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「大人になったらおまえにも分かるさ」
十五年前、捨てられていた俺を拾ってくれた婆ちゃんがよく言っていた言葉。 婆ちゃんは良く舶来物の酒を飲んでいた。 宝石のようにカットされたグラスや氷、それらを色づけする琥珀色の液体。 当時の俺にとってこの世で一番きれいなものを手の中に収める婆ちゃんが羨ましくて、いつも飲ませて欲しいとせがんではゲンコツをもらっていた。 なんで飲ませてくれないのかと聞くと、松の木の樹皮のようにかさかさになった手の平でゲンコツをした部分を撫でながら「おまえにはこいつの美味さが分からないからだよ」と諭された。 婆ちゃんは俺にとって憧れの人だった。自分を拾って育ててくれた恩もあるが、それ以上に酒を飲む婆ちゃんの姿は、幼かった俺の目から見ても格好良かった。 そんな婆ちゃんに生きるための術を習ったのは、俺にとって死ぬまでの誇りとなっている。 「親を捜しな」 婆ちゃんが死ぬ間際に言った言葉だった。 自分にとって家族は婆ちゃんだけだと、すっかり軽くなってしまった婆ちゃんの体に必死でしがみつきながら泣き喚いたが、婆ちゃんは何も答えないまま泣きつづける俺の頭をずっと撫で続けていた。 一言何かを言って欲しかった。俺は婆ちゃんの家族だということを認めて欲しかった。 婆ちゃんは何も言わずに俺の頭を撫で続けていた。 せめて婆ちゃんに最後の一杯をと、琥珀色に輝く液体を婆ちゃんに差し出す。 「今はもう必要ないよ」 婆ちゃんはそう一言告げると、俺の体を震えながら抱きしめてそのまま逝った。 ガキだった俺は手の中にあったこの世で一番きれいなものを地面に捨て、婆ちゃんを抱きしめながら泣き続けた。 婆ちゃんが逝ってから十年後、捜していた親が見つかる。 俺を捨てた理由は簡単だった――金がなかったからだ。 涙を流しながら謝る両親を見て、許すことも怒りをぶつけることもできなかった。 これからでも一緒に住まないかと言われたが断った。目の前にいる二人が両親だということは分かるが、家族とは思えなかった。 両親はせめて姓だけは元に戻してくれないかと言う。 婆ちゃんに拾われて以来、俺は婆ちゃんの姓を名乗っていた。両親にとってそれがとても哀しかったそうだ。姓くらいならと思ったが、少し考えさせてもらうことにした。 両親と会った帰りにそのまま婆ちゃんの墓に向かった。大人になって稼いだ金で作った婆ちゃんの墓だ。 家族は婆ちゃんだけだと泣き喚いたときに、結局婆ちゃんに返事をもらえなかったのが寂しかったが、せめて恩返しに墓だけは作ってやりたかった。 小高い丘にある墓地に婆ちゃんの墓は作った。理由はそこから見える夕陽がいつか見た婆ちゃんの手の中で輝いていた宝石に似ていたからだ。 婆ちゃんの墓が見えてくる。墓の周りに生い茂る草達は風に優しく撫でつけられ、夕日に紅く染め上げられている。 左手には丸い氷の入ったグラス、そして右手には婆ちゃんが良く飲んでいた銘柄の琥珀色の液体が入った瓶を持って歩いていく。 婆ちゃんの墓の目の前に立つと、墓石に瓶を傾ける。まるで瓶から溶け出していくように零れ落ちる液体は、それだけで夕陽の輝きに負けない光を帯びている。その懐かしい光が妙に目に染みた。 夕陽の光で透けて見える瓶の中身が半分になるのを確認すると、残りを自分のグラスに注いでいく。 酒を飲むのはこれが初めてだった。親に再会してから味わおうと婆ちゃんが逝ってから決めていたことだった。 俺にとってはそれが大人になることなのだと思っていた。婆ちゃんが親を探せと言ったのもそういった理由なのかもしれない。 「久しぶりだな婆ちゃん」 乾杯するのが墓石というのも寂しいので、夕陽にぶつけるようにグラスを掲げるとそれを乾杯とした。 ぶつかる音は鳴らなかったが、グラスの中の氷が気を利かせたのかカランと音を響かせてくれた。 「やっと酒が飲めるようになったよ婆ちゃん」 何も答えない墓石に向かって話しかける。 両親のことを婆ちゃんには報告したくなかった、自分にとって家族とは婆ちゃんだけだからだ。婆ちゃんが俺のことをどう思っていたかは分からない。 グラスを口に付けると、琥珀色の液体をそっと口内に流し込む。最初に感じたのは鼻を抜ける独特の香り、そして舌の上を滑るように通過していく苦さだった。 口内に広がる液体を飲み込むと、アルコールの熱さが喉の表面を撫でるように通り過ぎていく。 グラスをもう一度夕陽に掲げる。そこには婆ちゃんの手の中にあった宝石が綺麗に輝いている。 今も口内や鼻腔に残る琥珀色の液体の味や香り、そして腹の中に残る熱は不思議と寂しさを紛らわせてくれた。 確かにこれは大人にならないと分からない味だった。俺や婆ちゃんの酒の飲み方は少なくとも年をとらないとできないようだ。 「とうとう独りになったか……」 婆ちゃんには認めてもらえず、親を認めなかった俺には本当に家族と呼べるようなものがいなかった。 もう一口だけ琥珀色の液体飲むと、グラスを夕日に掲げてじっと眺めていた。琥珀色の向こう側に婆ちゃんがいるように思えたからだ。琥珀色の液体にはそういったものを見せる力があるのかもしれない。 今、俺は昔の婆ちゃんと同じように飲んでいる。婆ちゃんも俺と同じようなことを想って飲んでいたのだろうか。 そう、家族がいない孤独や寂しさを紛らわすために。 ――今はもう必要ないよ。 ふと、婆ちゃんの最後の言葉を思い出す。今ならその言葉の本当の意味が分かる気がした。 その瞬間、十年前にとうに枯れたはずの涙が溢れ出してきた。 グラスを地面に落とすと、あの時抱きしめてくれた婆ちゃんの腕を捜すように自分の体を抱きしめた。 婆ちゃんの前で涙を流すのが恥ずかしくて歯を食いしばって耐えようとするが、口の中に血の味が広がるだけで、涙がとめどなくあふれて来た。 落とした瓶を拾い、もう一口だけ琥珀色の液体を口に含んだ。 琥珀色の液体は涙や血の味も、そして悲しみも寂しさも優しく熱く包みこんでくれていた。 ――その後、もちろん姓は婆ちゃんのもののままだ。 おわり |