高得点作品掲載所     小雪さん 著作  | トップへ戻る | 


やわらかい穴

 俺は、女のへそがたまらなく好きだ。
 女の体の中で、最もスベスベで柔らかい部分に突如ぽこっと開いた小さくてかわいい穴。横たわった裸の女の、なだらかに続く曲線を寸断する愛しい空間。そっと指を入れると、柔らかい弾力で押し返す。舌を入れてみると、しょっぱくて少し苦い。
 俺はセックスの途中や終わった後、そこにキスしたり舐めたりするのが大好きなのだ。

「ちょっと、くすぐったい!」
 俺が久しぶりのへそを堪能していると、泉が体を捩って後頭部に膝蹴りを入れてきた。
「いってー、何すんだよ」
「もう、圭がしつこくて全然眠れなかった」
 後頭部を押さえてうずくまる俺に目もくれず、泉はプリプリと怒ってベッドから身を起こした。
「圭ったら、ちょっと凄過ぎ。一体どうしたのよ?」
「決まってるじゃないか。久しぶりだから、たまってたんだよ」
「それにしたって、五回は多すぎよ。覚えたての高校生じゃないんだから」
「いいじゃないか。どうせまた、しばらく会えないんだろ」
 俺は寝そべったまま、泉の華奢な肩に手を伸ばした。
 羽織ったばかりのシャツを脱がせようとする手をぴしゃりと払って、泉はこちらの方へ向き直った。そして、両手で俺の頬を包みじっと目をのぞきこんできた。
「もしかして、他の人のこと考えながらしてた?」
「んなわけないだろ!」
 ギクリとしたせいか、必要以上に大きな声が出た。実は最中に、泉のものではないアーモンド形の大きな瞳が何度も頭をよぎっていた。
 泉はフンと鼻を鳴らして俺の頬を軽くたたくと、さっさとベッドを出てバスルームへ行ってしまった。
 一緒にシャワーを浴びようかと思ったけど、きっと拒否されるに決まっている。
 俺は半身を起こして、バスルームの泉に呼びかけた。
「慌てて帰らなくても、明日までここにいればいいじゃないか」
「ダメよ。明日は休日出勤して、月曜の会議で使う資料を作成しなくちゃ」
 会話を寸断するように、水音が響いてきた。
 大きくため息をついて、再びベッドに身を沈める。
 久しぶりに会ったというのに、冷たすぎる。他に男でもできたか?
 寝返りを打つと、彼女がさっきまでいた部分が緩やかに体の形を残してくぼんでいるのが見えた。指先を伸ばすと、しっとりとした温かさに触れた。 なんだか切なくなって、その温もりに顔をうずめて残り香を思いっきり吸い込んだ。片方の手が、無意識に股間に伸びる。ぼんやりと濁る意識の中で、俺って絶倫?と思った。

 シャワーの音を聞いているうちに、少し眠ってしまったらしい。気がつくと、すでに着替えも化粧も済ませた泉が、ベッドの傍らに座ってじっと俺を見下ろしていた。
 さっきまで、俺の腕の中で乱れていたショートカットの髪も、もうすっかりきれいに整えられている。
「何? もう行くの?」
「うん。そろそろ出ようかな」
 そう言って、泉はカーテンを開いた。朝なのに、夕暮れのように暗い窓の外には、細い雨が降っていた。
「まだ、早いじゃん」
 俺は枕元のデジタル時計に目を走らせた。
「コーヒースタンドにでも寄って、忘れないうちに昨日の研修のレポートをまとめたいの」
「そんなの、ここでやればいいよ」
「無理。圭がすぐに邪魔するじゃない。ここじゃ、集中できないわ。結局、夕べは一行も書けなかったし」
 泉は、俺の耳元にそっと唇を寄せて声音を変えて囁いた。
「また、時間作ってすぐに会いに来るから」
 前回も同じようなことを言っていた気がする。俺は上手く飼いならされた愛人みたいな気分になった。
「コーヒー飲む?」
 俺の髪を撫でながら、泉が聞いた。頷くと、すっと立ち上がり、リビング兼寝室とつながったキッチンに向かった。
 床に散らばっていたトランクスとTシャツをのろのろと身に着けながら、泉の後ろ姿を見ていた。タイトスカートの上からでも分る形の良いお尻や、アキレス腱の浮き出た足首の辺りをぼんやりと眺めながら言った。
「泉、結婚して一緒に住まないか?」
 それは、急な思いつきではあったけれど、結構本気だった。
「何言ってるのよ。あなた、学校に勤めだして、まだニヶ月でしょ」
「これからしっかり稼ぐよ。だから、仕事辞めてこっちに戻って来いよ」
「やあよ。今の仕事好きだもの。辞めるつもりはないわ。それに私、結構お金のかかる女なのよ。圭には養い切れないと思うわ」
 泉は一度もこちらを見ないで言った。背中を向けたままカチャカチャと音を立てて、戸棚から出したマグカップをすすいでいた。
 俺は、言葉よりもその態度に深く傷ついた。二人にとってはとても重要な話をしているのに、これではまるで小学生が母親に「新しいゲームを買って」とおねだりして、軽くあしらわれている状態だ。
「俺、結構本気なんだけど」
 泉はコーヒーの入った二つのカップをテーブルに置いた後、やっと俺を見た。
「まだ早いわ。まずは、自分の仕事を一人前にこなせるようになってからじゃないと」
「一人前なんて、すぐさ」
「そうかしら?」
 泉は肩をすくめて、部屋を見回した。
 我ながら酷い部屋だと思う。至る所に本やプリント用紙が散乱し、その隙を埋めるように空のペットボトルやカップ麺の容器がころがっている。
「一人前になるってことと、部屋が汚いってことは別問題だろ。俺、学校ではちゃんとやってるぜ。生徒たちからも慕われてるし」
「私、仕事辞める気ないから、結婚したら仕事も圭の世話も両方やらなきゃいけなくなるのよね。それって、なんだか大変そうだわ」
 泉は言葉を切って、小さくため息をついた。
「それにね、ボロって隠してもすぐに出ちゃうものよ。頼りになる水口先生の本当の姿を知ったら、きっと生徒たちは失望するでしょうね」
 お姉さんぽい口調で言って、コーヒーを一口飲んだ。
 何も言い返せずに、俺も飲んだ。唇が火傷するほど熱かった。
 俺はただ「結婚したい」と言っただけなのに、変な方向に話を逸らされて胸にイガイガしたものが込み上げてきた。
 それからコーヒーをすすっている間、なんとなく気まずい沈黙が流れた。
「駅まで送るよ」
「いいわよ。あなただってこれから補習授業があるんでしょ」
 カップを片付けた後、泉は玄関に置いていた小さなボストンバッグを持った。
「私、確かこの部屋に傘を置いてたわよね。ベージュのやつ」
「ああ……」
 俺は、玄関脇の小さな物入れを開けた。スニーカーの箱や買い置きのティッシュペーパーの隅にベージュの折りたたみ傘があった。
 泉に手渡す時、少しだけ返すのが惜しくなった。
「何?」
「いや、この傘、この前生徒に貸したんだ。勝手に貸して悪かったかなと思って」
「そんなの、別にいいわよ」
 泉は手にした傘を見て、ふと意味深な笑みを浮かべた。
「その生徒って、女の子?」
「まあね……」
「かわいい子?」
「分らんねーよ。女子高生には興味ないし。みんな同じに見える」
「気に入った子がいても、手をだしちゃだめよ。卒業するまで少し我慢しなさいね」
 本気とも冗談ともつかない風に言って、ドアノブに手をかけた。振り返ってキスしてくれるのを待っていたけど、泉はそのまま部屋の外へ出て行ってしまった。俺も後に続いた。
「見送らなくてもいいわよ。その格好じゃ、近所の人に変質者って思われるわ」
「かまわないよ」
 俺は、トランクスのままアパートのエントランスまで降りた。
 建物の外へ出ると、生ぬるい霧雨が頬をなでた。
 アパートの前を丁度通りかかった、犬を連れた雨合羽のおばさんがぎょっとした顔で俺の下半身を見た。
「嫌な季節がしばらく続くわね」
 泉が細い雨の下で傘を開いた。グレー一色の景色の中で、明るいベージュが目にしみた。
次に会う時は、蝉時雨の中だろうか。それとも、イチョウの葉が舞っているだろうか。そう思ったら、急にコーヒーで火傷した下唇と胸がヒリヒリと痛みだした。
「またね」
 軽く手を挙げて、泉は雨の中を静かに歩いていった。
 角を曲がるまで、ベージュの傘は一度も振り返ることはなかった。

 遠距離恋愛中の恋人は、昨日の夜、突然やってきた。
 丁度、仕事から戻ってネクタイをほどき、Tシャツに着替え終わったときにチャイムが鳴った。
「研修でこっちに来ていたの。明日帰るから今晩泊めて」
 ずしりと暗い夜を肩に乗せて、疲れた顔で泉は立っていた。
「え? いつからこっちにいたの?」
「水曜から」
「連絡くれれば良かったのに」
「スケジュールがびっしりで、それどころじゃなかったのよ。ずっと研修所に缶詰だったし」
 『それどころ』という部分にひっかかっていた俺の横をすり抜けて、泉はさっさと部屋に上がると、カーペットの開いているところにへたり込んだ。
「疲れた〜」
 俺も泉の隣に腰を下ろした。
「それにしたって、前もって教えてくれていれば……」
「ごめんね」
 言葉の途中だったのに、柔らかい唇で塞がれて何も言えなくなった。
 久しぶりのキスはうれしかったけど、ごまかされているようで少し胸がきしんだ。
 泉の会社で扱っている香水がふわりと鼻腔をくすぐった。
 半年ぶりの甘い香り。
 俺はその香りに溺れるように、彼女を押し倒した。
 言葉で責められない分、行為に没頭した。
 だけど、そうしてる間も空虚感はずっと後をひいていた。
 この七年間で初めて、肌を合わすことでは埋められない温度差を感じた。

 泉と出会ったのは、十五歳のときだった。
 同じ高校の俺は一年で、泉は三年。二人ともバスケ部員だった。
 その年の夏に付き合い初めて、泉の高校卒業の日に初めてセックスした。お互い初めてではなかったけれど、まだ全然慣れてなくて散々だった。今となっては、思い出すのも恥ずかしい。
 大学は別々だったけど、自転車で行き来できる距離にアパートを借りた。
 俺たちは、愛情を深め合うことも体を愛し合うことも二人で模索しながら、徐々に身に着け成長していった。
 小さな浮気は何度かしたけど、基本的には泉だけを愛していて、そこは絶対にブレなかった。
 泉はものすごく勘のいい女だけど、冷静で常に俺より少し大人だった。俺が何か隠し事をしているのに気付いても、決してヒステリックに怒ったりはしない。軽く嫌味を言うくらいで、袋小路に追い詰めるようなことはしなかった。いつもどこかに逃げ道を残しておいてくれた。
 そのおかげで素直に反省することができたし、密かに操られている感じが快感だったりもした。俺たちは本当に上手くいっていて、泉とならずっと寄り添っていけると思った。

 二人の環境が激変したのは二年前だった。一足先に大学を卒業した泉は神戸に本社のある輸入化粧品を扱う商社に就職した。大阪支社に配属が決まると、泉は何のためらいもなく晴れやかな笑顔を残して大阪に引っ越していった。
 遠距離恋愛も、最初のうちは上手くいっていた。マメに電話しあったり、長い休みのたびに行き来した。
 いつもぴたりと寄り添っていた心が、なんとなくすれ違ってきたような気がしだしたのは、つい最近のことだ。
 俺よりもずっと勘のいい泉のことだ。きっと、彼女はもっと前から俺たちの間の微妙な変化に気付いていただろう。
 基本的なものが、ブレ始めているのかも……と思った。


 月曜日の学校はいつもだるいが、今日は特にひどい。週末にがんばりすぎたのが、今頃出てきたのかもしれない。腰が痛い。
 俺がそっとあくびを噛み殺しているのを、同じ生物担当の小暮先生が目ざとく見ていて眉根に皺を寄せた。
「水口先生、最近気持ちがたるんでいるようですね。もう学生じゃないんだから、しっかりしてもらわないと生徒に示しがつきませんよ」
 四十代半ばのこの男性教師は、俺の指導係でもある。
「す、すいません」
 俺はあわてて背筋をのばし、机の上に散らばった教科書やプリントを片付けようとした。その拍子に、いつの間に紛れ込んでいたのかピンクの封筒が飛び出し、二人の教師の間をひらひらと舞っていった。
 一瞬、気まずい空気が流れた。
 小暮先生は、大きく咳払いすると、音量を一段上げて言った。
「言っておきますが、この学校の生徒に必要なのは楽しい授業ではなくて点数の取れる授業です。そこのところ、勘違いしないように」
 そして、『人気があるからって調子付くなよ』とでも言いたげな鋭い視線を俺に投げつけ、教科書とチョークを抱えて生物準備室を出て行った。
 俺は情けない気分で、小暮先生の少し薄くなりかけた後頭部を見送った。そして、神経質そうな足音が遠ざかるのを確認してから、ピンクの封筒を拾った。
 それは一年の女子生徒からで、封を切って内容を確認してみると、以前、他の生徒からもらったものと同じようなことが書かれていた。正直、名前を見てもどの生徒だったか顔すら浮かんでこない。

 相手の中身なんてよく知らないくせに、ちょっと年上の男っていうだけで憧れちゃう年頃なんだろうなあ……。そう思いながら、ピンクの紙片を手の中で握りつぶし、足元のごみ箱へ放り込んだ。
 窮屈な制服に押し込められて、普段、ひっそりと身を縮めている彼女たちの情熱は、一旦はけ口を見つけると「思い込み」という圧倒的な力を得て、一気に花開く。
 体中から甘い蜜を立ち昇らせ、授業中だろうが、俺が腹痛を起こしてトイレに駆け込む寸前だろうが、容赦なく甘ったるい霧を吹きかけてくる。
 だけど、たいしたことではない。降りかかってくる霧を払って、気付かないフリを決め込んでいればいいのだ。そのうちに熱は治まる。別に本気というわけではないのだから。彼女たちは、退屈な学校生活を少しでも楽に消化していくためのちょっとしたスパイスが欲しいだけなのだ。
 
 ……倉本汐里もきっと、同じだろう。
 ふと、アーモンド形の大きな瞳が脳裏に浮かんできた。
 倉本は、いつも俺を見ている。
 俺はいつもその視線につかまらないように細心の注意を払っているから、気配でそれを感じている。授業中や廊下ですれ違うとき、静かに濁りのない視線をひたすらこちらに向けているのが分る。
 あの目はやばい。じっと見つめ返したら、何か大きな力で引きずり込まれてしまいそうで、怖い。
 俺は、軽く頭を振って自分の頬をたたいた。
 振り払っても振り払っても浮かんでくる彼女の瞳の残像に、ずっと昔に眠らせた後ろ暗い感情が蘇えってくるのを感じていた。

 あれは、俺が小学三年生くらいのときだった。姉と公園で猫を拾った。
 子供の俺の両掌にすっぽり収まるくらいの、まだ生まれて間もない仔猫だった。小さな箱の中で頼りなく鳴いていたその猫を抱き上げると、かすかに震えているのが掌に伝わった。だけど、視線だけはやけに力強く、何かを訴えるようにまっすぐこちらを見返していた。とてつもなく高価な石のように、静かに光る大きな茶色の目だった。
 母親が猫アレルギーだったので、俺たちはその猫をこっそり隠れて飼うことにした。
 猫をピクニック用のバスケットに入れて、物置の虫かごや縄跳びや空気の抜けたサッカーボールなんかが詰めこんであるおもちゃ箱の奥にかくした。
 突然狭くて暗いところへ押し込められた猫は、ヒステリックに細い声を張り上げて鳴いていた。物置の引き戸を閉めるとき、すがるような鳴き声が胸を刺した。
 その夜、家族が寝静まったのを見計らって、ミルクを持ってこっそり猫の様子を見に行った。
 ドキドキしながら物置の戸を開けると、猫はまだか細い声で鳴き続けていた。
 俺は震える手で、がらくたを押しのけ、おもちゃ箱の底からバスケットを掘りおこした。バスケットを開けた途端、大きく潤んだ瞳が、月明かりの下で俺を捕らえた。口や身振りで伝えられない分、瞳だけですべての不安や恐怖を俺にぶつけていた。
 俺は猫の震えを止めようとして、できるだけ優しく丁寧に胸の中に包み込んだ。猫は小さな丸い手を必死に伸ばして、俺にしがみついてきた。とがった爪がパジャマを突き抜け、皮膚を微かに刺した。突然、愛しくてたまらない気持ちと同時に、得体の知れない感情が沸き上がった。かわいがって慈しみたいのにそのやり方が分らなくて、歯痒くて、いっそ、小さな手や耳を握りつぶしてしまいたいような、乱暴な気持ちが俺の内側を引っ掻いた。
 もちろん、俺は猫を傷つけるようなことはしなかった。膝の上で丸まってミルクを飲んでいる猫を撫でながら、たった今、自分の内に生まれたばかりの秘密めいた傷を静かに見つめていた。そして、物置のすすけた壁にもたれながら、残酷な妄想がもたらす身震いするほどの心地よさを、夜が更けるまでうっとりと味わった。
 次の日、学校から帰ると、すでに猫はいなかった。
 俺たちが学校に行っている間に、鳴き声に気付いた母親が猫好きの知り合いにあげてしまったのだ。
 いつまでも泣きじゃくっている俺に、母親が言った。
「飼うんなら、小鳥かハムスターにしなさい」
 俺は、涙を浮かべた目で、母親をきっと睨みつけた。
「小鳥もハムスターもいらない。他の猫もいらない。あの猫じゃなきゃ、駄目なんだ」
 母親はうんざりしたようにため息をついて、そっぽを向いた。
 心にぽっかりと生まれてしまった穴を埋められるのは、あの猫だけだった。
 今ではもう、その猫がどんな毛の色をしていたのかも思い出せない。月明かりの下で震えていた大きな瞳だけが、俺の胸に焼きついていた。

 倉本汐里の瞳を見たとき、ずっと忘れていたあの猫を思い出した。
 なつかしい残像に、胸がきゅっと切なくなったと同時にあの残酷な気持ちも蘇った。
 可愛がりたいけど、苛めたい。慈しみたいけど、傷つけたい……。
 いつも俺を見つめている倉本を、優しく抱きしめてキスしたあとに思いっきり酷い言葉で傷つけたら、あの澄んだ瞳にはどんな影が浮かぶのだろう。そして、震える瞳から流れる涙を、そっと口づけて吸い取ったらどんな味がするのだろう。次々と浮かび上がる密かな思いつきに、背筋がぞくぞくした。

 ――もう少し、我慢しなさいね――
 ふいに、別世界から引き戻すように、泉の冷静な声が頭の中で響いた。俺は我に返った。
 自分が今いるのは、暗い物置ではなく真昼間の生物準備室だ。
 口の中に、重く金属の味が広がっていった。生徒に対するものにしては、あまりにも不適切すぎる自らの妄想に鳥肌が立った。
 やっぱり、俺には泉が必要だと思った。
 

 放課後、職員会議のあとに学年主任に提出する指導案を作成していたら、気付いたときには窓の外が暗くなっていた。職員室の時計の針は八時過ぎを示していた。俺は、慌ててネクタイをゆるめて、体育館へ向かった。
 俺が高校と大学時代にバスケをやっていたことを知って、就任早々教頭が「水口先生には、男子バスケ部の顧問をしてもらいます」と言った。それは、依頼とか確認ではなく明らかに指示だったので、俺は「分りました」としか答えられなかった。これで、放課後や夏休みの多くの時間を取られてしまうなと思ったら、少し暗い気分になった。
 それでもひたむきにボールを追って汗を流す生徒たちを見るのは思いのほか清々しい気分で、放課後になると欠かすことなくジャージに着替えて、せっせと体育館へ顔を出していた。
 
 しかし、さすがに今日は遅くなりすぎた。もう誰も残っていないだろうから戸締りの点検だけして帰ろうと思っていたら、体育館からは明りが漏れボードやリングにボールが当たって弾ける音が響いていた。
 こんな時間まで誰だろうと思いながら覗いてみると、三年の武田が傍らにボールカゴを置いて、一人でもくもくとスリーポイントラインの外側からロングシュートを放っていた。
 その完璧に近いフォームからは並々ならぬ努力の跡が透けて見えた。
 武田の手から離れたボールが、きれいにな弧を描きゴールから数センチそれてリングに当たって跳ね返ったのを見届けてから声を掛けた。
「武田、まだやってたのか?」
 次のボールをつかもうとしていた武田は、驚いたように顔を上げ、俺を見つけると笑顔になった。
「水口先生」
 足元に置いていたタオルを拾って汗を拭きながら、こちらへ近づいてきた。頬や耳の辺りが紅潮している。
「随分熱心だな」
「もうすぐ総体だから」
 軽く息をはずませながら、武田が俺を見上げた。
「俺、チビでハンデあるでしょ。インサイドのプレーじゃ不利だから、何か武器になるものを身に付けたいと思って」
 人懐こく笑うと、鼻の上のそばかすが踊った。
 バスケ部は屋内での練習が多く、他の部のように真っ黒に焼けている者は少ないが、武田はその中でもとりわけ色が白かった。瞳と髪の色素も薄く、そばかすが浮いた顔は外国人の少年のようだった。
 まっすぐに俺を見上げる武田を見ていたら、何か教師っぽいことを言わなくてはならないような気分になった。
「がんばるのはいいが、三年なんだから勉強もあるだろ。ほどほどにしとけよ」
「一年くらい、浪人してもいいと思ってるんです。俺、不器用だから、一つのことでいっぱいいっぱいになっちゃって。とりあえず今は、部活がんばりたいなって」
 まだあどけなさの残る顔立ちと『俺、不器用だから』という健さんみたいな台詞がミスマッチで、思わず吹き出しそうになった。
 武田は足元に転がっていたボールを拾い上げて、人差し指の上でくるくると回し始めた。俺には、こんな器用なことはできない。
「先生も、バスケやってたんですよね?」
「一応、な」
「結構、名の知れた選手だったって、コーチが言ってましたよ」
「背がでかいってだけで、たいしてセンスもなかったよ」
「先生はいいなあ。何でも器用にサクッとこなしそうだ」
 一瞬、嫌味で言ってるのかと思って、武田の顔を見たが、その目はどこまでも純真そうに澄んでいた。
「器用じゃねーよ」
 武田のボールを奪い取って、ボールカゴに向かって投げた。
 ボールは大きく反れて、軽快な音を引き連れながら体育館の中央に転がっていった。
 武田は軽く肩をすくめて
「先生、体がなまってるみたいですね」
 と笑った。
 俺はバツが悪くて、背を向けて手を挙げた。
「先、帰るわ。ちゃんと片付けて戸締りしろよ」
「はい。あ、先生、今度ワンオンワンやりましょうよ」
 校舎のほうへ歩き出した俺の背中に、武田の無邪気な声が追いかけてきた。
 俺は聞こえないフリをした。
 体育館の外は、雨の匂いのするしっとりとした闇に満ちていた。
「俺、不器用だから」
 ふいに、武田の真似をして小さく呟いてみた。気だるく響いたその声は、蒸し暑い闇の中にいつまでも澱のように漂っていた。


 その夜、帰ってすぐに泉に電話した。
 まだ仕事中なのか、それとも研修の疲れが出て早くに眠ってしまったのか、泉は電話に出なかった。
 十回コールした後に、留守電に繋がった。俺は無言のまま電話を切った。留守電にメッセージを残すのは苦手だ。
 テレビをつけたが、騒々しいだけでつまらないのですぐに消した。学術書を開いてみたけど、全く頭に入ってこない。
 仕方がないので、部屋を片付けることにした。
 大量の洗濯物を洗濯機に放り込み、床に散らばったゴミを拾って分別し、本を一つ一つ本棚に立て、書類やプリントをファイルに挟み終わったところで、腰がだるくなってベッドに横になった。
 無意識にまた股間に手が伸びそうになったので、慌てて「どんだけ〜」と声にだして自分に突っ込んでみた。
 一人暮らしの部屋に間抜けな独り言が虚しく響いた。
 生徒たちが今の俺を見たら、どんな顔をするだろうか。
 散らかった部屋に下らない独り言、そして、くたびれた俺。

 泉が近くに住んでいたころは良かった。ちょくちょく部屋に来て掃除してくれたし、布団も干してくれた。体が臭い出すと、風呂に引っ張って行って体も洗ってくれた。
 俺はシャンプーしてくれているときの泉の指使いが大好きだった。そして、真剣に俺の体を洗う彼女の艶やかなうなじを見下ろしているうちに、たいてい勃起した。泉は笑いながら、その元気くんも丁寧に洗ってくれた。お返しに、石鹸の香りが立ち上る体で、丁寧に彼女を抱いた。汗と唾液でべとべとになったら、今度は二人でシャワーを浴びた。滴り落ちる水の中で、何度も何度もキスした。
 あれはまだ二年前のことなのに、もっとずっと遠い昔のことのように思える。泉が離れていった距離分、遠い。
 
 ベッドの枕元に積もった白い埃を見ていたら、耐え切れないほどふがいない気持ちになって、蒸し暑いのに頭から布団をかぶった。
 視界が濃い闇に包まれた。生暖かい穴のような空間でうずくまっているうちに、不思議と気持ちが楽になっていった。
 気がつくと、そのまま眠りに落ちていた。


 久しぶりに顔を見せた太陽が、緑の上に残る雨粒に反射してまぶしい。
 昼休み、中庭に広がる瑞々しい風景に目を細めながら、俺は東棟の三階へ向かっていた。
 泉は相変わらず忙しいようで、電話しても三回に一回ほどしか通じない。通じても、どこか上の空で、会話が長続きしない。
 もやもやした気分は続いていたが、大好きな植物の匂いを吸い込んだら、目が覚めたように少し明るい気分になってきた。雨上がりの澄んだ空気からは、植物たちがしっかり呼吸している気配がした。
 気付くと、手にしたレコードアルバムで風を煽ぎながら鼻歌を歌っていた。
 手に持っているのは、音楽科の杉本先生に貸すためのニーナ・シモン。
 杉本先生は神経質そうな顔にメタリックブラウンのメガネが良く似合ういかにも芸術家風の男で、普段だったら絶対に仲良くならないタイプだ。職員親睦会のときに席が隣同士になり、他愛のない話をしているうちに思いのほか意気投合して親しくなった。学校の職員の中では一番年が近いこともあって、週末にはたまに連れ立って飲みに行くようにもなっていた。彼の、親しくなってからも一定の距離を保って接してくれるようなクールな気遣いが好きだった。
 先日、好きな音楽の話で盛り上がり、俺がニーナ・シモンのアルバムはほとんど持っていると言ったら、「是非貸してくれ」と頼まれていたのだった。
 三階まで二段飛びで駆け上がり、南側端の音楽室まで向かう途中で、視聴覚室の扉が薄く開いているのに気がついた。
 中からヒソヒソと話し声がするので何気なく覗いてみると、カーテンの陰に隠れるように男女二人の生徒が窓辺に並んで立っていた。
 顔を見た途端、胸がざわついた。
 倉本と武田だった。
 二人はずっと俯いたまま、足元ばかりを見て深刻そうに言葉を交わしていた。
 大切な告白の場面にも見えたし、重要な相談事をしているようにも見えた。 
 倉本がためらうように何か言うと、耳まで赤く染めた武田が目を伏せたまま謙虚に頷いた。
 清潔な午後の光の中で、二人の淡い輪郭が滲んでとけていた。
 猫の目をした少女と、色素の薄い少年。
 その童話の挿絵のように温かく叙情的な光景は、胸の奥の一番柔らかな部分を疼かせた。
 風がカーテンを揺らし、一瞬二人の姿を隠した。
 それと同時に、見えない膜に柔らかく押し出されたたように、俺は扉の前を離れた。
 そして、音を立てないように踵を返し、ゆっくり階段を下りた。

 七年前、あの光景は俺のものだった。あの膜の内側に、確かに俺はいた。
 今日のようにきれいに晴れた日の昼下がりだった。
 俺は泉を体育館の裏に呼び出した。泉は二歳年上で、バスケ部のマドンナ的存在で、俺には手が届かない人だと思っていた。それでも、日に日に大きくなっていく想いを支えきれなくなって、気持ちだけは伝えておこうと決心した。
 初夏の風にサラサラと短い髪をなびかす泉を前に、予想よりもずっと大きな緊張で頭を押さえつけられて、最初から最後まで一度も顔を上げられなかった。ただ身を隠すように背中を丸め、自分の足元ばかり見ていた。そのおかげで、「私も水口くんが好きよ」と言ったときの泉の表情を見逃してしまった。後からその時のことを思い出すたびに、ひどく後悔する。
 あの時の俺は、大好きな人の顔をまともに見ることさえできないくらい、臆病で、脆くて、純粋だった。
 泉はいたわるように、最後までうつむいたままの俺の手をそっと握り締めてくれた。
 夏だというのに、泉の指先はひんやりと冷たかった。 

 あの後、倉本は武田の手を握ってあげただろうか……。
 階段を下りる足に不自然な力がこもった。
 一階の踊り場まで来て、手の中にまだレコードが残っていることに気付いた。だけど、再び引き返す気にはなれなかった。
 ため息をついて、自分の手元を見下ろすと、ジャケットの中のニーナ・シモンが、俺に向けて哀れみの視線を投げかけていた。

 それから学校は期末試験に入り、紙の上を走る鉛筆の音だけが響く静かな一週間が過ぎていった。
 まだ、気象庁から梅雨明け宣言は発表されず、じっとりとした中途半端な天気が続いていた。
 試験が終わった翌日は、校内球技大会だった。
 俺は学校に着くなりTシャツとジャージに着替えて、まだ湿り気の残る運動場へ出た。
 なんとか今日一日、天気は持ちそうだ。空には淡いグレーの雲が広がってはいたが、時折、雲の隙間から金色の帯が伸びてくる。
 地面からむんと立ち上る熱気を浴びながら、生徒たちと並んで準備体操をした。体を動かすのは久しぶりで、関節がボキボキと鈍い音をたてた。
 開会式の後、職員バスケチームの選手という役割を与えられていた俺は、他のメンバーと合流するために体育館へ向かった。
 入り口に屈んでバスケットシューズの紐を結んでいると、横から軽く肩をたたかれた。
 顔を上げると、武田が立っていた。
「先生もバスケに出るんですね。先生とやるのすごく楽しみにしてますから、途中で負けたりしないでくださいね」
 無邪気な笑顔を見せながら、武田は他の男子生徒たちと体育館の中に入っていった。
 ふいに、触れられた肩の辺りから、ジワジワと体の中に熱が広がってゆくのを感じた。
 一瞬、手の先がしびれるほどの緊張が走る。
「絶対に、勝つ」
 紐を結び終えた俺は、小さく呟いて立ち上がった。
 
 職員バスケチームは、俺のほかに中年の男性体育教師三名と英語科と世界史の三十代教師の六人構成チームだった。
 ずらりと並んだメンバーを見て、たちまち高揚した気分が萎んでいくのを感じた。こんな腹の出っ張りかけたおやじチームが高校生相手にハンデなしで試合するなんてかえってフェアじゃないと、憤りさえ感じた。
 しかしそのすぐ後、中年スポーツマンをあなどることなかれ、と思い知らされることになる。
 一回戦は不戦勝だったので、体育館の空いていたスペースを借りてウォームアップにドリブルやパスの練習をした。思いがけずメンバーたちがボールの扱いに慣れているので聞いてみると、控えにまわった世界史教師以外は学生時代に部活でバスケットをやっていた者ばかりだった。その上揃ってスポーツ好きで、試験終わりで渋々参加している生徒たちよりもずっと気合いが入っていた。
 特に体育教師たちは、普段厳しく生徒たちを叱り飛ばしている立場上、無様な格好は見せられないという意識が強く、勝利に対する執着心は半端ではなかった。だるそうに走る生徒たちをぎらぎらとしたミドルエイジパワーではじきとばすように、鬼の形相で敵ゴールを攻めていた。
 バスケ部の顧問をしているとはいえ、普段コーチに任せっきりでボールに触るのは久しぶりだった俺は、勘が戻るまで彼らの足をひっぱる存在ですらあった。
 二回戦が始まり、久しぶりにコートに立った俺は、ブランクのせいで回ってきたパスをハンブルしたり、セットオフェンスでも距離感がつかめず、ノーマークのミドルシュートを外してしまったりした。
 相手チームに初得点を許したあと、ドリブルでフロントコートにボールを運びながら、俺はゆっくり息を吐き意識を集中させた。体育館の床を叩く規則正しい音が掌から体中に響き渡り、眠っている細胞を一つ一つ呼び覚ましてゆく気がした。
 雑念を断ち切るように強く足を踏み出し、ペイントエリア手前でパスを出した。カットインして再びボールを受け取ったあと、フェイクでディフェンスを交わし、体をねじったままフックシュート。
『ザシュッ!』
 頭上から響く心地よい音が、体の中心を駆け抜けた。
 それを合図に、堰を切ったように以前の感覚が蘇り体を突き動かそうとしているのを感じた。次に相手のパスをカットして奪ったボールは、磁石のようにドリブルする手に吸い付き、低く、強く、速く、弱く、自在に床をたたいて掌に戻る。同時に、最初は外しまくりだったシュートの精度も上がってきた。
 きれいにレイアップが決まり、リング下を走りぬけながらボールがネットを通過する小気味良い音を聞くたびに、快感で皮膚が泡立った。
 気付けば二回戦は一年生相手に辛勝、三回戦は二年生に圧勝して、ベストエイトに残っていた。

「水口くんのおかげで、今年は優勝できるかもしれないな」
 角刈り頭の体育教師が、隣で仕出しの弁当を食べながらうれしそうに俺の肩をたたいた。日焼けした体から、べたついた体臭が漂ってくる。
「はあ……」
 俺は力なく頷いて、ふくらはぎをさすった。二試合続けてフル出場して、筋肉がパンパンに張っていた。正直、俺の上滑りのエネルギーも底をつきそうだった。
 準決勝の対戦相手待ちをしていた俺たち職員チームは、ミーティングも兼ねて体育教官室で早めの昼食を取っていた。
 あんなに運動した後でよくぞこんなに食えるもんだと感心してしまうくらい、ガツガツと脂っこいおかずをかきこんでいる角刈りを横目に弁当の隅の漬物をつついていると、教官室の引き戸がガラリと開いた。
 申し訳程度にクーラーが利いていた部屋に生ぬるい風と共に入ってきたのは、まだ一度も試合に出ていない世界史の教師だった。彼の手にやかんが握られているのを見て、俺はあわてて箸を置いて立ち上がった。
「準決勝の対戦相手が決まりましたよ」
 急いで空いている机の上に紙コップを並べていると、世界史教師が声を掛けてきた。
「どこです?」
 俺が聞くより先に、向かい側で弁当を食べていた眼鏡の体育教師が、飯粒をほうばったまま首を伸ばしてきた。
「三年五組だそうですよ」
 ふと、麦茶を配っていた俺の手が止まった。
 角刈りが俺を見上げて言った。
「三年五組っていうと、バスケ部の武田がいるな」
「武田は、小柄だけどすばしっこくて足も速いから、マークせんといかんな」
 眼鏡のほうも俺を見た。
 麦茶を配り終えて借りていた席へ戻った俺は、ゆっくりと冷たい麦茶を飲んだ。
 尖った気持ちが、再び俺の中を満たしていく。八割方残っている弁当にポリスチレン製の透明なフタをして、静かに呟いた。
「次も、絶対に勝ちましょう」
 教官室のおやじメンバーたちは、いっせいに顔を上げて期待に満ちた視線を俺に投げかけた。


 三年五組は、武田のほかは岩下という万年補欠のバスケ部員がいるくらいで、武田の動きさえ体育教師二人がかりで封じ込めてしまえば、あとは何てことはないように思えた。
 その思惑通り、第二クウォーターまでは、完全にこちらのペースだった。
 ファウルすれすれのインターセプトやスクリーンアウトで相手チームから奪ったボールは、次々にセンターライン近くまで走りこんだ俺に集まり、そのままドリブルで正面から切り込んでシュート。速攻は面白いほど決まった。レイアップシュート、タップシュート、ジャンプシュート、俺が放つシュートは次々とネットの中に吸い込まれていった。
 コートの周りには、自分たちの試合を終えた生徒や職員たちが集まり、シュートが決まるたびに人だかりからどよめきが起きた。
 第二クウォーターまでを二○対八の十二点差で折り返し、後半戦に入った。
 武田の指示か、第三クウォーターから相手チームは徹底したマッチアップディフェンスの形をとり、俺には二人のマークがついた。一人抜き去っても必ず後からもう一人がぴったりとくらいついてくる。
 なんとか相手ボールをインターセプトして速攻に移ろうにも、先にまわり込んでパスを受けてくれるメンバーがいない。振り返ると、腹の辺りを押さえた体育教師たちが、まだバックコートの中央あたりでうだうだと走っている。
「昼、あんなに食うからだ」と舌打ちして、仕方なく一人ドライブで切り込んで行った。しかし、腰痛のために腰高の甘いドリブルになり、容易に武田にカットされてしまった。
 ワンパターンの攻めの図式が通用しなくなってきたと同時に、たまった疲労でふくらはぎや肩や腰がぎしぎしと痛んできていた。
 後半に入ってから明らかに疲労の度合いを濃くしている職員チームとは反対に、無限のスタミナを持つ生徒チームの調子は、試合が終盤へ進むにつれて上がっていた。
 武田は小柄な体型を生かして、ポイントガードとしての役割を完璧に果していた。
 周りに的確な指示を出しながら、二十センチ近く身長差のある俺のディフェンスを巧妙なハンドリングでカットインして、次々とシュートを決めていく。もう、彼をマークできるような体力が残っている者は、誰もいなかった。
 得点ボードに目をやると、点差は僅か四点まで詰め寄られていた。
 その後、ノーマークの武田にスリーポイントシュートを立て続けに決められ、あっという間に逆転されて第三クウォーターが終了した。
 最終の第四クウォーターに入ると、俺はただ意地だけでがむしゃらにボールを追っていた。相手チームのシュートミスを何とかスクリーンアウトしたが、ディフェンスに取り囲まれて身動きがとれなくなった。見回しても、味方は誰も助けに来ない。その時、俺の右脇下あたりでボールをカットしようと隙を覗っている武田の姿が目に入った。突然、無性に苛立ち、黒い感情が理性に覆いかぶさった。   
 ボールを持った手に力を込め、肘を張って思いっきり上半身を捩った。次の瞬間、肘先にガツンと鈍い衝撃が走った。
 俺を咎める、鋭いホイッスルの音が響き渡った。
「チャージング!」
 はっと我に帰って衝撃があった方を見ると、武田が鼻を押さえて仰向けに倒れていた。
 指の隙間から、赤い液体が流れているのが見えた。
「た、武田!」
 俺は崩れるように、武田の傍らに膝をついた。
 コートは一瞬、水を打ったように静まりかえり、俺が落としたボールの弾む音だけが響いていた。
 顔面蒼白の俺と目が合うと、武田は上半身を起こしてきょとんとした表情を浮かべた。そして、鼻を押さえていた自分の掌が血で染まっているのに気付いて、「うわっ」と小さく声を上げ、辺りを見回した。
「誰か、ティッシュ貸して。ティッシュ」
「おい、大丈夫か!?」
 肩をつかみ、取り乱したような声を出している俺を見て、武田は眉根に皺をよせた。
「そんな、鼻血くらいで大袈裟な……」
 そう呟きながら、観客の女子生徒から渡されたポケットティッシュで鼻を拭き、ささっとコヨリを作って鼻の穴に突っ込んだ。
「先生、今日はやけに熱いっすね」
 血で赤く染まった歯を出して、武田はニカッと笑った。

 その後、念のために養護教諭にも見てもらったが、鼻の粘膜が傷付いて鼻血が出ただけとのことで、武田は鼻にティッシュを詰めたまま再びコートに戻ってきた。
 しかし、その後再開した試合は散々だった。
 すっかり集中力を欠いてしまった俺は、ボールはポロポロ落とすわ、敵に向けてパスは出すわ、シュートは全く決まらなくなるわで、全くいいとこなしだった。
 しまいには控えだった世界史の教師と交代させられ、負け試合の行く末をベンチエリアから見届けることになった。
「先生、途中からスタミナ切れでしたね」
 試合後、疲労と罪悪感でぐったりしている俺に、武田が笑いながら声を掛けてきた。
 すでにティッシュは取り除かれていたが、カパカパに乾いて干からびた赤黒い血の跡が、鼻の穴の周りをくっきりと縁取っていた。
 普通に見ればかなり間抜けだが、今の俺には正視できないほどその笑顔はまぶしく見えた。
「鼻、大丈夫か?」
「え? これくらい、バスケやってりゃ、日常茶飯事じゃないですか」
 武田が不思議そうに俺を見つめた。
「とにかく、悪かった」
 そう言い捨てると、俺はいたたまれなくなって背を向けた。
 こんな純真な若者を相手に、邪な心に支配されて汚いプレーをしてしまったという自己嫌悪で、まともに顔が見れなかった。

 三位決定戦も悲惨なものだった。
 集中力もスタミナもゆるんだパンツのゴム状態になっていた職員チームは、あっけなく大差をつけられて二年生チームに敗退した。
 結局、男子バスケは三年五組が優勝をおさめ、四時前には閉会式が終わった。
 最後には無様な負け方をしたのにも関わらず、職員チームのメンバーたちは「今年の球技大会はなかなか充実していた」と、揃って清々しい表情を浮かべていた。
 その後、体育教師たちに「終わったら、飲みに行こう」と誘われたが、「テストの採点があるので、また今度」とやんわりと断り、久しぶりに五時過ぎに学校を出た。
 なんとなく、まっすぐアパートに戻りたくなくて、そのまま駅に向かいふらふらと電車に乗りこんだ。
 金曜日の夕方の車内は、どことなく甘い香りがして乗客たちの顔も明るく華やいで見えた。
 飲みに行くにはまだ早い時間だったし、特に行きつけの店も無い俺は、迷った末に春までいた大学のある駅で降りた。
 気付くと、学生時代毎日のように通っていた駅前通りの古い喫茶店の扉を開けていた。
 喫茶店といっても六時以降はアルコールも出してくれる上に、昔、ホテルでコック見習いをしていたマスターの作る手料理が評判で、夕方からは居酒屋代わりとして学生たちに重宝されている店だった。
 店内に入ると、中途半端な時間のせいか客の姿はなく、油汚れのこびりついたスピーカーから流れるジャズに体を揺らしながら、マスターが一人で煙草を吹かしていた。
 マスターは俺の姿を見ると、手元の灰皿に煙草を押し付け、笑顔を作った。
「なんだ、圭、久しぶりだな」
 俺は無言で、ぐったりとカウンター席に座った。
「随分疲れてるな。ピラフでも食うか?」
 ここのカレーピラフは、学生時代、俺の大好物だった。だけど今は、空腹のはずなのに全く食欲が沸いてこない。
 俺は頭を振って、「ビール頂戴」とだけ言った。
「酒飲みたいなら、バーにでも行けよ」
 マスターはぶっきらぼうにそう言いながらも、冷えたビールを冷蔵庫から出しグラスに注いでくれた。
 勢いよく次々とキメ細かな泡を作り出すそれを、俺は一気に飲み干した。
 空っぽの胃と疲れた体に、キンと冷えた炭酸がしみた。
「学校で何かあったのか?」
 うつむいて、グラスを磨きながらマスターが聞いてきた。
 俺は大きくため息をついて、カウンターの上で両腕を組んだ。
「生徒に、怪我させた」
 マスターの手が一瞬止まり、顔を上げてこちらを見た。
「何でまた、大怪我か?」
「嫌、バスケの試合中に俺のひじが当たって、鼻血がちょっとね」
 マスターは鼻で笑って、視線を手元に戻した。
「そんなことで落ち込むなんて、お前も小さくまとまってきたな」
「笑い事じゃねーよ。俺、わざとあいつに肘鉄食らわせたんだ……」
「そりゃ毎日、高校生くらいの生意気なガキを相手にしてりゃ、肘鉄くらい食らわせたくなることもあるだろうさ。俺だって、何度お前をビール瓶で殴ってやりたいと思ったか分りゃしないよ」
 武田はちっとも生意気なガキじゃない。マスターの返答はおよそ見当違いでズレていたが、何だか俺の気持ちを楽にしてくれた。
「お前があまりにも深刻な顔して入ってきたんで、俺はまた、女子学生にでも手を出して首になっちまったかと思ったよ」
 マスターは笑っていたが、洒落にならないその冗談に俺は無言で冷たいビールをあおった。
 それから、さらにビールを三本あけた後、マスター取って置きの鹿児島芋焼酎の水割りに切り替えて飲んだ。
 酔いはいとも簡単に疲労を眠気にすりかえ、まどろみの世界へと俺を引きずり込んでいった。

 俺は、夢の中にいた。
 辺りは真っ暗だった。最初、やわらかい穴ぐらにでもいるのかと思ったら、目が慣れてきて、自分は大きな箱の底にうずくまっているのだと分った。ペットボトルや空き缶や雑誌なんかの資源ごみで周りを囲まれている。中には汚れたなわとびもあった。そこは温かくて心地よくて、ずっと留まっていたいような気がするけど、上の方に見える明るい場所も気になる。どうしようか迷いながら、指先でなわとびの紐をいじくっていると、遠くから猫の鳴き声が聞こえてきた。見上げると、箱の上で猫がじっとこちらを覗きこんでいる。光る大きな目はなぜか怒りで燃えていて、俺は怖くなってゴミの影に身を隠した。
 息を潜めてじっと丸まっていると、突然、猫の鳴き声が泉の声に変わった。
「圭、圭!」
 必死で俺を呼んでいる。
「泉!泉!泉〜!! 俺はここにいる。ここから、引っ張り出してくれ!」
 俺も必死で答えているのに、泉はちっとも気付いてくれない。
「圭!圭!」
 まだ俺の名を呼び続けている。
 泉の声が次第にかすれ、ダミ声に変わった。
 俺のせいだ。俺のせいで、泉の澄んだ声があんな汚いしわがれ声に……
 
 ふいに、肩をがしっとつかまれ揺さぶられた。
 驚いて顔を上げると、泉のかわりにマスターのむさい顔が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
 いつからいたのか、マスターの隣では、うっとうしく前髪を伸ばしたバイトの学生が薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。後ろのボックス席からも女の子たちの忍び笑いが聞こえてくる。
「お前、うなされて、泉ちゃんのこと呼んでたぞ」
 マスターが眉をひそめて、俺の前に水の入ったグラスを置いた。
 俺は、口元に残るよだれをシャツの袖口でぬぐい、立ち上がった。
「俺、泉に会いに行ってくる」
「なんだ、まだ寝惚けてんのか? 泉ちゃんは大阪だろ?」
「大阪まで行く!」
 店を飛び出そうとした俺にマスターの声が飛んだ。
「おい、勘定払っていけよ」
「ボーナス払いでツケといて」
「お前、ボーナスもう出たろ!」
 最後の言葉は無視して、駅前通りを走った。
 頭がくらくらした。焼酎がせり上がってきた。足がもつれて、何度もころびそうになった。それでも、夕映えの薄く伸びる通りを駅に向ってひたすら走った。
 酔っているせいか、わけもなく情熱的だった。
 
 その一時間後、俺は新大阪行き新幹線の最終便に乗っていた。
 頭の中では、昔好きだった恋愛ドラマの主題歌がエンドレスで鳴り響いていた。
 郊外へ出るころには、新幹線はただひたすら密度の濃い闇を切り分けるように静かに速やかに進んだ。
 暗い車窓に映し出された自分の顔は、思いつめたようにこわばっていて別人のように見える。
 ――この暗闇の先で、泉は待ってくれている。
 ただそれだけを信じて、青白く浮かぶ自分の顔が闇と共に流されていかないように、じっと前を見据え続けた。

 泉のアパートの前にタクシーで乗りつけたときには、すでに午前〇時を過ぎていた。
 宵っ張りの泉なら、きっとまだ起きているだろうという俺の予想通り、部屋の明りがついていた。
 エレベーターを待つのももどかしくホール隅の階段を四階まで駆け上がり、泉の部屋の前に立った。
 体力はもうすでに限界のはずなのに、過剰に分泌されたアドレナリンが俺の体を突き動かしていた。
 がくがくする膝を押さえながら、チャイムを押した。部屋の中に人がいる気配はするのに、なかなか返事がなくて何度も鳴らし続けた。
 しばらくして、ゆっくりと開いた扉の向こうには、明らかに当惑した表情の泉が立っていた。
「どうしたの? 突然、こんな時間に……」
 泉はなぜか、チェーンを外してくれなかった。
「どうしても会いたかったから、新幹線に飛び乗って来た」
「……いきなり来られても、困るわ」
 ため息をついて、俺から視線を逸らした。
 さすがにピンときて泉の頭越しに中を覗き込むと、わずかに見える玄関の隅に男物の黒い革靴がきちんと揃えられていた。
「誰かいるの?」
 俺の問いかけに、泉は困ったように後ろを振り返った。
 俺はかっとなって声を荒げた。
「そいつは、新幹線に乗って会いに来た俺より大事なやつなのか? 七年間付き合ってきた恋人より大切なのか? 泉、答えてくれよ!」
「ちょ、ちょっと、圭、酔ってるの? そんなとこで怒鳴ったら近所迷惑でしょ!」
 泉は慌ててチェーンを外した。俺はすかさず、扉の隙間から体を滑り込ませて中に入った。
 その時、部屋の奥からのっそりとスーツ姿の男が姿を現した。
 それを見て、胸をつかまれたように息苦しくなったけど、不思議と腹は立たなかった。
 ただ、「小暮先生に似てる」と、冷静に観察している自分に驚いた。

 
「職場の上司の高岡さん」
 泉にそう紹介された男は、「高岡です」と言って、軽く頭を下げた。その後、何か言いたそうにしていたが言葉が見つからないようで、不安定に視線を泳がせていた。
 八畳ほどのリビングの中で、三人は楕円のローテーブルを囲むようにして言葉もなく立ち尽くしていた。三人とも不自然に体をこわばらせ、まるで三すくみ状態だった。
 いくぶん落ち着きを取り戻した俺は、横目で男の方を盗み見た。三十代後半くらいの、物静かで真面目そうな印象の男だった。おだやかそうな顔には、笑ってもいないのに目尻に皺がきざまれている。よく見れば、小暮先生とは全然似ていなかった。こちらのほうがずっと若くて痩せているし、何より髪の毛がふさふさだった。
 男のしているヨット柄の緑のネクタイに目が留まったとき、「ああ、この微妙に悪趣味な感じが似ているんだ」と気付いた。

「今日は彼と二人で話したいの」
 泉の言葉に、男ははっと顔を上げた。
「しかし……」
 何か反論したそうだったが、泉の思いつめた顔を見て、あきらめたようにため息をついた。そして、俺に軽く会釈をしたあと静かに部屋を出て行った。
 
 二人きりになった部屋には、張りつめた糸を震わすように壁時計の音がやけに大きく響いていた。
「何か飲む?」
 口の中はからからに渇いていたが、俺は頭をふった。
 テーブルを挟んで、向き合うようにして腰を下ろした。
 長く重い沈黙の後、泉がためらいがちに口を開いた。
「ごめんなさい。ちゃんと話そうって思ってたんだけど……」
「いつから?」
 俺の声は情けないくらいにかすれて、上ずっていた。
「入社当時からずっとお世話になっていた人なの。二人で会うようになったのは、つい最近だけど……」
「俺より、あいつを選ぶの?」
 泉の瞳に悲しげな影が浮かんだ。しばらく間を置いて、一つ一つ言葉を噛み締めるようにゆっくりと答えた。
「私、猫みたいになりたかったの」
「……猫?」
「この部屋の中では、猫みたいに、ただ、無条件に誰かに甘やかされたかった」
「俺だって、泉を甘やかすことくらいできる」
 泉は小さく首を振った。
「圭とは気が合うし、一緒にいてすごく楽しい。人生で一番キラキラした時間を、圭と過ごせて本当に幸せだったと思ってる」
 過去形の言葉が、棘のようにチクチクと胸を刺した。
「だけど、これから先、私が傍にいてほしいと思うのは、圭じゃないの」
 透明に響く迷いのない声が、とどめの一突きのように胸を貫いた。
「今の私に必要なのは、ただ静かに髪を撫でてくれる大きな手とか、優しく囁いてくれる穏やかな声とか、そんなものなの」
 泉は一旦言葉を切って、じっと俺を見つめた。何かを決心したときの顔つきだった。
 そして、静かに言葉をつないだ。
「あの人がそばにいてくれると、陽だまりの中にいるような気分になれるの」
 短い沈黙のあと、俺はため息をついた。
「あいつが、泉を猫にさせてくれるってことか……」
 泉は俺の目を見たまま、こくりと頷いた。
「泉に捨てられて、俺は野良犬のような気分だ」
 あまりの息苦しさに、俺はテーブルに両肘をついて頭をかかえこんだ。
 いつの間にか隣に座っていた泉の手が伸びてきて、優しく俺の肩を抱いた。
 泉の腕は、かすかに震えている。そう思ったけど、震えていたのは俺のほうだった。
「私、本当にあなたが大好きだったのよ」
 俺の肩を抱いたまま、泉は何度も何度も優しく俺の髪を撫でた。その手は柔らかくて温かくて、心まで溶かすように繊細に動いた。きっと、あの男も泉をこんな風に慈しむのだろう。
「ねえ、俺のどこが好きだった?」
 俺の突然の問いかけに、泉は耳元でクスクスと笑った。風で木の葉が揺れるときのような、淡い笑い声だった。
 泉はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと語りはじめた。遠い昔をなつかしむような、おだやかな声で。
「植物好きなところ。公園で木や草花を見るあなたの目が好きだった。私に色んな花の名前を教えてくれたわ」
「俺、植物オタクだからな……」
「それから、見栄っ張りで格好つけのところ。人前では、涼しい顔で何でもできるフリしてるけど、本当は人一倍陰で努力しているのよね。高校のとき、あなたが体育館に残ってずっと一人で練習してたの、私、知ってたのよ」
「え?」
「あのことを知らなかったら、私、告白されてもオッケーしなかったわ」
「見られてたなんて、全然気付かなかった……」
「それとね……」
「もう、いいよ」
 俺の声を無視して、泉は続けた。
「声が好き。その甘い声でお願いされると、なんでも言うこときいてしまうのよね」
「じゃあ、俺と別れないで」
 泉は、髪を撫でる手を止めて、姿勢を正して向き直った。小さな子供の熱を計るように、こつんとおでこを合わて、小さく呟いた。
「本当は圭も、とっくに自分の新しい居場所、見つけているくせに」
 全く、どこまでも賢い女だった。

「そろそろ帰る」と立ち上がったときは、もう午前二時をまわっていた。
 泉は「今日は泊まってもいい」と言ってくれたけど、かすかに他の男の匂いがするこの部屋に、もう長居はしたくなかった。
 玄関で靴を履いて立ち上がったとき、泉がさよならのキスをしてくれた。
 前歯が当たってカツンと音を立てた。初めてのときを思い出す、ぎこちないキスだった。
 忘れられないキスが、また一つ増えた。
 俺は瞬きもしないで、泉をじっと見た。泉もまっすぐ見返した。
 そして、少し照れたように笑いながら「さようなら」と言い合った。
 ドアノブに手をかけ外に出ようとした俺の背中に、泉の声が響いた。
「美しい青春をありがとね」
「くっせー」
 最後の声が震えないように、精一杯腹に力を込めた。一言を発するのが、こんなにしんどかったことはない。
 部屋の外では、明るい月夜が俺を迎えてくれた。
 清々しく光る白い光の帯が、今にも崩れ落ちそうな俺をひっぱってくれた。
「早く帰って、テストの採点しなきゃ」
 口をついて出たその独り言があまりに現実的で、満月を見上げながら思わず安堵の笑みがこぼれた。
 

 未来が真っ黒に塗りつぶされたと思うほどつらいことがあっても、体中が筋肉痛できしんでも、月曜日はやってくる。
 生徒たちに「先生、目の下が真っ黒ですよ」とからかわれながら、なんとか午前中の授業を終えた。
 昼休み、風にでも当たろうと思って購買部でぶどうパンと牛乳を買って屋上へ出た。

 外は、快晴だった。
 空はしみるほど青く、雲はその輪郭を際立たせ、風は切ないほど甘い。
 失恋したばかりの物憂い瞳で見るには、七月の景色はあまりにも全てがくっきりと輝いていた。 
 フェンスにもたれて、白衣のポケットからぶどうパンを取り出した。一口かじってみたら、喉と胸につかえて苦しくなった。
 パンを再びポケットにしまって、フェンスを背にしたままズズッとその場にしゃがみこんだ。
 ぼんやりと気持ち良い風に吹かれていると、泉と別れたという実感が穏やかな凪のように、ゆっくりと、しかし確実に俺の心を浸していった。
 女に振られたのは初めてだった。これからどんな風にこの実感が俺を苦しめていくのか予想もできない。
 これから来るであろう葛藤に備えて、携帯から全ての泉の痕跡を消しておかなければ。写真はどうすればいいのだろう。手紙は、衣類は、シャンプーは……。
 思い出をきれいさっぱり処分するには、七年はあまりにも長すぎてくらくらした。
 ため息をついてうなだれていると、突然、目の前に影ができた。
 顔を上げると、倉本汐里が立っていた。
「倉本……」
「はい?」
「パンツ、見えるぞ」
 倉本は慌ててスカートの裾を押さえてしゃがみこんだ。
「先生もここでお昼食べるんですか?」
「嫌、もう食べ終わった」
「私は今から」
 ハート模様の弁当包みを目の高さまで持ち上げて、にっこりした。
 どうせ、ママに作ってもらったのだろう。
「倉本……」
「はい?」
「へ……」
「へ?」
 いくら魂が抜かれた状態とはいえ、生徒に『へそ見せて』と言いそうになった自分に慌てた。
「い、いや、武田に謝っといて」
「え? 何を?」
「……んーと、鼻血出させたこと、かな?」
「かなって、変なの」
 倉本はクスクスと笑った。
「武田くんは大丈夫ですよ。それよりも、球技大会で先生が武田くんを抱き起こした時の写メが、ものすごい勢いで出回ってますよ。見ます?」
「嫌、見ない」
 俺の邪な気持ちまでも写っていそうでぞっとした。
 慌てて立ち上がると、倉本が残念そうな声を上げた。
「えっ、もう行っちゃうんですか?」
 ふと、白衣についたほこりを落としていた手を止めて、不服そうに俺を見上げる倉本の目をじっと見つめ返した。視線の先に、彼女の瞳をしっかりと捕らえた。
 不適切な妄想は、浮かんでこなかった。
 俺はもう、物置でうずくまる子供でも、体育館裏でうつむくだけの少年でもなかった。
「な、なんですか? 私の顔に何かついてます?」
 いつも俺を見ているくせに、見つめ返されると困るらしい。倉本の声は明らかにうろたえていた。
「猫だったら飼えるのに」
「はあ?」
 きょとんとした顔の倉本を屋上に残し、俺の足はまっすぐに生物準備室へ向かっていた。

 部屋に入ると、小暮先生が弁当を食べ終わり、赤いチェックの弁当包みを結んでいるところだった。
 愛妻弁当か……。と思ったら、なぜか胸がきしんだ。
 彼の机の隅に置かれていた小型ラジオからは、夏っぽい軽快な音楽が流れていた。小暮先生は、一人でのんびりしてるのを邪魔しやがってとばかりに、露骨に不機嫌そうな顔になった。
 俺は無言のまま、ごちゃごちゃと山積みにされた本で要塞のようになっていた机の上を片付け始めた。壁をくずすように、一つ一つブックエンドに本を立てかけ、必要の無いものはキャビネットに返した。プリントを整理し、あちこちから出てきたボールペンをペン立てにさし、ついでに鉛筆も削った。
 そんな俺を見て、小暮先生が嫌味ったらしく呟いた。
「嵐でも来るんじゃないかね」

 ふいに、女性DJの素っ頓狂に明るい声が響いた。
『本日、関東地方に梅雨明け宣言が出されました〜。しばらくは爽やかな夏空が続きそうです!』
「……嵐、来ないみたいですよ」
 俺が言うと、小暮先生はかすかに苦笑いを浮かべた。
 すっきりと片付いた自分の席からは、小暮先生のクマさん柄のネクタイが丸見えで、なんだか笑いが込み上げてくる。
 あわてて目を逸らして見上げた窓の先には、生まれたての夏が、どこまでも無限に白く輝いているのが見えた。
                                   おわり


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