の科学は、宇宙全体の情報を集合させた情報思念群体とも言うべきものの存在を予言してはいた。それは決まった形、決まった意志を持たず、ただ情報の海として、宇宙空間を漂っているはずのものだった。ところが、本来なら宇宙空間に無秩序に混じり合っているはずの情報の渦が、水という物質に同調したのだ。
「水は、宇宙のすべてを知る情報のスープである」とは、それを発見した科学者の言葉だ。
 世界中の学者たちは、水に溶けた情報思念群体から知識を引き出そうと、血眼になって研究を重ねた。しかし、それに成功したのはただ一人。水の本質を突き止めた、最初の科学者であった。
 彼は、自ら「通水術」と名付けた精神感応法により、水と意思を通じることに成功したのだ。水から情報を引き出すだけでなく、その情報を書き換え、水を形態変化させることも彼は可能とした。
 しかし、独占された力や知識は人間を狂わせる。彼の身柄を巡り、大国の間で暗躍が繰り返され、水面下で思惑が衝突するようになった。そしてそれはすぐに表面化し、大規模な世界大戦へと発展していった。
「殺し合ってはいけない。水が人々に絶望してしまう」
 彼が世界中に向けて発信したメッセージは、しかしながら当然のごとく無視された。ただ、メッセージの発信元を探るべく、競争が激化しただけだった。
 そしてついに、そのときは訪れた。
 某国で核ミサイルの発射スイッチが押された瞬間、その軍事基地にいたすべての人間が、体の水分を蒸発させて死んだのだ。また、核の使用に関わったすべての人間が、同様にして瞬時にミイラと化した。
 同時に、核の標的となった都市では大規模な地殻変動が起きていた。地盤が沈み、海岸沿いにあった世界最大の都市は、瞬時にして海底都市へと変貌してしまった。海水の氾濫はなおも続き、そして核ミサイル着弾の瞬間を迎えた。
 爆発は、起きなかった。
 都市を呑みこんだ海水が、蛇のように頭をもたげたのだ。物理法則を無視して幾本もの水の触手が立ち昇り、空中でミサイルを掴み、包みこんだ。そしてそのままやんわりと、ミサイルは海底都市へと沈められていった。
 情報思念群体を溶かした水が、初めて世界に干渉した瞬間だった。
 干渉は、それで終わりではなかった。
 世界中の大陸が沈んでいき、海水自体も増殖していった。海面は上昇し、あらゆる都市が水没した。水は、当時海抜四千メートルとされていた土地までを、海に変えてしまったのだ。しかも、四千メートルを超えたロッキー山脈やシエラマドレ山脈、エチオピア高原、キリマンジャロなども、地盤の沈下によって、今では優美な珊瑚礁の海原となっている。
 しかしそれとは別に、大地が隆起し、沈没を免れた土地もあった。現在、人類の生存圏となっている、アルプス、アンデス、ヒマラヤである。特に、アルプスの地殻変動は、当時でももっとも激しかったものの一つだ。四千メートル級の山はさほど多くない山脈だったが、今でも多くの陸地を残している。情報思念群体にとっても、知性を有する地球という星は、特別な観測対象だったのだろう。その星が核によって滅ぼされるよりはと、生物の間引きを行った。今では、そのように認識されている。
 戦争と水の氾濫により、六〇億の人口は、二億人にまで減少した。その数は、「水歴」一〇四二年になった現在でも、三億強までにしか増加していない。
 また、「はじまりの科学者」と呼ばれる男は、その後ヒマラヤにて、小さな塾を開校したと伝えられている。彼は、そこで水と通じるための術、「通水」を教え、広めていった。


 ニコ・リヴィエールは、人間離れした脚力で建設途中のビルを駆けのぼっていた。
 触れれば折れてしまいそうな細い四肢。そのどこに、これほどの力が秘められているのか。階段を三段飛ばしにするニコが吐く白い息からは、わずかな乱れも見出すことができない。
 急がなくてはならなかった。タイミングも大事だと、ニコは自分に言い聞かせる。
「夜のほうがよかったというのは、贅沢でしょうね……」
 自分の蜂蜜色の髪と白い肌は、真冬の夜闇にさぞかし映えるだろう。学園の白い制服も、夜にこそいっそう輝くはずだ。
「でも、仕方ありませんね。悪とは、時を選ばずして夜陰に乗じるもの」
 真面目な顔で矛盾したことを口走りながら、ニコは最後の五段を一歩で飛び上がった。
 四階までたどり着くと、ニコは目当ての部屋へ駆けこんだ。合成建材の固い床面が靴音を反響させる中、ニコは窓の一つへと走り寄る。未完成のビルには、いまだ窓枠すら嵌ってはいない。
 大きな窓だった。高さは床から天井まで。幅も、ニコの歩幅で一〇歩はあるだろう。
 壁で口を開ける四角い穴の脇で、ニコは一つだけ、深い息を吐いた。それから、地上に顔を出すモグラのように、コソコソと外の様子をうかがう。
「よかった。まだ手遅れにはなっていないようです」
 ほっと、さらに一息。
 ニコは、いそいそと身だしなみを整え始めた。学校指定の純白のブレザーを撫でつけて皺を伸ばす。風で効果的にはためくように、あえてボタンは外しておく。乱れた金髪も、巻き毛が上品に見えるように鏡で念入りにチェックする。
 いつタイミングが訪れてもいいように、ニコは準備を急いだ。


 今回の獲物は男たちが狙った通りに弱く、気が小さく、そして育ちがよかった。ネオカシミール学園の入学式である一月七日、つまり今日は、男たちにとっても心躍る一日なのだ。
 真新しい制服の少年少女たちは無防備なことはなはだしい。大事に飼われてきた鳥籠の中から、この日初めて解き放たれたのだ。そういう小鳥たちのなんと多いことか。
 それでいて財布の中身だけは一人前なのだから、男たちにはたまらない。明日以降は友人を作り、ともに登下校する者が増えるので、やはり今日が一番実入りが期待できる。
 建設途中のビルは、昼を過ぎないと業者が入ってこない。すでに調査済みだ。
 そのビルの前に、男たちはひ弱そうな少年を引きずってきていた。広い前庭だが、敷地外とはシートで仕切られているので人目はない。
 三人の男たちは、慣れた動作で、均等に少年を取り囲んだ。
 少年は、白い制服の中で全身を強ばらせるばかりで、逃げる気すら起きないようだった。
 それを見て、カモの正面に立っていたひときわ大柄な男が口の端を吊り上げた。
「さて……言われなくてもわかるよな。おれたちはちょっとばかり貧しくてな。きみに少しばかりの融資を頼みたいわけだ」
「少しばかりってのは、有り金全部のことだぜ。ヒヒッ」
 男の言葉を継いでいやらしく笑ったのは、少年の左後方に立つ細長い男だった。どこか、栄養失調のカマキリを連想させる。
 大柄の男は、唇をさらに傾けながら少年に一歩詰め寄った。
 少年が、同じだけ後ろに下がる。
 その背中を、右後方にいた小柄な男が軽く突いた。身長は低いが、やたらと肉厚で、重量がありそうな男だ。岩のようなその男は、無言のまま少年に圧力をかけ続ける。
「なに。融資をしてくれる恩人に手をあげるような真似はしねえさ。話し合いで解決できない問題などありはしない、ってのがおれたちの持論でね」
 正面の男は、表面上は優しい口調で、さらに一歩距離を詰めた。
 実際、怪我をさせるつもりなど男にはなかった。殴って奪うのは、頭の悪い連中のやることだ。怪我をさせれば、それが証拠となる。また、同じ相手に複数回融資を請うことも、男たちは避けてきた。一度きりならば、黙って泣き寝入りしてくれる連中がほとんどだ。
 男が手を伸ばすと、少年は合成革の鞄を頑なに抱きしめた。
 男の片眉が小さく持ち上がった。少しは意地というものを持っているようだ。なんの役にも立たない下らない心根だが。
 怪我をさせない程度に軽く痛めつけようかと、新入生の顎を掴み上げた。
 そのときだった。
「そこまでです!」
 まるでこっそりうかがっていたようなタイミングで、制止の声が降ってきた。
 男は上方を仰ぎ見た。目を凝らすと、四階の窓枠に小さな人影がある。
「……なんだ?」
「弱き者を恐怖で従えようなど、恥ずべき悪行と心得るべきです。くわえて金銭を奪おうとは不届き千万。わたくしの目に留まったからには、これ以上の罪を重ねること、断じて許しはしません!」
 妙に時代がかった口上が終わるなり、効果的な風が、人影のブレザーをはためかせた。その風に乗り、小さく「決まりました……」という呟きが聞こえてくる。
 人影が身につける白い制服からして、やはりネオカシミール学園の女生徒だろう。なぜ工事中のビルの四階などにいるのかと、男は実にまっとうな疑問を抱いた。
「…………で?」
 頭上の女生徒は、脱力でもしたのか一瞬だけ体勢を崩した。
「で? ではありません悪党ども! あなたたちの悪行、天は知っています! 大人しく正義の刃にその身を晒し、夕日とともに地に沈むのです!」
 女の頭の中では、その瞬間に何かしらの効果音でも鳴ったのだろう。男に向けて、真っ直ぐに人差し指を向けてきた。
 夕方にはまだ時間があるんだが、とは思ったものの、口にすると面倒そうなので男は無視を決めこんだ。入学式の朝は、年に一度しかないのだ。
 男は、呆然と上を見上げている少年に狙いを定め直した。少年が抱く鞄に素早く手を伸ばす。
「こらーっ! 無視するんじゃありません! 礼儀を知りなさい、礼儀を。悪党が正義の味方を無視してどうするのです!」
 どうするも何も、悪行に精を出すだけなのだが、それを教えてやるのも面倒くさい。
 少女は、四階の高さで地団駄を踏んでいる。大変結構なことに、先ほどからスカートの中が眺め放題な状態だ。
「不遜なあなた方に、正義のなんたるかを教えてさしあげましょう!」
「やかましいな。誰が正義の……なっ?」
 悪態を吐きかけた男の口が、驚愕を表したまま固まった。その場の全員が、目を見開いて上方の人影を凝視する。
 少女は、四階の窓から躊躇なく身を躍らせていた。空中で華麗な伸身宙返り。さらにはひねりもくわえると、ブレザーが翼のように大きく開いた。仕上げにもう一回転してから体勢を整え、少女は優雅に着地した。
 ところが。
 直後、少女は右足の裏を押さえて地面をのたうち回った。
「あ、足が! 土踏まずで石踏みました!」
 思ったよりも小柄でかわいらしい少女が、地面を転げ回っては制服を土で汚していく。
 確かに男も見ていた。きれいに着地を決めた少女の右足が、尖った石を見事に踏んでいた。さぞ痛かろう。
 しかし四階から飛び降りて、痛いのは右足だけなのだろうか。
 反応が麻痺している男の袖を、カマキリ似の男が肘でつついてきた。
「なあ。かなりの上玉だぜ。頭はちょっとアレみてえだが、こいつもどうやら新入生だ」
 なるほど。確かに少女の右袖口には、一本のブルーラインがデザインされている。ネオカシミール学園の一年生に違いなかった。
 もう一人の一年坊主は、いつの間にか目の前から消えていた。混乱に乗じた逃げ足の早さは、賞賛に値する。学校では陸上部に入ることを勧めてやりたい。
「今の隙にあのガキは逃げちまったからよ、この女を獲物に切り替えようぜ。それに女のほうが、融資の後も奉仕が楽しめるじゃねえか。ヒヒッ」
 下卑た笑いに、男は同種の表情を浮かべて頷いた。稼ぎ時なのであまり長々とは遊んでいられないが、せっかく舞い降りてきてくれた獲物だ。せいぜい楽しませてもらうとしよう。
「……よし、さっさと済ませろよ」
 二人の仲間に順番を譲り、男は享楽の現場に背を向けた。逃がした生徒が人を呼んでこないともかぎらない。一応の警戒はしておかなくてはならなかった。
 そこへ、不意に背後から短い苦鳴が聞こえてきた。女の声ではない。
 振り返った男の目に、想定外の光景が飛びこんできた。
 カマキリ似の男が、みぞおちを押さえて前のめりに倒れこんでいくところだった。完全に白目を剥いており、顔面ごと地面にキスをしてそのまま動かなくなる。
「――なんだと」
 少女は、いまだ右足を抱えながらのたうち、白い制服を黒く汚すのに余念がない。苦悶する少女が犯人ということはないだろう。
 続いて背の低い男が、分厚い体を「くの字」に折って胃液を吐いた。砂嚢を殴ったような打撃音があったが、その攻撃がどこから飛んできたのかがわからない。肉厚の男は、さらなる打撃音とともに足をすくわれ、為す術もなく地に沈んだ。カマキリ似の男同様、それきり動かなくなる。
「な、なん――っ!」
 その瞬間、男はすさまじい打撃を顎に受けて舌を噛んだ。顎の砕ける音と痛みのせいで気を失い損ねてしまった。おかげで倒れずにいられたが、それは決して幸運などではなかった。二撃目を脇腹にくらい、肝臓にまで損傷を負う羽目になったからだ。
 地面の感触を頬に感じた直後、男の意識は闇の底へと急降下していった。


 ニコは痛む足を押さえながら、大男が倒れていくのをぽかんと眺めていた。
 何が起こったのかは、どうにか理解できた。悪党の足元に、あめ玉サイズの透明な球体がいくつか転がっている。
「これは……通水、ですね」
 よろよろ立ち上がりつつ、球を一つ手に取ってみる。すると球は簡単に形を失い、掌でただの水になってしまった。見ると、残りの球も固体から液体へと変化していくところだった。男たちは、この透明な弾丸を食らって倒れたに違いなかった。水を自在に操る「通水師」にとっては、さほど難しいことではない。
「いったいどなたが……?」
 それもすぐに明らかになった。
 敷地内への立ち入り禁止を示すシートが一部めくれ、白い制服姿がビルの前庭に入ってきた。その服装からニコと同じ学校に通う生徒だとわかる。
「さては、正義の味方気取りの学生ですね……?」
 自分のことは棚に上げて、ニコは制服の汚れを叩く。
「でも、登場が甘いですね。正義の味方は、やはり高所から現れなくては……。それに、いきなり通水を使って敵を倒すのも感心できませんね。必殺技はピンチで出してこそ映えますのに」
 自分の恩人を、勝手にあれこれ評すニコ。恩人の男が煙草を銜えているのを見て「減点」、と内心で呟く。いや、火を点けていないので訓告くらいにとどめておいてもいいかもしれない。
 恩人の右袖を確認してみた。随分大人びて見えるが、男はニコと同じく新入生のようだった。
 緩んだネクタイと、着崩した制服を見てさらに減点。無駄に前だけが長い黒髪に減点。その下からかすかに覗く、寒気がするほどの鋭利な瞳にますます減点。どう見ても、正義を好むタイプの人種とは思えなかった。
 それでも、礼を言おうとニコは口を開きかけた。
 しかし、恩人はニコの存在など歯牙にもかけず、倒した男たちの前でしゃがみこんだ。
 何をするのかと眺めていると、悪人顔の恩人は倒した男たちから財布を回収し始めた。慣れた手つきで中身を確認してから、それを通学鞄に押しこんでいる。
 唖然とするニコを完全に無視して、男は作業を終えるなり足早に立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい!」
 慌てて、ニコは黒髪の後ろ姿を引き止めた。いくら相手が恐喝常習犯かつ強姦未遂犯でも、金を巻き上げていいという理屈にはならない。
 恩人は、一瞬だけ立ち止まって振り向いた。黒塗りのナイフを思わせる視線が、ニコの上を通過する。彼が示した反応はそれだけだった。すぐに前に向き直ると、今度こそ振り返ることなく去っていく。
「な、なんなのです……」
 ニコは憤慨した。
 男の黒瞳は、本当にニコの上を通過しただけだった。視線は、止まることも速さを緩めることもなかった。道ばたの石ころと、ほとんど変わらない扱いだ。
「わたくしはお礼を言えばいいのでしょうか……それとも文句?」
 心情的には後者にしておきたい。しかし、男はニコが葛藤するうちに、さっさと立ち去ってしまった。結局、会話らしい会話もないままだ。
「それにしてもあの方……あの目……」
 思い出しただけでも首筋がざわついてくる。あれは、まともに生きてきた人間の瞳ではなかった。
「たった今人を殺してきた」
 そう言われても信じてしまいそうな、深い闇色をしていた。
「どうやら、正義の味方の出番には事欠かない学園生活になりそうですね」
 大まじめに呟いて、ニコは再度制服を払った。かなり汚れてしまったが、入学式の前に挨拶に行っておきたい場所がある。
 弱者を一人救うことができたことにとりあえず満足し、ニコは建設現場を元気に走り去った。


 海に近い立地の学園は、世界的にも珍しい。
 太古に生じた四千メートルもの海面上昇のせいで、好んで海に近寄ろうという人間は多くないのだ。漁師を志す勇敢な者もいるが、それも収入がほかの職業に比べて圧倒的に高いからに他ならない。海では、船ごと行方不明になってしまう事件も少なくない。水の怒りに触れたのだとも、水竜に食われたのだとも噂されている。実際、世界の九割以上を占める割に、海洋のことはほとんどわかっていないのが実状だ。
 そんな海が近いからこそ、ネオカシミール学園は広大な敷地を贅沢に使用することができるのだ。また学園は、「通水師」を養成する世界でただ一つの機関としても知られていた。有望な少年少女が世界中から集まり、通水師となることを夢見て学園の門をくぐる。三年制高等部への入学者は、毎年千人を数えるほどだ。しかし、その中で実際に通水を扱えるようになるのは五〇人ほどだと言われている。
 学園は周囲を幅二〇メートルの堀に囲まれ、東西南北それぞれに一つずつ橋を有している。水に囲まれた学校というのも、そういった校風と無関係ではない。
 南門。学園の裏門にあたる橋であり、海に最も近い側でもある。四階建ての立派な部室棟が、この区画にはある。
 部室棟の二階。文化系クラブが集合するフロアに、その部屋はあった。
〈ハニワ研究同好会〉
 ドアには、そんな文字が女性特有の丸い書体で書いてある。これを見て、どんな活動をするクラブなのか想像できる者は、まずいない。
 室内は、たかが数名の会員を抱えるだけの団体に不釣り合いなほど広い。
「今年の新入生は有望ですってね」
 部室中央のカウチで、やたらと艶めかしい女性が髪にブラシを通していた。肩で切りそろえたロゼ色の髪を、早朝の空を思わせる澄んだ色の瞳で慈しんでいる。
 ドレスのように優雅に着こなしているが、服装自体は学校の白い制服だ。
「あの子がかい? エルスターさん」
 応えを返したのは、星空を思わせる黒髪を持った、優しげな男子生徒だった。スマートな体つきに柔和な黒曜石の瞳からは、温厚な性格が垣間見える。
「キョウジ。あたしのことはエルフリーデと呼んでって言ってるでしょう」
 女性、エルフリーデ・エルスターは、向かいのソファに座る男子生徒を軽く睨みつけた。その表情から、年相応の幼さがちらりとのぞく。
「やあごめん。エルスターさん」
 キョウジと呼ばれた男子生徒は、笑顔で謝りながらも注意を聞き入れる様子がない。
「まったく……」
 髪を梳く手を止め、エルフリーデは足を組み替えた。
「自分はファミリー・ネームを呼ばれるのを嫌がるくせに、勝手なものだわ」
 しかし、目の前の男子生徒が「響司・不破」という名を敬遠する気持ちもわからないではない。自分が好みの問題でファースト・ネームを頻用しているのとは事情が違う。
「まあいいわ。ともかく、部長がおっしゃったのよ。あの子にも期待しているし、もう一人、今年の一年にはいい素材がいるって」
「そのもう一人って、まさか……」
 響司の穏やかな表情がわずかに曇ったのを見て、エルフリーデは悪戯っぽく微笑んだ。
「今度スカウトに行くわ。言っておくけど、部長の決定は絶対よ」
 先手を打って釘を刺したのと、ドアからノックの音が響いたのは、ほとんど同時だった。
「どちら様?」
「僕だけど……」
 ドアの向こうから、気の抜けたコーラのようなくたびれた声が届いた。
「うちの関係者に、ぼく様という方はいたかしら?」
 エルフリーデは、わざと外に聞こえる音量で響司に尋ねてみた。
 響司からは、穏やかな苦笑が返ってくるのみだ。
「相変わらず意地が悪いんだなぁ。アレン・ヤングだよ。君らの顧問様」
「あら、名前だけの顧問が珍しい」
 それでようやく、エルフリーデはドアのロックをリモコンで解除する。
「君は、いじめ癖を改めるべきだと思うなぁ」
 そんなことを言いながら入ってきたのは、ピンの甘い顔をした三〇代の男だった。グレーのスラックスに、カッターシャツという名に泥を塗るような、よれよれのシャツを着ていた。そのシャツは、冬だというのに袖が肘までまくられている。平均的な身長だが、やたらと貧相で細い体格のため、ひょろ長い印象を受ける。
「だって、いじめるのって気持ちいいんだもの。うちの家族はみんな喜んでたし」
 顧問教員の顔が引きつるのを承知で、エルフリーデはわざとらしく言葉で脅した。
「あら、後ろの子は……」
「ああ、入学式の前に挨拶にきてくれたんだ。感心だなぁ」
 アレンが横にどくと、その陰から小柄な少女が現れる。蜂蜜色の巻き毛と白い肌が儚げな、可愛らしい少女だった。
「あらまあ、ニコちゃんじゃない!」
「あ、はい。ニコ・リヴィエールです。本日からお世話になります」
 噂の一人、「あの子」の登場に、エルフリーデは思わず顔を輝かせた。豹のような瞬発力で立ち上がり、入り口に立つ少女に抱きつく。
「ちょっ、先輩っ?」
 新入生があげる、戸惑いの悲鳴が耳に心地いい。
「もう〜。入学式の前に部室に挨拶にくるなんて、とってもいい子。ご褒美に、今日はあたしの家に泊めてあげようかしら」
「蜘蛛の巣に招かれる蝶……」
 横手からのだらけた雑音に、エルフリーデは持っていたブラシを無造作に振るった。
 それが見事にアレン教諭の手の甲にヒットする。普段趣味で使っている鞭に比べれば、ブラシなど腕の一部と変わらない。
「ぼ、僕はこれでも教師なんだけどなぁ……」
 手を押さえて涙ぐむアレンは無視して、エルフリーデは新入生に向き直った。そのまま、目を白黒させるニコを引っ張って響司の向かいのカウチに座らせる。
 突然響司の前に座らされ、ニコが白い頬を桃色に染めた。この上なくわかりやすい反応だ。入学前にスカウトに行ったとき、ニコは響司に一目惚れをしてしまったらしい。
 鈍感な響司が、ニコの反応に首をかしげながら甘く微笑し、口を開いた。
「その汚れ……どうしたの?」
 改めてエルフリーデもニコを見下ろした。確かに、おろしたてにしてはニコの制服はひどいありさまだ。
「あの、登校途中に悪者を退治しようといたしまして、その、不覚を……」
 ニコが、正義の味方に憧れる趣向の持ち主だということは、エルフリーデも承知している。
「それで、大丈夫だったの?」
 響司の声は穏やかだが、本気で親身になっている真剣味も同時に帯びていた。まるで妹を案じる兄のように思えてほほえましい。妹では、ニコにとっては不本意だろうが。
「はい。途中で助けが入りましたから。わたくしと同じ新入生だったみたいですけど、すごく目つきの悪い人で……。それに、通水を使っていました。そうそう、ひどいのです。倒した相手からお財布を……。キョウジ先輩?」
 ニコが、怪訝そうに話を中断させた。せっかくほぐれた表情が再び硬くなっている。
 エルフリーデも、様子の変わった響司を見て、やれやれと息をついた。この男も実にわかりやすい。響司の心を揺さぶる人物については、エルフリーデも心当たりがあった。
「キョウジ、話の途中よ」
「え? ああ、ごめん」
 悲しむような、苦悩するような表情を見せていた響司が、慌てたように笑顔を取り繕う。
 エルフリーデは、それ以上何を注意するでもなく、ニコの後ろに立って蜂蜜色の髪に勝手にブラシを通し始めた。
「あの、キョウジ先輩はその男の人に心当たりがあるのですか?」
「そうだね……いや……」
 困ったように眉を下げる響司を見ては、さすがにそれ以上追求できなかったのだろう。ニコは話題を変えてきた。
「ところで、どうして〈ハニワ研究同好会〉なんていう名前なのですか?」
 訊く少女は、エルフリーデに髪をいじられるままに首をかしげた。
 エルフリーデは、明け方の青空めいた色の瞳で顧問教諭を睨みつけた。
 「説明してやれ」という意図は、無事にアレンに伝わったようだ。だらついた教師は、苦笑の浮かぶ頬を撫でながら説明をはじめた。
「うち、入会希望が殺到しちゃうんだなぁ。そこのエルスター君目当ての男子生徒と、キョウジ君目当ての女子生徒たちでねぇ。しかもろくに通水も使えない生徒ばっかり。それで部長さんキレちゃってね。〈通水同好会〉だったのを、人が寄りつきそうもない名前に変えちゃったんだなぁ」
「はぁ……。それで、入会希望者は減ったのですか?」
「全然。だから結局入会テストでふるいにかけることにしたんだなぁ。名前変えた意味はなかったわけだね」
「ニコちゃんはあたしたちがスカウトしたんだから、テストなんて必要ないけどね」
 きょとんとするニコに、エルフリーデは説明を補足してやった。
「それで、その会長さんはどちらに? わたくし、まだ会ったことがないので挨拶を……」
 きょろきょろとするニコの仕草を見て、エルフリーデは背後から抱きついた。
「ニコちゃあん? 部長って言わないと怒られるから、気をつけた方がいいわよ?」
「そ、そうなのですか?」
 戸惑うニコの姿に、エルフリーデはさらに笑顔を深くする。
「もっとも、今はハニ研メンバーはあたしとキョウジ以外全員出払ってるんだけど」
「出払っている……ですか?」
「そ。アルプスとアンデスで水獣が出現したって話、聞いたことあるでしょ?」
 アルプスとアンデスで、海から現れた怪物が暴れ回るという事件が、先月から頻繁に起こっている。これまでに確認されたどんな海洋生物とも異なるそうで、陸上でも不自由なく動き回れるらしい。ビルさえ苦もなく倒すというから、サイズも大型なのだろう。
 響司が、普段の穏やかな表情を取り戻して説明を引き取った。
「水獣の数が多いから、ヒマラヤに応援要請がきたんだ。だから、学園の中からも通水が使える人たちが派遣されてるんだよ」
「そうですか……。でも、それではヒマラヤが手薄になってしまいませんか?」
「確かにね。でも、僕とエルスターさん、そこのヤング先生がいるし、チベットの高地にだって上位の通水師は少し残っているはずだよ。それにリヴィエールさん、君もいる」
「わたくしは……あ、わたくしのことは、ニコと呼んでください。わたくしなんて、まだ第三位の通水しか扱えませんし……」
「十分だよ、リ……ニコちゃん」
 言って笑う響司の表情は飾り気がないが、そのぶんどこまでも柔らかで、爽やかな魅力に満ちていた。ニコも簡単に参ってしまうわけだ。それより、なんでニコはちゃんとファーストネームで呼んでもらえるのだろう。その点が、エルフリーデには納得いかない。
「でも、世界に千人ほどいるらしい三位以上の通水師……そのほとんどがアルプス、アンデスに派遣されちゃってるのよね」
 わざと不安を煽る言葉を口にしてみたエルフリーデだったが、響司の目元は常と同じで優しく笑んでいる。
「いざとなったら、一位の通水師さんが守ってくれるんじゃないかな?」
 そう言って、響司は珍しく悪戯っぽい微笑みを浮かべた。その視線は、無精ひげを引っ張るアレンに向けられている。
「ねえ、ヤング先生?」
「はあ、あまり期待されても困るなぁ」
「えっ! ヤング先生って一位の通水師なのですか?」
 ニコが、こぼれんばかりに目を剥いた。
 当然の反応だと、エルフリーデは思う。
「凄いです! これで司令は決まりですね。あとはわたくしたち三人の戦隊というのは……。戦隊は五人いるのが理想なのですけれど……司令はどう思われます?」
「え? 司令? 僕が?」
 玩具を与えられた子どもみたいなニコに、アレンは戸惑いを隠せないようだった。
 響司はそんな二人を、目を細めつつ優しく眺めていた。
 響司も意外と食えない男だ。巧みに、通水師の話題を避けるように仕向けている。
 エルフリーデは、注意深く響司の様子をうかがった。おかげで、直後に響司がこぼした囁きを耳の端で拾い上げることができた。
「いざとなったら……か。そのときは……」
 そう呟いた黒曜石の瞳は、ここではない、どこか別の時間を見つめているようだった。


 滞りなく終了した入学式。
 気持ちだけは胸が膨らむつもりで、ニコは期待いっぱいにネオカシミール学園高等部の一年生となった。
 校長や理事長の挨拶などは退屈きわまりなかったが、一応はまじめに聞いておいた。
 特に理事長は、ニコの「要成敗リスト」に名前があるほど悪評高い人物だ。注意深く話を聞いておくのも後のためなのだ。しかし、理事長の話は大して聞く価値のあるものでもなかった。定型句を並べたらこんな文章になった。そうとしか評し得ない賛辞だった。
「式というのは、どこの学校でもこんなものなのでしょうね……」
 軽い疲労に肩をほぐしながら、ニコは教室へと続く廊下を歩いていた。周りも、ニコと同じような顔をした生徒たちがぞろぞろと列をなしている。みんな、これからともに学ぶことになるクラスメイトたちだ。
「それにしても……エルフリーデ先輩に気に入られるのは嬉しいのですけど、できればキョウジ先輩にも……あれ?」
 思考を口からだだ漏れさせていたニコは、視界の端に、気になる人物を引っかけた。
 闇色の髪に、黒塗りのナイフを連想させる瞳。無差別にまき散らす殺気のためか、周囲にぽっかりと空間を作って行列の中を歩いている。ビル建設現場で悪党どもを駆逐した新入生に間違いなかった。
 そう認識するなり、ニコは条件反射のように男に歩み寄っていた。
「そこのあなた!」
「あ?」
 無視されるかと思ったが、返事はすぐに返ってきた。威圧するような響きがこめられていたが、そんなことで怯んでいては正義の味方はつとまらない。
 ニコは、妖刀のような顔で見下ろしてくる男を、正面から睨め上げた。
「あなた、悪党の駆逐はともかく、その後に金銭を巻き上げるのはどういうことです。正義の名の下に、見逃すわけにはいきません」
「…………誰だ? おまえ」
「――っ!」
 男の返事と見下した態度に、ニコは言葉を詰まらせた。
 ちょっとした騒ぎに、周りの新入生たちが注目しているのがわかる。ここで男を説き伏せれば、入学早々正義の味方として一目置かれるようになるだろう。
 ニコは大いに張り切った。
「とぼけようとしてもそうはいきません。あの、建設現場での一件のことです」
「建設現場? 今日は、まだどの女も連れこんだ覚えはねえんだがな」
 男が吐いたそのセリフで、周囲の空気が微妙に浮ついた。
 建設現場。女を連れこむ。その言葉から、みんなが何を思い浮かべたのか――。急激に背中に噴き出した汗を感じながら、ニコは慌ててかぶりを振った。
「な、何を言うのです! わたくしは……!」
「あーわかったわかった。認める。認めてやるから、また相手をして欲しかったら、話しかけるのは学校の外にしろ」
 瞬時に白い制服の群れがざわついた。その中から、ニコの汚れた制服に哀れみの視線を向けてくる者も多い。
 ニコは、湯を沸かせそうなほど頬を赤くして、周りの新入生たちを振り返った。
「ち、違います! 建設現場で悪党からわたくしを助けてくれたのがこの方で……:」
「それで、おいしい礼をいただいたってわけだ」
 必死の弁解に、黒髪の男が余計な口を挟んでくる。
 瞬間、ニコの理性が弾けた。
 思わず、手加減なしの平手を繰り出してしまう。下手をすれば、人の頭などもぎ取ってしまいかねない一撃だ。
 通水師は、体を構成する水と意思を通じているため、常人にはあり得ない身体能力を有するのだ。その力を、ニコはこの一瞬に爆発させてしまった。
 強打者のバットよりも凶悪な一撃が、男の頬にクリーンヒットした。
 ボールのように弾け飛び、男は白い壁に体ごと激突した。壁に細い亀裂が走るのを、ニコの非凡な視力が捉えた。
 ニコは、紅から蒼へと顔色を早変わりさせた。頭蓋を砕いたか頸骨をへし折ったか。この場合、どちらがましとも言えなかった。
「ど、どどどど、どうしましょう……」
 正義の味方改め、人殺しに転身だ。
 動揺する精神に溺れていると、不意に野次馬たちがどよめき揺れた。
 顔を上げて、ニコは我が目を疑った。殺してしまったはずの男が、二本の脚でまっすぐ立っていたのだ。頬は赤黒く腫れ、口からは血の筋を引いているが、両眼は鋭さを失っていない。
 男はニコを一瞥すると、何事もなかったかのように背中を向けて去ろうとする。
「お、お待ちなさい!」
 叫んでも、まったく反応がない。またしても、道ばたの石ころと同じ扱いだ。
 唇を噛むニコに、慰めの声が方々から浴びせられた。今日からクラスメイトとなる女子生徒たちだった。
「あいつには、関わらないほうがいいわよ」
「そうそう、知らないの? あいつ、『キョウイチ・フワ』なのよ」
「――え」
 女生徒たちの一人が教えてくれた固有名詞に、ニコの心臓が跳ね上がった。
「嘘みたいな話だけど、ホントらしいわ。しかもあいつ、入試トップの成績で奨学金まで貰ってるんだって。怪しくない? 理事長が独断で入学させたっていう噂もあるし、歳も違うし……それ以前にあいつ死刑囚なんだから、一〇〇%裏口入学よね」
「キョウイチ・フワ……」
 その名を聞いて、碧天色の瞳が動揺に激しくくらんだ。あり得ない。不破恭一は第一級の犯罪者、死刑囚だ。それが高校に入学など、許されるはずがない。
 ニコがヒーローを目指すプラスの要因が五年前の恩人なら、マイナスの要因は、間違いなく不破恭一への憎しみだ。
 不破恭一。
 ニコが、今まででもっとも憎いと思った人間。そして、密かに恋心を捧げる二年生、不破響司の兄でもあった。


 五年前のあの日、アルプスの首都ツェルマットは、三日連続の雨に覆われていた。まるで、霧のヴェールで惨劇を包み隠そうとしているかのように。
 街は、巨大な怪物たちによって完全に蹂躙されていた。少ない土地を有効に使うための高層ビル群が、砂の城のように簡単に崩されていく。
 水から生まれた怪物たちは、衝動のままに街を破壊し、死者を大量生産していった。
 ニコは、純粋な恐怖に歯の根を鳴らしながら、父、ジョゼフの車に乗せられていた。
 破壊衝動を持つ水獣たちは、次々と海から生まれては被害を拡大させているらしかった。カーラジオのアナウンサーが伝える水獣の数は、発表のたびにその数を増している。
 水がこれほど激しく怒りの意志を表したのは、かつての大災厄以来だった。ニコは街を逃げ回りながら、今度こそ世界は水に覆い尽くされてしまうのだと、本気で信じていた。
 被害がツェルマットに限定されていたと知ったのは、もっと後になってからだ。
「パパ、なぜです。どうして、水がこんなに怒っているのです?」
 議事堂の門を抜けた車の中、ニコは隣でハンドルを握るジョゼフに涙混じりの声で問いつめた。議員である父と一緒なら、議事堂地下のシェルターが利用できる。それに安心して、ようやく悲鳴以外の声を出すことができたのだ。
「特位クラスの通水師が殺されたのかもしれんな。でないと、水がこれほど猛るはずがない」
 通水師と呼ばれる人々のことは、ニコも話には聞いたことがあった。水を自在に操り、水に溶けこんだ全宇宙の記憶を、少しばかり取り出すことのできる人たちのことだ。
 自分も通水師の素質があると言われたことがあったが、いまひとつピンとこない。
 通水師が自然死以外の死を被ると、海が波打ち、天候が荒れると言われていた。しかし、水獣が生み出されるほど水が怒ったというのは聞いたことがない。
「ともかく、この事態を収拾できるのは通水師の方々だけだ。我々は避難を――」
 ジョゼフの言葉は、タイヤごしの地響きによって遮られた。
 見れば、地下駐車場入り口の前に巨体を横たわらせる影が出現していた。
 プリンのよう――と言えば可愛げがあるが、そいつが五メートルの巨体から無数の触手を生やしていては、スプーンをのばす気にはなれない。
「くっ!」
 ジョゼフが急ブレーキを踏んだ。
「きゃあ!」
 ニコの体がシートベルトに圧迫される。
 車は濡れた路面を景気よくスピンして、水獣に突っこむ寸前のところで停止した。だが、安心してもいられなかった。ゲル状の触手が、不気味にうねりながら車のほうへとのびてきた。
「こいつ、海からじゃなく、雨から生まれたのか!」
 突然現れた水獣に、ジョゼフの声が震えていた。
「ニコ! 急いで降りるんだ!」
 叫びながらも、ジョゼフは手際よく運転席のコンソールを操作していた。運転席と助手席のハッチが上へ開いていく。
 すぐに、激しい雨がニコの顔を叩いた。
 それでも、ニコは恐怖に体を痺れさせてしまい、シートベルトを外すこともできない。
「急げ!」
 娘の様子を察したジョゼフが、危険に目もくれず、外から助手席側へと回りこんできた。
 ニコは、ジョゼフにシートベルトを外してもらい、引きずられるようにして車を降りた。
 しかし、すでに親子は脱出に時間をかけすぎていた。
 車を離れようとしたジョゼフの背中を、水獣の触手が襲った。
「がはっ!」
 苦痛と空気を吐き出して、体格のいいジョゼフが勢いよく飛ばされた。もちろん、抱えられていたニコも一緒だ。
 石畳に叩きつけられようかという瞬間に、ニコは父に強く抱きしめられた。直後、体に鈍い衝撃が走ったが、ジョゼフがクッションになってくれたおかげで痛みを感じることはなかった。
 蜂蜜色の髪を振りながら、ニコは水たまりの中で上体を起こした。早く逃げないと――。
「パ、パパ……」
 なかなか起きようとしない父を揺すろうとして、ニコの指先が石膏のように固まった。
 ジョゼフの背中は背広が破れ、むっとする血臭を放っていた。そしてその反対側、胸も服に穴が開き、信じられない量の血を吹き出している。
 先ほどの触手は、父の体を刺し貫いたのだ。
「そんな、パパ……」
「ニコ……に、逃げるんだ……!」
 そういうジョゼフの口からも、赤いものがこぼれている。
「そこの二人! 早くこっちへ!」
 ニコを絶望のふちからすくい上げたのは、力強い少年の声だった。
 その少年は、ニコよりも一つか二つ年上に見えた。やはり、ニコと同じく議員の子どもなのだろうか。濡れそぼった黒髪を乱してこちらへと駆け寄ってくる。
 同時に、触手もニコへと迫っていた。
 ニコまでの距離は、少年も触手もほぼ同じだった。そして驚いたことに、少年の脚のほうが、触手よりもわずかに速かった。
「させるかっ!」
 少年は、ニコの前に出るなり右手を払った。触れてもいないのに、それだけで触手の一本がはじけ飛んだ。
 少年は、疾走を緩めずに水獣へと向かった。
 不意に、空気が変わった。気温が上昇し、雨粒を巻き上げるほどの上昇気流が発生した。むせかえるような湿度と熱気の中、少年は触手をかいくぐって拳を水獣の本体に突き刺した。
「消えろっ!」
 少年の気合いが突風のように吹きつけ、ニコの重くなった髪をなびかせた。
 直後、ゲル状の怪物が瞬時に体を沸騰させ、蒸発した。五メートル近い巨体が、一瞬にして湯気と水蒸気になってしまったのだ。
 それを見て、ジョゼフが血まみれの体を身じろがせた。
「パパ、動いてはいけません!」
「おお、あの子は……」
 ニコの声も耳に入らないのか、ジョゼフは少年にすがるように右手を挙げた。
 とてつもない通水を使ってみせた少年も、すぐにこちらへと踵を返していた。
「あなたは、リヴィエール議員!」
 少年とジョゼフは、どうやら顔見知りらしかった。
「動かないで。傷に障ります」
 駆けつけてきた少年は、ニコを安心させるように微笑んでからジョゼフの傷を検分し始めた。
 ニコは、どうしたらいいかわからずに少年の袖を握りしめた。ジョゼフの怪我は、脱出にもたついた自分のせいだ。体が、瘧のように震えてきた。
 そんなニコの頭を、ジョゼフの大きな手が優しく撫でた。その手は、すでに体温を失いかけていた。
「リヴィエール議員、動いては――」
「いいのだ。それより、今きみに会えた幸運を……無駄にしたくない。た、頼む……。ニコを、娘を……シェルターへ……」
「い、いやです! パパも一緒に――」
「ニコ、この少年が……絶対におまえを守ってくれる……。生き延びて、ヒマラヤの……母さんのところへ……行きなさい……」
 次第にジョゼフの声がか細くなっていく。
 失われつつあるジョゼフの魂を引き止めようと、ニコは必死に父親の体を抱きしめた。その体が、悲しいくらいに冷たい。
「フフ……すまんなあ……。きみは、死人の頼みは……断れ……ないだろう……」
 ジョゼフは、最後に安堵の吐息を漏らし、ニコの腕の中で命の灯を消した。
 最後の吐息とともに命まで吐き出されたのを、ニコは嫌というほど実感できてしまった。


 五年前のあの日は、ニコにとって生涯でもっとも辛い記憶となった。
 父を失った。
 恩人である少年は、ニコを逃がすための盾となり、議事堂に残った。名前もわからないニコだけの小さなヒーローは、生きているのかどうかさえ定かではない。
「キョウイチ・フワ……」
 すでに小さくなった背中を睨みつけ、ニコは五年前の惨劇を起こした張本人の名を呟いた。
 不破恭一、響司兄弟の両親は、世界で数人しかいないといわれる「特位」の通水師だった。極限まで水との意思を共感させ、始源から未来における宇宙の情報を多量に引き出すことができる存在だ。それだけに、彼らが殺されたときの水の怒りは凄まじかった。しかも、その犯人が夫妻の長男とあってはなおさらだ。
 それが、五年前の惨劇の原因と言われている。
 マスコミは、このスキャンダルを大々的に報じた。当事者でない人々にとっては、さぞ興味を引かれる事件だったことだろう。長男、不破恭一が、特位の通水師である両親を殺した。弟の響司は、悲劇の主人公としてメディアの格好のターゲットとなった。
 ニコは事件の報道から意識的に目をそらしていたため、最近まで、学園に憎き男の弟が通っていることを知らなかった。
 入学前から同好会にスカウトされていた。そのスカウトに訪れた先輩の一人に、不破響司がいたのだ。そして、周囲の雑音に惑わされることなく穏やかに生きる彼に惹かれた。
「キョウジ先輩は、キョウイチが学園に入学したことを知っていたのですね……」
 だから、自分が通水を使う男に助けられた話をしたときに、表情を硬くしたのだろう。
「でも、どうしてあの男が……」
 通水師殺しは死刑と定められている。それは、当時一二歳だった恭一も例外ではないはずだ。そんな男が、なぜ刑務所ではなくハイスクールに入学しているのか。
「理事長とキョウイチ・フワ……。いったい何を……」
 悪党が何を企んでいようと、ニコは負けるつもりはなかった。
 恩人の少年に憧れ、正義の味方として生きてきたニコにとって、これは紛れもなく最大の試練だった。正義の味方として、憎しみに溺れることなく悪の企てを阻止しなくてはならない。
「絶っっっっっ対に、負けません!」
 突然拳を突き上げて叫んだニコに、周囲の新入生たちが数歩後ずさった。
 そんな彼らに気づくこともなく、ニコは汚れたブレザーを颯爽とひるがえらせて教室への道のりを急ぐのだった。

2章

 通水の授業では、東門近くにある広大な室内プールがしばしば利用される。初回は自己紹介と基礎知識の講義だけだったが、二回目の今日は実技が行われるということだった。
 濡れてもよい服装で、と言われていたが、恭一は普段と変わらない制服姿でプールサイドを訪れていた。クラスメイトが水着や体操着で集合する中、一人異彩を放っている。
 恭一の目的は、通水の担当教員アレン・ヤングの実力を見極めることだった。
 ところが、何をどう間違えたのか自分が通水の見本を見せる役に指名されてしまった。しかも、ニコ・リヴィエールとの実戦という形で。
 通水を使えることを極力隠しておこうという思惑は、早々に頓挫してしまった。
「このクラスでの授業は楽だなぁ。僕の代わりに通水を見せてくれる生徒が二人もいるんだもんなぁ」
 無精ひげをつまみながら気の抜ける口調で言われたときは、一瞬だけ殺意めいたものがこみ上げた恭一だった。
 対戦相手に指名されたニコは、お人好しなのか頭が悪いのか、照れながらもやる気満々のようだ。どうせ、憎き悪党を公然と叩きのめすことができるのが嬉しいのだろう。
 白いジャージと隙なく整えられた巻き毛という姿に、軽い同情を覚える。じきに水浸しになってしまうことは、自分の相手を任された時点で決定しているのだ。
「模擬戦だからねぇ。お互いプールの反対側に陣取って、先に一撃与えた方の勝ちっていうことにしようかなぁ」
 どうでもいいが、脱力する口調はどうにかならないものか。アレン・ヤングという教師は、外見からはとても高位の通水師であることを想像させてくれない。だが、それだけに不気味な存在でもあった。
 飛び込み台に腰を落ち着けながら、恭一は小さく嘆息した。ともかく、こんな茶番はさっさと終わらせるに限る。アレンは、今のところ手の内を見せてくれるつもりがないようだった。
 五〇メートル先には、ニコがクラスメイトからの声援を受けて位置に着こうとしていた。
 笑顔で友人たちに手を振りながら、ニコはちょうど恭一の正面にあたる第五コースに位置を定めた。洗濯板がそんなに自慢なのか、飛びこみ台に立って胸を反らしている。
 授業に影響がないよう、コースロープは取り払われていた。設備を破壊しない程度の気遣いはアレンにもできるということだろう。
 クラスメイトは一〇コースのサイドに控えているが、当然のように全員がニコ寄りに陣取っていた。
「それじゃあ始めてみようかぁ」
 その声は背後から聞こえる。
「なんでこいつだけがおれのそばにいるんだ……」
 うんざりとしながらも、恭一は心に壁を作って軽薄な教師の存在を無視した。
 ところが、正面からは別の声が恭一を脱力させようとする。
「覚悟なさい! 勝つのはわたくしです。なぜなら、わたくしは正義なのですから!」
 黙殺してもよかったが、あえて恭一はニコの神経を逆なでしてみることにした。
「おまえは俺の背中でも見てりゃいい。どうせ追い越せねえんだからな。俺の前に出たら、命は保証しねえぞ」
 効果はてきめんだった。ニコの綺麗な顔が、赫怒によってみるみるうちに赤くなる。今の言葉の中に、よほど神経に障る要素が混じっていたのだろう。
 感情の爆発に通水が連動したようだ。
「二度と! 二度と言わせません!」
 怒りにまかせた一撃が天に昇った。
 プール中央で、水が昇竜となって高い天井の間近まで達した。電車ほどもある水柱が大量のしぶきを散らし、先端を恭一に向けるや、うねりながら急降下してくる。
 クラスメイトたちが、それぞれの口から歓声や悲鳴を室内プールに反響させる。それに、水柱が発する地鳴りのような轟音が覆い被さり、空気を低く震わせた。
「なに……」
 顎を開く水竜を見上げて、恭一は小さな嘆声をこぼしていた。
 頭上の透明な牙は、想像を遙かに超えた高速で襲いかかってきた。恭一は、とっさに右拳を、殴るようにして突き上げた。
 半瞬と時間差をおかず、膨大な量の水が形成情報を失って内側から八方に弾け飛んだ。
 無数の滴は、ニコと恭一だけを避けるようにしてフロア全体を水に濡らす。クラスメイトたちが被害を被り、抗議の声をあげた。
「あいつ……」
 平静を欠いた自分の声に、恭一は思わず臍を噛んだ。
「本当に第三位なのか」
 確かに、水の形状と動きを操るのは第四位に分類される術だ。初級者が最初に覚える通水でもある。しかし、今のはパワーが桁違いだ。二位の力をも上回るだろう。
「指一本使わずに勝ってやるつもりだったんだがな」
 どうやら、そうも言っていられないようだ。体の動きに合わせて意思を叩きこまないと、ニコが干渉した水の意思を封じられないかもしれない。
「この才能は予想外だが……」
 言葉数が増えていることに気づき、恭一は口の端を吊り上げた。柄にもなく興奮をしてしまったらしい。
 しかし、のんきに笑っている暇もなくニコの猛攻は続いた。
 飛び散った水滴が再び集合し、幾条もの触手となって襲いかかってきた。この手数も、通常の第三位を超える苛烈さだった。
 豪雨のような激しい攻撃は、恭一が腕を振り払うごとに無害な霧雨と化して四散した。しかし、生じた霧がまたしても集結し、しつこく攻撃を加えてくる。前後左右、さらに頭上や足下からも、水が鋭利な針となって迫る。恭一も、少々の忙しさを感じたほどの手数だ。
 水が次第に熱を帯び始めてきた。そして、それはすぐに沸騰した熱湯となる。
 ニコの仕業なのは明白だった。水分子の活動を活発化させ、分子間衝突によって生じる熱によるものだ。逆に、分子の活動を停止させれば水は凝固し、氷になる。これが行えるようになって初めて第三位の通水師と認められるのだが、ニコの場合は規模が桁外れだった。
 恭一は、飛び込み台の上で無造作に脚を組み替えた。灼熱の針は視線のみで弾き飛ばす。
 ニコは自分が圧倒的優位に立っているとでも思っているのだろう。反撃はないと判断したからこそ水を沸騰させ、より攻撃に殺傷力を与えたのだ。
「ったく……。たかが授業で本気になってんじゃねえよ」
 そんな独白もむなしく、対岸の少女は攻撃パターンに、わずかな変化を加えてきた。
「あいつ……」
 初めて、恭一の黒瞳が感嘆に見開かれた。
「俺の弱点を見抜きやがった……」
 恭一は、背後よりもむしろ左からの攻撃を苦手としていた。
 そして今、ニコの猛攻は特に左方からの密度を増しつつあった。
 弱点といっても、まず気づかれる心配がない程度のわずかなものだ。到達者級の武道家でもないかぎり、見抜くのは不可能だと思っていた。
 武術に関してはまったく素人のはずのニコに、どうして見抜くことができたのか。
「とんでもねえ視力を持ってるらしいな」
 不意に、腹の奥から笑いがこみ上げてきた。とてつもない才能だが、本人にその自覚はまったくないだろう。
「稀有な素材だが、まだ飛ぶこともできねえ雛鳥……いや、卵だな。敵を知らねえ、自分のこともわかっちゃいねえ」
 ひときわ強烈な一撃を、恭一は左腕一本でプールに叩き落とした。
「まずは思い知ることから始めるんだな」
 続く右手の一振りで、プールサイドの水、濃霧、熱湯の触手や弾丸のすべてが本来の居場所に帰還していった。五〇メートル先の第五コースでは、ニコが慌てた様子で水面に手をかざしている。突然水の意思に干渉できなくなったのだから当然だろう。
「おい、正義の味方」
 恭一は、伸びた前髪の奥から視線のナイフを飛ばした。
 それと衝突した碧天色の瞳は、抵抗するように力強く見返してくる。いい度胸だ。
「おまえに弱者が守れるのか。自分が使った力のせいで、周りの人間まで命を落とすってことも、ときにはあるんだぜ」
 告げると、恭一は静かに水面に右手をかざした。
 煮え立つ熱湯が、海のように不規則に波立った。かと思うと、直後にはニコと観客にとって絶望的な津波となった。プールの内容物すべてを一滴の無駄もなく鉄砲水として、対岸を急襲させる。ニコの通水など問題にならない、圧倒的な質量だ。
 ニコが、必死に津波を押し返そうとしている。しかし、恭一が支配する水の意思は、涙ひとしずくの干渉すら受け付けなかった。
 ニコの背後まできて声援を送っていたクラスメイトたちは揃って悲鳴をあげた。
 津波が絶叫を押しつぶした。恭一の攻撃が轟音と衝撃の牙をむく。ニコを吹き飛ばし、背後のクラスメイトを飲みこみ、一〇コース脇にとどまっていた観客をも濁流に押し流した。
 しばらくは、水流のざわめきだけが室内プールを支配していた。それが治まると、続いて人の呻き声がちらほらと聞こえるようになる。熱湯のままなら多くの死者を出しただろう。しかし、学園内でそんな問題を起こすわけにもいかない。恭一は、沸点に達していた熱湯の温度を寸前に四〇度まで下げていた。怪我人といっても、せいぜい転んでどこかをすりむいた生徒がいるくらいだろう。
 ニコは、プールの中で尻を着いてへたりこんでいた。一度押し流された後、返す波にさらわれてプールに落とされたのだ。見れば、同様に何人かのクラスメイトが適温の風呂に水着や体操着姿のまま浸かっていた。
 先ほどまでの威勢はどこへやら、ニコは呆然と恭一を見上げてくるばかりだった。
 刺激が強すぎただろうかと、恭一は小さく肩をすくめた。恭一が水温に気を遣わなかったら、間違いなくクラスメイトの大半が死んでいた。そして、もともとプールを沸騰させたのはニコなのだ。そのことを、蜂蜜色の髪の少女は理解し、噛みしめ、飲みこんでいるのだろう。ニコの瞳に浮かんだ怯えは、恭一にではなく、自分自身に対して向けられているようだった。
「言っただろう。おまえは俺の背中を眺めてりゃいいんだ。前に出ようなんて思わねえことだ」
 直後、ニコの瞳に生気がみなぎった。強い怒りと反発の視線で恭一を睨め上げてくる。
 思ったよりも強靱なニコの精神力に、恭一は心の中だけで小さな笑みを浮かべた。
 ニコが何かを言おうとする前に、場を落ち着けようとする教師の声が室内プールに反響した。恭一以外では、唯一体を濡らしていない人物だ。
 恭一は、プールサイドで生徒に声をかける教師に針のような殺気を送った。
 アレンの肩が、かすかに反応を示した。
 恭一は、手元で水をビー玉サイズの弾丸に変換し、亜音速で撃ち出した。
 頭部を粉砕する威力を持った弾丸を、アレンはあっさりと左手で受け止め、無数の水滴にしてしまった。のみならず、反撃の弾丸を右手に生み出し、超音速で放ってきた。
 応じて、恭一も弾丸を掌で受け止めた。ひとつ違うのは、恭一はその弾丸を散らしてしまわず、手の中にとどめたことだ。
 アレンは、何も言わずに困った顔で頬をかいている。
 恭一は、口元を片方だけ吊り上げて笑った。簡単に挑発に応じてくれたおかげで、目的を達することができた。
 二人のやりとりを目撃する視力を持った唯一の生徒は、しかし悔しげに自分の足下を見つめているだけだった。


 表面上は平和な日々が二週間ほど続いていたが、ニコの内心はそうもいかなかった。
 授業も一通り体験し、新入生も徐々に活気づき出している。話に聞いていたとおり、ハニワ研究同好会には入会希望者が殺到した。そのほとんどが、響司とエルフリーデ目当てなのは明白だった。光栄なことに、今年はそれに加えてニコを目当てにやってくる男子生徒も見受けられたようだ。
 そして、そのための「ハニワ研究」だ。入会試験をパスできた者は、いまだかつて一人もいない。そもそもニコ自身、ハニワというものがなんなのかさえ知らないのだ。
 ところが、今年の試験では合格者が出てしまった。ハニワとかいう、太古の異国が生んだ土器について、完璧に近い知識を有する女子生徒がいたのだ。ハニ研があると聞いたからこの学校を志望したのだと、青空のような瞳をきらきらと輝かせていた。
 マニアというのはいるものだ。
 ニコは、頭を抱えるエルフリーデという、大変珍しいものを見て内心で微笑んでしまった。悪いとは思うのだが、普段まったく隙がないだけに、こういう姿を見ると安心してしまう。
 結局、試験で満点を取られてしまった以上、入会を認めないわけにはいかなかった。ハニ研とは名ばかりの、通水師ばかりを集めた同好会だと説明したところで、諦めてくれそうにない勢いだった。
 ニコとしては、同学年のメンバーができたことが少しだけ嬉しかった。新メンバー、ルル・ユーリーの、小学生のような可愛らしさがまたたまらない。ほとんど、妹ができたような気分だ。なにより、ルルの胸が自分よりもいっそう平面に近いというのがすばらしい。
「完全に想定外だわ……。なんで、ハニワに関する筆記試験で満点がとれるの?」
「そんな〜。あたしなんてまだまだですよ。世界的に見たら、ハニワ初級者です」
 そんな会話をしながら、同好会のメンバー四人が、そろって職員室を退出した。一年生二人が、部室の鍵の返却場所を教えてもらっていたのだ。そろそろ下校時刻が近づこうかという夕刻のことである。
 世界的にといっても、世界中にそう何人もハニワマニアがいるのだろうか。思ったニコだったが、口に出すのは控えておいた。
「すっごくいい問題でしたよ! あの問題を作った方は、きっと名のあるハニワ研究家さんなんでしょうね!」
「部長がハニワ研究家だったなんて初耳ね」
「会長さんですか! 早く会ってみたいなぁ。楽しみだなぁ」
「部長って呼ばないと、体中の関節を全部反対側に曲げられるわよ」
 エルフリーデが話す部長像は、いつも悪魔めいていて身震いを誘う。
「みなさんはスカウトで同好会に入られたんですよね。すごいな〜。あたしも早くそのくらいハニワに精通したいです」
 ルルは、ツインテールにしたブロンドを弾む歩調に合わせて跳ねさせている。
 ルルの尊敬の眼差しが、ニコにはやけに後ろめたかった。
「それほどのことでもないわ。ね、キョウジ」
「うん。好きこそものの上手なれってね。人の脳は、好きなもののことはたくさん吸収できるようにできてるんだよ。ユーリーさんなら大丈夫。ね、ニコちゃん」
「え? そ、そうですね……」
 突然話を振られて、ニコは慌てて首肯を繰り返した。
 ルルは、不自然に頭をかくかくさせるニコを見て、それでも励まされたようだった。ツインテールが上機嫌に跳ねている。
 それにしても、エルフリーデだけでなく響司までも平然とハニワ好きを装うとは。正義の味方としては甚だ不本意だったが、エルフリーデが怖いのでニコも話を合わせざるをえなかった。
「鍵の場所も教えたから、これからはいつでも部室で活動ができるよ。がんばってね」
「はい!」
 優しい笑顔に対し、ルルは元気な笑顔で返事をした。ニコは、ぎこちない笑顔でそんなやりとりを見つめている。エルフリーデの笑みは悪戯めいていて、性格がよく知れた。
 職員室脇の階段を下りると、目の前には教員用の玄関とエレベーターがある。生徒用の通用口は、そこからさらに歩いたところにある。そちらへ足を向けかけた四人の前で、エレベーターの扉が音もなく開いた。一般教員用とは別の、理事長室直通のエレベーターだった。
 はからずも、会話が止まった。黒い噂の絶えない老人が出てくるのかと、ニコは心の中で身構えた。
 しかし、開いた扉から出てきたのは、そんなくだらない小悪党ではなかった。
「キョウイチ……」
 その名が、思わず口からこぼれてしまう。
 ニコにとっては、くびり殺したいほど憎い相手。響司の兄であり、自身の肉親すら殺した男でもある。
 不破恭一は、エレベーターから出ると四人に気づいたらしく足を止めた。なかば前髪に隠れた暗黒色の瞳が、ニコたち同好会メンバーに向けられる。
 ニコの胸が、木枯らしに当てられた枯れ野原のようにざわついた。黒塗りナイフを思わせる恭一の瞳に睨まれると、必ずわき上がってくる感覚だった。憎しみとは別の何か……。
 エレベーターが、扉を閉じることを機械音声で告げた。静寂が耳に痛い無言の時が流れる。
 ルルだけが、状況を理解できないのか仔犬のような目できょとんとしている。
 恭一の視線が、一同をさっと撫でた。双眸の動きは、実の弟に対しても固定されることがなかった。
 常に穏やかな笑みを絶やさない響司が、ニコの隣で強く拳を固めた。
 それに気づいたニコは、響司の横顔に目を見張った。
 普段からは想像ができないほど、響司の表情がこわばっていた。黒曜石の瞳には輝きがなく、食いしばった奥歯のせいか、口元はかすかに震えている。
 対照的に、兄は少しも心を動かされなかったようだ。かすかに鼻で笑ったような気配のあと、恭一は四人に背を向けた。
 その仕草がひどくニコの気に障った。
「――待っ」
 思わず恭一を呼び止めようとしたニコの肩に、そっと暖かい手が載せられた。見上げると、響司が諦めにも似た表情を浮かべていた。
「キョウジ先輩……」
 この兄弟の間には、どんな感情のやりとりがあるのだろう。少なくとも、兄は弟の姿に何ら感慨を抱かなかったように見えた。
「怖いのねえ、彼」
 その割には、エルフリーデの声はどこか楽しげだった。新入生とはいえ、年齢的には自分より一つ上の男を、年下の少年であるかのように「彼」と呼ぶ。
 エルフリーデは、上品なロゼ色の髪に手櫛を通しながら「彼」を見送った。
「ねえ、ニコちゃん。彼、放課後は普段どうしてるのか知らないかしら」
「わたくしにはなんとも……。毎日、終業と同時に教室を出て行ってしまいます」
「昼休みは?」
「やはりすぐに教室を出て行ってしまいますので、わたくしにはちょっと……」
「そう。朝は? 遅刻はしないのかしら」
「ええ、いつもかなり早いらしくて、みんな迷惑しているくらいです」
 どうしてそんなことを訊くのか、考え事をするときの癖で、ニコは指に髪の毛を巻きつけた。
 すると、エルフリーデは聞き捨てならない一言を言い放った。
「彼をウチに勧誘するには、朝しかないってことね」
 玄関を開けた瞬間に逆さ吊りの腐乱死体を見たとしても、これほどの衝撃は受けないだろう。それほどにニコは驚き、反発を覚えた。
 響司からも、息を飲む気配が伝わってくる。
「な、なにを言っているのです? 相手は通水師殺しの重罪人ですよ!」
「五年前の事件でしょ? 知ってるわよ、もちろん。でも部長は、彼の入学の噂を聞いたときからスカウトするつもりだったみたいよ。自分が帰るまでに、キョウイチ・フワを入会させておけって言い残してアンデスに行っちゃったんだもの」
「わたくしは断固反対です! キョウジ先輩もそうですよね!」
「そうだね、僕もちょっと承伏できない」
「あたしに反対されてもね。部長の指示だもの」
 エルフリーデは、戸惑う二人を見るのが楽しいのか、生き生きとした表情で肩をすくめた。並の男なら簡単に参ってしまうだろう魅惑的な笑みだ。
 もちろん、ニコは参らされなどしなかった。
「部長の指示でも納得できかねます! あの事件でキョウジ先輩は両親を奪われましたし、わたくしも、パパを水獣に殺されました。キョウイチのせいで亡くなられた人が、いったい何千人いると思っているのです!」
「ニコちゃん、もういいよ」
 人のよい響司がなだめてきたが、一度高まった憤激は、そう簡単には治まらない。
「キョウイチは、人殺しです。それも、罪も償わずにこんなところでのうのうとしている、言語道断な死刑囚です!」
「ニコちゃん、もうその辺で……」
「普段から暴力的ですし、人のお財布は盗りますし、今だって、何を企んでいるのかわかったものではありません。はっきり言って、悪党の中でも最低最悪な――」
 突然、顎をものすごい力で掴まれた。骨がきしみを上げ、痛みと動転で声も出ない。
「黙れと言っている」
 冷たい黒瞳。激情を無理に抑えこんだような声で、響司が喉を震わせた。
 怖い。普段が穏やかなだけに、感じる恐怖は恭一以上だった。体が小刻みに震えた。
 響司の肩に、白い手が置かれた。エルフリーデだ。途端に、ニコの顎は万力のような握力から解放された。
 ふらりと一歩よろめいて、痛む顎に右手を添えた。信じられない思いで、ニコは響司を見上げた。じわりと持ち上がってきた涙のせいか、かすかに、その姿が歪んで見える。
「ごめんニコちゃん……。僕の前で、兄の話はしないでほしいんだ……」
「も、申し訳、ありません……」
 あまりに沈んだ様子で話す響司に、ニコは受けた仕打ちも忘れて謝った。
 ニコは知った。たった今、自分は響司の心の傷をスパイクで踏みつけてしまった。端から見れば響司の蛮行だろうが、悪いのは自分のほうだということを理解した。
 何となく気まずい空気が漂った。そんな空気を吸いこむように、エルフリーデが大きく深呼吸をした。
「ま、勧誘はするけど、どうせ入ってはくれないでしょ。そんなに気にするほどのことでもないわ」
 どこからか取り出したブラシで、エルフリーデはロゼ色の髪をくしけずる。
 ニコは、美貌の先輩が眩しくて目を伏せた。とてもエルフリーデのようにはふるまえない。恭一のこと響司のこと、どちらを先に気にかければいいのかもわからない。
 決して負けないはずの正義の味方は、ほかの三人に聞こえないようにこっそりと吐息をもらした。


 一年L組。
 エルフリーデが見上げたプレートにはそう記されている。
 始業まではまだ時間があるものの、すでにほとんどの生徒が教室にいる。一学年の一学期ともなれば、みんなまじめなものである。
 エルフリーデは、産毛の先ほどの遠慮も見せず、堂々と一年生の教室に踏み入った。
「あら、ニコちゃんおはよう」
 教室の最後尾、入ってすぐの席に、ニコは腰を落ち着けていた。蜂蜜色の巻き毛は、今日も上品にまとまっている。
「おはようございま……先輩っ?」
 朝一からかわいい後輩の仰天するさまが見られて、エルフリーデの機嫌は大いに上昇した。
 ニコの声を聞きつけて、教室中の視線がすべてエルフリーデの姿に釘付けになった。室内に充満していた笑い声や世間話が、戸惑いのざわめきにとってかわる。
 エルフリーデは、女優のように優雅な仕草で、下級生たちに微笑を返した。とたんに、教室全体が嬌声に満たされた。
「せ、先輩。どうしてここに……?」
「あら、言ったでしょう。勧誘よ、か・ん・ゆ・う。彼はどこかしら?」
 頭を巡らすと、目当ての人物はすぐに見つかった。一人だけクラスの輪から浮いているのですぐにわかる。
「へえ。窓際の一番後ろなのね」
「本当は別の席でした。でも、初日にあの席だった男子に強引に席を替わらせたのです」
 エルフリーデは首をかしげた。言ってみれば、席の場所など些末事にすぎない。窓際にこだわる理由が、何かあるのだろうか。
 黒髪黒瞳の死刑囚は、純白の制服を着崩し鋭い目線を外に向けている。手元でコインを弄び、時々指で弾き上げては、危なげない動作で受け止めていた。その間も、視線は外を睨んだままだ。
 一連の仕草に惹かれ、眺めていると、ニコが袖を引っ張って忠告してきた。
「先週、キョウイチの弾き上げたコインを途中で奪い取って絡んでいった男子生徒がいました」
「あたしだったら殴り倒して、股間のタマを踏みつけるわね」
「実際殴り倒されました。その、タ……踏みつけは、しませんでしたけれど」
「なあんだ。意外と優しいのね、安心したわ」
 ニコの忠告を軽く笑い飛ばして、エルフリーデは窓際の席へ向かった。
「せ、先輩!」
 後ろからニコの咎める声が聞こえてきたが、それには軽く投げキッスを返しておく。
「おはよう、狼さん。群れからはぐれちゃったのかしら? それとも一人がお好き?」
 エルフリーデは、自分でも少し大胆かと思う態度で声をかけつつ、ゆっくりと歩み寄った。
 反応はない。相変わらず、恭一は外を眺めながらコインを弾き上げている。
 エルフリーデは、しばし思案したのち、恭一の視線の先に回りこむことにした。
「ふうん、ここからだと、ちょうど部室棟が見渡せるのね」
 さりげなく外を眺めながら、恭一の眼前で窓を開け、桟に腰かけた。実際、六階の高さから見る学園の敷地は、緑と水に装飾されてとても優美だった。
 もっとも、今、恭一の視界にあるものはそれよりもさらに優美な景色のはずだ。エルフリーデとしては、ここで白い美脚を組んだり、組み替えたりといったサービスが必要かどうか、悩みどころだった。
 しかし、その必要はなかったようだ。コインをいじっていた恭一の手が止まり、視線がエルフリーデの顔を向いた。
 しばし、黒塗りナイフの瞳と視線を交錯させた。
「おはよう、狼さん」
「……あんた老けてんな。高校生か?」
 出会い頭でいきなりパンチをもらった気分だった。せめて「大人っぽい」と言って欲しかったが、そこをぐっとこらえるのが、真の大人というものだ。
 エルフリーデは、余裕を持って暴言を受け流し、小さく声をあげて笑った。
「同好会の勧誘にきたの。エルフリーデ・エルスター、二年生よ。よろしくね」
「おれが入ると思ってるのか?」
「いいじゃない。かわいい弟もいるし、メンバーは一人を除いてみんな通水師よ。顧問もね。通水師殺しとしては気にならない?」
 相手の神経を逆なでする一言をつけ加えてしまうのは、癖みたいなものだった。
「顧問もだと?」
「気になったようね。アレン・ヤング先生よ。通水の授業、受けてるでしょ」
「ああ……なるほどな」
 曖昧に答え、恭一は腕を組んで思案に入ったようだった。
 この程度の誘いに食いついてきたのは、エルフリーデにとってもいささか意外だった。
「あんた、何位だ?」
 通水師としての階位が気になるらしい。
「二位よ。弟さんと同じ」
「あの教師より強いヤツはいないのか」
「今はね。部長が留守だから」
「そうか」
 恭一が黙りこんだ。好奇の視線とひそめきが教室中に充満していたが、エルフリーデが睨みつけるととたんに静かになった。
 恭一が、制服の内ポケットをまさぐった。そこから取り出したのは、目薬を思わせる小さな瓶だった。
「なあに、これ。目薬? 香水かしら?」
「持ってろ」
 恭一は、一方的に小瓶を押しつけてくる。
「ずいぶん野暮ったい渡し方ね。プレゼントというのはもっとこう……」
「黙って受け取れ」
 肩をすくめながらもエルフリーデは小瓶を受け取った。相手に屈したわけではなく、純粋に興味からだ。すぐに、小瓶をしげしげと観察してみた。中身は、なんの変哲もない水のように見える。
「で、受け取ったら入会してくれるわけ?」
「しねえよ」
「――だと思った。じゃあ、力ずくなんていうのはどうかしら」
「どうもこうも、無意味だな。あんたじゃ俺には勝てない」
 きっぱりと告げられて、エルフリーデは早朝の青空色の瞳をわずかに細めた。実力に自信があるだけに、恭一のセリフは自尊心を大いに刺激してくれた。
 ひとつ、試してくれようか。
 エルフリーデは、右手を上に掲げて大気中の水蒸気に意思を接続させた。意識のパターンを水蒸気にリンクさせ、掲げた右手に力を送りこむ。
 教室の各所から怯えの声が上がった。
 エルフリーデの右手周辺には濃密な霧が立ちこめていた。それが次第に形を定め、一振りの鞭となる。
 エルフリーデは、水でできた透明な鞭を操り、鋭く床を叩いた。小気味よい音が体の芯を震わせ、快感が背筋を駆け上がってくる。
「これを食らっても、無意味だなんて言えるかしら。さあ、跪きなさい!」
 鞭を振るおうとした瞬間、恭一が教室前方のドアを指で示しているのが見えた。そちらに目を向けるなり、ドアが開いて担任とおぼしき教師の姿が現れた。
「ええっ? もうこんな時間!」
 エルフリーデは、慌てて窓の外へと身を躍らせた。さすがに教師に見られるのは、歓迎すべき事態とは言えなかった。教室からは、短い悲鳴がいくつも聞こえてきた。六階から身を投げたことに驚いているのだろう。
「ニコちゃんがうまく取り繕ってくれてればいいけど」
 無責任なことを言いながら、エルフリーデは水の鞭を大きなパラソルに変化させ、落下速度を調節した。
 再戦の機会は、いずれ見つけるとしよう。


 昼休み、ニコはクラスメイトの質問攻めから這々の体で逃げ出してきた。
 エルフリーデの考えも部長の考えも、入会したてのニコになどわかるはずがないのだ。まして、恭一の頭の中など理解したいとすら思わなかった。
「やっと、お弁当が食べられます」
 人のいないところを求めているうちに、屋上へ出る通用口まできてしまった。
「でも、たまには見晴らしのいい場所で昼食というのも――」
 疲労混じりの独り言を続けながら、屋上への鉄扉を開いた。
「…………」
 正確に三秒間硬直して、静かに扉を閉めた。
「む、ムカつきます……! どうして、せっかく見つけたと思った安寧の地まで!」
 恭一に占領されているというのか。
 ドアを開けた瞬間目に飛びこんできたのが、のんきに昼寝をする不破恭一だった。分厚い本を顔に載せていたが、闇色の髪と着崩した制服ですぐにわかった。
「どうしてわたくしの気に障ることばかりするのでしょう! 天性の悪党です」
 ぶちぶちと不平を並べながら、仕方なしに階段を下りていく。早いところ静かな場所を見つけないと、食事を摂り損ねてしまう。
 一年生の教室がある六階まで下りたところで、多数の男子生徒たちとすれ違った。袖のラインを見ると、二年生と三年生の集団のようだ。殺伐とし、妙に好戦的な雰囲気をまとっていた。
 集団は階段を上り、屋上へと向かおうとしている。
「あ……そちらは……」
 思わず引き止めようとすると、細目の二年生が必要以上に顔を近づけて威嚇してきた。
「おっと、女が余計なことに首を突っこんじゃいけねえな。嬢ちゃんは校庭で、お友達とボール遊びでもしてるのが似合ってるぜ」
 つまり、これから上ではひと騒動起きるということなのだろう。それぐらいは、鈍いニコでも理解できた。
 それにしても……と、ニコは頬を膨らませた。気遣われたということなのだろうが、上級生の態度は少々無礼に過ぎた。ぞろぞろと階段を上っていく集団を仰ぎ見て、しばし黙考する。
 喧嘩慣れしていそうな上級生十数名。
 対するは通水を操る殺人鬼一人。
「残念ながら、キョウイチが勝つでしょうね……」
 恭一の力は、先日の授業で思い知らされたばかりだ。高校生が勝てる相手ではない。
 返り討ちにあって不良集団のよい教訓になるのならいいが、その考えはややぬるいかもしれない。
「ああもう! どうしてわたくしの貴重な昼休みがキョウイチなんかのためにっ」
 不満がありすぎて膨らませた頬が破裂してしまいそうだ。だからといって、集団が血祭りにあげられるのを見過ごすわけにもいかない。正義の味方に休息などないのだ。
 ニコは、集団を追って階段を一段飛ばしで駆け上がった。
 登り切ったところで、屋上へ通じる鉄扉に耳を当てる。特に乱闘の気配は伝わってこない。
 ニコは、ドアノブをそっと握りこんで、開いた隙間から様子を覗き見た。
 恭一は、屋上に造られた簡易庭園で、真冬だというのに今ものんきに昼寝を継続していた。葉の落ちた広葉樹の下、顔に本を載せて規則正しく胸を上下させている。
 そんな恭一に対し、男たちは静かに包囲を固めつつあった。
 集団の中から、ひときわ体格のいい男が進み出た。マントヒヒのような赤ら顔の上級生を、ニコは勝手に「ヒヒ男」というあだ名で呼ぶことに決めた。
 ヒヒ男の重くスピードに乗った蹴りが、恭一の脇腹に突き刺さった。
 決して小柄ではない恭一が、フェンスの近くまで軽々と吹き飛んだ。
「こ、殺す気……?」
 あまりのえげつない攻撃に、ニコは巻き毛に包まれた白い顔を嫌悪に歪めた。
 さすがに目を覚ました恭一だが、芝生にうずくまったまま咳きこみ、立ち上がろうとしない。
 完全に相手の戦力を奪ったと知り、集団に嗜虐の炎が灯ったようだ。不良集団はこぞって恭一に殺到し、容赦のない攻撃を叩きこんだ。
 背中を踏み、脇腹を蹴り、顔面に無数の靴跡を刻みつける。
 ニコの予想に反して、恭一は反撃の機会すら与えられないまま集団に私刑を受け続けた。嫌でも目立つ新入生を、上級生たちはよっぽど腹に据えかねていたらしい。
 ニコはそのまま静かに扉を閉じると、乱闘の音が聞こえないように階段を三段ほど下りた。脳の奥が痺れるような感じがする。血の巡りが悪いのか、手の先が冷たく白い。
「い、いい気味です……。死刑囚の義務も果たさずに学校通いなどをするから天罰が下ったに違いありませんね……」
 ニコが嘲笑のつもりで浮かべた表情は、しかし妙にこわばっていた。
 ともかく恭一が集団に危害を加えることはなさそうだった。ニコはそれに安堵して再び階段を下っていく。
「ヒヒ男たちがやりすぎてしまったとしても、もともと死刑囚ですものね。むしろその方が正し……」
 ちょうど六階の廊下に脚を下ろしたところで、ニコの口が元気なく閉じてしまった。
「ただ……しい……?」
 本当に? 確かに恭一は憎い。これまでも、幻想の中で何度惨殺してやったかわからないほどだ。けれど――。
 すでに、恭一は抵抗することのできない状態だった。
 胃のあたりが重く、むかむかする。息が速く、浅くなる。一方的な暴行。血反吐を吐く恭一。想像するだけで脳内が揺さぶられ、気分が悪くなってくる。
 ニコにとっての正義とは、五年前に一度だけ会った少年と同義だった。
『守ってあげるから、僕の背中を見ていて』
 少年は、その言葉通りに背中を見せて立ち続け、弱いニコを守り抜いたのだった。
「あの方なら、こんなとき……」
 考えるまでもなかった。正義の味方の使命は、弱者を守ることだ。弱者が何者であるかなど、この場合関係ない。そして、弱者をいたぶるものは、これすなわち悪なのだ。
「本当に、どこまでも腹の立つ男です!」
 自らを奮い立たせるように大声で言い放ち、自分の頬を勢いよく張った。
 周囲からの視線が集まる頃には、すでに踵を返し終えている。一歩で一〇段を飛び越える身体能力で、ニコは階段を駆け上がった。
 屋上への鉄扉を、集団に気づかれないようにくぐり抜ける。そして、そのまま通用口の上へと跳躍した。
 フロア一つぶんの高さを軽々と飛び、ニコは塔屋の上に立った。先には理事長室のある中央棟が、さらに高くそびえていた。できればそちらに上りたいところだったが、ニコでも一飛びにできないほどの高さがある。
「しかたありません。今回ばかりはこの高さで妥協しましょう」
 呟くと、弁当箱を脇に置く。そして、極力ヒーロー然として見えるように背伸びをし、ない胸を張った。
 下方に目をやると、細目男の蹴りが恭一の延髄に叩きつけられる寸前だった。
「そこまでです!」
 ニコの声はよく通る。常に高みから第一声を発しなくてはならない正義の味方としては、必須の能力だ。
 大声のたまものか、細目はバランスを崩し、蹴りは虚しく空振りに終わった。
 全員の視線が自分に集中するのに快感を覚えながら、用意しておいた口上を歌うような軽やかさで舌に載せた。
「弱きを助け、強きを挫くは正義の法! 数でもって強さに代え、悪党を討つ行為に正義の幻想でも見ましたか。おのが行いを俯瞰し、恥という言葉の意味を知りなさい!」
「――――??」
 私刑集団は、一人残らず何が起こっているのかわからないといった顔でニコを見上げていた。奇妙な介入に、全員毒気を抜かれたようでもある。
「相手が人間の屑とはいえ、集団で不意打ち、リンチとは醜すぎる所業です。見過ごすわけにはまいりません!」
 自分なりの宣戦布告を述べ、ニコは足下のコンクリートを蹴った。
 先日の教訓から、控えめに、一回の宙返りのみで着地を決める。敷かれた芝は冬でもなお柔らかく、今度は軽やかに地に立つことができた。こっそりとガッツポーズを決める。
 リーダーと思われる赤髪赤顔のヒヒ男が、怪訝な顔でこちらを見下ろしてきた。しげしげと、不躾にニコの全身を観察している。
 ニコもお返しに相手を観察してみたが、ヒヒに似ている意外、わざわざ見るべき特徴もなかった。袖のラインが三本入っていることぐらいだろうか。
「おまえ……キョウジさんのところの新入生だったか……?」
 集団のざわめきからも、同様の声が漏れ聞こえてくる。意外にも、自分の顔は上級生にまで売れていたらしい。
 それにしても……と、ニコは巻き毛に指を絡めた。響司が三年生からも「さん」付けで呼ばれる存在だったのは意外だ。もしかしたら、怒った際の響司を見たことがあるのかもしれない。
 ともかく、響司の後輩という立場が利用できそうなのはありがたい。
「ここはわたくしに免じて手を引いていただきましょう。多人数で一人に暴行を働くのは看過できかねます」
「ちょ、ちょっと待てよ。キョウジさんがこのクソ兄貴を嫌ってるのは嬢ちゃんも知ってるだろ?」
「あなた方は、キョウジ先輩に言われてこの男を叩きのめしにいらしたのですか?」
「そうじゃねえけどよ、でも、むしろ嬢ちゃんも参加してえくらいなんじゃねえのか?」
 ニコは、ことさらゆっくりとかぶりを振った。確かに、響司は兄を嫌悪しているだろう。ニコだって恭一は憎い。しかし、それと集団暴力は一つの方程式で結ばれる関係ではない。
 もしも響司がこの集団の行為を喜ぶような男なら、そもそもニコが惹かれることもなかっただろう。こういった行為を潔しとしないからこそ、ニコは響司に惚れたのだ。憎き仇の弟と知りながらも。
「残念ですけど、あなたたちの行為に正義を見ることはできません。お引き取りください」
「嬢ちゃんの指図は受けねえよ」
「なら、少々手荒なまねをしてでも、従っていただきます」
「なんだと?」
 単純なのか、ヒヒ男以下、集団が一人残らず色めき立った。さすがに、華奢な少女に言われて素直に従える言葉ではなかったようだ。
「この女、ちょっと世間の厳しさってもんを教えてやったほうがいいんじゃねえのか」
 そう言ったのは、階段でニコに無礼な口をきいた細目の二年生だった。針のようなまぶたの隙間から、好色な視線をニコの全身に絡みつかせてくる。気色悪い。
 ほかの男たちの視線も、似たようなものだった。ヒヒ男だけはニコを追い払いたそうに顔をしかめていたが、仲間を制する意志はないように見える。どうやら、響司の威光など忘却されてしまったらしい。もしくは、告げ口をする気も起きないほどの仕打ちをくれるつもりか。
 ニコは、全身に注がれる視線に居心地の悪さを感じて身じろぎした。同時に、穏便に済ませようという気も完全に失せる。腹が減っていて機嫌が悪いのだ。
 集団の中から、忍耐力に欠けた男が一人、はやって飛び出してきた。胸元に伸びてきた手は、意外にも俊敏だった。
 しかし、ニコの身体能力は常人とは違う。さらに、天性の動体視力がニコに味方した。
 胸ぐらを掴まれる寸前で、ニコは男の腕を払った。平面に近い双丘が吉と出た。
 腕を払われた男は、レスラーに体当たりを受けたような勢いで横に弾き飛んでいった。
 それには目もくれず、ニコは集団の中に自ら飛びこんでいった。多対一の戦闘においては自殺行為にも等しかったが、知識のないニコはそれを自覚できなかった。
 男たちが四方から群がってくる。しかし、その動きが途中で止まった
「な、なんだ?」
 男たちから、戸惑いの声が漏れた。
 集団の足下で、長く伸びた芝がミミズのように怪しく蠢いている。それらが、男たちの脚に絡みついているのだ。
 むろん、ニコの通水の仕業だった。生物を構成する水分に干渉することは困難だが、草花ならば、ニコの実力でもどうにか操ることができた。
 力を入れればちぎれる程度の拘束でしかなかったが、男たちに恐慌を与えるという点では十分効果があった。あとは、超人の力で突き飛ばしたり投げ飛ばしたりすれば、戦意を喪失してくれるだろう。
 手近な男の袖を取ろうとした瞬間だった。
「きゃっ!」
 ニコは何かに足を取られて無様に転倒してしまった。見れば、脚に何本もの笹が細い茎を絡みつかせていた。踏みこんだ場所が悪かった。しかも慣れない通水だけあって、制御も不完全だったのだ。文字通り、自らの行為に足下をすくわれた格好となった。
 ニコの転倒を見て、男たちが活気づいた。まとわりつく芝を蹴りちぎっては殺到してくる。男たちの目の奥には、先ほど以上に凶暴で淫猥な熱がこもっていた。
 身の危険を感じたニコは大いに慌て、植物の活動にさらに強く干渉を加えた。
 それが完全に裏目に出た。
 自らの脚に絡みつく笹が、さらに強度と締め付けを強くしたのだ。しかも、地に手を着いたそばから、腕にも拘束をくわえてくる。
 ついに細目の右手がニコの細い肩を掴んだ。
「いやっ!」
 尻餅をついたまま身をよじったが、細目に油断はなく、体勢すら崩してはくれなかった。
 完全に混乱したニコは、通水を解くのも忘れて怯えた目を細目に向けた。
 細目の肩にほかの誰かの手がかかったのは、ニコが悲鳴を上げかけたその瞬間だった。
「おい」
 暗い声と肩に置かれた手が、細目を強引に振り向かせる。直後、細目は前歯と血を景気よく吐き出しながらニコの頭上を越えて飛んでいった。
 ニコは、思考を停止させたまま前方を見上げるばかりだった。
 そこに立っていたのは、血に汚れた制服をだらしなく着こなした、黒髪黒瞳の男だった。顔も血にまみれているため、表情を読むことができない。
「キョウ……イチ……」
 小さく呟いたニコの声が、風に乗って包囲の外周まで染み渡っていった。
 男たちの興奮は、すでに氷点を大きく下回ってしまったようだ。恭一に立ち上がる力が残っているなど、誰一人想像していなかったのだろう。
 ニコは、この極悪人が自分を助けてくれたことが信じられず、唾の塊をぎこちなく嚥下した。
 しかし、恭一の視線は自分ではなくすぐ真下の芝に固定されている。
 恭一はダメージを感じさせない動きで、芝生から何かを拾い上げた。その手には、普段恭一が弄っている古びた硬貨が握られていた。細目の男がそれを踏んでいたので、排除したらしい。
 ニコは唖然とするばかりだった。人助けの意志など、恭一にはなかったということか。
 我を取り戻したのは、ニコよりも私刑集団のほうが先だった。改めて、男たちの敵意が恭一に回帰した。ヒヒ男の号令一下、男たちは手で顔の血をぬぐっていた恭一に向け、津波のごとく襲いかかった。
 恭一はゆったりと立ち上がり、背を向けたまま先頭の二年生を迎える。
 後ろに目がある者の動きで、恭一は後頭部に迫る拳をかわした。同時に半身を返しながら襲撃者と体を入れ替えている。
 何事もなくすれ違っただけのようだが、二年生は空中で一回転半して派手に地面に落ちた。完璧なタイミングで脚払いが入ったのを、ニコの動体視力は捉えていた。
 喧嘩慣れした男たちは効率よく包囲網を造り、三人ずつが同時に襲いかかるという戦法に出た。ニコから見ても、男たちの動きは決して悪くない。通水を扱う者でも簡単にはさばききれないだろうと思われた。
 しかし、そんな彼らの攻撃は恭一にはかすりもしなかった。決して速い動きをしているわけではない。通水師としての超常の力を使っているようにも見えない。それでも、相手の手数を完璧にかわしているのだ。むしろ緩やかにさえ見える恭一の動きに、ニコは思わず見とれていた。踊るように攻撃を流しては、脚を払い、蹴りを放ち、手も使わずに男たちを投げていく。
 男たちに大した怪我はないようだ。しかし転ばされる場所が全員同じだったため、後からくる者の下敷きになって誰一人起きあがることができない。
 最後にヒヒ男が脚を跳ね上げられ、十数名の上級生たちは全滅した。
 恭一は、ゴミ山のようになった男たちに視線を流し、軽く鼻で嗤った。
「キョウジさん……ね。おまえら、あいつを本気で怒らせたことがあるな?」
 ニコの心臓が大きく跳ねた。おそらく、彼らも響司の前でくどく兄の話をしたのだろう。
 問いには、くぐもった呻きが返るのみだった。積み重なった男たちは山を崩して自由の身になっているはずだが、立ち上がる気力は残っていないようだ。もともと、自らの優位が確実でなければ暴力など振るえないタイプの人種なのだろう。
「あいつの機嫌を取りたいんなら、街でボランティアでもやったほうが確実だぜ」
 そう告げると、恭一は口の中の血を吐いて屋上を後にしようとする。脇には、いつの間にか日よけに使っていた本が抱えられていた。
「お、お待ちなさい!」
 思わず呼び止めてしまった。
 無視されることはなく、恭一は素直にニコを振り向いた。正面から見ると、顔は特に腫れることもなく綺麗なものだった。
「ニコ・リヴィエールか……。おまえ、何しにきたんだ?」
 その質問に対する応えを、ニコは持たなかった。助太刀にきたなどと言ってつけあがらせるのも癪だし、第一、助けどころか醜態をさらしただけだった。
「俺を助けようとしたのか」
「か、勘違いしないで下さい! あなたのような人殺しにそんな資格があるはずないでしょう! 罪も償わずのうのうとしている殺人鬼など、彼らに蹴り殺されてしまえばよかったのです!」
 言ってしまってから正義の味方らしからぬセリフだと気づいたが、もちろんなかったことになどはできなかった。
「そうか」
 ただ一言、それだけを呟いて恭一は暗く嗤った。それは、男たちを蔑んだようでもあり、ニコを哀れんだようでもあり、自らを嘲ったようでもある笑みだった。
 そのまま、恭一はコインを弾きながら屋上を出て行った。今度は、ニコからも男たちからも制止の声はかからなかった。
 ニコ自身、なぜ恭一を呼び止めてしまったのかわからなくなっていた。


3章

 放課後。エルフリーデはロゼ色の髪をひとしきり整えてから部室へ向かう。
 生徒用玄関を出たところで、お気に入りの新入生の後ろ姿を発見した。これから部室へ向かうところなのだろう。友人と別れ、やや早足となっている。
 蜂蜜色の巻き毛を見つめる瞳に怪しい光を混ぜ、目尻を下げた。ほとんど愛玩動物を見る目つきと変わらない。
 背後から気配を消して近づき、首筋に、しなやかな指をそっと伸ばした。
「ニコちゃ〜ん」
「ひいぃっ?」
 白い首を撫でると、期待通りのいい声で鳴いてくれた。
「せ、先輩っ?」
 焦った様子で振り返ったニコは、貞操を守るように自らの体をしっかりと抱きしめた。
 首筋に現れた鳥肌を見て、エルフリーデは声を立てて笑う。
「いや〜、やっぱりニコちゃんっていじめてて飽きないのよね」
 意識的に迷惑なことを言いながら、エルフリーデはニコの腕に自分の腕を絡めた。
 背徳的ではあるが、実のところエルフリーデにその手の趣味はない。本当は、強くて危険な香りのする、年上の男がタイプなのだ。
 ニコは、単なる楽しいオモチャに過ぎない。
「先輩、他の人が見ています。離れてください」
「いいじゃないの。余計な虫が近寄らなくなるかもよ」
 さらに体を密着させると、ニコの顔色が面白いように赤くなった。
「きみたち、学校内でそういう行為はどうかと思うんだけどなぁ」
 斜め後ろからのネジが緩んだ声に、エルフリーデの体は音速に迫る勢いで動いていた。
 鞄に差しこんでおいた教鞭を抜き、声のほうへと一閃させる。
 教鞭は、空気を鋭く切り裂く音とともに、声の主――アレン・ヤングの鼻先を通過した。
 あと一センチ踏みこんでいたら、アレンの鼻は折れるか裂けるかしていただろう。
「……なんだ、アレン先生か」
 そういえば、ちょうど教職員用玄関の前までさしかかったところだった。
「な、なんだって、きみは相手を確認しないでそういうものを振るうのかなぁ」
「なんとなく、叩きのめしたくなるような声だったのよね……。でも、アレン先生だったんなら、もう少し踏みこんでおけばよかったわ」
 とたんに教師の顔色が血の気を失ったのを見て、エルフリーデは邪悪な笑みを浮かべた。ニコは赤くさせるのが好きだが、この教師は青くさせるほうが面白い。
「他の男性に対してもそうなのか、気になるところだねぇ」
「わ、わたくしは、その鞭のほうが気になります」
「ああこれ? いいでしょ、通販で買ったのよ。軽いし、しなりと硬さの具合が絶妙で、すごく叩きやすいの」
「い、今どき教鞭なんて売っているのですか?」
「鞭ならいろいろ売ってるわよ。どういう鞭で叩かれたいかは人にもよるし」
 そう言うと、ニコはますます赤くなり、アレンはいっそう顔色を悪くした。
「で、アレン先生はもう帰宅? 教師って楽なのね」
「違うよ。ちょっと同好会に顔を出そうとしたんだけどねぇ」
 部室に向かうエルフリーデたちに、よれた格好の教師が猫背で続く。
「どうしたの? 今月は入学式の日にも顔を見せたし……熱血顧問に転向かしら」
「はは……。僕は部長さんが苦手でねぇ。今は不在だから……」
「今度はあたしを苦手になってみる?」
「いや、もう十分……」
 そんな、内容のない会話をしながら学園の敷地を歩いていると、中等部の女子生徒たちと数度すれ違った。その多くが、不安な表情で穏やかならざる噂話を囁きあっている。ここ数日で急激に噴出してきた噂で、エルフリーデも何度となく耳にしたことがあった。曰く、
「カシミール漁港を拠点に活動する漁師が、立て続けに行方不明になっているらしい」
「沖で水獣の目撃が相次いでいるらしい」
「干潮の時間なのに水位が下がらない」
 などといったものだ。通水師としては、見過ごしてはいけない噂話なのかもしれなかった。
「ニコちゃんは、どう思う?」
「無視はできないと思います。アンデスでもアルプスでも、水獣は大量発生していますし、それがヒマラヤへ波及したとしても不思議ではありません」
「でも、今は大半の通水師はアンデスとアルプスに出払ってるのよね」
「僕は何とかなると思うなぁ。ほら、同好会にも君らがいるし、キョウイチ・フワもかなりの実力者だしねぇ」
「あなたも一位の通水師でしょうに……」
 鞭でもう少し気合いを注入してやりたくなったが、それよりも気になることがあった。
「キョウイチ・フワ……試したの?」
 今朝スカウトに行ったかぎりでは脈なしと感じた。それどころか、こちらの神経を逆なでしようという態度が見え見えだった。まるでわざわざ嫌われようとしているみたいだ。
「先日の授業でね。リヴィエールさんと手合わせをしてもらったんだけどもねぇ。試されたのは、僕のほうだったかもなあ」
 その報告は聞いていない。ニコの様子を窺うと、不機嫌になったのが一目瞭然だった。
「負けたのね?」
 遠慮せずに訊いてみると、ニコが碧天色の瞳で勢いよく見上げてきた。綺麗な瞳には、涙の膜がかかっていた。
「よっぽど悔しかったみたいね」
「それはもう! 負けたのは仕方ないですし、わたくしにとっては教訓になりましたから、まあ納得します。でも、捨てゼリフだけはどうしても許せません!」
 やはり、恭一は各所で人の神経を逆なでする言葉を吐きまくっているらしい。なぜわざわざ人から嫌われるまねをするのか、エルフリーデには理解できなかった。
「『背中を見てろ』という言葉を、あんな使い方するなんて! わたくしのヒーローと同じ言葉を……」
 エルフリーデは、詰問の視線を顧問に送った。
「試されたのは僕のほうって言ったわね?」
 アレンは一瞬エルフリーデの視線に怯んだものの、手合わせの様子と、直後の弾丸の応酬について詳しく話してくれた。
 説明と解説を、エルフリーデはロゼ色の髪にブラシを通しながら聞いていた。話が終わると、ブラシをバトンのように回しながら思考の世界に沈降する。
「アレンの水弾を受け止めたとはね……」
 恭一の実力は、第一位にも匹敵するということなのだろうか。そもそも、部長はどこで恭一の実力を知り、スカウトを考えるに至ったのだろう。
 考えるべきことは多そうだ。
 死刑囚でありながら学園に入学してきた不破恭一。裏で手を引いていたと思われる理事長。アンデスやアルプスで暴れているという水獣たち。そして最近では、ヒマラヤにも水獣を目撃したという噂が飛び交い始めた。
 すべてが独立した要素とは思えない。
「おやぁ、あれは」
 空気の抜けたタイヤみたいな声に、エルフリーデは思考の海から引き上げられた。
 アレンが指さす先には体育館がある。今日は、ハニワ研究同好会が一フロアを使わせてもらうことになっていた。体力面のトレーニングが目的だ。
 入り口脇の外壁に一人の学生が寄りかかって腰を下ろしていた。
「キョウイチね」
 隣では、ニコが敵愾心を燃え上がらせているのが気配でわかる。
 キョウイチは、一行が見つめるのも気づかぬげに、厚い本を無表情で読んでいる。口には、火の点いていない紙巻き煙草。
「彼さぁ、いつも同好会を監視できる場所にいるように思うんだよねぇ」
 言われてみれば、と、エルフリーデは顎に指を当てて校舎を見上げた。
 今朝、恭一は席に座り窓外を眺めていた。その窓からは、ハニ研のある部室棟がよく見える。あの席は、他の生徒から強引に奪ったのだとニコは言っていた。さらに噂では、昼休みになると恭一は屋上に足を運ぶことが多いという。そこからも、部室棟が完全に見渡せるのだ。
 そして今日、部室で着替えた後は体育館でのトレーニングが待っている。体育館の入り口脇で本を読む恭一は、そのことを知っているのだろうか。
「先輩、あんなのを気にかけても、かけたぶんだけ気がもったいないですよ」
 ニコが先を急ごうとするので、腕を絡めたエルフリーデも一緒に歩かざるをえない。ニコに引っ張られながらずっと恭一を観察していたが、一つ、どうしても気になることがあった。
「ずいぶん、読むのが遅いのね……」
 エルフリーデが見ている間、恭一は一度も本のページを繰ることがなかった。


 文化系クラブが集合する部室棟を二階まで上ると、制服に乗っかられているといった印象の後ろ姿と出会った。体が小さすぎて、制服のサイズが合っていないのだ。
 短い歩幅で歩くたび、プラチナブロンドのツインテールがリズミカルに跳ねていた。
「はぁい。ルルちゃん、部室行くとこ?」
 後ろから声をかけると、ハニワおたくの少女はつむじ風のように軽やかに回った。少し回りすぎたのを修正すると、ぴょこりとエルフリーデたちに頭を下げてくる。
「はい! 昨日読みかけの『はにわ今むかし』を今日のうちに読破しておきたいので!」
 今むかしといっても、今現在、ハニワなどというものは存在していない。しかし、それを口にすると話題が困った方向に熱を帯びそうなので別の言葉で会話をつないだ。
「そう、がんばってね。あたしたち、今日は体育館に行くから……」
「ハニワ発掘のための体力作りですね! あたしもいずれご一緒させてくださいね!」
 ハニワを発掘したかったら四千メートルの深海を潜る必要があるのだが、そのことも黙っておいたほうがよさそうだ。エルフリーデは、曖昧に微笑むにとどめておいた。どうも、この少女が相手だと調子が狂う。
 物理部の前を通りかかったとき、小太り眼鏡の三年生が後輩に何かを自慢していた。
「見たまえジョニーくん。消火器を手作りしてみた。これで火事が起きても心配なしだな。材料がなかったので中の粉は小麦粉で代用したが」
「部長、小麦粉では火は消せません」
 学園の文化部は、危ない連中が多い。その筆頭は自分たちだろうなと、エルフリーデはいたって理性的に自覚していた。
 さらに歩いて、エルフリーデたちは、まるい文字の書かれたドアの前までたどり着いた。
 カードキーをドアのスリットに通そうとしたところで、エルフリーデは手を止めた。
「どうかなさいました?」
「話し声……。キョウジみたいだけど」
 かろうじて聞こえる程度の音量だ。ニコとアレンは気づいたように耳をそばだてたが、ルルはきょとんと瞬きを繰り返すだけだった。常人の聴力では捉えられないらしい。
「先輩、盗み聞きは……」
「黙って」
 ニコの苦言を、エルフリーデは短く斬り捨てた。ニコ自身、言葉に反して興味は隠しきれていない。エルフリーデとしても、興味本位で聞き耳を立てているわけではなかった。残りのメンバーはすべて海外に派遣されているし、響司は電話を持っていない。
 最近、どうも響司が落ち着きを欠いていると感じるのだ。両親を殺した兄が学園に入学してきたからだろうか。
 ずいぶん小さい声で喋っているようだ。会話の断片しか拾うことができない。
「噂……僕も聞いて……いよいよ……」
 これでは内容が今ひとつ把握できない。
 エルフリーデはドアに耳を押しつけた。すると、さっきは制止にまわったニコまでが同様に耳をつけてくる。ルルもアレンも同じだ。
 圧迫される格好となったエルフリーデだが、この状況で文句を言うわけにはいかなかった。
 室内の会話はまだ続く。
「思っ……早かった……うん……具体的な時期は……早いね……標的……学園も? それは……任せるけど……僕は……?」
「誰と話してるのかしらね……」
 響司の声からは不安と緊張が感じられる。普段の日だまりを思わせる声からは想像もできないことだった。
「まさか、女の人を連れこんでいるなんてことはありませんよね」
 ニコの思考は、せいぜいそのあたりが精一杯のようだ。
「その程度ならいいんだけどねぇ。なんだか不穏なものを感じるなぁ」
「ちっともよくありません!」
 アレンとニコが、それぞれ勝手なことを喋り始めた。それにともなってもぞもぞと動くものだから、ドアに押しつけられているエルフリーデはたまらない。
「二人とも静かに。って、あんたどこ触ってるのよ!」
 怒鳴りつけた瞬間、部室のドアが音もなくスライドした。
 四人がそれぞれの悲鳴をあげて、部室の中に倒れこんだ。当然、一番下になったのはエルフリーデだ。
 とりあえず、アレンに関しては後で蹴り殺すことは確定した。ニコへのお仕置きは、これからじっくりと考えることにする。
「みんな、どうしたの」
 見上げると、椅子に逆向きに座った響司がドアのリモコン片手に微笑んでいた。盗み聞きをしていたことは気づいているだろうに、まったく怒ったそぶりも見せない。普段の響司と変わりがなかった。
「誰かいるの?」
 起きあがろうとしない三人を押しのけて、少しきつい口調でエルフリーデは訊いた。
「いないよ」
「でも、誰かと話してたわよね」
 今度は、響司からの返事はなかった。
「霊界からの電波でも受信してたのかしらね?」
「はは。じゃあそういうことにしておいてよ」
 適当にはぐらかされてしまった。これ以上追求しても、成果は期待できそうにない。
 エルフリーデは、白い制服を払ってのろのろと立ち上がった。
「で、霊界のご両親は元気だったの?」
 こんな嫌味が飛び出したのは、エルフリーデ自身、不信と不機嫌にさいなまれていたからかもしれない。言ってしまってから激しい後悔と自己嫌悪に陥ったが、口から出た言葉が戻ってくることはない。
「元気だよ……。すごくね」
 隠微な笑みを刻んだ顔を見て、エルフリーデは罪悪感を深めなくてはならなかった。
「本当に誰もいませんか? 女の人とか!」
 興奮気味のニコは、アレンの背中を踏んでいることも気づかない様子で立ち上がった。そのまま、完全に逆立った柳眉で部室内の捜索をおこなう。
 エルフリーデは、響司と瞳を見合わせて苦笑した。意識したわけではないのだろうが、ニコの行為が微妙に硬質化した空気をすっかり打ち砕いてくれた。
 人に心の平安を与えるのが正義の味方の仕事なら、ニコは知らないうちにそれを果たしていたことになる。行動原理がただの嫉妬だったとしても。
 惨めに踏みつけにされたアレンは、ようやくルルに手を貸しながら立ち上がった。その目をロッカーを物色するニコに向けながら、まなじりを下げてぼさぼさの髪をかく。
 しかし、直後に響司に向けられた目は、エルフリーデが息を飲むほどに鋭かった。響司の不審な話し声について、何か思うところがあったのだろう。
「キョウジくん、きみは……」
「きゃあ!」
 アレンの声を遮って、部室にニコの悲鳴と鈍い崩落音が反響した。
 ニコが、最近部室に新設されたばかりの本棚を、ありあまる怪力で倒してしまったのだ。
「あーっ! あたしの本!」
 ルルが、子猫の危機に駆けつける親猫のような動きで散乱した本に駆け寄った。本棚も、それに収められていたハニワ関係の本も、もともとはルルの私物だ。
「ご、ごめんなさい!」
 謝るニコと、一つ一つの本を手にとって嘆くルル。再度張られた緊張の糸は、またしてもニコによって切断されてしまった。
 響司は、優しい微笑を残してから、惨劇の後始末を手伝うためにアレンに背を向けた。
「整理とか片づけとかは苦手だからなぁ」
 言い訳じみた独り言を投げてから、アレンは無精髭をなでつつドアへ向かった。早々に騒ぎからの退散をはかるつもりらしい。
 エルフリーデも止めようとは思わない。
 研究室の名目で学校から与えられているアレンの部屋、その散らかりようを知っているからだ。足の踏み場さえなく、たまの掃除さえ、バイト代を払って学生にやらせている。そんな人物に片づけの手伝いを期待するなど、赤子に一輪車に乗れと言うにも等しい。
 アレンの去ったドアと響司とを交互に見比べため息ひとつ。
「何が起こるのか知らないけど、つまらないことに巻きこまれるのは勘弁願いたいわね」
 もちろん、面白いことだったら積極的に関わるつもりだ。
 髪にブラシを通しながら、エルフリーデは一つ大事なことを思い出して口元を曲げた。
 アレンを蹴り殺すのを忘れていた。


 ニコにとっては特に変化のない日常が、それからも数日間は続いた。細かいことは、気に病んでも仕方ない。ようは響司の周りに女性の影がなければそれでいいのだ。
 どうしてここまで響司に心を奪われるのか、自分でも不思議だった。入学前に、響司とエルフリーデが同好会のスカウトに訪れたときからずっとだ。親の仇の弟と知っても、気持ちが薄れることはなかった。響司のそばにいると、安心感と不思議な懐かしさを得ることができるのだ。おかげで、不穏な噂や事件の予感にも、心が大きく揺さぶられることはない。
 漁師の行方不明や水獣の目撃談は日ごとに増えている。しかし、まだ学園の通水師に出動要請はきていない。また、帰宅後に正義の味方の扮装でパトロールをしてみても、収穫が得られていないのが現状だった。
 その日の同好会の集合場所はプールだった。通水の実技演習があるとのことだ。更衣室はプールのものを使えるので、部室に寄っていく必要もない。ニコは自然と歩調を速めた。
「霧が出ていますね……なんだか寒い……」
 学園は南側に海を望む立地なので、濃霧に覆われることも多い。その日も、上空はニコの瞳の色のように晴れ渡りながら、地上には鈍重な雲が降りていた。寒冷な地域ではないが、やはり冬の風は身を切るようだ。霧で制服が濡れてしまうせいもあるのかもしれない。
「今日はキョウジ先輩が先にプールに行っているはずですね」
 選択科目の関係で、この日はエルフリーデが一時間ばかり遅れて集合してくるのだ。ルルは部室で読書をするので、必然的にプールでは響司と二人きりになる。
「なのに掃除当番で遅くなるなんて……あと一〇分ほどでエルフリーデ先輩がきてしまいます。きっと何かの陰謀ですね。さてはキョウイチが……あら?」
 玄関から小走りしていたニコは、北門前に差しかかったところで一番会いたくない人物を目にしてしまった。この日にニコが掃除当番になるよう陰謀を巡らした男だ。ニコの脳内では勝手にそういうことになっている。
 恭一は、学校を囲む水堀をしきりに調べているようだった。北門の橋上で、火の点いていない煙草をくわえつつ堀の水に手をかざしている。
 怪しい男の奇怪な行動に、嫌悪を感じながらも意識を吸いこまれそうになる。一見すると通水をおこなっているようだが、水面には波紋ひとつたっていない。
 そのとき、身震いを誘う寒風が、肌をなでながら右から左へと吹きすぎていった。そのせいか、一瞬だけ霧が流れ、薄れたようだった。
 ニコは、ぎくりとして首をすくめた。
 霧が薄れた刹那、恭一にこちらを発見されるかと思ってしまった。しかし、それは杞憂にすぎなかったようだ。ニコの視力だからこそ恭一の姿を認識できたのだ。多少霧が薄れたからといって、こちらの所在がばれるものでもなかったらしい。
「やれやれです」
 ほっと安堵してから、ニコは平らな胸をなで下ろす手を途中で止めた。
「な、なぜわたくしがびくびくする必要があるのです!」
 照れ隠しに自分の頬をつねり、ニコは早々にこの場を後にした。
 恭一が何を企んでいようと、同好会のメンバーならば阻止できるとニコは信じていた。響司もエルフリーデも、自分なんかよりずっと強いし、アレンは世界に三〇人しかいないといわれる第一位の通水師だ。
「それより、プール、プール」
 響司が待つプールは東門の近くにある。急がなくてはエルフリーデがきてしまう。
 小走りから駆け足になって、ニコの蜂蜜色の髪がリズミカルに揺れた。
 学園を南北に走る道と東西に走る道が敷地の中央で交わっている。
 そこにある噴水を左に折れ、ニコは東門のほうへ向かった。途中で体育館を左に見て、次に見える白亜の建物が室内プールだ。
 授業のときも思ったが、なかなかセンスのいい建物だ。理事長の趣味だとしたら、そこだけは共感してもいいか――そんなことを考えながら、ニコはプールの入り口をくぐろうとした。
 くぐろうとしたが、その脚は足下から突き上げた震動に止められてしまった。
 地震だろうか? 首をひねっていると、低い爆音がかすかに聞こえ、建物の壁がびりびりと細かく震えた。どこか遠い場所で何かが爆発でもしたみたいだった。
「なっ、なっ?」
 驚きのあまり、意味のある言葉が出てこない。それでも、ニコは怖がって建物の中に閉じこもるような少女ではなかった。状況を確認しようと、再び道に出て東門のほうへ向かう。こんなときこそ、一〇〇メートルを五秒で駆ける脚力に感謝したくなる。
「音は、たぶん北東のほうから……」
 学園の敷地は壁ではなく、堀で外界と仕切られている。そのために見通しはよかった。東端の橋に着く前に、異変の所在地を見定めることができた。
「食料プラントが火災……いいえ、ただの火災ではありませんね」
 碧空に冲する黒と白の煙、空気を紅く焦がす暴力的な爆炎、それらが霧の向こうに確認できる。このあたりは海が近いので建物が少ないのだが、その中では学園の次に目立つ建造物だ。
 それが燃えている。いや、爆発していた。
 これは事故とは思えない。陰謀の臭いを感じずにはいられなかった。漁師の間で行方不明事件が多発し、漁獲量が目に見えて減っている。そこへきて食料プラントの爆発だ。偶然とは思えない。当面、食糧不足は免れられない。魚ばかりか、合成肉や人工野菜まで供給不足に陥ってしまうだろう。
 水没前の世界では食用の動物を育て、大地に野菜が実っていたらしいが、ニコの生きる今の時代はそうもいかない。希少種と呼ばれない生物は蠅、蚊、ゴキブリ、そして人間ぐらいなものだ。当然、そのどれも食すには適さない。野菜が育つような肥沃な土地は、本当に貴重だった。そして、そういった場所には畑ではなく森林を作るのだ。
 事件とわかっていても、飛び出していこうという気になれない。以前だったら、むしろ嬉々として現場に首を突っこんでいたはずなのに。
 ニコは、最近やや失調気味だった。過剰とも言えるほどだった自信も、夕方のアサガオのように萎れてしまっている。
 いくつかのトラブルではことごとくドジを踏み、助けるはずの自分が逆に助けられるという醜態を演じた。同好会には自分よりも格上で、よりヒーローに向いていそうな先輩方がいる。
 極めつけは、キョウイチ・フワに負かされたことだった。ニコが父を失った五年前の事件――その元凶を相手に敗北したという事実が、心の奥底をえぐっている。
 父や、名も知らない少年が命をかけて守ってくれたこの身。しかし、自分は五年経った今もあのころと変わらず弱いままだ。本当に、自分に彼らの命を犠牲にしてまで生きる価値があるのか。そう思うことこそ彼らに失礼だとわかっていても、思考は同じところばかりをぐるぐる回る。そんなこともあって、ニコは今、事件に積極的に関わる意欲を欠いているのだった。
 食料プラントの爆発を霧の中に見ながら、ニコは堀の手前で脚を止めてしまった。どうすればいいのか心が定まらない。
 そんなニコをあざ笑うかのように、新たな異変が学園を襲った。
 堀の水が、天高くへと凄まじい勢いで突き昇ったのだ。その勢いは、地上から天空へと雷が疾ったかのようだった。
 水の壁は退路を塞ぐように、橋の上までせり出してきていた。高さも校舎の一〇階ほどはあり、とても飛び越えることはできない。外界は、壁面に走る細かな波に邪魔されて視覚的に閉ざされてしまっている。聴覚的にも、水音が激しくて外の音は聞こえない。
「ま、迷っている暇などありませんね。このぶんだと、学園全体が壁に覆われてしまったようですし……。とにかく脱出路を確保して――」
 独白で自分を励ましながら、ニコは水の壁に意思を干渉することを試みた。
 細かく波打つ壁に歩み寄り、そっと右手をさしのべる。
「――っ!」
 壁に指先が触れた瞬間、電気が走ったような感覚に手を引いてしまった。
 指を見る。思わず、ニコは壁から一歩あとずさった。
 爪の先端が、砂のように細かな粒となって霧の中に溶けていった。
 壁面のさざ波が超振動の効果を生んでいるようだ。しかもこれだけ完全に対象を崩壊させるということは、触れた物質の固有振動数に合わせて振動数を変化させているということだろう。
 ニコは用心して、足下の小枝を拾ってそれで水の壁をつついてみた。
 今度は何も起きない。
「通水にだけ反応するようですね」
 これなら、生徒たちにもさしあたって危険はないだろう。
「間違いなく、キョウイチですね」
 先ほど、北門の近くで見た姿を思い出す。風が吹きながら水面に波が見られなかった時点で疑うべきだった。
 枝を捨て、ニコはきた道を駆け戻った。今は、響司と合流するしかなさそうだ。
 戸惑う生徒たちの間を縫って、ニコは室内プールの入り口をくぐった。更衣室を抜け、土足のままプールサイドに出た。
「キョウジ先輩?」
 いない。外の騒ぎに気づいてプールを出たのだろうか。
 広いプールの中、ニコはどうしたらよいかわからずに右往左往し、巻き毛に指を絡めた。
 男子更衣室まで探しに行ってもいいだろうかと考え始めた頃、視界の隅に動くものの気配を感じた。
「先輩?」
 いっぱいに水をたたえたプールのほうを見て、ニコは瞳を一回り大きくした。そこに、プールサイドへはい上がろうとする透明な触手の群体を見たからだ。
 どこに感覚器官があるのか、人の腕ほどの触手が一本、ニコに気づいたように身をもたげた。
「い、いや……」
 無意識にもらした一言で、他の触手までもがニコの方向へと身をくねらせた。
 五年前の記憶がよみがえってくる。
 ニコは、恐怖の悲鳴を上げようとしてそれもかなわないことを知る。渇いた喉が貼りついて、まともに声も出せない。
 触手の一本が鋭く動いた。
 ニコは、このときほど自分の優れた視力を呪ったことはなかった。
 触手の先端が尖り、まっすぐに心臓へ向かってくる軌跡が鮮明に見えてしまう。
 ニコは目を閉じた。せめてもの抵抗だった。


 エルフリーデが爆発音を聞いたのは、生徒用玄関から北門前を経て、職員用玄関までさしかかったあたりだった。
「なにかが、始まるみたいね」
 通学鞄からブラシを取り出し、ロゼ色の髪を梳いた。
 校舎が邪魔をして見えないが、爆発は北東の方角で起きたようだった。もっとも、霧が出ているので見晴らしのよいところにいたとしても音源を探れるとも限らない。
「エルスターくん!」
 名前を呼ばれ、エルフリーデは瞳だけを動かして職員用玄関を見た。
 はたして、思った通りの人物が駆け寄ってくるところだった。
「い、今の音は?」
 同好会の顧問、アレン・ヤングが、慌てているせいかいつもよりも早口で訊いてくる。
「あたしの出した音じゃないもの。知らないわ」
 肩をすくめ、エルフリーデはブラシを鞄にしまいこんだ。
 それとほぼ時を同じくして、北門の方角で大きな騒ぎ声が多数弾けた。
 見ると、堀の水が頭上高くへ突き昇っている。一瞬にして形成された水の壁は、下から上へ向けて降る滝のようだった。
「あ、あれは、なな、なんだろうねぇ? え、エルスターくん?」
 アレンが、歯を鳴らしながら震える声ですがりついてきた。それを、エルフリーデは教鞭をふるって遠ざける。
「あなたね、仮にも教師なんでしょう? 一応、とりあえず、それなりに、まがりなりにも何となく!」
 恫喝されて、アレンは怯えた目を水の壁に向けながらも口を閉ざした。
「しかも学内一の通水師なんだから、少しはしっかりしてもらわないと困るわ」
「ご、ごめん。そうだねぇ。うん、ごめん」
 学生に叱られたのが効いたのか、アレンの口調が普段のものに近くなった。
「それでこの状況、一位の通水師としてはどう思うの? きっとあの壁、学園全部を包囲してるわよ」
「だろうねぇ。そうだなあ」
 アレンは、落ち着きを取り戻した様子で無精髭をいじり始めた。カッターシャツという名が赤面しそうなほどよれよれの服を、自分なりになでて整えながら言う。
「さしあたって、危険らしい危険はないと思うんだよなぁ。この状況で水辺に近寄ろうとする人もいないだろうし。まずは、部室に行けばいいと思うねぇ。あそこ、今日はユーリーくんが一人だけでしょ」
「なんで知ってるの?」
「プールの使用許可を見たら、今日はハニワ研究同好会が使うことになってたから」
「ふうん。本当に、部長さえいなければ顧問らしいこともするのね」
 アレンは苦笑しながら頭をかいた。
「まぁ……ねぇ。とにかく、部員を集合させた方がいいなぁ。全員を集めてから、水の壁対策を考えればいいからねぇ。だからまずは、無力なユーリーくんの安全を確かめよう」
「そうね……」
 エルフリーデは、珍しくいつもの果断を発揮できずに悩んだ。
 もしもアンデスやアルプスのような水の暴走がここでも起きようというのなら、水の近くはそれだけで危険ということになる。そして今、響司とニコはプールにいるはずなのだ。いわば、一番の危険地帯だ。
 気がかりといえばルルも同様だった。建物の中には水道管が通っている。それを危険だと思った生徒たちは次々と校舎の外に出てきていた。しかし、読書に夢中になったルルはそこまで考え至らないだろう。外の異変に気づいていない可能性すらある。
「……わかったわ。部室に行ってみましょ」
 結局、エルフリーデはニコと響司を信じることにした。あの二人が、そう易々と水の餌食になるとは思えなかった。
 決断さえすればエルフリーデの行動は早い。すぐに部室棟へと疾駆する一陣の風となった。
 数歩遅れてアレンもついてくる。平然とエルフリーデの後ろに続いてくるあたり、その身体能力はさすが一位の通水師といえた。
 広すぎるほどに広い敷地を抜け、南門そばの部室棟に駆けこんだ。第一から第三までのグラウンドには多数の生徒が避難していたが、建物内部は静かなものだった。
 エルフリーデは、長い脚を生かして数段飛ばしで階段を二階まで上った。
 そこへ、聞き覚えのある高い声が鋭く耳朶を貫いた。
「あれは?」
「ルルちゃんの悲鳴よ!」
 あの高く、こんなときでも甘さを失わない声は間違いない。
 改めて床を蹴ると、向かう先でドアが開き、小柄な少女が転げ出てくるのが遠目に見えた。
 ルルだ。非常時ながら本を手放さないあたりが彼女らしい。
 そして、ハニワおたくの少女を追うように、部室から気味の悪い物体がうねり出てきた。アメーバのような水の塊が、ルルに覆い被さろうとその身を目一杯広げた。


 ニコの体は激しい勢いで横に持って行かれ、鈍い衝撃とともに倒れこんだ。
「よかった……あまり痛くありません。パパもこのくらい楽に死ねたのなら……」
「ニコちゃんしっかり! 目を開けて!」
 いまわの言葉を語ろうとしていたニコを、暖かくも鋭い声が現実に引き戻した。
「ほら、立つんだ!」
 強引に体を引き上げられ、ニコは仕方なしに目を開けた。そして一呼吸ののち、間近にある顔に頬を赤く加熱させた。
「き、キョウジ先輩?」
 息がかかるほど近くに憧れの男性の顔がある。その響司は、残念ながらニコの顔ではなくプールのほうを見つめていた。普段の温厚な顔が、今はなりを潜めている。
 ニコは状況を理解した。触手に貫かれるところだったのを、瞬き一つほどの差で響司が救ってくれたのだ。
「ふっ!」
 鋭く呼気を打つと、響司はニコを抱いたまま五メートルもの距離を横に飛んだ。
 ニコは、呆然と響司の横顔を見つめながら、先ほどまで自分たちがいたあたりで床が砕ける音が鳴ったのを聞いていた。
「大丈夫? 自分の脚で立てる?」
 お姫様のように抱かれながら、ニコは、ここで首を横に振りたい誘惑にかられた。しかし、理性がそれを許さない。
「へ、平気です。ありがとうございます」
 響司は、確実にその返事を聞いてから、優しく床に立たせてくれた。
「先輩、今のきわどいタイミングで助けてくださるあたり、ヒーローの素質十分です」
「ギリギリだった理由が、海パンから学生服に着替えていたから、というのでも?」
 それは考え物だ。とはいえ、海パン姿のヒーローに助けられることを思えば、やはり今のほうが何倍もましだろう。
 あれこれ考察していると、再び水の触手が二人に襲いかかってきた。それを、ニコと響司はそれぞれ左右に飛んでかわす。
 響司の前で醜態は演じられないという見栄が、ニコの内から怯えを蹴り落としてくれた。またも守られる側に回ってしまったことは、心に針を落とされた思いだったが、それを悔いている余裕はなかった。
 プールの水がゆっくりと盛り上がり始めている。隆起した水は、徐々に明確な形を成そうとしているかに見えた。
「ニコちゃん、いけるね?」
 響司は柔らかい瞳で目配せをすると、返事も待たずに走った。
 響司が急ぐわけはニコにもわかった。膨大な量の水が、一つの意志を持って水獣になろうとしているのだ。それを屠るには、水の性質を濃く残している今のうちに、通水で形状に干渉するのがベストといえた。肉を持つ生命体にまで変化させてしまっては、形状干渉は困難になる。そうすれば、武器を用いて物理的に殺害するしかなくなるのだ。
 自分の役目が後衛であることを、目立ちたがり屋のニコはすんなりと受け入れた。最近の出来事は、自身にアクションが不向きであることを思い知らせるのに十分だった。
 そして、ニコは響司の実力を信じていた。単純に身体能力を比較すればニコは誰にも負けない。しかし組み手をすれば、勝つのはエルフリーデや響司のほうだった。
 今も、響司は無数の触手を巧みな体捌きでかわしている。その動きは柔らかく、川面を流れる木の葉が岩をよけるさまに似ていた。よけるばかりで触手をはねのけようとしないのは、必殺の一撃のために力を集中しているからだろう。
 しかし、敵の手数に響司も閉口している。そこを援護するのがニコの役目だった。
 響司を近づけまいと暴れ狂う触手群に、ニコは力一杯の通水を遠隔で叩きこんだ。
 触手群が形を維持できずに爆散し、一帯を覆う霧となる。響司の目前に一本の道ができた。
 時間にしてわずか数秒間の隙に、響司はプールサイドを抜けきり高く跳躍していた。その手には透明の槍が握られている。たった今生じた霧から作った、水の武器だ。
 通水を伝達するための媒体に過ぎないため、武器の形状に意味はない。響司がイメージする力の象徴が、槍だったというだけのことだ。
 響司は、二階にも届こうかという高さからプールに降下していく。そして、動物の頭部に変化しかけている部分に槍を突き入れた。
 水は、牛のような呻きをもらして崩れ落ちた。一撃だった。
 響司は、反動で激しく波打つ水面に、体操選手のような見事な着地を決めた。水の上に立って沈まないのも、通水のおかげだ。
「先輩、さすがです」
「ニコちゃんもね。それより、僕たちは僕たちの役目を果たさないと」
「役……目?」
「ハニワ研究同好会は、こういうときのために結成されたんだよ。今、外では通水師にしか対処できないような事態が起こっているんじゃないのかい?」
 言われてニコは思い出した。爆発音に続き堀の水が暴走したこと、それらを、たどたどしい身振りで響司に語って聞かせる。
 ニコの話を、響司は普段通りの穏やかな表情を崩すことなく聞いてくれた。おかげで、話し終える頃にはニコの心もだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「……なるほどね。学園は完全に閉ざされたみたいだね」
「これでは現場に行くこともできません」
 あのとき、迷ったりせずに橋を渡っておけばよかったと、後悔が心に満ちた。
「きっと、なにか方法があるよ。諦めずにそれを探そう。まずは正門に行ってみようか」
 きらきらした瞳で響司を見上げていたニコだが、同時に引っかかるものも感じていた。この落ち着きようはなんなのだろう、と。
 まるで、突破口があることをあらかじめ知っているかのようだ。
「まさか……ですよね」
 軽く首を振って、ニコは前を行く響司の背中を追いかけた。今は、五年前のヒーローのように頼もしいこの背中を信じるのみだった。


 エルフリーデは、全力で走りながら横に飛ぶという、曲芸じみた動きで危険を回避した。
 背後から飛来したのは、音速を超える水の弾丸だ。それが肩口を過ぎ、ルルに覆い被さろうとしていた怪物に命中した。
 アメーバ状の怪物は、瞬間動きを止め、すぐに結合力を失ってただの水となった。大きな水音をたててルルをずぶ濡れにしたが、その程度の被害は我慢してもらうとしよう。
 ルルは、濡れたツインテールを顔に貼りつかせながら、抱えていた本が水浸しになったことを嘆いていた。
「怪我はないようね」
 安堵で顔が緩まないように努めながら、エルフリーデはゆっくりと歩み寄ってルルを立たせてやった。それから突風のような動きで振り返り、教鞭を振った。
「うわあっ?」
 鋭く空気を裂く音と、空気の抜けた鈍い悲鳴が重なった。
 エルフリーデがアレンを睨む瞳は、冬の朝のように冴えて冷たい。
「それ、よけなかったらあたしに当たってたと思うのよね」
 エルフリーデが顎で示したのは、顧問教諭の右手にある飛び道具だった。
 やたらと口径の大きな拳銃だ。むろん、ただの銃ではなく、反対側が透けて見える水の銃だ。しかし威力は見ての通り。力をこめて撃てば水獣を殺すこともできるし、物理的な力においても実銃を凌ぐだろう。
 紙一重で教鞭の間合いを外れていたアレンは、さらに力をこめて睨んでやると簡単に一歩退いた。
「い、いやぁ。エルスターくんなら確実によけてくれると思ったし、それに、ちゃんと水獣を倒したから……ねぇ?」
「そう。信頼してくれて嬉しいわ」
「いやぁ」
「などと言うと思ってるの!」
 怒鳴り、エルフリーデは強く一歩踏みこんだ。アレンの左足の上に。
「ふんぐ!」
 歪んだ顔から潰れた悲鳴を吐き出して、アレンは脂汗を大量に生産し始めた。
「ちょっ! 痛い痛いイタイ! エルスターくん、これはまずい! わりと真剣に危険……いたたた!」
「早い口調でもしゃべれるのねえ。普段どれだけ力を抜いてるのかがわかるわ」
 非常時なのに、だんだん楽しくなってきてしまった。悪い癖が顔を出してきた。
 エルフリーデは、大きな胸が相手に触れるほど近寄って体重をかけた。
 アレンが言葉もなく口を開閉させるのを見て、エルフリーデはさらに笑顔になる。自分でも性格が壊れていると思わないでもなかったが、壊れたものは修復が困難なのだ。
 嗜虐心に忠実に従って、満足がいくまでアレンの苦悶の表情を観察した。
 思ったよりも早く飽きたので、一〇秒ほどで足の上からどいてやる。すると、アレンは空気を求めるようにあえいでエルフリーデを非難してきた。
「な、何度も言ってるけど、僕は教師できみは学生なんだけどなぁ。僕は激しく疑問を感じざるをえないよ」
「ルルちゃん大丈夫?」
 哀れな訴えを粉砕する勢いでシカトしてやった。ああしなければルルの身が危険だったことはわかっているが、認めるのが癪だった。
 エルフリーデは小柄な下級生に歩み寄った。心配なのは、怪我と、精神的ショックだ。
「せんぱいぃ〜。ひどいんですよ。お水を飲もうと思って蛇口をひねったら、どんどん溢れてきちゃって、おかげで『青春の刑務所、はにわ道中』が水浸しです」
 なんというタイトルだ。ため息をつきたいのをこらえて、エルフリーデは優しげに微笑んだ。その気になれば、こういう表情もできるのだ。
「それだけ? 怪我はないのね?」
「それだけってなんですかあ! 『青春の刑務所、はにわ道中』ですよ! アンデスの小さな出版者が出してるだけだから手に入れるのが大変だって、先輩も知ってるはずです。結局水も飲めないし……」
 知ってるはず――大いに間違った認識だった。
「ああ、ごめんね。そういうつもりで言ったんじゃなくて、体の具合は大丈夫なのかなって」
 相変わらず、ルルを前にすると調子を崩すエルフリーデだった。
「体……喉が渇いてます」
 のんきな回答に応じて、エルフリーデの横合いから気だるげに手が突き出された。
 アレンだ。水の入ったボトルを持っている。
 ルルは、赤ん坊のような肌を上気させると、嬉しそうにボトルを受け取った。水浸しの少女は、実においしそうに水を飲む。
「用意がいいわね」
 一応褒めたつもりなのだが、アレンの肩は落ち、無精髭をなでる手もゾンビのそれのように生気がない。
「何を落ちこんでるの?」
「なにって、自分の胸に手を当ててみるといいと思うなぁ」
 エルフリーデは、アレンを敬遠するように早朝の青空色の瞳を冷たく細めた。
「もしかしてあなた、女子高生に自分の胸を揉ませて、それを観賞して興奮を得ようという……早い話が変質者?」
「あー、そうそう。もうそれでいいからさぁ。ちょっと外を見てくれるかなぁ」
 投げやりなアレンに、不満顔で唇を尖らせてしまう。実に面白みのない反応だ。どうやら、少しばかりいじめすぎたらしい。
 ルルが喉を潤している間に、エルフリーデは言われたとおりに外の様子を確認してみた。
 廊下の窓からは、第一、第二、第三グラウンドの様子が一望できる。そこでは、地下の水道管が破裂して水が暴れ回っているようだった。生徒たちが安全な場所を求めて無秩序に逃げ回っている。
「学園中あんな感じなのかしらね」
「だろうねぇ」
 しかし、まださほど深刻な状況になったとは思わない。暴走と呼べるうちは、逃げていれば大事はない。本当に危険なのは、水が秩序だった動きを始めたときだ。
「ただこのぶんだと、校舎のほうも水回りはだいぶ混乱してるでしょうね。でも、一つ気になることがあるわ」
「なんだい?」
「部室の水道から暴発した水が、ルルちゃんを明確に標的として捉えていたことよ。ここから見る限り、グラウンドや校舎では、水の暴走はそこまではっきりした形では現れてないわ。つまりこの部室棟に……」
 そこで、エルフリーデは一旦言葉を切った。別にもったいつけたわけではない。
 ちろりと唇をなめる。
 表情から、先ほどまでの冗談めかした雰囲気をぬぐい取る。妖艶かつ好戦的に笑み、エルフリーデは軽く右足を引いた。とっさの動きをとりやすくするためだ。
「つまらないことに巻きこまれるのは勘弁願いたかったけど……こういうのは大歓迎だわ」
 部室棟二階の廊下。見通しはいいが、ここが閉鎖された空間だということを思い出させられた。前方、後方、ともに奥で蠢く透明な物体が視覚に障る。
 挟撃されたことを知り、エルフリーデはルルを背中にかばった。状況に反して心は躍り、それが正直に顔に表れていた。


 学園の正門にあたる北側の橋も、噴き上がる水壁が横にせり出して道をふさいでいた。
「やっぱり駄目みたいだね」
 ニコを従えて北門に着くなり、響司は嘆息とともに後ろを振り返った。
「ええ……やはり東門に駆けつけたとき、わたくしだけでも食料プラントへ向かっておけばよかったみたいですね……」
 ニコの表情は黄昏空のように暗い。後悔と責任で自分の心を痛めつけているように見えた。
「いや、ニコちゃんの選択は正しかったと思うよ。たぶん、外はかなり危険なことになっているしね」
 水の壁のせいでわかりにくいが、学園の外には巨大な生物の気配がいくつも感じられる。水獣が街中で暴れ回っているのだ。
「それに、ニコちゃんがきてくれなかったら、僕はプールで水獣に殺されていたかも」
 黒曜石の瞳に微笑みを浮かべつつ響司は言った。
 一人でもおそらく負けることはなかっただろうが、響司はあえて気休めを口にした。
 ニコも、そうとわかっているはずなのに元気と笑顔を取り戻してくれたようだ。
 響司が歩を進めると、北門に集まっていた生徒たちが道を開けてくれる。
 自分が学園の中の有名人なのだと自覚するのはこんなときだ。有名になりたいのは、どちらかというとニコのほうだと思うのだが、世の中そう都合よくはできていない。
 一度、不良グループから兄のことでしつこく絡まれたことがあった。その際に本気で怒って以来、どうも爆発物みたいな扱いを受けているように感じる。
 野次馬にやんわりことわって、響司は割れた人垣を申し訳ない気持ちで抜けていった。
 後ろからは、ニコも肩身が狭そうな顔でついてくる。
 どうも、女生徒たちの視線には居心地の悪さを覚えざるをえない。妙に熱っぽい視線。何か、彼女たちの気に障ることをしただろうか。
 響司は、水壁の前まできて空を見上げてみた。壁は、一〇階のビルに匹敵するほどの高さがある。ニコから聞いたとおりだとすれば、直接触れるのは危険だ。
 響司は、周囲の霧から透明で優美な槍を作り、石突きで軽く地面を叩いた。
 背後で、女子生徒たちが騒ぐのが聞こえる。
「もしかして僕、みんなを無用に怯えさせてるのかな」
「あれは……いわゆる黄色い悲鳴というやつだと思いますけれど……」
 ニコの言うことがよくわからなかったので、曖昧に笑って首をかしげる。すると、ニコは安堵したように目尻を下げた。その反応も、響司には今ひとつわからない。
「とにかく早く様子見を終わらせたほうがいいかな」
 響司は、自分でさえ無造作と思う動きで、造形の美しい槍を前に突き出した。
 一瞬で、槍は音もなく水蒸気と化し、水壁に吸いこまれていった。
「吸収……されたみたいだ」
「先輩でも、この壁を崩すことはできませんか? このままでは、みんな閉じこめられたままになってしまいます」
 ニコが、蒼穹の瞳を不安げに揺らして見上げてくる。
 それについては軽く笑顔でごまかしておいて、響司は別のことを話題に上らせた。
「これは、ただ水が暴走しているだけじゃないよ。明らかに人為的な力が作用してる。校庭や校舎の中の水とは、根本的に違う」
 そう言うと、ニコの頬がひくっと動き、瞳が行き場を失い左右にさまよい始めた。
 思わず、響司は優しい気持ちになる。正義の味方を自称するだけあって、ニコは嘘のつけない体質のようだ。
「僕に、話してないことがあるでしょ」
「そ、それは……」
 ニコの狼狽は、見ているぶんには笑いを誘うものがある。何となく、エルフリーデの気持ちが理解できるような気がした。
「大丈夫。今日は怒らないから」
 安心させるように穏やかに言うと、ニコは、ためらいがちながら口を開いてくれた。
「わたくし、見たのです。北門の前を通りかかったときに、キョウイチが橋の上にいました。堀の水に手をかざしていましたし、そのとき、風があったにもかかわらず水は波紋一つ立てていませんでした。それで怪しいと……」
 思った通りだった。これを兄がおこなったのだとすれば納得できる。普段は周囲に波風立てるのを好まない響司だが、このときばかりは、熱くなる心を静めることができなくなっていた。
「やっぱりそうか……。ついに、このときが……」
 兄が学園に現れてから、この日がくることをずっと警戒し続けてきた。待ちこがれていたと言い換えてもいい。重大な事件だということは理解しているが、それでも、響司の心は常になく熱く震えるのだった。
 五年間、閉じこめてきた想いが、ようやく行き場を得た。
 はやる心臓を鎮めるように、響司はそっと胸を押さえた。鼓動は、運動会で自分の番を待つ少年のように高鳴っていた。
「キョウジ先輩? 笑っているのですか?」
「ニコちゃん。僕はね、五年間、今日という日がくるのをずっと待ち続けていたんだよ。不謹慎だけど、楽しみにさえしていたんだ」
 響司は、握った拳から意識的に力を抜きながら、ニコの碧眼を見下ろした。
 碧空色の瞳は、戸惑いに彩られながらも、力強い信頼をこめて見上げてくる。
「わたくしも、お力になれますか?」
 響司は、一瞬ためらったあとで頷いた。
 巻きこんでいいものかと悩んだが、ニコは強い。通水の素質だけではなく、心も強くまっすぐに育っている。なにより、ニコは五年前の事件の関係者だ。響司は、穏やかに微笑んでニコの蜂蜜色の頭をなでた。すると、少女の白磁の肌がうっすらと桜色に染まった。
 一言かけようと響司が口を開きかけたとき、学園全体に簡素な放送が流れた。
『高等部二年、キョウジ・フワくん、至急、理事長室まできてください。繰り返します。高等部二年――』
 放送を聞きながら、響司はニコと目を見合わせた。状況は、あちらこちらで進行中らしい。
「面白くなってきた」
 響司は、目を伏せて軽く笑った。エルフリーデが使いそうなセリフだと思うと、その笑いが苦笑に変わってしまいそうだった。


 放送は、当然部室棟にも届いていた。
「響司たちのほうでも、面白い状況になってるみたいね」
 羨ましく思いながらも、エルフリーデは肩をすくめるだけで、理事長室に向かおうとはしなかった。できなかったのだ。背後にはルルをかばっているし、廊下の両端からは、アメーバ状の水の化け物が這い寄ってくる。注意して見れば、窓の外側に薄い水の膜が張ってあるのも確認できる。気づかずに窓を破れば、その罠に無惨な目に遭わされていただろう。
「アレン、不思議だと思わない?」
「ん?」
「グラウンドや校舎では無秩序に水が暴れてるだけ。固体に変化することもなく、本当にただまき散らされてるだけよ。なのに堀の水は、明らかに何者かの意志によって壁を作っているわ」
「確かにねぇ。誰の仕業だろう。キョウイチ・フワかな」
 アレンは、本当に不可解そうに、顎の無精髭をざらざらとなでた。
「それはわからないけど、なんのために壁を作ったのかは、想像できるわ」
「それって?」
「それはたぶん……っと」
 喋りながら、エルフリーデは慌てて身をひねった。
 廊下の奥から伸びてきた触手が、あわやのところで白い制服をかすめていった。
 身をそらした柔軟な姿勢から、エルフリーデは右手を翻した。そこから繰り出された光条は、見事に遠くに身を横たえる怪物に命中して、水でできた体を霧散させた。
 エルフリーデの右手には、透明で涼やかな鞭が握られていた。普通の鞭よりも圧倒的に長い射程を持つこの武器が、エルフリーデ愛用の得物だった。
「どうやら、先にこっちの問題を解決しないといけないみたいね」
 言い終えたときには、すでに解決を終えていた。後ろを見ることなく、逆方向から這ってきていた水獣に、鞭の一撃を浴びせていたのだ。
「はぁ、さすがだねぇ、エルスターくん」
「これでも響司には負けるけどね。そうそう、響司といえば、あたしたちも理事長室に行ったほうがいいのかしら」
 運動を終えたので、エルフリーデはなかばくつろぎながらロゼ色の髪にブラシを通していた。すでにその手に水の鞭はない。
「だろうねぇ。最初に爆発の起こった食料プラントの様子も気になるし」
 エルフリーデは、形のよい唇から深く息を吐き出した。確かに、面白い事件がいろいろと起こっているようではある。自然と、顔が楽しげな笑みを刻んでしまう。今日まで、自分がこれほどまでにトラブルを好む人間だとは自覚していなかった。新たな自分を発見した気分だった。
「ねえ、アレン。部室棟の水も、無秩序なんかじゃなく、何者かの意志に操られて動いてること、気づいてた?」
「言われてみれば……。やっぱり、キョウイチ・フワが暗躍してるんじゃないかなぁ」
 エルフリーデは、アレンの意見を払いのけるようにして手を振った。
「思えば、一連の事件はかなり周到に計画されていたものだと思うのよね。アンデスやアルプスで水獣が出現したことが、そもそもの始まりだったんだわ。きっとそれは、ヒマラヤを手薄にするのが目的」
「実際、うちの学園からもたくさん応援を出したし、うん、確かにヒマラヤから多くの通水師が派遣されているねぇ」
 エルフリーデは、アレンの相づちに満足し、ブラシで自分の手のひらを軽く打った。
「これを計画した人物の本当の標的は、この学園だったんじゃないかしら。通水師を養成するっていうことは、金の卵がたくさんいるということだものね。今のうちに潰そうとしたとも考えられるわ。もっとも、うちの同好会からも大勢派遣されたことは予想外だったでしょうけど」
「だとすると、通水が使えるキョウジくんやリヴィエールくんも標的にされてることになるねぇ……」
「でしょうね。でも、さしあたっては平気だと思うわよ。大量の水が集まるプールでは危険があったかもしれないけど、それを切り抜けたとすれば、学園内はもう安全だわ」
 エルフリーデは、首をひねるアレンを見て赤い唇を小さく吊り上げた。
 案の定、アレンは間抜け面いっぱいに疑問を満たして聞き返してくる。
「あ、安全って言うけど、現に僕らは、結構危険な状況の中に身を置いてないかなぁ?」
「それはそうね。だって、あたしたちの近くに敵が潜んでいるんだもの。だから、かえって他の場所は安全なのよ」
 窓から見る限りでは、学園内には落ち着きが戻りつつある。理事長室で何があるのかはともかく、プール以外の場所が安全だという考えに偽りはない。
「ぼ、僕らの近くに敵がいるって、キョウイチ・フワが?」
「さあ、誰かしらね。ただ、学園内にいる敵なんて、黒幕にしてみたらただの駒に過ぎないんでしょうけど」
 エルフリーデは、心中でこっそりと舌を出した。次第に精神が高揚してくる。
「駒? 黒幕がいるっていうのかい?」
「当たり前でしょ。アンデスやアルプスに水獣を放って都市を壊滅させるなんて、特位クラスの通水師じゃないととても無理だもの。それに比べたら、部室や廊下に出没した水獣なんて泥人形みたいなものよ。あたしにも倒せるくらいお粗末だったんだから。つまり、敵の一人は特位。もう一人はそれより下位の通水師だっていうことよ」
「なるほどねぇ。でも、学園内に駒がいるって言っても、今は僕ときみ、キョウジくんにリヴィエールくんに、キョウイチ・フワしかまともな通水師は……。やっぱり、該当するのはキョウイチしかいないよねぇ」
「ねえ、さっきから不思議に思ってたんだけど……」
 エルフリーデは、上目遣いでアレンの顔を窺った。自分自身でも特に挑発的と感じている表情を作って笑う。
「どうしてあなたは、そんなにキョウイチのことを疑って欲しいのかしら」
 瞬間、アレンの雨雲色の瞳が揺らいだのは、残念ながら、エルフリーデの色香に堕ちたせいではないだろう。
「どうしてって、それ以外の選択肢がないと思うしねぇ」
「あらそう? まず、あたしはあたしが犯人じゃないことを知ってる。他に部室棟にいる通水師っていうと、一番簡単な答えがアレン、あなたなのよね」
「冗談きついなぁ。普通、犯人っていうのはもう少しこう、どこかに隠れてだね……」
「だって、始めに部室棟に行こうって言ったのはあなたじゃない」
 今の一言は、思った以上に効いたようだった。
 アレンも、どうやら冗談ではなく本気で自分が疑われているのだと気づいたらしい。見れば、指先が意味もなくネクタイの先を引っかいている。
「だから待ち伏せはできないってわけ。仮に尾行されてたとして、第一位のあなたがそれに気づかなかったというの?」
「気づかなかったことは、不注意だったと謝るよ。けどねぇ……その疑惑はちょっと勘弁して欲し