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銀狼の見た世界

エピローグ 
 
 一ヵ月後、校門前にて 
 
 満開の桜も当の昔に散った頃。冬元由香はたった一人、校舎の門に背を預け所在無さげに立っていた。不機嫌そうに腕を組み、不満げにつま先をトントンと地面に叩きつける。それは待ち人に対する不満か、それとも久しぶりに会える緊張感の裏返しか。少なくとも、彼女は苛立ちだと感じていた。 
 不安と苛立ちで揺れる顔に、梅雨特有の湿気を含んだ風が凪ぐ。じめじめとした空気と強い日差しの中、誰も通学しない登校路を睨み付ける。 
 誰も来ない日曜日。 
 こんな陽気な天気の中、休日にも関わらず制服を着て学校に向かう者など誰もいなかった。中間試験も終わり補習も無いこの高校に、そんな熱心な学生などいるはずがない。もちろん、彼女にもここに来る義務がある訳ではなかった。ここで待ち合わせるとは約束したが、それは単なる口約束。しかも時間すら指定していない。 
 一ヵ月後。学校で会おう、と。 
 約束はそれだけだ。しかも一ヵ月後の今日は日曜日。 
 約束なんて忘れているかもしれない。 
 学校だって休みの、そんな一日。 
 だけど――と冬元は思う。 
 あの馬鹿は律儀だから。きっと今日が日曜日でも登校する。日曜日であることを忘れたままで。 
 不思議と、そう言い切れる自信があった。いや、その理由も本当は分かっていた。 
 だから彼女も待っているのだ。あのムカつく仏頂面を浮かべた馬鹿男を。こんな、くそ暑い日差しに照らされながら。 
 空を見上げる。相変わらず鬱陶しい太陽が彼女の頭を焼き付けていた。 
 時間を指定しておけば良かった、と今さらながら後悔する。いつ来るか分からなかったからこそ、冬元は誰もいない校門の前に、ずっと――早朝六時頃から立っている。 
 いつ来るか分からないから。いつ来ても、いいように。 
 自分がいかに馬鹿なことをしているかぐらい、自分でも分かっている。理由を幾ら並べたところで、結局は信じているのだ。あいつが、帰ってくる事を。 
 照りつける日差しを見上げ、弱々しく首を振る。 
 馬鹿馬鹿しい、と嘆いたのは何度目か。 
 そんな気持ちも当に失せた頃――やっと、別の足音が、冬元の耳に響いてきた。 
 慌てて髪を整え、校門に続く道路を見つめる。少し、背が高めの男の姿。 
 どくんと、気持ちが跳ね上がった。冬元は無表情のままその姿を見つめていたが、自分の中でくだらない期待が大きく膨らんでいくのは嫌でも自覚していた。 
――やっぱり来たか、この馬鹿は。 
 来るのは、分かってたけど。 
 やがて彼女の目の前に来た男は、やはりいつもの仏頂面を浮かべていた。前と変わらぬ鉄扉面。何も変わらない制服姿。だけど、普段の仏頂面に比べて頬の端がわずかに上がっている。彼女だから気がついたかもしれない、ちょっとした変化。 
 心を僅かに高鳴らせながらも、彼女は男以上の仏頂面で口を開いた。 
「遅かったな、多嶋」 
 冬元の、普段と何一つ変わらない声。抑揚を抑えた言葉遣い。その言葉に男――多嶋誠は少し嬉しそうな、けれど不審そうな顔で学校の周りを見渡した。 
 やがて眉をひそめ、表情の乏しい彼女に向き直る。 
「誰もいないのか」 
「今日は日曜日だからな」 
「……ああ、なるほど。こちら側は日曜日だったか。忘れていた」 
 心底困ったように、多嶋が頭を掻く。その姿は、いつもの学生服に学生カバン。何食わぬ顔で授業を再び受けに来たつもりなのだろう。一ヶ月もの間を空けていたのに。 
 どこか基準がずれていて、しかし真面目だから憎めない男。 
「しかし、それは困ったな」 
「何がだ?」 
「いや。一ヶ月の休校扱いの後、通常登校の予定で来たからな。時間が余る」 
「なら」 
 彼女は反射的に言葉を出し、慌てて首を振った。 
 激しく膨らむ妄想に心を躍らせる反面、それを必死で否定しながら多嶋を睨む。 
――馬鹿馬鹿しい。いつもの冬元はどうした。 
 自分の心に叱咤をかけ、何とか気持ちを押さえ込もうとする。 
 そんな、僅かに顔を火照らせる冬元の姿を、多嶋は妙に懐かしむような目で見つめてきた。まるで、いつもの彼女に出会ったと言わんばかりの、温かい視線で。 
――気に入らなかった。だけど今さら、憎む事もできなかった。 
 こいつは他のやつと違って、裏表無く常に本気で言葉をぶつけてくる奴だから。 
 馬鹿みたいに、素直で律儀な奴だから。 
「……なら、何処かに散歩にでも行くか」 
 言葉を口に出し、彼女は自分でも諦めたように項垂れた。 
 まあ――今日ぐらいは、いいだろう。邪魔者もいないことだし。 
 ちょっと、ぐらい。 
 らしくも無く自分の心に折れ、冬元は多嶋に向き直った。 
「散歩?」 
「そうだ。一ヶ月ぶりだろう? 人間の町は」 
「そうだな。それでも構わない。時間も余っている」 
 さも当然のように、多嶋が頷いた。 
 だから腹立たしいのだ、こいつは。人の葛藤も知らないで。 
「……ああ、多嶋。そう言えば、一つ言い忘れた」 
「何だ?」 
 多嶋が首をひねる前で、彼女は僅かに俯き顔を隠した。 
 多嶋に対し、面と向かうのが怖かった。ただそれだけの話。 
「おかえり」 
 彼女の言葉に、多嶋は小さな微笑を浮かべた。 
「ああ。ただいま」 
 その返事に、彼女も小さな笑顔をこぼす。多嶋に、分からないように。 
「おかえり」 
 ぶっきらぼうに、彼女はもう一度そう答えた。 

序章 
 
 一ヶ月前、始原界・六王会議室 
 
 昼であるにも関わらず黒いカーテンで仕切られた会議室には、ランプの明かりだけが煌々と灯されていた。悪魔召喚の儀式部屋のように、その室内は闇と小さな光だけで彩られている。時おり吹き抜ける風は室内に張り巡らされたカーテンを僅かに舞い上げ、その隙間から縫うようにして日差しが射し込んできた。 
 その闇に浮かぶ、三人の顔。 
 一人が、静かに議題の語尾を締めた。 
「人間との和平交渉の再開。これが、私の提案です」 
 小さなランプの灯火に照らされ、その表情が光の中に浮かび上がる。黒いマントを羽織ったその顔に浮かぶのは、まだ二十歳前後と思われる穏やかな青年の微笑だった。女性と見間違えそうなほど優しげな笑顔を浮かべ、残る二人へと微笑みかけている。 
「……下らない。第六王よ。今さら交渉再開など、一体何になると言う。馬鹿馬鹿しい」 
 にこやかな笑みを浮かべる彼――第六王に、もう一人の男が言葉を返した。四十半ばに差し掛かかり皴を刻み始めたその表情は、第六王とは異なる厳しさを浮かべていた。 
 第四王。始原界の人々からは、そう呼ばれる存在。 
「しかし、早々に切り捨てるのも如何なものかとも思いますよ、第四王」 
 渋い顔を浮かべる第四王へ、物静かな雰囲気を纏った第六王が言葉を続ける。 
「確かに、人間と我々、始原人の最初の交渉は失敗に終わりました。ですが、それが即座に戦争へと結びつけるのは安直な発想です」 
「話を聞かなかったのは奴ら人間の方だ。そして現状のまま人間を放置すると、我々は破滅の危機に晒される。なら次の手段は戦争――それ以外に無い」 
「まあ、確かに」 
 第六王は、黒いカーテンに仕切られたその奥を思い浮かべた。海のように広がる広大な砂漠。その光景が、脳裏に鮮明に浮かび上がる。 
「第四王のご意見は確かに、ごもっともです。我々が住むこの始原界。このまま人間を放置しておくわけにはいきません。そんな事をすれば、この世界は消えてしまう」 
 この世界の全てを飲み込む、死の砂漠。 
 人間の手によって起こされた自然破壊によって、侵食され続けた始原界の姿。 
 人間の住む人間界と、コインの表裏のように密接に繋がった異世界であるこの始原界の――無残な姿。加速度的に続く、人間の自然破壊によって、 
 第六王は言葉を続けた。 
「……ですが、人間はこの我々の住む世界、始原界の事を殆ど知りません。人間の世界と自然環境を影響し合う、この異世界の存在を。ましてや人間の自然破壊が、人間界よりもこの始原界の方に色濃く影響が出ていることなど」 
「それ位は分かっている。だからこそ我々は昨月、人間との交渉に自ら赴いたのだ。全ての説明を加えてな。この始原界と呼ばれる世界が、人間の住む世界と同じ自然影響を受けている事も念入りに説明した。人間の過剰な自然破壊により、この始原界が砂漠に飲まれようとしている事も。それなのに奴ら人間は……ぬけぬけと、返答保留などという回答を寄越しおって。まあ、所詮は馬鹿な人間相手だから仕方が無いかもしれんがな!」 
 机を叩きつける音が、会場の中に響き渡った。それを宥めるように、第六王が静かに言葉を紡いでゆく。 
「まあ、人間側には危機感が無いのでしょう。所詮は他人事。始原界という異界に興味こそはあれど、下手に首を突っ込むのは早計かと判断されたのでは。それに我々が交渉に赴いたのは、人間界で大国と呼ばれる国のうちの、ほんの一握りの人間だけ。常に自国の利益を最優先とする人間なら、下手な返事は返せない。まあ、そんな所ですかね。……しかし、だからといって交渉の余地がなくなった訳ではありません」 
 風が、カーテンを揺らし太陽の光を差し入れる。光に照らされた第六王の表情は、頬の端を静かに吊り上げていた。柔和な笑顔の中に、黒い何かを秘めた笑みを。 
「そこで私からの提案ですが。いっそのこと国のトップ相手ではなく、人間の一般市民そのものに交渉を持ちかけてみてはどうでしょうか」 
「……どういう意味だ?」 
「国のトップに立つ人間は常時、利害関係を考えるのが常です。その複雑な思考の中では交渉もなかなか上手くはいきません。しかし人間の一般人に私達の事を知って頂ければ、新たな選択肢が現れるやもしれません。始原界という場所があり、そこに住む始原人たちが危機に晒されている。その事を知る者が増えれば、利害関係以外でも動く人間が必ず現れます。始原界に興味を持つ者、関心を抱く者、そして、始原界を助けたいと思う者も。……かなり大味な方法ではありますけれど」 
「人間が始原人を救いたいなどと思うはずが無い」 
「試してみる価値はあると思いませんか?」 
 第六王の問いかけに、第四王は言葉を詰まらせた。くだらない、と口元で小さく呟く。 
 ランプに灯された光が、僅かな風に揺らいだ。 
「第四王。人間というのも中々、その辺りには理解を示すことのできる存在です。我々始原人と同じでね」 
「我々と粗野な人間を一緒にするな。それに、我々始原人の存在を一般市民が信じるとも考えにくい。第一、信じたとしても軟弱な人間どもの事、パニックに陥るのが関の山だ」 
「そこはやり方次第です。上手く信じさせれば良いだけの話」 
「どうやって?」 
 第四王の問いに、第六王はそっと微笑を浮かべた。 
「そうですね。私自らが赴いて、人間にPR活動を行いましょう。幸い、人間の世界にはテレビやインターネットといった非常に優れた通信機器があります。面白い情報なら、たちどころに全世界へと広まる事でしょう」 
「……確かに。だが、情報が流れた所で、混乱するのは目に見えている」 
「一気に色々な事を開示すれば、混乱もするし疑われる事でしょう。ですが小出しに少しずつ信じさせればいいだけの話。すべては私の説明次第です」 
「……まあ、今までの直接交渉と比べると面白い案ではあるな。期待は持てんが、試してみる価値はあるだろう。だが――」 
 小さく首肯した第四王の視線は、しかし敵意を持って第六王を睨み付けた。第六王の言葉の裏を探るかのように。 
「ひとつ聞きたい。当然ながらそれは失敗する可能性もある訳だな」 
 第六王の言葉が、わずかに詰まった。 
「それは、もちろん百パーセントとまでは行きませんが」 
「そして今の話を聞く限りの印象だが。仮に計画通り事が進み、実際に人間との和平交渉が成立したとして、始原界の 砂漠化を抑えられる程度に自然破壊を休止する。それまでに一体、どれくらいの時間がかかる?」 
「……長期的計画ですので、推定ですが五年以上は」 
「却下だ」 
 第四王の怒声にも近い声が、室内に響き渡った。 
「現在の砂漠化進行で最も影響を受けているのが、我が国だ。にも関わらず五年以上だと? そんな事をすれば、我が第四国は甚大な影響を受ける」 
「しかし」 
「確かに第六王の提案は魅力的だが、事態は急を要する。現時点で和平交渉の道が絶たれた以上、私はやはり第六王の提案には反対する。……それに、第六王」 
 第四王の視線が、線を引いたように鋭く細められた。第六王に対する、あからさまな嫌悪感と共に。 
「私は、第六王の思惑通りに動くつもりは無い。裏の思惑通りにな」 
「……何のことですかね、それは。随分と嫌な響きですが」 
「白々しい」 
 第四王が小さく、鼻を鳴らした。 
 その様子を見てだろうか。沈黙を保っていた最後の一人が、そっと立ち上がった。 
 第六王と第四王の間に座る、白のレースで着飾った女性の姿。黒で包まれた二人の王に対し、その存在はあからさまに浮いた空気を醸し出している。 
「その辺りにしておきましょう。第四王、第六王。互いの意見は最もです」 
「……では、貴方の意見を聞かせて頂きたい。第一女王」 
「ええ」 
 第一女王と呼ばれた彼女は、小さく頷き席を立った。 
「私としては――第六王の案に賛成です」 
「っ……」 
 第四王の押し殺した声が、小さく響く。それだけの意味が、その言葉には篭っていた。 
「砂漠化を一刻も早く止めなければならないのは、確かな事です。ですが、これは始原界全体の問題。私達としても、無用な争いは避けるべきです。その点、第六王の和平的な意見は評価すべきだと思います」 
 彼女の言葉に、第六王が満足げに頷いた。にこやかな笑顔と共に。 
「ありがとうございます、第一――」 
「ただし、それは第六王の提案が成功するという確証があればの話です」 
 第六王の笑顔に、僅かな亀裂が走った。 
「第六王の提案は魅力的ですが、五年以上の時間をかけて最終的に失敗しました、となれば取り返しのつかない事になります。確実に成功する、という保証が無ければいけません。そこで私から一つ、修正案があります」 
 第一女王の凛とした口調は、会場の中に朗々と響き渡った。 
「来月の一ヶ月間。第六王には貴方の提案通り人間界へと赴き、実際に始原人についてのPR活動を行ってもらおうと思います。それと同時に、始原界側からも数十名の調査員を派遣します。調査員の目的は、和平交渉を前提とした人間との親睦。そして人間が和平交渉をする相手として相応しいかを調査すること。もし第六王の活動が功を奏し、人間が好感を持っているようであれば、調査と第六王の活動を継続。そして一年以内に交渉へと持ち込めそうな雰囲気があれば、第六王の案を正式に採用したいと思います。逆にそれが不可能、つまり人間の印象があまりにも低かったり、何らかのトラブルが発生した時は――その時点で今回の和平案を破棄し、戦争という手段を使うことになると思います。……これで、如何でしょうか?」 
 第一女王が、静かに二人の姿を見返す。そっと、第四王の手が上がった。 
「第一女王。仮に第六王の提案通りに事が進んだ場合、我が第四国はその国土が砂漠へと消える事になります。その場合の保証は」 
「それは、私と第六王に依頼し難民として受け入れ態勢をとって頂きます」 
「――国が、消えるのですよ」 
「それは悲しいことですが……事態がここまで進んだ以上、やむを得ないと思います」 
「人間如きに、始原人の国を犠牲にする必要は無いと思いますが」 
「戦争になれば、始原の民にも血が流れます。どちらの犠牲が多いかは分かりませんが」 
第一王女の返事に、三人だけの会場に沈黙が落ちた。 
「他に意見が無ければ、それでよろしいでしょうか?」 
 議場に満ちていたその沈黙が、答となった。 
「ではこれより、すぐに調査団の編成を行って下さい。各国から代表者の選抜を。そして、第六王。PRの手段は貴方に一任します。実際に人間界での活動は第六王自身で行っても構いませんし、他の者に代行させても構いません。では、以上で本会議を終了します」 
 第一王女の言葉と同時に、全員が静かに席を立った。 
「お任せしましたよ、第六王」 
「――ありがとうございます」 
恭しく、第六王は頭を垂れた。 
「……納得できるものか」 
 会場を後にしながら、第四王は小さく爪を噛んだ。 
 
 
 
 一週間前、第六王王室内 
 
「……という事で、セイグル。君を人間界調査員の一人として任命する」 
 銀狼ファーゼン=セイグルは、その突然の依頼に眉をひそめた。 
 背中に揺らぐ銀の長髪が、動揺で揺れる。銀狼の異名に相応しいその表情は、まだ十七とは思えないほど引き締まり、緊張感を露にしていた。 
「人間界調査員として、人間達のことを調査して欲しい。我々、始原人と人間が共に和平の道を歩むことが出来るかどうかを。そのために、君には人間との深い親睦を」 
「お言葉ですが、第六王様」 
 口にすべきかどうか迷いつつ、セイグルは目の前に座る主の言葉を遮った。 
「なぜ、私を?」 
「駄目かね?」 
「大半の始原人と同様、私も人間を忌み嫌っています。その私が、調査員ですか?」 
 セイグルは第六王の顔を覗き込んだ。困惑の色を称えた瞳を向けて。 
「それはもっと、理解と見識ある賢人に任せるべき事だと私は思うのですが。少なくとも、戦士たる私に向いた任務だとは思えません」 
 セイグルの返事に、第六王は童顔で優しげな笑みを作り上げた。 
「君ならそう言うと思っていたよ、セイグル。君は実直で、素直だ。そういう風に直に話をしてくれる所が僕は気に入っている。……だから君が最適なんだ。是非、頼むよ」 
「……しかし」 
「セイグル。戸惑うのは分かるけれど、是非ともお願いするよ」 
「……はい」 
 返事を返すことへ僅かに躊躇つつも、セイグルは静かに頷いた。 
 第六王の言葉の意味を、深々と考えながら。 
「よろしい。では、君には調査という名目で一ヶ月ほど人間界で普通の生活を送ってもらいたい。人間の文明の凄さには驚くかもしれないけれど、基本は礼儀さえ守っていれば問題ないはずだ。慣れないこともあるだろうけれど、君は意外と適応力もある。頼むよ」 
「……はい」 
「それと、調査員としては人間側の意見を幅広く取り入れる必要がある。老若男女、共にね。そこで十七歳という若さの君には、主に人間の若者を対象として調査して欲しい」 
「はい」 
「そして君が素直に感じた事、それを一ヵ月後の人間界調査委員報告会にて報告すること。調査のための下準備は既に終わっている。では頼むよ、多嶋君」 
「タジマ?」 
「君の偽名だよ。君こと多嶋誠は今年、鳩羽高校から七星高校へと新しく転入してきた高校二年生、という設定にした。で、今から高校の始業式まで一週間あるから、さっそく人間界に行ってその生活に慣れるといい」 
「……はあ」 
「頼んだよ」 
 第六王に肩を叩かれ、彼は何一つ納得できないまま頷き続ける事となった。 
 人間と親睦などを深めて何になると言うのか、と思いながら。 
 
 
「さあて。頑張ってくれよ、セイグル。人間との平和のために……そして、私のためにね」 
セイグルの居なくなった王室で、第六王は一人、小さな含み笑いを漏らした。 
 



 銀狼の見た世界 



 
 第1章 
 
1  多嶋誠 
 
 E県都立七星高校は、主なレジャー施設が並ぶ都市圏から一歩離れた丘の上に立てられていた。敷地の近くには民家の一つも見当たらず、ただ山の斜面と雑草の群れが連なっている。学校へ続く坂に入ってからは、コンビニの一つすら見当たらない古びた道。 
 そんな田舎臭い道のりを、他の生徒に紛れ多嶋誠はただ淡々と歩いていた。 
 百八十に届きそうな身長を持つ、細身な体。何処か冷めたように見渡す細めの目つきも、実に均衡の取れた顔つきの一端を表していた。 
 春に相応しい、温かみのある風が多嶋の髪を凪いで行く。短く纏められた黒髪と黒い学生服は、その端正な姿をより強調している。 
 多嶋はふと足を止め、アスファルトの地面をつま先でつついた。まばらに道を歩く他の生徒は、そんな多嶋の仕草に見向きもしない。 
――やはり気に入らないな。 
 多嶋は首を僅かに傾け、何事も無かったかのように再び歩き始めた。 
 アスファルトの地面、というのが多嶋には気に入らなかった。どうして地面を固めてしまうのだろうかと、今でも不思議に思う。車が道を走るため。確かにそうだろうが、道の脇まで埋める理由が分からなかった。 
 第一、この程度の距離を舗装する必要があるのだろうか。山を切り崩し、木々を倒してまで無理に道を作る必要が。それによって、始原界にどれ程の影響が出ているのか。 
 もちろん、全体から見れば些細な事だというのは多嶋も理解している。だが、その積み重ねが今の現状に繋がっているのだ。にも関わらず、人間はその事を全く意識しない。 
 始原界の問題である以前に、人間の問題であるにも関わらず。 
 やはり人間は愚か者か。愚かだとしか例えようのない存在―― 
「おっはよう!」 
 どん、と背中に激しい衝撃を受けて、思索にふけっていた多嶋はカバンを取り落としそうになった。あわててバランスを保ち、体を立て直す。 
「……っと」 
「うぃっす。おはよう多嶋君!」 
 背中からどついてきた女が、多嶋の前に現れる。ボブカットの黒髪を揺らし、笑顔を浮かべた彼女は多嶋の目の前で、にこっ、と妖精のような笑みを浮かべていた。 
 背の高い多嶋の前で、小柄な少女の髪が揺れる。丸っこい顔つきをした、可愛いと呼ばれる類の顔だ。 
「……な、何だ突然」 
「だから、おはようってば」 
 何の悪気も無く、女子生徒が同じ挨拶を繰り返す。満面の笑顔から出される最高の笑顔と共に。 
 多嶋には何の感慨も沸かなかった。むしろ、一体どういう神経をしているのかと疑いたくなってしまう。背中から人をどついておいて、何事も無かったかのように挨拶をするとは礼儀知らずもいい所だ。 
「多嶋君、聞いてる? おはようって」 
 目の前で手をパタパタ振り、女子生徒がじっと見つめてくる。よく見ると、見覚えのある顔だった。 
「もしも〜し」 
 名前は確か、皆月ミリア。多嶋の席の隣にいる、やたらとかしましく干渉してくる女。人間の顔は始原人とそう変わらないので、区別はしやすい。 
「おはよーって」 
 それにしても、全くもって人間は礼儀がなっていない。人間だから仕方が無いといえばそれまでなのだが。やはり姿形が人間と同じとはいえ、多嶋のような始原人とは何かが根本的に違うとしか思えない。 
「おはよってばさ。完全無視? 聞いてる多嶋君」 
 目の前では相変わらず、ミリアがくるくると動いていた。 
 別に無視しても構わない、と多嶋は思う。所詮は人間の戯言であり、干渉する必要は皆無に等しい。 
「お〜い」 
 だが、先ほどから周囲を歩く学生の視線がやたらとこちらに向いている事は感心できなかった。この女の行動は周囲から見ても常識外れなのか何なのか。相手をしないと注目を浴びてしまう。それはあまり賢明とは言えない。 
 どちらにしろ、妙な女だった。 
「……おはよう」 
「あ、やっと言った。多嶋君さあ、無口なのも格好いいけど、あんまり喋らないと嫌われるよ?」 
「別に」 
 そっけなく多嶋は答えた。人間との親睦を深める、というのは目的の一つではあったが、正直その気力は既に失せていた。 
 多嶋誠――銀狼セイグルは、人間が嫌いだから。任務とはいえ、感情だけはどうしようもない部分がある。 
「私は、誰に嫌われても構いはしない」 
「まぁたそんな事言って。そんなんだから嫌われるんだってば」 
「それでもいい」 
 小さく呟く。やはり調査員としては失格だろうか、とは思う。 
「あ、そうそう多嶋君さあ。話変わるけど昨日のテレビ見た?」 
「……まあ、少しはな」 
 突然の話題転換に躓きながらも、多嶋は言葉を返した。 
 昨日は多嶋にとっても重大なニュースが流れていた。見逃すはずも無い。 
「あ、やっぱりあれ? 今話題沸騰中、あの異世界のニュース?」 
「そうだ」 
「だよね、やっぱり!」 
 ミリアの興奮した様子に、多嶋が視線を向ける。 
「ほら、何だっけ。あの第六王っていう人が言うには、始原界とかいう異世界があってそこから来たんでしょ、彼」 
「らしいな」 
 多嶋は適当に頷いた。もちろん多嶋にとっては既知の事実だ。その事により、人間側がどういう反応を示すのか。それが調査の最大の目的である。 
 ミリアが嬉しそうに言葉を続けた。 
「っていうかあの第六王って人さあ、めっちゃ格好良くない? こう、笑顔とかすっごく綺麗なんだよね。今時の男にしては穏やかって言うか」 
――結局はそれか。低俗な人間らしい、最初の着眼点だ。 
 もっとも、多嶋自身も第六王様の容姿に関しては同意見ではあるが。 
「……そうだな。私もそう思う」 
「おっ、多嶋君何気に分かってるね。あ、でもさ。本当に始原界なんてあるのかな。ただのデマにしては話が出来すぎてる、って専門家は言ってたけど」 
「ふむ。確かに、説明と言われれば難しいものがあるが――」 
 多嶋が首を捻った、その直後のことだった。 
「ミリア」 
 多嶋の思考を遮り、背後から低いトーンの声が響いた。 
「あ、冬元。おはよっ!」 
 ミリアが片手を挙げて挨拶を交わす。多嶋が振り返ると、冬元と呼ばれた女は目つきを鋭く吊り上げた。 
 カバンを背にかけた、凛とした顔立ちが印象的な少女。ミリアを「可愛い」と称するなら、こちらは「勇ましい」といった言葉のほうが似合いそうだった。黒いショートの髪を揺らし、尖った視線を多嶋へと向けている。偶然なのか、やはり多嶋の知っている顔だ。多嶋と同じクラスメイトの、冬元。冬元由香。 
「おはよう」 
 冬元とミリアが自然と挨拶を交わした直後、冬元の視線が多嶋に向く。敵対心をむき出しにした、嫌悪すら含まれる視線。 
「……ミリア。まだこんな暗い奴に構ってるのか」 
 あからさまな敵意を含んだ男っぽい口調に、ミリアが唇を尖らせた。 
「ちょっと冬元。そういう言い方は良くないって」 
「本当の事だろ。こんな根暗な奴」 
 冷たく言い切り、もう一度多嶋を見る。やはり鋭い目つきは変わらない。もともとそういう顔立ちなのか、それとも多嶋が憎くて仕方が無いのか。たぶん両方だろうと多嶋は判断した。 
 冬元が軽く鼻を鳴らし、視線を反らす。 
「こんな無口で陰険な男、どうせミリアに余計な事しか――」 
「冬元ってば」 
 ミリアの甲高い口調が、冬元の低い声を押しつぶそうと喰らいかかる。 
 冬元は小さくため息をついた。 
「どうだか。男なんか、どうせ全部同じような奴に違いない。女たらしの愚図共で」 
「冬元ってば。多嶋君はまだ関係無いでしょ」 
 ミリアの怒鳴り声に、冬元が軽く視線を向ける。多嶋への視線とは違う、温かみの篭った穏やかな顔。 
「……言いすぎだよ、冬元」 
「本音よ。別に今更、隠すつもりも無いし」 
「ちょっと」 
「それより、ミリア。千春が先で待ってる」 
「えっ? 千春が?」 
「宿題見せて欲しいって。行くよ」 
「う、うん。分かった。だけど」 
「ミリア」 
「うん。……多嶋君、ごめんね。先に行く」 
 一瞬だけ多嶋にばつの悪そうな顔を向けると、ミリアは短めの足をばたつかせて坂道を駆け上がっていった。冬元もそれを追うように颯爽と歩き出すが、ふと彼女はその途中で振り返る。 
 坂の上から見下ろす、魔王のように悪辣な視線が印象的だった。 
「多嶋」 
「何だ」 
「私はあんたみたいな奴が一番、嫌いだ。無口で何を考えてるか分からない根暗な奴。……そういう男が一番、気に食わない。いいか。ミリアに余計な手を出したら、殺す」 
「何を勘違いしているかは知らないが、断じてそれは無い」 
 下らないと思いつつ、多嶋は言い返した。 
 それだけは断言できる。冬元が何を気にしているかは知らないが、人間に手を出して何のメリットがあると言うのか。人間が気に入らないのは事実だが、そこまでする気には到底なれない。それに多嶋や始原人がトラブルの一つでも巻き起こせば、始原人と人間の和平交渉は台無しになってしまう。それは最も避けるべき事態。 
 下らない余計な干渉など、こちらからごめん被りたい所なのだ。 
「そうか。ならいい。でも、あんまり私の前をうろうろするな。っていうか消えろ」 
 ぶっきらぼうな口調で言い切った後、冬元も小走りで走り出す。やはり人間は悪質な生き物だと改めて認識した頃、視界の先で、冬元がミリアの隣に追いつく姿が見えた。冬元は相変わらず、不機嫌そうな顔を浮かべている。 
「ちょっと冬元。さっきのは幾らなんでも言いすぎだよ」 
「別に。ところで、ミリア。あんな奴のどこがいいの」 
「へ? いや、別にいいとか悪いとかじゃなくってさ。同じクラスメイトだし、あんまり話したこと無かったから声かけようと思っただけだって」 
 下らない会話が耳に届く。多嶋との距離は開いていたが、始原人ならではの聴覚を持つ多嶋にその声は難なく聞こえてきた。別に聞きたいと思った訳でも無いが。 
 会話を交わしながら、冬元の横顔が不満げに歪むのが見えた。 
「あいつ、転校初日からずっとあんな感じだ。誰とも話さないし、暗いし」 
「まあ、あんまり話はしないけどさ。多嶋君、この前町内ボランティア活動のゴミ拾いやってたんだよね」 
「……多嶋が、ゴミ拾い?」 
「そ。だからいい人かなぁ〜と思って」 
 冬元の眉がさらに不つり上がる様子が、遠目でも分かった。 
――ゴミ拾い。町内ボランティア活動という名前は知らなかったが、確かに先週末ゴミ拾いを行った事は事実だ。町を綺麗にしよう、という人間にしては殊勝な心がけだと思い、嬉しくなってつい参加してしまった。人間にもそういう考えを持つものがいるのだと多嶋もその時ばかりは見直したものだが、その姿を見られたのだろう。 
「……あいつが。あいつがゴミ拾いか」 
「見間違いじゃないよ?」 
「まあ、普通は見間違わないだろうけど」 
「そだね」 
 ミリアが納得したように頷く。直後、彼女は少し表情を曇らせて冬元の方を向いた。 
「ねえ、冬元。最近、何かあった?」 
「どういう意味?」 
「いや、何て言うのかな。最近の冬元、妙に神経過敏っていうか、刺々しいっていうか。男嫌いなのは前からだけどさ。何か最近、いつも以上にひどくなってるような気がして」 
「気のせいよ」 
 ミリアの方を向かずに、髪をいじりながら冬元が応える。そんな冬元に、ミリアが僅かに押し迫った。相手を気遣っているような空気が、遠目で見ている多嶋にも伝わってくる。 
「冬元。前から言おうと思ってたんだけどさ。やっぱり関係ない男の人にまで当たるのはよくないと思う。気持ちは分かるけど」 
「そういう訳じゃない」 
「だったらどうして多嶋君に当たるの」 
 ミリアの言葉に冬元は左手で軽く頬を掻きながら、背負うように持っていたカバンを手元に戻した。そのまま何故か、視線を逸らすように多嶋の姿を盗み見る。 
「別に。ただ気に入らないだけ」 
「それが駄目なんだってば。私だけじゃなくって、もっと他の人とも仲良くなろうよ」 
「多嶋と?」 
「まあ、他の人でもいいけど。できれば男」 
「ふざけるな。男なんか」 
「はぁ……冬元。何かさあ。最近、持病さらにひどくなってない? 早く何とかしないといけないって、友達の私としては思うんだけどね」 
「持病じゃない。性格の問題だ」 
「はいはい。分かったから行こ」 
 そんな会話を耳にはさみながら、多嶋は無関心なまま淡々と学校へ歩いた。 
 
 
2  冬元由香 
 
 そういうのを余計なお世話と言うのだ、ミリア。 
発情期のオス共が争っているかのような騒がしい教室の中で、冬元は自分の席に座りつつぼんやりとそう考えていた。 
 実際の所、冬元は確かに神経過敏になっていた。先ほどは何とか誤魔化したが、他人の事情にいち早く勘付くミリアを騙し続けるのは難しい。近いうちにまた何か言われるだろうな、と思う。 
そんな事を考えているうちに、冬元は不意に睡魔に襲われた。はと目を覚まし、黒板を見つめ直す。だが、瞼はまたすぐに重たくなった。 
 傍目からは凛々しく見える事も理由だろう。話をすると意外だと言われるが、冬元は朝に弱かった。 
 僅かに閉じかけたまぶたを開け、何とか眠気に耐えながら座っている。黒板を見ると、クラス内の役員名が書かれていた。そういえば今日は各役員を決める話し合いが予定されていた気がする。 
「はいはい、皆さん立候補者はいませんか〜?」 
 手をパンパン、と叩いてミリアが注目を集める。その音に再度目を覚ました冬元は、壇上に立つミリアの姿を見つめなおした。その天然の明るさと行動力を買われてか、彼女はさも当然のようにクラス委員として教壇の前に立っていた。厄介ごとを押し付けられた、とも言うが。相変わらず人がいい。 
 右手で頬杖をつき、冬元は今日何度目かのため息をついた。面倒な役員を自分から進んで受けよう、などと思う生徒はそういない。何とか自分がその役から外れようと、ミリアの説得にさりげなくお茶を濁している。 
「無ければ推薦者、いませんか〜?」 
 ミリアの言葉を聞き流しながら、冬元は教室内を見渡した。 
 自由に相談していい、というミリアの方針に基づき、教室内は幾つかのグループに分かれ騒がしく話をしていた。この方針は失敗だったなと内心思いつつ、視線を巡らせる。 
 一人、孤立している男が視界に入った。 
 教室内で真ん中の一番後ろ、教壇から真正面の位置で腕を組み、憮然とした表情で座っている多嶋。仏頂面で何を考えているか分からないのは相変わらずだが、どうせろくな事を考えてないに決まっている。無口で無関心で無愛想。 
 どうせ下らない事を考えているに決まっている。男なんか所詮、信用できるはずが無い。 
 冬元は小さく鼻を鳴らした。そんな多嶋の何よりも気に入らない所は、ミリアがやたらと多嶋にお節介を焼いている事だ。それが何より、気に入らない。 
 冬元の視線に気がついたのか、多嶋がこちらを向く。鋭さを持った、まるで人間全体を敵視するような視線。どことなく、自分に似た眼をしている。 
「何の用だ」 
 と小さく多嶋の口が動く。 
「別に」 
 とだけ返事をしておき、冬元は多嶋から視線を反らした。 
 壇上では、一向に纏まらない様子にさすがのミリアも苛立っていた。 
「誰かやりたい人、いませんかってばさぁっ!」 
 半ばキレ気味なミリアの叫びが響く。面倒ごとを他人に押し付けようという空気がある中で立候補者など出るはずも無く、推薦者も現れない。苛立つのも分かる。 
 やがて叫ぶのを諦め項垂れると、ミリアは仕方無く個人戦に持ち込んだ。一人一人、やってくれそうな人を説得に行くつもりのようだ。数人と話し、あっさりと嫌な顔をされ、ミリアは少し悩んで多嶋の所へと歩いていく。 
 だからどうしてそこで多嶋なのか。他にも女子生徒は沢山いるのに。 
「多嶋君。お手上げなんだけど」 
「知らん」 
 相も変わらず銅像のような顔のままの返事。 
「こういう時ってどうすればいいと思う?」 
「私に聞くな」 
「そこを何とか、さ。アイディア頂戴」 
 頭を抱えつつも、ニコニコとした様子で多嶋に尋ねる。アイディアが欲しいというのも本音だろうが、多嶋と接する機会を作りたいという意図もあったのだろう。気に入らない。どうして多嶋にあそこまで構うのか。多嶋だって嫌そうな顔をしてるのに。 
 会話をしている多嶋を睨めつけていると、やがて多嶋は仕方なさそうに口を開いた。 
「……さっきから疑問に思っていたのだが。役員とはそもそも各教室内で最も能力のある者がなるのではないのか」 
「へっ?」 
 思わぬ言葉に、ミリアが首をかしげた。多嶋は相変わらずの仏頂面のまま、口だけを機械のように動かしてゆく。 
「仮に風紀委員であれば、学内の風紀や法に関して最も知識と造詣、そして不正を許せない性格を持つ人物を抜擢するのが妥当だと思うのだが」 
「う、うん。まあそうだけど」 
 困ったように頬を掻き、ミリアが少し視線を反らす。 
「ミリア。お前はクラス委員なのだろう。クラス委員と言うのは、クラス内における人事権を持つ、教室内最高権力者だ。なら自分で責任を持って選抜するべきだと思うのだが」 
「さ、最高権力者って」 
「それが頭領の役割だ。それで不祥事が起これば辞任するなり進退を考える。それが組織たるものの有り方だと思うのだが、違うか?」 
「辞任って……うーん」 
 多嶋の言葉に、ミリアは押し黙って考え込んでしまった。 
 奇妙な発想に、聞き耳を立てていた冬元までも思考を巡らせる。多嶋の発想は、学生というより国家や企業のような発想に近いものがあった。あまり、普通の学生が考えることではない。 
 奇妙な男だ。 
「なんか多嶋君、難しい事言うね」 
「別に、ただそう思っただけだ」 
 そう答える多嶋の顔は、やはり不満げな表情を浮かべていた。人嫌いなのかもしれない、と唐突に思う。自分と同じで。その割には例のボランティア事件もあった訳だが。 
 やはり奇妙な男だ。 
「おし、分かった。多嶋君ありがと。無理やりでも何とか選んでみるから。で、多嶋君は何かやる気ない?」 
「人間の委員会において、私の能力や熱意が使える部門があるとは思えないが」 
「美化委員っていうのもあるんだけど」 
 ひくっ、と多嶋の眉が動いた。 
「その具体的活動方針は」 
「校内環境を綺麗にしましょう、っていう感じかな」 
「それは環境問題改善への発展性があるのか?」 
「うーん、まあ繋がるんじゃないかな。それは多嶋君の努力と熱意次第で」 
「ならそれでいい」 
「ホント?」 
 ミリアの問いに、多嶋はあっさりと頷いた。 
「ありがと多嶋君。君って意外と素直でいい人だね」 
「何がだ?」 
 やはり不思議そうに多嶋が聞いたが、ミリアは嬉しそうな笑顔を浮かべてまた歩き出した。あのさ、今回の委員決定の話何だけど―― 
 冬元はもう一度、多嶋の顔を改めて見た。相変わらず銅像のような顔。よくよく見れば、そんなに顔立ちも悪くは無く、 むしろ整っている印象すらある。先ほどの奇妙な言動も、その表情を見る限り真面目に答えていたようだ。無口でひねくれた引きこもり系かとも思ったが、意外と実直な男なのかもしれない。 
 とはいえミリアに近づく以上、敵である可能性は高い。というより、敵だ。男は敵だ。 
 冬元がそう結論づけた時、かつん、と冬元の頭に何かが当たった。すぐに廊下の窓へと振り返ったが、どこから飛んできたのかは分からない。 
 ぶつけられた物を拾うと、それは小さな紙切れだった。 
『皆月ミリアの件で話がある。昼に体育館裏に来い』 
 またか。 
 冬元は呆れ顔を浮かべた。 
――だから男はムカつくのだ。 
 冬元は紙切れをポケットにしまった。 
 小さく、指を鳴らしながら。 
 
 
3 
 
 皆月ミリアは昔から、運動も勉強もできる秀才タイプの人間だった。これといって苦手科目も無く、体育もそれなり。もちろんミリア本人にとっては苦手な科目もあるのだが、科目別に極端な点差の出る冬元と比べればミリアはまさに聖人の如き優秀な生徒だった。そして容姿も綺麗というか、冬元と違って可愛い部類に入る。  
 文武両道、容姿端麗、おまけに性格も優しいと来れば何か。  
 学校内で苛められる。 
 当時のミリアに対する苛めは相当なものだったらしい。一部の人間だけの行いとはいえ、さすがのミリア自身も時折辛そうな表情を見せた。ふっと視線を外す、どこか切なげな顔。 
 冬元がいくら尋ねてもミリアは何も話さなかったが、勘の鋭い冬元はその表情の意味に気がついた。ミリアに行われている、虐めの実態に。 
――それからすぐに、ミリアの表情は再び以前の明るに近いものを取り戻した。 
 冬元自身が密かに、そういう連中を片っ端から潰していった成果だった。 
 誰が苛めてるのかを調べる必要は無い。最初の一人に見つけ、あとはぶん殴って脅す。所詮は遊び半分でやっている連中を見つけ出すのは実に簡単だった。後は芋づる式に残った連中の名前を聞き出し、さらに潰していく。男であろうと、女であろうと容赦はしない。凶暴な女生徒・冬元由香の噂はウィルス如く一気に広まり、それに比例してミリアに 手を出す細菌どもは一気に駆逐されていった。 
 結果、一週間も経たないうちに、冬元はその大半を沈める事になる。最後はそのリーダー的存在を含む三人の男女と壮絶な殴り合いを展開し、唇を切って血を流し青あざを作り、挙句先生から謹慎処分を頂いた上にミリア本人にばれて大喧嘩したりと色々あったが、結果的に苛めは激減した。 
 その代わり、なのだろうか。たまに冬元自身へと喧嘩を売りに来る奴が増えた。女子生徒はまず手を出してこないが、あの時手痛い目に合わせた男ども。ミリアに手を出すなら、まず冬元を始末しなければならない。その認識が広まったせいでもあるし、復讐もかねての意味もあるだろう。その方が好都合だが。 
 どうせ今回もその類の輩に決まっている。 
 だから、男はムカつくのだ。安直で、馬鹿で、女誑しで―― 
 
 
「……で、何の用?」 
 聞くだけ時間の無駄だとは思いつつ、冬元は目の前のいかにも最悪そうな男子学生に声をかけてやった。角刈りの髪に長ランのズボン。真横に伸びた悪党面らしい細めの視線を向け、両手はポケットの中に突っ込んでいる。顔が悪い奴は頭も悪いし性格も悪いに決まっている、という冬元の基本認識と見事に一致していた。確か、名前は佐藤正樹。 
 冬元には、一度見た相手の顔を忘れないという特技があった。名前もすぐに思い出せる。 
 男が啖呵を切った。 
「言わなくても分かってっだろーが」 
 冬元はため息をついた。体育館を左手にしつつ、後ろに目を配らせる。いざという時に逃げるためと、誰も見ていない所で容赦なくこの馬鹿をぶっ潰せる事を確認するために。 
 背後には体育館の影と、チューリップの植えられた花壇が鎮座していた。 
「聞いてんのかオイ」 
「ああ、ラブレターって訳? 悪いけど、あんたみたいのはタイプじゃないから却下。消えろ」 
「んだとコラ」 
 ボキャブラリーの少なそうな男の台詞を、小さく鼻で笑う。 
「調子に乗ってるのはあんただろ。いつもミリアに余計な茶々入れやがって。いいからさっさとかかって来い三流悪役の雑魚野郎が」 
 冬元の挑発に、男は簡単にぶちきれた。馬鹿が。 
「てめぇ!」 
 男が反射的に殴りかかる。冬元は無言で沈めその一撃をかわすと、拳を一気に振り上げた。力はさほど強くは無い、しかしスピードと渾身の気迫を乗せた強烈なアッパー。 
 男の顎が一瞬にして吹っ飛ばされる。男の身体が軽く宙を浮いた次の瞬間には、既に不自然な姿勢でゴロゴロと転がっていた。 
「ったく手間かけさせやがって」 
 今の一撃で少し赤くなった右手をさすりつつ、冬元は立ち上がった。男はまだ、顎を押さえてうずくまっている。とどめの意味を込めて腹に数発蹴りを入れておこうとも思ったが、そこまでする必要も無いかと思い途中で止めた。 
 ミリアと大喧嘩をして以来、ミリアには『穏便に』ときつく窘められている。仕方なく、冬元は『穏便に』この辺で止めておく事にした。 
「あんた。これに懲りたら、もうミリアとあたしに手出しすんな。三度目は無い。ミリアは許しても、あたしは許さ」 
「こ、このクソ野郎が!」 
 男は立ち上がり、あろう事か――ポケットから折りたたみナイフを取り出した。 
「っ、この馬鹿」 
 ぞっとするような冷や汗が、冬元の背筋に流れた。 
 馬鹿に話は通じない事を、冬元はよく知っている。馬鹿ほど怖いものが無い事も。 
 一瞬躊躇し、冬元は即座に踵を返して走り出した。ぞくりと背筋に寒気が走る。 
「待てや!」 
 後ろ手に男の声を聞きつつ、体育館の角を曲がる。冬元はチューリップの育った花壇の中を突っ走った。茎を何度も踏みつけたが、そんなつまらない事に構っている暇は無い。花壇に血の花を咲かせるのは御免だ。 
 後ろを振り返ると、男の姿は見えなかった。僅かに足を遅めて体育館の裏手を回る。 
 軽く息をつき、冬元の顔に安堵の表情が浮かび上がった。 
 その、直後。 
「やっと来たか」 
 男の声に冬元は振り返り、 
「っ!」 
 拳が、冬元の腹に突き刺さった。 
 くぐもった悲鳴を上げ、ふらふらと後ろへよろめく。その目の前に、どこに隠れていたのか、同じようにズボラな学生服を着込んだ茶髪の男が顔を出した。 
 倒れかけた冬元の髪を掴もうと、男の手がさらに手が伸びる。冬元は咄嗟にしゃがみ、土上で転がり距離を取った。 
まだ痛みの残る脇腹を押さえながら、男達を睨みつけ立ち上がる。 
「よう、冬元。元気かい?」 
 目の前の男には見覚えがあった。篠田厚。昔、冬元がぶっ飛ばしたリーダー格の男の一人。さっきのナイフ男とつるんでいた男。 
「最悪だよ、全く」 
 悪態をつきつつも、視線だけを走らせる。体育館の裏手や木の陰から、ハイエナの群れのように、別の男達が姿を見せる。後ろには追いついてきたナイフ男。前に現れた二人。左に二人、右は体育館の壁。 
 やはり全員見覚えがあった。篠田厚、佐々木純、六川始、長坂幸助、そして佐藤正樹。 
 だから男なんか嫌いだ。徒党を組んでしか何も出来ないチンピラ共が。 
「あんたら、いい加減にしなよ。ナイフまで持ち出して。警察沙汰になるよ」 
 その言葉に何人かが頬を歪めたのを、冬元は見逃さなかった。 
「だから何だよ。てめぇだって、今まで散々やらかしてきただろーが」 
「あたしのは正当防衛よ。それに、私は刃物だけは使ってない」 
「見つからなきゃいいんだよ、なぁ?」 
 目の前に立つリーダー格の男に対し、周りの連中が慌てて頷く。どうやら、他の連中は無理やり従わされているようだ。それなら、目の前の男さえ倒せれば何とかなるかもしれない。 
 狙うは一撃必殺。そう判断して冬元は周囲に視線を巡らせた。立ち位置は、冬元を囲うようにほぼ同じ距離で、五人。その奥には花壇が広がっている。 
 奥に見える、踏み荒らされた花畑の様子は実に無残だった。その中に、また別の男が一人、怪訝な顔つきでこちらを眺めている。花壇の持ち主が、騒ぎを聞きつけて現れたのか。 
「……ん?」 
 冬元は目を疑った。花壇に立っている男は、ジョウロを片手にこちらを睨みつけている。 
 いつもの、仏頂面で。 
「おい」 
 男の静かな声は、緊迫した雰囲気の中へと静かに滑り込んだ。 
「多嶋?」 
 一瞬、理解が遅れる。どうして多嶋がここにいるのか。 
「花壇を踏むな、お前達」 
 機嫌が悪そうな多嶋の言葉に、男達も奇妙な乱入者に眉を潜めていた。 
 一番最初に我に返ったのは冬元だった。 
――何言ってるんだこいつ。雰囲気が読めないのかこの馬鹿は。 
「多嶋、それ所じゃない。ここからさっさと消えろ」 
「おい、兄ちゃん。邪魔すんなよ」 
 冬元の忠告を遮り、リーダー格の男が手をポケットに入れたまま多嶋に近づいていく。多嶋はまるでゴキブリを見るような視線で、男を見返した。 
「何をしているかは知らないが、あまり感心できそうに無いな。始原――私の実家でも、ごく稀に見かけそうな光景だ。 ……そこを離れろ。花を踏むな。別に義理は無いが、仮にもその女は私のクラスメイトだ。同じ組織にいる以上、あまり厄介事に巻き込むな。人間でも多分、それが常識的な対応だろう」 
「あぁ? なに寝ぼけた事言ってやがんだオイ」 
 男はチューリップの茎を盛大に踏みつけた。多嶋の顔が、恐ろしいほど険悪になる。 
「だから花壇を踏むなと言っている。聞こえないのか人間」 
「っるせえボケ!」 
 男の足が、動いた。 
「多嶋!」 
 冬元が叫ぶ。だが男の右足が上がる瞬間、多嶋は左足で男のつま先を踏みつけていた。一瞬の動作。ぐっ、と男の声が詰まる。 
「まったく、これだから人間は困る。今朝の女にしろ貴様らにしろ、何かにつけて暴力を振るうとはやはり根本的な欠陥があるとしか考えられない」 
「くそっ、何ぶつぶつ言ってんだ! お前ら、そいつをさっさとやっちまえ!」 
 足を踏まれて動けない男が指示を出し、。残り四人が多嶋の方へと向き直った。 
――何だか知らないけど、チャンスだ。 
 冬元は背を向けた男の股間へ、勢いよく足を振り上げた。悶絶した悲鳴を上げ、一人目の男が倒れる。動揺が広がった隙に、冬元は二人目の膝へと足払いをかけ強引に押し倒した。慌てて置きあがろうとする男を、同じく足で踏みつけ腹を何度も蹴りたぐる。 
 容赦なんかするものか。この野郎。 
 何の躊躇も無く蹴りを叩き込みつつ多嶋を見ると、多嶋の拳が男の腹に食い込んでいる所だった。一撃を受けた男が苦悶の表情を浮かべ、すぐに意識を失い倒れこむ。残りの一人もどうやったのか、多嶋が既に沈めていた。 
 やがて足元の男が悶絶している様子を確認し、冬元は一人残ったナイフ男に向き直った。 
 男は相変わらず、ナイフを構えたまま硬直している。 
 冬元は冷や汗を流しながら、余裕のある態度を見せ続けた。 
――飲まれるな。そう言い聞かせながら。 
「あんた、今のうちだよ。ナイフを置いて逃げるなら」 
 悪魔のような眼光で睨みつけようと、冬元は心がけた。下手にナイフで暴れられれば、さすがの冬元も手が出せない。それに、無関係な多嶋まで巻き込んでしまう。 
 しばらく睨んでいると、多嶋が回り込むように距離を詰めてきた。素人らしからぬ、熟練したプロのような動き。男はその気迫に押されたように後ずさり、やがてナイフを置いて走り出した。 
 その様子を見て、冬元はようやくため息をついた。 
 
 
 さすがに危なかった。 
 未だ激しく鼓動する胸を少し押さえ、冬元は大きく深呼吸を繰り返した。緊張から開放され、冬元の額にどっと冷や汗が噴き出し始めた。荒事に慣れている冬元とはいえ、金属バットならともかくナイフにお目見えしたのは初めてだ。激しい疲労と安堵感が、冬元にゆっくりと襲いかかってくる。 
「何なんだ、こいつらは」 
多嶋の言葉に、冬元は慌てて気を引き締めた。状況が状況とはいえ、男が一人残っていたことを忘れていた。 
「そいつらはただの馬鹿集団よ。ミリアの事をひがんでちょっかいを出そうとする奴ら」 
 パンパン、と砂を払いつつ冬元がナイフを拾う。ズキリと殴られた腹に痛みが走ったが、その痛みを噛み殺し多嶋の方へと向き直る。相変わらずの仏頂面。何の感情すら浮かんでいないその表情は、冬元から見ても冷静そのものだった。ナイフを持った男と向き合ったと言うのに眉一つ動かさないその表情に、改めて奇妙な男だと思う。 
――とはいえ、多嶋がいなければ正直危なかった。助かった、と正直に思う。最近の男にしては珍しいとも。 
「多嶋。……助かった。礼は言う」 
「別に。事情は知らんが、男五人に女一人というのは私から見ても好ましいものではないと思っただけだ。ナイフを持っていた以上、危険も大きい。厄介な揉め事は私も嫌う」 
「へぇ……」 
 冬元は非常に稀な、感嘆の声を漏らした。多嶋は相変わらずの仏頂面。何を考えているかをまるで顔に出さない。 
だがこうして見るとなかなか、いい男に見えない事もない気がする。 
「そういうお前も、随分と冷静なようだが」 
「私は馴れてるのよ。ミリアに手を出してくる男どもが意外と多くてね。それに、私も今まで色々と厄介ごとに巻き込まれてきたし」 
「ほう」 
 不思議そうに、多嶋が頷く。純粋に感心した事による頷きに対し、冬元は僅かに好感を覚えた。他人に対してよい印象を持ったのは、随分と久しぶりの気がする。 
 多分、先ほどのナイフによる動揺のせいで、少し気持ちが高ぶっているのだろう。冬元はそう、自分への言い訳を考えた。 
「……それにしても、あんたは外見とイメージが一致しないな」 
「どういう意味だ?」 
 その返事に、冬元は軽く鼻を鳴らした。 
「普段のあんたは暗いし誰とも話さないからさ。家でネットやゲームやってる引きこもり系だと思ってた。どうやら私の勝手な思い込みだったらしい」 
「それは悪い事なのか?」 
「いい事よ」 
「そうか」 
 再度、多嶋が感心したように頷く。本当は分かっていない気もするが。 
「案外、人は見かけによるんだけどな。多嶋は珍しい例外か」 
 そう答えた冬元の肩に、ぽつりと水滴がついた。雨が降ってきたのかと、何気なく空を見上げる。 
 何気なく上を見上げると、体育館の二階に、バケツを持った男が見えた。 
――バケツごと、窓から振り落とす瞬間が。 
「あいつ!」 
声を上げた時は既に、大量の濁った水が眼前に迫っていた。 
「冬元!」 
 多嶋の声に続き、冬元の身体が突き飛ばされる。 
 よろめきつつも冬元が二、三歩離れた直後、多嶋の身体に汚水が降りかかる。一瞬のうちに地面が水浸しになり、最後に、空のバケツが転がる音が響いてきた。 
「多嶋!」 
「大丈夫だ。怪我は無い」 
 多嶋は何事も無かったかのように、そこに立っていた。 
 どうやら中身はただの泥水のようだ。怪我自体は無いらしく、体がずぶ濡れのまま立っている。濁った水滴を垂らし、多嶋の背には長い銀髪が揺らいでいた。 
 妙な違和感を覚えつつ、ほっと息をつく。以前、冬元も同じような目に会った事があった。嫌がらせの方法としては定番のものだ。泥水ではあるが、墨で無かっただけマシだろう。 
 以前、墨をかけられそうになった時は本気でぶち切れたものだ。 
 怪我が無かった事にだけは安堵しつつ、冬元は空を見上げた。 
「ったく、あいつら下らない事ばかり……!」 
 拳を握り締めつつ、しっかりとその顔を記憶に刻み込んでおく。男の顔は以前、やはり見覚えがあった。名前も分かる。後でぶっ飛ばして―― 
 そこでふと、冬元は一瞬感じた猛烈な違和感を思い出した。 
 思い出して、多嶋を見る。いつもの仏頂面に、ずぶ濡れの制服姿。その後ろに揺らめく、僅かに濁った銀色の髪。 
 銀髪。 
 ……何だ、その後ろでユラユラ揺れている銀髪は。 
「冬元。お前には随分と敵が多いようだが、これも先ほど答えていた連中なのか?」 
 不思議そうに聞き返す多嶋の後で、銀髪が揺れる。冬元は完全に目を奪われていた。 
 泥水を浴びた後でもなお輝き放つ、流麗な銀色の髪に。 
「なかなか厄介な事情があるようだな。それにしても、人間の十代というのはろくな人間がいない。どうしてこう暴力的に」 
 端々と事情を考える多嶋の言葉が、冬元の視線の意味に気がつき固まった。慌てて背に伸びた銀髪に手を伸ばす。 
 多嶋の表情は、そこで完全に硬直した。それは誰が見ても分かる、動揺だった。 
「しまった……!」 
「多嶋、それ」 
 冬元が呆然としながら声をかけた瞬間。多嶋の瞳が、冬元の全身を飲み込んだ。 
 ぞくりと、背筋におぞましい寒気が走る。ナイフを向けられた時以上の、強烈な恐怖。 
 冬元は初めて、殺気、と呼ばれる言葉の意味を知った。 
――殺される。 
 本気でそう感じ、反射的に一歩後ずさる。だが、それ以上は足が固まって動けなかった。 
 対する多嶋の動きもまた、硬直していた。殺意を見せたのは一瞬だけで、後は戸惑いの視線で冬元を見つめている。  時間が止まったかのように、体だけが完全に停止していた。思考が停滞し、凍りついたように動きが止まる。 
――それを解いたのは、冬元の後ろから聞こえてきた声だった。 
「あ、いたいた。冬元〜!」 
 後ろから呑気そうな、ミリアの声が響いた。冬元の硬直が解け、咄嗟に振り返る。 
「ミリア、」 
 こっちに来たら駄目だ。何か分からないけどまずい―― 
 反射的に叫ぼうとした時、冬元の背後で風が舞った。竜巻のような、荒れ狂う突風。 
「!」 
 腕で顔を庇い、慌てて振り返る。 
 そこに多嶋の姿は、無い。 
「な、何で」 
 視線をめぐらせ、花壇や体育館の影を見るが誰もいない。何かの幻を見ていたように、多嶋の姿は忽然と消えていた。 
「何してんの、冬元」 
 唖然とする冬元の顔を、ミリアが心配そうに覗き込む。 
 冬元は慌てて普段通りの顔を浮かべようとしたが、見事に失敗した。自分でもどんな顔をしているのか分からない。もしかしたら、とんでもない顔をしているかもしれない。 
 それ程に、冬元自身は動揺していた。 
「あ、いや、なんでもなかったんじゃないかな多分」 
「表情。固まってるんだけど」 
 ミリアの先ほどまでとは違う、口元を真横に閉じた恐ろしい形相が目の前に迫ってくる。 
「何したの」 
「だ、だから何でも……」 
 慌てて言い訳をしつつ、冬元は錯乱していた。 
――消えた。まさか。瞬間移動でもしたというのか。 
 ありえない結論に至りつつも、それ以外に考えられない。 
「だから、何があったの、って聞いてるの。冬元」 
「いや、だからその……何にもなかったってば、ミリア」 
 多嶋が長い銀髪を揺らして消えた、などと言って通じるはずも無い。 
 冬元はもう一度、ミリアを落ち着けるようにいつもの顔を浮かべようと心がけた。とりあえず冷静に冷静に―― 
 改めて、口を開く。普通の口調、普通の態度で。 
「大丈夫だから、ミリア」 
「じゃあこれは何」 
 ミリアが無言のまま、冬元の脇を指差す。そこには何の不思議も無く、男が四人ほど転がっていた。 
「あ」 
 思わず声をあげる。多嶋に気を取られて、完全に忘れていた馬鹿どもの事。 
「ああ……」 
 額に手を当て、項垂れる。その手をがっしりと、ミリアに逮捕された。 
「ほら、行くよ。職員室」 
「……うん」 
 弱々しく返事をしながらも、冬元の意識は上の空にあった。多嶋。銀髪。多嶋―― 
 そんな思考をグルグルと回しながらも、ふと我に返る。 
 そのまま連れて行かれそうになった冬元は一度強引に手をふりほどき、男の脇にかがみ込んだ。 
 そっと、手を伸ばす。 
「ちょっと、冬元!」 
「分かってる」 
 冬元は立ち上がると、再びミリアと一緒に歩き出した。 
 手に掴んだ銀色の髪を、そっとポケットに突っ込んで。 
 
 
4 
 
 もともと我が恐ろしく強い冬元は、昔から先生と呼ばれる人間が大嫌いだった。自分が間違ってないと思い込むと、誰に何を言われても絶対に引かない冬元。そのせいか、何かと場を宥めたがる先生とは度々衝突していた。特に、暴力を振るっただけで一方的に冬元を悪役にする先生とは。 
 はっきり言って、先生も嫌いだ。むかつくだけで―― 
 それが、中学時代の冬元の認識である。だが、今の担任である長井(ながい)啓(けい)介(すけ)だけは唯一、タイプの異なる先生だった。 
 前回冬元が謹慎処分を受けるに当たり、唯一冬元とミリアを擁護してくれた先生。悪いのは冬元やミリアに手を出した連中だと、他の先生に食って掛かった男。それが今の担任、長井啓介である。穏便とは程遠い暴力的で粗野な先生だったが、それでも生徒の話だけはしっかりと聞き、きちんと信じてくれる。 
 冬元にとっては唯一といっていいほど、男の中では信用できる人物。 
 昼休みの終わりごろ、その男の前に冬元は一人で向かっていた。 
 職員室の扉を開けると、雑然と書類が並ぶ中、長井教師はあろう事か窓際でタバコをふかしながらテレビを眺めていた。テレビ中継では、第六王とかいう訳の分からない男が全国の奥様方を魅了しているという話題のニュース。異世界がどうだとか全くもってオカルトもいい所の話だが、最近何かと話題になっている事には違いない。別に興味は無いが。 
 ドアが開いた音に、長井教師がつまらなさそうに目だけを向ける。だが入ってきた冬元の真剣な表情を見るなり、何故か嬉しそうに頬を吊り上げ火種を消す。 
 冬元はため息をついた。齢三十五歳ひげ面強面の長井啓介を一言で表すなら、未だに子供心の抜けないガキでもある事を、冬元は今更ながら思い出した。 
「よう、冬元。今度は誰をやった」 
「……男を五人ほど」 
それだけで、全部話が通じた。 
「ほぉ! 男五人か。どうせまた例の件の尾っぽだろう?」 
「はい」 
「まったく、何とかならんもんかね。で、何をやられた」 
 冬元は無言で、ポケットからナイフを取り出す。さすがの長井も、これには眉をひそめた。らしくも無く、真剣な表情で冬元を見つめる。 
 両肩を掴まれ、長井教師の今までに無い真剣な目つきに一瞬怖気づいた。 
「怪我は無かったか、冬元」 
「大丈夫です。腹を一発殴られただけですので」 
「そうか。しかし女に向かって腹を殴って、しかもナイフまで突きつけるとはな。ったく、ここまで行くとさすがに――冬元。怖かったか?」 
「はい。……怖かったです」 
 表情を変えず、冬元は答えた。 
 だが本当に、あの時は恐ろしいと感じたのだ。もちろん、ナイフを突きつけられたなどとミリアには口が裂けても言えない。 
「言え、冬元。そいつらの名前は」 
「三年三組の篠田厚を筆頭に、佐々木純、六川始。二年三組の佐藤正樹、長坂幸助。あと、体育館の上から水をぶっ掛けてきた二年二組の廣瀬仁。ナイフを持っていたのは佐藤です」 
 冬元は、一度見た相手の顔を忘れない。長井はすぐにメモを取った。 
「またいつものメンバーか。だがさすがにナイフはまずい。警察沙汰だ」 
「はい」 
「今まで何度か指導はしてきたが、これ以上は放置して置けんな。あいつらも何とか自力で更生して欲しかったがもう勘弁ならん。とっちめて全部吐かせてやる。……冬元。二度とナイフのようなものは突きつけさせないから、安心しろ。絶対にだ」 
「分かりました。ところで先生。もう一つ、折り入って聞きたい事があります」 
「ん? 何だ」 
 メモを取りながら、長井が聞く。冬元は一瞬迷い、それから口にした。 
「多嶋誠とはどういう男ですか」 
 その瞬間。長井の手にしていたペンが、転げ落ちた。長井の眉が揺れ、目を見開き、ありありと動揺の色を浮かべている。ナイフを見せた時以上に、その表情は凍りついていた。まさに驚愕の表情、と呼ぶのに相応しい顔つき。 
「どうした冬元。何があった。お前に何が起きた」 
「どういう意味ですか先生」 
 冬元が、僅かに苛立った口調で答える。長井の動揺の意味を何となく理解したのだろう。長井の顔には、はっきりと書かれていた。 
 あの冬元が、あの冬元が男に関する興味本位な質問をした、と。 
「多嶋もお前に手を出してきたのか、冬元」 
「違います。私の個人的な興味です」 
 その言葉に三十五歳長井啓介は一度小さく咳払いをし、冬元に視線を戻した。 
「惚れたか冬元」 
「違います」 
「正直に答えるんだ冬元。先生は誰にも言わないぞ。だから教えてくれ。な?」 
「ですから、違います」 
 こいつは本当に教師なのかと、今でも時々思う。 
「多嶋は先ほどの件で、私を助けてくれました。そのため、少し興味を持っただけです」 
「多嶋が?」 
「はい」 
「かっこよかったか?」 
「は……ま、まあ、それなりに」 
 答えてから、しまった、と冬元は思った。 
 三十五歳、長井啓介の目がキラン、と光り輝く。それからもう一度、咳払いをした。 
「まあ、お遊びはこの辺にしておこう。それで、多嶋か。まあ、詳しい事は本人から聞いたほうがいいだろ。あんまり俺がベラベラ喋っても何だしな。とは言え、あいつは未だによく分からん所がある。一つ言えるのは、あいつは妙に素直な所があるぐらいだが――ああ、でも中学は同じじゃなかったか? お前と同じ滝川第二中学校」 
「そうですか。他には何か――」 
 話しつつ、冬元は視線を外に向けた。もうじき昼休みも終わる頃。グラウンド上では最後の力を使って、生徒がサッカー に熱中している。その姿を見つつ視線を上のほうに向けた時。 
 校舎の屋上に、憮然とした表情で多嶋が立っていた。 
「ありがとうございます、先生」 
 冬元はそれだけを答えてすぐに職員室を後にした。長井も冬元の視線に気がついたらしく、妙に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。 
 好奇の視線を背中に感じつつ、冬元は思い起こした。 
 多嶋誠。やはり妙だ。滝川第二中学に、そんな男の名前は無かった。 
 アルバムを見返す必要も無い。冬元は、一度見た顔を忘れない。 
「冬元」 
「何ですか」 
 振り返ると、長井は何故かガッツポーズを見せていた。 
「まあ、何だ。困ったら押し倒せば何とかなる」 
 冬元は勢いよく職員室のドアを閉めた。 
 
 
5 
 
 ガタン、と激しい音が響く。 
 ドアを蹴り開け、冬元は無人の屋上を見渡した。転落防止用の柵が風に煽られ揺れる中、白いコンクリートで固められた地面に立つ。 
「出て来い、多嶋」 
 強い春風が吹く中で、冬元の声は大きく響き渡った。 
「もう一度言うぞ。出て来い、多嶋」 
 もういないかもしれないという不安を隠しつつ、ドアを閉じて誰もいない空間を睨む。 
「なんだ」 
 返事は、冬元の真上から聞こえた。振り返ると同時に、多嶋が冬元の前に飛び降りる。屋上の上にある貯水タンクにいたようだ。 
 髪は、普段の黒髪のままだった。銀ではない、普通の黒髪。その事に安堵感と、奇妙な違和感を覚える。何となく、銀の方が似合っている気がしたのだ。何となくだが。 
 馬鹿な考えを振り解き、冬元は多嶋の姿を見直した。これからこいつ尋問して、あの銀髪の秘密を解き明かさなければならない。別に助けてもらったからどうこう、という訳ではない。謎の多いこの男について、事前に調べておく必要があると判断したための行動だ。 
 多嶋をもう一度睨む。冬元は気合いを入れて口を開き、 
「多嶋。さっき」 
「くしっ」 
 多嶋のくしゃみは、冬元の気迫を見事に吹き飛ばした。よく見ると、多嶋の制服が濡れている。水分を含み、随分と重たげな黒制服。 
「で、何だ」 
「あ……いや、何だ。その」 
 慌てて口を開くが、勢いをそがれた口元はもう手遅れだった。何を言おうとしても言葉にならず、金魚のように口だけがパクパクと動く。その慌てる様子を、何事も無かったかのように多嶋が見つめていた。いつもの仏頂面を向けたまま、無言で。 
 一度体勢を立て直そうとした時、再び多嶋が小さくくしゃみをする。 
――まったく。世話がやける。 
「……ちょっと待ってろ、多嶋」 
「なに?」 
 不思議そうに首を傾げる多嶋を横目に、冬元は走り出した。 
 階段を駆け下り二年二組の教室へ入る。その直後、びくりとこちらを向いた廣瀬純(さっき多嶋に水をぶっかけた奴だ)をとっ捕まえて引きずり出した。ミリアごめんやっぱ手荒な真似するねと棒読みで一言謝罪した後、怯える廣瀬をそのまま女子トイレまで連れて行く。よくもやったなこの野郎と罵声を浴びせ、軽く殴って強く蹴る。いわゆるボコボコにするという行為に及んだのち制服の上下を引っぺがして奪い取ると、 
「これ着ろ、多嶋。そのままだと風邪ひく」 
 屋上で硬直していた多嶋に、冬元は制服を投げつけた。 
 ものの五分とかからなかった。 
「誰のだ、これは」 
「聞くな。それと、これも使うといい」 
自分の部活用に使っているタオルを放り投げる。 
「……助かる」 
 多嶋は素直に一礼をした。そのまま、冬元の前で濡れていた上着とシャツを脱ぐ。水分を吸った重たげな制服がどさりと落ち、冬元の顔がぼっと熱くなった。 
「着替えるならあっち行け!」 
 冷静な冬元にしては珍しく、怒鳴り声を上げた。 
「す、すまん」 
 そこまで気が回らなかったのか、多嶋が慌てて建物の影に隠れた。らしくも無く大声を出した事を反省しつつ、冬元は屋上に飛び出た入り口に寄りかかる。 
 さて、何から話そう。いざ口を開こうとなると――少し、迷いが出た。 
「ところであんた、ここで何してたんだ?」 
 壁を間にはさみ、冬元が問う。何故こんな事を聞いているのか。口から出てきた質問は、実に他愛の無いものだった。 
「別に何も。ただ」 
「ただ?」 
「制服が濡れたまま教室に入るのはまずいと思っていた。だが、無断で帰るのも気が引ける。どうしようかと迷っていた所だ」 
「そうか」 
 妙なところで律儀な性格だなと思う。真面目すぎる堅物なのか。融通の効かないタイプだなと、冬元は判断した。何処となく、冬元自身に似た部分がある。 
 着替え終わった多嶋が、ゆっくりと姿を現した。が、制服の袖が二の腕の半分ぐらいまでしか来ておらず、足首も少しばかり出ている。 
「これはまた小さいな」 
「許せ。多嶋が大きいだけだ。ところで多嶋」 
 冬元は、多嶋の正面に立った。しっかりと視線を合わせ、多嶋を睨む。 
 ここからが本番だと、冬元は活を入れた。 
「あんたは、何者だ」 
 多嶋の表情は、変わらなかった。 
「何者だ、とは」 
 多嶋も答えを用意していたのだろう。先ほどの動揺とは程遠い、極めて冷静な態度。冬元も負けじとえぐりこむような視線で、多嶋を睨む。 
「出身校は、滝川第二中学って聞いた。あたしと同じ中学だ」 
「確かにそうだが」 
「それは嘘だ」 
多嶋の表情が、僅かに強張った。 
「どうしてそう言える」 
「あたしは、一度見た人の顔を忘れない。少なくとも、あんたの顔は一度も見た事がない」 
「――長期的に休学していたからな。会わなかった可能性はある」 
「証拠はあるのか」 
「何の権限があって、それを見せる必要がある。見せても構わないが」 
「見せられるのか」 
「可能だ」 
 多嶋の自信の強さが、冬元の確証を揺らがせた。ただの苦しい言い訳にしては、自信がありすぎる。もしや本当に休学していたのか。だとしても、こんなに印象の強い男を冬元が忘れるはずも無い。それに長期休学していたのなら多嶋と冬元が同じ学年にいるはずが無い。 
「今は無理だが、証拠はある。日を改めてでも構わないか?」 
「……ああ」 
 頷きつつ、上手く逃げられたと小さく舌打ちをした。 
「ここに来るまで、高校はどこに行っていた」 
「鳩羽高校」 
「どうして七星高校に来た」 
「親の仕事の都合だ。あまり家庭の事情は話したくないが」 
 平然とした表情で、多嶋が答える。上手く踊らされているような感じが癪に障った。 
 事実なのかハッタリなのか。全く区別がつかない。 
「じゃあ最後だ。さっきの銀髪は何だ」 
「何かを見まちがったんだろう」 
僅かに、冬元は頬を吊り上げた。 
「随分と返事が早いな。私が銀髪と見間違えるようなものを見た、という事は疑わないのか?」 
 多嶋が拳を握ったのを、冬元は見逃さなかった。 
「言葉の綾だ」 
「そうは見えない。今のは何ていうか、予め作っておいた答えだった」 
 じっと多嶋の目を睨み、冬元はポケットに入れた銀髪を掴んだ。多少、強引に話を進めているのは自覚している。だが、こちらは銀髪を持っているのだ。いくら多嶋が嘘を並べようとも、この銀髪を突きつければ確実な証拠となる。そして、嘘は沢山並べるほど覆しにくくなるものだ。 
 後は、多嶋が適当な嘘を並べてボロが出るのを待つだけ―― 
「ばれたか。実は、冬元の言う通りだ」 
 一瞬、耳を疑った。その目の前で、多嶋が片手で髪をかき上げる。直後、その髪は鮮やかな銀髪として靡いた。腰元まで届く、鮮やかな銀色の波。 
 胸が僅かに、高鳴った。 
 純粋に、それが綺麗だったからだと冬元は思う。 
「先ほど、中学の頃に長期休暇を取ったと言っただろう。その病気との関連だ。先天性のものらしくてな。学内では目立つからこの銀髪は隠している。あまり他の人には知られたくない。隠していた事は詫びよう」 
「それは病気だと?」 
「そうだが。あまり深い詮索はしないで欲しい」 
 冬元は奥歯を噛んだ。もちろん、銀髪が先天性の病気だという言葉を信じるほど馬鹿ではない。だが、下手な嘘を並べるよりは、よっぽど効果のある手段なのは否が応でも理解できた。少しの真実を暴露して、残りの秘密を守るために。 
「ふざけるな。そんな根拠の無い説明で騙せるものか」 
「聞かれたくない事、というのは誰にでもある。それとも、冬元。お前もまた他人のアラを探して喜ぶような人間か?」 
「ち、違う。私はそんなんじゃない」 
「なら、あまり深く関わらないで欲しいものだな」 
「っ……」 
 動揺を押し隠せないまま、冬元は次の言葉を捜した。 
 頭の中が空回りする。考えていた言葉ですら、動揺のせいで霞んでいく。 
「じゃあさっき、何であたしの前から消えた」 
「ミリアが来ていたからな。あの場に一緒に居合わせていたら厄介な事になる」 
「どうやって!」 
「走って。それ以外に方法は無い」 
 唇を噛む。攻められるはずの言葉に喰らいつく事ができず、思考だけが空回りを繰り返す。 
引き時だと、冬元は判断した。 
「……そうか。すまなかった、多嶋。余計な事を聞いた」 
「いや、構わない。だが冬元。できればこの事は誰にも話さないで欲しい」 
「分かってる」 
 答えながら、冬元はもう一度その銀髪を見た。長く揃えられた、美しい銀髪。普段の地味な黒髪よりも、よほど似合っていると思う。 
 綺麗だと、冬元は素直に感じた。触ってみたい、とも。 
「私は戻る。……冬元」 
「何?」 
「制服とタオル、感謝する」 
 タオルを冬元に返し、多嶋はドアを通り抜けて教室へと戻っていった。手元に、多嶋の水を拭った冷たい感触だけが残る。 
 歯をかみ締め、ポケットの中の銀髪を、冬元は強く握り締めた。 
――くそっ! 
 
 
第2章 
 
1  第六王 
 
 始原界の地理は、人間界の複雑さとは無縁の実に簡単な形をしていた。一つの楕円の真中に、ドーナツのように小さな穴をあける。その穴を中心として西側が、第六王治める第六国。東側が第四王治める第四国となり、中心の小さな穴が第一女王の統治する第一国。事実上、始原界は第六国と第四国の二強が大陸全土の大半を統べる世界でもあった。 
 先日の六王会議などに使われた塔は、その大陸の中心から少し北の方に位置していた。第一国の持つ領土の、北の境界線に重なる所。すなわち三カ国全ての国境が重なるその地点に、世界の塔と呼ばれる場所は存在する。塔を中心に一周すれば、始原三カ国の全てが見渡せる場所。 
 第六王は、その塔の最上階近くから足元の景観を眺めていた。 
 塔の足元にある、人々の活気溢れる町並み。国境の中心だけあって、各国から訪れる人が絶えることは無い。表向き温和な三カ国の関係上、今の所出入りは自由となっていた。眼下の町は自由貿易の象徴、始原人の殉教の地、麻薬の輸送拠点など色々な姿を持つ。 
 そして、そこから手を伸ばせば届くほどの所にある砂漠。あと数年で第四国を飲み込み、やがてはこの中心都市さえも飲み込む死の砂漠。カウントダウンが刻一刻と刻まれる、死へと近づく都の姿。 
「こちら側に戻っておられたのだな、第六王」 
 廊下に響く声に、第六王は黒髪を揺らしながら振り向いた。童顔の顔に、いつものにこやかな笑顔を浮かべたままに。声をかけた第四王もまた、第六王と共に自国を静かに見つめていた。確固たる決意を秘めた、その眼差しを持って。 
「私も毎日、人間界にいる訳ではありません。公務もありますしね、第四王」 
「随分と多忙な事だ。無理のし過ぎではないかな?」 
「ご心配は無用ですよ、第四王。では、これで」 
 第四王の皮肉を受けず、第六王はそのまま通り過ぎようとした。 
「――待てよ、第六王。この猫かぶり野郎め」 
 通り過ぎる直前に聞こえた、重厚な声。 
 第六王は足を止めた。窓の外を見つめていた第四王が、第六王へとゆっくりと振り返る。 
「私には、特に話す事はありませんが」 
「貴様には無くとも俺には沢山ある。貴様に言っておきたい事がな」 
 ぼそりと呟いた言葉は、刀のように鋭かった。 
「随分と粗野な言い方ですね、第四王。失言ですよ」 
「どうせ非公式だ。今更、隠し通す事も無い」 
 第四王はそのまま身を翻すと、第六王へ睨むように視線を送る。ついて来い、という視線の意味を悟り、第六王もまた第四王の横に並んだ。 
 塔の外周を回る度、虹のように変わる景色を横目に、第四王は口を開いた。 
「第六王。今の人間との和平交渉、いつまで続ける気だ」 
「もちろん、上手くいくまで。互いに平和を築くのは大切な事です」 
「我が第四国に甚大な被害が出てもか」 
「始原界全体の平和が保たれるのなら、それは仕方は無い事かもしれません。悲しい話ですが」 
「第四国を潰す事こそが本当の目的のくせに」 
「――何を仰いますか、第四王」 
 第六王は両手を挙げた。お手上げ、のポーズを取る。芝居のようにおどけた仕草。 
 鋭い視線で、第四王は睨みつけた。 
「事実上、この始原界は第四国と第六国の二強が占める国だ。第一女王の統べる第一国も宗教の問題上で国威こそあるが、所詮はこの二強に比較すれば小さな国。そして、二強の片方である第四国は放っておけば砂漠に飲まれ、やがて国威を失っていく。第六国の独壇場の出来上がりだ。実によく出来たシナリオだよ、第六王」 
「それは考えすぎです。僕はただ世界の平和を願うばかりですよ」 
「世界の平和とやらを願うのなら、その平和のために犠牲になる第四国への保障も当然考えているのだろうな」 
「ええ、もちろん。食糧支援、難民の受け入れ等ね。それは当然の配慮ですよ」 
「それは相手の足元を見て大量の食料を売りつけ、難民を格安の労働力として手に入れる事を言っているのか?」 
「……おや。中々、第四王も分かってらっしゃいますねぇ。その辺の裏事情が」 
 第六王は笑顔を浮かべ、にまぁっ、と笑った。 
 穏やかだった口調が、べったりと粘つくように濃さを増す。 
「貴様の本性は、見るたびに吐き気がする。腐れ野郎が」 
「まあ、非公式ですからね。毎日毎日、魅力的な笑顔を作るのは疲れるんですよ。誰彼構わず愛想を振りまくというのは。あ、知ってますか? 笑顔って、顔面の筋肉を鍛えると自分で作れるんですよ。練習すればね。第四王も練習された方が良いのでは?」 
 嬉しそうに答えた後、第六王はすぐに作りものの笑顔を引っ込め、またいつもの穏やかな微笑を浮かべ直した。 
「第四王。ただこれも私の本音ですが、何事も暴力で解決するのは如何かと思いますよ」 
「よく言うものだ。狡猾な知恵を使った暴力を、公式の場で平然と使っているくせに」 
「それは暴力とは言いませんね。策略です」 
「屁理屈だな。同じことだ」 
「屁理屈とは失礼。その屁理屈によって、どっかの馬鹿は国を無くしかけてると言うのに。おっと失礼。傷つきました?」 
 第六王は肩についたゴミを払い、第四王に向き直った。 
「それと一つ誤解なさっているようですが、第四王。私は別に、第四国を本気で潰したいと思っている訳ではありませんよ?」 
「嘘をつくな」 
「本当です。私の第一目標は、やはり人間との平和的交渉。まあ、それが上手く行ったなら、もののついでに第四国も吸収してしまいたいだけです。お菓子についてるオマケと同じ。メインディッシュは、あくまで人間界との交渉そのもの。まあ、こちらも適度に笑顔を振りまいて、好奇心を煽っていれば人間の方から喰らいついてきますからね。今の所は全部、予定通りなんですよ」 
 再び、第六王が笑顔を浮かべた。先ほどとは違う、悪意に満ちた笑みだった。 
「ま、国を大きくするのが王の役目ですから」 
「……富と欲に取り付かれた悪魔め」 
「王には野心や欲も必要ですから。当然でしょう?」 
「俺は貴様のように、富のために他の者を犠牲にするほど腐ってはいない!」 
「だから消えるんですよ、あなたは。弱いから」 
「ふざけるな!」 
 第四王は胸倉を掴み挙げた。乾燥した空気の中、張り詰めた雰囲気が染み渡る。 
「人間と交易を図り、弱き民を食い物にする貴様は王としての、いや始原人としての誇りが無いのか!」 
「無いですねぇ、そんな下らない価値観。そんなものは燃えないゴミに出しました。古いんです、あなたの考え方は。いいですか?」 
 第六王は胸倉を掴まれながらも、第四王を見下していた。 
「殺らなきゃ殺られるんです。国も人も社会も。その辺の事情は、人間達の方がよく知っておいでです」 
「いい加減にしろ第六王。貴様、何なら今ここで食い殺してやろうか?」 
 歯を軋ませ、第四王は口元にギラリと犬歯が姿を見せた。恐竜のように鋭く、巨大な刃。 
「第四王。まさか、僕とここでやるつもりですか?」 
「望むならな」 
 第六王を掴む手に、力が篭る。しかし掴まれた彼の表情は、変わらなかった。 
「できる訳無いじゃないですか。そんな事をすればこの第六国と第四国の仲は険悪になり、またかつてのように泥沼の戦争が始まります。……それでも?」 
「貴様はここで殺しておいた方が、未来の為に繋がるかもしれん。俺が本気だと言ったら貴様はどうする?」 
「無理ですよ。あなたはそこまで自暴自棄な方じゃない。私に向ける怒りも、国を思ってのためでしょう? なら、そんな事はできやしない。そして貴方がその程度でぶち切れる男なら、貴方は当の昔に私の傀儡と成り果てているでしょうし」 
 第六王を睨み付け舌打ちをしつつも、第四王は手を離した。 
「第六王。貴様はこの始原界を滅ぼす気か」 
「何を仰いますか。先ほども答えた通り、私の主軸はあくまで始原界の救済。これが無ければ、いくら富が手に入ろうと意味がありません。私が話をしているのは、その先の事」 
 両手を組み、変わらない笑みを顔に写しつつ第四王を見据えた。 
「危機は、同時にチャンスでもある。人間で言う、ビジネスチャンスです。始原界を救いつつ、国がより一層発展するならそれに越した事は無いでしょう? 第四国が消えるのは、要は第六国発展のためです。まあどちらにしろ、人間との交渉に時間がかかるのは仕方の無い事ですし。一挙両得、です」 
 それだけを言い残すと、第六王は踵を返し片手を挙げて軽く振った。 
「では、この辺で。第四王」 
「……屑野郎が」 
「最高の褒め言葉です」 
 やがて、第六王の姿は塔の下へと消えていった。 
 その姿を追うように、第四王の瞳に力が篭る。 
 やがて拳を握り締め、第四王は歩き出した。 
――止めなければ。どんな手を使ってでも。 
 
 
2  多嶋誠 
 
 昨日は、危なかった。 
 朝日が逆光として降り注ぐ中、多嶋は昨日と同じ坂道を歩いていた。周囲には代わり映えしない制服を着た生徒達が歩いている。汗だくになりながらも進むその姿は、どこかアリの行列を思い浮かばせた。毎日毎日、同じ事を繰り返すアリの集団。 
 その一員に紛れながら、多嶋は顎に手を当てながら歩いていた。 
「冬元由香、か」 
 昨日、言葉を交わした女の顔を思い出す。人間がただの愚か者だという点に関しては、とんでもない間違いだと自覚させられた。 
 冬元由香。昨日は何とか嘘をついて逃れたが、辛くも逃げ切ったというのが本音だった。中学卒業の履歴証明書など、ハッタリもいい所だ。相手に嘘だと感じられないよう、昨日はただ自信ありげに押し切ったに過ぎない。冬元の自信が揺らがず、逆に細々と追求されていたらと思うとぞっとする。銀髪については冬元が追求するだろうと考え先手を打った が、あんな適当な嘘で誤魔化しつづけられるとも思えない。 
 特に、銀髪を見られたのは大誤算だった。自分の無意識下の反応が悔やまれる。 
――始原人は戦闘行為に入る際、異能と呼ばれる能力を発揮する。自分の名を冠する生物の力を借りた、特殊な力。 昨日は冬元を助けようと咄嗟に反応した事で、戦闘体勢へ移行してしまったらしい。もっとも、銀狼としての力が発揮できたからこそ、冬元に降りかかる水を防げた訳だが。 
 今後は無意識下の発動に対して細心の注意が必要になる。自分の事にも、そして冬元由香にも。 
「……意外と大変だな」 
 小さくため息を吐く。そんな考え事をしながら、多嶋は地面に転がっているペットボトルを拾い上げた。それを手持ちの愛用品、チャック付ゴミ袋へと放り込む。先日人間の町で購入した品だが、中々便利な代物だった。一度開いてもチャックを閉じれば、たとえ長時間放置しても匂いが漂わない優れもの。始原界の奥様方も是非欲しい一品ではないかと多嶋は思う。この辺も、人間が多少は利口だと思い直した理由の一つでもあった。 
 馬鹿なのか賢いのか、人間はよく分からない。 
 そう考えつつ多嶋が別の空き缶に手を伸ばした時。狙いを定めいていたかのように、空き缶が白い手に包まれた。 
「はい」 
 顔を上げると、ミリアがいた。昨日とは少し違う、複雑な表情。 
「熱心だね、毎日毎日。私もちょっと見習おうかな」 
 カコンと音をたて、多嶋のゴミ袋に入れられる。 
「おはよう、多嶋君」 
「あ、ああ……おはよう」 
「あ、珍しいね。多嶋君が普通に挨拶してくれるなんて」 
 ニコニコと嬉しそうに笑うミリアを前に、多嶋は僅かに焦りを覚えた。 
「ほら、どうしたの。学校行こう?」 
 嬉しそうに多嶋の手を引き、また道端に落ちているタバコの吸殻を拾う。硬直から立ち直った多嶋はミリアと一緒に歩きながら、しかしまたしても首を傾げていた。 
 人間は本当に、ただの愚か者なのか、という疑問が脳裏をよぎる。 
「ねえ多嶋君。あのさ。実は大事な話があるんだけど」 
――人間は愚か者だ。それは間違いない。 
 だが冬元のような鋭い者もいれば、今のミリアのように積極的に多嶋の手伝いをしてくれる者もいる。先日のボランティアとかいう団体もそうだ。それらを考えれば、一概に愚かだと断定できないのではないのか。 
「昨日、冬元と会ってたよね。屋上で。……って、多嶋君?」 
 いや違う。人間は愚か者なのだ。始原界を滅亡へと追いやり続けている、明確な敵。 
「お〜い。また無視ですか?」 
 そうだ。人間は愚か者。愚か者。愚か者だ。馬鹿で猜疑心が強く己の罪すらも自覚しない、奇妙奇天烈な生命体なのだ。始原界でもそう何度も見聞きしたはずだ。 
――本当にそうなのだろうか。 
 多嶋は軽く頭を振った。自分でも、ここまで動揺している理由が分からない。昨日の冬元との会話が、多嶋の知らぬうちに心の変化を与えたのか。 
「多嶋君ってばさ!」 
 肩を激しく揺さぶられ、多嶋はようやく我に返った。 
「どうしたの多嶋君。急にボーっとして」 
「……ああ。いや、なんでもない」 
「昨日もそうだったけど、何で私の前だとぼけっとしてるの? 私に見惚れてる?」 
「それは無い」 
「断定早っ」 
「ちょっと考え事だ」 
「考え事? どれどれ、お姉さんに聞かせてみなさい」 
 好奇心の輝く瞳で、ミリアが多嶋の顔を覗き込んだ。興味本位が先行している表情だと多嶋は思ったが、その中には確かに、本気の色も含まれていた。 
 馬鹿馬鹿しい。人間に相談など、お門違いもいい所だ。 
 仮に尋ねてみたとしても、どうせろくな回答は無いはずだ。相手が愚かな人間なら。 
――本当に愚かなら―― 
「ミリア」 
「なに?」 
「一つ聞きたいのだが……人間という生き物は、愚かだと思うか?」 
 尋ねつつ、全く持って馬鹿な質問をしたと思う。所詮は伊達と酔狂から尋ねてみた質問だと、いまさらながら自覚した。真面目な回答など最初から期待してはいない。むしろ、ミリアが真剣に考えず適当な答えを返してくれる事を期待していた。 
 その事で、人間は愚かだと再認識する意味も込めて。 
「んー。多嶋君、なんか悪いテレビでも見た?」 
「別に。前々から思っていたことだ」 
「それさあ、本気で聞いてる?」 
「当然だ」 
 そう答えた多嶋の顔を、ミリアが真剣に覗き込む。瞳の奥底に光を見た気がして、多嶋は僅かにうろたえた。 
「そういえば、多嶋君って冗談は言わないタイプだよね。なら、本気なんだ」 
「ああ」 
 多嶋は真顔で答えた。何でもいい。適当で構わない。だから、早く答えが欲しい。 
「これまた、朝から随分とディープな話題だね。でも多嶋君が本気で聞いてるなら、あたしも本気で答えようかな。どうせ私も相談したい事があったし、ギブアンドテイクって事で」 
 ミリアは多嶋の顔から視線をはずし、横に並んだ。 
「人間って確かにさ。馬鹿な所はあるよね」 
 それは想像外の答えだった。人間自身が、自分達の事を馬鹿だという。それこそ多嶋にとってみればまさに馬鹿な話だ。 
 だがミリアの横顔を見て、その瞳が真面目に前を見据えている事に気づく。彼女は間違いなく、多嶋の質問に対し真摯に答えていた。 
 もしかしたら、自分は酔狂でとんでもない質問をしてしまったのだろうか。 
「どうしてそう思う」 
「んー、だって人間って戦争するし」 
「確かに」 
「自然破壊するし」 
「確かに」 
「どうしようもない事で喧嘩したりするし、優しそうに見えてコソコソ陰口叩いたりするし、冬元は相変わらず喧嘩っ早いし」 
「まあ……確かに」 
一部個人的なものが含まれているように思いつつも、多嶋が頷く。 
そこでミリアは一本、人差し指を立てた。 
「でもさ。それだけで人間を馬鹿だって決め付けるのは良くないんじゃないかな。確かに馬鹿なことやってるように見えても、本人や別の人にとっては真剣な話だったりするし」 
「そうなのか?」 
 多嶋の疑問に、ミリアが小さく頷く。多嶋は首をひねった。 
「私には理解できない」 
「じゃあ、ちょっと変な例えだけど……近寄りにくくて話しにくい、その上いっつも不機嫌そう。一見クールに見えて本当はすぐ暴力で解決しようとする最悪の女の子といえば?」 
「冬元由香」 
「正解。あっ」 
 答えてから一瞬、きょろきょろと辺りを見回すミリア。目的のものは見つからなかったらしく、ほっと一息をつく。 
「じゃあ次の問題。私の事をいっつも大切に見守っててくれて、私に心配をかけないように内緒で、コソコソ私にちょっかい出そうとしてる人をぶっ飛ばしてくれる、とってもありがたい人は誰?」 
「……冬元由香」 
「正解。本人は隠してるつもりらしいけどバレバレなんだよね。昨日とか」 
 にこっ、ミリアが笑う。屈託の無い、友達に向ける笑みだった。 
「じゃあ最後。実は裁縫が超上手で、でも料理は微妙にまずくって、クールを装ってるけど実はすっごく顔に出やすい、ついでに男嫌いのせいか下ネタは超苦手、そういう所で苛めてみるととっても可愛い反応をする子って誰?」 
「……冬元、なのかそれは」 
「正解。これがまー純粋って言うか、可愛いんだよねぇ。仮にも高二の女なんだからエロトークで花咲かせてもいいのに、冬元ってば顔を真っ赤にしてさあ……って、この話は関係ないか」 
 わざとらしく咳払いをして、ミリアが一息整える。 
「ちょっと話がずれちゃったけど。人間が馬鹿だなぁ、って思うのは多分、多嶋君がその人の嫌なところだけを見てるからじゃない? 冬元だって、普通の人が見ればただのヤンキー女でしょ? でも私を助けてくれるスーパーヒーローでもあるし、別の言い方をすれば、友達」 
「確かに」 
「そ。なのに、冬元なんか他のクラスの人から、目が合っただけで殴られるとか色々言われてるんだよ? ちょっと聞いただけで、勝手に決めつけてさ。まあ、すぐ力づくに訴える冬元にも問題はあるかもしれないけど、ハッキリ言ってあれは聞いててムカつくんだよね。一度きつく言ってやろうかと最近思ってるんだけど」 
 イライラしたような口調で、ミリアが語る。それは彼女にしては珍しい、素直な不満と愚痴だった。 
「でだ、多嶋君。私の結論だけど。人間は愚か者かどうか。それに対するあたしの答え。ちょっと悪口になるけど、言ってもいい?」 
「ああ」 
「じゃあ言うけど」 
 一拍子置いて、ミリアが答えた。 
「そう考える多嶋が馬鹿なんだと思う」 
 さすがに、少しむっとした。 
「多嶋君は、人間が馬鹿だと思えるような所『しか』見てないし聞いてない。何でそう思ったのかは知らないけど、それは多嶋君が勝手にそう決め付けてるだけ。でしょ?」 
「確かに、一理はある。だが現に人間は……」 
 反論しかけて、多嶋は止めた。自分の立場はあくまで極秘の調査員だ。その事までミリアに話す訳にはいかないし、多嶋はそこまで早まったりはしない。だが、それでも言い返せないままでいるのは悔しかった。 
「現に、人間は自然破壊を推進している。美化委員としては許しがたい」 
 自分でも強引な理屈だと思いつつ、多嶋が言い返す。ミリアは笑わず、その返事を真剣に受け止めた。 
「多嶋君って、自然とか環境に何か大切な思い出があるんだね」 
 ミリアはそう判断したようだ。誤解だが、都合はいい。 
「でもさ。自然を大切にしようって思う人がいるのも、多嶋君は知ってるよね。この前ボランティア活動やってたし」 
「確かにそれは事実だが」 
「なら人間全部が愚か者、なんていうのは間違いだよね」 
 多嶋が返事に窮する。言い返そうにも、反論できる立場では無かった。相手の方が正しいかもしれない――そう、多嶋自身が思ってしまったから。 
 そして、多嶋は一度気づいた自分の間違いを強引な屁理屈で言い返すような事はしない。 
 それが、多嶋誠――銀狼セイグルという男だ。 
「……そうだな。私が間違っていたのだろう。人間の考え方の一部に、私と合わない所がある。そう考えるべきか」 
「そうそう。いいね多嶋君は素直で。そういう言葉、ちゃんと聞いてくれる人でさ。真剣に話を聞いてくれる人って、私も嬉しいな。私の友達の誰かさんと違って」 
 嬉しそうに弾んだ声で答えると、ミリアはその笑顔のまま多嶋の顔を覗き込んだ。 
「で、多嶋君。そんな素直な君に、私からも実は折り入ってお願いがあるんだけど」 
「何だ」 
「冬元の事、なんだけどね」 
 ミリアが両手を後ろに組み、多嶋の顔を見上げてくる。 
「多嶋君も知ってると思うけど、冬元って『男なんか嫌いだぁ!』っていう所があるの。理由は多分、あたしがそういう男に色々と嫌がらせされてるせいなんだけど、だから、あたしからもそんなに強く言えないんだけどさ。あ、それに冬元ってその……あんまり言えないけど、家庭がちょっと壊れててね。何ていうか、そのせいでもともと凄く人間不信なのも理由なんだけど」 
 ミリアの口調が淀む。責任を感じているのだろうか。 
「そこで、多嶋君にお願いがあります。冬元の男嫌いだ、っていうゴリゴリに固まった頭を、何とかほぐしてください!」 
 パン、と両手を合わせてお願いのポーズを取る。その言葉に一瞬、多嶋の思考が止まった。それが、どういう意味かを考え直す。 
 つまり、それは。 
「……それは間接的に、私に冬元と仲良くしろと言っているのか」 
「そ。お願い!」 
 パンパン、と両手を合わせてミリアが拝む。 
「何故私だ。というか無理だ」 
「いやそこを何とか」 
「どうして私が人間の女性と仲良くならねばならん」 
「だってさあ。冬元って本当は滅茶苦茶いい子なんだよ? 実は恥ずかしがりやで可愛くって。そんなあの子が男嫌いだなんて、あたしは同じ女として勿体無い!」 
「それは私とは関係ない話だと思うのだが」 
「友達の頼みだと思って、ね。ここは一つ頼んますよ旦那!」 
「不可能だ。他を当たれ」 
 多嶋はふん、と鼻を鳴らして歩き出した。 
 人間に対する見方が変わったのは、確かな事実だと認めてもいい。しかし、だからといって人間とすぐに友達になれるほど親密になった訳ではない。第一、人間の一部が愚かである事に変わりは無いのだ。いや、そもそも多嶋は始原人。人間とは違う。そんな彼に、どうして冬元の男嫌いを治す事などできるだろうか。 
 前提からして無理なのだ、と多嶋は思う。 
 そう考える多嶋の前に、諦め悪くミリアが立ち塞がった。 
「あたしが見る限り、だけどさ。多嶋君は実直で、嫌な事は嫌いって言う性格だから、好き嫌いのハッキリしてる冬元とは気が合う気がするの。だからお願い! 普通に友達になるだけでいいから、冬元とちょこっとぐらい話してやって!」 
「無理だ。それに今、俺と冬元は敵対関係にある」 
「え、そうなの?」 
 ミリアの声に、驚きの色が篭った。 
「ああ。故に、これ以上私と冬元の関係が改善する事は無い。よって」 
「屋上で逢引きしてたくせに」 
 ひくっ、と多嶋の眉が動いた。ミリアの目元が、にやりと笑みの形を作る。 
「知ってるんだからね多嶋君。昨日、冬元とコソコソと何かやってたでしょ」 
――何処まで知っている? 
 多嶋の瞳に、警戒の色が映る。 
「たまたま見えたんだよね、屋上。多嶋君はチラッとしか見えなかったし、後は冬元の後姿しか見えなかったけど」 
「……そうか」 
 多嶋は僅かに胸を撫で下ろした。今の話だと、ミリアは昨日の銀髪を見ていない。ミリアは何かを探っているわけではなく、本心からそう訴えているようだ。 
「だから今日、多嶋君にお願いしてるの。あたしちょっと感動したんだ。冬元が喧嘩以外の理由で男の人と話してるの見てさ」 
「そんなに稀な事なのか」 
「そうよ! 冬元ってよっぽどの事情が無いとそんな事しないし。だから上手く行くかも、って思ったんだけど」 
「だが、昨日の話はそのような内容ではない。やはり現状では冬元と敵対しているとしか」 
 そこまで言いかけて。ひくっ、と多嶋の鼻が動いた。 
 場の空気を変える、坂下から吹き上げる風に乗った奇妙な異臭。 
「……何だ、これは。妙な臭いがする」 
「え? 臭い?」 
 ミリアも鼻を鳴らしてみるが、枯れ草や木々の香りしか感じられなかったらしい。顔をかしげ、不思議そうに多嶋を見る。 
 多嶋の鋭敏な嗅覚だけが、それを感知していた。風に混じった、砂の粒子。砂漠の粒がこびりついた、乾燥しきった渇きの臭い。 
 始原界の、香り。 
「別に何にも」 
「妙だ」 
 多嶋が呟く。この辺りに多嶋を除く始原界側からの調査隊はいない。なのに、始原界の空気が色濃く感じられる。少し懐かしい、ざらついた風。 
 人間界に来たばかりの者が、この近くにいる。 
「悪い。先に行っていてくれ、ミリア。少し気になることができた」 
「多嶋君?」 
 振り返るミリアを放り出し、多嶋は一気に坂を下っていった。 
 
 
3  冬元由香 
 
 その、少し前。 
「あー……」 
 頭をぼりぼり掻きながら、冬元は呆然とした表情で自宅を出た。太陽の光が燦々と輝く中、彼女だけが真ん中にポツンと取り残されている。日ごろ通学に勤しむはずの生徒の姿は、そこに誰一人として見当たらない。 
 寝坊した。 
 小さく項垂れ、冬元は鞄を背負い直した。 
 冬元は朝に弱い。それに加え、昨日は寝付けなかった。実は心配事があると寝付けない性質で、昨日はずっと多嶋は何者なのかという思考がグルグルと渦巻いていた。手元の銀髪を眺めているうちに、夜も更けてしまう程に。そして、そんな日に限って目覚まし時計をセットし忘れる。自分は意外と間抜けなのだと、こんな時に思う。 
 手元の携帯電話を開く。まだ一応、学校まで間に合いそうな時間帯。でも面倒だし、遅刻してもいいかもしれない。が、昨日の今日で学校に遅刻。また何かあったのかと、ミリアに色々せっつかれるのもまた困る話。 
 パチンと携帯電話を閉じ、冬元は深呼吸をした。深く息を吸い、息を吐く。もう一度息を吸う。そんな下らない事で悩んだ末に、 
「うおおおおおおっっ!」 
 無愛想でクールだと学校で揶揄される少女は荒声をあげ、モーターの如く足をフル回転させた。綺麗に伸びた足が、何度も地面を蹴り飛ばす。 
 手持ちのカバンを振り回し、ただ無心に学校へと突っ走る。呼吸が少し安定してきた所で冬元はさらにアクセルをかけ、そのスピードがほぼ最高点へと到達する。 
 とても他人には見せられない姿だ、と自分でも思う。それ位の自覚と恥じらいは冬元自身にもある訳だが―― 
「ちょっとスンマセン、そこの人!」 
 不意に、少しひょろ長い男が冬元の前に飛び出てきた。慌てて足を止める。一瞬、自分の無茶な姿を見られたのかと思いびくりとするが、そこに立っていたのは冬元の知らない男だった。 
「何か」 
 心臓がバクバクと音を立てつつも、冬元は冷たく言い返した。汗を軽く拭い、男を見る。 
 男は冬元の態度など気にする事無く、飄々とした態度で声をかけてきた。 
「あんた急いでるとこ悪いんやけど、ちょいと教えて欲しいんや。この辺で七星高校っちゅう所知らん?」 
「……ああ?」 
 息継ぎをしながら、尋ねてくる男の姿を見る。 
 随分と、背の高い男だった。身長は百八十程度。多嶋と同じぐらいだ。スーツをぎこちなく着込んでおり、胸元はノーネクタイ。下のワイシャツも第一ボタンが外されている。いかにもお調子者そうな口調とは裏腹に、目は細く蛇のような鋭さを持った男だった。 
「いや〜ホント参ったわ。いま地図みてたんやけどさ。何ちゅうか、人間の地図ってのはよう分からん。何丁目何番地って何のことやねんホンマ」 
 妙な口調で話す、詐欺師のような印象な男。だが、目元だけは鋭く光っていた。掴み所が無い、とでも例えるべきか。 
「で、悪いんやけどお嬢ちゃん。七星高校ってどの辺や?」 
「……ここの坂道をずっと登れば、左手に校舎がある。そこが七星高校」 
「マジか? この先? ホンマ助かったわアリガト。なあウィスプ、この先やて」 
 男が振り返る。つられて冬元も覗いてみると、道路脇のガードレールへ寄りかかるように、ウィスプと呼ばれた女が立っていた。黒いドレスを着込み黒髪を伸ばした女性。出ているところはしっかり出ており、引っ込むところもまた見事に引っ込んでいる。冬元から見ても抜群のプロポーションを保っている女性は、しかし男とは逆に不機嫌そうに眉を潜め上げ両腕を組んでいた。その不機嫌そうな姿も、実に様になっている。 
 ファッションには左程興味の無い冬元だったが、さすがに少し羨ましい、と思う。少し眉を逆立てただけでモーゼの如く男子生徒が列を開ける自分とは大違いだ。 
 まあ、男に言い寄られたいとは死んでも思わないが。 
「やっぱこの地図間違ってたんや。だってほれ、ここに学校あるはずなのにこいつ、文とかいう文字に丸マークついとるだけやんけ。意味分からんわ」 
「それが学校を表す記号だったんじゃないの」 
 女が冷たく言い捨てる。冬元には無い、大人の空気。 
「あ、なるほどな! じゃあこっちのトゲトゲマークは何やろ。激戦地帯って意味かいな」 
「どうでもいいわよ、そんな事。それより」 
 ウィスプと呼ばれた女が、冬元を見る。人間全体を敵視するような、鋭い視線。 
 最近もあった気がする。こんな視線で見られた事が、確か。 
 女はすぐに視線を反らした。 
「まったく最低だわ、フレア。人間に道を尋ねるなんて」 
「そう言いなはんなって。おかげでほら、道も分かったし。ああ、っていうかアンタ」 
 くるりと男が再度冬元に向き直る。 
「七星高校の生徒なんか?」 
「そうよ」 
「じゃあそこまで一緒に行かへん?」 
「フレア」 
 目を吊り上げるウィスプに、フレアはへらへらとした笑いを返す。 
「別にいいやんけ、ウィスプ。途中でまた迷ってもあれやろ? 安全策が一番や」 
「だけど」 
「お堅い事いいなはんなって。な? って事で譲ちゃん。あんたも七星高校行くんやろ? 悪いけどうちらも一緒につれてってくれんか?」 
 男の軽薄な態度と中途半端な言葉遣いに、冬元は何となく毒気を抜かれた。 
「……ならついてくれば」 
 ふぅ、とため息をついて冬元は歩き出す。足を動かしつつ、遅刻はこいつらのせいにしようと心の中で決め付けた。言いがかりだが気持ちは晴れる。 
「アリガトウお嬢ちゃん。あ、そうそう、名前や名前。自己紹介。うちの名前がフレアで、あっちのそっけないねーちゃんがウィスプ。んで――」 
 自己紹介を続ける男の声が、妙な所で区切られた。冬元がちらりと男の顔を伺うと、男は元から細かった視線をさらに細め、坂道を睨んでいる。 
 直後、後ろから両肩を掴まれた。 
「ストップ、お嬢ちゃん」 
 男に肩を触られたのは久しぶりだったせいだろうか。背筋に悪寒が走る。 
「何よ」 
 眉をひそめ、冬元が肩に置かれた手を払った直後。 
 嫌な風が、吹いた。 
 砂漠の砂が混じったような、ざらついた風。春らしからぬ乾燥した風を感じ、腕で顔を隠しその風を払う。 
 フレアはガードレールの奥に広がる草むらを睨みつけながら、口を開いた。 
「さすがに、そこの脇道に隠れてる兄ちゃん達の名前までは分からんなぁ。とっとと出てきたらどうや」 
「脇道?」 
 冬元の疑問の声と同時に、ガサッ、とガードレールの脇にある茂みが反応した。何の植物だか知らない草むらを掻き分け、無機質な足音と同時に何かが這い上がってくる。茂みから現れるにはあまりにも不釣合いな、黒いサングラスをした背広姿の男達。 
「……何なの、あんた達は」 
 激しい嫌悪感が、漂っていた。 
 街中で見るなら違和感を覚える事も無かっただろう、整った背広姿の男達が、六人。全員がサングラスをかけ、不気味な統一感を醸し出している。冬元はふと、某CG満載の映画に登場するエージェントの姿を思い浮かべた。 
 非常事態には慣れている冬元すら、その不気味さに一歩足を引く。 
「あちゃー。いかにも悪者登場って感じやな」 
「何の真似かしらね、これは。同族に対する礼儀をわきまえなさい」 
 おどけた表情のフレアを退かせ、ウィスプが前に出た。対する背広男の一人が、ゆっくりと偉そうに腕を組む。こいつらの方が悪役だと、冬元は勝手に決めた。悪役というのは大抵、偉そうな奴としたたかに笑う奴。相場はそうと決まっている。政治家とか、マフィアのボスとか。大抵、男。 
「お前達、第四王の犬ですね」 
 男が喋る。丁寧そうな口調で挑発する、カンに触る口調だった。 
 冬元は一歩後ろに下がり、静観しようと判断した。事情は分からないし、知りたいとも思わない。関係あるのは冬元の後ろで道案内を頼んだこの二人。巻き込まれるのは御免だ。 
 冬元と入れ替わるように、ウィスプとが一歩前へと出た。 
「ええ、そうよ。第六王の犬っコロ。これまた随分と早い対応だけど、ご用件は何?」 
「第六王様の邪魔をしないで頂きたい。かの王の目的は、始原界と人間界の和平的交渉。第四王の勝手な意向で潰される訳にはいきません」 
「よく言うわ。俺らの故郷潰そうとしといて何が和平交渉や」 
 フレアが両の拳を叩く。ウィスプも腰元から白い手袋を取り出し、両手を覆った。 
 嫌な、空気。 
「残念だけど、その話はお断りするわ。人間との和平交渉という案は否定しないけど、第四国を潰される訳にはいかない。別の方法を考えてもらわないとね」 
 ウィスプの言葉に、男たち全員が憎たらしげに眉を動かす。見事に一致した動作が、冬元の悪寒をさらに掻き立てる。 
「そうですか。なら、私達も実力行使で止めさせて頂くまでです。できれば和平的に解決したかったのですが」 
「なあにが和平的や。六人も連れおって。ヤル気満々ですって臭いがプンプンしとるやんけ」 
 フレアの挑発に、男達がにたりと笑った。その男達の背中に、青白い光が輝く。 
「は……?」 
 冬元は目を疑った。 
 目の前で紫や白色の粒子が蛍のようにふわりと漂い、ゆっくりと形を紡いでいく。ハートマークのような形で、男の背に左右一対ずつ。まるで、蝶々の羽のように。 
 冬元は軽いめまいを覚えた。会話が不自然なのは、まだ許せる。 
 だが、これは一体何なのか。 
 何か訳の分からないことが、目の前で起こっている。理解を超えた、何かが。 
 やがて男達の背には、まるで羽化を終えたかのように、紫や白い羽が生えていた。 
「おいおい。こっちには普通の人間もおるんやで。ちったあ考えたらどうや。人間界で今騒ぎ起こしたら、えらい事になるの分かってるやろ?」 
「目撃者を消せばいい事です。今必要なのは、人間界と始原界でトラブルを起こさない事。貴方達のような奴らを排除する事。それが最優先事項です。どちらにせよそこの女も、あなた方に余計な事を吹き込まれた可能性がある以上、放って置けませんしね」 
「はっ、怖いねぇ。どうせ第六王の命令やろ、それも。ゲス野郎どもが」 
 冬元の目の前で、背広姿の男がふわりと浮いた。背中に、アゲハチョウやモンシロチョウのような紫と白い羽を持ち、男達が羽ばたいている。現実離れした光景にふらりと一歩よろめき、冬元は傍に立つウィスプの体に寄りかかった。倒れそうになった背中を、そのまま支えられる。 
 僅かに安堵した直後、冬元はふたたび息を呑んだ。 
 背中でぐちゃぐちゃと、何かが蠢いているような音がするのは気のせいだろうか。 
 異音の正体に身体を震わせ、冬元はただ前だけを睨みつけていた。 
 後ろは、恐ろしくて見れなかった。 
 その顔を、フレアがそっと覗き込む。 
 何なんだ。何なんだ何なんだこいつらは。 
 男達が羽ばたくこの光景も、それを見て何とも思わないこいつらも。 
 それ以前に、話し方が妙だった。人間だの第四国だの。 
 こいつら、人間じゃない――? 
 そんな馬鹿なことが。 
 そんな馬鹿なことが、あるはずが―― 
「お嬢ちゃん。道案内、ありがとな。ちょいと悪い夢見せてもうたけど、すぐに忘れると思うから安心しいや。大丈夫、あんたの無事は守るから。男の約束や」 
 目の前に立つフレアの口調は軽薄ながらも、どこか心優しい響きがあった。その声に少しだけ気を緩めた瞬間。冬元は咄嗟に見えた動きに対し、反射的に身体を反らした。 
 少し遅れて、凄まじい激痛が走る。視界が、暗転する。 
「悪いねお嬢ちゃん。次起きた時までには綺麗さっぱり終わらせとくから許してやっといてくれ。ああ、そういえばまだ名前聞いて無かったな。悪りぃ――」 
 悲鳴すら上げられず、ぐらりと、身体が揺れるのが分かった。意識が薄れ、両腕で腹を押さえながら、冬元はフレアに寄りかかるように倒れ込んだ。 
 混濁する意識の中、背後を見る。ウィスプと呼ばれた女の背には、六本の黒い脚が生えていた。 
「さあて、ウィスプ。どうや、六人。相手にできそうか?」 
「私一人で十分よ。どうやら、相性が良かったみたいね」 
 ウィスプが一歩、前に出る。奇怪なアゲハ男達がフワフワと漂いながら、鱗粉を撒き散らしているのが僅かに見えた。 
「さあ、いらっしゃい蝶々さん。蜘蛛の罠に飛び込む勇気があればだけど」 
「ま、こんな連中でウィスプ姉さんに勝てるとは思えへんけどな」 
 ウィスプが両手を広げ、両腕から勢いよく白い糸を張り巡らせた所で――冬元の意識は完全な闇へと墜ちそうになった。 
 
 
4  多嶋誠 
 
 遠くで、あまり好感の持てないものが浮いている。 
 多嶋は冷や汗を流しながら、坂道を駆け抜けていった。 
 誰だか知らないが、馬鹿としか言い様が無い。今この人間界で始原人絡みのトラブルなどを起こせば、第六王の和平交渉に影響するのは当然の事だ。止めなければ。 
 周囲に誰もいない事を確認すると、多嶋は力を解放した。輝く銀髪を靡かせ、炎天下のアスファルトを一気に駆け抜ける。大地が多嶋の足に蹴り上げられ、僅かにめり込んだ。 
 やがて一気に坂道を走り終えると、すぐにその歪な光景は目に入ってきた。 
 電信柱や道路標識を支点としたサッカーゴールのように、巨大な網が幾重にも張られていた。その糸に、蛾のような羽を持った男が三人、絡まっている。地面にも白い羽を持った男が二人、糸に絡み取られ動きを封じられていた。残る一人、紫の羽を持った男だけがボロボロの背広を纏ったまま、坂下に立つ二人を睨んでいる。 
 勝敗は既に決していた。 
「だからウィスプ姉さんには勝てへん、って言ったやろ? 諦めの悪いやっちゃな。終いには死んでまうで」 
 軽薄そうな男が、歯をギリギリとかみ締める蝶々男に言ってのける。その男の横には、黒髪を垂らし背中から六本の黒い脚を伸ばした女の姿が見えた。 
 その脇に、一人の制服姿の少女が倒れている。 
 ぞくりと、悪寒が走った。 
「冬元」 
 多嶋の呟きに、二人組みの注意が向く。その隙を逃さず蝶々男が飛び上がり、青い羽をばたつかせながら数本のナイフを投げつけた。 
「うわっ、そんなモン持っとったんか!」 
 慌てて左右に避けるフレアとウィスプに、男がさらにナイフを放つ。アスファルトとぶつかる衝撃音が炎天下の道路に響き渡り、そのうちの一本が、倒れた冬元の真上を掠める。 
 多嶋の背筋に、冷や汗が流れた。 
「お前ら何の真似だ! 止めろ!」 
 多嶋の声も聞き入れず、蝶々男はさらにナイフを投げつける。ウィスプも糸を吐いて応戦するが、蝶々男はフラフラと不規則に避け続けた。 
 状況は分からないが、このままだと冬元が怪我をする恐れがある。これ以上この馬鹿騒ぎを続けさせる意味は無い。 
「この――」 
 多嶋はトン、と地面を蹴って十メートル程飛び上がり、蝶々男の背後を取った。 
 あっけに取られ、後ろを振り向く男の前でくるりと一回転すると、 
「大馬鹿者が!」 
 体重を乗せた踵落としを男の身体に振り下ろした。悲鳴すら挙げられず、男の身体が猛烈な勢いで突き落とされる。羽の空気抵抗で多少は速度が落ちるが、すぐに地面と激突、コンクリートの地面に叩きつけられた。 
「……ひゅう。さっすが」 
 フレアが口笛を吹く。多嶋は空中から落下しつつ、倒れている冬元に怪我が無い事だけを確認して、二人の前に着地した。 
 そのまま拳を握り、二人組みを睨む。悪辣な始原人どもの顔を―― 
「おおっと、ちょい待ちや! 俺らは巻き込まれたんやで、そこの兄ちゃん達に! 俺ら被害者やで被害者、そう被害者や!」 
「私達に戦闘の意思は無いわ」 
 いかにもという感じで両手を挙げるフレアを、多嶋は睨みつけた。ウィスプは既に、背中から出していた蜘蛛の脚を引っ込めている。戦闘の意思は無いと証明する、始原人ならではの方法だった。 
「そこの女に、怪我は無いだろうな」 
「女? ああ……」 
 多嶋の視線の先を読み、ウィスプが意外そうな顔を浮かべた。 
「大丈夫よ。フレアが軽く殴って気絶させただけ。お腹に痛みは残るかもしれないけど、私達の事を見てわめき散らされるよりはマシだと思うわ」 
「そうか。だが」 
 多嶋は地面に転がる男とナイフを見比べながら、ため息をついた。人間は愚か者かどうかと論議してきた手前、こんな惨状を見せられてはため息の一つも吐きたくなくなる。 
「お前達、正気か? 人間界でこんな揉め事を起こすなど」 
「だから襲われたんやて、こいつらに」 
「……こいつらは何者だ」 
「第六王の部下よ。あなたの敬愛する、ね。銀狼セイグル」 
 ウィスプの言葉に、多嶋は目を吊り上げた。 
「そんな馬鹿なことがあるものか。第六王様の部下が、何故わざわざトラブルを起こす。そもそもお前達は何者だ」 
「慌てないで、セイグル。ちゃんと順番に説明するわ」 
 落ち着き払った声に、多嶋も銀髪を元に収めた。 
「私達は第四王からの依頼で訪れたの」 
 多嶋の表情が、さらに険しくなった。 
 第四王。始原界の二強と呼ばれるうちの、片方。今回の和平案に反対した男。 
「今、第四王と第六王が険悪な仲なのは知ってるかしら」 
 じりじりと太陽が照りつける道路の上で、多嶋が頷く。 
「人間界との和平実現に向けた動きを、人間を憎む第四王が嫌っているのは知っている」 
 それは始原界の内政ではもはや公然の秘密だった。人間界との和平交渉が長引けば、第四国は砂漠に飲まれてしまう。その事を恨み、第四王は今回の発案者である第六王を妬んでいる。そういう話だ。 
 第四王の気持ちは理解できる。愚かな人間との和平交渉を続けても意味があるとは思えないし、やはり同族としては人間よりも多くの始原人を助けたいと思うのが常だ。その点においては、第四王の判断も正しいものだと言えるだろう。 どちらかと言えば第六王様の考えの方が異端的ではある。 
 だが、戦争を嫌う民が数多くいるのもまた事実だ。主に、第六国側の人間を中心に多い。 
 人間との交渉など以ての外だが、戦争は避けたい――多嶋自身もまた、そんな考えを持っていた。 
 少なくとも、この前までは。 
「今後数年の行く末が死活問題となる第四国としてはね。この和平計画案が末永く続く事は非常に危険な事なの。つまり、この和平案が成立することがね」 
 ウィスプの言葉になるほど、と多嶋が小さく頷く。 
「そして、お前達が第四王の手の者だとすると……調査の妨害が目的だな」 
「ええ。人間との交渉だなんて酔狂な計画、そのまま実行されては困るのよ。私達としては」 
 ウィスプが転がった蝶々達の体を眺め、侮蔑の意味を込めてため息をついた。 
「……だけど、私たちがここに来た矢先に、この蝶々達が現れた。第四王様が必死になるのは当然だけど、第六王側も随分と躍起になってるみたいね。まあ、この計画は最初が肝心だから失敗する訳には行かないんでしょうけれど」 
「それで、先に手を出してきたのはこの蝶々どもの方か」 
「ええ」 
 ウィスプが長髪をかき上げ、鬱陶しそうに後ろへ払う。整った黒髪が、大きく揺れた。 
「なるほど。状況は理解できた。だが、お前達が和平調停の妨害を行おうとしているのが事実だとすると、それは不正行為に当たる。それに、調査員として赴いている私の立場からしても、敵だ」 
「ま、結局はそうだけれど。でも不正行為はお互い様。こいつらだってね。それに、私達は彼らみたいに力づくで訴えに来た訳じゃない。私達は話し合いに来たのよ。和平的に」 
 ウィスプは、ほくそ笑むように唇の端をつりあげた。妖艶な、けれど綺麗な笑み。 
「ねえ、セイグル。あなた、本当に人間と和平交渉なんてできると思う?」 
 彼女の質問に一瞬どう答えるべきか迷い、セイグルが口篭もった。 
「あなたの大嫌いな人間。いえ、始原界の大半が嫌っている、人間。好き放題に自然破壊を推し進め、私達の世界を滅ぼそうとするあの天敵と、和平交渉。本当にできると思う?」 
「……」 
「私はね。その事を聞きに来たの。私達だって、議会の決定事項を無理やり覆すような事はしたくない。だから私達もその決議に乗っ取った形で事を納めたい。誰もが納得する形、調査委員の結果が『和平反対』だという結論に至ってね。だから、あなたに直接話をしに来た。調査委員会の報告の場で、あなたに和平交渉反対の立場を取ってもらうために」 
「説得、か」 
 多嶋は顎に手を当てた。 
 ウィスプ達の話には、確かに嘘は含まれていないように思えた。自然破壊を押し進め、始原界を壊す天敵。それが人間。始原人の敵。そんな者達と交渉など、馬鹿げた話。 
 多嶋自身、昨日までは確かにそう思っていた。 
 だが―― 
 多嶋は、未だ倒れたままの冬元を見た。 
「セイグル。貴方は誇り高く、紳士的な人だと聞いてるわ。だから私も、真正面から貴方に話す。公平な立場に立つべき調査員としての、貴方へ。第六王の部下だからって、第六王の意向をそのまま受けてはならないはずよ。貴方には義務があるわ。調査委員会の報告の場で、貴方が感じ、思った通りに答える義務が。人間とは交渉などできる余地も無かった、と貴方が素直に感じた事を、答える必要がね」 
ウィスプの真摯な瞳が、多嶋の姿を映す。 
「どうかしら、セイグル。だから――」 
「断る」 
 多嶋の返事に、ウィスプの表情が大きく逆立った。 
 ありありと浮かぶ、怒りの表情。 
「――何故?」 
 多嶋は少し視線を彷徨わせ、しかしすぐにウィスプへと向き直った。 
「ウィスプ。貴女の言う通り、調査の結果は私自身が感じた事を報告する。第六王様の意向に関係せず答える事、それは約束しよう。貴女の意見に一理ある事も素直に認める。だが、私が実際に人間との和平交渉反対、という立場になるかは分からない」 
 多嶋の返事に、ウィスプの瞳が冷ややかに細められた。 
「それはつまり、あなた自身が人間との和平交渉にも希望がある、と考えているの?」 
「そこまでは決めていない」 
「……事前の情報だと、セイグルは人間嫌いだと聞いていたけれど」 
「それは事実だ。私は別に、人間が好きだとは一言も答えていない」 
「なら、どうして」 
 詰め寄りそうな勢いで、ウィスプが聞く。多嶋はちらりと冬元の姿を盗み見て、ふとミリアの顔を思い出した。 
「人間も、ただ愚かなだけではないという事を知ったまでだ」 
「……そう」 
 返事と共に、ウィスプが軽く首を振った。小さく、歯軋りをしながら。 
「分かったわ。なら、今はいい。行くわよ、フレア」 
「あいよ」 
 目を細め、太陽を眺めていたフレアはすぐに彼女の言葉に反応した。先ほどから全く話しかけない所を見ると、最初から交渉は全てウィスプ任せになっていたのだろう。 
 背を向けたウィスプをフレアが追いつつ、多嶋に向き直って手を大きく振る。 
「ってことでセイグルはん、また今度会いましょか。ああそうそう、悪いんやけどそこのお嬢ちゃんの事、お願いしてええ? うちらがお礼言ってたって、ついでに伝えてくれや」 
「分かった」 
 多嶋が頷くと、フレアは嬉しそうに会釈をした。 
「じゃあ、また」 
 ウィスプとフレアは、それだけを言うとゆっくりと坂を下っていった。その姿も、道路のカーブを下って見えなくなる。 
 多嶋はやっと、大きくため息をついた。 
「厄介な話だ」 
 第六王。第四王。始原界内部や人間界でも、裏工作が進んでいると考えたほうがいい。そして今後、自分もその裏工作の一つとして組み込まれる可能性もある。 
 今一度、多嶋はウィスプ達の去った方向を眺めた。 
――彼らはトラブルの元とはいえ、直接手を出さなかった。多嶋としても力づくに訴えるつもりはないし、彼らの方針はあくまで説得だ。それが続くのなら、こちらとしても対処する必要は無い。 
 第六王様が、裏手でそのような直接的手段を用いた事は問題だが。 
 多嶋はもう一度大きく息を吐き、それから冬元の倒れている路肩へと向かった。 
 冬元はアスファルトの地面に突っ伏したまま、両腕を伸ばしている。随分と派手にやられたのか、まだ動く気配は無かった。 
 まずは冬元を休ませ、それからナイフと蝶々男の後始末。面倒な事になった。通常の登校時間を過ぎた今、この坂道を通る人が殆どいないのが唯一の救いだろう。 
「あいつら、結局何も片付けずに帰ったな……」 
 少し毒を吐きつつ、ふと考え直す。ウィスプ達に取ってみれば人間界で何かしらトラブルがあった方が便利なのかもしれない。始原界と人間界の交渉を阻害する、という意味で言うのなら。 
 多嶋は首を振りつつ、冬元の体に手を伸ばした。 
 この近くで休める場所と言えば、少し遠いが多嶋の家しかない。冬元には悪いが、そこで休んでもらう事にする。理由はまあ、時期外れだが日射病で倒れた事にするか。 
 そう思いつつ、多嶋は倒れた冬元の腕に手をかけ、 
 
 がしっ 
 
 多嶋の足が、冬元の両手に掴まれた。 
「なっ」 
 ぞくりとした寒気が、多嶋の背筋に伝わる。 
 呆気に取られたまま冬元の顔を覗き込むと――冬元と、目が、合った。 
「あたしが……あれ位のパンチで、ずっと気絶してると思うな」 
 反射的に多嶋は一歩後ずさったが、冬元はそれでも多嶋の足を離さなかった。 
「立てなかったけど、ほんとは全部、聞いてたんだから。意味分かんなかったけど……っていうか、本気で怖かったけど……」 
 小さく咳き込み、顔を上げて多嶋を睨む。強い意思のこもった、戦士のような瞳。 
「さあ、答えてもらうよ多嶋……っ」 
 よろめきながらも立ち上がろうとした冬元は、そこでがくりと膝を折った。 
「おい」 
 倒れそうになる冬元を、慌てて支える。冬元の持つ独特の香りが、多嶋の鼻につく。 
「くそっ……あいつ、思いっきり殴りやがって。マジで痛い……後で覚えてやがれ」 
「分かった。分かったからもう少しそこで休んでいろ、冬元」 
 よろめく冬元をガードレールによりかからせ、多嶋は先に後始末を始めた。 
 蝶々男をどうするか迷いつつ、休んでいる冬元を見る。ぐったりとした表情を浮かべながらも、口元だけは何かをぶつぶつと呟いていた。 
――人間は恐ろしい、と思ったのは初めてだった。 
 
          ◆ 
 
「で、どないするんやウィスプ。セイグルはんの反応、ちょいと怪しかったよなぁ」 
「ちょっと、というレベルじゃないわねあれは。セイグルは間違いなく人間に肩入れすると見ていいわ。あの倒れてた子の事が気になってたみたいだし」 
「んならどうするんや? 第六王直属のセイグルはんの発言力は、本人は知らんかもしれんけどはっきり言って大きいと思うんや。説得は必須やで。何とか口説き文句考えんと」 
「分かってるわよ、それ位。私達もここで諦める訳にはいかないわ。何とか説得して……それがどうしても無理なら、仕方ないけど実力行使で行くしかない」 
「はぁ? 実力行使ってウィスプ、それはまずいやろ。第四王様だって、やる事はあくまで説得やて言うとったし。間違っても力任せはあかん」 
「でも他に手段が無いなら、それも仕方ないでしょ」 
「それは命令違反や。しかも相手はあの銀狼やで? さっきもほれ、軽く十メートルぐらいジャンプしたやんけ。あんなの相手に実力行使なんてやってたら命いくつあっても足らん」 
「それでもやるしかないでしょ。それが第四国のためなら」 
「そりゃあそうかもしれんけど……」 
 
 
5  冬元由香 
 
 多嶋に差し出された湯飲みを見つめながら、冬元は小さく息を吐いた。腹部にはまだ、先ほどの痛みが残っている。最近、何故か殴られる事が多いのは気のせいだろうか。 
 ベッドに腰掛けたまま、多嶋の方を向く。多嶋は居心地が悪そうに、時おり視線を向けてきた。そして、また困ったように顔を反らす。 
 冬元はもう一度自分の手元の湯飲みに視線を戻した。 
 大体の事は、多嶋から聞いた。 
 多嶋が始原界と呼ばれる別世界から、この世界の調査に来た事。その別世界では今、人間との和平の道を探していること。始原界が危機に晒されている事。そして、その原因は人間の自然破壊に起因する事――多嶋がそれらに対する現状の調査員である事。 
 冬元はため息をついた。テレビで騒がれていたとはいえ、ファンタジックもいい所だ。最近ブームの映画に登場する魔法学校のほうがまだ信じられる。だが目の前で人型蝶々が飛んだり蜘蛛の糸が巻き付いているのを見ると、さすがに真正面からの否定はできなかった。 
 手に持った湯飲みに視線を落とす。先ほど、多嶋が入れてくれたお茶。黒かと思うほど濃すぎる緑色をしていて、何となく手をつけられずにいる。始原界特産のお茶らしいが、果たして飲んでも良いものだろうか。 
「冬元」 
 ようやく決心がついたのか、多嶋が口を開いた。室内にはベッドと机、椅子と簡素な箱型テレビ。必要最低限のものだけが置かれおり、絨毯の敷かれた床には埃すら殆ど溜まっていない。 
 綺麗な部屋だが、生活感の無い部屋だった。仮初のたたずまいである事が伺える室内。 
 多嶋は机に立てかけられた椅子に腰掛け、ベッドに座る冬元に向き直った。 
「大丈夫か」 
「……まあね。まだちょっと痛いけど」 
「巻き込んですまなかった。本当にすまない」 
心底申し訳無さそうに、多嶋が頭を下げる。 
「多嶋が謝る事じゃない。悪いのはあのエセ大阪弁どもと、訳の分からない蝶々野郎だ」 
「しかし」 
「多嶋。あんたは悪くない。よく分かんないけど、これは間違いない」 
冬元はじっと、多嶋を見つめた。訳の分からない事続きだが、これだけは言える。少なくとも多嶋に責任はない。そして冬元は、二度も助けてもらった相手を邪険にするほどひねてはいない。何より実際に助けてもらった訳だし―― 
「そうか」 
 多嶋は少し表情を柔らかくし、自分のお茶も注いだ。それを一杯すする。 
 冬元も真似をするように、手元の湯飲みを口につけた。途端に広がる、まったりとした甘み。予想外の味に一瞬顔をしかめたが、悪くはなかった。お茶というよりは紅茶のような味だ。一体、何の葉で作られているのだろうか。 
「冬元。事情は大体話した通りだ。それで、今後の事についてだが」 
 もう一口だけお茶を口に含み、冬元は湯飲みを机の上に置いた。 
 多嶋の言いたい事ぐらい、言わずとも分かる。 
「黙ってて欲しいんだな、多嶋」 
「ああ。始原界に関すること、その全てを」 
 当然だろう、と冬元は思う。始原人である事がばれてしまえば、人間を密かに調査する調査員という立場が失われてしまうのは明白だ。それに何より、最近の話題の種につきない主題。そんな事がもし知れ渡れば、学校中が大騒ぎになる。元来、冬元はそういう騒ぎを嫌う性質だし、好んで多嶋に迷惑をかけたいとも思わない。 
「構わないだろうか」 
「あたしは、別に黙っててもいい」 
 答えつつ、多嶋の顔を見る。真面目に考え込むその姿勢も、よく見れば実に整っていた。 
 始原人と人間には、同じ男でも多少顔の作りが違うのだろうか。綺麗な顔立ち。整った印象。倒れていたときに僅かに見た、銀髪を振りかざし空高く飛ぶ多嶋の姿。 
 銀髪。 
――何を考えているのだろう、私は。こんな話をしている時に。 
 額に手を当て、冬元が俯いた。それを冬元の体調不良だと思ったのか、多嶋が声をかけてくる。 
 大丈夫か? 
 と、心配げに。 
 真っ直ぐな視線で。 
 ――うるさい黙れ多嶋。 
 内心で昂ぶる何かを抑えるように、わざとらしく毒を吐く。胸元を押さえ冬元がもう一度顔を上げると、多嶋の顔がそこにあった。少し赤みを帯びた冬元の顔を、心配そうに見つめてくる。その表情もまた、冬元の気持ちを高鳴らせた。 
 その、多嶋の顔を見て。 
 ふと、冬元はある衝動に駆られた。以前も少し、感じた事。 
「なあ、多嶋。その……私からも一つ、頼みがある」 
「何だ」 
 口にした途端、多嶋の表情が厳しくなる。どうやら冬元が簡単に譲歩するとは最初から思っていなかったらしい。ここからが正念場だと言わんばかりに、睨みつけてくる。 
 少なくとも冬元にはそう見えて、少し困ったように頬を掻いた。 
「あ、いや、その……だな」 
「黙っていてくれる事との交換条件だろう。無理な要求で無ければ呑む」 
 多嶋の口調が厳しくなる。多少理不尽な要求でも受ける覚悟をしていたようだが、冬元はそんな事を全く考えてはいなかった。実際、頭の中は全く別の事ばかり考えていた。 
 とても、場違いな事を。 
「あのさ、多嶋」 
「何だ」 
「……銀髪」 
「銀髪が、何だ」 
「見せて」 
 多嶋がさらに眉をひそめた。不快感より、疑問の色が濃い表情。 
「……それは、構わないが」 
 戸惑いつつも、多嶋が両手で髪を掻き揚げた。直後、長い銀髪がふわりと浮くように舞う。天の川のように煌く、銀の奔流。 
「これでいいか」 
「うん。それで、多嶋」 
「何だ」 
「触らせろ」 
 何故こうも喧嘩口調でしか話せないのかと自分でも思う。情けなく、馬鹿らしい感情。 
「なに?」 
 多嶋は最初、それが自分の銀髪の事だと分からなかったようだ。不思議そうに顔をかしげ、しかし冬元の表情を見てようやく気づく。 
「ああ。構わないぞ」 
「すまない」 
 何故か謝りつつ、冬元は多嶋の銀髪に触れた。海岸の砂のように純粋で、混じりけのない感触。 
「綺麗……」 
 頬をこすりつけてみたいと思ったが、冬元のプライドが慌てて歯止めをかけた。 
 慌てて首を振り、自分を取り戻そうと必死に規制をかける。 
「ところで、条件とは」 
 相変わらず困惑と疑念の混じる表情で、多嶋が声をかけてきた。 
 冬元は無視した。 
「多嶋。この髪はどうやって保っているんだ? いや、銀狼だから毛並みか?」 
「毛並みと言うな。髪でいい。別に、自然のままでこれだが」 
「何にもしなくて、これか。……。……。……二、三本ぐらい引っこ抜いていいか?」 
「何を言っている冬元。駄目だ」 
「……そうだな。白髪が増えそうだ」 
 長髪を手で弄びながら、冬元が言う。少しだけ残念そうに。 
 手元からサラサラと、銀髪が零れて行く。指の隙間を抜ける砂のように。 
「多嶋」 
「何だ」 
「これからも、ああいう奴らは来るのか?」 
「始原人の事か」 
「ああ。あの変な奴ら」 
「……変、というのは語弊があるが、可能性が無い訳ではない」 
「そうか」 
 多嶋の返答に、冬元はそれだけを答えると黙り込んでしまった。 
 テレビの音も、何も無い部屋。 
 静かで少し気まずい、微妙な沈黙。 
「……余計な事に巻き込んでしまったのは悪かった、冬元」 
「別に。ただ」 
「ただ?」 
「少し、怖かった」 
 冬元はぼそりと、そう呟いた。 
「普段は怖いもの知らずに見えるが」 
「今日だって昨日だって怖かった。私だって人間だ。怖いときは怖い」 
「そうか」 
 多嶋はそれだけを答えると、まだ自分のお茶に口をつけた。 
 何を馬鹿なことを言っているんだろう、と冬元は思う。今のはどう見ても、弱音を吐く自分の姿だ。普段はミリアにすら滅多に見せる事のない、自分のひどく脆い部分。それを、何でよりによって多嶋に見せているのか。 
 冬元は大きく首を振った。自分の精神状態がまだ落ち着いてないのだろう。普段より気持ちが高ぶっていて、余計な事を口走ったに違いない。 
――そうに決まっている。本来の冬元由香は、男に弱音を見せるほど脆弱な生き物ではない。今、本当はちょっとだけ多嶋の横顔が少し格好良く見えてしまったのも――少し、気が動転しているからに決まっている。そう。間違っても、断じてこの冬元由香ともあろうものが、男に気を許す事などあり得ないのだから。 
「気分が落ち着くまで、もう少し休むといい」 
「ああ」 
 多嶋の言葉に頷きつつ、気を紛らわすように、冬元は手元のお茶を一気に飲み干した。 
 お茶の甘味は、何故か殆ど感じなかった。 
 
 
 
6 
 
 翌日。 
 何となく嫌な予感を抱えつつ、冬元は教室の扉を開けた。 
 昨日突然の無断欠席。とはいえ、クラスメイトに心配されるような事は無い。何分、周囲から常に恐れられている冬元だ。欠席の理由に興味はあれど、冬元に直接尋ねる勇敢な者はそういない。ただ一人、彼女の最大の友人を除いては。 
 冬元は自分の席に座った途端、ポン、と両肩を掴まれた。冬元にしては珍しく、びくりと背筋を引きつらせる。 
「おはよう冬元昨日はどこに行ってたのかな」 
 後ろから聞こえたミリアの声は、心配げな台詞の割には棒読みだった。冬元の前に回りこみ、誰のとも知らない椅子に我が物顔で腰掛ける。目元だけは妙に細められているミリアの視線に、冬元は得体の知れない悪寒を感じ取った。 
気圧されないよう睨み返しつつ、冬元はカバンを机の脇に引っ掛ける。 
「別に、どこにも行ってないわよ。昨夜も携帯で答えたけど、ちょっと調子悪くて休んだだけ」 
「お昼ごろ、本当は家にも電話かけたんだけど」 
 冬元は言葉に詰まった。これでは自分が出かけていましたと証明しているようなものだ。 
「……多分、寝てたんだと思う。気づかなかった」 
 自分でも下手な嘘だと思う。案の定、ミリアには筒抜けだった。 
「ふぅん。まあ、言いたくないならいいけどさ。昨日の今日だし、また何か厄介なトラブルに巻き込まれたのかも、って思ってちょっと」 
「それは大丈夫」 
「ホントに?」 
「確かに家にはいなかったけど、ミリアの心配するような連中とは揉めてないから」 
 その代わり、羽の生えた人型蝶々には襲われたけど。 
 心の内でそう付け加えておく。 
「なら、いいけど……ねえ、冬元」 
「なに?」 
「最近、神経質になってるよね。それに何か厄介なこととか抱えてない?」 
「そんな事ない」 
「それは嘘。冬元ってよっぽどの理由がないと休まないし、それが昨日の今日。気になるんだよね、やっぱり」 
 真顔でミリアが冬元の顔を覗き込む。久しく見た、怒気を含む表情に冬元は息を呑んだ。 
「こういう事あんまり言いたくないけどさ、冬元。……無理だけはしないでね。お願い」 
――全てが通じる、一言だった。 
「……分かった」 
 神妙に受け止めて答えたつもりだったが、冬元の返事にミリアは口を尖らせた。不満を全身で示すように、むすっとした顔で冬元を睨む。 
「とか言って本当は無茶するんでしょ冬元」 
「しないって」 
「いっつもそう答えてるけど、それでもっていっつも無理するんだよ冬元は。あたしが心配してるのホントに分かってるの?」 
「うん」 
「うんじゃなくて。やっぱ分かってないでしょ。あたし今、一応怒ってるんだからね? 分かる? 怒ってるの。怒ってる」 
「ごめん」 
「毎回の事なんだけどさあ、冬元。自分が危険な事やってるっていう自覚、ホントにある?」 
「……うん」 
「お願いだからさ。危険だと思ったら止めてね。絶対」 
 本当に、言葉も無かった。ミリアに事件の事がばれる度に、冬元はこうしてミリアに窘められる。悪い、と毎回思いながら。 
――もちろん、ミリアだって冬元が暴力を奮う理由ぐらい分かっている。その相手が、話しても分からない馬鹿な連中だという事も。それを理解しているからこそ、ミリアは危険な事は止めてと言うのだ。決して暴力を振うな、とは言わない。そんな綺麗事で解決できない問題である事は、ミリアも冬元も既に理解している。今の現状が、何の改善策にもなっていない事も。 
 長井先生が個人的に尽力していることも知っている。だが学校という組織内の、十代の学生達が作るアンダーグラウンドを改善するのが容易なことではないのもまた事実だ。 
――まったく。多嶋のような始原人でさえ人間と和平を結ぼうとしているのに、自分達はこんな、下らない争い事をしているとは。 
 冬元は少し、憂鬱になった。その表情を勘違いしたのか、ミリアが表情を和らげる。 
「ごめん。ちょっと言い過ぎたかな」 
 そのまま両手を顎の下で組み、またいつもの笑みを浮かべる。悪戯小僧のような笑み。 
「でもさ、冬元。今はまだ大丈夫だけど、今みたいな事をずっとやってると本当に危なくなるよ? そのうち恨みを買った大勢の男子生徒に襲われる、何てことがあるかも」 
「それは無い。やばそうだったら逃げるし」 
「まあそうだけど、冬元って結構強気だからさ。大丈夫だと思って出て行ってそんな連中に襲われたらどうする? 下手したらほんと、体ボロボロになるまで犯されちゃうよ? 終いには教育されて売り飛ばされちゃうかもしれないし」 
 とんでもない暴言をさらりと答えるミリアに、冬元は思わず項垂れた。 
 時々現れる、ミリアの中年親父をも凌駕する発言は一体どこから来るのだろうか。 
「……ミリア。昨日、なんのビデオ見てたの」 
「あ、いやぁ、その」 
 今度は冬元がミリアを睨みつける。ミリアは視線をあからさまに外し、 
「あ、多嶋君おはようっ!」 
 ミリアの声に冬元が振り向くと、そこには普段と何ら変わらない姿が見えた。学生カバンを手にした、黒髪の多嶋の姿。当然ながら、あの銀髪は無い。 
 ちょっと残念だ。 
「ねえ多嶋君。昨日はどうかしたの? 結局学校に来なかったけど」 
 不意をついた質問に、多嶋はチラリと冬元へ視線を送った。目ざとくミリアがそれを察知し、口を挟む。 
「あ。もしかして、冬元と何かあったの?」 
「ああ。昨日、何となく嫌な予感がしてな。戻ったら途中で冬元が倒れていた」 
「倒れて?」 
 ミリアが冬元を睨み、冬元は窓の外の素敵な景色へと視線を移した。 
「そうだ。正確に言うなら冬元は路肩でぐったりしていた。最近、何か疲れる事があったのかどうか理由は知らないが、私はそこで冬元を起こし、ふらつく彼女をそのまま私の家で休ませた。それが昨日の経緯だ」 
「多嶋君の? 冬元が男の家に?」 
「そうだ。だが一眠りしたら、冬元の体調はすぐに戻った」 
「多嶋君のベッドで寝てたの?」 
「ああ。疲れていたのか、大分熟睡していたようだ」 
 冬元は景色を眺めつつ、呆れ顔を浮かべた。会話の論点が微妙にずれている事に、二人は気づいているだろうか。 
「で、寝顔は見た?」 
「健康状態に問題は無さそうだった」 
 見たのかお前は。 
「で、多嶋君。襲った?」 
 冬元が外の景色を眺めながら、スナップを効かせた裏拳を放った。へぐっ、とミリアの奇妙な悲鳴が聞こえたのは予定通りだ。 
「……ミリア。どういう意味だ、それは」 
「いやだから、冬元を多嶋君が押し倒しむぐぅ」 
「少し黙れミリア。それは話の筋に関係無い」 
 にやついた笑みを浮かべるミリアの首に肘でロックをかけ、ついでに口元を押さえ込む。暴れるミリアに殺気を込めて睨み付けると、少し大人しくなった。そのまま、ちらりと多嶋を睨みつける。始原人でも年頃の男らしくその意味は理解できたようだ。が、理解できた事で逆に戸惑ったような視線を冬元に向けていた。 
 何を焦っている多嶋。貴様は馬鹿か。 
 冬元がさらに悪意を込めて睨みつけたころ、チャイム音が響き渡った。席に着けお前らー、と体育会系のノリで入ってきた長井教師は、子供のように胸を張りながら歩きつつ、さりげなく冬元の姿を確認した。直後、多嶋と絡んでいる姿を見て「おっ」という感じの表情を浮かべてみせる。 
 全く。どいつもこいつもあいつもそいつも。 
「じゃ、冬元。細かい話はお昼にでも」 
 嬉しそうにはにかみながら、さらりと肘から抜けミリアもまた席に着いた。 
「さてじゃあ授業を始めてみるか。ああ、そうそう。多嶋。お前後で職員室に来い」 
唐突な言葉に、冬元とミリアと多嶋は全員で顔を見合わせた。 
 
 
7  多嶋誠 
 
「悪いな多嶋。いきなり呼び出したりして」 
「いえ。それより何用でしょうか、長井教師」 
 内心疑問を感じながら、多嶋は職員室に座る長井教師の前に立っていた。 
 自分が何か厄介な問題を起こしただろうか。そういう事の無いよう、多嶋自身としては常々注意を払っているつもりではあった。厄介事を起こして色々と腹を探られるのは、彼自身としてもあまり好ましい事態ではない。 
「昨日、冬元に絡んだ連中をぶちのめしたんだってな。関係者から聞いた話だが」 
 その一言で納得がいった。あの場は冬元を助けるのが自然な行動だと思ったのだが、何か問題があったのだろうか。 
「……はい。確かに」 
「よくやった。最近の若者は軟弱でなよなよした奴らが増えたが、お前みたいな男がいると俺も嬉しくなるよ」 
 ぽんぽん、と何故か肩を叩かれる。 
「それでだ。実はその件でちょいと話っていうか、状況を聞きたくてな。さすがにナイフまで持ち出すとなると、こちらとしては放っておけない話になる。転校して早々こんな事に巻き込まれて何だが、あんまり気を悪くせんでくれ」 
「はい」 
「よし。じゃあ最初の質問だが、冬元とは上手くいってるか?」 
 多嶋は首をかしげた。事件に関係あるのなら答える必要がある、とは思うのだが。 
「まあ、特に問題ないと思います」 
 無難な返事を返すと、長井教師は何故か子供のように目をきらりと輝かせた。 
「ほう。あの冬元と特に何事も無く普通に話をしてる、と」 
「はい」 
「素敵だな多嶋。お前は最高だ!」 
 また肩を叩かれる。意味が分からない。分かるべき事ではないのかもしれない。 
「今後も冬元と仲良くやってくれ」 
「長井教師。それは本題と関係あるのでしょうか」 
「全然関係無い。でも俺としてはこっちも本題だ。冬元の奴、例の件のせいかミリア以外はホントに寄せ付けないからな。少しでも友人が増えてくれると嬉しい。特に男」 
「例の件?」 
「ん? ああ、多嶋は知らんのか。冬元の噂は有名だからとっくに知っていると思ったんだが」 
長井教師はそう話すと「俺が話してもいいのかなぁ」と小さくぼやいてみせた。 
「まあいいか。他の生徒に聞けば分かる事だしな」 
「冬元が、何か」 
 多嶋が尋ねる。冬元の事情に関しては、多嶋自身も多少の興味があった。今複雑な関係にある冬元の事情を、少しでも知っておきたいと思ったのも理由だろう。 
 長井教師は少し苦い顔を浮かべ、窓の外を眺めた。 
「多嶋。お前には家族がいるか?」 
「……はい。今は一人暮らしですが、実家には」 
 返答に少し窮しながらも、多嶋はそう答えた。 
 多嶋――銀狼セイグルの家は現在、多嶋本人を加えて六人家族だ。両親と母方の祖父と祖母、それに弟。始原人の 優秀な戦士と言えどまだ十七の歳である彼にしてみれば、家族というのは非常に大切な重みがある。 
 多嶋の帰るべき場所。それを迎えてくれる場所があるのは、温かくもあり、有難い事。 
「冬元が今住んでいるのは実家だが、一人暮らし。ま、そういう事だ」 
 さらりと流した言葉に、多嶋はその意味を掴み取った。 
「事情に関しては何だか色々な憶測が流れてる。中には冬元自身が両親を殺した、何ていう根も葉もない噂もある。本当の理由は多分、ミリア以外は誰も知らんだろうな。まあ、別に真相なんてものはこの際どうでもいい。問題なのは、冬元には何らかの事情で家族がいなくなってしまった事。そして家族が居なくなったその事件の事を、冬元自身は家族が裏切り自分を捨てたと感じていること。そのせいで人間不信になってる事だ。あいつが刺々しいのはそのせいもある。その時色々と助けてくれたミリア以外はもう誰も信用できないぞ、っていう感じでな。まあ、これも全部ミリアから聞いた話だが」 
 長井教師の言葉に、多嶋は小さく首肯した。冬元から常時漂う、敵意のような空気。そして冬元がミリアに対し、異常に執着する理由。思い当たる節はいくつもある。 
「まあ、詳しい話は冬元本人に聞くといい。聞ければの話だが。さて、じゃあ本題に入るか」 
 長井教師はそう頷くと、多嶋に座るよう促した。 
 
 
8  冬元由香 
 
 お天道様輝く陽射しの元、冬元はいつにない違和感を覚えながら座り込んでいた。 
 先ほどまで誰もいなかった学校の屋上には、冬元を含め三人が座っている。いつもはミリアと二人で食べる事の多い昼食に、ついでのようにもう一人。 
 横に多嶋が座っているという事実は、冬元の居心地を色々な意味で複雑にした。 
「うーん、いい天気!」 
 ミリアが背伸びをし、弁当箱を空ける。その様子を横目で見ながら、冬元は購買で買ったメロンパンの袋を引きちぎった。 
「あ、多嶋君も弁当なんだね。お手製?」 
「まあ、そうだが」 
「へぇ〜凄い。自分で作ったんだ」 
 多嶋の空けた弁当箱に、ちらりと視線を送る。始原界ならではの妙な物体が入っているかとも思ったが、中身は存外普通だった。ご飯にたくあん、卵焼きにプチトマト、菜類少々。憎たらしい事に、卵焼きの形はスクランブルでもなく見事に包んだ四角型。生意気な。 
「冬元も見習ったら?」 
「別に」 
 メロンパンをかじり、紙パックのオレンジジュースにストローを挿す。 
「冬元ってね多嶋君。料理できない事もないけど微妙な味なんだ」 
「余計な事言うな、ミリア」 
 冬元が睨むが、ミリアはどこ吹く風といった感じで無視。 
「でも本当じゃん。あ、多嶋君には聞かれたくなかった?」 
「馬鹿。ミリア、あんた今朝から何か誤解してるでしょ」 
「そう? でも多嶋君ちで寝たのは本当だよね? 一人でか二人でかは知らないけどさ」 
「……ミリアってば」 
「で実際のところ、冬元の様子はどうだったんですか多嶋君」 
 冬元の抗議を逸らし、ミリアは多嶋に向き直った。 
 横目で睨みながら口元に加えたストローを噛み潰す。男子学生を震えあがらせる恐怖の凝視は、残念ながら多嶋には意味が通じなかった。 
「そうだな。普段よりは少し、弱気だったか」 
 その返事に、ミリアが邪悪な魔術師のように大げさな笑みを浮かべたあげた。 
 反射的に、メロンパンへかぶりつく。苛立たしげに噛み千切り、即座にオレンジジュースのストローを口に突っ込む。 
「多嶋君」 
「なんだ」 
「その時の冬元、可愛かった?」 
 ジュースを吐き出しそうになった。代わりに冷や汗が吹き出てくる。 
 何なんだ何なんだお前達は。 
「そうだな」 
 頷く多嶋。これ以上余計な事を言うな馬鹿多嶋。これ以上余計な事を。 
「まあ、あの時の冬元の様子を例えるなら」 
――この、馬鹿野郎。 
「そう言えば、多嶋はどこ出身だ?」 
 多嶋が答える前に、冬元は強引に質問を付け加えた。これ以上色々と言われるのは好き放題おもちゃにされているようで気に入らない。気に入らなくて、口を挟んでしまった。 
「……冬元」 
 冬元に向け、多嶋が敵意の篭った視線を向ける。冬元は僅かに身をすくませた。 
 多嶋は少し考えた末に、言葉を続けた。 
「……L県だが」 
「あれ? 意外と近くなんだね。もっと遠くかと思ってた」 
 ミリアが不思議そうに聞く中、多嶋が隙を見て再び冬元を睨む。不愉快そうな表情の意味が分からず心臓が跳ね上がったが、理由はすぐに理解できた。 
 実家や風土、という言葉は多嶋にとって大きなタブーなのだ。彼が始原界人なら、こちらでの経緯は全部嘘偽りのもの。その話題に触れまいと多嶋自身は常々心がけていると考えるのが普通だ。なのに。 
 余計な事を口にしてしまった。しかも、自分勝手な理由で。 
「確かL県ってあれだよね。サツマ