プロローグ
気が付けば、いつの間にか道は真っ白な雪に覆われていた。
つい先ほどまで、赤く染まった紅葉が視界一杯に舞っていたのではなかっただろうか。
いや、それとも、照りつける強烈な日差しに目を細めたのだったか。
思えば、いつから自分は歩き続けているのだろう。
いったい何のために……。
考えるな。
立ち止まるな。
まだ、やらなければならないことがある。
そうだ。自分には、やらなければならないことがある。
だから、立ち止まるわけにはいかない。
だけど……それは何だっただろうか。
頭に、もやがかかったみたいで何も思い出せない。
それでも、立ち止まってはいられない。
ほら、今も人々は歩き続けている。
脇を小さな子供がもの凄いスピードですり抜けてゆく。
見渡せば、何十人、いや何百人の人間が、まるで早送りビデオのように行き交っている。
純白だった道は、瞬く間に踏み荒らされて黒く汚れてゆく。
踏み荒らされるそばから、降り積もる雪が足跡を白く塗り潰してゆく。
不意にふり返り、自分の足跡がないかと視線を巡らせた。
だが、白く煙る視線の先はもちろん、足下にさえ自分の存在を示す証はない。
それは不思議と不安をかき立てる光景だった。
まるで、自分だけが世界から取り残されたかのようだ。
そういえば、こんなにも人が溢れているのに辺りは水を打ったように静かだ。
考えるな。
そう、考えてはいけない。
それは、分かり切っていることだ。
彼らと自分は、もう既に違う存在なのだから。
現に、誰一人として自分とは目を合わせようとしないではないか。
立ち止まるな。
少し休みすぎた。もう、行かなくては。
ねっとりと絡みつくような疲労感は拭えない。だが、歩くことはできる。
そう、歩き続けなければ探し出すことなどできはしない。
探し出す……一体、何を。それとも、誰を。
分からない。それでも、探さなければ。
たとえ見つかる可能性がほとんど無くとも、やらなければならない。
だから、それまでは……。
はらはらと舞い散る淡い桜の花びらが、身体をすり抜けて落ちてゆく。
一陣の風が吹き抜け、桜絨毯がふわりと舞い上がる。
いつの間に、春になったのだろうか。
たしか、つい先ほどまで雪が舞っていたのではなかったか。
いや、そんなことは些細な問題だ。
考えてはいけない。
立ち止まってもいけない。
やらなければならないことがある。
それまでは……死ねない。
「いいえ、あなたはもう死んでいる」
不意に背後から声をかけられ、驚いて振り返ると、そこは茜色に染まった世界だった。
今まさに溶け落ちようとしている夕日を背に、一人の少女がたたずんでいる。
真っ黒なシルエット。瞳以外の表情は影になっていてよく見えない。
どこか物悲しげなその視線にとらわれた瞬間、唐突に世界が音を取り戻す。
まるで、自分と世界のチューニングが合わされてゆくみたいだ。
行き交う人々の足音。交わしあう他愛のないお喋り。
久しく忘れていた雑踏のざわめきに包まれてゆく。
「あなたで、ちょうど百人目」
真っ黒なシルエットの中で、瞳だけが微笑むように僅かに緩む。
不意に、死神という言葉が頭をよぎっていった。
第一話 逢魔が時
1.
紅く熟れた鬼灯のような夕日が川に溶けてゆく。周りを見回せば、どこか閑散とした商店がまばらに建ち並んでいる。商店街というには少々寂しい光景だ。だが、それなりに人通りは多い。川沿いの土手の上を、帰り人たちが先を急ぐように歩いている。
そんな喧噪とは全く切り離されたように、大小二つの人影が土手の上で向かい合うように足を止めていた。帰り人達は二人が存在していないかのように、何事もなく脇をすり抜けてゆく。いや、大きな人影にいたっては文字通り存在していないのだ。
(死神……なのか。オレを連れに来たのか?)
大きな人影の青年がくぐもったような声を発する。いや、それは正確には声ではない。その証拠に、その言葉はもう一つの人影――中学生ぐらいの少女の耳にしか届いていない。
「いいえ、違う。わたしはただの人間」
通りゆく人を避けて、少女が僅かに身をよじる。少女が身に纏っている黒いスカートの裾が小さくたなびく。その動きが、長く伸びた影法師となり、青年の足下をすり抜けてゆく。見れば、青年の足下には、あるべき影が存在していなかった。
「でも、わたしを死神だと思うということは、自分が死んでることは分かってるのね」
(……分かってる。でも、まだ、死ねない)
青年の矛盾した言葉に、少女は少し物悲しそうな瞳を向ける。
(やらなくてはならないことがあるんだ)
「そう。それは、わたしに手伝うことはできる?」
(手伝って……くれるのか?)
「えぇ、わたしにできることは少ないけど、できる範囲なら手を貸すわ」
(どうして、初対面のオレのために?)
「それが、わたしの目的だから。さぁ、あなたの目的を聞かせて」
青年は、少女の意図を僅かに計りかねて戸惑う。だが、抑揚の薄い少女の言葉は、冗談や嘘を言っているようには聞こえない。なにより、この少女は誰にも見えないはずの青年の姿を見、誰にも聞こえないはずの青年の声を聞いているのだ。
場合によっては、話を聞いてもらうだけでも……。そう思い、口を開こうとして青年はハッとした。そうだ、自分にはやらなくてはならないことがなんなのか分からないのだ。やっとつかみかけた希望を突然失ったように、青年は俯いて肩を落とした。
「そう。思い出せないのね」
青年の心の中を見透かしたように、少女がポツリと呟いた。青年は、俯いたまま頷く。
「だいぶ理性を残しているみたいだし、会話も人間と同じぐらいスムーズだから、もしかしたらって思ったんだけど……。やっぱり、簡単にはいかないわね」
少女は、少しだけ残念そうにしながらも、不意に優しい笑みを青年に向けてきた。
「じゃあ、まずは思い出すことから始めましょう」
(そこまで、付き合ってくれるのか……?)
「普通はそれ以下からだから。あなたはだいぶ人間性を残してるけど、大抵の幽霊は目的どころか理性も半分ぐらい無くしてしまっている。だから、とりあえず人間的な人格を取り戻すところから始めないといけないことが多いの」
(そう……なのか。詳しいんだな)
「多少はね。これでも、今までに九十九人の幽霊の未練をはらして成仏させてきたから」
(凄い数だな。仕事……ってことはないか。中学生ぐらいだよな?)
「高校生よ、一応。成仏のお手伝いは……まぁ、ちょっと目的があるの」
中学生かと見間違うような幼い外見に不釣り合いな醒めた瞳で、少女は唐突にふっと遠くを眺める。何か事情があるのだろう。それ以上は尋ねることがはばかられるような空気が二人を包み込む。ややあって、少女が再び口を開いた。
「わたしに、あなたを手伝わせて欲しいの」
存在しないはずの青年の目を、少女の深みを湛えた瞳がまっすぐに射抜く。少女の瞳に吸い込まれて、このまま消えてしまいそうだ。
青年は、幽霊である自分よりも、この少女の方が遥かに深く暗いところに棲んでいることを直感的に理解した。もはや存在しない、感覚だけの心臓がギュッと締め付けられる。これは、人間が本能的に抱く、得体の知れないモノに対する恐怖だろうか。
――この少女は何者なのだろう。力を借りても大丈夫なのか?
僅かに逡巡して、青年は心を決める。少女の力を借りよう。自分だけでは、やらなければいけないことすら分からずに彷徨うことしかできはしないのだ。ならば、少しでも可能性のある方にかけたい。この少女は、少なくとも自分より多くのことを知っている。
それに、直感に過ぎないが、少女に悪意があるとは思えなかった。
(ありがとう。助かるよ)
青年の答えに、少女の表情がふっと和らぐ。それは、初めて見せる年相応の笑みだった。
「わたしは結城七海。あなたは?」
(オレは……)
七海に問われて、青年は初めて自身の名前すら思い出せないことに行き当たる。
「そう。なら、それも合わせて思い出してゆきましょう」
(すまない。七海さん)
「呼び捨てでいいわ。幽霊さん」
†
街に降りる夜のとばりはとても薄い。ましてや、ネオンがきらめきあう繁華街ならばそれは無いのと同じだ。太陽が沈みきった後も、街は昼間のような明るさを保ち続けていた。
七海は幽霊の青年にただ一言「ついてきて」とだけ告げ、人の流れに乗って繁華街へと向かっていた。青年は、七海の一歩後ろを躊躇いがちについてゆく。
「人混みは居心地が悪い?」
前を向いて歩きながら、七海は振り返らずにポツリと呟く。
(あっ、いや……。そういうわけじゃないんだが、なんだか違和感があって)
「きっと、それはわたしの感覚を通して世界を見てるからだと思う。でも、すぐに慣れるわ。特に、幽霊さんは人間性をしっかりと残してるから、人間の感覚に慣れるのも早いと思う」
(人間の感覚?)
「幽霊には本来、目も耳もない。だから、人間とは世界の感じ方が大きく違う。感じ方そのものは十人十色だけど、例えば時間の感覚なんかが凄く曖昧になったりするの」
言われて初めて、青年は一人で彷徨っていた時と、世界の感じ方が変わっていることに気が付いた。確か、七海と視線が会った瞬間に世界が変わった。
「それが、同調よ」
ふと気が付くと、七海は足を止めて振り返っていた。
「よく、幽霊が取り憑く、という表現を使うことがあるけど、その一歩手前が同調。この状態になると、幽霊は同調した人間の感覚を通じて世界を認識することができる」
(てことは、今オレが見ている世界は、七海が見ている世界と同じなのか?)
「憑依しないと皮膚感覚とかは共有できないから、完全に同じというわけじゃないけど、ほぼ同じと言っても良いと思う。だから、ああいう余分なモノも見えるわ」
無表情に、七海は車の行き交う通りの向こう側を指差した。その先へ視線を向けると、二つ並んだ自動販売機の薄暗い隙間で何かが蠢いているのが見える。
(ボロ布?)
小さな隙間に、薄汚れた毛布のような布が挟まっていると思った。だが、次の瞬間、青年はハッと息を飲む。ボロ布がずるりと隙間から這いだし、歩道の上に手をついたからだ。
そう、手だ。灰色に近いくすんだ色をしてはいるが、間違いなく人間の手。ピクピクと痙攣するように震えながら、それは歩道の上を這いずり回る。何かを求めるように、指先がアスファルトを撫でてゆく。それは、まるであり得ない光景だった。自動販売機の隙間はせいぜい十五センチぐらいしかないのだ。その狭い空間に人間がいるとは到底思えない。
「あれも幽霊よ。かろうじて手の形を保ってるけど、人間性は完全に喪失してる。何故そこにいるのか、たぶん誰も知らない。ただ、いつもああやって手を伸ばして何かを求めてる」
七海の言葉には、僅かに憐憫の情が混ざっているように思えた。
(除霊とかしてやらないのか?)
「できないの。わたしには、そんな力はないから。姿を見て、言葉を交わすことができるだけ。だから、そもそも会話が成り立たない相手には、何もしてあげられない」
(そう……なのか)
青年の口調が、少し不安そうに聞こえたためだろう。七海は優しげな笑みを向けてくる。
「幽霊さんの場合は、きっと大丈夫。こうやって、普通に喋れるし、人間性も残ってるから。わたしにできることは少ないけど、きっと未練を解消して成仏させてあげる」
そう言って、七海は再び人の流れに乗って歩き出した。青年は先ほどと同じように、その後をついてゆく。先ほどまで感じていた世界への違和感は、もうだいぶ薄れていた。それにともなって、七海に質問を投げかけるだけの余裕が生まれてくる。
(具体的に、これからオレはどうすればいいんだ?)
「まずは同調で人間的な感覚に慣れて。幽霊は人間性を失うのに比例して記憶とかも失ってゆくから、人間的な感覚を取り戻せば記憶も戻りやすい。だから、しばらく一緒に生活しながら色々と思い出してゆきましょう」
(一緒に生活するだけでいいのか?)
「とりあえずはね。後は、何かとっかかりを思い出したら、それを手がかりに色々と調べてみるわ。例えば、死んだ場所を思い出せば、死因や家族を知ることができるかも知れない。家族が分かれば、直接話を聞きに行くこともできる」
(なるほど、そうやって広げてゆくのか)
「それと、これはわたしの役目だけど、幽霊さんの外見から分かることを推理する」
(外見から分かること?)
自分の外見がどうなっているかなんて、全く気にも留めていなかった。というより、気にするだけの余裕がなかったのだろう。もしかして自分は、いわゆるホラー映画の悪霊みたいな血まみれな格好でもしているのではないか。不意にそんな不安が襲い、思わず手を見る。
「大丈夫。変な外見はしていないわ」
一歩先を歩いているのに、七海は敏感に青年の動き察知して足を止める。そして、脇にあるブティックのショーウィンドを指差した。そこには、真っ黒な服を着た中学生風の少女と、なんてことはない普通の大学生風の青年が映っている。
ただ一つ、普通ではない部分は、青年の姿が半分透けているということだけだ。
(これが……オレの姿)
「幽霊の外見は、本人の持っている自分自身のイメージに寄るところが大きい。だから、容姿や年齢、場合によっては性別さえ本来のものと違う場合がある。だけど、普通は自分自身のイメージは生前の姿になることが多いわ」
青年が、ショーウィンドから視線を戻すのを待ってから、七海は再び歩き出す。
「だから、おそらく幽霊さんは生前は二十歳前後の男性だったと思う」
(つまり、二十歳前後で死んだってことか)
「おそらくね。あと、死因はよくわからない。外見に目立った外傷が残っていれば、その具合から死因を予想することもできるけど、幽霊さんの場合はキレイだから」
(外傷が無いってことは、病死とかか?)
「そうとも限らない。病死なら、自己認識も衰弱した外見になりやすいの。幽霊さんの場合は健康な外見だし、人間性の残り具合から考えても、おそらく自分で補正したんだと思う」
(自分で補正?)
「幽霊の外見は、本人の持っているイメージに左右される。だから、醜い怪我などは無意識に補正して隠してしまうことが多いの。普通は、醜いのや不気味なのは嫌でしょ。逆に言えば、醜い姿を堂々と晒している幽霊は人間性をほとんど喪失している可能性が高い」
(なるほどなぁ。外見だけでも、色々分かるんだな)
「外見で、もう一つ大事なのが服装」
通りを歩きながら、青年は思わず脇を流れてゆくショーウィンドに目を向けた。先ほど、立ち止まって自分の姿を見た時は、服装にはあまり注目していなかった。それゆえ、どんな格好をしていたか、ちょっと思い出せなかったからだ。
見る限り、ちょっとラフな感じはするが、何処にでもいそうな大学生風の格好に見える。
「幽霊さんの服装は、ちょっとだけ昔風なの。今の大学生にしては、少し野暮ったい」
(そうなのか。自分では、よく分からないな)
「当たり前よ。だって、幽霊さんが生きていた時代は、それが普通だったんだから」
(オレが、生きていた時代?)
「幽霊は時間感覚が曖昧になりやすいから、いつ死んだのかを思い出すのはなかなか難しい。でも、その人の服装を見れば大体の時代は予想できるわ。自己認識のイメージが服装に反映されるわけだからね。仮に死んだのが百年以上前だったりすると、手がかりの探し方が全然変わってくる。その場合は、家族とかを捜したって無駄でしょ。
幽霊さんの場合は、少なくても明治や大正ということはないわ。おそらく、古くても二十年以内。新しければ、五年ぐらい前に生きていた可能性もあると思う」
七海の話を聞きながら、青年はただただ感心していた。高校生だと言っていたが、外見はともかく話を聞いている限り、七海は到底少女とは思えない知識と洞察力を持っている。
「幽霊に寿命があるのかどうか知らないけど、大体数年から十数年ぐらい前の幽霊が多いわ。それ以上前の幽霊はグッと少なくなる。百年以上なんていうのは、もうほとんど見かけない。そういう意味では、幽霊さんは平均的な――どうかした?」
圧倒され、いつの間にか立ち止まってしまっていた青年に気が付いて、七海も足を止めた。そして振り返り、青年の顔を覗き込んでくる。深みのある瞳が、青年を見上げていた。
(七海は凄いな。外見一つから、そんなに推理できるなんて)
青年の言葉が意外だったのだろう、七海は僅かに目を丸くする。そして、少し照れたようにはにかんだ。年相応な表情。七海が持つ得体の知れなさも、このときばかりは影を潜める。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。もっとも、そうするしかなかったんだけどね。わたしには、姿を見たり、言葉を交わしたりする以上の力はないから」
姿を見たり、言葉を交わしたりする以上の力はない。それでも、自分は幽霊を救わなければならなかった。七海の言葉は、そう言っているかのようだ。いや、実際その通りなのだろう。青年は、何故そこまでして幽霊を助けようとするのか尋ねたい気持ちに駆られた。だが、土手で七海が見せた遠い瞳が、それを思いとどまらせる。
「経験上、幽霊さんぐらい人間性が残っていれば、早ければ半月ぐらいで全部思い出すことができると思う。だから、それまでよろしくね」
青年をまっすぐに見つめたまま、七海はそう言って軽く微笑む。
(あぁ。こちらこそ、よろしく頼む)
分からないことは、まだ色々とある。自分のことも、七海のことも。だが、今は、この少女を信用しよう。確かに、七海には得体の知れない部分もあるが、やはり悪意があるとは思えなかった。青年は、最初に感じた直感をあらためて思い直す。
そして、七海の笑顔に応えるように、まっすぐ見つめて微笑みを返した。
2.
人間は、いつの頃から夜行性の生き物になったのだろう。そんな感慨が、ふと胸をよぎる。それほどまでに、街は人に溢れていた。自分が生きていた時代も、確かに夜の街は人で賑わっていたように思う。だが、今目の前に広がっている光景とはどこかが違っている。
躊躇いのない足取りで人混みの隙間をすり抜けてゆく七海の後を追いかけながら、青年は周囲を見回して目を細めた。ついさっき七海に言われたからということもあるだろうが、今が自分の生きていた時代とは異なっているのだという実感がジワリと滲み出してくる。
「あの建物、なんだか分かる?」
と、不意に七海が前方を指差して質問を投げかけてきた。
(駅……じゃないのか?)
青年は即答した。少し自信がなさそうなのは、それが当たり前すぎる答えだからだ。
だが、それはどう見ても駅にしか見えない。ちょうどそういう時間帯なのだろう。駅に吸い込まれてゆく人々と、駅から吐き出されてゆく人々の波が入り口付近に溢れかえっていた。
「大丈夫、正解よ。まぁ、分かるとは思っていたけど」
青年の答えに満足したのか、七海は小さく笑みを浮かべた。どうやら、生きていた年代のチェックや、日常的な記憶が残っているかどうかなどの確認だったらしい。
(電車で家に帰るのか?)
「ううん。ちょっと、荷物を取りに来ただけ」
駅の入り口の人だかりの中に切り込みながら、七海はそう答える。そして、改札とは逆の方向へと進んでゆく。この時間帯、人の流れに逆らって進むのはなかなか大変な作業だ。だが、慣れているらしく、七海は器用に人と人の隙間をすり抜けてゆく。
やがて、青年の視界にポッカリと空いた空間が飛び込んできた。通路の脇に用意されたエアポケットのような空間。三方の壁にはビッシリと四角い扉が並べられている。
(ここは……コインロッカー!?)
「そうよ。もしかして、コインロッカーが珍しい?」
(いや、そういうわけじゃないけど……)
どこから取り出したのか、慣れた手つきで七海はロッカーの扉に鍵を差し込む。カチッという小さな音がして、その扉が開いた。中に入っていたのは、通学カバンと中ぐらいのスポーツバッグだ。七海は、それらを引っ張り出す。
青年は妙な気分で、コインロッカーから荷物を取り出す七海を眺めていた。コインロッカー自体が珍しいわけではない。自分が生きていた時代にも普通にあったはずだし、自分も使った記憶がある。だが、何となく引っかかる。
そう、確か七海は高校生だと言っていたはずだ。しかも、荷物の中にある通学カバン。これは、下校途中で通学カバンをコインロッカーに預けて街に出ていたということなのだろう。それに、あのスポーツバッグの中身……。
(なぁ、七海。そのバッグの中身って制服か?)
「そうよ」
やはりそうだ。要するに、七海は下校途中に駅のトイレかどこかで着替え、カバンと荷物をコインロッカーに預けて動いていたわけだ。
青年の認識では、その手の行動は、いわゆる遊んでいる女子高生がよくやることだったはずだ。だが、七海がそういうタイプだとはとても思えない。まだ、一時間に満たない付き合いだが、イメージが違いすぎる。それ故、青年は妙な気がしたのだ。
もっとも、今は青年が生きていた時代とは違うのだ。考え方や風習に変化が出ていても当たり前だろう。これが、今の時代の一般的な女子高生の姿なのかも知れない。
「制服に着替えるから、トイレまでついてきて」
(ん、家に帰るんじゃないのか? わざわざ、もう一度着替えるのか?)
「帰るけど、時々お母さんが先に戻ってることがあるから」
通学カバンとスポーツバッグを手に提げて、七海は人混みを避けて壁際を歩いてゆく。荷物がある分、先ほどまでのように隙間をすり抜けて歩くのは難しいのだろう。
(分かった。でも、女子トイレには入りにくいな……)
「嫌なら、入り口で待っていてくれてもいいわ。ただ、わたしからあんまり離れすぎると同調が解けちゃうから、できれば入り口から動かないで待っていて」
同調が解けて彷徨っていってしまうと探すのが大変だからと軽く念を押して、七海はトイレに入っていった。そのまま、入り口脇の壁にもたれ掛かって待っていると、思ったより短時間で七海がトイレから出てきた。その姿を見て、青年は目を丸くする。
紺色のジャンパースカートに、同色のボレロジャケット。一目で学生服だと分かるのは良いが、どう見ても中学生ぐらいにしか見えなかった。丸襟のブラウスや赤いボウタイの影響もあるのだろうが、小柄で童顔な七海自身が最大の要因だろう。
「どうしたの。変な顔をして」
(いや、その……本当に学生だったんだなぁ、と思って)
高校生だと言っていた七海に、面と向かって中学生にしか見えないとは流石に言いにくい。だから、青年は別の言葉でお茶を濁した。もっとも、その感想もあながち嘘ではない。
最初に出会った時、夕焼けの逆光や真っ黒な服などの要素があったとはいえ、青年は七海のことを本気で死神だと思った。その印象があまりにも鮮烈で、高校生だと言われた時も今ひとつイメージが湧かなかったのだ。だが、不思議なことに、思ったより似合って見える。
青年の視線に、七海は僅かに困ったような笑顔を曖昧に見せた。そして、手に持ったスポーツバッグを肩に掛け直し、壁に沿って歩き出す。
「そろそろ帰るつもりだけど、何か食べたいものとかある?」
(食べたいもの?)
「夕食を食べてから帰ろうと思うの。多少ならお金もあるから、幽霊さんの希望でいいわ」
(オレの希望って、オレも食べられるのか?)
幽霊が食事をするという絵図が思い浮かばず、青年は不思議そうな顔をする。
「絶対とは言えないけど、たぶん大丈夫。わたしに憑依してもらうから」
(憑依って、オレが七海に?)
「そう。同調より一歩進んで、対象の人間と一つになるの。憑依すれば、同調よりもはるかに大量の情報を共有できる。同調と違って、魂と肉体の相性問題があるけど、全く取り憑けないケースは稀だから大丈夫だと思う。とりあえず、試してみる?」
幽霊に取り憑かれるというのは、どう贔屓目に見ても良い印象はないものだ。キツネ憑きや悪魔憑きなど、大抵の場合において、取り憑かれた人間は酷い目に遭っている。それなのに、七海はまるで試食や立ち読みでもするかのように気軽に勧めてくる。
(大丈夫なのか。相性問題とか言ってたけど、相性が悪いと何かあるんじゃ……)
「心配しなくても平気。相性が悪すぎると、そもそも憑依できないだけだから。それに、多少相性が悪くても憑依さえできれば感覚は共有できる」
(感覚の共有?)
「同調でも、わたしの視覚や聴覚をベースに世界を認識できるけど、憑依すれば完全にわたしを通して世界を見ることができるの。皮膚感覚はもちろん、味覚だって感じられる。つまり、わたしが食べた食事の熱さや味を、幽霊さんが感じることができるということ」
(なるほど、そうやって食事をするわけか)
「人間にとっては当たり前の食事だけど、幽霊をやっているとどうしても遠ざかってしまう。だから、食事を体験するのは人間的な感覚を取り戻すために有効なの。どうしても憑依に抵抗があるんじゃない限りは試してみた方が良いと思う。どうする?」
(いや、食事にも興味はあるし、危険性がないなら試してみたいけど……)
小さく頷いて、七海は足を止める。そして、人通りの邪魔にならないように一歩壁際へと寄り、クルリと青年の方へ向き直った。つられるように、青年も足を止める。
「なら、早速試してみましょう。わたしの心臓の辺りに手を突っ込んで」
七海は、自分の胸の前に手を当て、この辺りだと示す。
(えっ、手を突っ込むって……手を当てるじゃなくて?)
「幽霊は本来実体がないから、認識しなければどんなものでも透過する。今、幽霊さんが地面を歩くことができるのも、さっき壁にもたれ掛かっていられたのも、幽霊さん自身がそこに硬いものがあると認識しているから。現に、無意識の人通りならすり抜けていたでしょ」
言われてみると、確かにそうだったような気がする。青年は、自分の右手に視線を落とし、何度か握ったり開いたりしてみた。と、そこに七海の手が重ねられる。
「もっとも、今はわたしと同調しているから、無意識にわたしの存在を認識している状態になっている。だから、こうやって力を加えると――」
上に向けて広げた青年の右手に添えられた七海の手に力が加わる。すると、それに従って、押されるような圧力を感じて青年の右手は少しだけ下がる。逆に押し返そうとしたが、それほど力を入れていないように見える七海の手はびくともしない。
「特殊な能力でも持っていない限り、幽霊が物質に影響を与えることはできないから、押し返しても無駄よ。幽霊さんにとっては、わたしはマネキン人形のように硬いはず」
青年がやろうとしていることを察した七海が、簡単に説明を加える。
「でも、敢えて認識を変えることで透過することができる。わたしが、水か何かでできている柔らかい素材だと考えてみて。手も、すり抜けることができるはずだって思いこむの」
(そう、言われても……あっ!?)
それは、意外にもあっけなくできた。今まで、びくともしなかった七海の手を、青年の手の平がふっとすり抜けたのだ。ただ、すり抜けられると思いこんだだけなのに。
「そう。そんな感じ。簡単でしょ。次は、わたしの胸に手を入れてみて」
七海に言われるままに、青年は手の平を延ばす。だが、その手は七海の身体に触れる少し前でピタリと止まってしまう。別に七海が何かをしたわけではない。それは、青年の意志だ。
「どうかした?」
(あっ、いや……その、なんだか七海の胸を触ろうとしているみたいで……)
そうなのだ。たとえマネキンみたいに硬い感触だとはいえ、透過に失敗すれば七海の胸を鷲掴みにしてしまうことになる。青年は何となく気恥ずかしさを感じて躊躇う。
「なんだ、そんなことなら気にしなくてもいいわ。どうせ、誰にも幽霊さんの姿は見えない」
確かにその通りだが、当の本人と相手の七海にはしっかり見えているのだ。
「わかった。なら、背中からでいいわ。これなら恥ずかしくないでしょ」
小さくクスッと笑って、七海は青年に背中を見せる。まだ、多少は気恥ずかしいが、これならば何とかなりそうだ。青年は、七海の小さな背中に手の平を当てる。
硬い感触。コンクリートを押しているような感じだ。だが、これは透過できる柔らかい素材なのだ。そう思いこむ。すると、不意に抵抗が薄れ、手の平が背中に吸い込まれていった。
(……暖かい?)
そう思った次の瞬間、青年は手が何かに挟まれたように感じた。そして、強い力で身体が引っ張られる。まるで工業機械に巻き込まれたかのような衝撃に青年が悲鳴を上げた。
(うわぁああ!)
「えっ! 何……これ!?」
この事態は、七海にとっても想定外だったようだ。青年の異変に気が付いて、七海は初めて慌てた表情を見せる。目を見開いて背後を振り返ろうとした七海が見たものは、自分の背中へと急速に吸い込まれてゆく青年の姿だった。
そして、青年が吸い込まれてゆくに従って、七海の意識は急速にブラックアウトしてゆく。
「あっ、ダメ。意識が……」
かろうじて頭から倒れ込むことだけは回避して、七海はその場にへたり込む。
だが、それで精一杯だった。手をつくこともできず、糸の切れた操り人形のように、七海はドサッとコンクリートの床へと崩れ落ちた。
†
「………………か?」
上も下も分からない真っ暗な闇の中で、青年は誰かの声を聞く。遠くから語りかけられる声に聞き覚えはない。ここは、一体何処だろう。自分は、どうなってしまったのか。
ピクリと指先が意志に反応をしめす。そして、そこを中心として世界が固定を始めた。手が冷たい何かに触れている。いや、手だけじゃない。身体全体に冷たく硬い感触がある。
「…………ですか? 大丈夫、ですか?」
ハッとして、青年は飛び起きる。ここは、何処だ。視線だけを動かして辺りを見ると、自分の周囲に人だかりができている。人だかりから一歩踏み出した初老の男性が、しきりに「大丈夫か」と声をかけてきていた。青年は、男性の顔を見上げる。
気が付けば、自分は床に座り込んでいるようだ。足に、ヒンヤリとした冷たいコンクリートの感触がある。何気なく、視線を足下に落として、青年は凍り付いた。
ふわりと広がる紺色の布。そこから伸びる白く細い脚。青年はハッとして、思わず手に視線を向ける。小さな手のひら、白く細い指。脚も、手も、自分のものではない。
――いったい、何が!?
訳の分からない焦燥感が青年の心で吹き荒れる。じっとりとした嫌な汗が、背を伝って流れ落ちる。周囲の雑踏が急激に遠くなったような気がした。そして、周囲を取り囲む人だかりが大きく揺らぎ、津波のように覆い被さってくる。
「だぁぁいぃぃじょぉぉおぉぉぶぅぅでぇぇすぅぅかぁぁ」
低く唸るような声が、頭上から投げかけられる。その不気味な響きに、青年は思わず顔を上げる。そこには、醜悪な人間のパロディがうねるようにして自分を見下ろしていた。
いい知れない恐怖感が全身を駆け抜けてゆく。大きく見開いた瞳には涙が滲み、指先から全身へと震えが伝染する。歯の根が噛み合わず、カチカチと耳障りな音を立てた。喉がヒューヒューと、空気を求めて喘ぐ。心臓が、潰れてしまいそうだ。
全身の痙攣が、徐々にお腹の下へ重くわだかまってゆく。やがて、それは一つの形をなして、一気に駆け昇り始めた。喉を震わし、絹を引き裂くような悲鳴が――
(落ち着いて!!)
今、まさに絞り出されようとしていた悲鳴を押しとどめるように、頭の奥で声が響く。それは青年にとって聞き覚えのある声――七海の声だった。
(大丈夫、落ち着いて。感覚情報の多さでパニックを起こしかけているの。深呼吸をして)
「なっ、七海……? 何処に……!?」
七海の声に、僅かに理性を取り戻した青年は、首を大きく振って辺りを見回す。いつの間にか、周囲の人だかりは日常的な姿を取り戻していた。だが、七海の姿はない。
(同じ体の中にいるから、安心して。それと、下手に喋らないで。不審に思われるから)
青年は七海の言葉に従って、黙ったまま小さく頷く。僅かに、心が落ち着きを取り戻す。
「あの……救急車を呼びましょうか?」
先ほどの初老の男性が、気遣わしげに青年を――少女を覗き込んできた。
(大丈夫と言って)
「いえ、大丈夫です。すみません」
(立てる?)
膝が僅かに震ったが、何とか立ち上がることはできそうだ。青年は小さく頷いて、ゆっくりと立ち上がる。途中で少しだけふらついたが、初老の男性が手を出して支えてくれた。
「貧血ですか? 駅員の方を呼んで、休ませてもらったほうが……」
(断って。荷物を拾ったら、とりあえずこの場所を離れるわ。そうね、トイレに戻って)
「本当に大丈夫ですから。ありがとうございました」
丁寧に頭を下げてから、足下に落ちていた通学カバンとスポーツバッグを拾い上げる。そして、僅かにふらつきながら先ほどのトイレがあった方向へと歩き出す。
一歩、また一歩と歩くうちに、青年は確かな感覚を取り戻してゆく。ふらついていた足取りも徐々にしっかりとしたものに変わる。何が起こったのか、全く分からない。だが、七海が大丈夫だと言うのだから信じよう。きっと説明してくれるはずだ。
七海の指示に従い、青年は先ほどの女子トイレにやって来ていた。頭が混乱気味だったこともあり、恥ずかしいという抵抗もなく、青年はトイレの中へと入ってゆく。そして、手近な個室に入り、便座の蓋を閉めて、その上に腰をかけた。
「いったい、何がどうなってるんだ?」
人気のないトイレの個室の中とはいえ、扉一枚隔てた向こうには数名の女性がいる。だから、青年は声を潜めるようにして七海に話しかけた。その声は、口調以外は七海にそっくりだ。
(ごめんなさい、わたしのミスよ。まさか、幽霊さんの魂と、わたしの身体の相性がこんなに良いとは思わなかった。本当は、胸に手を突っ込んだ後に強く取り憑こうと思わないと憑依できないの。だけど、相性が良すぎて勝手に吸い込まれてしまったみたい)
「相性が良すぎた?」
(そう。まるで自分本来の身体と同じぐらい相性が良い。わたしも、今まで色々な幽霊を憑依させてきたけど、こんなケースは初めて。普通は幽霊側から身体の動きを制御するのは難しいはずなの。かなり相性が良かった場合でも、わたしが協力してようやく手足を動かせる程度だった。今までがそうだったから、今回もそうだとばかり思っていたの。だけど、幽霊さんの場合は完全に身体の制御を乗っ取ってしまえている)
「身体を乗っ取るって、憑依って感覚共有だけじゃなかったのか?」
(事前説明を怠ってごめんなさい。相性によって身体の制御は全くできないことも多いから、もし多少でも動かせるようなら、憑依してから実地で説明すれば良いと思っていたの。でも、まさか、わたしの方が身体の制御を失うとは思いもしなかった)
七海の話を聞きながら、青年は自分が七海の身体を自由に動かせていることをあらためて意識する。思わず手に目を落とし、指を順番に折り曲げてみた。違和感はほとんど無い。
「なぁ、これ……もしかして、かなり危険な状況なんじゃないか?」
(そうね。幽霊さんに悪意があれば、危ないかも知れない。今は、わたしの意志では身体を動かすことができないから、いきなり自殺とかをされたら止めようがない)
「おいおい……。淡々と言ってるけど、怖くないのか?」
(死ぬこと自体は別に怖くないわ。見知らぬ幽霊を自分に憑依させたりする以上、ある程度の可能性は常に考慮に入れてるから)
それは、ある意味とても七海らしいセリフだった。青年は、今の七海が声だけで顔が見えない状態であることを少しだけありがたく思う。もし表情が見えていたら、一体どれほど得体の知れない目をしていることだろう。それを想像すると、思わず背筋が冷たくなる。
(でも、パニックを避けられて良かった。憑依状態だとリミッターが外れやすいから、暴れたりしていたら怪我人どころか死人を出すことになっていたかも知れない)
「リミッターってなんだ?」
不穏な話から話題が逸れたことを幸いに、青年はその話に食いついてゆく。
(聞いたことがあるかもしれないけど、人間は普通に生活する上で無意識に筋力などを制限しているの。そうしないと、自分の力で身体を壊してしまうから。よく、火事場のバカ力とかいわれるのは、極限状態でそのリミッターが解除されることで起こる現象よ)
「憑依すると、リミッターが解除されるのか?」
(常に、というわけじゃないわ。憑依している幽霊が感情を高ぶらせたときだけ。でも、普段よりは遥かに解除されやすい。幽霊さんがその気なら、非力なわたしの身体でも、目の前の扉ぐらい簡単に叩き割ることができる。もちろん、わたしの手もただじゃ済まないけど)
個室の扉は、頑丈な作りの木戸だ。確かに、空手家とかならば叩き割ることぐらいできそうだ。だが、七海の細い身体では到底歯が立ちそうにない。七海は冗談を言うタイプではないので、その気ならば実際にできるのだろうが、流石に試そうとは思わない。
「ところで、憑依状態は解除できるんだよな。まさか、出られなくなったりは……」
状況の説明が一段落したところで、青年は先ほどからずっと気になっていたことを口にした。憑依する時に、強烈に吸い込まれたような気がしたのが引っかかっていたのだ。
(たぶん、大丈夫。憑依を解除する方法を教えるから試してみて)
「わかった。どうやればいい?」
(まず、目を閉じて。そして、おヘソの下あたりにグッと力を入れる。自分がそこに凝縮するようなイメージを強く持てば、だんだんと外の音が聞こえなくなってくるから、完全に音が消えた段階で前方に飛び出すイメージを――)
ふわっ、と一瞬身体が浮き上がったような気がして、気が付くと便座の蓋に腰掛けた七海が目の前で微笑んでいた。瞬間的に自分の立ち位置が変化したことで、青年は僅かに戸惑う。だが、すぐに自分が七海の身体から抜け出すことに成功したのだと理解した。
「ね、簡単だったでしょ?」
(そうだな。少し、拍子抜けした感じだ。でも、普通に離れることができて良かった)
青年はホッと胸をなで下ろす。だが、次の七海の言葉に思わず目を丸くすることになる。
「落ち着いたら、もう一度憑依してみましょう」
3.
「この店……本当に、大丈夫なんだろうなぁ……」
七海の身体に憑依した青年は、周囲に怪しまれないように小声で呟いた。少しでも不審がられるのを避けられるようにと、孤立できるカウンター席の一番奥に陣取っている。図らずも、ここからだと店内を一望できるのだが、その光景が目下青年の不安要素となっていた。
まず目に付くのは、壁沿いにこれでもかというぐらい釣り下げられた乾燥ニンニクの束だ。それ自体、ニンニクを使う料理店ならば珍しいというほどのものではないが、何故かこの店の場合は束の中に何個もの十字架が混ざっている。ここの店長は、なにか吸血鬼に襲われるのを警戒しなければならないような心当たりでもあるのだろうか。
そして、壁のあちらこちらで戯れる愛らしいキューピッドたち。絵は、いわゆる子供向けではなく、宗教画にでも出てきそうなリアルなタッチで描かれている。ここがイタリア料理店とかならば、まだ許せるのかも知れない。だが、キューピッドの矢の向かう先に貼られている、黄色く変色した長方形の紙切れが全てを台無しにしていた。
紙切れには『天国ラーメン 五百円』『楽園ラーメン 五百五十円』『地獄ラーメン 五百五十円』などと、丁寧にルビ付きの品書きが書かれている。かろうじて『地獄ラーメン』が辛いラーメンなのだろうという以上の予想がまるで成り立たないネーミングだ。
極めつけは、天井一杯に描かれたフレスコ画だろう。画題は、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。ただし、十二人の使徒達に振る舞われている食事がラーメンや餃子に差し替えられている。見ようによっては、冒涜的とも言われかねない。
そう、ここはラーメン屋なのだ。一見そうは見えなくても、いやそもそも料理屋にすら見えなくても、店内に立ちこめるラーメンの香りが真実を物語っている。
店の名前は『切支丹ラーメン本舗 亞々麺』。
†
つい十分ほど前、トイレで七海に説得された青年は、渋々再憑依をすることになった。
「これは、チャンスだと思うべき。人間の身体を完全に制御できるなんて、通常ではあり得ない。それに、これに慣れれば人間的な感覚を取り戻すのもずっと早くなる」
(だけど……)
七海は、身体の制御を他人に乗っ取られるのは不安じゃないのか。そう尋ねそうになったが、どう考えても怖い答えしか返ってこなさそうだったため、青年は言葉に詰まる。
「それに、わたしの身体を完全に制御できる幽霊さんなら、憑依して自分の足で歩いて夕食を食べる店を探すこともできる。自分の足で、繁華街を歩いてみたくない?」
(それは……多少興味があるけど)
「なら、決まり。憑依状態なら、視覚だけじゃなくて嗅覚も働くから、美味しそうな臭いとかを追いかけて店を探すこともできるわ」
そして、青年は七海に憑依して繁華街へと繰り出した。あまりに身体に違和感がなさ過ぎるために、逆にスカートが気になってしかたがない。なんだか、女装をして歩いているような感じがして妙に気恥ずかしいのだ。
だが、そんな気分もしばらく街を歩いていると薄れてくる。そんなときに、ふと嗅覚を刺激したのが、香ばしいニンニクの香りだった。七海の話によれば、幽霊は慣れればあらゆる感覚を擬似的に作ることができるらしいが、少なくとも青年の世界に臭いは無かった。だから、それはとても懐かしく、衝撃的な再開だった。
食欲を刺激する香りに、七海の身体ながら、思わずお腹がくぅと鳴る。そして、臭いにつられるようにフラフラと脇道に入っていったところにあったのが、この亞々麺だった。香りにすっかり参っていた青年は、細かいことに気を回す余裕が無くなっていたのだろう。今思えば、扉を開いた時点で既におかしいはずの内装に、なぜ気が付かなかったのか。
(わたしとの会話は、傍目には独り言に見える。だから、人目に付きにくい場所に座って)
七海の指示に従って、ちょうど空いていたカウンターの一番奥を陣取ったのだが、この惨状を見て他に言うべきことはなかったのだろうか。いくらなんでも、今のラーメン屋ではこれが普通ということはないはずだ。もっとも、動じないのも七海らしさかもしれないが……。
ニンニクの香りに惑わされて入ってきてしまったが、まともな料理が出てくるのだろうか。青年は、自分の迂闊さを後悔しながら、目の前のコップを手にとって水を口にした。
「――っ!? なんだ、この水……」
何気なく口にした水は、心地よい冷たさを残しながらするすると喉を流れ落ちた。そして、身体の奥底まで優しく染み渡ってゆく。どんなミネラルウォーターよりも、それは美味しかった。思わず、青年はコップに入っている水を貪るように一気に飲み干す。
(どう、美味しいでしょう?)
「あぁ、信じられないぐらいだ。この水は、いったいなんなんだ?」
(ただの水道水)
「えっ!? だけど……」
(美味しく感じたのは、幽霊さんが渇いていたから。最後に水を口にしたのはいつか覚えている。少なくても生前だから、年単位で水を飲んでいないことになるわ。幽霊には肉体がないから、普通の意味での渇きとは無縁。だけど、心は人間と同じだから渇く)
青年は空になったコップを見つめながら、小さく「渇き……か」と呟いた。
と、不意に目の前にぬっと太い腕が差し出される。ふと見れば、白い制服の店員がラーメンのどんぶりをカウンターの上に置こうとしているところだった。制服の襟元が、ザビエルや天草四郎のようなギザギザ襟巻きになっているのは、この際見なかったことにする。
「へぃ、天国ラーメン叉焼のせ、お待ち!」
それは、一見して醤油ラーメンだった。その上に、トッピングで注文した叉焼が所狭しと並べられている。ごく普通のラーメン。だが、青年の目はどんぶりに釘付けにされた。
熱々のラーメンからゆらりと湯気が立ち昇り、芳しい香りがふわりと青年の鼻腔をくすぐる。思わず、喉がゴクリと鳴った。水が渇きを癒すならば、このラーメンが癒すのは餓え。
(どうぞ。きっと、美味しいと思うわ)
七海の言葉がスタートの合図だったかのように、青年はどんぶりにむしゃぶりついた。熱々の麺を掬い上げ、叉焼と一緒に咀嚼する。スープの辛み、麺の旨み、そして肉の甘みが口の中で次々に弾けてゆく。目の前で何度も火花が散ったような衝撃が、七海の身体を通して青年に伝わってゆく。顔に汗をかくほど一心不乱になって、青年はラーメンを食べ続けた。
時間にして、ほんの数分。どんぶりに残ったスープをゴクゴクと旨そうに飲み干して、青年はようやく一息を付いた。掛け値なしの幸福感が心を暖かく満たしてゆく。
(それが、食の悦び)
溢れる幸福感に浸りながら、目を閉じて余韻に浸る青年の脳裏に七海の声が響く。
(幽霊になると、感覚が変化するだけじゃない。食べること、飲むこと、そんな基本的な幸せさえ失ってしまう。だから、幽霊の多くは人間性をどんどん無くしてゆくの。
どう、もっと食べる? 食べられそうなら、追加注文をしてもいいわ)
「えっと、餃子とかも頼んでいいのか!?」
(こうやって食事をすることも、人間的な感覚を取り戻すための重要な練習だから。それに、お金なら多少あるから遠慮しないで。なんなら、ラーメンのお代わりでも構わない)
「じゃあ、楽園ラーメンと餃子一人前を追加で!」
無邪気に喜ぶ青年を見て、七海はクスッと笑みをこぼした。
†
「ふぅ……満足したぁ」
追加で注文したラーメンと餃子を綺麗に平らげ、青年は椅子の背にもたれ掛かり、お腹を軽くさする。七海の小柄な身体の何処にこれだけのものが入るのだろうと思うほど、それは見事な食べっぷりだった。もっとも、その代償としてお腹はパンパンだ。
(そろそろ会計をして帰りましょう。財布はボレロの内ポケットに入っているから)
七海に言われたとおりに財布を取り出して、青年は会計をすませる。七海は「お金なら多少ある」と言っていたが、小さな財布には一万円札が五枚も入っていた。これは、女子高生の持ち歩く金額にしては、だいぶ多いのではないだろうか。
青年は、ふとそう思ったが、自分が生きていた時代とは違うのだ。今はこれが普通なのかもしれない。それに、七海がどこかのお嬢様だという可能性もある。
「七海、ごちそうさま。奢ってもらって悪かったな」
(気にしないで。どうせ、あぶく銭だから)
青年は、「あぶく銭」という言葉に僅かな引っかかりを覚えたが、気にしないことにした。なんにせよ、自分は奢ってもらった立場だ。感謝こそすれ、詮索する筋合いではない。
亞々麺を後にして、青年は繁華街のメイン通りをポツポツと歩き始める。
「ところで、そろそろ家に帰るんだろ。オレは身体から出ようか?」
(ちょっと待って。家の方向を教えるから、もうしばらくは憑依しておいて)
「人間の感覚を取り戻すための練習か?」
(ううん、そうじゃない。今、憑依を解いたら、たぶんわたしは吐いてしまうから)
「吐く!? どういうことだ?」
(人間は食欲にも満腹中枢というリミッターがあるの。普通は、ある程度ものを食べたら満腹中枢が満足したという信号を出す。だけど、憑依状態だとそれが弱まるから、胃がめいっぱい膨らんでパンパンになるまで――物理的な限界まで食べることができるの)
無意識に、パンパンに膨れたお腹をさすりながら、青年は七海の説明に納得する。
「そうか、それであんなに沢山食べられたのか」
(だから、今はかなり限界ギリギリ。憑依の補助がないと、たちまち吐いてしまう)
「なるほどなぁ。でも、ということは無理矢理に食べさせたようなものなんだよな。なんだか、七海に悪いことをしちまったな」
(気にしないで。いつもいつもというわけにはいかないけど、今日は幽霊さんにとって初めての食事だから。満足いくまで食べてもらいたかったの。その代わり、少しお腹がこなれるまで憑依を維持してくれる?)
「ありがとう、分かったよ。このまま、腹ごなしに家まで散歩すればいいんだな」
(そう。あ、次の角を左に曲がって)
繁華街の中心から少し離れた辺りで、青年は七海の指示に従って脇道に入ってゆく。同じ脇道でも、亞々麺があった繁華街の中心とは違い、道幅が少し狭い。
その道をまっすぐに進み、しばらくしてから今度は右手に折れた。道幅は変わらないが、一気に辺りが暗くなる。街灯の本数が減ったからだろう。闇に向かってまっすぐに伸びた道路に、電信柱に取り付けられた電灯の明かりがポツポツと並んで浮かび上がっている。
と、不意に辺りの空気が変わった。背筋にゾクッとした悪寒が走り、心臓が跳ね上がる。
「なっ……なんだ!?」
駅でパニックを起こしかけた時に似ていた。だが、これはもっと禍々しい。生暖かく、ブヨブヨとした気配が体の回りにまとわりつく。足の先から、震えが這い上がってきた。
(あ、これは……)
七海の呟きと同時に、目の前に広がる闇の向こうからズルッズルッと、湿ったものを引きずるような音が響いてきた。その音は、とても耳障りで神経に障る。何かが闇の奥から現れ出ようとしている。見たくない。見てはいけない。そう思うのに、目を離すことができない。
(幽霊さん、足は動く?)
「えっ……あ、あぁ。なんとか」
(じゃあ、そこの電信柱の下まで移動して。電灯の明かりのついているところ)
七海に促されて、青年はがくがくと震える足を引きずるように電信柱の方へ歩いてゆく。
程なくして、それは闇の衣をヌルリとはぎ取るように姿を現した。
なまじ人の形を残しているだけに、その醜悪さは鮮烈だ。土気色のブヨブヨとした肌は、所々が毒々しい緑や紫に変色し腐敗している。まさに、それは生ける屍だった。
外見自体は、ホラー映画を見慣れた人間ならば、それほど驚くものではないだろう。だが、テレビ画面を挟んで見るのと実際に遭遇するのでは、恐怖感は比べものにならない。
青年は、思わず「うぁ……」と呻き声を上げそうになって、慌てて口を手で押さえる。
(大丈夫。あれは目も見えず、耳も聞こえない。だから、近づかなければ安全)
パックリと割れたお腹から、だらりと垂れ下がる内蔵をズルズルと地面に引きずりながら、生ける屍はゆっくりと青年の目の前を通り過ぎてゆく。
やがて、その姿は再び闇の中へと消えていった。それと同時に、嫌な空気が薄れてゆく。
「いっ……今のは、一体なんだったんだ!?」
(あれも幽霊。見たとおり、あんまり質が良くない悪霊よ。人間性はもう微塵も残ってない。ただ彷徨い続けて、出会う人間に害をなそうとする。もっとも、憑依の相性が良い相手じゃない限り、大したことはできないけど)
あんな化け物とニアミスしたにもかかわらず、七海はとても落ち着いていた。口ぶりからいって、あの生ける屍と遭遇したのも初めてではないのだろう。これが七海の日常、七海の見ている世界なのだ。青年は、その凄惨さに思わず身震いをした。
(もう行きましょう。家はすぐそこの角だから。温かいお茶でも飲めば落ち着くわ)
七海に促されて、青年はようやく歩き出す。まだ、僅かに足が震えていた。
青年はよたよたと歩きながら、周囲に目を配る。七海は「そこの角」と言っていたが、何処だろうか。少なくとも、パッと見た目には、それらしき家は見あたらない。
信号のない小さな十字路まで出て、青年は足を止めて周囲をぐるりと見回した。
不意に、七海が(そこ)と小さく呟いた。その短い言葉に、青年の視線がピタリと止まる。今、目の前にあるのは、築何十年か分からないような古ぼけたアパートだった。
「このアパート……なのか?」
(そう。脇にある階段から二階に上がって。奥から二番目の部屋だから)
どうやら、間違いはないようだ。だが、それは青年の想像と大きく違っていた。大金を持ち歩いていたイメージから、何となく一戸建てだと思いこんでいたのだ。そのギャップに、青年は僅かに戸惑う。何となく、ちぐはぐな印象が拭えない。
(どうかした?)
だが、詮索をしても意味はないだろう。青年は「なんでもない」と呟いて、言われたとおりに階段へと足を進める。錆の浮いた金属階段が、ギシッ、と嫌な音を立てて軋んだ。
4.
古ぼけた畳の上にあぐらをかいて、青年はぐるりと部屋の中を見回した。大体四畳半ぐらいの大きさだろうか。壁際に小さなクローゼットと本棚が置いてある以外は、ほとんど何もない閑散とした部屋だ。あの押入には布団が入っているのだろう。
風の音がそのまま突き抜けてくる薄い窓ガラスの向こうで、電信柱の電灯が明滅する。
(どう見ても、女子高生の部屋じゃないな)
外観の通り、そのアパートは狭く古ぼけていた。一応、2Kというのだろうか。二人掛けのテーブルを置くだけで精一杯のキッチンと、和室が二つ。それが、この家の間取りだ。
七海の説明に寄れば、一部屋が母親の、もう一部屋が七海の私室らしい。今、青年が座っているのが七海の部屋だ。だが、言われなければ女の子の部屋だとは分からないだろう。むしろ、青年が一人暮らしをしている部屋だと言った方がしっくり来るかもしれない。
青年は畳の上にごろりと転がった。別に、憑依が窮屈なわけではないが、こうやって本来の姿で転がっていると妙な開放感がある。七海は、今、お風呂に入っているはずだ。
つい先ほどまで、青年は七海に憑依したままキッチンで小さなテレビを見ていた。腹ごなしが少し足りなかったので、一時間ぐらいのんびりとして時間を潰していたのだ。母親はまだ帰っておらず、テーブルの上に炒飯が一皿、ラップをかけて置かれていた。それが、本来ならば七海の夕食になるはずの物だったのだろう。皿の横には『遅くなります。先に寝て下さい』と、やけに他人行儀な印象を受ける書き置きが残されていた。
「七海の母さんって、なんの仕事をしてるんだ?」
(パートの掛け持ち。スーパーのレジとか、ガソリンスタンドとか)
「こんな遅くまで大変だな。いつも、そうなのか?」
(わからない。お母さんの仕事スケジュールは知らないから。お母さんも話さないし)
雑談とテレビで時間を潰し、ようやくお腹がこなれてきたところで青年は憑依を解除する。七海には、どうせだから憑依したままお風呂も体験すればいいと勧められたが、流石にそれは気が引けるので遠慮した。
ザァー、というシャワーの音が響いてくる。一応、部屋のドアは閉めているのだが、防音効果はほとんど無いらしい。と、ガチャと七海が浴室の扉を開ける音が聞こえた。
この家は、間取りの関係で脱衣所というものが存在しない。キッチンと一体になったような廊下の突き当たりに浴室が、少し手前の右手側にトイレがある。そのため、廊下の突き当たりの左側に脱衣用のかごが置かれているのだが、キッチンからは丸見えなのだ。
七海は「別に気にしなくていい」と言っていたが、そういうわけにもいかないだろう。ギリギリ同調が解けない範囲だったらしいので、青年は頼み込んで七海の部屋へ一時的に避難させてもらっていた。青年は畳の上でゴロゴロと転がりながら、七海が出てくるのを待つ。
しばらくして、ゆったりとしたクリーム色のパジャマに着替えた七海が部屋に戻ってきた。濡れた髪は既にドライヤーで乾かしてあったが、ほんのりと赤く上気した頬が湯上がりの雰囲気を纏っている。七海は青年と視線が合うと、小さく微笑んだ。
(七海は、もう眠るんだろ。オレは、どうしたらいい?)
「幽霊さんも眠って。幽霊に睡眠は不要だけど、その気なら眠ることはできる。慣れないと寝付きが悪いかも知れないけど、これも人間的な感覚を取り戻す練習になるから」
七海は青年と話しながら、押入から布団を取り出す。そして、テキパキと敷いてゆく。
「布団、一組しかないから、わたしの隣でかまわない? もっとも、幽霊は物質に影響を与えられないから、気分の問題なんだけどね。布団も柔らかくは感じられないし」
(あぁ、オレのことは気にしなくていいよ。適当にその辺に転がって眠るから)
「だけど……」
(本当にいいって。どっちにせよ、気分の問題だけなんだろ?)
「……わかった。じゃあ、もう電気を消すね」
小さく頷いて、七海はドアの横にある電気のスイッチをパチンと切った。天井に設えられた蛍光灯が消える。だが、部屋は真っ暗にはならない。窓の外からカーテン越しに差し込む青白い電灯の光が、部屋の中を薄ボンヤリと照らしているからだ。
七海は、そっと布団に入って横たわる。そして、そのまま目を閉じた。すぐに、スースーという安らかな寝息が聞こえ始める。その様子を見つめながら、青年は壁を背にして足を抱えて座り込んでいた。僅かな明かりに照らされた七海の寝顔は、とても穏やかだ。
――こんな状況なのに、七海は眠ることができるんだな。
いくら幽霊とはいえ、同じ部屋にほとんど見ず知らずの男がいれば少なからず警戒するのが普通だろう。いや、むしろ幽霊だからこそ警戒するべきではないだろうか。七海も言っていたが、憑依されて自殺でもされたらどうしようもないはずだ。
特に、青年は七海の身体を完全に乗っ取ることができる。それは、お互いに経験済みだ。仮に自殺でなくとも、青年に危害を加える意志があれば、七海には身を守る手段がない。それなのに、七海の寝顔はとても無防備だった。
無条件に青年に力を貸してくれる少女。今までに九十九人の幽霊を救ってきたという少女。そして、どこまでも無防備な少女。本当に、彼女はいったい何者なのだろうか。
「わたしを殺して道連れにしたい?」
不意に声を掛けられ、青年はビクッと反応する。てっきり眠っているものだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。七海はゆっくりと体を起こす。そして、顔だけを青年の方へと向けてきた。窓からの光が逆光になってしまい、その表情は読みとれない。
(いや、そういうつもりじゃ……)
本当にそんなつもりは微塵もなかった。だが、寝顔をじっと見つめていたのは事実だ。青年は、何となく気まずくなって視線をそらしながら口ごもった。
「それとも、わたしのカラダを弄びたい?」
唐突に七海の口から出た言葉を、青年は一瞬理解することができなかった。だが、すぐにその意味に思い当たりハッとする。あまりにも予想外のセリフに、青年は言葉を失った。
いや、そうではない。想像の範囲内だったからこそ、それは衝撃的だったのだ。
「したいなら構わない。でも、家は壁が薄いから、お母さんが帰ってくる前に終わらせて」
それは、どうせ抵抗できないからという諦めではなかった。ましてや、いざとなれば抵抗できるという牽制ですらない。本当に言葉通り「構わない」と言っているのだ。その口調には、嫌悪はもちろん、期待さえも存在しない。
(どうして…………。どうして、そんなことを言うんだ!?)
「幽霊さんの希望なら、できる限り叶えてあげる。ただ、それだけ。もしかしたら、それが未練になっている可能性だってあるかも知れないでしょ?」
(仮にそうだとしても、七海がそこまでする必要があるのかよ!!)
「ある。それが、わたしの目的につながるから」
青年は、七海が無防備なのだと思っていた。だが、そうではない。それは、青年には到底想像もつかないほどの強い意志、その上に成り立つ覚悟だったのだ。思えば、七海の持つ得体の知れなさは全て、その尋常ならざる覚悟に端を発しているのかも知れない。
気詰まりな沈黙が辺りを支配する。ややあって、七海がポツリと口を開いた。
「ごめんなさい。わたし、幽霊さんを困らせてしまったみたい」
(いや、オレの方こそ助けてもらっている身で言い過ぎた。怒鳴って悪かったな……)
七海は身体を布団に横たえ、再び目を閉じる。
「おやすみなさい、幽霊さん」
(あぁ、おやすみ)
青年は、最初に七海に出会った時に感じた印象を思い出していた。七海は、幽霊である自分よりも遥かに深く暗いところに棲んでいる。その直感は決して間違いではなかった。だが、不思議と、七海への恐怖感や嫌悪感は湧いてこない。
その代わりに、どこかいたたまれないような感情が青年の胸を苛む。
何時間も、その身に憑依していたからだろうか。青年は、いつしか七海に対して懐かしさにも似た親近感を覚えるようになっていた。ともすれば、まるで七海が自分自身であるかのようにさえ思えてくる。それは、家族に対する親愛の情に近いのかも知れない。
薄明かりの中、何事もなかったかのように寝息を立て始めた七海を見つめながら、青年は静かに瞳を閉じる。そして、数年もしくは十数年かぶりの微睡みの中へと落ちていった。
第二話 福音の跫音
1.
羊水の中に揺蕩う胎児のような温かさに包まれて、青年は僅かに身じろぎをする。まぶたの裏に、やわらかな朝の陽射しが射し込んできた。あぁ、もう朝か。そろそろ起きないと、大学に遅刻するな。そんなことを思いつつも、この快楽は手放しがたいものがある。
トントントントン――
ふと聞き慣れた音が、耳を優しくノックする。これは、なんの音だっただろうか。とてもリズミカルで、不思議な幸福感を想起させる音だ。その幸福感に身を任せていると、ふと別の音が混ざり始める。それは、グツグツという何かが沸騰したような音。
そうだ、これは料理の音だ。誰かが朝ご飯を作る音。誰かが――誰が?
「……さん。……さん」
誰かの声が耳元で囁く。この声は七海――いや、違う。僅かに似ているような気もするが、間違いなく別人だ。とても懐かしくて、声を聞くだけで嬉しさがこみ上げてくる。この感情はいったい何だっただろうか。
「……さん。宗佑さん。そろそろ起きないと、二人とも大学に遅刻するわ」
いつもの朝の光景。そうだ、あいつはいつも朝ご飯を用意してから起こしてくれていた。
「宗佑さん。宗……さん。……さん。…………」
あいつの声が、急速に遠ざかってゆく。
――ダメだ、行かないでくれ! オレは……。
声が途絶え、すべての幸福感が失われる。世界が反転し、闇の中へと落ちてゆく。
――オレは……まだ死ねない!!
まるで深い海の底へと沈んでゆくみたいだ。喪失感の水圧を押しのけながら、青年はがむしゃらに手を伸ばした。そして、不意に温かいものに手が触れたような気がして――
「……さん。幽霊さん。もう、朝よ」
ハッとして、青年は目を覚ます。呆然とする青年を、制服姿の七海が覗き込んでいた。
青年は僅かに混乱して周囲を見回す。古ぼけた畳に、クローゼットと本棚だけの閑散とした部屋。見覚えがある。ここは、七海の部屋だ。既に布団は片づけられた後らしい。窓から射し込む朝日が、柔らかく室内を照らし出していた。
それは、ごく普通の朝の光景。青年は、自分が夢を見ていたのだと気が付いた。
「どうかした?」
(いや、なんでもない。おはよう、七海)
「おはよう、幽霊さん」
小さく息を吐きながら、青年は七海と朝の挨拶を交わしあう。と、ふと妙なことに気が付いた。七海が声を潜めているのだ。どうかしたのだろうか。そんなことを思い巡らせていると、青年の疑問に気が付いたのだろう、七海はキッチンへと続くドアへ軽く目配せをする。
トントントントン――
今まで意識していなかったが、キッチンの方からはリズミカルな包丁の音が聞こえていた。それは、まるで夢の中から飛び出してきたかのように、同じリズムを刻んでいる。いや、この音があったからこそ、あんな夢を見たのかもしれない。
「お母さんが朝ご飯をつくってるの。お母さんは幽霊とか見えないから、わたしが幽霊さんと話をしていると独り言を呟いているみたいに見られる。まぁ、それでも良いんだけど、あんまり心配を掛けたくないから。家を出るまで、窮屈だけど我慢して」
(あぁ、わかった。オレも、無意味に話しかけないようにするよ)
青年は状況を理解して、自分も声を潜めて返事をする。もっとも、母親には幽霊の声はそもそも聞こえないはずなので、青年が声を潜める意味はあまり無い。だが、その気配りが嬉しかったのか、七海はそっと笑顔を見せた。
しばらくして、キッチンから母親のものらしき声が聞こえてきた。
「朝ご飯ができたわ。そろそろ、こっちにいらっしゃい」
†
朝のニュースを伝えるテレビの音に混じって、箸と茶碗が触れあうカチャカチャという小さな音が聞こえる。青年は大人しくテレビでも眺めながら待っていようと思ったのだが、何か妙な違和感を感じてしまい、テレビに集中することができないでいた。
違和感の正体を探るように、青年はテーブルの上に視線を彷徨わせてゆく。
それは、ごく普通の朝の食卓だった。香ばしそうな焼き魚の切り身。湯気を立てる味噌汁。白いご飯の隣には、焼き海苔の乗った小皿が添えられている。あとは、テーブルの中央に置かれた筑前煮の鉢と醤油差し。別段、何処にもおかしな所は見あたらない。
「ごちそうさま……」
と、不意に七海が箸を置いた。見れば、左手で口元を押さえて少し気持ち悪そうな表情をしている。味噌汁を半分ほど飲んだ以外は、ご飯もおかずも一口しか手をつけていない。
自分の朝食を黙々と食べながら、母親はちらりと七海の方へ視線を向ける。
「食欲がないみたいね」
その口調には、別に食べないことを咎めるような様子はない。何となく、七海によく似た抑揚の薄い喋り方だ。実際、母親はそれ以上は何も言わず、再び黙々と朝食を食べ始めた。
その短いやりとりを見た瞬間、青年はずっと感じていた違和感の正体に気が付いた。
この食卓に欠けていたもの、それは会話だ。普通、家族の食卓というものは箸の音までが聞こえるほど静かなものではない。他愛のないお喋り、テレビの話題、今日の予定、美味しい不味いという感嘆。そんな当たり前のものが、七海の食卓には無かった。
青年は、何となく微妙な居心地の悪さを感じて、視線を母親の方へと彷徨わせる。
母親は、薄幸そうで随分と疲れたような印象を受ける女性だった。だが、それを差し引けばわりと若いのではないだろうか。母娘だけあって、七海とはよく似た顔立ちをしている。
「ごめんなさい。ちょっと、胃の調子が悪いみたい」
そう言いながら、七海は席を立つ。そして、自分の使っていた食器を流し台の上へ持っていった。まだ食べられそうなおかずは、ラップでくるんでから冷蔵庫へと放り込む。冷蔵庫の中には、昨晩食べなかった炒飯がラップをされたまま入っていた。
七海の胃の調子が悪いのは、ほぼ間違いなく昨夜のラーメン馬鹿食いのせいだ。炒飯や食べ残されたおかずを眺めながら、青年は何となく申し訳ない気持ちに駆られる。
汚れ物の食器をシンクに張った水につけ込んでから、七海は一度自分の部屋へと戻っていった。青年が、自分もついてゆくべきだろうかと逡巡しているうちに、通学カバンを手に持った七海が部屋から出てくる。今日は、着替えの入ったスポーツバッグは持っていない。
「お昼ご飯はちゃんと食べなさい」
母親は相変わらずの抑揚の薄い口調でそう言いながら、一枚の五百円玉を七海に手渡した。お昼ご飯代ということだろうか。七海は小さく頷いて受け取った。そして母親に気づかれないように、軽く青年に目配せをする。どうやら、出かけるということなのだろう。
七海は、そのまま「いってきます」も言わずに玄関へと向かった。そして、靴を履いて玄関の扉を開ける。ガチャリという音を聞きながらも、母親は黙々と食事を続けている。その様子に何となく気詰まりなものを感じつつ、青年は七海について玄関を後にした。
昨日と同じように七海が一歩前を歩き、青年はその後をついてゆく。朝の陽射しの中でも、アパートの古ぼけた印象は変わらない。雑多にモノが置かれている細い廊下を抜けながら、七海は錆びの浮いた階段へと足を踏み出した。
家を出てから黙って後をついてきていた青年だったが、思いかねてふと口を開く。
(なぁ、七海。母さんと仲が悪いのか?)
「別に。ただ、お母さんはわたしにあまり関心がないだけ。気にしないで」
七海は足を止めずに淡々と答える。このぐらいの年齢ならば、確かに家族と色々あってもおかしくはないだろう。だが、青年にはむしろ母親の態度の方が不自然に感じられていた。
と、不意に青年はあることに気が付いた。それは、父親の不在。今更という気もするが、七海に父親はいないのだろうか。たまたま会わなかったということではないだろう。家には、父親がいるべき部屋自体が存在していなかったからだ。
何となく気になったが、青年は尋ねても良いものかどうか僅かに逡巡する。もっとも、七海のことだから軽く流すのが関の山だろう。そう考えて、青年は疑問を口にした。
(父さんはいないのか?)
青年の予想に反して、七海はその言葉にピクリと反応を示した。思わず階段を下りていた足が止まり、ギシッと嫌な音が辺りに響く。僅かな沈黙があり、七海はポツリと呟いた。
「お父さんは別居してる。もう、四年以上会ってないから何をしているかは知らない」
鉄サビで赤茶けた手摺を軽く撫でながら、七海は僅かに俯いて立ち尽くす。意外なリアクションに、青年は思わず言葉に窮する。と、不意に七海がクルリと振り向いた。
その表情に、青年は再び面食らう。それは、不自然なほどの笑顔だったからだ。
「そんなことより、初めての眠りはどうだった?」
不自然な笑顔、不自然な話題転換。それは、これ以上聞くなというサインなのだろう。青年はそう理解して、その話題転換に乗ることにした。
(あぁ、なんていうか懐かしいような妙な感じだったかな。それと、夢を見たな)
「もしかしたら、それは生前の記憶かも知れない。何か、思い出さない?」
(名前を……確か、宗佑って呼ばれていた気がする)
「宗佑、それが幽霊さんの名前なのね。良いペース。焦らず、思い出してゆきましょう」
七海が優しい微笑みを見せる。今度は、作り物ではない本当の笑顔だ。そして、どこか嬉しそうに軽やかな足取りで階段を下り始める。もう、先ほど父親の話題を出した時の重苦しさは何処にも残っていない。青年は、ホッとして後について階段を下りてゆく。
と、先に階段を下りきった七海が、不意に振り返って見上げてきた。
「あらためてよろしくね、宗佑さん」
七海に「宗佑さん」と呼ばれた瞬間、何か懐かしくて温かいものが青年の心をよぎった。それは、夢の中で感じていた幸福感にどこか似ている。七海の声が、夢の声に少しだけ似ているからだろうか。懐かしさと、僅かな寂しさが青年の――宗佑の心を刺激した。
2.
登校の途中で七海が立ち寄った教会は、一見して相当に歴史がありそうな造りをしていた。毛足の長い深紅の絨毯が作る道の両脇には、映画などで見慣れた木製の長椅子が整然と並べられている。ふと見上げれば、アーチ状の梁がいくつも連なって天井を構成していた。
こんな朝早くだというのに、教会の中には意外と多くの人がいる。ザッと十数名ほどだろうか。しかも、入れ替わり立ち替わりに人がやってくる。黒い服の神父らしき人物が、忙しそうに立ち回りながら訪問客に挨拶を配って歩いていた。
七海は、一人奥のキリスト像の前に跪き、先ほどから長い祈りを捧げていた。七海がキリスト教徒なのかどうかは知らないが、不思議とよく似合う光景だ。と、不意に七海が立ち上がった。どうやら、祈りが終わったらしい。
七海は、神父に小さく会釈をしてから、入り口付近で待っていた宗佑の元に戻ってきた。
「お待たせ。付き合わせてごめんなさい。教会とか、嫌いじゃなかった?」
(いや、物珍しくて興味深いよ。どうも、オレは幽霊のくせに無宗派だったらしい)
小さく笑い合いながら、二人は教会を後にする。緑の多い敷地内を抜けると、多少殺風景な道路に出た。ここをまっすぐ歩いてゆけば、七海の通う県立藤ヶ丘高校があるらしい。
「あら、奇遇ですわね。おはようございます、七海さん」
と、不意に背後から凛とした声がかけられて、七海はビクッとして立ち止まる。七海とは対照的な良く通る声だ。七海の友達だろうか。そう思い、宗佑はふと振り返った。
そして、思わず息を飲む。そこには、まるでアイドルかモデルのような美少女が立っていたからだ。細身ながらメリハリのあるプロポーション。腰まで伸びた艶やかな黒髪。多少きつめの印象を受けるが、美しく整った顔立ち。それぞれが、絶妙なバランスで完成されている。
七海と同じボレロの制服を身に纏っているが、きちんと一目で高校生だとわかった。七海とは別の意味で意志の強そうな瞳が、良家のお嬢様を彷彿とさせる。
七海は、やや戸惑ったように視線を泳がせてから、渋々といった感じで振り返った。
「……おはよう、瑞樹さん」
七海は、いつも以上に平坦で感情の薄い口調で挨拶を交わす。友達ではないのだろうか。宗佑は、七海の態度が何となく腑に落ちなかった。だが、瑞樹と呼ばれた少女は、さして気にするそぶりを見せず、うっすらとした笑みを浮かべて話しかけてくる。
「また、教会でお祈りをされていたのですか。神様に許しを請うぐらいなら、まずはご自身の生活態度を見直されてはいかがですの?」
「そんなんじゃ…………」
「あら、そういえば今日は仕事着はお持ちじゃないのですね。いくら七海さんでも毎日毎日ではカラダが持ちませんか?」
「毎日なんて……やってない…………」
「そうですか。それは、失礼しましたわ。ちょうど昨日、七海さんを見かけたものですから」
瑞樹の言葉に、七海の顔色がサッと変わる。そして、そのまま俯いた。
「……見てたの?」
「『五万円で良い』でしたか。随分とお安いんですわね」
意地悪そうな笑みを浮かべながら、瑞樹は七海の口まねをしてみせる。それを見て、宗佑はようやく二人の関係を理解した。七海は、瑞樹からイジメを受けているのだ。
「私なら、たとえ一千万円を積まれてもごめん被りますわ」
二人の会話はほとんどが仄めかしなため、宗佑には内容までは理解できない。だが、これは何か助け船を出した方がよいのではないだろうか。宗佑は、何か自分にできることはないかと考えながら七海の方へと視線を向ける。
と、不意にその視線に気が付いた七海が激しく狼狽えた。
「あっ、違っ!? わたし、そうじゃなくて…………」
その言葉は、瑞樹にではなく明らかに宗佑に向けられていた。人が近くにいる時は、できるだけ不審がられないように注意を払っている七海らしくない行動だ。と、みるみるうちに七海の目に涙が浮かび上がってくる。そして、その場にしゃがみ込んでしまった。
(なっ、七海!?)
唐突に泣き出した七海を見て、宗佑は思わず驚きの声を上げる。まだ半日程度の付き合いだが、七海の性格は大体わかっているつもりだった。それなのに、この行動はあまりに予想外だ。どうして良いかわからず、宗佑は思わず瑞樹を睨み付けた。
七海の行動が予想外だったのは宗佑だけではなかったようだ。見れば、瑞樹も唖然とした表情で、泣きじゃくる七海を見下ろしていた。イジメの張本人にしては、不可解な行動だ。
と、不意に瑞樹が宗佑の方へと顔を向けてきた。ほんの一瞬、宗佑と瑞樹の視線がピッタリとあった気がした。七海とは違った意味で怖さを孕んだ視線に、宗佑は僅かな寒気を感じる。だが、それは気のせいだ。なぜなら、瑞樹に宗佑が見えているはずがないのだから。
案の定、瑞樹はそのまま道の向こう――藤ヶ丘高校の方へと視線を向ける。
「私、お先に失礼しますわ」
不穏な笑みをうっすらと浮かべて、瑞樹は宗佑の脇をスッとすり抜けていった。瑞樹は、そのまま七海を振り返ることなく、スタスタと歩き去ってゆく。宗佑は、しばし瑞樹を視線で追っていたが、ふと思い出したように七海の隣に駆け寄る。
(七海、大丈夫か!?)
宗佑は座り込んで啜り泣いている七海の震える肩に手を添えた。幽霊なので七海には触られている感触は無いはずだが、泣き声が僅かに小さくなったのは気のせいではないだろう。
ひとしきり泣きじゃくった後、ようやく落ち着いて、七海は顔を上げた。涙でグシャグシャになった表情は、あの得体の知れなさを湛えた七海とはまるで別人だ。手の平で涙を拭いながら、七海は震える声でポツリポツリと喋りだした。
「ビックリさせてごめんなさい。もう、大丈夫だから。いつもは、こんなこと無いんだけど、宗佑さんにバレるって思ったら、わたし、急に訳がわからなくなっちゃって……」
(オレにバレるって、何がだ?)
「わたしの正体。って、もうバレてるよね……。昨日の夜もあんな話をしちゃったし」
七海は俯いたまま、僅かに自嘲気味な笑みを浮かべる。
「どうせ隠しきれないから言うね。わたし、時々だけど援助交際してるの。一ヶ月ぐらい前かな、その現場を瑞樹さんに目撃されたことがあって……」
(援助交際……?)
「あぁ、宗佑さんの時代だと言葉が違うんだっけ。援助交際っていうのは、お金をもらって、見返りに男の人と遊ぶこと。要するに…………売春」
僅かに躊躇ってから、七海はその言葉を口にする。そして、今度は宗佑の方が激しく狼狽える番だった。七海がカラダを売っている。まさか、そんなことが……。
七海は、とてもじゃないがそんなことをする娘には見えない。だが、言われてみれば色々と思い当たることがあった。わざわざ駅のロッカーを使って制服を着替えていたこと。女子高生という身分に見合わない大金を持ち歩いていたこと。しかし、どうして七海が――
(そうか、幽霊の未練だな!!)
ハッと思い当たり、宗佑は七海へ視線を向けた。七海は、辛そうな表情で頷く。
「そう。どうしても、そういう未練を持った幽霊がいるの。最初はお金をもらうつもりなんて無かった。だけど、相手の人がくれるから……。それに、幽霊によってはお小遣いじゃ到底行けないような遠方の家族に会いに行く必要もあったから助かることも多かった」
(じゃあ、オレが馬鹿みたいに食べたラーメンの代金も……)
「……ごめんなさい」
七海が謝るべきものではなかったが、宗佑にはフォローを入れることができなかった。
「だけど……わたし、無意味にしたりはしてない。昨日だって、宗佑さんと出会う前にたまたま別の幽霊の未練をはらしてあげる必要があったからだし……って、何を言い訳してるんだろう。結局、わたしがそういうことをしていることには変わりがないのに…………」
七海の瞳に涙が滲み、再び頬を伝って流れ落ちる。
「おかしいよね。今までなら、そもそも隠そうとさえ思わなかったのに。だけど、宗佑さんにだけは絶対にバレたくないって思ったの。昨日の夜、宗佑さんが本気で怒鳴ってくれたからかな……。わたしのことを気にしてくれて、少しだけ嬉しかった」
涙を流しながら力無く項垂れた、今にも頽れてしまいそうな七海。彷徨っていた宗佑に救いの手を差し伸べた、得体の知れなさを秘めた七海。一見矛盾する二つのイメージが、宗佑の中で一つに溶け合ってゆく。それは、決して相反するものではない。
そう、七海は耐えていたのだ。決して強くないからこそ、今にも糸が切れてしまいそうな程に心を張り詰めて覚悟を決める必要がある。七海は、そうやって生きてきたのだろう。
――何のために?
むろん、目的のためだ。もしかしたら、それは聞いてはいけないことなのかもしれない。答えてはもらえないかもしれない。だが、宗佑はもはや聞かずにはいられなかった。
(なぁ、七海がそこまでする目的って何なんだ?)
「わたしは……救いが欲しい」
意外にもあっさりと、七海はそう答えた。
「ちょうど、四年位前。この街に引っ越してきたばかりだったわたしは、生きることにも死ぬことにも絶望していた。そのとき、偶然さっきの教会を見つけて……神様の声を聞いた」
(神様の声!?)
「神様は『百人の彷徨える魂を救え。さすれば、汝に救いがおとずれん』そう言ってくれた。神様が本当に実在するのかどうかは知らない。全部、わたしの妄想かも知れない。それでも、わたしは救いが欲しかった。救われるなら、何でもやる。どんなことだってできる」
七海の語気が僅かに強くなった。感情のポッカリ抜け落ちたような瞳で、七海は虚空を見つめている。その様子は、今にも壊れてしまいそうな危うさを秘めていた。
普通に考えれば、それは到底正気の沙汰ではない。あるかどうかも分からない曖昧な救いなどというもののために、七海は文字通り身も心も捧げてきたのだ。だがそれは、裏を返せば七海をそこまで駆り立てる絶望の底知れぬ深さを物語っていることになる。
それは、いったいどんな絶望なのだろうか。宗佑には、到底想像がつかない。
不気味な死霊に満ちた世界で生きなければならないこと。自分に関心を持たない母親。級友からのイジメ。おそらく、父親がらみでも何かがあるのだろう。七海を見ていれば、原因になりそうなことはいくらでも思いつく。だが、どれもが決定的ではなかった。少なくとも、それらは生きることへの絶望には繋がっても、死ぬことへの絶望には繋がらない。
「でも、もうすぐ全てが終わる」
七海のポツリとした呟きに、宗佑は思索の世界から引き戻される。ふと見れば、七海はあの得体の知れない深みを湛えた瞳に、涙を浮かべて宗佑を見上げていた。
「宗佑さん。あなたで、ちょうど百人目。だから、どうかわたしを見捨てないで」
(見捨てるもなにも、助けてもらっているのはオレの方だよ)
「こんなわたしでも、嫌いにならないで最後まで手伝わせてくれる?」
縋り付くような七海を見つめながら、宗佑はあることを危惧していた。それは、宗佑を――百人目を救っても何も変わらない可能性だ。七海の言葉を信じないわけではないが、その可能性も決して捨て去ることはできないだろう。
もし、そうなった時、七海はどうするだろう。どうなってしまうのだろう。
まだ足りないと考えて、百一人目の幽霊を探すのか。それとも、完全に壊れてしまうのか。いや、今それを考えてもしかたがない。自分にできることは、七海の助力を素直に受けることだけだ。だが、その前に一つだけ言っておかなければならない。
(もちろんだ、七海。だけど、オレのために自分を犠牲にするのは止めてくれ。嫌なことは、嫌だと言って欲しい。そうじゃないと、オレも安心して七海の力を借りることができない)
宗佑の言葉に、七海は「ありがとう」と呟き、静かに頷く。
「わたし、宗佑さんが最後の幽霊で良かった……」
自分は、七海に何をしてやることができるだろうか。七海に救いが訪れる時には、既に宗佑は成仏しているはずだ。だから、万が一にも救いが訪れなかった場合でも側にいてやることはできない。無力感と、いたたまれないような思いが宗佑の胸を苛む。いつの間にか、宗佑の中で七海は大きな存在へとなりつつあった。
3.
少なくとも、藤ヶ丘高校が自分の母校だということはないだろう。だが、学校の教室というものは不思議と懐かしさを感じさせるものらしい。やや雑然と並んだ机も、チョークの粉にまみれた黒板も、薄汚れた清掃用具のロッカーでさえ、何もかもが郷愁を誘う。
宗佑は、そんなことをボンヤリと思いつつ、窓枠に腰をかけて授業を眺めていた。
朝は、七海が落ち着くまで道端で休んでいたため、ほとんど遅刻しかけた。いや、正確には完全に遅刻だった。七海が自分の――一年C組の教室に辿り着いた時には、朝のホームルームが既に始まっていたからだ。だが、そこで運の良いアクシデントに見舞われた。
「すみません。遅刻し――」
七海が担任に遅刻を報告しようとしたまさにその時、背後でガラッと大きな音を立てて教室の扉が開いた。そして、次の瞬間、猛烈な勢いで一人の少女が転がり込んできたのだ。
「うっきゃあぁぁー!!」
それは比喩ではなく、本当に転がり込んできた。どうやら、教室に走り込む時に扉のフレームに足を引っかけたらしい。彼女は、まるで何かのコントを見ているかのような綺麗なフォームを描いて七海と担任が立っている位置に突っ込んでくる。
(七海、危ない!!)
何気なく、教室の入り口の方を見ていた宗佑が咄嗟に声をかけなければ、間違いなく七海も巻き込まれていただろう。かろうじて身をかわした七海の脇をすり抜け、少女は担任と教卓を巻き込んで盛大にすっころんだ。ガシャーンという大きな音が響き、近くにいた七海を始めとして、教室中の生徒が一斉に顔をしかめる。
生徒達の視線を一身に集める中、ややあって転がり込んだ少女が身を起こした。
「あいたたた……」
担任を組み敷いたまま、少女は上体を起こす。そして、転んだ衝撃でずれてしまった眼鏡をかけ直した。何の素材でできているのか、その妙に大きな丸眼鏡はヒビ一つ入っていない。
「三島……おまえ、これで何度目だ。もしかして、ナニか? 先生に怨みでもあるのか!?」
「あはは、先生ごめんなさ〜い」
少女を押しのけて担任が立ち上がる。モロに床に殴打した後頭部をさすりながらも、目立った外傷はなさそうだ。担任は転がっている教卓を起こし、丸眼鏡の少女へと向き直る。
「いいか、三島。とにかく、おまえは少し落ち着け」
そして、ホームルームそっちのけで滾々とした説教が始まった。どうして良いか分からず、しばらくそれを脇で静観していた七海に気が付いたのだろう。担任は「あぁ、結城はもういい。今度は遅刻するなよ」とだけ告げて、結局はお咎め無しで解放されたのだ。
そんなことを思い出しながら、宗佑は教室内に視線を巡らせる。ふと見れば、あの大きな丸眼鏡の少女がうつらうつらと船を漕いでいた。朝一番や、眠くなりやすい午後ならともかく、お昼休み直前の四時限目に居眠りとは大したものだ。
七海には「授業中は退屈すると思うけど、離れると同調が解けちゃうから。ごめんなさい」と言われていたが、それほど退屈はしないですみそうだ。授業自体に興味はないが、生徒たち一人一人のリアクションがまちまちで、意外と飽きない。
と、不意に宗佑は誰かの視線を感じて教室の後ろの方へと目を向けた。そこには、通学路で出会った少女――瑞樹が座っている。実際のところ、瑞樹が見ているのは宗佑ではなく、窓の外なのだろう。だが、何となく見られているような気がして居心地が悪い。
それが癖なのか、瑞樹はしばしば窓の方へと視線を向けてきた。もう、朝から何度目だろうか。最初は、自分の姿が見えているのではないかと不安にもなったが、しばらくすると瑞樹は何事もなかったかのように視線を黒板へともどすのだ。もし幽霊が見えていれば、もっと騒ぐだろう。今も、宗佑が見返しているうちに瑞樹は視線を外した。
朝から見ていて分かったことだが、瑞樹はどうやらクラス委員長をやっているらしい。朝の七海とのやりとりが嘘のように、瑞樹は穏やかな優等生を演じていた。
ブルルルルッ――
窓の外からバイクの排気音が聞こえてきて、宗佑はふと視線を校庭の方へと向けた。見れば、一人の少女がバイクに乗って校庭に乗り入れているところだった。これはまた、えらく大胆な重役出勤だな。そんなことを思っていると、校舎の方からジャージ姿の体育教師が一人飛び出していった。そして、バイクから降りた少女と口論を始める。
バイク通学が禁止されているということなのか、それともこの大胆な遅刻についてなのか、体育教師は大仰な身振り手振りを交えながらなにやら熱弁を振るっている。一方、少女の方は何処吹く風とでもいうかのように、視線を辺りに彷徨わせていた。
「じゃあ、今日はここまでにしよう。残った練習問題は、明日までの宿題だ」
教壇に立っている教師が、教科書をパタンと閉じた。宿題という言葉に、生徒達から一斉に抗議が殺到する。そして、その声に紛れて終業のチャイムが高らかに鳴り響いた。
昼休みが始まると同時に、生徒達は一斉に活気づく。思い思いに机を寄せ合ってグループを形成する者。購買部で買い物をするためにダッシュで教室を出てゆく者。ウキウキしてお弁当の包みを開ける者。まるで、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
「ごめんなさい。何時間も退屈だったでしょ?」
ふと見ると、いつの間にか七海が隣に来ていた。そして、小声で話しかけてくる。
(いや、思いの外楽しめたよ。なんだか、妙に懐かしくてね)
「そう。なら、良かった。ところで、お昼は中庭でいいかな?」
七海は、登校するときにコンビニで買った菓子パンを手に持っていた。外で食べるつもりなのだろう。宗佑が頷こうとしていると、不意に七海の背後から声がかけられた。
「七海ちゃんも、一緒にご飯食べよう」
それは、あの丸眼鏡の少女だった。屈託のない笑顔はいいとして、何故か八枚切り食パンの袋とマヨネーズのチューブを左右の手に持っている。しかも、マヨネーズは巨大な徳用マグナムボトルだ。まさか、今からサンドイッチでも作るつもりなのだろうか。
「あっ……えぇと」
七海は宗佑の方を見て、僅かに逡巡する。おそらく、宗佑に気を遣っているのだろう。宗佑は、オレの方は気にしなくていい、という風に笑顔で目配せをする。
七海は小さく頷いてから、少女の方へと向き直った。そして、口を開きかけた瞬間――
「ちょっと頼子、電波ちゃんなんて誘うのやめなさいよ」
それは、少女の――頼子の後ろにいる女子数名のグループから発せられた言葉だった。
「えぇ、でもぉ……」
「だいたい、電波ちゃんが誘いに乗るわけ無いじゃん」
その言葉に、七海は再び頼子から目をそらして俯いてしまう。
「そうそう、いっつも中庭でブツブツ独り言を呟きながら食事してるし」
僅かに俯いた七海と、女子のグループの間で、頼子は困ったようにオロオロしていた。どうしたらよいのか分からずに混乱しているらしい。と、不意に七海が呟いた。
「わたし、独りで食事するのが好きだから。ごめんね、頼子さん」
「えぇ〜!? そんなぁ……」
大げさなほど未練たらしい視線を七海に向けつつ、頼子は渋々グループの方へと戻っていった。ほんの数秒、七海は頼子の後ろ姿を見送ってから、自分も扉の方へと歩き出した。
(悪い。オレがいるからだよな……)
「ううん、宗佑さんのせいじゃない。わたし、前からそうだから」
何となくそんな空気は感じていたが、これでハッキリした。七海はクラスで孤立している。瑞樹のように正面切って何かを言われるわけではないが、ほぼ全員から無視に近い扱いを受けているようだ。言うまでもなく、七海の独り言――幽霊との会話が原因だろう。
今も、七海の呟きに対して何人かから奇異なモノを見るような視線が投げかけられていた。ふと見れば、視線の中には瑞樹のものも混じっている。瑞樹は、七海と宗佑をチラリと見てから、おもむろに席を立ってこちらへ向かって歩き出した。
「あっ、瑞樹ちゃん。よかったら、一緒にご飯食べない?」
席の隣を通りかかった瑞樹を、何気なく頼子が引き留めた。別に七海に声をかけるつもりで近づいていたわけではないだろうが、何となく瑞樹を警戒していた宗佑は少しホッとする。
「申し訳ありません。私、少し所用がありますので」
「えぇ〜!? 瑞樹ちゃんもダメなの?」
何をしているのか、頼子は食パンの上にマヨネーズを絞り出しながら口を尖らせる。
「あっ、そうだ! 瑞樹ちゃん、英語の訳を写させてよ」
「それは、構いませんわ。机の中にノートがありますので適当にご覧になって下さい」
瑞樹が頼子に捕まっているうちに、七海は教室の扉に手をかけてガラガラと引き開けた。そして、廊下へと歩き出す。宗佑も、それに従って教室を後にした。
ふと見ると、廊下の向こうから先ほど校庭で体育教師と揉めていたバイク少女が歩いてくるのが見えた。バイク少女は、ボレロを脱いで肩に引っかけるようにして歩いている。ジャンパースカートの丈は短く詰められており、一見してミニスカート風だ。
バイク少女は七海に気が付くと、にわかに冷たい視線を向けてきた。こういうのを、まるで虫けらを見るような目というのだろうか。だが、その視線に大した怖さは感じない。七海もそう感じているのだろう。別に、脇に避けるでもなく、そのままバイク少女とすれ違う。
宗佑は何となくバイク少女へと視線を向けたまま、背後を振り返った。と、ちょうど教室の扉が開いて瑞樹が姿を現す。バイク少女は瑞樹を見つけると、親しそうに手を上げた。
「やっほ、瑞樹。おはよ」
「おはようではありませんわ、里佳さん。もう、お昼休みですのよ」
瑞樹は軽くため息をついて、バイク少女の――里佳の挨拶に皮肉を切り返す。
「でも、ちょうど良いところにいらっしゃいましたわ。私を、貴女のバイクでちょっと駅前まで乗せていって頂けませんか?」
「えっ、今から!? あたし、学校に来たばっかなんだけど……」
「そう仰らず、お願いしますわ。お昼がまだでしたら奢って差し上げますから」
「まっ、瑞樹の頼みじゃ、しゃーないか」
里佳はスカートのポケットからバイクの鍵を取り出して、チャリンと指で回した。
別に会話の内容が不穏だったわけではない。だが、宗佑は二人のやりとりに何となく不安感を感じていた。何が気になるのだろうか。そんなことを考えていると、宗佑は不意にゾクリとする激しい悪寒を感じて顔を上げた。そして、瑞樹と視線が交差する。
それは、まさに凍てつくような瞳だった。七海の得体の知れなさにも決して引けを取らない怖さを孕んだ瞳。それが、宗佑を真正面から捉えていた。いや、本当は宗佑の後ろを歩いている七海の背中へと向けられたものなのだろう。だが、それは些細な違いだ。
瑞樹は、まるで宗佑の視線を受け止めたかのように、うっすらとした笑みを浮かべた。
†
「ねぇ、結城。ちょっと顔貸してくんない?」
一日の授業が全て終わり、教室は帰り人たちに溢れている。通学カバンに教科書などを詰めながら、帰り支度をしていた七海は、唐突にやって来た里佳に声をかけられた。
七海は帰り支度の手を止めずに、「なに?」と簡潔に用件を尋ねる。
「屋上で瑞樹が待ってる。朝の話の続きがしたいってさ」
里佳は僅かに声を潜めて囁く。瑞樹の名前に反応して、七海の手がピタリと止まった。七海の視線が僅かに宙を彷徨う。里佳はニヤリとして、さらに囁きかけてくる。
「あんた、エンコーしてんだってね。何にも知らないような顔して、やるじゃん」
「……わかった。行く」
七海は帰り支度を途中で放り出して、椅子から立ち上がった。
(七海、やめた方が良い。あの、瑞樹ってやつはなんだかヤバイ。嫌な予感がするんだ)
「でも、学校とかにバラされたら困るから」
(だけど……)
「大丈夫。今までも、酷い言葉を投げつけられるぐらいだったから」
昼休みに見た瑞樹の張り付いたような笑みを思いだし、宗佑の中で嫌な予感が膨れあがる。だが、七海が行くと主張する以上、宗佑には止めようがない。
「何か言った?」
「いつもの独り言。気にしないで」
里佳の後をついて、七海と宗佑は階段を上がっていった。藤ヶ丘高校の校舎は三階建てで、普段は屋上は立入禁止になっているらしい。屋上へと続く扉のある踊り場に、立入禁止の看板が置かれていた。だが、扉自体には鍵はかかっていないようだ。
里佳がドアノブを回すと、扉はあっけなくカチャリと開いた。そして、やや錆び付いたような鈍い音をさせながら、外側へと開いて行く。里佳が先に出て、扉を開けて七海を通す。
扉の先は、広い空に繋がっていた。ふと視線を落とすと、瑞樹が手摺にもたれ掛かるようにしてこちらを見ていた。その顔には、嫌な感じのする薄笑いが張り付いている。
七海の背後で、里佳の手でガチャンと扉が閉められた。
「なんの……用事?」
「私、実は援助交際に興味がありますの。先輩として色々とご指導頂けませんか?」
瑞樹はあくまで穏やかな口調で喋っていたが、その瞳は少しも笑っていない。
「教えたら……黙っていてくれるの?」
「当然ですわ。いわば、七海さんは先生ですもの」
それは完全に脅しだった。おそらく、瑞樹は七海に色々と喋らせて苦しめるつもりなのだ。明らかなイジメ。だが、瑞樹に呼び出された時点で、七海もその程度は覚悟している。
「わかった。何を話せばいい?」
表情のない顔で淡々と答える七海を見つめながら、宗佑はいたたまれない思いを一層強くする。それに、これだけで終わるとは思えない。その予感は、ものの見事に的中した。
「百聞は一見に如かずと申しますわ。一度、私に実地で見せて下さいませ」
瑞樹のその言葉に、七海と宗佑は一瞬唖然として言葉を失った。
「あたしも、興味があるんだよね。清純そうな結城が、どんな顔して商売するのかさ」
踊り場への扉にもたれ掛かったまま、里佳が意地悪そうな口調で話しかけてくる。それは、援助交際の強要だった。七海は視線を彷徨わせてから、ポツリと呟いた。
「……わかった」
(七海っ!?)
「大丈夫、いつも……やってることだから」
(だけど……)
「学校にバラされたら、お母さんにもバレる。お母さんには、迷惑をかけたくない」
七海は宗佑から視線をそらすようにして、声を潜めて会話を交わす。
「なにをブツブツ呟いてんのさ?」
「構いませんわ、里佳さん。七海さんにも色々と葛藤がおありでしょうから」
瑞樹は薄笑いを浮かべたまま、七海の独り言を咎めた里佳を制する。瑞樹は、七海と宗佑の会話が聞こえてでもいるかのように、二人をじっと見つめていた。
「宗佑さんはホテルの部屋の前で待ってて。本当は、相手に憑依して感覚だけでも体験させてあげられたらいいんだけど……宗佑さんには、わたしの汚い部分は見られたくない」
(七海……)
「本当に大丈夫。いつもの……ことだから」
七海は小さく頷いて見せた。宗佑は、どうしようもない自分の無力さに歯噛みする。
「明日、準備してくる。だから、放課後に時間を空けておいて」
「あら、残念ですけど明日は用事がありますの。だから、今日にして頂けませんか」
「えっ!? ……でも、今日は着替えを持ってきてない」
「大丈夫ですわ。仕事着は相手に学校がばれないようにするためのものなのでしょう。同じ学校の生徒が相手なら、そんな心配はそもそも不要ですわ。ねぇ、七海さん」
瑞樹の言葉の意味が飲み込めず、七海は僅かにポカンとする。やがて、意味するところに行き当たったのか七海の顔色がサッと変わった。
「七海さんをお待たせしては悪いので、もう既にお相手には声をかけてありますの。今から、この場所で、私に実地で見せて下さいませ」
「ちょっと、瑞樹。ここでやるわけ!? さすがに、それはヤバイって!」
完全に言葉を失っている七海に変わって、里佳が焦った声を上げる。どうやら、そこまでは聞かされていなかったらしい。瑞樹は、里佳の言葉に薄笑いを浮かべて答える。
「ご心配には及びません。キチンと人選をしてありますわ。もっとも、お嫌でしたら里佳さんは先に帰って頂いても構いませんけれど。どうなさいます?」
「うぐっ……。わかったよ、あたしも付き合う」
「そうですか。さて、七海さんもよろしいですわね。手紙で呼び出しておきましたので、もうそろそろD組の絹田さんのグループがいらっしゃると思いますわ」
瑞樹は腕時計をチェックして、真っ青な顔をしている七海に声をかけた。七海は魂が抜けたようにうつろな目をしていたが、瑞樹の言葉のある一箇所にピクリと反応を示す。
「……グループ!?」
「ご存じありませんか。絹田さんといえば、中学時代からあまりよろしくない噂で評判の方ですわ。いつも仲間と三人で行動されているとか。そうそう、婦女暴行の噂もありますわね」
瑞樹の言葉に、七海は唇を震わせて小さな声で「いや……」と呟いた。唐突に震えが全身に広がって行く。膝が震え、七海は立っていられずに思わずその場にへたり込んだ。
(七海っ!!)
宗佑の言葉も、今の七海にはほとんど聞こえていない。小刻みに震えながら「いや……」と何度も呟きながら、七海は虚ろな視線を宙にさまよわせていた。
と、不意にハッとして、七海はボレロの内ポケットから震える手で財布を取り出した。何度も取り落としそうになりながらも、やっとの思いで四枚の一万円札を抜き出す。
「これ……昨日稼いだお金。少し使っちゃったけど、まだ四万円あるから……。全部あげる。だから……お願い、許して…………」
小刻みに震える一万円札を差し出しながら、七海は瑞樹にすがるような目を向ける。ややあって、瑞樹が手摺から離れて七海へと近づいてきた。そして、七海の前にしゃがみ込む。
受け取ってもらえる。許してもらえる。そう思った七海の表情に、僅かに色が戻る。
「教えを請う身で、お金まで頂くわけには参りませんわ」
瑞樹は、わざと七海の耳元に口を近づけて小さく囁いた。静かな拒絶に、七海の手から一万円札がこぼれ落ちる。それは、瑞樹の足下にヒラヒラと舞って散らばった。
「むしろ、お金は私がお支払いする側ですわ。確か、お一人五万円でしたわね。三人で十五万円、お昼に駅前のATMで下ろしてきたんですの。どうぞ、お受け取り下さい」
瑞樹はポケットから十五万円が入っていると思われる銀行の袋を取り出した。そして、足下に散らばった四万円を拾い上げ、袋の上にそっと重ねて差しだしてきた。決して乱暴に押しつけたりせず、瑞樹は七海が手を出すまで静かに待っている。
「あっ……あの、今日はゴムを持ってない。いつも、着替えと一緒に入れてるから……」
七海は必死になって何とか逃げられる道は無いかと模索していた。そして、ようやく思い至った逃げ道に最後の希望を託す。だが、瑞樹はそれを一言の元に切って捨てた。
「人間、そう簡単に妊娠するものではありませんわ。ご安心下さいませ。それに、万が一に孕んだ場合でも、ご祝儀に堕ろす費用ぐらいはご用立ていたしますわ」
七海の目から涙が一筋こぼれ落ちた。そして、コンクリートの床に小さな染みを作る。既に七海に退路はなかった。震える手で、七海はおずおずとお金の入った袋を受け取る。
瑞樹は、フフッと小さな笑い声を漏らした。そして、ゆっくりと立ち上がる。
(七海、逃げよう! いまなら、まだ逃げられる!!)
「だめ……。逃げたら、バラされる……」
(もう、誰にバレるとか、そういうレベルじゃないだろう!?)
「だめ。わたし……お母さんにこれ以上迷惑をかけられない。わたしが、我慢すればいいの。前は我慢できなかったから……わたしが、お母さんの幸せを壊しちゃった」
(七海……?)
混乱しているためだろう。七海は真っ青な顔でガタガタと震えながら、宗佑の知らないことを口走る。そして、しきりに「わたしが我慢すれば……」と繰り返した。宗佑は、二人を見下ろしている瑞樹をキッと睨み付ける。
――どうすれば、七海を助けることができる?
宗佑はめまぐるしく頭を働かせた。だが、七海自身の心が既に折れてしまっているのでは、手の打ちようがない。と、不意に七海から「宗佑さん」と声をかけられた。
「わたし……大丈夫だから。どんなことをされても我慢できる。だって……もうすぐ終わりだもん。宗佑さんを成仏させてあげれば…………わたしは、救われる」
ハラハラと涙を流しながら無理に微笑む七海を見ていられなくて、宗佑は思わず顔を背けた。何もできない自分へのどす黒い絶望感が、胸の奥でドロドロと吹き溜まってゆく。
と、唐突にガチャリという音が、閑散とした屋上に響き渡る。彼らがやって来たのだ。
「よぉ。C組の委員長さん直々の呼び出しっていうから、お説教でもされるかと思ったぜ」
「絹田さんは、お説教の方がよろしかったですか?」
「まさか。でも、あんたがこんなことの斡旋をしてるなんて知らなかったねぇ」
絹田と呼ばれた大柄な男子生徒の後ろに、さらに二人の男子生徒が立っている。
「事情なんてどうでも良いじゃん。なぁ、坂本」
「そうそう、可愛い女の子を抱けるなら、それだけで充分ッス」
だらしなく胸元のはだけたワイシャツ。脱色のしすぎで金髪というより白髪に近い髪。唇には二本の金属製のピアス。絹田の外見はそれだけで十分に威圧的だ。だが、瑞樹は一切物怖じをすることなく五分に向かい合っている。
「まぁ、そうだな。で、相手はこの女か?」
絹田が視線を滑らせてきた。ねっとりとした嫌な視線が、へたり込んだ七海に絡みつく。
「なんだぁ、えらくガキだな。この女、本当に高校生か?」
「俺、こいつ知ってるぜ。C組の結城七海だ。ほら、電波で有名な……」
「うひょ! 俺、こういうの好みなんッスよ」
冷たい目、興味を持った目、下卑た目、三人の視線は容赦なく七海を追い詰めて行く。
「けっ、ロリコンが。んじゃ、おまえからいけよ」
絹田の言葉を受けて、坂本がニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべて七海に近づいてくる。既に覚悟を決めているのだろう、七海は真っ青な顔でガタガタと震えながらも逃げようとはしない。そして、坂本の手が七海の腕を掴んだ。
腕をグッと引っ張られ、七海は無理に立ち上がらされる。坂本は七海を抱き寄せて、ボレロの隙間から手を差し入れた。そして、ジャンパースカートの上から胸を鷲掴みにする。
「いっ、痛い!」
「うひょ、マジで小せぇ。こりゃ、そそるッスね」
無遠慮に胸を揉みしだかれて、七海の表情が苦痛に歪む。
(やめろ!! 七海に触るな!!)
宗佑は何とか七海を助けたくて、坂本に蹴りを入れたり体当たりを試みていた。だが、まるで石像を相手にしているかのように、坂本はビクともしない。「特殊な能力でも持っていない限り、幽霊が物質に影響を与えることはできない」七海から聞いた言葉が脳裏を過ぎる。
「い……痛……うっ……ふっ…………」
七海は目に涙を浮かべながら、唇を噛んで苦痛に耐えていた。七海の視線が、ふと宗佑と交差する。次の瞬間、七海はサッと顔を背けた。
「お願い……見ないで。宗佑さんには……見られたくない。屋上の入り口……階段の……踊り場で待ってて。あそこなら、たぶん同調の範囲内だから…………」
(だけど、七海……)
「お願い!!」
七海の大声に驚いて、一瞬坂本の動きが止まった。七海の目に浮かんだ涙の粒がみるみるうちに膨れあがり、頬を伝ってこぼれ落ちる。七海はボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「お願いだから……見ないでよ…………。全部終わったら、わたしの方から迎えに行くから。だから、それまでは……何があっても絶対に来ないで。何が聞こえても聴かないで……」
宗佑は無力だった。七海に組み付いた坂本一人さえ引きはがすことができないのだ。自分にできることと言えば、せめて七海の望むとおりに、目を閉じて耳を塞ぐことだけなのか。
(七海……ごめん、オレは無力だ…………)
「宗佑さん……大丈夫、わたしなら大丈夫だから。終わるまで……待っててね」
七海は宗佑に悲しい笑顔を向けてきた。宗佑は歯をギリギリと食いしばりながら、何も言わずに七海に背を向けた。そして、階段の踊り場へ向かって歩き出す。
「その女がブツブツ呟いている宗佑って、誰だ?」
「さぁ、彼氏かなにかじゃないッスかね?」
「彼氏ねぇ。じゃあ、そいつにも見せてやるかね。この女のあられもない姿を」
絹田はニヤリと笑うと、ワイシャツの胸ポケットから銀色をした四角い小さな何かを取り出した。そして、それを七海へと向ける。
「おい、坂本。少し艶っぽく剥いてやれ。このままじゃ、写真写りが悪りぃ」
七海の叫びに驚いて手を止めていた坂本は、絹田の指示で再び七海に組み付いた。そして、乱暴にボレロジャケットを剥ぎ取る。絹田の「写真」という言葉で、手に持っているデジタルカメラに気が付いた七海が再び狼狽えた。
「あっ……だめ。写真……撮らないで。写真は、いや……」
七海はせめてもの抵抗とばかりに、両手で顔を隠そうとする。だが、坂本に腕を掴まれて羽交い締めにされてしまった。
「写真はだめ。写真なんかが残ったら……バレちゃう。学校にも、お母さんにも…………」
必死に首を振って抵抗するが、七海の力では坂本をふりほどくことができない。
「おい、おまえも行け。制服をひん剥くぞ」
絹田のその言葉に、もう一人の男が七海に近づいてくる。そして、ジャンパースカートの左脇にあるファスナーに手をかけた。ジーという音を立てて、ファスナーが下ろされて行く。
「何をしてもいいから……写真は、写真だけは撮らないで!」
七海の懇願も空しく、カメラの乾いたシャッター音が広い屋上に響き渡った。
「いやぁ、助けて……助けて、宗佑さん!!」
4.
むせ返るような血の臭い。獣のような呻き声。気が付けば、目の前には三人の男が血まみれで倒れていた。皆一様に、口元をおびたたしい鮮血に染めて呻いている。あごの骨が砕けているのだろう、湧泉のように血と唾液が溢れ出してコンクリートを真っ赤に染めていた。
血溜まりの中には、白い小さな破片が沢山転がっている。よく見れば、それは人間の歯だ。あっちにもこっちにも散らばっている。もう既にどれが誰のものかわからない。
手を見下ろせば、白く細い指は鮮血で真っ赤に染まっていた。ブラウスも袖の辺りまでポツポツと水玉模様のように返り血が散っている。ジャンパースカートは紺色のため、返り血はあまり目立たない。ふと気が付いて、半分ほど下げられたファスナーを引き上げた。
「なにが、どうしたんだっけ……?」
七海の声で、宗佑はポツリと呟いた。頭に霧がかかったようで、よくわからない。
憑依すれば七海を助けることができると理解していたわけではない。ただ、それは咄嗟のことだった。七海の「助けて、宗佑さん!!」という悲鳴を聞いた後の記憶が飛んでいた。
ふと見れば、足下には銀色の小さな機械が落ちていた。たしか、カメラだっただろうか。宗佑の知っているものとはだいぶ形が違うが、カメラならば壊す必要があるだろう。宗佑は、僅かに力を入れて踏み抜いた。メキッという音を立てて、それはあっけなく潰れる。
「ばっ……化け物っ! あんた、いったい何なのよ!?」
その声に顔を上げると、少し離れた場所から里佳が怯えた表情でこちらを見つめていた。
里佳の姿を視界に捉えた瞬間、宗佑の中でどす黒い何かが弾けた。ボンヤリとしていた意識が唐突に覚醒する。まるで、体中のスイッチが一斉に目覚めたような感じだ。
ダンッ!
宗佑は、おもむろにコンクリートの床を蹴って跳躍する。そして、数メートルの間合いを一気に詰めた。人間離れしたその動きに、里佳の表情が凍り付く。
着地の衝撃を膝のバネで吸収しながら、そのままの勢いで宗佑は蹴りを放つ。プロの格闘家どころではない強烈な蹴りが、里佳の身体を捉える……はずだった。
「里佳さん、危ないですわ!」
だが、その蹴りは視界の外からいきなり飛び出してきた人物に――瑞樹に命中した。
ズンッという重い砂袋を蹴り飛ばしたような感触があり、瑞樹の身体が真横に何メートルも吹っ飛ばされる。瑞樹は、コンクリートの床に一度バウンドしてゴロゴロと転がった。背中を強く打ったのだろう、「かはっ……」というかすれた悲鳴が聞こえた。
里佳は自分を庇って跳ね飛ばされた瑞樹に駆け寄ることもできないほどに怯えていた。
「み……瑞樹…………」
歯の根が噛みあわずにカチカチと音を立てる。大きく見開かれた里佳の瞳には、明らかに恐怖の色が浮いていた。今にも倒れそうなほど、里佳はガクガクと膝を震わせている。
宗佑は、視界の端に転がっている瑞樹を一瞥することもなく、無表情に里佳に近づいた。一歩足を踏み出し、そのままの勢いで里佳の鳩尾にこぶしを叩き込む。
「げえぁっ!!」
こぶしは手首までずっぽりと鳩尾に突き刺さり、里佳は身体をくの字に折り曲げて胃の中身をしたたかに吐き出した。まるでフックに吊るされたように、里佳の両足が僅かに宙に浮いている。宗佑のこぶしに吊り上げられ、里佳は白目を剥いてビクッビクッと痙攣する。
宗佑がこぶしを引くと、里佳はその場に頽れて、もう一度激しく嘔吐した。
最初の嘔吐で胃の内容物はほとんど吐き出してしまったのだろう。里佳は、ピクリとも身動きできない地獄の苦しみに悶絶しながら、お腹を押さえて胃液と血反吐を何度も何度も吐き出した。俯いていて見えないが、その顔は涙と吐瀉物でベトベトだろう。
「お……お止めなさいっ!」
その声に反応して宗佑は視線を巡らせる。見れば、先ほど吹き飛ばされた瑞樹が床の上に倒れたまま、宗佑を――七海を睨み付けていた。ヒューヒューと辛そうな呼吸を繰り返しながらも、その瞳には強い光が宿っている。
その光に引き寄せられるように、宗佑の対象が里佳から瑞樹へと切り替わる。そして、宗佑は少し離れたところで仰向けに倒れている瑞樹の元へと近づいて行った。
コンクリートの床に叩き付けられた衝撃のためだろう、瑞樹はほとんど身動きができない状態だった。宗佑は、右手で瑞樹の左手首を掴む。そして、無造作に引っ張り上げた。七海の身体よりも背が高い瑞樹だが、今は立ち上がるだけの力は残っていないらしい。まるで、壊れかけのマリオネットのように、だらんとぶら下がっている。
――こいつが七海を……。
どす黒い感情が宗佑の中で膨れあがって行く。壊してしまえ。何かが心で囁いた。
宗佑は、手首を掴んだまま乱暴にその腕を捻り上げた。瑞樹自身の体重と、リミッターの外れた七海の力が一点に集中する。僅かな手応えの後、ボキッという嫌な音が響いた。
「ひぎぃ!」
瑞樹が目を剥いて悲鳴を上げる。無理な方向へ曲げられた左肘の骨が折れたのだ。
宗佑が手を離すと、瑞樹は力無くドサッと床に崩れ落ちた。見れば、左腕が人体ではあり得ない方向へとねじ曲がっている。荒い息をつきながら、瑞樹は激しい苦痛に喘いだ。みるみるうちに顔色が青ざめてゆき、脂汗が額に滲んで流れ落ちる。
「うぐっ……ふぅ、ふぅ…………」
瑞樹は右手で、折れた左腕を庇うように押さえながら痛みに耐えていた。
宗佑は、しばらくその様子を見下ろしていたが、おもむろに両手で瑞樹の頭を挟み込むように掴んだ。そして、無理矢理顔を上げさせる。瑞樹は歯を食いしばって痛みに耐えながらも、涙の浮いた瞳で睨み付けてきた。だが、その表情には僅かな怯えも見て取れる。
――殺してしまえ。こんな女、壊してしまえばいい。
真っ黒な破壊衝動が、宗佑の心を突き動かす。瑞樹の頭を左右からガッチリと挟み込んだ腕に、徐々に力がこもり始めた。宗佑が何をしようとしているのかを理解したのだろう。瑞樹の目から急速に光が失われてく。そして、代わりに絶望の色が浮かんだ。
「いや……。殺さ……ないで…………」
ゆっくりと、瑞樹の意志に反して首が回されて行く。首の骨がミシッと嫌な音を立てた。
「あっ……あっ、あぁ、あっ……だめ……やめ…………」
(やめてぇ!!)
唐突に頭の中で響いた声にハッとして、宗佑の動きがピタリと止まる。
「な……七海っ!? 七海、大丈夫なのか!?」
(わたしは大丈夫。だから、もうやめて。瑞樹さんを離してあげて)
七海の言葉で我を取り戻した宗佑は、慌てたように瑞樹から手を離した。拘束する力が消えて、瑞樹はドサッとコンクリートの床に崩れ落ちる。
「あぐっ……ふぅ、ふぐぅ……うっ……うぅぅ…………」
落とされた時の衝撃で折れた腕が痛むのか、それとも命が助かった安堵からなのか、瑞樹はぽたぽたと涙を流した。コンクリートの床にこぼれ落ちた涙が、小さな染みを点々と作る。
それはまさに地獄絵図というにふさわしい光景だった。あごの骨を砕かれて血塗れで呻いている三人の男。悶絶しながらも、いまだに嘔吐を繰り返している里佳。そして、目の前には腕を折られて苦痛に喘いでいる瑞樹。宗佑は、あまりの惨状に思わず絶句した。
「オレは……なんてことを…………」
いや、それだけではない。制止がなければ確実に瑞樹を殺していた。危うく七海を殺人犯にしてしまうところだったのだ。宗佑は、歯止めの効かなくなっていた自分自身に戦慄する。
(幽霊は人間より、遥かに感情が暴走しやすい。暴走していると、わたしの声もなかなか届かないから。でも、それは宗佑さんのせいじゃない)
「いや、オレのせいだ。七海、すまない……」
(ううん。助けてくれて、本当に嬉しかった。ありがとう、宗佑さん)
七海の感謝の言葉を聞きながらも、宗佑の胸中は苦い思いに溢れていた。七海は、援助交際の事実が、学校や母親にバレることを極端に恐れていた。だが、これはもうそれどころの話ではすまないだろう。最悪、傷害事件として警察沙汰になるかも知れない。
「もう、隠しようがなくなっちまったな…………」
(別に構わない。だって、あのまま写真を撮られていたら同じことだったから。でもまさか、ここまでされるなんて思ってなかった。わたしの認識が甘かったの。こんなことなら宗佑さんの言うとおり、最初から来なければ良かった)
宗佑にしても、まさか瑞樹が七海を屋上で輪姦そうとまで思っているとは想像だにしていなかった。ただ、瑞樹の凍り付くような瞳にただならぬ危機感を抱いていたに過ぎない。
(とりあえず逃げましょう。この状況は、わたし一人がやったにしては不自然すぎる。このまま、ここにいたら面倒なことになる。バレるにしても時間が欲しい)
「……わかった。じゃあ、オレはもう七海の身体から出るよ」
(待って。憑依状態であれだけ暴れたから、今憑依を解除されたら疲労と筋肉痛で立つこともできないと思う。だから、もうしばらく身体をお願い)
自分が憑依した結果がこの惨状を招いたことを誰よりも痛感していた宗佑は、一刻も早く七海の身体から出て行きたかった。いや、出て行かなければならないと思っていたのだ。だが、惨状の爪痕は七海の身体にも少なからぬ影響を与えていたらしい。
考えてみれば当たり前だろう。ただの、それも小柄で非力な女子高生が、男三人を含む五人の人間を瞬く間に半殺しにしたのだ。肉体に負担がかかっていないわけがない。
「オレは……また、七海の身体に無茶をさせてしまったんだな…………」
宗佑は俯いたままポツリと呟いた。そして、坂本に脱がされたボレロを拾い上げて、ブラウスの血痕を隠すように羽織る。ふと見れば、里佳はいまだにビクビクと小刻みな痙攣を繰り返していた。瑞樹も、折れた腕を抱きかかえるようにうずくまり嗚咽を漏らしている。
それは、自業自得なのかも知れない。だが、ここまで痛めつける必要はなかったのではないだろうか。押さえきれない罪悪感を胸に、宗佑は屋上を後にした。
5.
(大丈夫、ブラウスの替えはあるから気にしないで切っちゃって)
キッチンの椅子に座り、宗佑は血で汚れたブラウスにハサミを入れて細かく裁断していた。色の濃いジャンパースカートと違い、白いブラウスでは洗濯をしてもベットリと付いた血の染みは完全には消えないだろうと判断して廃棄処分にすることにしたのだ。
宗佑は、既に黒のトレーナーとスカートに着替えていた。ジャンパースカートとボレロはぬるま湯で作った石鹸水で大まかに染み抜きをして、洗濯機に放り込んである。
生ゴミに混ぜて捨てるためにジャキジャキとハサミを進めながら、宗佑は傷だらけの七海の手を見つめていた。憑依状態で痛覚がかなり鈍麻しておりわからなかったが、七海の手はボロボロだった。手に付いた血を洗い流していて、初めて気が付いたのだ。
おそらく、男どもの顔面を殴った時に相手の歯で傷つけたのだろう。相当深くザックリと切れているようで、今でも血が滲んでくる。爪も何枚か割れていた。
(手なら、大丈夫。むしろ、あれだけ暴れて骨折したりしなかったのは幸運なぐらい)
大丈夫と言われて、素直に納得できるほど宗佑は身勝手ではない。後悔の念に駆られながら、俯いて黙々とハサミを進めてゆく。と、不意にピーという電子音が聞こえた。
(洗濯が終わったみたい。乾かすのに時間がかかるから、先に行ってもらえる?)
「あぁ……わかった……」
宗佑は、洗濯機からジャンパースカートとボレロを取り出した。七海の指示に従ってパンパンと叩いて大まかに皺を伸ばす。そして、スカートのプリーツを丁寧に折り直してから、ハンガーに掛けて部屋の中に干した。まだかなり皺が残っているが、七海の説明によれば乾く過程で制服自身の重みでだいぶパリッとするらしい。
(明日までに乾くといいけど、今の季節だとちょっと厳しいかな……)
細切れに裁断したブラウスをゴミ袋に詰めながら、宗佑は七海の呟きを聞いていた。あんなことがあった直後だというのに、七海は不思議なほど落ち着いている。無理をしているのかとも思ったが、どうもそうではないらしい。明るさに、不自然さがないのだ。
手の怪我はともかくとして、暴走した後始末を一通り終えて宗佑は七海の部屋で一息ついていた。壁にもたれ掛かりながら、足を抱えて座っている。宗佑は小さくため息をついた。
(お疲れさま。結構バタバタしたから、大変だったでしょ)
「なぁ、七海。なんで、そんなに落ち着いていられるんだ。バレることとか、怖くないのか」
(そうね、バレるのはちょっと困るかな。でも、もう怖くはない)
その言葉には、バレることを恐れて、瑞樹の無茶な要求に黙って従おうとしていた七海の影はない。開き直ったというわけでもなさそうだ。と、七海がポツリと呟いた。
(わたし、ようやく救いを手に入れたの)
七海のその言葉に、宗佑は僅かに驚いて目を見開く。それは、神様の声が告げたという『救い』のことなのだろうか。と、宗佑の脳裏に再び七海の声が響いた。
(正確に言えば、既に救いが与えられていたのに、わたしは気が付いていなかった)
「どういうことだ?」
しかし七海は、宗佑の質問には答えずに逆に質問を投げかけてくる。
(ねぇ、宗佑さん。宗佑さんは、わたしの身体は汚れているから嫌かな?)
「まさか、そんなことはこれっぽっちも思ってないよ」
脈絡のない質問に戸惑いつつも、宗佑は七海の問いかけに答えを返す。実際、それは宗佑の本当の気持ちだ。援助交際の話を聞いても、七海が汚れているなどと思ったことはない。
(そう、良かった。なら、わたしの身体をもらってくれるよね)
七海は僅かにホッとしたような口調で「良かった」と呟き、続けてビックリするようなことを口にする。「わたしの身体をもらって」とは、抱いて欲しいということだろうか。
(あぁ、そういう意味じゃなくて……。そう、わたしの人生を丸ごと宗佑さんにあげるの)
思い違いを訂正されながらも、宗佑には七海が言っていることがよくわからなかった。宗佑が戸惑って黙り込んでいると、七海は何かに取り憑かれたみたいに蕩々と語り出した。
(宗佑さんは、わたしの身体を自由に動かすことができる。今まで沢山の幽霊に会ったけど、そんなことができるほど憑依の相性が良い幽霊は一人もいなかった。だから、最初は凄い偶然だって思った。でも、それは決して偶然なんかじゃなかったの。
考えてみれば、そうだよね。ちょうど百人目に、わたしの身体を完全に乗っ取ることができる幽霊と出会うなんてできすぎてる。瑞樹さんとのことだって、もしかすると救いになかなか気が付かないわたしに神様が答えを教えようとしてくれたのかもしれない)
「七海……?」
七海の口調はどこか変だった。それは、そう、まるで夢を見るような口調。乙女が恋を語るかのような口調なのだ。七海は宗佑の呼びかけを無視して喋り続ける。
(宗佑さんが憑依して守ってくれた時に気が付いたの。宗佑さんなら、わたしの身体でも身を守りながら幸せな人生を送ることができるかもしれない。ううん、むしろ宗佑さんの方が身体の持ち主としてふさわしい。少なくても、宗佑さんはわたし自身より、わたしの身体を大事にしてくれている。だから、宗佑さんにわたしの身体をもらって欲しいの)
「ちょっと待て、七海!? まさか……」
おぼろげながらも、ようやく七海の言わんとすることを理解して宗佑が焦った声を上げる。
(そう、今から宗佑さんが結城七海になるの)
「どうして、そんなことを……」
(それが、わたしへの救いだから。言ったよね、わたしは生きることにも死ぬことにも絶望しているって。宗佑さんに身体を明け渡してしまえば、わたしは生きる必要も死ぬ必要もなくなる。だから、わたしの人生を丸ごと宗佑さんにあげるの)
宗佑が憑依すれば、七海は身体の制御を完全に失う。それはつまり、憑依をずっと続けていれば、宗佑が七海の人生を丸ごと奪うことも可能だということを意味していた。
「待てよ、オレはそんなことをするつもりはないぞ!」
(いいえ、することになる。だって、わたしはこれから消えるから。わたしが消えて動かなくなった身体を目の前にすれば、優しい宗佑さんがそれを放っておくことはきっとできない。それに、これは運命。神様が与えてくれた救いだから……)
それは、決して質の悪い冗談の類ではなかった。少なくても、七海は本気だ。
事実、七海が生も死も拒否するならば、他人に人生を明け渡すことは一つの解答として成り立ってしまっている。だが、宗佑には、到底そんなものが救いであるとは思えなかった。
「どうして消えることが救いになるんだ!? それじゃ、まるで自殺じゃないか!!」
(いいえ、全然違う。あくまで、結城七海は生きてる。ただ、中身が変わるだけ)
ずっと夢を見るようだった七海の口調が、そこで僅かに変化した。
(それに、自殺して全てが終わるぐらいなら、わたしはとっくに死んでる。それができないから、苦しんできたの。百人の幽霊を救えば、事故か病気で死なせてもらえるのかも知れないと思ったこともある。だけど、本当の救いはこんなにも明確にやって来た)
七海の話は、決して破綻したものではなかった。むしろ、奇妙なほど説得力を持っている。だが、宗佑は、自分が七海の全てを奪うことが救いなのだとはどうしても思いたくなかった。それ故、宗佑は七海の話におかしな所がないか必死になって考える。
その時、宗佑は不意にあることに気が付いた。それは、宗佑の中で七海の存在が大きくなるに従い、いつしか忘れかけていた未練の存在。自分は……まだ未練を思い出していない。
「待てよ。七海が救われるのは百人目の幽霊を――オレを救った後のはずだろう。オレはまだ成仏していないし、救われてもいない!!」
(いいえ。わたしが身体を明け渡した瞬間に、宗佑さんは救われる)
しかし、七海は宗佑の指摘をいとも簡単に否定した。そして、説明を付け加える。
(幽霊は、すべからく一つの強い願いを持っている。それは、生き返りたいという思い。だけど、それは叶わない望み。だから、幽霊は代わりに未練を持つの。でも、宗佑さんの場合は特別。わたしと交代することで生き返ることができる。それは、何よりの救いになる)
「そんな、オレは別に生き返りたいなんて……」
(思ってない? そんなことはないはず。わたしと出会った時、宗佑さんは『まだ、死ねない』と言っていた。一人で彷徨っている時も、ずっと『まだ、死ねない』と呟いていた)
それは、七海の言うとおりだった。宗佑は、何かをやらなければならないという思いに突き動かされて、それまでは死ねないという思いを抱えて彷徨っていたのだ。だが、少なくとも七海を犠牲にしてまで生き返りたいとはこれっぽっちも思っていない。
「オレは、未練さえ思い出して解消できれば…………」
(未練探しに最後まで付き合ってあげられなくてごめんなさい。でも、わたしの身体を使って生活していればやがて記憶は戻ってくるから。だから、やり残したことを思い出したら何をしても構わない。その時は宗佑さんが結城七海自身だから自分の判断で決めていいよ)
既に宗佑が口を挟む余地はなかった。七海は、何処までも本気だ。宗佑は、自分の中で抑えきれない焦燥感だけが空回りしてゆくのを感じていた。
と、不意に七海の口調が変化する。そして、ポツリと(でも……)と呟いた。
(全てを捨てようとしているわたしには、こんなことを言う資格は無いかもしれない。だけど、宗佑さんは良い人だから、最後に一つだけお願い。お母さんのこと、できればでいいからあんまり悲しませないであげてね。わたしは、お母さんの幸せを壊しちゃったから…………)
それは、七海が混乱した時に口走っていたことだ。思わず、宗佑はハッとする。
(本当は、宗佑さんにはあんまり知られたくない。だけど、今からは宗佑さんが結城七海になるから。宗佑さんには、きっと知る権利がある。だから……聞いて)
僅かな沈黙があり、不意に七海が口を開いた。
(わたし、お父さんから性的虐待をうけていたの)
その告白に、宗佑は思わず息をのんだ。最初に感じたのは、驚きと衝撃。そして、少しだけ遅れて理解がついてくる。今朝、父親について尋ねた時に七海が見せた不自然さはこれが原因だったのだ。宗佑が絶句していると、七海はいつも以上に抑揚の薄い口調で続ける。
(幼い頃から幽霊が見えていたから、わたしは奇行が多かった。お母さんは、そんなわたしをもてあまし気味だったんだと思う。だけど、お父さんは優しく構ってくれた。良い人だって思って、わたしもすぐに懐いた。実際、良い人だった……あの日までは。
小学校五年生の時、突然お父さんに襲われたの。ビックリして、怖くて、痛くて。だけど、逃げられなかった。その日からお父さんは、お母さんの目を盗むように、何度も何度もわたしのカラダを求めてきた。辛かったけど、どうして良いか分からなかった。
しばらくそんな生活が続いて、わたしは凄く精神的に不安定な状態になっていた。だから、判断が狂った。我慢すればよかった。誰にも言わなければよかった。だけど、あの時のわたしは我慢することができなかったの。だから、お母さんに全部話した……)
七海は少しだけ息を継ぐように間を空けた。
(そして、家はメチャメチャに壊れた。わたしがお母さんに全てを話した日、お母さんはお父さんと何かを言い争ったみたい。そして、お母さんはそのままわたしを連れて家を出た。逃げるみたいにこの街に引っ越してきて、それっきりお父さんには会ってない。
わたしが我慢することができなかったから、お母さんの幸せは壊れた。温かい家庭を失い、優しい夫を失い、収入も失った。だからお母さんは、こんな小さなアパートで、遅くまでパートを掛け持ちするような生活をしている。全部、わたしが悪いの)
「それは七海のせいじゃ……」
(いいえ、わたしのせい。わたしが我慢すれば全て丸く収まったの。それに、たぶんお母さんもそう思ってる。わたしのことは昔からもてあまし気味だったけど、こっちに引っ越してきてからは、まったく関心を持ってくれなくなったもの。きっと、怒ってる)
あまりのことに、宗佑はどう言葉をかけてよいか全くわからなくなっていた。
(死んでしまいたかった。もう、何もかも嫌だった。だけど、幽霊が見えるわたしには自殺をすることもできない。自殺者がどうなるかを知ってるから。自殺者の幽霊は、死ぬこと自体が未練になって何年も何十年も延々と自殺をし続ける。自殺は終わりなんかじゃない。
あの教会で神様の声を聞いたのは、ちょうどそんな時だった。本当に神様なのかどうかはわからなかったし、妄想かもしれないとも思った。それでも、わたしは救いが欲しかった)
泣いている。七海の心が悲鳴を上げている。一つの身体を共有しているからだろうか、宗佑の心に七海の感情が直接流れ込んでくる。その重圧で、今にも押し潰されてしまいそうだ。
(宗佑さんに出会った時、本当は凄く怖かった。もし、百人目を成仏させても何も起こらなかったらどうしようって。すごく、すごく不安だった)
これは七海の感情だろうか。それとも、話を聞いている宗佑の感情なのか。いつの間にか、七海の身体はハラハラと涙を流していた。それは止めどなく、後から後から溢れ出す。
(だけど……救いは本当にあった)
自分の人生そのものを他人に明け渡してしまうこと。そんなことが本当に救いなのだろうか。だが、七海の絶望の深さを知った今、宗佑にはその疑問を口にすることはできなかった。
と、不意に心が僅かに軽くなる。七海から流れ込んでいた感情が変化したのだ。
(救いの意味に気が付いた時から、タイミングを計っていたの。ちょうど良い頃合いだよね。汚れた制服の処理も終わったし、宗佑さんに話すべきことも一通り話し終えた)
ホッと一息つくように、七海は小さくため息を漏らす。そして、七海はとても穏やかな口調で(わたし、もう消えるね)と呟いた。その言葉が、宗佑の胸に深く突き刺さる。
(もう焦る必要はないんだけど、あんまり長く一緒にいると別れが辛くなるから……)
「な……七海っ!?」
不意に七海の存在が少し遠くなったような気がして、宗佑は焦った声を上げる。
(男の子の身体じゃなくてごめんなさい。でも、生き返ることができるんだから、いいよね。わたしが言ってもあんまり説得力がないけど、女の子もそんなに悪くないと思う)
「待て、七海! 待ってくれ!!」
何を言えばいい。どう言えば七海を引き留めることができる。……ダメだ、仮に引き留めることができたとしても何も解決しない。七海にとっては、この世界は地獄と同じなのだ。そこに留まることを要求することは、七海を余計に苦しめる結果しか生まない。
(思えば、最初に出会った時から、宗佑さんとは他人のような気がしなかった。どこか懐かしくて、一緒にいると不思議に心が安まる。まるで、もう一人の自分自身がそばにいるみたい。きっとそれは、宗佑さんが結城七海になる運命の幽霊だったから)
さらに、七海の存在が遠くなる。魂や幽霊に詳しくない宗佑には、七海が何をやっているのかは全くわからない。ただ、七海の存在が徐々に閉じてゆくのを感じるのだ。
(さようなら、宗佑さん。九十九人の幽霊を救うのに四年以上かかったけど、宗佑さんと一緒にいたときが一番楽しかった。いつか、この身体がお婆ちゃんになっても、わたしのことを覚えていてくれると嬉しいな。最後に一言だけ、ありがとう…………)
「七海!? ……七海っ!!」
ロウソクの火がフッと吹き消されたように、唐突に七海の存在が消えた。まるで、心の一部を無理矢理にもぎ取られたような激しい喪失感が宗佑に襲いかかる。
もう、引き留めることが七海の苦しみになってしまうなどと考えている余裕はなかった。宗佑は、慌てて憑依を解除して七海の身体から飛び出す。まだ間に合う。今、自分が身体から抜け出せば七海は戻って来るしかないはずだ。宗佑は、自分に強く言い聞かせた。
そして、視界が暗転する。ふわっとした独特の浮遊感があり、次の瞬間、宗佑は閑散とした四畳半の中に立っていた。目の前には、壁にもたれ掛かるようにして座り込んだ七海がいる。窓から射し込む茜色の夕日に照らされて、七海の影が長く壁を這っていた。俯いた七海の表情は暗くてよく見えない。と、不意に七海の肩がピクリと動いた。
(七海っ!?)
宗佑の見ている前で、七海の頭がグラリと大きく傾いだ。身体はバランスを崩し、右肩からズルズルと壁を滑って崩れ落ちて行く。そして、畳の上にドサッと倒れ込んだ。ボンヤリとした七海の瞳は焦点を失い、僅かに開かれた口元は何も語らない。
まるで精巧に作られた人形のように、七海からは一欠片の精気すら感じられなかった。
(七海、なな……みぅわぁぁぁぁぁぁっっ!!)
茜色に染まった世界の中で、宗佑は誰にも聞こえるはずのない絶叫をあげた。
第三話 雨障りと追憶
1.
ガチャリという音が聞こえ、宗佑はハッと意識を取り戻す。いったいどれぐらいの時間が経ったのだろうか。窓の外は既に夜のとばりに包まれていた。ジジッと音を立てながら明滅を繰り返す電灯の光が、閑散とした部屋の中をうっすらと照らし出している。
目の前には、人形のような七海の身体が転がっていた。決して死んでいるわけではない。その証拠に、僅かだが呼吸で胸が上下しているのだ。もし、これで瞳を閉じていたならば、眠っているのだと思い込むこともできただろう。
と、不意にキッチンの方から誰かの足音が聞こえてきた。おそらく、七海の母親が帰ってきているのだろう。先ほどのガチャリという音も、母親が玄関を開ける音だったに違いない。宗佑は、思わず部屋の扉へと目を向けた。今、母親が扉を開けたら不味いことになる。
いくら娘に関心が薄い母親だといっても、まるで人形のようにピクリとも動かない姿を見れば騒ぎになるだろう。それは、決して七海の望むところではないはずだ。それに、母親を悲しませないで欲しいと頼まれたということ以上に、宗佑は七海の生活を壊したくなかった。
(オレは……どうすればいい!?)
僅かに躊躇ったが、宗佑は覚悟を決めて七海の胸に手を突っ込んだ。そして、七海の身体へと吸い込まれてゆく。ほんの一瞬の空白があり、宗佑は七海の視界から部屋を見上げた。
七海の言葉を信じるならば、おそらく七海は二度と帰って来ないだろう。だが、宗佑はそれを信じたくはない。だから、必ず帰ってくるはずだと自分に言い聞かせる。それまでは、自分が七海に成り代わって身体と生活を守っていってやらなければならない。
宗佑は、とりあえず体を起こした。ずっと同じ格好で倒れていたからだろう。身体の下敷きになっていた右腕が痺れている。立ち上がり、軽く腕を回してから部屋の扉を開けた。
「お帰りなさい……」
なるべく七海に近い印象になるように、抑揚を抑えて喋ったつもりだった。だが、声をかけられた母親は驚いたような眼でこちらを見つめ返してきた。何か、失敗しただろうか。内心冷や汗をかいた宗佑だったが、よく見ると母親が見つめているのは顔ではなかった。母親の視線は、宗佑の――七海の手の辺りを彷徨っている。
そうか、手の怪我だ。宗佑は一拍遅れて気が付いた。それどころではなかったため忘れかけていたが、七海の手は一目で分かるほどボロボロなのだ。娘の手がこんなことになっていれば、誰でもビックリするだろう。これは、なにか言い繕わないと不味いかもしれない。
宗佑が言い訳に思いを巡らせていると、不意に母親が七海から顔を背けた。
「夕ご飯、今から作るから。お腹空いたでしょ」
そして、手とは全く関係ないことを口にする。これには、むしろ宗佑の方が驚かされた。年頃の娘が手をこんなに傷つけているのに、それには一言も触れないのだ。いくら七海への関心が薄いといっても、これはあんまりだろう。
宗佑は母親の態度に、思わずムカッとした。咄嗟に文句が口をついて出そうになったが、すんでのところで思いとどまる。七海の口から文句を言うのは明らかにおかしいからだ。
だが、心に芽生えた苛立ちは抑えきれない。宗佑は、エプロンを纏って料理を始めた母親の後ろ姿を睨み付ける。と、母親が振り返らずに声をかけてきた。
「夕食前に、お風呂に入ってきなさい」
「えっ……お風呂!?」
それは先ほどと同じで、手の怪我には一切触れない言葉だった。だが、その言葉は宗佑の心に苛立ちとは別の感情を呼び起こす。それは、強い戸惑い。
七海の身体は死体ではないし、ましてや人形でもない。普通に汗をかいたりして汚れることもあれば、新陳代謝もするだろう。つまり、七海として生活する以上、お風呂に入るという行為は避けては通れないことになる。だが、そのためには服を脱がなくてはならない。
母親が突然帰ってきたため咄嗟に七海の身体に憑依した宗佑だったが、七海として生活するということの意味合いまでは思いが至っていなかった。七海の生活を――身体を守るためには、宗佑は七海のプライバシーを徹底的に侵害せざるを得ないのだ。
それは、お風呂だけではない。着替えも、トイレでさえも、もはや七海にはプライバシーは存在しなかった。七海自身が望んだことの結果とはいえ、気恥ずかしさよりも申し訳なさが先立つ。たとえ恋人同士であっても、ここまでさらけ出すことはないだろう。それは文字通り自分自身か、あるいは親子の関係でしかあり得ないことだった。
不意に気づかされた事実に宗佑が戸惑っていると、母親が再び口を開いた。
「いいから、入ってきなさい」
僅かに強い語調。有無をいわせない迫力。母親は、宗佑の沈黙を拒否の意思表示だと受け取ったのだろう。親らしい強引な口調でもう一度、入浴を強く勧めてきた。
自分の娘に関心すら持てないくせに……。そんな思いが、宗佑の脳裏を過ぎる。だが、七海の生活を守るという意味では表だって反抗するわけにはいかないだろう。それに、遅かれ早かれ、七海のプライバシーを侵害することは避けて通れないのだ。
宗佑は「……わかった」と小さく返事をして、廊下を浴室へと向かって歩き出した。
浴室はキッチンから繋がった廊下の突き当たりにある。浴室の手前、廊下の左側には脱衣用のかごが置かれている。僅かに躊躇った後、宗佑は思いきって黒いトレーナーを脱ぎ捨てた。純白のブラジャーに包まれた小振りな七海のバストが露わになる。
ブラジャーの外し方自体は宗佑の知識の中にあった。おそらく、生前に恋人でもいたのだろう。心の中で七海に謝りながら、宗佑は背中のホックをパチンと外した。
できるだけ胸を見下ろさないように注意しながら、今度はスカートのファスナーを下ろす。手を離すと、スカートは自然にふわりと足下へと落ちていった。宗佑は、それを足で引っかけて持ち上げながら靴下と一緒に脱ぎ去る。そして、全部丸めてかごの中へ放り込んだ。
小さく息を吐いて心を落ち着けてから、最後に残った一枚に手をかける。ここまできて躊躇っても今更だろう。両手の親指を引っかけて、一気に足下まで引き下ろす。そのまま、手の平でギュッと握り、かごで丸まっている洋服の奥へと隠すように押し込んだ。
これで、七海の身体は正真正銘の素っ裸になってしまった。七海の裸を見てしまう申し訳なさと、自分が裸を晒している気恥ずかしさがない交ぜになって、宗佑は僅かに混乱する。
――早いところ、風呂に入ってしまおう。
色々な思いを振り切って、宗佑は浴室の扉に手をかけた。そして一気に引き開ける。最後の悪あがきのように、宗佑は努めて視線をまっすぐにして前だけを見るようにしていた。
「――――っ!!」
だから、それは完全な不意打ちになった。驚く宗佑の瞳に、七海の裸体が飛び込んでくる。
輝かんばかりに白くハリのある肌。スラリと伸びた健康的な手足。やや未成熟ながら、それなりに自己主張をする形の良いバスト。まさか、入り口の真っ正面に鏡があるなどとは予想していなかったのだ。しばし、宗佑は呆然として立ち尽くした。
トクンッ、トクンッ――
僅かに宗佑の胸が高鳴る。だが、決していやらしい思いからではなかった。ただ、愛おしいという感情。それは、とても不思議で穏やかな感覚だった。決して、七海の裸に魅力がないわけではない。だが、宗佑の心には一片のやましさも浮かんでは来なかった。
その瞬間、宗佑は、自分が七海の身体に欲情してしまうことを最も恐れていたのだと気が付いた。まるで、それが最大の禁忌であるかのようにずっと目を逸らそうとしていたのだ。
だが、実際に目の当たりにしたことで、宗佑の中にあるモヤモヤとした不安は霧散する。
――よかった。オレは、七海の身体に劣情を抱かないですむ。
ハプニングだったとはいえ、結果的にいえば七海の裸を真っ正面から見たことは良かったのだろう。ホッとして胸をなで下ろしながら、宗佑は浴室の中へと歩を進めた。
一番の懸念が解消されたからだろう。もう、変に躊躇ったり遠慮するつもりはなかった。自分自身の身体のように、いやそれ以上に大切なモノとして七海の身体を守ってゆこう。宗佑は、心の中でそう呟きながら浴槽の蓋を開けて湯加減を確かめるために手を突っ込んだ。
しかし、湯船のお湯は全然沸いていなかった。一瞬訝しんだが、考えてみれば当たり前だ。自分はお湯を沸かしていないし、母親は帰ってきたばかり。誰も沸かしていないなら、当然のように水に違いない。だが、それならば何故、母親は執拗に風呂を勧めたのだろう。
「七海、入るわよ」
と、不意に浴室の扉が軽くノックされて、母親が入ってきた。宗佑はビックリして、思わず叫び声をあげそうになったが、何とか抑え込む。今は、母娘なのだ。裸を見られたぐらいで、いちいち悲鳴を上げていては怪しまれてしまうかもしれない。
「なっ……なに?」
「その手じゃ、身体を洗えないでしょ。洗ってあげるわ」
「えっ!? だけど……」
娘に関心を持たない母親にしては奇妙な気配りだな。そうは思ったが、じっと見つめてくる母親の意外な迫力に負けて、宗佑は強く反対することはできなかった。それに、考えてみれば七海のためにもその方が良いかも知れない。痛み自体は憑依の影響で鈍麻しているが、手の怪我は決して軽くない。無茶をして、万が一にも障害などが後に残ったら大変だ。
少し思案してから、宗佑は素直に母親の申し出を受けることにした。宗佑が無言で頷くと、母親はスポンジにボディーソープを少し取ると、軽く何度か握って泡立たせた。
「じゃあ、まず足から洗うわ。椅子に座って足を上げて」
足から始まり、腰回り、お腹、胸と母親は順に洗ってゆく。洗い方はとても丁寧で、まるで赤子を扱うかのように優しい。徐々に肌が泡に覆われてゆくやわらかな感覚が、とても心地良かった。そんなことを思い