高得点作品掲載所     めろんさん 著作  | トップへ戻る | 


テディベア・ガール

 
 プロローグ

 来紗(きさ)はくまが嫌いだと言った。
 そう……よりによって「くま」だった。クモが嫌いだって言うんならともかく、来紗が嫌いなのはくまなんだ。
 その理由がまたちょっと変わっている。
 くまと言えば真っ先に思い浮かぶのがテディベアだ。つぶらな瞳に、ふわふわデ丸っこい体。本物のくまとはかけ離れた姿の人形。おもちゃ屋に飾ってある大きなぬいぐるみから、女子がカバンにつけている小さなマスコットまで、いたるところでよく見かける。
 だからだろう、その可愛らしいぬいぐるみの印象が強すぎて、くま本来の姿をイメージすることができないのは。
 他のライオンだとか、オオカミだとかに比べれば、くまというのはどうもその凶暴性が希薄になっているような気がする。
 確かにくまにヒトが襲われたなんていう話をたまにニュースで見かけることはあるけれど、実際に都会に住んでいるヤツは、くまを恐怖の対象物としてみることはないだろう。
 まぁ、それはオレが実物のくまを動物園のオリごしでしか見たことがないせいかもしれない。
 それはともかく。来紗はそんなくまを何で嫌っているのか?
 それは次のような理由による。
「謎がある上に、落し物を届けにくるから」
 もちろん、ふつうのくまの話ではない。
 これは「森のくまさん」という童謡に出てくるくまさんのことだ。
 森のくまさん――『ある日森の中〜』で始まるあの有名な童謡。歌詞の内容は「女の子がくまに追いかけられて、でも実はそのくまは女の子の落し物を届けようとしているだけだった」というもの。
 で、来紗は「森のくまさん」のくまさんが嫌いだから、くま嫌いになった、と。どうやらそういうことらしい。変な理由だ。
 そもそも来紗は変な子だった。
 ずれているというか、周りとの方向性が180度くらいちがうって感じだ。来紗が興味を持っていたのは流行の歌やバンドなどではなく、「森のくまさん」の童謡だったんだから。
 来紗はくまさんについて考えていた。それも恐ろしく真剣に考えていたんだ。森のくまさんの謎ってやつについて。

 そう、この誰もが知っている「森のくまさん」には少し謎があるんだ――



 第1章

 6時を少し過ぎた時だった。ようやく校舎の中から神崎来紗の姿が現れた。
 辺りにあまり人影はない。神崎のずっと前を2人の女子生徒がやたらと大きな声で話しながら歩いているだけだ。
 神崎は1人で正門へと向かっていた。夏服のスカートにブラウス。通学カバンを肩にかけている。遠いので表情まではわからないが、どうせいつもの仏頂面――この世の全てがつまらないと言わんばかりの顔をしているんだろう。
 運動部が引き上げたグランドは静かだった。冷たい風が誰もいない校庭の土をさらっている。この間までは殺人的に暑かったのに、連休の大雨を皮切りに大分涼しくなった。
 6時とはいえもう暗くて、街頭の光がぼんやりと周囲を照らしている。
 暗闇の中でも神崎の姿ははっきりと見分けられる。見慣れているからなんだろう。
 神崎はふつうよりもちょっと歩くのが遅かった。それでも早く行かなければ追いつけなくなってしまう。オレは部活が終わった後も、校舎から部室練に続く道の途中で神崎のことを待っていたのだった。
 覚悟を決め、手持ちぶさたに上に放っていたボールをポケットへ突っ込む。そして、神崎の後を追った。正門を少しすぎたところで追いつく。偶然会った様子を装って声をかけた。
「神崎、今帰りか。遅いんだな」
 神崎は立ち止まって、ゆっくりとこちらを振り向いた。その白い顔が電灯の明かりによって照らされる。
 真っ直ぐな黒髪は背中にかかるくらいの長さ。小作りな顔の中ですべてが綺麗に整っている。大きくてぱっちりとした黒目。うす桃色の唇。白くて木目細かな肌。
 あまり驚いた様子はないが、うっとうしそうにしている。
 神崎はこちらを見上げて、言った。
「工藤」
 自分の名前を覚えられていたことに驚いた。こうやって話をするのは初めてのことなのだ。
 え、まさかばれてるのか、と瞬間不安になって、いやしかしそんなことはないよなと自分を納得させる。あの時とは名字が変わっているんだ。工藤なんてどこにでもある名前だし、気付かれることはないはずだ。
 そもそもオレは1ヶ月に転校してきたばかりで、その時クラス全員の前で自己紹介もしている。だからオレの名前を知っていてもおかしくはないのか。正体がばれているわけじゃない。
 よし、大丈夫だ。 
 だからとりあえず、当たり障りのないことを尋ねてみることにした。
「こんな時間まで何してたんだよ」
 訊いてはみたが、実はその理由をオレは知っていた。
 神崎はいつも遅くまで図書室で勉強をしている。それを知っていたからこそ、こうやって神崎のことを待っていたんだ。
 神崎はこちらをじっと見つめていた。その瞳は昼間見るのとはちがう輝きを放っていた。
 夜の帳の中、辺りの闇とは明らかに質の異なる不思議な色だ。
 完全な黒じゃない。青が少し混じっているような黒。不思議な色だった。まるでこちらの心を見透かそうとしているような真っ直ぐな視線。そんな目で見られると落ち着かない。
 やがて、神崎は口を開いた。
「どうしてそれをキミに教えなくちゃいけないの」
 鋭い口先だった。はっきりと嫌悪まで露にして、ぴしゃりとはねつけるように言う。
 う……そんな風に言われるとは思ってもみなかった。ふつうに何気なく訊いただけじゃないか。
 オレが何かまずいことを言ってしまったわけではない。神崎はこういうヤツなんだ。はっきりしているというか、気が強いというか、毒舌というか。聞いた話によるとどうも男が嫌いらしい。
 気まずい沈黙が訪れる。
 いや、神崎の方は気まずいなんて思ってないだろうけど。
 それを証拠にもう話は終わったとばかりに、神崎は背を向けてすたすたと行ってしまう。その背中からはこれ以上話しかけるなオーラまで出ている。
 でも、このままでは困るんだ。訊きたいことがあるのに。
 オレは必死で会話の接ぎ穂を探して、神崎の背に話しかけた。
「どうしてって言われても。何となくだよ。もうとっくに部活も終わってる時間だろ、だからどうしたのかと思って」
 神崎は反応しない。まるっきり無視だ。
「あのさ、神崎……?」
 恐る恐る呼びかけてみる。すると、振り返りもしないで神崎はぴしゃりと言った。
「うるさい」
 ものすごく刺々しい口調だ。ふつうに喋ってれば可愛いんだろうなという声で、吐き捨てるように言う。
「用がないなら話しかけるな」
 そーいえば、噂話で男と言い争って相手を泣かせたことがあるとか何とか聞いたことがあった。ただの噂だろうと思っていたが意外に事実なのかも。ここまできっぱり言われると取り付く島もない。
 どうしてこんなに邪険にされなきゃいけないんだろう……。
 その偉そうな態度にムカッときたが、その気持ちを押さえ込む。
 神崎に下らないことを話しても意味はないみたいだ。これは直接的に言った方がよさそうだな。
「いや、待て、用ならある」
 そう言うと神崎は振り返ってくれた。相変わらずうっとうしそうな顔のままだったけど。
 その渋面に尋ねる。
「くまさんの話は本気なのか?」
 神崎はこちらの真意を測ろうとでもしているみたいに、オレをじっと見る。そして頷いた。
「本気」
 きっぱりと言う。オレは重ねて尋ねた。
「くまの謎を解いたヤツと付き合うって言ってるって」
「うん」
 真面目な顔でもう1度神崎は頷く。
 さっきまでの機嫌の悪そうな様子はなくなっている。その目には確かに真剣な光が宿っていた。
 だから、オレもこれは冗談なんかじゃなくて、本気なんだってことをわかってもらうために、真面目に言った。
「じゃあオレがその謎をとく。絶対に」
 今の話の流れから言って、これは告白……になるんだろうな。変わった告白もあったもんだが。
 でも、勘違いしないでほしい。
 オレは神崎来紗のことが好きなわけじゃない。
 むしろ嫌いだった。すごく嫌いだ。


 神埼来紗は良い意味でも悪い意味でも有名だった。学校中で知らないヤツはいないくらいに。
 まずものすごく美人だ。10人に聞けば10人ともが「すげぇ可愛い」と評するような顔立ちをしている。そこにいるだけですごく存在感があるのだ。誰もが振り返ってまで見ずにはいられないくらい。
 そして、それだけじゃなくて、神崎は変な奴だった。その歯に絹を着せない物言いと他人を突き放したような態度で誰も近づけようとしない。
 特に男子には容赦なしだ。何しろあの外見だからけっこうな数の奴が告白をして、同じ数だけ玉砕していったらしい。その時の断り文句はみな同じだったとか。「興味ない、帰れ」だ。
 女子に対してはそこまで露骨にきついことを言わないものの、冷たい態度は変わらない。男に人気があることもあって神崎は女子からとことん嫌われているのだった。ぞっとするような陰口を叩かれてるのを聞いたこともある。
 そんなわけで神崎はクラスの中でかなり浮いていた。友達はいない。話をする相手もいない。いつも1人でいるのだ。それも神崎自身はあまり苦痛に感じていないようだったが。むしろ仲の良い同士で固まっている他の女子たちよりもずっと堂々として見える。
 でもまあ、もしそれだけだったら、どこのクラスにも1人か2人くらいはいる、ただ協調性のないだけな子だったろう。神崎が本当に変なのはある発言をしているからなんだ。
 曰く「森のくまさんの謎を解けた人となら付き合ってあげてもいい」と。
 始めそれを聞いたとき、何かの冗談なのかと思った。
 だって、そうだろ?
 自分と付き合うために条件を出すって、かぐや姫じゃないんだから。何を考えているんだか。そもそもその条件からしておかしい。「森のくまさん」? その謎を解け? まず、その謎っていうのが意味不明だ。
 9月の初めからここに転校して来たオレは、ずっと前から神崎がそんなおかしなことを言っていたのかと思ったが、どうもそれはちがうらしい。神崎がそれを言い出したのは夏休みが終わってからだとか。
 まあどっちにしろ、オレは神崎の言ってることを本気にするヤツなんていないだろう、と思っていた。
 だけど。
 それが案外にいるのだった。それも不特定多数。中には割りと真剣になっているヤツなんかもいるみたいだった。ろうかを歩いているだけで「くまさんが……くまさんが……ぶつぶつ」と言いながら歩いてるヤツを見かけたり、授業中に「おじょうさんが……おじょうさんが……ぶつぶつ」と言いながら何かを一心にノートに書き殴っているヤツがいたりとするのだ。
 どんな学校だよここは。何かのいけない宗教みたいだ。てか、怖い。
 それほど神崎が美人で人気があるということなのかもしれない。
 オレには必死になってくまさんなんかの謎を解こうとしているヤツの気がしれないけど。そうまでして可愛い子と付き合ってみたいんだろうか。いや、それは可愛いことに越したことはないけどさ。
 それでも神崎は中身の性格がサイアクじゃないか。やってることの意味がわからないし、気が強いし、生意気だし、ムダに偉そうにしているし。性格は本当に可愛くない。
オレは普通ならそんな変なヤツは心の片隅にでもおいておくくらいで、それ以上気にも留めなかったろう。
 ましてや、「森のくまさん」なんてフザケタものに付き合ってる暇もない。何より部活を優先して来たオレにとって、他のことにかまけてる余裕なんてなかったんだ。
 そう、そんなことを言っているのが「神崎来紗」以外の女だったなら、どうでもよかったんだ。神崎以外だったら……。
 しかし、相手は他でもないあの神崎だった。
 この学校に神崎がいると知った時は驚いた。
 まさか、と思った。あの時の関係者とこんな所で会うなんて思いもしてなかった。
 神崎とは少し昔、ある出来事のせいで関わりがある。それは神崎自身との関わりではなかったが、オレが神崎に良い印象を持っていないということに変わりはなかった。むしろ見るだけであのことを思い出してしまうから、やっぱり嫌っているという方が正しい。
 復讐、なんて言葉を使うと少し大袈裟すぎてしまう。そんな大層なことではなくて、これはほんの軽い意趣返しだった。オレから神崎への。
 今更こんなことをして過去のことが消えるわけではないけれど。ただの自己満足なのかもしれないけど。
 それでも。
 オレはそういった自分の目的のために、神崎のことが好きなわけでもないのに、森のくまさんの謎を解くことに決めたんだ。


 森のくまさんの童謡は知っている。でも、その「謎」というのが何なのかオレにはわからなかった。
 森のくまさんの謎って何だ?
 歌詞に変な箇所でもあるんだろうか、と考えてみたのだが……それ以前に気付いた。
 オレは森のくまさんの歌詞を全部言えないことに。初めと終わりは覚えている。話のあらすじも知っている。それなのに、途中の歌詞がわからなかった。
 初めの歌詞は確かこうだったはずだ。
 
 ある日森の中 くまさんに出会った
 花咲く森の道 くまさんに出会った

 わからないのはその次だ。
 2番と3番の歌詞がサッパリ出てこない。おじょうさんがくまさんを怖がって逃げ出す、という場面のはずなんだけど。
 それを抜かして4番と5番ならわかる。

 おじょうさんお待ちなさい ちょっと落とし物
 白い貝がらの 小さなイヤリング

 あらくまさんありがとう お礼にうたいましょう
 ラララララララ ラララララララ

 これであってるはずだ。オレの記憶が正しければ。こういうのって途中だけが思い出せないと気持ち悪いし、1度気になるとどうしても知りたくなってしまう。
 だから、まずは歌詞を調べてみることにした。
 と、いうわけで、放課後に図書室に来てみたんだけど……
 いきなり困った。
 利用客は少ないくせに、うちの学校の図書室はムダに広くて蔵書もいろいろなジャンルのものがそろっていた。ちょっと前まで文庫と新書のちがいすらわからなかったオレには、どこに何があるのか全くわからない。図書室なんて滅多に来ないからなー。
 ふと見ると、貸し出しカウンターの隣に検索用のパソコンが置いてある。よし、とりあえずこれで探してみるか。何の言葉で検索してみればいいのか迷うが、とりあえず、「森のくまさん」と入れてみる。ヒットなし。うーん。そりゃそうか。森のくまさんだけで1冊本が書けるわけないし。
 いきなり詰まってしまった。どうしよう。そういう歌詞はどのような本にのっているものなのか見当がつかない。
 つまり、どう検索していいのかサッパリわからない。というか、そもそも森のくまさんの歌詞がのってる本ってここに置いてあるんだろうか。有名な歌だからきっと簡単に見つかるだろうと楽観視してたんだけど。
 と、頭を悩ませていると。
「おい、本探してるのか?」
 ぶっきらぼうな声に振り向く。
 貸し出しカウンターに男が座っていた。
 『ちゃらちゃらしてるな』それがそいつの印象だ。シャツはだれだれだし、手首や首元には装飾品がじゃらじゃらだし、耳にはピアスまでつけている。その上、軽薄そうな色の茶髪。それらが下賤な感じではなくて、むしろ洒落ている風に見えるのは整った顔立ちのおかげだろう。
 むー。美形の男を見ると胸がむかむかするのは、オレの心が狭いせいかな。
 そいつはカウンターに両足を乗っけた姿勢で本を読んでいた。ちらりと見えた本の題名は『銀河鉄道の夜』。オレでも名前を知ってるような有名どころだ。
 何だかそいつのちゃらちゃらとした印象と合わない。そもそも図書室というこの空間がそいつの雰囲気に合ってない。ゲーセンとかそういう場所にいる方がはるかに自然だ。
 こいつ、図書委員なのか? ただの柄の悪い不良にしか見えないんだけど。
 男は本から顔を上げて、
「何の本を……あー、いや待て。俺が当てる」
 じろりとオレを睨んでくる。こ、怖っ……目付きがすごく悪い。
「くまの歌を探してんだろ?」
 そして、断定する口調で言った。図星だ。頷いとこう。
「あー、やっぱりな。音楽関連は右の一番奥の棚だ」
 投げやりな口調で男は言った。って、やっぱりこいつ図書委員なのか……。
 カウンターの奥に今週の当番と書かれたボードがあって、そこには夏樹(なつき)という文字があった。
 じゃあたぶん、こいつが夏樹なんだろうな。
 夏樹は澄ました顔で読書に戻っていた。外見はどこからどう見ても不良だが、長い指がページを操っている様は優雅だ。
 夏樹……か。どこかで聞いたことあるような気がする。
 オレは礼を言って、示された本棚へと向かった。
 意外に音楽関連の本は多かった。音楽史から、作曲家の伝記、楽譜まで様々な本がある。森のくまさんの歌詞はどの本にのってるのだろう。本の名前を見ただけじゃわからない。仕方がないから、1番上の段から1つずつ確認していくことにした。時間がかかりそうだ。
 そして、1つめの本を手に取った時。
「やっぱりメロンパンだろー」
 いきなり無遠慮な音量の声が耳朶を打った。後ろからだ。図書室の奥は自習スペースになっていて、机とイスが並べられている。
 2人の男がイスに座って、ジュースを飲みながら話をしていた。
 ここは図書室でちゃんと勉強しているヤツだっているのに、周りの迷惑は一切顧みない大音量だった。
「いやいや、ここはイチゴチョコクリームパンだ」
「何を! イチチョコなんて邪道だっ。ここはもふもふのメロンパンが……」
 友人同士の会話は大抵、第3者が聞いているとどうでもいい内容になることが多いが、そいつらの話は心底どうでもいいものだった。というか、パンについて熱く語るなよ!
 うるせーなー。その2人を睨みつけていると、誰かがそいつらの元に歩み寄ってきた。あ、夏樹だ。歩き方まで威圧的だった。両手をポケットの中につっこみ、肩を揺らしながら歩いていて、何だか「あん? ヤンのかてめぇ」と勝手に台詞を付けてみたくなる。
 そして、夏樹は2人の男子の元へと行くと……
 突然、バカ騒ぎしているヤツのイスを蹴り倒した!
 イスとともに倒れる男。派手な音が響く。2人の男は目を白黒させて夏樹を見る。きーんという沈黙が訪れた。
「てめぇら、ここがどこだかわかってんのか?」
 ドスの利いた声。夏樹は倒れた男の胸倉をがっと掴んで、そのまま立たせる。見た目が不良っぽい上に恐喝じみた口調に迫力がある。はたから見ていても普通に怖い。
「ああ? 訊いてんだよ、答えろ! ここはどこだ!」
「と、図書室、です……」
 相手は震えながら答えた。か、かわいそうに。今にも泣き出しそうだ。何せ相手はいきなりイスごと蹴り倒してくるようなヤツだし。
 恐怖のあまり自分で立つ気力すらないらしく、両足には力が入っておらず、夏樹の手につられるような形になっている。
 しかも、夏樹はいきなりばっとその手を離した。相手はその場で尻餅をつく。
「そうだ、なら私語は慎め。それとここは飲食禁止だ」
 注意をしているというよりそれはやっぱり脅しの口調だ。「金出せ」とか言ってるみたいな。
 こ、こええ……。オレに向けられた台詞ではないのに、思わず萎縮してしまう。
 相手は壊れた首振り人形みたいにこくこくと頷いていた。夏樹はけっと言って、もう1度倒れたいすを蹴っ飛ばした。
 そして、貸し出しカウンターに戻ろうとして、今度はこちらを睨んできた。
「おい」
 え、お、オレ? 他に誰かいるのかと思ったが、後ろは本棚だ。
 や、やばい。『何じろじろ見てんだ、おらあ!』とか怒鳴られるのかもしれない。
「何ですか……」
 そう思って、身を固くしていたが、やって来た夏樹は本棚の前でしゃがんでしまった。
 あれ?
「童謡はここだよ。ほら、この本だろ」
 本を取り出すためだったらしい。親切だなー。見た目は怖いけど。そしてさっきの騒動を見る限り、中身も怖いけど。
「あ、どうも」
 そう言って、受け取ろうとしたが、夏樹は本をつかんで話さない。
「言っとくけどな」
 ぎろり。睨まれる。そう険を含ませた目で見ないでくれ……寿命が縮む。下の方から睨まれてるので、更に目付きが悪くなって凶悪さ3割り増しだ。
「これは借りられないからな。本を巡って暴動が起きる。っつーか、実際に起きたし」
 ほ、本を巡っての暴動……つくづくどんな学校なんだここは。それほど神崎は人気があるということなのかもしれないけど。
 頷くと、ようやく手を離してくれた。そして夏樹は元いたカウンターに帰って行った。
 その後ろ姿を見送ってオレは首を傾げた。うーん、何かひっかかるな。気のせいかもしれないけど、オレは夏樹のことを知っている気がするんだ。
 前にどこかで会ったことがあるような。
 けっこう昔のことだったと思うんだけど。いつ、どこでだっけ。思い出せない。
 ま、いいか。それより今は森のくまさんだ。
 渡された本を見る。表紙には子供向けの絵がでかでかと描いてある。題名は「みんなの童謡」。
 ぱらぱらとページをめくると、すぐに運良くくまさんの歌詞を見つけられた。
 オレが覚えていた1、4、5番の歌詞はちゃんとあっていた。問題は2番と3番だが……
 その2番と3番の歌詞がちょっと予想外の内容になっていた。
 まずは2番の歌詞。

 くまさんの言うことにゃ おじょうさんお逃げなさい
 スタコラサッサッサノサ スタコラサッサッサノサ

 ……確かにくまさんの行動は謎だった。
 え、この歌って、くまさんが「逃げろ」って言うんだっけ? オレはてっきりおじょうさんが自主的にくまさんから逃げ出すものなのかと思っていた。
 というか、何でくまさんが「お逃げなさい」とか言うんだよ。逃げろって何から? 自分から逃げろってこと? わけがわからない。
 そして、3番の歌詞は次のような感じだった。

 ところがくまさんが 後からついてくる
 トコトコトコトコと トコトコトコトコと

 お前、さっき逃げろって言ったじゃねーか! なのに何故に後からついてくる?
 謎だ……謎すぎるぞ、くまさん。
 森のくまさんの謎って、たぶんこのことなんだろうな。つじつまの合わないくまさんの行動。何故、逃げろと言ったのか? そして、そう言っておいて何故後からついてくるのか? 確かにわけがわからない。
 でも、それよりももっとわからないことは……
 オレはぱたんと本を閉じて、元あった場所に戻した。
 くまさんの歌詞とその謎についてはわかった。
 わからないのは、何故神崎がそうまでしてその謎に対する答えを欲しがっているのかだ。確かにくまさんの行動は謎で、どうしてそうなっているのか多少は気になる。
 でもたかが童謡だ。
 オレなんかは、そうなってるんだからそれでいいじゃんとか思ってしまうのだが。どんな小さな矛盾でも詳らかにしなきゃ気が済まない潔癖な性格をしているのか、それとも他に理由でもあるのか……
 でもまあ、神崎自身のことなんかどうでもいいか。重要なのはこの謎を解いて、神崎に近付くことなんだ。
 そろそろ部活が始まる時間だ。くまの謎のことは後で考えよう。考えるといってもそれほど本気になることはなくて、適当にそれっぽいこじつけで神崎を納得させちゃえば良いか、ぐらいの気持ちだったが。
 そんなことを思いながら図書室の出入口に向かった時。
 ドアを開けて誰かが入って来た。その人物を見てオレは驚いた。入って来たのは神崎来紗だったのだ。うわ、偶然だな……ってそうでもないのか。神崎っていつもここで勉強してるんだったっけ。
 神崎もオレに気付いてその場で立ち止まった。相変わらずのきつい目線。気に入らないものを見る目だった。は、腹立つなー……! いったい何が気に食わないんだよ。
 普通なら挨拶ぐらいするところだろうが、その気に失せた。どうせ声をかけたところで、神崎の場合どうせ無視されるか、冷たく返されるだけだ。そもそもオレは神崎のことが嫌いだった。この全く可愛くない性格もそうだけど、やっぱり昔のことを思い出してしまう。
 とにかくオレは、知らん顔でその横を通りすぎようとした。
 だけど。
「ここ、図書室だよね」
 何と神崎の方から話しかけてきた。かなり驚いた。
 神崎も何に驚いているのか、目を丸くしてこちらを見ている。信じられないものに出会った目付きだ。そして、驚いた表情のまま言った。
「工藤……本が読めたの?」
 ぜ、全力で失礼な。会うなりそれかよ。というか、まだ1度しか話したことないのに、そういうこと言うか? 本当に可愛くないな……。
 当然、オレはむっとした。
「何だよそれ。バカにしてんのか」
「いや。素直に驚いてるんだけど」
「そーゆーのをバカにしてるって言うんだろ」
「してない。というか声大きい。うるさい」
「かわいくない奴だなぁ……というか神崎ってホントに性格悪いよな」
「は? 何でそんな失礼なこと工藤に言われなきゃいけないの!」
「先に失礼なこと言ってきたのそっちだろ!」
 そしてオレが更に言い募ろうとすると。
「うるせぇ!」
 突然の怒声に、オレと神崎は同時にびくっとした。
 声のした後ろを見ると、夏樹がカウンターの向こうからこちらを睨み付けている。
「てめぇら図書室で騒いでんじゃねぇよ! ケンカすんなら表行け!」
 いや、夏樹のその怒鳴り声の方がうるさいんじゃ、とかちらっと思ったけどもちろん黙っておく。代わりに「すいません」と無難に謝った。荒波は立てたくないし……というか、夏樹怖いし……。
 が、神崎の方は謝る気がない、ってか自分は全く悪いと思ってないらしく、
「工藤のせいでルカに怒られた」
 と、オレに責任を押し付けてきた。何でオレだけの所為にするかなあ、そもそも先につっかかってきたのは神崎の方じゃないか。
 って。ちょっと待った。
「ルカ?」
 今そう言ったよな? ルカっていったい何のことだ?
「ルカって何だよ?」
 尋ねると、神崎は真っ直ぐに夏樹のことを見た。
 いや、わかるけどさ。会話の流れからしてそれが夏樹のことだっていうことはわかるけど。それって下の名前なのか?
 ルカ――神崎が当然のように、夏樹を呼び捨てにしたことにも驚いたが。それよりもルカって名前に反応した。変わった名前だ。そしてどこかで聞いたことがある。
 夏樹ルカ。
 フルネームで呼んでみる。すると、オレの中で閃くものがあった。
 1つの情景が思い浮かぶ。
 くらくらとするような強い日差しの中。焼ける土。白球が飛ぶ球場。マウンドに立つのは野球帽を目深にかぶった少年。
 小学生のくせにやけに酷薄で冷たい目線がこちらを貫く。
 冷静な態度を最後まで崩すことなく、1人で投げきった。
 剛速球。
 すごいと思った。ボールの速さだけでない。バッターボックスに立って対峙してみればわかる。肌を刺すような威圧感。小学生の少年が大人さえ圧倒するほどの存在感をはなっていた。
 あの子は10年に1人の天才だ、とそう聞いた。
 そうだ、思い出した。夏樹のこと思い出した。同時に叫んでいた。
「夏樹ルカ!?」
 夏樹が顔をしかめてこちらを睨んでくる。ああ、そうか。図書室で騒ぐのはダメなんだよな。
 オレは貸し出しカウンターに近寄ってみた。夏樹が不機嫌な顔でこちらを見ている。
 そのひねた目に、にこりともしない仏頂面。それらがオレの中の記憶とぴったり重なった。
 うわ、夏樹だ、ホントに夏樹ルカだ!
 まさか、こんな所でまた会えるなんて。偶然ってあるんだなー、う、嬉しい……。
「オレのこと、覚えてないかな? 確かオレが小5の時、旭スターズにいただろ、1度だけ試合したことがあった。ピッチャーで、10年に1人の天才だって、確かにすごい球だった。話もしたよな、覚えてないか?」
 思わず熱を込めて捲くし立てるオレ。しかし、夏樹の態度は実に素っ気ないものだった。思い出そうとする気配すらみせず、ただ一言。
「さあな」
 と、突き放すように言う。 
「野球やってたことは確かだけどな」
「オレのことは覚えて……ないのか?」
「知らん」
 正直、その返答にがっかりした。そりゃ、会ったのは1度きりだし、夏樹にとってオレはその他大勢の平凡なプレーヤーだったのかもしれないけど。話もしたのに覚えてくれてないのはショックだ。
 もしかしたら名前を聞けば思い出してくれるかもしれない。
 そうも思ったが、そばに神崎がいるので迂闊に昔の名前を出せなかった。神崎があのことについてどれだけ知っているのかわからない。まったく興味を持っていない可能性もある。それでも用心するにこしたことはないだろう。
 それにしても、夏樹ルカにまた会えるとは思ってなかった。小学生の天才ピッチャー。オレはその剛速球に惹かれたんだ。たかが小学生と侮れないだけのものを夏樹は持っていた。あの球が成長した様子を見れると思うと胸の奥がうずうずする。
 でも、あれ?
 そこで気付いた。
 何で夏樹はこんな所にいるんだ? しかも貸し出しカウンターに座っていることからして図書委員みたいだし。
 そもそも何でオレは今までこの学校に夏樹がいることを知らなかったんだろう。当然、有名になっていておかしくないはずなのに。
 転校してきたその日にオレは野球部に入部したが、先輩たちの顔ぶれの中に夏樹はいなかった。1ヶ月も練習をサボったりはしないよな。おかしい……。
 そーいえば。
 さっきの夏樹の台詞。
 『野球やってたことは確か』って言ったよな。やってた? 何で過去形だったんだ?
 そんなこちらの疑問を察したかのように夏樹は言った。
「まあ、もう野球はやめたけどな」
「……え?」
 一瞬、耳を疑った。夏樹の言ったことが理解できない。おい、うそだろ?
 だってあの天才ピッチャーだぞ? 10年に1人と言われてたんだぞ? 夏樹あの時言ってたじゃないか。『俺は投げるためにいるんだ』って。小学生のくせにそんな生意気なことを言ってただろ? そして、その言葉を誰にでも納得させちゃうほどの球を投げてたじゃないか。
「何で……何でやめちゃったんだよ」
 思い切り気の抜けた声でオレは尋ねた。
 一瞬、別人なのかもしれないと思ったが、今目の前で本を読む夏樹の面持ちはマウンドに立っていたあの少年の面影と重なるのだった。
 まさかあいつが野球をやめていたなんて。
 落胆した。オレのことは覚えてくれてなくても構わないけど、こんなことは予想もしていなかった。
 夏樹は本に視線を落としたまま、言った。
「それは俺の勝手だろう。いちいちお前の許可でもとらねえといけねえのか」
「そ、そういうわけじゃないけど」
 オレは口ごもり言った。あの夏樹ルカが野球をやめて、こんな所で本を読んでいるなんていう事実からも目を逸らして。
 なあ、夏樹どうしちゃったんだよ。何でこんなところで本なんか読んでるんだよ。投げることをやめたお前はいったい何なんだよ。
 何が「銀河鉄道の夜」だ。こんなの、おかしいだろ……ふざけてるよ……。
「何で……何が理由でやめたんだよ?」
 オレはもう1度尋ねてみた。夏樹は答えない。ぺらりと無表情にページを操る。こちらを見もしない。
 そうして沈黙が訪れた。
 こうしてみると図書室って静かな場所だ。誰も私語をするやつがいない。みんな真面目に勉強しているのか、あるいはこの規則にうるさい不良図書委員の影響力なのか。
 夏樹はやがて言った。
「俺は……」
 本に視線を落としていたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「俺は野球のせいで大事なヤツの大切なものを奪ってしまったんだよ」
 オレは夏樹の方を見た。
 だけど、夏樹はやっぱり眉1つ動かさない無表情のままだった。その声だって何も特筆すべきことのない無機質な物だ。ただ事実をありのままに伝えるニュースキャスターの口調だった。
 大事なやつ? 大切な物? それを野球のせいで奪ってしまった? よく意味がわからない。どういうことなんだろう。オレがそのことについての意味を尋ねる前に、しかし、夏樹はさっさと話題を変えてしまった。
「そーいえばさ」
 さっきの話題に置いてけぼりを食らったまま、オレはぼんやりとその言葉を聞いた。
「さっきお前、くまさんについて調べてたよな」
「え、あ、うん、そうだけど……」
 夏樹の台詞の意味を考えていたオレは、しどろもどろに答える。夏樹は本に話しかけるようにして続けた。
「あの謎については何かわかったか?」
「いや……」
「そうか」
 それきり口をつぐむ夏樹。本を見ているが、その目は文字を追っていない。何かを考えているかのようだった。
 そして、
「じゃあ、俺がその謎についての答えを教えてやろうか?」
 そんなことを言い出した。
「え……?」
「教えてほしくないのか?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
 何だこいつ。真意が読めない。全く意味がわからない。そりゃあもう、くまさん並みに謎なヤツだ。
「教えてほしいのか、ほしくないのか。どっちだよ」
 夏樹がくり返す。
 そんなに教えたいのかよ、こいつ。
 というか、そういうこと神崎がいる前で言っていいのか?
 そう思ったが、振り返ってみるとすでに神崎はいなくなっていた。どうもオレが夏樹と話している間に、自習スペースの方に向かったらしい。
 それで、
「そりゃあ教えてほしいけどさ」
 と、オレは言った。
「でも、いいのか?」
「ああ」
 尋ねると、夏樹はそう言いながら、読んでいた本に落ち葉で作ったしおり(手作りか? ってことは夏樹が作ったのか!?)を挟んで、カウンターの上に置いた。
 そしてようやくオレを見て、言った。
「ただし条件がある」
 そうきたか……。
 この学校にいるヤツって、みんな交換条件を出すのが好きなのか?


 第2章

 夏樹と話をしてから3日が経った。
 その間、夏樹の条件を飲むかどうかで迷っていた。くまさんの謎を教えてくれるというのはいいが、その代わりに提示された条件はかなり面倒臭いものだったんだ。
 そんなことをするくらいなら、自分でその謎を考えた方がマシだ。そう思い、頭をひねらせてみたりもした。
 くまさんは何故逃げろと言ったのか。
 しかし、どれだけ頭を悩ましてみても、まったく考えはまとまらなかった。オレではまともな答えなんて思いつかない。
 唯一の案が「そのくまさんはただバカなだけじゃなかったのか?」という、考えた方がバカだろと言われてしまいそうな説ぐらいだった。というか、こんなの説にすらなってないよな。やっぱり万年赤点ぎりぎりのオレじゃあ無理だよ、オレの頭には野球しか詰まってないんだし。
 謎なんて解けるわけがない。くまさんの行動なんか知るか。
 と、なると……
 結局は夏樹の条件を飲むしかないんだよなあ、あんまりやりたくないことなんだけど。うーん。どうしよう。やるか、やらないか。決められない。
 とにかく夏樹の言ったことが本当かどうかを確認しようと思った。それで放課後の部活が始まる前の時間、クラスの廊下に来ていた。扉についた窓から教室の中を覗く。何人かの女子生徒の姿が見える。その中に神崎がいることを確認した。
 神崎の他には4人の子がいる。女の子たちの顔ぶれを見て、げっと思った。田村理香がいる。
 田村はクラスの中で1番声が大きくて、1番おしゃべりな子だった。そんな子だから自然とクラスの女の子たちをまとめる存在になっている。
 つまり田村を敵に回すことは必然的にクラスの女子の大半を敵に回ということだ。
 やっぱり嫌だなあ……。
 多くの男子がそう思っているように、オレもできる限り女の子たちに嫌われることはしたくない。もうこのまま何もせずに部活に出ようか。
 いや、でもそれだとくまのことを自分で考えなきゃいけないことになる。それもそれで面倒くさいんだよな。
 迷った末、もう少しだけ様子を見てみることにした。
 教室の中にいる女子は全部で5人。でも、正確に言うなら4人と1人だ。それぞれの立ち位置を見ればわかる。4人は固まるようにして立っている。一方、1人でいるのが言うまでもなく神崎である。
 何人かはほうきを持ってるから掃除をしているだけのように見えるが実はそうじゃない。掃除当番なら机の列ごとにグループが作られてるから男子もいないとおかしいのだ。
 たぶん、本当の掃除当番は神崎と田村だけで、後は田村の取り巻きだろう。男は適当な理由をつけて追い出されたか、掃除自体は終わってるのだがその後で残っているだけかのどちらかだと思う。
 で、この女の子たちがいったい何をしているのかってことだけど。
 ただ話しているだけじゃないってことはパッと見でわかる。これはそんな穏やかな光景じゃない。
 田村たちの口元に浮かんでいるのは嘲笑だった。神崎に向かって何かを言っている。扉に阻まれて断片は聞き取れるけど、何を言ってるのかまではよくわからない。それでも、だいたいの見当はついた。神崎が女子たちと折り合いが悪いのは知っているからだ。
 しかし、神崎はあまり傷付いたりしているようには見えなかった。むしろ、涼しい顔で女子たちを見返していた。冷ややかな目線だ。何を言われてるのかは知らないけど、神崎は全然気にしてないように見える。
 おい、夏樹……本当にこれはどうしてもやらなきゃいけないことなのか? そもそも何でこんな条件なんだよ。夏樹って神崎に何か関係しているのか。やっぱりあいつは謎だ。くまさん並みに。いや、それ以上に。
 女子の1人が何かを言っている。まず田村が笑って、みんながそれに追従する。
 神崎はあのうっとおしそうな表情をした。そして眼光鋭く女子たちを睨んだ。
 その視線の強さに女の子たちは怯んで、神崎から1歩離れる。もし1対1だったら神崎の迫力に気圧されてこれ以上は何もできなかっただろう。
 だけど、田村たちは集団でいた。1人ではなくグループでいることの強みがある。
 神崎はそのまま教室を出ようとした。
 が、その時。
 突然、神崎の身体ががくっと揺れ、前へと倒れ込んだ。ただ転んだわけじゃない。ほうきの柄でひっかけられて転ばされたんだ。
 さすがに見ていて不快になった。自分が田村たちに加担しているような気持ちになる。見て見ないフリをするのもいじめと同じ、か。
 オレはポケットに手を突っ込んで、その中に入っていたボールを握りながら考えた。
 どうするかな……行くか、行かないか。
 机が邪魔で神崎の姿が見えない。あの強気な神崎ならすぐに立ち上がるだろうと思っていたが、神崎はそのまま中々姿を見せなかった。
 あれ、どうしたんだ。段々不安になってきた。
 どうして、立ち上がらないんだよ……?
 そーいえば、よく体育の授業を見学している。
 本当に身体が弱いんだとしたら、もしかして立たないんじゃなくて、立てないのか? そのまま10秒は経過した。神崎はまだ倒れたままだ。
 女子たちは未だに嘲笑を浮かべながら神崎を見下している。ちょっとこれ、やばいんじゃないか?
 そう思った途端、迷いはすっかり消えて、というかもう何も考えられなくなって、オレは教室の扉を開けていた。
 視線が集まる。特に田村側の視線が痛い。オレのことを忘れ物でも取りに来たヤツだと思っているようだ。物言わぬ視線が早くここから立ち去れと語っている。
「何してるんだよ」
 そんな田村たちにオレは言った。
 女子たちは驚いたように顔を見合わせた。オレがこの状況に首を突っ込んでくるとは思ってなかったのだろう。そして、誰が見てもこの場の状況は明白だったので、女子たちは答えに窮して黙った。
「べっつにー」
 答えたのはやっぱり、リーダー格である田村だ。
 それが引き金となって女の子たちは喋り出した。
「そうじしてるだけじゃん」
「そうそう、そしたらいきなり神崎さんが転んじゃったからさ、どうしたのかなーって」
 転ばした本人が堂々とそう言うのだから、白々しい……。
 田村たちを無視して、オレは教室の中へと入っていった。数歩進むと、神崎の白い顔が見えた。手を床についた姿勢でいる。やっぱりつらそうだ。頬が青い。近くに寄ると苦しそうな表情をしているのがよくわかる。
「神崎」
 呼びかけるとゆっくりと顔を上げた。
 堪えるように唇を結んでいる。とても友好的とは思えない鋭い眼差し。アーモンド型の大きな目が野性のネコを彷彿させた。相手を警戒してその真意を計ろうとしている。そして自分の隙を一切見せないように強がっている。
 ただでさえ白い頬が、魚の腹のように真っ白になっていた。具合が悪そうだ。めまいでも起こしているのかもしれない。
「大丈夫か」
 手を差し伸べる。神崎はオレを見ていた。いや、睨んでいた。目のふちが赤くなっている。
「うるさい」
 神崎はオレの手を振り払った。女子たちがくすくすと笑い声を上げる。その笑い方が耳障りに聞こえた。神崎の声は、その態度に反してか細いものだった。
 それでも必死に虚勢を張って弱みを見せまいとしている。オレなんかに頼りたくないという思いがその瞳から強い意思としてあふれていた。
 神崎はプライドが高いんだ。こんな姿は誰にも見られたくないし、それで同情なんかもっとされたくないのだろう。
 おい、夏樹。味方をしてやるだけで良いって言ってたよな? けど、本人はそんなことされても全く嬉しくないみたいだぞ。むしろ憎しみに近い激情をたたえた目でこちらを睨みつけてくる。
 味方してやれってオレはどうすれば良いんだよ……。
 一方、田村たちは神崎に拒まれたオレを見て嘲笑を浮かべている。神崎の苦々しい視線と田村たちのあざ笑うかのような視線に挟まれるオレ。非常に居心地が悪い。
 本当はこのまま教室を出てしまいたかったが、それをしたら自分はとんでもなく薄情な人間に思えるし、神崎にも田村たちにも馬鹿にされそうだ。
 とにかく、この場を治めるには神崎か田村のどちらかをここから離れさせてしまえば良いんだろ。根本的な解決にはならないけど、今はそうやってフタをしてしまう方が早い。
 オレは神崎をここから連れ出すことにした。
「話があるんだよ」
 神崎に向かって言う。こいつを引っ張りだすための理由と言ったらもうこれしかないだろう。
「くまさんのことで」
 神崎がオレを見る目が変わった。まず怪訝な顔をしてから、次に何を考えてるのかよくわからない表情をした。透明な眼差しだ。
 再度、手を伸ばしてみる。神崎は素直につかまってきた。
 びっくりするくらいに冷たい手だった。これ、ちゃんと血が通ってるんだろうかと訝った。
 貧血気味なのかもしれない。そのまま神崎を引っ張って立たせる。
「じゃあ行くか」
 神崎に声をかけたつもりだったのだが、神崎は肯定も否定もしない。ただオレをちらっと見た。
 その瞳からは先程の憎しみに近い激情は綺麗に消えている。
 オレはそれを肯定のしるしであると好意的に解釈することにして、教室を出ようとした。
 すると、その前に田村が立ちはだかった。
「ちょっと、あんた何のつもり?」
 さすが女ボスなだけあって迫力がちがう。腕を組んで、ことさら相手を威圧するような大きな声を出す。
 田村は女子にしては上背があって、男として平均並みの身長であるオレと目線の高さが同じだった。
「――どけよ」
 ここでちょっとでもひるんだら、負ける。だからとがった口調で言ってやった。田村は憤怒に顔を赤くしたが、オレがそこを通ろうとすると気遅れて道を開けた。
 後ろから神崎が大人しくついてくる気配がする。
 神崎とともに教室を出て扉を閉める。廊下に出ると、思わずため息が出た。
 上手くいったという安堵感とこれで田村と敵対してしまったなという憂鬱感によるものだった。
 というか、何でオレ神崎のためにこんなことしてるんだろう。ほんの意趣返しのためにその相手を助けるってやっぱりおかしいよな。だんだん、目的と手段が入れ代わっているような気がしてきた。
 教室からは腹いせに田村たちがオレを非難する声が聞こえてくる。
「何あれ、ウザいんですけど!」
「あれで救った気にでもなってるんじゃないのー」
「ヒーロー気取ってるわけ?」
 うわ、何かへこむ。オレ、明日になったらクラスの女子の半分くらいから嫌われてるようになってるんじゃないか。
 聞いていて気分のいいもんじゃないので、すぐにここから離れることにした。歩き出すと神崎も1歩遅れてついてきた。ちらっと見てみるとその顔には何の感情も浮かんでいない。全くの無表情だ。もちろん、オレへの感謝の念なんて欠片もない。
 まあ、別にいいけどさ。
 神崎がいきなり殊勝な態度をとったりしたら戸惑う。
 それよりなおも青白い顔をしていることが気になった。具合は良くなさそうだ。普通なら保健室に行くことを勧めるべきかもしれないが、そういう気になれなかった。本当に具合が悪いなら神崎が自分で何とかするだろう。
 それにみっともないことだけど、オレの中にはこうなったのは神崎のせいだと考えている自分がいたんだ。
 歩いている間、神崎はずっと無言だった。何を考えているのかわからない。オレも自分から話しかけたりはしない。
 2人して沈黙を保ったまま、階段の所まで来た。
 校舎内には3つ階段があって、中央に1つと並んだ教室の端にそれぞれ1つずつ設置されている。オレたちが来たのは1年の教室の端にある階段だ。大抵みんな中央階段を通るし、今は放課後なのでそこには誰もいなかった。
「で……?」
 神崎はオレを見てようやく口を開く。
「解けたの?」
 解けてるわけがない。あれは神崎をあの場から連れ出すために口実だ。
 仕方がないので、「くまさんはバカなだけだったんじゃないのか説(説とも呼べない)」を話してみた。
 神崎にバカにされるだけだと思うけど……。
 しかし神崎は予想に反して真面目な顔で言った。
「あ、そういう説、多いみたいだね」
「え? そうなのか?」
「うん」
 と、神崎は頷いて解説し出した。森のくまさん講座だ。
 ――くまは初めはおじょうさんを襲おうとしたんだけど、おじょうさんが可愛かったからか、それともかわいそうになったからか、いずれにしても、くまはいったんおじょうさんを逃がすの。
 けどそのくせ落とし物を見た瞬間に、自分が『お逃げなさい』と言ったのにも関らず、それを届けようと追いかける。
 また、おじょうさんの方もイヤリングを受け取ると、襲われそうになったことを忘れて、お礼を言う。しかも歌付きで。ふつうは逃げるよね。だからおじょうさんもバカだったってこと。くまさんもおじょうさんもどっちもバカ。
 その説明に淀みはない。きっと何度も考えたことなのだろう。
 オレは驚いていた。一生懸命に話す神崎の姿は子供みたいだった。変な子だなと思った。
 くまさんについてこんなに詳しく語れる女子高生なんて、どの世界を探しても神崎くらいしかいないんじゃないか。
 そしてそんな神崎を見ているうちに先程の憤りとかはなりを潜めていた。
 その代わりに話を聞いていて閃いたので、
「じゃあ記憶喪失になった、とか」
「ん?」
「だから、くまさんはおじょうさんに『逃げなさい』って言った後、すべって転んで頭を強打して記憶がとんじゃうんだよ。それで、そこに落ちているイヤリングに気付いて、お、これはあの子の落し物じゃないかと……」
「バカじゃないの?」
 ああ、やっぱり今度はバカって言われた。
「あのね、ふつうは歌詞に書かれていないことは物語の中でも起こってないと考えるべきなんだよ。大きなアクションがあれば、必ずそれは歌詞の中にも出てくるんだから」
 ……なるほど。
 あ、じゃあそれなら。
「くまさんが実は2人いたってのはどうだ?」
「それもない。だから、もしそうなら歌詞にちゃんと書かれてるはずなんだってば」
 うーん、そういうもんなのか?
 難しいな……。
「もしかしてくまさんは二重人格者だったんじゃ――」
「んなわけないでしょ!」
 あっさり否定。オレの頭で考え付く説なんてそんなもんだった。
 神崎はそれからもオレが新しい説を出すのを待っていたみたいだが、あいにくそれ以上は思い付かない。
 しばらくの沈黙。そして神埼もそれ以上の説はないということをを理解したらしく、ゆっくりと階段を上がって行ってしまう。
 そのままどこかに行くのかと思ったら、踊り場で止まった。そこにある窓から外を見ている。
「どうしてそんなにくまにこだわってるんだ?」
 オレはその背に訊いてみた。
「たかが童謡だろ。そこまでおかしな謎ってわけでもないしさ。何か知らなきゃいけない理由でもあるのか」
「理由……」
 神崎は呟いた。
 オレの方をちらっと見て目を逸らす。何かを考えているようだ。
 外から差し込んでくる日差しがその髪の上でゆらゆらと揺れている。それにしても綺麗な髪だ。その1筋1筋が太陽の光を浴びて茶色がかって見える。
 神崎はしばらく黙ったままだった。そして、オレの方に視線を戻して今度は2秒くらい見てから、また目を逸らした。
「ただ知りたいだけだって言ったら? ヘンかな」
 訊かれて、オレはさほど深く考えずに答えた。
「うん、何か変だ」
「そっか」
 神崎は頷いてくり返した。
「……そうだよね」
 少しだけ、ドキッとした。そう言った神崎の表情がすごく淋しげなものだったからだ。
 そんな顔を見ていると、何故だか悪いことをしている気持ちになった。今度はこちらから目を逸らした。
「オレ、そろそろ部活だから行くな」
「ん……」
 1度背を向けて行こうとしたが、神崎のことが気になって振り向いてみた。神崎はまだ窓の外を見ている。その場から動かない。
 どうしたんだ、いつものように図書室には行かないんだろうか。頭にさっきの淋しげな表情がちらついた。
「神崎?」
 訊いてみる。
「帰らないのか」
 神崎はこちらを振り向いて、
「かばん」
 ぽつりと言った。もういつもの無表情に戻っている。
「教室にある」
 そこでオレは理解した。神崎は取りに行きたくないんだ。まださっきの女子たちが教室に残っているからかもしれないだろう。
 その時、オレは自分でも何を考えているのかよくわからなかった。ただ何となく、くまさんについて語っていた神崎の子供みたいな顔や、ちらりと見せた淋しげな表情のことを考えた。
 そしたら、何となく教室の前まで来ていた。だからその中に入って、神崎の席にあるカバンを取った。田村たちはもういなくなっていた。
 それで階段のところに戻って神崎の名前を呼んだ。
 神崎は驚いた顔をしていた。
 鞄を渡すときに少し指先が触れた。やっぱりその手はずいぶんと冷たかった。
 今度こそオレは部室に向かうことにした。すると神崎が呼び止めてきた。
「工藤……」
 またこちらを見て、すぐに目を逸らす。
 そして、
「……何でもない……」
 どう見ても、何かを言いた気なその表情が妙に記憶に残った。


 部活が終わって、オレは真っ直ぐ図書室に向かった。夏樹に会うためだ。
 図書室は閉館間際ということもあって閑散としていた。もともと利用人数も少ない。オレはそれも夏樹が図書委員をやってるせいじゃないかと邪推しているけど。夏樹、ルールに無駄に厳しいし怖いし。わざわざ見た目の怖い図書委員に睨まれながら勉強しなくても、他に自習室はある。
 いつも夏樹が座っているカウンターを見た。夏樹はいなかった。代わりに司書さんが座っている。夏樹はもう帰ってしまったみたいだ。何だ、無駄足だったな。せっかく夏樹の提示した条件を果たしたのだからくまの謎を教えてもらおうと思ったのに。
 他に図書室に用はないので、すぐ帰ろうとした。
 すると。
「工藤」
 呼ばれて振り向いた。奥の自習室からやって来たのは神崎だった。
「何しにきたの」
 そう言う神崎は相変わらず無愛想だ。でも、何かがちがう。ああ、そうか。いつものような迫力がないんだ。相手を威圧するものではなく、少しだけ弾んでいるような声だった。気のせいかもしれないけど。
「夏樹、いないのか?」
 一応訊いてみると、神崎は突然ぐっと顔をしかめた。
「――知らない」
 唇を尖らせて言う。打って変わって冷たい声だ。何でいきなり不機嫌になるんだよ……。神崎の考えていることってよくわからない。
 神崎は仏頂面のままオレの横を通り過ぎて、そのまま図書室を出ていってしまった。オレ、何か気に触ることしたか? 夏樹のことを訊いただけじゃないか。
 神崎ってよくわからないヤツだよなあ。オレも図書室を出ながらそんなことを思った。
 というか、変な子だ。何で森のくまさんのことを真剣に考えているのかわからないし。性格にしても気が強くて偉そうにしているかと思えば、田村たちのいるかもしれない教室に行くことを渋ったりと弱いところもある。1人でも平気そうにしているかと思えば、いきなり淋しげな表情を見せたりもしていた。
 そして、思い出してしまうのは田村たちに転ばされてそのまま立ち上がれなくなっていた神崎の姿だ。苦しそうな顔や、青くなった頬、冷たい手の感触が脳裏によみがえる。あの時はただでさえ華奢で小さな身体がさらに小さくなって見えた。夏樹は身体が弱いんだって言ってたけど、実際どうなんだろう。大丈夫なんだろうか。神崎に直接確かめてみれば良かった。
 今見た時はだいぶ顔色が良くなってたから安心したけど。
 っと、……あれ? 変だ、何かおかしいぞ、オレ……。オレは神崎のことが嫌いなんじゃなかったっけ?
 それなのに何で神崎の体調のことで心配になったり安心したりしてるんだろう。オレは神崎のことを嫌う理由だってあるし、恨んでいると言ってもいいはずなのに。
 神崎のことは嫌いだって心の中で唱えてみても、どうもそれに感情がついてこない。理屈と感情は別物って言うけどそういうことなのか? そんな自分に納得がいかなかった。少し話しただけでころっと心変わりしてしまうのも単純すぎる気がする……。
 と、そんなことを考えながら歩いていたら。
 校門を出て少ししたところで神崎の背中が見えた。道端に立ち止まって困ったように来た道を振り返ったりしている。どうしたんだろう。
 目が合った。
 すると、さっきから自分が神崎のことばかり考えていたことに気付いて恥ずかしくなった。
「どうした?」
 それを悟られないようにして、ついぶっきらぼうな口調になってしまう。
 神崎はむすっとした顔で言った。
「……忘れものした」
「何を?」
「お弁当袋」
 そうか、オレが神崎のカバンを取りに行ったから、そのまま置いてきちゃったんだな。
「明日でいいんじゃないか」
 と言うと、神崎は首を振った。
「大事なものが入ってる」
「じゃあ取りに行けば? 学校まだ閉まってないだろ」
 神崎は迷うように視線を散らした。動こうとしない。
「行かないのか?」
「……行くよ」
 そう言いながら神崎は動かない。根が生えたみたいにその場に立ち尽くしている。どうも行きたくないみたいだ。
 オレはさっきも同じ状況があったことを思い出して、
「もうさすがに教室にあいつらはいないぞ」
「そうじゃなくて」
「鍵は職員室にあるだろ、事情を話せば貸してくれる」
「……うん」
 そういうわけでもないようだ。じゃあ他にどんな理由があるというんだろう。
「怖いのか」
 冗談半分で言ってみた。この気の強い女がそんなこと思うわけないか、などと考えながら。果たして神崎はむっとした顔をした。
「バカじゃないの、そんなことない」
 やっぱりなあ。神埼ってそういうタイプには見えないもんな。
 よほど気分を害されたらしく、神崎はまだぶつぶつと言っている。
「信じられない、そうやって人をバカにして」
 ん? いや、待て……
「今バカにしたのは神崎の方だろ」
「そっちがバカなこと言ってくるから」
「バカなことって何だよ、もう勝手にしろよ」
「うるさい、言われなくてもそうする」
 や、やっぱりこういうとこ可愛くないよなあ……。神崎が勝手にすると言っているのでオレは放っておくことにした。
 神崎を追い越して歩く。そのまま振り返らずに行ってしまうつもりだった。
 しかし、10歩ほど距離が開いたところで。
「…………工藤」
 細いけれど輪郭のはっきりとした声が、オレの背中に当たった。


「うわさ、聞いたことない?」
 神崎は顔こそ無表情だけど、いつもよりトーンを落とした声で言った。
「うわさ? 何の?」
 その隣を歩きながらオレは尋ねる。声が廊下の奥の方まで響いた。
 校舎の中はしんと静まり返っている。
 下校時刻はとうに過ぎているんだから当たり前だ。今、校舎内にいるのは残った先生たちとオレたちだけだろう。
 外はすでに真っ暗で、廊下を照らすのは蛍光灯の光だけ。光の届かない隅の方には闇が滞っていて、陰湿な雰囲気を放っている。夜の学校って何だか不気味だ。通い慣れてるだけあって、昼間とのちがいがはっきりと感じられる。
 それにしてもオレは何をしているんだろう。呼ばれた時、つい立ち止まってしまった。その後も神崎は「ついてきて」も何も言わなかったのだが、こうして一緒に来てしまっている。
 自分でも何がしたいのかわからない。相変わらず神崎が考えていることも。
 結局、怖いから一緒に来てほしかったってことでいいのかな? 神崎って普段毅然としてるからそういうタイプには思えなかったけど。今も顔だけなら、怖がったりしているようには全く見えない。
「だから……」
 神崎はためらってから小さな声で、
「この学校の下に、昔戦争で亡くなったヒトがいっぱい埋まってるとか……誰もいないはずのトイレの水が勝手に流れるとか……あと階段の段数が増えたり減ったり……」
 って、そういう話か。そんなのありがちすぎて信じてるヤツなんていないんじゃないか?
 オレは職員室で預かった鍵のプレートの部分を持って、意味もなくそれを回しながら、
「よくある話だよなあ」
「そうなの?」
「中学とか小学校とかでもそういう話あったろ」
「中学校と小学校……」
 神崎は丁寧になぞるようにしてその単語を口にした。
「どうかした?」
 しかし、オレがそう尋ねると途端に不機嫌な顔になる。
「うるさい、そういう話をするな」
 いや、そもそも、話を切り出したのそっちだろ! 何だコイツ……。
「オレ、帰ろうかなぁ……」
「帰れば」
「うん、じゃあ帰る。そうそう、そこの――」
 と、通りかかった教室を示して、
「教室でたまに足のない女子生徒がイスに座っていたりするって話だけど、気をつけろよ。じゃあな」
 そう話す間に神崎の顔は見る見る青くなっていって、オレが背を向けると慌てて服の裾をぎゅっと握ってきた。
 何か神崎って素直じゃないっていうか……からかうとおもしろいかも……。
 神崎はからかわれたと言うことに気付いたらしく、手を離して羞恥と怒りの入り混じった面持ちをした。そのままむすっと黙り込んでしまう。しばらくの沈黙。無言のまま、階段を昇っていく。
「工藤……」
 神崎がぽつりと言った。静かな声だった。先程の怒りは霧散されてしまっている。
「工藤は、どうしてくまさんの謎を解こうと思ったの」
「ん?」
「その……えっと、だから、工藤は……」
 階段の最後の段を昇りきった時だった。突然、神崎は言葉を切った。それは神崎自身の意志によるものではなく、彼女の中にある何かが言葉をそっくり飲み込んでしまったかのようだった。
 どうしたんだろうと考える余裕さえなかった。次に起きたことは一瞬。引き延ばされた時間の中で、1つ1つのことが網膜に焼き付くかのようにゆっくりと展開されていく。
 電灯の光の下、浮かび上がる神崎の白い頬。はかなさを感じるほど細い輪郭の線。髪が肩から顔の前へとはらりと落ちる。それはまるで、この期に及んでもまだ自分の表情の変化を悟られまいと強がるかのようだった。
 しかし、オレは見てしまった。
 神崎の顔付きが苦しげに歪んだ様子を。
 顔は真っ青、唇は紫色になっている。額にびっしりと冷や汗をかいていた。
 肩からカバン滑り落ちる。教科書等がたくさんつまっているのだろう、それは床に当たって重い音を立てた。
 神崎は両手で胸元を押さえた。苦鳴になりそこねた空気の塊が唇からもれる。
「神崎!」
 ただごとじゃない。神崎は指が白くなるほどの力で胸を押さえている。
 胸……心臓か? 身体が弱いって心臓が悪いということだったのか?
 神崎はとうとうその場にしゃがみ込んでしまった。呼吸するのも辛いらしく、肩で浅く息を継いでいる。
「大丈夫か!?」
 どう見ても大丈夫ではないのにそんなことしか言えない。気休めにすらならない言葉。そんな自分がもどかしく腹立たしい。
 うずくまる神崎。苦悶に満ちた表情。その足元には暗い影が沈んでいて、そのまま神崎が闇に呑まれてしまうんじゃないかという気すらした。
 オレはただ見ていることしかできなかった。頭の中が真っ白になって、何とかしなきゃという気持ちだけが空回りする。
 どうしたらいいんだよ、何とかしないと――
 そこでようやく、誰かを呼んでこないとという考えが浮かんだ。それでオレが職員室の方へつま先を向けた時。
 今にも消えそうなほどの小さな声が聞こえた。
「……すり……」
「え?」
 振り返る。神崎は絶え絶えな息の間から言葉をしぼり出す。
「お弁当袋……ってきて」
 すぐには反応できなかった。神崎がこちはを上目使い見て、懇願するように言う。
「おねがい……っ」
 それでオレは弾かれたように飛び出した。廊下を走って教室へと向かう。
 あんなに弱々しい神崎なんて見たことない。うずくまる小さな背中。細い肩。苦痛に歪んだ顔。神崎が押さえていた場所は心臓だった。
 心臓が悪いんだ……そう思うと、自分の胸に重圧のようなものがどすんと下りて来た。
 ただ漠然と、「身体が弱い」と言われるのとはちがう。オレは実際に神崎が苦しんでる姿を見てしまった。それにまさか心臓が悪いなんて。
 心臓って体の中心部じゃないか。そこが悪いなんて。考えるだけで恐ろしいことだった。
 神崎はこういう気持ちを毎日抱えて、過ごしているんだろうか。あの仏頂面や強気な態度の裏に隠して。オレなんか1度その事実と向き合っただけで、こんなにびびってるというのに。
 そして、オレは弱り切った神崎の姿を見て、うちの親父様のことを思い出さないわけにはいかなかった。まだ記憶に新しいあの出来事のことを。
 うちの親父様はオレの中で最上級の褒め言葉を使って表すと、本当にただの野球バカだった。さすが元球児というだけあって、3度のメシより野球が好きで、シーズン中は毎日TVにかじりついてお気に入りの球団を応援していた。ビール片手に。
 小さい頃からよくオレも、キャッチボールの相手をさせられたもんだ。
 体の方もとにかく頑丈で、ちょっとやそっと具合が悪いくらいでは決して会社を休まなかった。もともと病気にかかることなんて滅多にないことだったが。いつも元気でいるための秘訣は「気合い」だそうだ。「気合い」さえあれば、病気にかかることなんてない、とも言っていた。
 うちの親父様は、熱苦しくて、やかましくて、素敵なおバカで、ちょっとうっとおしいけど、でもとにかくたくましい、そんな人だったんだ。
 その親父様が突然倒れたのが……今年の5月のことだった。
 肝臓の病気だった。慣れないことばかりで無理と疲労が溜まっていたんだろう。
 姉ちゃんも妹も泣いていた。連絡を受けてさすがにやって来た母親も、動揺を隠しきれていない様子だった。
 それからたった2ヶ月の間。元気なことだけが取り柄だったはずの親父様は、どんどんやせ衰えていった。頬はこけ、目からは活気が少しずつ消えていって。
 信じられなかった。あの頑丈の親父様がこんなに弱っていくなんて。
 弱り切った親父様を見て、オレはこの人が自分の知っている親父様とは別人なんじゃないかとさえ思ったほどだ。
 そうして今年の7月のこと。うちの親父様は家族に見守られながら、静かに息を引き取った。
 父親が死んだ。いなくなってしまった。
 そのことが未だにオレの中では実感が沸かない。
 あの元気なバカ親父がもういないなんて。そのうちひょっこりグローブ片手に戻って来て、「よし、キャッチボールでもやるか!」とか言い出すんじゃないかと思ってしまう。
 そういうことはもう絶対に有り得ないんだということはわかっていても。
 親父様がいなくなってから、オレと妹は学校を変えなくちゃならなくなった。引っ越す必要があったからだ。
 そして、親父様の元で暮らしていた妹とオレは、夏休みの間にまた母親と姉の所に戻ることになったのだった。
 そういったことを思い出しているうちに、教室にたどり着いた。
 ドアに手をかける。ノブが回らない、開かない。そうだ、カギ、どこやったっけ、ない、あれ、どこにもない、まさか落とした――瞬間、不安に襲われるが、カギはちゃんと自分で持っていた。手の中に入れていたんだ。プレートの跡がつくくらい強く握っていた。
 それをカギ穴に差し込んで回し、扉を開ける。
 教室の中は暗かった。廊下と窓から入ってくる明かりで、机の配置がぼうっと見える。オレは真っ直ぐ神崎の机に向かい、机の横にあったお弁当袋を取ると、すぐに神崎の元へと戻った。
 神崎は元の場所から動かず、屈み込んだままの姿勢でいた。
 その姿はあまりにも危うくはかないもので、オレはこのまま神崎が足元にたまった闇に消えていってしまうんじゃないかと不安にかられた。
「神崎!」
 だから、そうなってしまわないように、いつもの生意気で可愛くない神崎にまた戻ってくれるようにと願って、強く名前を呼んだ。
 神崎はゆっくりと顔を上げた。顔面蒼白だ。苦痛に歪みながら、目が虚ろになっている。すぐにお弁当袋を渡した。触れた手が氷のように冷たくて、オレの体温で溶けてしまいそうなくらいだった。
 神崎は弁当袋を受け取ると、その中から小さな袋を取り出した。薬だった。そしてそれを開けて、口の中に含ませた。
 神崎はしばらくしゃがみ込んだままだった。まだ苦しそうだ。薬を飲んですぐ治るわけないということはわかっていたが、不安で仕方なかった。
 それからどれくらいの時間が経ったか。オレには30分にも1時間にも感じられたけど、実際は数分程度のことだったろう。
 神崎がのろのろと立ち上がった。まだ顔色は悪かったけど、いつも通りの表情をしていることにオレはいくらかホッとした。神崎の場合、いつも通りの表情とは仏頂面のことを指す。
「大丈夫か?」
 すぐに聞いてみる。神崎はこくんと頷いた。
「……平気」
 だけど、声はかすれているし、唇は真っ青だ。あまり平気そうじゃない。
 神崎が床に落ちたままだったカバンをとろうとしたので、その前にオレが拾ってやった。カバンはそれなりに重い。今の状態の神崎に持たせるわけにはいかない。
 しかし、そんな当然の好意も神崎には全く通用しないものだった。
「ちょっと、返してよ」
「何でだよ……別に盗るわけじゃないぞ」
「いいから返して」
「具合が悪そうだから、持ってあげてるんだよ」
「そういうこと恩着せがましく言わないでよ」
 そんな可愛くない台詞も、今はやけに嬉しかった。やっと元通りの神崎に戻ってくれた気がして。やっぱり神崎はこれくらい生意気じゃないと。
 ふと、脳裏にさっきの苦しそうな神崎の姿がちらついた。同時にある疑問が沸き上がってくる。
 ――神崎は病気なんだろうか?
 ――そうだとしたら、それはどれくらい悪い病気なんだろうか?
 でも、それを神崎本人に直接尋ねることはできなかった。オレがどうしようもない臆病者だったからかもしれない。
 答えを聞くことが怖かったんだ。
 もし、本当に悪い病気になんだとしたら、オレは神崎とどう接すればいいのかわからなくなる。
 神崎の方をちらりと見ると、カバンを返してもらえないのが不満らしく、ふて腐れた表情でこちらを睨んでいた。何だかすねた子供みたいな顔だ。
 笑ってみればかなり可愛いだろうに、とそう思った。でもあるいは、そんな簡単なことも神崎にとっては難しいことなんじゃないだろうか。
 ――もし、神崎の心臓が本当に恐ろしい闇を抱えているのだとしたら。
 他の子たちと同じような感覚で笑うことができないのは、当然のことなのかもしれなかった。


 それからというもの、神崎の姿を目で追ってしまうことが多くなった。
 朝来てから、授業中、休み時間、放課後と神崎の方をつい見てしまう。
 うーん、どうしたんだろう、オレ……。何でこんなに神崎のことが気になるんだ?
 体育の時もそうだった。見学する神崎のことを見てしまう。神崎は本当につまらなそうな顔でベンチに腰掛けて、授業を眺めている。見学者も本当は体操着に着替えなくちゃいけないはずだが、神崎は制服姿のままだった。
 オレは授業でサッカーの試合をしながら思った。神崎はこんな風に思い切り身体を動かしたことがあるんだろうか。
 そもそも神崎って走ったりできるのか? 心臓が悪いんならそれすらもできないのかもしれない。
 そうやって神崎ばかりに気をとられていたら、パスに気付くのが遅れ、回されたボールをあらぬ方向に蹴り飛ばしてしまった。
 神崎のことを考えてみるとよくわからない。
 オレが初めに知った神崎は堂々としていて、誰が相手でも強気な態度を取る上に、生意気で全然可愛くなくて。いつも仏頂面をしているようなヤツだった。 
 でもこないだ思いがけずに知ってしまった神崎は、身体が弱く、今にも消えてしまいそうなほどの危うい儚さを持っていて。あの小さな背中やくるしげな表情がどうしても頭から離れない。
 強い神崎と、弱い神崎と。いったいどっちが本当の神崎なんだろう。
 と、まあオレは神崎を見て、そんなことばっか考えていた。だから、夏樹のことなんてすっかり忘れていたのだった。
 あの日から1週間経った昼休みのこと。
 食堂でパンを買ってから教室に戻ると、クラスのヤツにさっき先輩が来てたよと言われた。先輩と言われてとっさに野球部のことを連想したが、その先輩は「図書室で待ってるからすぐに来るように伝えてほしい」と言っていたそうなのだ。
 図書室か……。
 それで夏樹のことを思い出した。
 そういえば夏樹って先輩だったっけ。オレとしては夏樹は野球少年の時の印象が強いので、そう深く考えずにタメ口を使ってしまっていた。
 面倒くさいなあと思ったけど、行かないわけにもいかない。腹が減っていたが、夏樹が前に図書室で飲食していた生徒を蹴り飛ばしていたことを思い出して、パンは置いていくことにした。
 図書室に行くと、カウンターの上に夏樹は腰掛けていた。行儀が悪い。まあ、見咎めるヤツなんていないからいいんだろうけど。
 昼休みは始まったばかりなので、他に生徒の姿はない。
 夏樹はやっぱりというか何というか、本を読んでいた。新書で、難しい哲学書の類だった。題名を見ただけで頭が痛くなりそうだ。
 夏樹は顔を上げてオレを確認し、
「おぅ、来たか」
 と、言った。
「何の用?」
 と、オレは訊く。先程、一応こいつは先輩であるという事実を再確認したばっかりだが、いきなり敬語を使うのも変だし、夏樹自身が大して気にしてないようなのでいつも通りの口調だ。
 夏樹は読んでいた本のページにあのしおりを挟んで、カウンターの上に置く。そして胸ポケットから四角い箱を取り出した。
 そこから1本抜き取り、さも当たり前のように口にくわえようとしたところで――それをオレはばっと奪い取った。タバコの箱もろとも。
「おい」
 夏樹がそのままの姿勢で固まって、抗議の声を上げる。
「おい、じゃない!」
 オレは言ってやった。
「な、何やってんだよ、こんなところで! タバコはダメだ! ぜったい、ダメだ! 身体に悪影響が出るぞ! スポーツやるんなら何よりも大事に――」
 言いかけてオレは気付いた。夏樹は冷めた目でオレを見ている。
 そっか……そうだよな。もうこいつには関係ないことか。
 釈然としないものを感じながらも、タバコを返す。夏樹はそれを受け取ってくわえると、ライターを取り出し、慣れた手付きで火を点けた。オレはカウンターから2歩離れる。タバコの煙は苦手だし、元天才ピッチャーと言われていたヤツのこんな姿を見るのはイヤだったんだ。
 野球をやろうが本を読もうがタバコを吸おうが、それは全部夏樹の勝手であるってことはわかっている。だからこれはオレの気分の問題だ。
「図書室では騒ぐなとか飲食禁止だとか、散々言ってなかったっけ」
 そうつっこんでやる。夏樹は紫煙を吐き出しながら答えた。
「ここの利用規約を読んでみろ。喫煙禁止とはどこにも書いてねえ」
「そんなのへりくつだ……というか、火災探知機とかに引っかからないのか?」
「んなもん切ってある」
 いいのかよ、勝手に切って。
 カウンターに座ってタバコの煙をくゆらせている夏樹の姿は、どこをどう見ても柄の悪い不良にしか見えなかった。
 何だかなあ……いつかその火が本に燃え移って、火事になったとしてもオレは庇ったりしないぞ。真っ先に夏樹の名前を出してやるからな。
「で、肝心の用は何だよ」  
 どうも不愉快な思いを消せないまま、尋ねる。夏樹はぼんやりとした表情で、宙に視線を据えていた。オレのことは眼中にナシ。こいつ、本を読んでいてもいなくても話をしているヤツの方を見ないんだな。
「ああ、来紗のことだ」 
 夏樹は言った。まあ、そうだろうとは思っていたけど。夏樹が野球をやめた今、オレとこいつの間で共通の話題と言ったらそれしかない。
 夏樹はタバコを指で挟んで持つと、
「お前、まあまあうまくやったみたいだな」
 と、言ってオレを見た。
「うまくやったって?」
「俺の出した条件のことだよ。正直あんま期待してなかったんだけどな」
 あ。そういえば夏樹との交換条件やくまさんのことすっかり忘れていた。それよりも神崎自身のことが気になっていたからな……。
 そもそも神崎を助けたのはくまさんの謎をこいつに教えてもらうためのはずだったのに、それを忘れてたなんておかしい。
 夏樹はじっとオレを見た。真剣な面差しだ。
「普通はああいうこと簡単にできるもんじゃねぇよな。お前はよっぽど……」
 そこで言葉を切る。一瞬、夏樹の目の中で何かの感情が揺れた。すぐにそっぽを向いてしまったためにそれが何なのかオレにはわからなかった。言い淀んだのも普通なら気にしないような短い間のことだ。
「来紗のことが好きなんだろう」
 その台詞を聞いて、オレは重い鉛を呑み込んだような気分になった。そうだ、夏樹ってオレが神崎に気があると思い込んでいるんだよな。オレが夏樹の条件を飲んだのは、神崎のためというわけじゃなかったんだけど。むしろその正反対だった。
 この話題にはあまり触れられたくない……。
「それはそうと、くまさんの謎解きをしてくれるのか」
 オレは話をくまさんに移した。すると、
「え、ああ、そうだな……」
 夏樹は落ち着かないように視線を漂わせた。その様子はどこかためらっているかのように見えた。
 気のせいか?
 夏樹の方からくまの謎を教えてくれるって言ってきて、オレはその交換条件を飲んだんだ。今更ためらう必要なんかないはずなのに。
 そしてそのまま何秒かの間を開けてから、
「……わかった」
 と、夏樹は頷いた。今の間はなんだったんだ。こいつの思考回路ってやっぱり読めない。まあ、教えてくれるんならいいけど。
 夏樹は携帯用灰皿を出して、短くなったタバコをそこに押し込んだ。その横顔は無表情。こいつは神崎以上に変化がない。顔面筋肉痛にでもなってるなかってくらい、無表情だ。笑ってる様子なんてもう全然想像がつかないよな。
 そんなことを考えていると、突然夏樹がオレの方を見た。そして、ふと思いついたかのように言った。
「お前、野球部だよな」
「え、そうだけど」
 突然の話題転換に戸惑いながら頷く。
「ポジションどこだよ」
 それを訊かれて重い気持ちになった。
「…………内野」
 オレの微妙な声音の変化に気付いただろうか。
 というか、今の質問の意味は? ただの気まぐれか?
 夏樹は何でもない顔で、「ふーん」と言った。興味なさそうな声だ。じゃあ訊くなよと言いたい。
「で、くまさんの謎の真実だったか?」
 夏樹は2本目のタバコに火をつけながら、話し始めた。


 オレに野球を教えてくれたのはうちの親父様だった。
 教えてくれたというより、無理やり教え込まれたって言った方が正しいのかもしれないけど。
 親父様はオレが小学校に入学すると同時に、新品のバットとグローブを喜々として買い与えてくれた。男の子ができたら、一緒にキャッチボールをするのが昔からの夢だったらしい。(ちなみに、うちの親父様、というこの言い方は元々は姉貴が使っていたものだが、いつの間にか家族全員が父親のことをそう呼ぶようになっていた)
 オレはその頃から、やったこともないのに野球が大好きだった。多分、というか絶対に、赤ん坊の時に洗脳を受けたのだろう。そして同じく洗脳を受けてしまった妹と共に、ナイター中継を見てルールを教わり、親父様の高校時代の話をたくさん聞いた。
 毎週日曜日の朝になると、親父様はオレをたたき起こし、近くの公園に連れていってキャッチボールの相手をさせた。そう、どちらかというと、相手を「してもらった」のではなく、「させられた」のである。
 オレは眠い目をこすり、朝飯前でぐーぐーなる腹を押さえながら、親父様が楽しそうに放ってくるボールを受けていた。ボールは軟球だったが、それでも身体に当たると痛かったし、無理に取ろうとして転んで、すり傷を作ったこともあった。
 だけど、オレはばっちり洗脳を受けていたので、そのキャッチボールが楽しくて仕方なかった。だから毎週毎週、親父様と見学に来る妹と休まず公園に通った。それでくたくたになるまでボールを投げたり、バットを振ったりしたんだ。それだけのことが本当に面白かった。だから、もっともっと野球のことが好きになった。
 それでも今から思い返してみると、あの時1番楽しそうにしていたのはオレでも妹でもなくて、やっぱり親父様だったように思うんだけど。
 そんな昔のことを思い返しながら、オレは昼休み学校の屋上に来ていた。手持ち無沙汰にポケットに入れておいたボールを出して握る。
 このボールも元は親父様のものだった。年代ものらしく、多少汚れてしまっている。昭和時代、怪物と呼ばれるほどの成績を残した江川のサイン入りボールだ。親父様の宝物だった。練習には使わないで、大切に保管しとくようなものだ。それでもこれを1度だけ使ったことがあったけど……。
 ――って、一応これって親父様の形見ってことになるんだよな。そんなもんを下に落としてなくしたりしたらシャレにならない。結局ボールはポケットにしまった。
 代わりに屋上の景色を観察してみる。屋上に来たのはこれが初めてだった。
 今じゃ自殺防止のためかはどうかよくわからないけど、大抵の学校で屋上は立ち入り禁止になっている。扉には鍵がかかっていて入ることもできない。前の中学も高校もそうだった。そして、この学校でもそれは同じ。本当は鍵がかかっていて生徒は立ち入れないようになっている。
 それなのに、何でオレが今屋上にいるかというと――何故か夏樹がその鍵を持っていたからである。どうも勝手に合鍵を作ったらしい。暇な時ここで喫煙をするとか言っていた。オレが1番聞きたかったのはどうやってその合鍵を作ったのかってことの方だったんだけど、それは教えてはくれなかった。
 謎だ。あいつはくまさん並みに得体が知れない。
 そして、初めて屋上に上がってみたオレは少しがっかりしていた。そこは勝手に想像していた場所のイメージからはだいぶ外れている場所だったからだ。
 よく学園もののドラマとかマンガとかだと、屋上で登場人物たちが話をしたりするシーンがあったりする。
 そういう場面での屋上は、誰もいない空間と辺りを見渡せる広い景色がある。だからオレは屋上とはそういうものなんだというイメージがあった。けど、実際はちがった。
 給水登があるため狭く、雨ざらしの床とか壁とかはところどころが黒くなっていて汚い。風景だって4階にある教室から見えるのものと大して変わりない。高さが1階分しかちがわないんだから、よく考えてみれば当たり前の話だ。
 まだこれが暖かい日だったなら、風が当たって気持ち良いと感じられたのかもしれない。しかし今日は天気こそいいが、風が肌を切るように冷たい。ここにいてもただ寒いだけだった。
 オレは寒さに首をすがめながら、眼下の住宅街とか道路とかを眺めていた。
 そうしてしばらくして……
 背後でガタンと音がする。錆付いた扉が開閉する重い音。
 振り向くと、神崎が入ってくる所だった。
 神崎は真っ直ぐこちらにやって来ると、オレとは距離を取って横に並んだ。
「今度こそ謎が解けたってホント?」
 神崎は静かに訊いてくる。オレは頷いた。
「うん」
 まあ、オレが解いたんじゃないけどね。
「じゃあ教えてよ」
「その前に聞かせてほしいんだけど」
 そう言うと神崎は怪訝な顔をした。オレは尋ねてみた。
「神崎と夏樹って、いったいどういう関係なんだ?」
 それは気になっていたことだった。昨日夏樹にくまさんの真実を聞いたときから、神崎に尋ねてみようと思っていたことだった。
 昨日の夏樹は様子がおかしかった。神崎のこととなると、夏樹はいつものクールな仮面が少し剥がれるような気がする。
 だから、こいつらの間にはなにかあるんじゃないかと思っていたんだけど……
「何でもないよ」
 神崎はすぐに答えた。本当に何でもないことを話す口調だった。表情にも特に変化は見られない。普段の仏頂面。
「何でもないって――」
「赤の他人」
 神崎は切り捨てるような口調で言った。有無を言わせない感じだった。何だかオレは釈然としない。
「でも……」
「用がそれだけなら帰るよ」
 神崎は露骨に顔をしかめる。すぐ不機嫌になるんだ。
「わかったよ、もう聞かないから」
 仕方なく、オレはそう言った。
 そして、くまさんの謎についてを話すことにした。
 森のくまさんの謎は簡単で下らないものだった。
 そもそもその謎とはくまさんのつじつまの合わない行動のことだ。おじょうさんにいきなり逃げろと言ったかと思うと、すぐに後ろからついてきて落し物を届ける。でも、実はそこに間違いがあったんだ。その部分の歌詞はこうなっている。

 くまさんの言うことにゃ おじょうさんお逃げなさい

 ここで注意しなきゃいけないのは、歌詞の中では、くまさんの言うこと"には"とはなっていないということだ。あくまでくまさんの言うこと"にゃ"である。だから必ずしも「おじょうさんお逃げなさい」って言ったのはくまさんじゃないのだ。
 じゃあ誰が逃げろと言ったんだってことになるが……それは歌の語り手である。
 つまり森のくまさんとはこういうストーリーなのだ。
くまさんがまずおじょうさんの落し物を拾う。くまさんはおじょうさんに、おーい、落としてますよーとか声をかける。すると、歌の語り手はおじょうさんに、"くまさんの言うことから"お逃げなさいと言う。お嬢さんは勘違いしてくまさんから逃げ出してしまう。
 と、まあ、そういうわけだ。親切なくまさんと早とちりをしてしまったおじょうさんのお話。いかにも童謡らしいシナリオだ。くまさんの言うこと"にゃ"とは、くまさんの言うこと"から"という意味だったんだ。から、だとメロディの文字数が合わないから、"にゃ"にしてそこの表現をあいまいにしたってだけ。
 くまさんが逃げろって言ったんじゃない。それは勘違いだ。
 これが夏樹の説である。
 わかってしまうと実に簡単で下らない話だった。
 神崎はオレの話を一言も口を挟まずに聞いていた。こちらを見ずに視線は前の景色に据えたままだ。何かを考え込む面差しをしている。聞き終えた後もしばらくそのままだった。前を見ながら口を閉ざしている。
 沈黙が訪れた。
 今の話まちがってたのかな、とオレが不安にかられ始めた頃。
 強い風が吹いた。神崎は乱れた髪を片手で押さえる。
「……まあ、いいよ」
 神崎は言った。
「まあ? いいよ?」
 オレは首を傾げてその言葉をくり返した。
 神崎がこちらを向いた。意志のある強い視線がオレを貫く。
「キミと付き合ってあげても」
 はっきりとした口調。
「え? あ? はあ……」
 呆気にとられて、オレはそんな間抜けな返事をする。
 そんな上から目線でものを言われるとは思わなかった。
 「まあ、いいよ」って。「付き合ってあげても」って。何だろう。こうなることを望んでいたはずなのに、あんまり嬉しくないんですけど。
 神崎はもうオレに用はないらしい。そのままくるりと方向転換すると、オレには一言も声をかけず、屋上を出ていってしまった。
 ばたんと閉まる扉。1人取り残されるオレ。つかの間呆然としていた。
「何か……」
 それは夏樹のこととか。自分でもあまり納得のいかないくまさんの真実のこととか。神崎の態度のこととか。いろいろなことがからみあって。
「何かすっきりしないんだよなー……」
 独りごちて空を見上げてみる。オレの内面とは裏腹に、空は雲1つないからっとした快晴だった。


 第3章

 それから神崎の付き合いが始まった。
 といっても、何かが変わったというわけでもない。今まで通りだった。登下校を共にしたりとか、一緒に昼飯食ったりとかどこかに出かけたりとかもしない。顔を合わせれば申し訳程度にあいさつする程度。
 大して話もしないので、オレは神崎について恐ろしく何も知らなかった。例えば神崎が好きなものは何かとか尋ねられても首をひねるほどだ。むしろ隣の席にいるヤツについての方が神崎のことよりもいろいろとわかってるんじゃないかと思う。
 でもオレは神崎に興味がなかったわけじゃない。むしろ神崎のことはすごく気になっていた。神崎をつい無意識のうちに目で探してしまう回数は前より増えていた。いつも神崎の姿を探してしまう。
 そして、神崎のことをもっとよく知りたいと思った。あまり話をしなかったというのは、単純に神崎を前にするとうまく喋れなくなってしまうからだ。何を言っていいのかわからなくなる。うちの家は女ばかりだったから、女の子と話すこと自体に抵抗はないし、実際、他の女の子相手だと普通に話せるのに、神崎だけはダメだった。
 何でだろう? そわそわして落ち着かない気持ちになってしまう。
 神崎のことが知りたくて、周りのヤツにそれとなく聞いてみたりした。
 1番気になったのは夏樹ルカとの関係だった。神崎は「赤の他人」などと言っていたがそんなことはないと思う。互いに名前で呼び合っている奴らが赤の他人であるはずがない。
 それと、ここ数日で気付いたことがあった。神崎と夏樹は会ったとしてもあまり言葉を交わさない。むしろ、顔を合わそうとしない。オレからはどちらかと言えば夏樹の方が故意に神崎を避けているかのように見えた。妙な関係だ。仲が良いようで悪いようで。よくわからない。
 だから、同じ野球部で内野をやっている木野に尋ねてみた。神崎と夏樹の関係を。
 木野の答えは単純明快なものだった。
「ああ、あいつら前に付き合ってたらしいぜ」
 と。
 やっぱり、と思った。心のどこかでわかっていた。そうじゃないかと疑っていた。
 そっか、そうなんだ。何が「赤の他人」だよ。そんなの嘘じゃないか。神崎も夏樹も本当のこと言ってくれたらいいのに。オレには知られたくなかったっていうのか?
「よく図書室で話したりしてんの見たぜ」
 と、木野は更にそう付け加えた。
 図書室、か。あ、そうだ……じゃあ、前に夏樹が言っていたあの台詞。『俺は野球のせいで大事なヤツの大切なものを奪ってしまったんだよ』ってやつ。
 あれの大事なやつって神崎のことだったのか? だとすると、神崎の大事なもんって何だよ……。
 夏樹は神崎のために野球やめたのか? それでそれが原因で別れたとか? 考えれば考えるほど気になってくる。何だか胸がむかむかする。同時にずきずきとした鈍い感覚もあった。何だコレ。
 オレの表情から木野は何を悟ったのか、
「何? お前、神崎に興味あンの? まさか好きとか」
 そんなことを言い出した。
 好き? オレが神崎を?
 一応、形だけの上では付き合ってることになっているが、その関係があっさりしすぎているので、周りからは気付かれてないみたいだった。
 オレはその質問について深くは考えないことにした。
「――別に」
 だからとにかく、からかわれたり不粋な噂を立てられることが嫌で、オレは憮然と答えた。
 考えてみればオレも夏樹のことは言えなかった。オレと神崎の今の関係だって十分妙なものだ。オレは神崎のことが好きかどうかよくわからない。
 神崎もオレのことなんか好きでもないだろう。
 なのに、形の上では「付き合ってる」ということになっているのだ。
 初めは目的があって神崎に近付いた。だけど、今となってはもうそんなことはどうでもよくなっていた。今更何をしたって過去は戻らないし、それは恐ろしく意味のないことだろう。それに当初自分が考えていたことを実行したって、もっとみじめでつらい気持ちになるってことにようやく気付いた。
 だからその目的のことはどうでもいい。関係ない。そうなると今まで苦労してやっと神崎と付き合えることになったことが意味のないことになってしまうが――神崎自身のことはどうでもいいとは決して思えなかった。
 友達でもない。恋人でもない。でもただのクラスメイトというわけではない。
 いったいオレと神崎の関係は何なんだろう。過去の呪縛によって縛られた腐れ縁……? しかし改めて考えてみれば、神崎はまだオレの正体について気付いてないんだ。
 その呪縛に縛られて前にも後ろにも進めなくなってしまっているのは、オレだけだった。


 11月ももう半ば。
 3週間後には期末試験が控えている。そのことを思い出して、オレは少し憂鬱な気持ちになった。テストの結果に大打撃を受けるのは毎度のことだが、それよりも定期考査1週間前になると全ての部活が活動停止になってしまう。
 何よりもそのことがつらい。オレから野球を抜いたら何も残らないと思うし。この気質は親父様譲り(もしくは小さい頃受けた洗脳)なんだろうなあ。
 神崎との関係は相変わらず。そーいえば、神崎ってオレのことどう思ってるんだろう。何とも思われていないような気もする。
 何だかこちらばかりが、うだうだしたり気を揉んだりしてるみたいだ。そう考えるとちょっと悲しいかな。いや、ホントにほんのちょっとだけど。
 そして、いよいよ夏樹と神崎の関係が気になってきたオレは、もう1度だけ夏樹にそのことを尋ねてみることにした。
 それで部活が終わってから、即行で図書室に向かってみたのだが……
 カウンター席にすでに夏樹の姿はなかった。あいつ、オレから訪ねてみた時はいつもいないよな。単に放課後は残ってないってだけなのかもかもしれないけど。
 何故か夏樹って、いついかなる時も図書室に生息しているイメージがあるんだよな。
 まあ、いないんならしょうがない。帰るか。そう思って図書室を出ようとして――やっぱり思い直して、自習スペースの方を覗いてみた。
 まだいるかな……。
 見ると、1番奥の窓際の席にその姿はあった。もう他の生徒の姿はない。机に向かって勉強してるのは神崎1人だけだった。
「エラいよなあ、日ごろから勉強する癖がついてるやつって」
 声をかけてみると、神崎はちらりとオレを見て確認し、教科書にまた目を戻した。
「何か用?」
 素っ気ない声。お、これは「可愛くない方」の神埼だ。
「いや、何でも」
 と、オレは答えたが、神崎はすでにこちらのことは気にも留めないで自習を続けている。やっぱりこういうとこつれないんだよな……。少しへこむ。
 それにしてもまだ中間3週間前なのに、こんなにみっちり勉強をやってるなんてホント偉い。オレなんていつも一夜漬けだよ……。
 他にすることがないので、オレは神崎のことを観察してみることにした。
 神崎は真剣な表情で問題集に取り組んでいた。完璧な卵形の顔に黒い髪がはらりとかかる。それをほっそりとした指で、うるさそうにかきあげた。形の良い耳があらわになる。何だか、そういう仕種1つに妙にどきどきした。
 それにしても、どうして女の子の身体ってこんなにも細いんだろう。首も肩もびっくりするくらい華奢だ。シャーペンを握る指だって細くて、強く握ったら簡単に折れてしまいそうなほど。
 何か最近、神崎は初めて会った時よりも、もっともっと綺麗になったような気がする。シャンプーのCMに出れそうなほどさらさらの黒髪。なめらかで木目細かな肌はミルクのように白い。やわらかそうだ、触ってみたらどんな感じがするんだろう。
 って、ん? ちょっと待て、今オレ何考えた? うわ、は、恥ずかしい! 何やってんだろうなあ、いったい。
 と、そこでいきなり、どん、という音がオレの思考を遮った。神崎が腕で机を叩いたんだ。そして、むすっとした顔でこちらを睨んでくる。
「こっち見ないでよ。気が散る」
 あー、きつい。ホント神崎はきつい。そんなに怒るなよ。見てただけじゃないか。
 言い返しても神崎相手には意味がないし、謝るのはシャクなので、オレは話題を逸らすことにした。
「わかった、わかった、睨むなよ。だけど、もうそろそろ下校時刻だぞ」
「え……」
 気付いてなかったらしく、神崎は慌てて立ち上がった。うん、オレ、神崎の扱い方に少し慣れてきたのかもしれない。
 筆記用具と教科書、ノートを片付ける神崎を見ながら、オレは口を開いた。
「――あのさ」
 断られたらどうしよう、なんてことは言う前から考えてもしょうがないけど、やっぱりどうしても不安に思ってしまう。
「よかったら、一緒に帰らないか?」
 神崎はこちらをゆっくりと見上げた。透明な眼差しだった。そして、またゆっくりと頷いた。
「……うん」


 すっかり日の暮れた通学路を神崎と並んで歩く。ちょっと歩くのが遅い神崎の歩調に合わせた。
 そーいえばこの道は、オレが神崎に「絶対、くまさんの謎を解いてやる」という意味合いのことを宣言した場所だ。
 あれからもう1ヶ月以上経つのか。
 あの時は神崎とこんな風になるなんてことは思いもしてなかったな。神崎の方はどうなんだろう。あの時と今とでは、何か変化があったりするんだろうか。
 ふと神崎の方を見るとばっちり目が合って、慌てて目を逸らした。
 あれ、今神崎オレの方見てたのかな?
 い、いや、そんなことは……気のせいだよな。
「最近は身体の調子は大丈夫なのか」
 オレはずっと気になっていたことを聞いてみた。
「うん」
 神崎はすぐに頷いた。確かに今は顔色が良い。調子の方は大丈夫そうだ。
「……そっか」
 少し遅れてオレは相槌をうった。
 すぐに沈黙が訪れる。神崎もオレも黙った。会話がない。
 神崎に夏樹とのことは聞けないし。
 あー、気まずい。いったい何を話したらいいんだろうなあ。
 神崎が相手じゃなければ、適当なことをぺらぺら喋ったりするんだけど、神崎じゃ何故かうまくいかない。適当な話をして、神崎がつまらない思いをしたらと考えると嫌だった。
 こんなこと真剣に考えるのは初めてだ。変な感じ。ああ、でもだからといって、黙ってるだけもつまらないよな。どうしよう。オレの頭の7割方は野球のことで占められてると思うが、野球の話なんて聞いて面白いのかな。
 と、悩んでいると。
「……野球、何かみんな一生懸命な感じだった」
 突然、神崎がぽつりと言った。ありがたい、野球の話題だ。
「ん?」
 聞き返す。神崎は前を見ながら淡々と続けた。
「グランドが図書室から見える」
「ああ、そうなんだ。もうすぐ紅白戦やるからな。3年が夏で引退したから。1年対2年で、実力計るために」
「よくわかんないけど……それって大事な試合なの?」
「うん、まあ。でも神崎、図書室から見てたんだ。練習なんて見てて楽しいもんじゃないだろ」
 何気なく言ったことだった。会話の継ぎ穂を失って、また気まずい雰囲気になりたくなかったので、思ったことを口にしただけだ。
 しかし、それで神崎は一気に不機嫌になってしまった。眉を吊り上げ、可愛い顔をしかめる。
 こちらを睨みながら、語気荒く、
「別に見てるわけじゃない。見えるんだよ」
「……何で怒るんだよ」
 前から思ってたけど、神崎の怒るポイントってよくわからない。
 また訪れる沈黙。神崎はむすっと黙り込んでしまう。理由はよくわからないが、オレが神崎を怒らせてしまったんだ。そう思うと気が沈んだ。
 どうしたら神崎の機嫌を良くさせることができるんだろうと考えてみた。でも、そもそも神崎の好きな物のことさえよく知らない。やっぱりオレって神崎のこと何もわかってないんだよな。
 オレが知っていることは神崎が毎日図書室で勉強を続けるすごく真面目なヤツであるということ、いつもつまらなそうなむすっとした顔でいること、すごく生意気で口を開けばいつも容赦ない口ぶりで話すこと、でも本当は体が弱くて貧弱なんだ……ってことくらい。
 神崎の方を見ると、神崎もこちらを見ていた。
 仏頂面なことに変わりはないんだけど、最近はちょっとした雰囲気のちがいみたいなものから何となくわかるようになっていた。神崎は怒ってるわけじゃない。ただ真っ直ぐにこちらを見ている。
 神崎の目は少し不思議な色をしていた。黒っぽいんだけど、完全な黒じゃない。例えるなら、まだ誰も見たことのないところにある深い深い海の中のような色。こういう色って何ていうんだっけ?
 やがて神崎が口を開いた。
「日曜日、ひま?」
 いきなり前後の脈絡をすっ飛ばした質問。
「え、何で?」
「こっちが訊いてるんだけど。暇なの?」
「暇、だけど……」
 そう答えると神崎は目を逸らし、1秒くらいしてから、またちらりとこちらを見上げて言った。
「じゃあ付き合ってよ」
 例によって居丈高な言い方。
 へ? とオレは束の間、呆気に取られた。
 付き合うって……
 いったいどこに?


 天頂まで昇った太陽が温かな陽気を注いでいた。その日差しを受け、芝生はよりいっそう青々と光り輝いている。芝生の上にはベンチが置かれていて、そこに座ったおじいさんとおばあさんが仲良さ気に談笑をしていた。
 神崎と一緒に中庭を歩きながら、オレは頭を悩ませていた。神崎の考えていることがよくわからないってことは今に始まったことじゃない。でも、さすがに休日に出かける場所が、ここだなんてことは思いもしなかったな。予想以上の、ってか、考えもしなかった突飛さである。
 少し前を神崎が長い髪をゆらゆらと揺らしながら歩いている。当たり前だが神崎の服装はいつもの制服じゃない。上はロゴがプリントされたクリーム色のカットソートレーナー。下は短めの黒いプリーツスカート。同じく黒のハイソックス。派手すぎず地味すぎない印象だ。私服姿の神崎って初めて見た。新鮮な感じ。何ていうか、その……けっこう可愛いと言えなくないこともなくはないというか……うん……。
 ま、まあ、それはともかく。
 初め神崎にここの前まで連れて来られた時、オレは呆気にとられた。びっくりしてしばらくは何も言えなかった。そうして何秒か呆然とした後、答えはわかりきっていたが、目の前の白い建物を眺めながら、
「神崎……ここは?」
 と、尋ねずにはいられなかった。神崎は至極当然といった面持ちで、
「病院」
 と、答えた。
 そう、何故かオレは今、この近くで1番大きな総合病院に来ていた。何をしにここに来たのかってことは神崎の格好を見ればわかる。神崎は途中で寄った花屋で買った花を手に持っていたからだ。
 花を持って病院に来たってことは目的は1つしかない。やっぱり、お見舞い、だよなあ。でも誰の? 友達? 親戚? ってか、そもそも何でオレを連れてきたんだ?
 と、それらのことにオレが頭を悩ませていた時。
「――来紗ちゃん!」
 涼やかな声が辺りに響いた。
 神崎とオレは同時に振り返った。
 芝生に伸びたアスファルトの小道の上を1人の少女がやって来ていた。
 年の頃はオレたちと同じくらい。闊達そうな感じの女の子だった。
 健康に焼けた肌にくりくりとした大きな瞳。茶色がかった髪が肩の辺りでゆったりと波打っている。神崎はとことことその子の元に歩み寄って行った。
 病院に来たのはこの子に会うためだったらしい。友達だろうか?
 近寄ると、オレも神崎もその子のことを見下ろす形となってしまった。その子は車椅子に乗っていたのだ。
「来紗ちゃん、久しぶり。来てくれてほんまありがとう。オーキニ」
 車椅子の女の子はやわらかい関西弁を使って話した。にこにこと笑った顔が可愛いらしい、明るい雰囲気の子だ。
 それに対して神崎は、にこりともせずに、
「うん、久しぶり」
 と、それだけを言った。神崎って本当に無愛想だよな。ちょっとでも笑い返してやればいいのに。
 しかし、車椅子の女の子は慣れているのか、気にした様子は見せずに、
「来紗ちゃんが来てくれてめっちゃ嬉しいわー、最近学校の方はどう? 楽しい?」
 と、朗らかな声で聞く。表情の豊かな子の隣に並ぶと、神崎の無表情っぷりや、冷めた感じが更に際立つ。
 やっぱりこれくらいの歳の女子で、こんなに表情の変化が乏しいのって珍しいよな。オレは2人を見比べながらそう思った。
 明るく話す車椅子の女の子とは対象的に、神崎は淡泊な声音で答えた。
「別に。特におもしろいこともないよ」
「ホンマかー?」
 車椅子の子は楽しそうに尋ねる。その目にはからかいの光があった。そして笑いながら、
「じゃあ、その人は誰なん?」
 と、オレの方を見てくる。
 う、この子まさかオレと神崎との関係を何か勘違いしてるんじゃないだろうな……。
 神崎はちらりとオレを見てから、実に簡単に紹介をしてくれた。
「同じ学校の工藤。で、こっちが七瀬愛稀(ななせあき)ちゃん」
 ちょっと、おい。神崎のやけにあっさりとした説明を聞きながら心の中でツッコミを入れる。オレと神崎の接点って「同じ学校に通ってる」ってだけか?
 神崎の紹介を受けて、七瀬はこちらに向かってニッコリと微笑んでくれた。いつも素っ気ない神崎ばかり見ているので、そういう態度が何だか新鮮だった。
 感じの良い子だ。笑うと頬にえくぼができて、それがまた可愛い。
「工藤くんやな? あたし、七瀬愛稀言います。よろしくな」
 そして、丁寧にお辞儀をする。オレも軽く頭を下げた。
「ああ、よろしく」
「工藤くんのことは来紗ちゃんから聞きよるよ」
 と、七瀬が言った言葉にオレは驚いて、神崎を見た。
「え、神崎が?」
「うん、めっちゃ変な転校生が来たって話しておった。なっ、来紗ちゃん?」
 神崎は相変わらず無表情でいる。オレ、そんな風に言われてたのか。変な転校生って。
「神崎にだけは変だって言われたくないよなあ……」
 思ったことが口に出てしまう。案の定、神崎はむっとした顔でこちらを睨んで来た。
「どういう意味? 工藤だって変人じゃん」
「変なのは神崎の方だよ。周りから180度くらいずれてるくせに」
「そうかもしれないけど、工藤の方がずっと変だってば。その上、バカだし」
「誰がバカだっ」
 七瀬がオレと神崎のやりとりを聞いて、からからと笑った。
「ええなあ、お2人さんとも仲が良くて」
 この子、やっぱり絶対に何か勘違いしてる……。オレと神崎はそんな関係じゃないぞ。神崎は、しかし、どうもオレたちの関係が勘違いされていることに気付いてないらしく、
「愛稀ちゃん」
 と、七瀬に向かって言った。
「あの本、見せてもらってもいい?」
「え、くまさんのあれか? うん、ええよ」
 七瀬が当たり前のようにくまさんのことを口にしたことにオレはびっくりした。え、それって「森のくまさん」のことだよな? この話って七瀬も知っていることだったのか?
 オレが七瀬と神崎のことを交互に見ていると、
「工藤、前にどうしてくまさんの謎にそんなにこだわるのかって聞いてたよね」
 と、神崎が言った。
「その答え、教えてあげる」


 七瀬の病室は大部屋だった。全部で6つのベットが並んでいる。その上で横になったり座ったりしているのは、20代くらいの女性やもっと歳のいったおばさんばかりだった。七瀬くらいの歳の子は他にいない。
 七瀬のベットは1番窓際だ。窓からはちょうど色づき始めたばかりの鮮やかなカエデの枝が見えた。隣にある棚には実にいろいろな種類の本がずらりと並んでいる。その量の多さにオレは感心した。
「本が好きなんや」
 そう言って、七瀬ははにかむように笑った。
 その棚の中から、一冊の本を取り出してオレに渡してくれた。
「ちょっと流し読みでもええから、読んでみて。おもろいよ」
 そう言われて、本を開いてみた。
 ハードカバーの本で、内容は小説でも評論でもなかった。まず目次には誰でも知っているような民謡や童謡の名前が並んでいる。それぞれの項目のページに移ってみると、その歌詞についての深い考察がなされていた。
 知らないことばかりが書いてある。あの歌が実は戦争の批判の歌だったり、誰かとの辛い別れの歌だったりするのだ。小学校の時、音楽の時間に何気なく歌っていた歌には、知りもしなかった様々な含みがあるのだった。
 オレは顔を上げて、七瀬を見た。
「この本にくまさんのことが載ってるのか?」
「ううん、ちゃうよ」
 七瀬は首を振る。
「その逆や。載ってないからこそ、自分たちで考えてみようと思った。な、来紗ちゃん」
 そう言って、神崎に同意を求める。神崎は持ってきた花を花瓶に移し替えているところだった。
「うん。ただのゲームみたいなもんだよ。暇つぶしの」
 そうだったんだ……。つまり、この1冊に触発されただけだったんだな。
 でも、
「だからって、くまさんの謎を解いた人と付き合うとか、そーゆーことを学校中に言い触らすことないんじゃないか?」
 オレがそう言うと、七瀬が「ええ!」と声を上げた。
「来紗ちゃん、そんなこと言っておったの?」
 七瀬はそこまでは知らなかったらしい。でも、当然か。神崎が自分からそんなこと言うわけないし。
 七瀬の問に、神崎は珍しく口ごもった(いつもずけずけと物を言う神崎が本当に珍しい)。
「ん……本当はそうまで言った覚えはないんだけどね」
 今度はオレが驚く番だった。
「え、そうなのか?」
「うん……夏前くらいから何か付き合ってくれってしつこく言ってくるやつがいて。断ってもまとわりついてきてウザいから、追っ払う良い方法はないかなって思ったんだ。そいつ、自分が断られるのには、それなりの理由がないと納得できないってやつだったみたいで」
 それで、神崎は言ってやったそうなのだ。じゃあ、あんたは森のくまさんの謎が解けるのかって。いくら告白にうんざりとしてたとはいえ、そういうことを言った神崎も神崎だが、そのしつこい男の方も大概にバカなヤツだった。
 つまり、そいつはこう思ってしまったのだ。それなら、森のくまさんの謎が解ければ神崎は自分と付き合ってくれるんだな、と。
 そしてそのことを学校中に吹聴して回ったそうだ。本当にバカというか、迷惑なヤツである。
 初めは勘違いする男どもに困っていた神崎も、そのうち放っておこうと思ったそうなのだ。気付いた時には噂は学校中に広まっていて、わざわざ訂正するのも面倒だったし、何よりもいろんなヤツが思い付かなかったような説を話してくれる。
 それで、神崎は勘違いされたままでいることにしたと。どうやらそういうことらしい。
 話を聞いた七瀬は心配そうな顔で、
「あかんよ、来紗ちゃん。そういうの本気にする人もおるんやから」
 はい……オレも本気にしたバカな奴らのうちの1人です……。
 まともに神崎の方を見れなくなって、歌の本に目を戻す。ぱらぱらとめくってみると、あるページで自然に開いて止まった。しおりが挟んであったのだ。紅葉を押して作った綺麗なしおりだった。
 あれ? オレは首をひねった。
 このしおり、どこかで見覚えがないか?
 あいつのことが頭に浮かんだ。でも……ちがうよな? すぐにその考えを振り払う。ただの偶然だよな。そう、きっと、たまたま似てるだけだ。
「水、容れてくる」
 神崎が花瓶を抱えて言った。七瀬は顔を綻ばせて「オーキニ」と言う。神崎はそのまま病室を出て行ってしまった。
 七瀬と2人残されて、オレはこの子に神崎のことを訊いてみることにした。歌の本を閉じて七瀬に返してから、
「神崎との付き合いは長いのか?」
「うーん、そうでもあらへんよ」
 と、七瀬は本を片付けながら答える。
「来紗ちゃんに会ったのは今年の6月のことやった。来紗ちゃんの方から話しかけてくれたんや」
 へー、神崎の方から? それはものすごく意外だ。あの非社交的な性格をしている神崎が自分から話しかけるなんて。七瀬の持つやわらかい雰囲気に影響でも受けたのだろうか。
「来紗ちゃんその時、たまたまあたしの好きな作家の本持っててな。それで話がおうて、仲良うなったんや」
 七瀬は車椅子からベットに乗り移ろうとした。手を貸した方がいいのかなと思ったけど、その必要はなく、器用に腕の力を使ってベットの上に移った。
 オレはさっき七瀬の言ったことに引っかかりを覚えた。
「さっき神崎とは病院で会ったって言ったよな?」
「そうや。来紗ちゃん、たまにここに検査に来るみたいだから」
「検査……」
「前まではこの病院に入院しておったんだって」
 七瀬はそこで言葉を切って、窓の外に視線を移した。
 ここから見える景色は病院の裏庭なんだろう。カエデの木が見える。色鮮やかに紅葉した葉も、まだ青々としたままの葉も、完全には変わってなくて中途半端に緑を残した葉も見える。さっきの紅葉のしおりを思い出した。
「来紗ちゃん、ホンマはめっちゃええ子なんや」
 外を見ながら七瀬は口を開いた。
「ただ入院生活が長くて、学校にも通えへんかったから、人付き合いがヘタなだけなん」
「学校に通ってない……?」
「あれ、来紗ちゃんから聞いてへんの?」
 こちらに目を戻す七瀬。
「来紗ちゃん、小学校低学年の時からずっと入院してたんよ。それで、中学校は卒業証書もらっただけで、1度も通うたことあらへんって」
 そっか、そうだったんだ。神崎は中学にも通えなかったんだ。
 神崎の尖った声が頭の中に蘇った。
『中学校と小学校……』
『うるさい、そういう話をするな』
 だから、神崎はあの時怒ったんだ。知らなかったとはいえ、オレは本当に無神経なことを言ってしまった。
 神崎は他のヒトが当たり前のように与えられていたものを小さい頃から奪われていた。持っていて当然のようなものを持っていなかった。確かに神崎は人付き合いがヘタだ。実際、学校でも浮きまくってしまっている。
 でも、それは仕方のないことだったんだ。神崎は周りとの合わせ方を今まで学ぶ機会がなかったんだから。
 脳裏に神崎が1度だけ見せた寂しげな表情がちらついた。
 黙りこんでしまったオレを、七瀬は静かな眼差しで見ていた。
 そして、
「あんな、工藤くん」
 静かな声で言った。
「工藤くんはさっきの話聞いて、バカらしいって思うたかもしれへん。くまさんの話しやけどな、たかが童謡の謎を真剣になって考えたりするのって、確かにバカらしいことかもしれへん。でもな、そうでもしてないと、うちら入院患者は暇なんよ。何もすることがあらへんから」
 七瀬の目も寂しそうに歪んでいた。その視線にオレは切ないような気持ちになった。
「ここ、9時には消灯なんよ。信じられる? 9時になると全部の電気が消えてしまうんや。その後、何もできへん。ホンマにすることがないん」
 そうだ……そのことは親父様も言っていた。何もすることがないんだと。退屈で仕方がないと。いつも元気だった親父様にとっては、何もできないことが一番つらいことなんだと言っていた。ナイターを見ていても、途中で消灯時間になって最後まで見れないということが多かったらしい。
「できることってゆうたら、寝るか考え事するくらいや……」
 七瀬は最後の方を俯きながら口にした。
 小学校の時から入院していたという神崎は、どれだけ長い時間そういう時を過ごしてきたのだろう。どれだけそういう時とたった一人きりで向かい合ってきたのだろう。
「来紗ちゃん、いつも平気そうにしとるけど、でもやっぱり寂しい思いをしてるんやと思う。だから工藤くん、お願いな、来紗ちゃんと仲良くしたって」
 そう言って七瀬は微笑み、えくぼを作った。
 ちょうどその時、神崎が両手で花瓶を抱えて帰ってきた。先程と雰囲気が少し変化していることを感じたのか、神崎は不思議そうにオレと七瀬のことを見比べていた。
 オレは神崎のそんな姿を見て、何故か胸が痛むのを感じた。


 昔、親父様に言われたことがある。
 その時の親父様は酔っていた。ジャイアンツがリーグ戦で大敗したから、とにかく飲みまくっていた。やけ酒ってやつだ。そして、そんな酔いが回っていた親父様に言われた。
『いいかぁ、お前にもし好きな子ができたらなあ、ガンガン攻めて落としてやるんだぞぉー。待ってるだけなんて絶対にダメだ。そんなことしてたら、他の男にとられるだけだからな』
 顔が赤かった。呂律も回ってなかった。明らかに飲み過ぎだった。
『父さんも昔はそうやって母さんを落としたものだよ。わっはっは』
 本当にべろんべろんで、正にたちの悪い酔っ払いだった。
 そんなバカ親父のうわごとなんて聞き流していればいいものを、その時のオレは律義に答えを返していた。
『でも、親父様。オレにはそーゆーのは当分関係のない話だよ』
 たぶん、笑顔で言ってたんだろうな。それは心の底から思っていることだったから。
『オレにとって1番大事なのは野球だけだから!』
 そう信じていたし、そう思っていたんだ。小学生の時のオレは。
 いや、ちがう。その時だけのことじゃない。今だってきっとそうだ。
 同じだよ。


「愛稀ちゃん、今年の3月に事故にあったの」
 歩きながら神崎は、ぽつりと話し始めた。病院からの帰り道だった。すでに辺りは暗い。神崎は遠慮したが、オレは神崎のことを送っていくことにしたのだった。
「事故……」
「うん。交通事故。それであんな風になっちゃって……」
 神崎の台詞に、今度ははっきりと胸が痛むのを感じた。
「初めて会った時、人事じゃないなって思った。だってうちも」
 その次、神崎が何て言うのかオレにはわかっていた。わかっていたから聞きたくなかった。
 でも、神崎にオレの心の内が読めるはずもなく、続きの言葉は話された。
「うちのお父さんも事故を起こしたことがあるから。今から5年前に」
 5年前の交通事故……やっぱりあのことか。
「お父さんとお母さんが車に乗ってた。病院に向かう途中だった。運転してたのはお父さん。急いでいたからけっこうスピードが出てて。それで、交差点のところで事故を起こした。車と衝突したの」
 神崎はちらりと顔を上げてオレを見た。
「ぶつかった車には小学生の男の子が乗ってたんだって」
 オレは神崎の顔をまともに見れなくて、目を逸らした。
「幸い、その子と運転してた母親の怪我は打撲と骨折で済んだみたいだけど」
 神崎は話を続けた。こんなに饒舌な神崎はくまさんの話をした時以来だ。
「でも、ちょっと心配なんだ。交通事故って後からいきなり後遺症が出てきたりするから」
 突然、神崎がぴたりと足を止めた。ここが神崎の家らしい。豪邸というほどでもないけど、中々立派な家だった。そういえば、神崎のお父さんってけっこうな地位についている人なんだよな。
 神崎の家の前で神崎と向かい合う。さっきからオレは一言も話していない。何も言えない。神崎の言うことを黙って聞いていた。
「その人の名前、河野(こうの)さんっていうの」
 神崎は言った。下を向いて続ける。
「河野さん、大丈夫だったかな。今も無事でやってるといいんだけど」
「――大丈夫だよ」
 オレはようやく言うことができた。神崎の少し不思議な色をした目に向かって、言葉を継ぐ。
 神崎は怪訝な顔でこちらを見た。
「何でそんなことが工藤にわかるの」
「何となくだよ。そう思うんだ」
「……変なの」
 神崎はじっとオレを見つめていた。
 その瞳は昼間見るのとはちがう輝きを放っていた。夜の帳の中、辺りの闇とは明らかに質の異なる不思議な色だった。
 完全な黒じゃない。完全な青というわけでもない。青が少し混じっているような黒。
 それは、瑠璃色の輝きだった。
「やっぱり工藤って変だね」
 その色がちらりと揺れて、目が細められる。
 神崎は悪戯っぽく笑っていた。子供のような無邪気な笑顔だった。
 神崎もこんな風に笑えるんだ……笑ったら可愛いだろうなと思ったことはあるけど、想像していたものよりも、それはずっと愛らしく可愛いらしいものだった。
 でも、オレはその笑顔を見て、切ないような変な気持ちになった。何だろう。胸の奥がずきずきする。
 抑えのきかない感情が沸き上がってくる。そして、ごく自然にそれを思った。

 ――今、この子を思い切り抱きしめてみたい――

 そうか。ようやく理解した。自分の気持ちを。この感情の正体を知ってしまった。どうして今まで気がつかなかったんだろう。自覚するのが遅すぎた。
 オレは、この子を守ってあげたかった。神崎の抱えているものをオレにも回してほしかった。それが例え底の見えないような暗くて深い闇だって構わない。つらいことだって全部分かち合いたい。オレはこの子の支えになってあげたかったんだ。
 そして、神崎にはもっといっぱい笑ってほしい。この世界には楽しいこともたくさんあるのだということを知ってほしい。神崎が笑ってくれるのなら、オレはいくらでもバカにだって道化にだってなってやるよ。
 だから……だからもう、全てがつまらないと言わんばかりの顔をするなよ。淋しそうな表情を見せるなよ。
 オレは。
 オレは神崎のことが――
「何をやっているんだ」
 その声は突然、降って来た。声のした方を向く。そこには会社帰りらしい中年のおじさんが立っていた。
 神崎の親父さんだ。すぐにわかった。親父さんはオレの記憶にある姿よりも、ずっと老けてしまったように見えた。全体的に疲れたような雰囲気をしている。目尻のシワも深くなっていた。
 そして、オレが一目でこの人が神崎の親父さんであるとわかったように、この人もまた、
「き、君は」
 わかっていた。オレが誰なのかということを。
「河野くんじゃないか……!」
「え……」
 親父さんの言葉に1番動揺したのは神崎だった。目を見開いてオレを見る。いつも表情の変化が乏しい神崎が困惑の色を露にしていた。
 神崎の親父さんも動揺していることは同じらしく、
「何故、君がここに……来紗と一緒に……まさか君は来紗に」
 と、神崎とオレを交互に見る。それからオレのことをじっと見つめた。その目に何かの強い光がぴかっと弾けた。あまり好ましいとは言えないものだった。敵意、とはちょっとちがうか。まだそこまではいかない。それに発達する以前のもの。
 それは警戒の視線だった。
「来紗、うちの中に入ってなさい」
 親父さんは神崎に鋭く命じた。神崎は困ったようにオレを見た。
「でも」
「いいから行きなさい」
 ぴしゃりと言い付ける。
 神崎はまだこちらを見ていた。何かを言いたげな様子だった。そして、見たことのない悲しそうな表情をしていた。
 さっきとは目の色が変わっている。他の人なら気付かないような些細な変化だったが、オレにはわかる。
 あの瑠璃色の輝きがなくなっている……
 神崎の瞳はそれとはちがうもっと暗い色をしていた。
 さっき、ついさっきのことだったんだ。神崎にはもう淋しい顔をしてほしくないって思ったのは。オレがそんな顔をさせないようにしようって誓ったのは。あの気持ちに嘘やためらいはなかった。なのに。
 それなのに。
 オレはどうして神崎にこんな顔をさせてしまっているのだろう。
 結局、神崎は親父さんの言うことに従った。ついと視線を反らし、オレを見ることはもうなく、家の中へと入ってしまう。門ががしゃんと非情な音をたてて閉まった。
 神崎……
 オレは親父さんと2人残された。
「久しぶり、だね」
 親父さんはこちらの様子を探るように慎重に声をかけた。年下の相手に話しかける時の親しみや気楽さなんてなかった。ただオレの一挙一動に注目し、警戒をしていた。
「……そうですね」
 オレはそんな視線から逃れたくて、俯きながら言った。
 気まずい沈黙が流れる。親父さんも何と言っていいのかわからないのだろう。まさかオレとまたこんな所で会うとは思ってもみなかったことだろうし。
 しかも、その男が自分の娘と2人きりでいたとなれば――
「君が私のことを好ましく思っていないことは知っている」
 神崎の親父さんはようやく口を開いた。オレは顔を上げた。親父さんはやはり友好的な様子など微塵もない、鋭い目をしていた。
「だからこそ、聞いておきたい。何故、来紗といっしょにいたんだ? 来紗に何をするつもりだった? 君はまさか」
 今度は親父さんの方から視線を反らした。まるでオレに怯えているかのようだった。
「あの時の憂さ晴らしでもするつもりだったのか?」
「別にオレはそんなつもりは……っ」
「じゃあ聞くが」
 抗弁しようとしたが、その言葉はすぐに遮られる。
「君は知っていたのか? 来紗が私の娘であるということを」
 頭をがつんとやられたかのような気分だった。そうだ、言い訳なんて意味がない。だって神崎の親父さんが言っていることは真実だ。
 初めオレが神崎に近づいた理由は――
「どうなんだ」
 神崎の親父さんがくり返す。
 オレはこう答えるしかなかった。
「知って……いました……」
「そうか」
 やっぱりな、という顔を親父さんはした。そして、こちらを見る視線が更に険悪なものになる。
「知っていて、来紗に近づいたんだな?」
 そうだった。正しくその通りだった。
 オレは神崎がこの人の娘であると知っていた。知っていたからこそ声をかけたんだ。そして神崎に近付くためにくまさんの謎を解こうと思った。
 全てはこの人に会うために。あの事故を起こした本人と接触したいがためにやったことだった。
 最低だ。最悪だ。オレは神崎のことをこの人に会うための手段くらいにしか思っていなかった。神崎を利用してやるつもりだったんだ。
 ……ごめん……ごめん、神崎……オレには神崎のことを大事だなんて思っていい資格がなかったよ……
 神崎はいったいどう思ったんだろう。オレがかつて父親が起こした事故の被害者だと知って何を感じたんだろう。
 悲しげに歪んでいたあの顔が思い出された。
 傷付けてしまったのか? オレが、神崎を? ああ、本当に最悪だ! 守ってあげたいなどと思っておいて、結局自分がしたことは神崎を傷付けることだったなんて……
 喉の奥が引きつるようになって、言葉がでない。無言でいることはつまり肯定の証だった。神崎の親父さんはそんなオレを見て、
「あの時のことは本当に心の底から謝罪したい、申し訳なかった」
 突然、そう言った。
「君が私のことを怨む気持ちももっともだ」
 言いながら、窺うようにこちらを覗く。
 その視線でわかった。この人はオレに怯えているんだ。
 この人はオレがあの時の復讐をするために神崎に近付いたのだと思っている。そして、大事な娘が傷付けられてしまうかもしれないということに怯えているんだ。
「だが、来紗は、来紗だけはやめてくれ……」
 親父さんは呻くような声で言った。命令ではなく懇願だった。
「身勝手なことは承知している。だが、あれは私の大事なたった1人の娘なんだ。だからこの通り、お願いだ」
 そして、神崎の親父さんは頭を下げた。綺麗に90度腰を曲げた模範的なお辞儀だった。
 こんな立派な大人の人に、こういったへりくだった態度をとられたことなんて今まで1度もない。オレはどうしていいかわからず、うろたえてしまった。
 そして。
「今後は来紗にいっさい近づかないでほしい……」
 神崎の親父さんは、たかが高校生のオレに頭を下げてまでそう言った。


 第4章

 小さい頃から親父様に昭和時代の怪物、江川のことは散々聞かされていた。
 いかにすごいプレーヤーであるかを、いかにすごい球を投げるのかということなんかを。
 江川は日本の野球界で最も早い球を投げるピッチャーだ、なんてことまで言っていた。その話をオレはおとぎ話を聞くような感覚で聞いていた。
 江川はヒーローだったんだ。親父様にとって。そしてオレにとっても。
 だから憧れた。そういうプレーヤーになりたいと思った。その気持ちが更に固まったのは夏樹ルカに会ってからだった。
 小学生の天才ピッチャーと言われるほどであった夏樹。あいつは本当に天才だった。生まれながらの才能ってやつを持っていたのだろう。あいつは野球をするためだけに存在している、なんてそんな大袈裟な言葉を冗談にできないだけのすごい才能だった。
 綺麗なフォーム。力強い球。
 どんなに腕の良い打者も夏樹の球を前にしては、ひるんでしまう。オレは1つ年上なだけなのにこんな球が投げられるのかと感動した。そして、そんな球を投げられる夏樹に羨望し、嫉妬し、憧憬したんだ。
 あの時、夏樹は確実にオレの胸の奥に眠っていた何かを揺さぶった。
 それからというもの、何としても上手くなりたいと思うようになった。遊びの一種として楽しみながらやっていた野球を真剣に考えるようになり、技術面にばかり目が行くようになった。
 毎日、練習をした。体力を作るためにランニングもやった。雨が降っている時だって1日も欠かさずにそれを続けた。そして、ボールを投げた。本気になって体を鍛え始めたオレを親父様は喜んで奨励してくれたけど、母さんは厳しかった。無理な運動のしすぎは体に良くないと練習を制限してきた。「全力投球は1日に50球まで」ということを約束させられたりもした。
 それでもオレはうまくなりたい一心で、その目を盗んでそれ以上の球を投げた。
 オレは……
 江川や夏樹のようなピッチャーになりたかったんだ。
 そして、その夢を潰すきっかけとなったのが、5年前のあの事故だった。
 その時のオレは小5だった。母さんの運転する車に乗っていた。後部座席に座っていて、シートベルトはつけていなかった。
 事が起こった時の前後関係はあやふやだ。どこに向かう途中だったのかとか、その時母さんと何を話していたのかとかは記憶にない。ただそこが十字路であったことだけは覚えている。
 いきなりの轟音。そして衝撃。急ブレーキが車道に、軌跡を切り刻む音が鳴った。視界が揺れ、突然のことで頭が真っ白になる。体が投げ出された。そして、肩を扉の所に嫌というほど打ちつけた。後から聞いた話によると、横方向から飛び出して来た車に衝突されたらしい。
 こちら側の線が青信号だった。事故の原因は相手ドライバーの前方不注意。
 すぐに近くの総合病院に運ばれた。いくつかの検査が行われ、脳には特に異常なしと診断された。ただ、右肩関節の骨にヒビが入っている、しばらくは通院が必要になるということを言われた。
 当然、その間野球はできない。最悪だった。練習ができなければ体がなまってしまう。
 しかし、かといって、それで相手ドライバーを恨んでも仕方なかった。相手のおじさんは誠実な人で、何度も頭を下げに来てくれた。十分過ぎるほどの慰謝料と治療費も支払ってくれたそうだ。
 おじさんには娘がいるみたいだった。そもそもおじさんは、その子が入院している病院に向かおうと車を走らせていたらしい。容態が急変したとかいう連絡が入っていて、慌てていたのだとか。そして、運転中に携帯電話が鳴った。娘のことで連絡が来たのかと思い、おじさんは電話に出ようとしてしまった。一瞬の気の緩み。それが事故につながってしまったんだ。
 話を聞いて、オレはその人に同情さえした。おじさんを責める気持ちはなかった。確かに災難だったけど、今回のことは運が悪かったということで諦めるしかない。
 そう思っていたんだ。
 その時は。
 1ヶ月ほどで肩は完全に完治した。やっと野球ができる、とオレは喜んだ。治るまでの1ヶ月間、運動ができずに本当に窮屈な思いをしていたんだ。だから、すぐにボールを握った。また投げるようになった。
 違和感を感じたのは、練習を再開して1週間くらい経ってからだ。
 肩に痛みを感じた。大したことじゃない。軽い鈍痛のようなものだった。おかしいなとは思ったけど、あまり気にしなかった。とにかく早く上手くなりたいと思っていたオレは、それくらいの痛みで立ち止まりたくなかったんだ。
 痛みは続いた。普通に投げてる分には平気なのだが、全力投球を続けていると思い出したようにそれが襲ってくる。しかし、オレはそのことを誰にも話さなかった。母さんに言えば、練習を止めさせられてしまう。また野球ができなくなってしまうのはつらかった。
 そうしてその痛みを抱えたまま、オレは野球を続け、中学生になった。
 中学に入ると、部活での練習は急に激しくなった。毎日投げるうちに、肩の痛みの方もだんだん増すようになっていた。投げる時だけでなく、練習が終わった後もなかなか引かないようになっていった。そのうちそれは激痛と呼べるくらいのものまでに変化した。腕を上げようとしただけで、鋭い痛みが走るのだ。とうとうガマンできなくなって、オレは肩のことを両親に話した。
 すぐに医者に連れて行かれた。そして、そこでレントゲンを取られた。
 骨端線が広がっている。それで骨の形が変形している。でもそうなった原因はよくわからない。医者はそう告げた。それでオレは前にあった事故のことを話した。ああ、たぶん、それでしょうねえ、と医者は言った。
 それから何日か部活を休んで安静にしていると、痛みはだんだん引いていった。そして、普通にボールを投げる分には痛まなかった。肩の怪我は、まるで投手としての生命を絶つためだけに存在するかのようだった。
 何度目かの通院で、医者はこう判断した。日常生活にも、普通にスポーツをやる分にも支障はありません。ただ、とにかく肩に負担がかかる投手を続けることは無理でしょう。
 それでマウンドを、下りなければならなくなった。
 あの時の悔しさは忘れられない。
 今までの練習はなんだったのか。何のために毎日毎日、続けてきたのか。何で、こんなことになったのか。考えると、頭がぐちゃぐちゃになってつらかった。もしかしたら、もともと才能もなく、いつか能力不足でそういう日が来たのかもしれない。でも、こんな風に理不尽に夢を奪われることが耐えられなかった。
 オレと同じくらいに、いや、あるいはそれ以上に、このことに失望した人がいた。うちの親父様だ。上と下の子供が2人とも女の子だったから、必然的に親父様の期待はオレ1人に集中していた。親父様はオレに期待していたんだ。投手として活躍してくれることを、自分が届かなかった甲子園の夢をいつか掴んでくれることを。でも、それはかなわなくなった。
 それからというもの、親父様は帰りが遅くなるようになった。帰ってきても、酒を飲んでいてぐでんぐでんに酔っ払っていた。どこにぶつけることもできない、鬱屈とした思いがたまっていたんだろう。まさかオレを責めるわけにもいかない。
 だから、親父様は母親を責めた。
 あの時、運転をしていたのは母親だった。親父様は「事故の責任はお前にもあったんだ」と母親に詰め寄った。母さんも言われっぱなしで黙ってはいられない。「この子はまだ中学生よ、それにたかが野球のことじゃない」と言い返した。
 たかが野球――その言葉が親父様の逆鱗に触れた。日増しに両親の関係はぎすぎすしたものになっていった。そして、オレが中2の時に離婚が決まった。
 オレだけの所為ではなかったのかもしれない。最近、母親と父親の折り合いが何かと悪いことは、何となく肌で感じていた。オレのことがなくても、そのうち結局はこういうことになってしまったのかもしれない。それでも、自分のことが引き金となってしまったことは確かだった。 
 どうしてこうなってしまったんだろう。
 姉と共に家を出て行く母親の姿を見ながら、オレは考えた。そしてあのおじさんのことを思い出した。おじさんのぱりっとしたスーツ、白いものが混じり始めた頭、真面目そうな目付き。そして、おじさんの娘のことも思い出した。
 事故があってから1ヶ月間、オレは週に1度通院することになっていた。その時におじさんの娘に会ったことがある。会ったというより、ちらりと見たことがあるっていう程度。直接、話をしたことはない。
 談話室でおじさんと話をしている女の子がいた。それをオレは遠目に見た。その子はパジャマ姿だった。それで入院していることがわかった。怪我でもしてるんだろうか、それとも病気か。どちらにせよあまり重くは考えなかった。短期入院なのかと思っていたからだ。
 同い年くらいだった。これくらいの歳なら、男の子より女の子の方が体が大きいのが普通だが、その子は小さかった。簡単に折れてしまいそうな細い手足をしていた。頬は雪国で育ったかのように白かった。その白さと、長くて黒い髪とのコントラストが人目を惹きつける。
 学校でその子のような女の子は他にいなかった。だから、何となく記憶に残った。
 その子の顔を、綺麗な髪を、白い肌を、オレはその後も覚えていたんだ。
 そう、ずっと。


 神崎の家を離れ、そういったことを思い出しながら歩いているうちに、駅前の商店街に来ていた。街はすでにクリスマスのイルミネーションで飾られている。色とりどりのライトに目がちかちかした。
 ふと視線を逸らすと、隣はおもちゃ屋。ショーウィンドウにテディベアが飾ってあった。小さなものから、1メートルくらいはありそうな大きなものまで、たくさんのテディベアがある。どのくまさんも可愛らしいあどけない顔をしていた。本物のくまとは大ちがいだ。
 もしかして、森のくまさんは――
 そのテディベアを見ながら、オレは思った。
 くまさんって実は、わざとつじつまの合わない行動をしてるんじゃないだろうか?
 逃げろとか、待ちなさいとか。まるで二重人格者のように、ころっと態度を変えて。
 くまには2面性ってものがある。
 オオカミやライオンの人形なんて動物園くらいでしか買うことはできない。でもくまはちがう。くまはどこででも、その本来の気質とちがう可愛らしいぬいぐるみの姿を見ることができる。
 恐ろしい姿と、それとは対照的な愛玩人形。くまはその2面性が顕著な動物だ。
 だから、作者はそのくまさんの2面性を、歌詞の中で表そうとしたんじゃないのか。わかってて、わざとそうしたんだ。
 そこまで考えて、思わず苦笑い。ショーウィンドウに写った自分の顔も、情けない感じに歪んでいた。だから何だと言うのだろう。我ながら下らない説だった。今更こんなことを考えて何になるというのか。
 これから神崎との関係がどうなるのかわからない。でも良い方に向かっていくなんていう可能性は限りなく低いんだろう。神崎の悲しそうな顔を思い出した。
 とにかく神崎とは明日、話をしなければならない。本当のことを全部話そうとオレは思っていた。いや、オレが話すまでもなく、今ごろ神崎は親父さんからいろいろと言われてるだろう。
 親父さん、オレに「今後は来紗に近付かないでほしい」って言ってきたくらいだもんな。きっと神崎にも、同じようなことを言っているにちがいない。
 ショーウィンドウの中からは、相変わらずくまさんがこちらを見つめていた。凶暴さの欠片も感じさせない、愛らしい瞳で。やっぱりテディベアって可愛い。まるっこくてふわふわで、くるくるとしたつぶらな瞳を持っていて。
 でも、それは本物じゃなかった。作り物の目だった。ただのビーズだ。目だけじゃない。その顔も、身体も、全部が作り物なんだ。本物のくまとはちがう。
 テディベアなんて、所詮はくまの偽者だ。


 家に帰ると、電話が鳴った。
 取る人がいないので、仕方なくオレが出た。もしもし、と声をかけたが相手は無言。沈黙が続いた。いたずらかなと思い、切ろうとした時、やがて小さな声が言った。
『工藤?』
 その声にオレはすがる思いで飛びついた。
「神崎! 神崎、あのさ、オレ……っ!」
『明日の朝。7時半に来て』
 抑揚のない声でそれだけ言って、電話は切れた。


 7時半より早めに学校についた。神崎のことを考えると、胸が痛かったし、苦しかった。それでもオレは神崎に会って、ちゃんと話をしなければいけなかった。
 教室に入ると、すでに神崎は来ていて自分のイスに座っていた。こちらをゆっくりと振り向く。その視線にどきりとした。
 神崎は完全な無表情だった。
 前だって無愛想だったけど、それとはちがう、もっと何かが欠けてしまった面持ちだった。
「屋上で話そう」
 神崎は静かな声で言った。
「カギ、貸して」
 夏樹から預かったままでいた屋上のカギを渡すと、そのまま教室を出ていってしまう。
 オレはその後を追った。
 廊下の空気はひんやりとして、ピンと張り詰めていた。まだ他に生徒がいない時間帯だからだろう。屋上へと続く階段を昇る。短いはずの道程がやたら長く感じられた。神崎は鉄扉のカギを開け、先に屋上に入ってしまう。
 その扉を前にして、オレは少し躊躇してしまった。
 神崎のあの表情。あんな顔をさせてしまったのはオレなんだよな。取り返しのつかない何か大事なものを、失わせてしまったような気がした。
 ポケットに手を入れると、ボールに触れた。それを取り出してしっかりと握ってみる。
 野球か……そういえば、夏樹が前に言っていたよな。
『野球のせいで大事なやつの大事なもんを奪っちまった』って。
 あいつ、あの時やけにしんみりとした顔をしていた。
 オレも今、それと同じ状況にいるのかな。いや、でも、これは夏樹の抱えてるものとはちがうものなんだろうか。ああ、よくわかんないや。何でこんなことごちゃごちゃ考えてんだろう、オレ。
 考えたってしょうがないだろ。自分にそう言い聞かせる。
 そして、覚悟を決めて、ボールをポケットに突っ込み、扉を開けた。びゅっ、と強い風が吹き込んで来た。身体の芯を冷やしていくような冷たい風だ。
 神崎は手すりの所に立って、こちらに背を向けていた。オレが入っていくと振り向いて、口を開いた。
「うちのお父さんのこと、工藤は知ってたの」
 以前、神崎と相対した時は、その目にもっと強い意思の光みたいなものがあった。
 でも、今はそれがない。本当に全ての感情が抜けてしまった眼差しだ。オレはそのことに罪悪感を感じながら、正直に言った。
「……知ってた」
「初めから知ってたの、それとも途中で気付いたの」
「初めから……知ってた」
「……そっか」
 神崎は納得したように頷く。
「だから近付いてきたんだ」
 静謐な声だった。淡々とした眼差しだった。
 オレは、ちがう! と言いたかった。そう言えたら……どれだけよかったか。でも、神崎が言ったことは紛れようもない事実だった。神崎の弾劾するような鋭い視線から逃れたくて、オレはただ面を伏せた。
 そのことに何を感じたのか、神崎は少しだけ舌尖を鋭くして、
「それだけじゃなくて、優しくしてくれたのも助けてくれたのも、全部お芝居だったんだね。フリだけだったんだ。こっちに近付くための」
「そ、それは……ちがうよ」
 もっとはっきり言おうと思ったのに、自分の口から出た言葉は弱々しいものだった。自分でも説得力ないなって思えるほどの。
「何がちがうっていうの」
 当然、神崎は合点がいかないように眉をひそめた。
 オレは先程よりは声を張り上げて、話した。
「確かに初めはそうだった。神崎の言う通りだ。オレは神崎の親父さんに会いたくて、その目的のために神崎に近づいた」
 神崎の親父さんに会ってどうしようなんて、明確な考えがあったわけじゃない。文句の1つでも言えたらいいや、ぐらいの気持ちだった。今考えると、恐ろしく浅はかで幼稚な考えだ。オレは自己中心的で、見苦しい考え方しかしていなかった。今更そんなことをしたって、起きてしまった過去を変えられるわけないのに。
 言い訳を1つさせてもらえるなら、この夏に親父様を亡くしたばかりで、気持ちが不安定になっていたこともあったのかもしれない。どちらにせよ、オレがみっともない物の考え方をしていたってことに変わりはないけれど。
 とにかくオレは転校して来た学校で、思いがけず神崎に出会い、あの人の娘だってことに気付いて、居ても立ってもいられなくなってしまったんだ。
 そして、ほとんど思いつきで神崎に近付くことを決めた。
 だけど――
「途中から何か変わっていったんだよ……。そういうことはどうでもよく思えてきて、オレは」
「信じない」
 神崎は途中でオレの言葉を遮った。下手な弁解など聞きたくないと言わんばかりに首を振る。
「そんなこと今更どうとでも言える。だから信じない。工藤も証明なんてできないでしょ」
 確かにそうだ。話したことに偽りはなかったけど、オレはそのことを証明できない。肝心なのは神崎が、信じてくれるか、くれないかだ。そして、神崎は信じてくれていない。
 オレのことを最初から最後まで、嘘で固めて行動していた最低な奴だと思っている。
 謝らないとな、とオレは思った。ごめんって言わないと。信じてくれないかもしれないけど、またどうせフリだけでしょって言われるかもしれないけど、今オレの中にある神崎に謝りたいという気持ちは本物だった。
 悪いのは全部オレだ。だからちゃんと謝ろう。オレは口を開きかけた。
 しかし。
「……ごめん」
 先にそう言ったのは神崎の方だった。オレは驚いて神崎を見た。何で神崎が謝る必要があるんだよ。悪いのは全部オレなのに。
「わかってるよ、悪いのはこっちの方だって。事故を起こした責任はうちのお父さんにあるんだから。それなのに責めたりしてごめんね」
 神崎は俯いていた。またあの悲しそうな顔だ。
「工藤が怒るのも、お父さんを恨むのも仕方がないことだよね。キミはあんなに野球が好きなんだもんね。それを理不尽に奪われたり潰されたりしたら、誰だって怒るよね……ごめん」
 そして、ぺこりと頭を下げる。
「本当に……ごめんなさい……」
 ちがうよ、神崎。謝らなきゃいけないのはオレの方だよ。頭を下げなきゃいけないのはオレなんだよ。
 冷たい風が身体の体温を奪っていく。じんじんと手足が痺れていった。
「神崎、オレは」
 そう言いかけたが、自分でも何を言おうとしていたのかはよくわからなかった。
 1番に告げなきゃいけないことは謝罪であったはずなのに、それを押しのけて、言葉が洩れた。
 神崎が続きを促すように見てくる。
 でも、オレにも何が言いたいのかよくわかっていなかったのだから、その後が続くはずもなく、中途半端な言葉は11月の大気に溶けていった。
 ――沈黙。
 目が合った。神崎の方から視線を逸らされた。
「……じゃあね……」
 呟くように神崎は言う。そして、そのままオレの横を通り過ぎて行こうとする。
「神崎、待ってくれ!」
 オレはほとんど衝動的に、その腕を掴んでいた。さっき言いかけて、落としてしまった言葉を探す。
 自分は何を言おうとしていた?
 神崎に何を伝えなくちゃならない?
 そして、見つけた。
「ちがうんだよ! 今は、今はオレは、神崎のことが好きなんだよっ!」
 神崎がハッとする。
 オレも驚き、慌てて手を離した。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。顔が火照った。自分の声が耳の奥でわんわんと反響する。
 神崎は始め、固まっていた。
 次に眉を下げて、泣きそうな顔になる。最後にはその目を吊り上げ、険しい表情をした。
 ぱん、と空気が弾ける音を立てる。
 神崎が手を上げている。一瞬何が起きたのかわからなかった。じんわりと痛みがしみてきて、それと同時に理解が広がる。
 ――叩かれた。
 オレは神崎に平手打ちされたんだ。
「そういうこと、聞きたくない!」
 神崎は怒っていた。怒っていながらもその顔は歪んでいた。まるで泣き出す一歩手前のように。目の下が赤くなっている。
 叩かれたことよりも、言われた言葉よりも、オレは神崎のその泣きそうな表情に打ちのめされ、胸が痛くなった。
「嬉しかった! キミが優しくしてくれたことも、助けてくれたことも、当たり前のように接してくれたことも、全部すごく嬉しかったのに!」
 神崎は悲しみを無理やりにでも怒りに変換させようとしているみたいに、言葉を吐き続ける。
「キミは、キミだけは他の人とはちがうって思ってた! 何か利用してやろうとか自分のために目的があって、近付いてくる人たちとはちがうって思ってたんだよ!」
 その台詞にハッとした。
 オレは初めて――この子の、神崎来紗という女の子の輪郭を捕らえたような気がした。
 神崎……オレのこと、そんな風に思ってくれていたなんて。
 そうか。オレはようやく神崎が、何でこんなに泣きそうな顔をしているかの理由を知った。
 オレは神崎を、神崎の気持ちを裏切ってしまったんだ――
 最低だ。オレはどうしようもないバカだ。神崎のこと、何も理解していなかった。自分のことしか考えてなかったんだ。そうして傷付けてしまった。神崎は本当はこんなにも良い子なのに。オレの自分勝手な考えのせいで傷付けてしまった。
 神崎は肩を震わせて、溢れようとする涙を堪えるかのようにきつく唇を結んでいた。
「お願いだから、もう……」
 しぼり出すようにして言う。
「これ以上……みじめな気持ちにさせないで……」
 そうして、そのまま屋上を出ていってしまう。扉が神崎の心情を表すかのようにバタンと音を立てて閉じた。1人になった。秋の風に身体はすっかり冷え切っていた。
 木枯らしが、まるで1人残されたオレの孤独感を更に深くえぐるかのように、鋭く吹きつける。束の間、何も考えられずに呆然とする。
 ……フられた……
 ようやくそのことを認識して、オレはその場にへなへなとへたりこんだ。


 長い間、そこに座り込んでいた。立ち上がる気力もない。身体を支配する倦怠感に身を任せた。疲れた。しばらく動きたくない。
 そうして、どれだけの時間が経ったか。
 30分だったか、それとも5分くらいだったのか。時間の感覚なんてわからなかった。
 朝のざわつきが何となく校舎の中を賑わせているのがわかった。でも、それはどこか遠くの出来事のように聞こえた。ここは静かだ。その静けさが孤独感を更に際立たせていた。
 叩かれた頬が熱を持って痛む。それよりももっと強く心が痛かった。神崎の言葉を噛み締めるように心の中でくり返した。
『そういうこと、聞きたくない!』
 頭の中で神崎の顔を思い浮かべてみる。どんなに思い描いても、浮かんでくるのは1度も見たことのない泣き顔だった。
 神崎はいつも、つまらなそうなしかめ面ばかりしていたのにな。きっと、さっき見た表情のせいなんだろう。どうしてあんな泣きそうな顔をしていたのか。
 オレの告白はそれほど神崎のことを傷付けたんだろうか。そう思うと苦しくなった。もう泣きたいのはこっちだ。
 神崎はオレのことが嫌いだったのかな。それならばもっと突き放してくれればよかったのに、と思った。中途半端に笑いかけないでほしい。さびしい表情を見せないでほしい。勘違い……させないでほしい。
 いや、ちがうか。嫌われることをしたのはオレだ。
 全部、自業自得。
 これからは今まで通り神崎と話すことなんてできなくなるだろう。本当にバカなことをした。深く後悔する。後から思い返して、ああしなければよかったなんて考えることは意味のないこととはいえ、そう考えずにはいられない。
 結局、オレは神崎に拒絶されてしまったんだ。
 改めてそのことを意識する。突き放された。もう終わった。
 それでもオレは神崎のことが好きだった。どうしようもないくらいに好きだった。あの歯に絹を着せない物言い、人のことを平気でバカだと言い切れてしまう厳しい性格、時折見せるさびしげな表情、滅多に笑うことはなかったが、その笑顔は最高に可愛かった。
 そのひとつひとつに惹きつけられた。もうどれも届かないものではあったけど。
 顔を上げてみる。錆び付いた鉄柵に囲まれた空間。こうして見ると、屋上って案外狭いんだな。ぼんやりとそう思いながら、神崎が出ていった扉を見る。
 戻ってこないかな。
 馬鹿げた考えはすぐに自分で打ち消した。
 そんなこと、あるわけないか。
 屋上の景色も神崎にあんなことを言われる前と言われた後では全くちがって見えた。1枚の膜を隔てているような感じ。何だかぼやけてる。色もちがう。冗談でなく灰色に見える。呆然と辺りを眺めていると、自分は何をしているんだという自嘲的な思いがこみ上げてきた。
 何だっけ。
 何しようとしたんだっけ。
 ああ、そうか。教室に帰らなきゃな。1人で。
 そう思うのだけど、身体は鉛のように重く沈んでいる。動けない。というか、動きたくない。
 これからどうするかな。
 そう思いながら何気なくポケットに手をやってみる。ハッとした。いつも手の先に触れる感触がない。慌てて逆のポケットにも手を突っ込んでみたが、そこにも何も入ってない。江川のボールがなくなっていた。
 どこかに落としたんだ……。
 すぐに立ち上がって屋上を探してみる。どこにもない。扉を開けて屋上を出る。階段の隅から隅までをくまなく見る。しかし、見つからない。ここに来る前は持っていたんだ。落ちているとすればこの階段か屋上しかないのに。何でないんだよ……。
 何てことだ、あれをなくしてしまうなんて。
 それからもしばらく探したが、ボールは見つからなかった。
 神崎にフられ、ボールをなくしてしまって。今日ほど最悪な1日はなかった。


 第5章

 その日から数日間をオレは漫然と過ごした。
 授業はおろか、部活にだって身が入らない。先生には注意されるし、エラーばかりで先輩にはこっぴどく怒鳴られた。
 そうして3日が経った。その日も教師の講釈なんて全く頭に入らず、オレは呆然と椅子に座って午前中の授業を過ごしていた。チャイムが鳴り、昼休みになる。教室内は休み時間の開放感に包まれて、がやがやと話し声が飛び交った。
 突然、教室の扉ががらっと乱暴に開けられた。見ると、立っていたのは背の高い不良男。
 夏樹、だった。こいつの無表情顔を見るのも久しぶりだ。夏樹は、ずかずかと中に入って来た。教室内は自然