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「ひどく悪趣味なのね」
僕がその本をさし出すと、少女は言った。 「あなたの心はきっと、救いがたいほど貧弱だわ」 彼女は澄ました顔でそう言って、僕に毒を盛る。 少女はまさに、猛毒だった。 ● ● 僕がその少女に嫌われたのは、とても寒い夜のことだった。 年末がさし迫ったその夜、僕はちょっとした気まぐれで、塾から徒歩で帰っていた。 普段はバスを使うのだが、たまには散歩をするのも良いものだろう。明日から高校は試験休みと言うことで、そんな気まぐれを起こした日だったのだ。 そしてその家路の半ばまで来たとき、僕はそれを見つけたのだった。 住宅街に並ぶクリスマスツリーも見飽き、耳を刺す寒風に後悔をし始めた頃だ。その住宅街からすこし離れた並びに、店の明かりのようなものを見つけたのだった。 「おかしいな……」 僕はそう思った。 そこはかつて、昔ながらの小さな商店通りがあった場所だった。しかし近くにチェーンの大型店舗ができてから閉店が続き、もうしばらく前から店は無かったはずなのだ。 しかも今の時間は、もう九時半。普通の商店なら、もう閉まっている頃だ。 不思議に思った僕は、その元・商店通りに足を踏み入れる。 するとそこにあったのは、大正時代劇で背景に並んでいてもおかしくないような、煉瓦色の古い造りの店だった。 そして小さな看板には『毒書院』と書かれている。 それを見た僕は、随分と思わせぶりな名前だと思った。 本屋……いや、古本屋だろうか。大の古本屋好きの僕としては、こんな味のある店を見落としていたとは、不覚だった。 店の窓からは、古めかしい鈍い明かりがもれていた。近づいてみると、ペンキの剥げた戸にも『開店中』の札が掛かっている。どうやら本当にこんな時間まで、営業をしているらしかった。 「ちょうど良いな」 寒さに閉口していた僕は、この毒書院で少し暖まっていくことにした。何より、本は嫌いじゃないのだ。そう思い、今にも蝶つがいごと外れそうな古い扉に手をかける。 するとその扉にあった貼り紙が、目に入った。 『売り尽くしセールです。買って下さい』 わら半紙に黒いサインペンでそう書かれ、続いて赤いサインペンでその横に、こう書き足されていた。 『ラストセール、年末までです』 ラストセールか。今財布に、幾ら残っていたっけ。 そんなことを思いながら、僕はもうその毒書院へと足を踏み入れていた。 ● ● それは、古本屋と言うには無理のある店だった。 期待通り、扉を開けるとそこにはあたたかい空気が待っていた。同時に古本屋独特の、古びた紙とカビの臭いも漂ってくる。大きな本棚も、教室一つ半ほどの広さの店内に、所狭しと並べられていた。ここまでは、いかにも昔ながらの古本屋だった。 ただ一つ、問題だったのは、 「いや、売り尽くしセールにも程があるだろ……」 その本棚には、ただ一冊の本も収められていなかったのだ。 普段はないその不自然な光景は、古びた電球の光とあいまってどこか不気味な様子だった。 ここ、本当に古本屋なのか? むしろこれなら、家具屋と言う方がまだ自然だった。 予想していた光景とのギャップに疎外感を感じ、僕はもう店を出てしまおうかと考えてしまう。 と、その時だった。 コト。 店の奥、この場所からは本棚の影になる辺りから物音がした。僕はつられて、その本棚の裏側を覗き込む。 するとそこにあったのは、昔ながらの石油ストーブと、どっしりとした机と椅子。 そしてその椅子には一人の少女が、澄ました顔で腰かけていた。 「いらっしゃいませ」 魔女を思わせる、美しい少女だった。 童話で言うなら純然たる悪役ではなく『意地悪と見せかけて、実は善玉』というタイプ。普段は森の中の一軒家で暮らしていて、ときおり尋ねる人を悪戯半分に助ける、小娘のような魔女。こんなおかしな名前の、不思議な店で出会ったせいだろうか。僕はその可愛らしい少女に、そんな浮世離れした雰囲気を感じていたのだった。 少女の髪型は肩のあたりで切られた、茶色の混じりくせ毛だった。艶のある髪がふにふに波立ち、肩の上にうち寄せている。それに少女は分厚いベージュのセーターを着て、まっ黒い前掛け合わせていた。下半身は机の影で見えないが、どうやらズボンをはいているようだ。そして体の線が細い。服の上からでも、少女の華奢な体つきが見て取れた。 少女は一度挨拶をしたきり、まるで庭に入ってきた猫を眺めるような、穏やかな目で僕を見ていた。 「……こんばんは」 応対に困り挨拶を返すと、少女は黙ったまま、ぺこ、と軽い会釈を返してきた。前掛けをつけているところを見ると店員のようだが、あまり愛想があるとは言えない反応だった。しかしそれは、決して不愉快なものではなかった。一風変わった少女の素朴な反応には、白々しい接客にない安心感があった。 「あのさ……君、この店の店員?」 「はい。私が店主です」 澄ましたままの少女は、落ち着いた声で答えた。だが少女は大人びてはいるものの、さすがにまだ中学生ぐらいにしか見えない。 「店主って、君がこの店の?」 「はい、ここが私の店です」 少女は至極当然のように答える。どうやら彼女は、本気のようだった。こうも堂々と言われてみると、この少女ならあるいは、と思えてくるから不思議だった。本当に魔女のような、おかしな魅力を持つ子だった。 「あのさ、さっきから気になってたんだけど、ここって何を売ってるの?」 だがそれを聞いた途端、少女はやや顔を強ばらせた。 「……お客様は、何の店だとお思いに?」 先ほどまでのさらりとした受け答えとは違う、言うならばネトッとした舌使いの声で、少女は聞き返す。 「何って……そりゃ」 少女の不興を感じ、慌てて取り繕うとする。が、ちょっと待て。この店は、本当に何を売る店なのだろうか。九割方古本屋だと思っていたのだが、だとすればこの本の並んでいない状況の説明がつかない。ではまさかと思うが、 「……家具屋?」 途端。少女の大きな瞳が、きゅぅっと細められた。 「はあ、家具屋ですか。そう言われれば確かに、そう見えなくもありませんね」 少女の目は、すわっていた。 どうやら今の一言で、相当お怒りになったようだった。もとが可愛らしかっただけに、その表情は結構怖い。 「あの、ごめん、やっぱり古本屋だった? 古本屋かとも思ったんだけど、あんまり本がないんで……それに、店の名前も珍しかったし」 「ああ、あの毒書院という看板ですか。あれは『ひと癖足りない本よりも、読んで毒される本が好き』という店主の好みが由来です」 なんかちょっと魔女っぽい答えだった。 「……そりゃまた、随分な由来だね」 だがそう答えつつも、僕は内心で感心していた。確かに毒にも薬にもならない本というものは、往々にしてつまらないものだ。だが思えば最近は、読んで毒されるほど凶悪な本を読んだ覚えがない。昔は読んだだけで振り回されるような強烈な本ともよく出会ったのだが、やはりあれは幼少期ならではのことだったのだろうか。 「なら、そんな店主のおすすめの本って、あるかな?」 ならばこの一風変わった少女は、いったいどんな本を勧めるのか。興味が湧いた僕は尋ねていた。だが、 「……申し訳ありませんが、ありません」 少女は澄まし顔のまま、だが少し残念そうな口調で答えた。 「もう少し在庫があれば、話を聞いてお客様にぴったりな、それこそ猛毒のような本を選んでさし上げるのもやぶさかではないのですが……残念ながらもうこの店には、もう最後の一冊しか本がありませんので」 少女はそう言って、少し離れたところにある本棚を見た。確かに良く見れば、そこには一冊だけ本が残されていた。 「最後の一冊って、じゃあまさかこの店、あの一冊を売るためだけに開いてるの?」 「はい、そうですが」 「売れる本が一冊じゃ、割に合わないんじゃない?」 「けじめ、のようなものです。あの最後の一冊が売れたら、この店を閉じると決めましたので」 少女はそう言って初めて、悲しそうに微笑んだ。 ずっと澄まし顔だった少女のそれは、とても印象的な微笑みだった。どういう事情か知らないが、やはり自分の店が閉まってしまうのは寂しいものなのだろうと思った。 「ですがあの本では、お客様の好みには合わないでしょうから」 きゅっと唇を指先でなぞり澄まし顔を取り戻すと、少女が言った。 「僕には興味ない本、なの?」 「はい。ご覧になればお分かりになると思いますが、内容が内容ですので、お客様はお読みにならない本だと思います」 少女は当然のことのように言った。 だが興味がないと断言されたことが逆に気になり、僕はその本棚へ足を向けた。いったいどんな本ならば、そう言いきれるのだろうか。 というか、もしこれで置いてあるのがまともな学術本とかだったら、お前はバカだと見た目で判断されたようでへこむ。 そして背の高い本棚の、上から三段目。 そこに残されていたのは、まるで文学全集のような黒い装丁のハードカバーの本だった。 あの少女にはいったい僕がどんな風に見えているだろうのか、そんなことを思いながら恐る恐るその題名を見る。 そして次の瞬間、僕は思わず噴き出しそうになっていた。 「……なるほどね」 確かに、この本を読むはずない、と少女が言うのももっともなことだった。 だがしかし、それはどうだろうか。 僕はふと少女の方を、振り返った。 僕と目が合いそうになった少女は、慌ててふいっと目をそらすと、澄ました顔で頬杖をついていた。あなたの方など見向きもしてませんよ、とでも言いたげなその表情が、可愛らしかった。 くすりと笑いながら、僕は考えてみる。 どうなのだろうか。そりゃ普通、僕はこの本は読まないだろう。というか、読もうとすら思わないだろう。 だが今までは考えもしなかっただけで、読んでみればこの本、意外にも楽しめるのではないだろうか。あるいはひょっとすれば、猛毒のような魅力がある可能性も十分あり得るのではないだろうか。 そもそもが乱読派の僕は、だんだんとこの本に期待感を覚え始めていた。 結局少し迷った末に僕は、その本を持って少女のいる机に戻ることにした。 「買わせてもらうよ」 「……は?」 しかしずっと澄まし顔だった少女は、あぜんとした表情になってしまっていた。 「この本、買うことにしたよ。幾らかな?」 「……」 少女は理解できない、という不快そうな顔つきで僕と本を見くらべる。 そして見くらべるうちに何を感じたのか、少女はだんだんと能面のような澄まし顔に戻っていった。しかしその澄まし顔は、最初に見せた清々しいそれとは似ても似つかない、言うならばもっと毒々しい表情であった。 そしてとうとう少女は、心底見下げ果てた声で言ったのだった。 「ひどく悪趣味なのね、あなた」 彼女は澄まし顔のまま、僕の方を見ようともせずに言った。 「まさか、買おうとするとは思わなかったわ。随分と醜悪な読書癖をお持ちなのね」 少女は頬杖をついたまま、苦い声で言う。だが流石にここまで言われるのは、僕としても心外だった。 「……そこまで言うか。確かにこの本を買うのは意外かもしれないし、悪趣味かもしれない。でも僕が何を読もうが、僕の勝手だろ」 「あら、悪趣味な人に悪趣味と言うのが、そんなに悪いことかしら」 彼女は、横を向いたままそう言った。だがその声にはどういうわけか、やりきれない怒りが含まれていた。だがそこまで怒られるのは、どう考えても理不尽だった。そして何よりも、せっかく本を買ってやろうという客にこんな失礼を言う、その態度に腹が立った。 「あら悪趣味なのは、本当のことでしょ。本当のことを言われたからって、そんなにムキになって睨まないでくれるかしら」 少女の口調は、とても毒々しいものだった。 「だから例え本当のことでも、君にそこまで言われる筋合いは無いんだよ。それに僕は、君のその失礼な態度に怒ってるんだ」 すると少女はそこで初めて、僕の方を見た。いや、睨んでいた。少女は既に、怒りの表情を露わにしていたのだった。 「失礼って言うのなら、あなたもでしょ」 「僕が、何をしたって? 家具屋って言ったことか?」 「違うわよ」 「じゃあ、なんだよ」 「失礼なのは、この本を買おうとした理由よ。ねえ、あなた、本当にこの本が欲しいの?」 「普通に欲しいよ。良いじゃないか、僕は乱読派なんだ。たまにはこういう本を読んでみるのも面白いだろうさ」 だが僕の言葉を聞いた少女は、卑怯者を見るような、哀れみすらこもった表情になった。 「ふーん。あんたの中では、そういう欺瞞じみた屁理屈で、この本を買うことになったのね。なるほど確かに、あんたのような屈折した精神の持ち主なら楽しめる本かもしれないわ」 「……何が言いたい?」 「だって嘘でしょ、それ。あなたは自分の悪趣味を吐露しつつ、その悪趣味の裏側にもっと醜い思考を隠しているのだもの。もし自分で気づいていないのなら、私が教えてあげましょうか。あなたがその本を買いたくなった、その理由を。あなたがそれを買おうとした、その本当の動機は――」 そして彼女は続ける、僕の心を蝕む、その猛毒のような言葉を。 「浅ましい方法で、女の子の気を引こうとした。ただそれだけよ」 少女の辛辣な一言に、僕は絶句した。どうしても反論ができなかった。 言うべきことは沢山あった。自意識過剰もいいかげんにしろだとか、憶測でものを言うなとか、あるいは笑い飛ばしてやっても良かった。 だが僕にはとっさに、それができなかった。 「なるほど、ありそうな話だわ。その古本屋最後の一冊を巡る、少女とのひとときの交わり。素敵じゃないの。恩着せがましい程、情緒溢れる話だわ。ああ、気持ち悪い」 そしてその彼女は、挑発するような毒々しい笑みを浮かべる。 「きっと私が喜ぶふりをして見送っていたら、きっとあなたは店を出たあと矮小な自己満足に浸っていたわ。最後の売れ残った本を買ってやった。良いことをしてやった。少女はきっと、最後のお客様である自分のことを忘れられないだろうってね。幸せよね、自己中心的な馬鹿は。でもね」 そこで少女は一度言葉を切り、僕に噛みつくように言った。 「そんな気持ち悪い自己満足に付き合わされるのは、まっぴらだわ。この店最後に残った本がそんな理由で買われていくなんて、私には到底我慢できない」 そしてとどめとばかりに少女は言った。まるで、突きとばすように。 「これが最後の本じゃなかったら、買おうとしなかったくせに。よくも平然と面白そうだなんて言えたものね。なんて節操の無さ。あなたの心は、救いようもなく貧弱だわ」 彼女がちょうど、そう言い終わったときだった。 ボーン、ボーン、ボーン……。 店内にあった古い置き時計が、十時の鐘を鳴らした。 その音を聞くと少女は真っ黒な前掛けを外し、絶句したままの僕に言った。もちろん、嫌味なぐらい澄ました顔で。 「閉店の時間です、お客様。そろそろお帰り下さいませ」 こうして僕はその夜、毒に犯された。 その少女はまさに、猛毒だった。 ● ● 少女に言われたことは、ともかくとして。 僕が古本屋好きというのは、本当だった。 全国チェーンのやつも良いが、特に昔ながらの、本の墓場みたいな店が僕は好きだった。 新刊として華々しく書店に並んだのは、遙か昔の思い出。今はもう誰からも忘れ去られ、ただ廃棄される時を待つのみ。そんな古本達が山と積まれ、退屈そうに客を待っている。僕はそういう店が大好きなのだ。 なぜならそういう店にこそ、出会いがあるからだ。誰にも見向きされない僕だけの名作との、運命的な出会いが。 世の中には、ベストセラーと呼ばれる一連の本がある。そして確かにベストセラーの本はそこそこ面白い。ベストセラーを読めば、たいていの人が面白いと感じる。 だが言うまでもないことだが、感性とは人それぞれ違うのだ。 だから本当に自分にあった本を探すのなら、どこも同じ品揃えの本屋よりも、何があるか分からない古本屋に行くべきである。 それが僕の、信条なのだ。 そしてそれを踏まえた上で次の日僕は、ずっとあの少女の言葉を反芻していた。いったい僕は、少女の言ったとおりだったのだろうかと。 どうだろう、と僕は迷う。 少女の言葉は、確かに痛烈だった。 少女の猛毒は、昨晩僕を逃げ出させるほど、僕の心を焼けただれさせた。そして少女の言葉が全くの的はずれだったら、このダメージはありえなかった。 だからあのとき僕の中には、確かにそういう不純な動機が存在したのだ。 だが、それが全てではなかった。そう信じたかった。 あの最後の一冊を見たときに、興味を引かれるものがあった。それもまた、事実だったはずなのだ。つまり僕は、彼女の予想以上に悪趣味な人でもあったのだ。 そしてその悪趣味な僕は、その悪趣味さゆえに。 次の日、再び毒書院を訪ねていた。わざわざ寒い中塾から徒歩で、再びあの少女に毒されることを承知の上で。 「何を勘違いしたら、また来ようなんて思うのかしら」 僕を見ると、少女は言った。 「ちょっと、おめでたすぎるんじゃないかしら?」 言われるまでもなく、自分でも不可解な行動だった。だがこうでもしなければ、とても我慢できなかったのだ。あるいはこの毒された心を癒すには、もう一度訪ねるしかないと感じていたのかもしれなかった。 「まさかこれ程の恥知らずがいるとは、思ってなかったわ」 「そうだろうと思ってさ、だからわざと来たんだ」 「……救いようがないほど、悪趣味なのね」 年若い魔女のような少女が僕を見て、呆れたように言った。今日はむしろ澄まし顔と言うよりも、仏頂面だった。頬杖をついたままあさっての方向を向いて、ときおりその茶色のくせっ毛をいじっている。 「……で、何しに来たわけ? もちろんあの本なら、あんたには売らないわよ。あれは相応の、ふさわしい人に買って貰おうって決めたの。ああ、それとも本棚でも買おうってわけ?」 ご機嫌斜めの少女はどうやら、家具屋といったことをまだ根に持っているようだった。 「というか買うって言ったら、本棚売ってくれるのか?」 「まさか。恥知らずにもまた買うなんて言ったら、鼓膜に穴が開くほど弁をふるって追い出すわ」 「……」 僕はハムレットで王様が暗殺される際は、睡眠中に耳から毒を流し込まれたのを思い出した。 「しかも今度は、猛毒舌よ」 「昨日以上か……」 考えただけでも、冷や汗が出る。これは一瞬たりとも、気が抜けなかった。 「で、今日はどうしたの? 古本の買い取りとかなら、もうしてないわよ」 「いや、今日は立ち読みに来たつもりなんだけど」 言った途端、少女はジトリとした横目で僕のことを見た。 「へぇ……たいした神経ね。あなた、えろい本を買うときに、店員を気にしないタイプでしょ。言っておくけど、店員も人間よ。えろい本買えば、店員だって思うのよ。あらこいつ、性犯罪者予備軍だわって」 「いや、そう言う君のセリフも、相当神経太いけど……」 「ふーん、そうかしら? でも今あなた、ちょっと嬉しそうな気配だったけどね。少女の猥談って素敵よね。ああ、悪趣味」 少女の猛毒は、今日も健在だった。危険を感じた僕は、少しあせってあの本棚の前に移動する。 「なあ、別に立ち読みぐらいはして、構わないだろ?」 「どうぞご自由に」 少女は投げ出すようにそう言って、姿勢を崩した。足元が冷えるのか、黒の靴下に包まれたつま先をストーブに近づけ、ちりちりとあぶり始める。 そうして無関心を装う少女をしり目に、僕はその本を読み始めた。 そして結論から言うならば。 それは、とても面白い本だった。 僕は読み始めた途端、ここが毒書院だというのを忘れるぐらい引き込まれた。それぐらいその本は巧みに書かれ、そして興味深い内容だったのだ。 このジャンルの本が皆こんな風に巧妙に書かれているものなのか、あるいはこの本だけそうなのかは分からない。だが少なくとも悪趣味な僕にとって、それは心の底から面白いと言える本だった。 しばらく読みふけっていたところで、少女がぽつりと漏らした。 「……読むふりをするために来たんだと、思ってたわ」 どうやら少女は、僕が本気で夢中になっているのが意外なようだった。そんな少女に、僕も同意した。 「ああ。自分でも半ば、立ち読みのポーズのためだけに来たと思ってたよ」 「傷つけられた自尊心を、守るために?」 「うん、そう。半分はね。でも……やっぱり、この本が気になってたのも、確かなんだ」 「そう……悪趣味なのね」 「そうかな」 「そうに、決まってるでしょ」 少女は無感動にそう言ったまま、また黙り込んだ。今度はどこか落ち着かないような、複雑な様子の仏頂面だった。そして一方の僕は、ずっと本を読みふけることになる。 またしばらくして、少女は言った。 「……ねえ、その本、面白い?」 「うん、想像以上にね。世の中にはこんな本もあるんだ、って感じだね。君は、この本読んだことないの?」 「ないわ。私はそういうのに興味ないし。それにたいていその手の本とても稚拙で、くだらないもの。筆者の知性を疑うほどね」 「そうだな。でも僕に言わせれば、とても興味深い本だな。それに、そう、自虐的な楽しみ方もできるしな」 そしてさらに言うならその楽しみ方は、この少女の魅力にも通じている。その時僕は内心、そうも考えていた。 「今何か、失礼なこと考えなかったかしら?」 横顔を見られていたことに気付いたのか、少女はじろりと睨め付けながら言った。 「失礼な褒め言葉というのも、ときにはあるんだよ」 僕は笑いながら、答えた。そして僕のその言葉に、少女が応じようとしたときだった。 ボーン、ボーン、ボーン……。 店内にあった古い置き時計が、再び十時の鐘を鳴らした。 何か言おうとした少女はその音を聞き、代わりにこう言った。 「閉店の時間です、お客様」 「そうか……思ったより早かったな」 僕は素直に本を棚に戻し、店を出ることにする。あまり読み進めることができなかったが、面白いということが確認できただけでも収穫だった。 そして僕がそのまま、毒書院を出ようとしたときだった。 少し躊躇うようにしながらも、少女は言ってくれた。昨日は決して言おうとしなかった、その定型句を。 「またのご来店を……お待ちしています」 何が、少女の機嫌を直したのかは分からない。だが僕は今日店を訪ねてみて良かったと、心から安堵した。 だが同時に僕は、少し心配になっていた。 明日も執拗にあの本を売り続けるらしい少女の執念に、不安を覚えていたのだった。 ● ● 塾の帰りに毒書院に寄り、あの本を立ち読む。 試験休み中は毎晩塾があるせいもあり、そんな日課が数日の間続いていた。 例の最後の一冊はたいていの場合、前日僕が戻したままで棚に置かれていた。 僕が立ち読みしている間、少女はじっと待つように座っていることもあれば、ぽつりぽつりと僕と会話をすることもあった。そんなときはたいていの場合例の本か、あるいは別の、僕が以前に読んで気に入った本の話になった。だが店主だけあって少女の読書の幅は恐ろしく広く、たいていの場合僕の好きな本は辛辣にこき下ろされることになった。 そしてあるとき僕が古本屋巡りの話をしたのは、すでに僕が例の本のうち七分目まで読み終わった頃のことだった。 「一期一会?」 僕が言った言葉を、少女は不思議そうに問い返した。 「そう、一期一会。それが僕の古本屋巡りの心得なんだ」 「一期一会って、出会いは一生に一度と思って大切にしろという意味だったかしら」 「そうだね。で、僕の場合その出会いっていうのは、本の話なんだ」 そこで僕は読んでいた本から顔を上げ、少女を見て言った。 「あるんだよ。古本屋で、一目惚れするってことが」 「本に一目惚れ……運命的な出会いってことね」 少女は珍しく素直な様子で、感慨深げに言った。 「うん、そう。運命的な巡り会い。それで巡り会ったら、今度はその出会いを大切にしなけりゃいけないんだ。それこそ、一期一会。その機会が一生に一度、今この瞬間にしか起こらない奇跡だと思って」 「……大げさね」 「大げさじゃないよ。実際にあるんだ。もう何年も売れ残っているような本が、たった一日、いや、ほんの数時間目を離しただけで売れてしまうことが。そうなれば後悔先に立たず。後になってから、一度きりの機会を逃したと知っても遅いんだ。だから、一期一会。出会いを大切にしろってわけ」 僕はそう言い終えると、少女がどんな猛毒舌を振る舞ってくれるのか楽しみにして待った。僕はこのごろ、少女に毒されるのを密かな楽しみになっていた。我ながら悪趣味だ。 だがその日に限って、少女は何も言わなかった。そして代わりに、少し驚いたような顔をすると、 「……同じことを、言うのね」 「は、何が?」 「私の祖父が、あなたと同じようなことを言っていたの。一生のうち巡り会える数は、人も本も限られている。だから一つ一つの出会いを、大切にしろって」 「へえ、そいつはまた趣味が合いそうだな。どんな感じのお爺さんなの?」 「むかつくジジイだったわ」 「……」 「でもいつも私に、面白い本をすすめてくれたわ。心温まる名作童話から、胸クソ悪くなる禁書級の本まで」 ……なんかこの少女の性格の由来を、知ったような気がした。 だがその少女の口ぶりに、僕はふと思い当たることがあった。 「……ちなみにいま、そのお爺さんは?」 するとやはり少女は、地面を指差し。 「先月、お迎えが来たわ」 「いや、下を指差して言うな」 「いえ、きっと間違ってないと思うわ」 「……」 まあ、いつものことだった。そして少女は、その先を続けた。 「……この毒書院、実はその祖父が開いた店なの」 「ああ、そうだったのか」 「だけど祖父が病気になって以来ずっと休業中で、本人はいつか病気が治ったら再開するつもりだったらしいんだけど……亡くなったのを機にこの店は手放すことになったの」 「それで、閉店セールなのか」 「そう。でもどうせなら残った本を売りたいから年末まで待ってくれって、私が無理を言ったのよ。で、大部分は地元の学校に図書室用として売れたんだけど、もちろん全部は売れなかったから、残りをこうして売っているわけ」 少女はいつもの澄まし顔のまま、そう言った。だが少女がこれほど積極的に自分のことを語るのは、初めてだった。 そして僕は、なんとなく分かった気がした。最後の一冊を、少女が頑なに売り続ける意味が。ろくに客も来ない寂れた商店街の端で、じっと客を待ち続ける少女の意味が。 彼女はその祖父が好きで。だからこそこの店番は、きっとこの少女にとって最後の弔いなのだった。 それを知った僕は、後悔をした。 そんな切実な思いで最後の客を待っていた少女に、僕は最初の夜いったい何をしたのか。それを思い出し、後悔した。 「悪いことしたな、僕は」 「いいわよ、今さら。でも、私がこの話をした意味、分かる?」 少女は頬杖をついたまま、僕を試すように言った。 僕は、答えない。 「あなた、薄々気付いてるんでしょ。この店にはもう、あなた以外の客が来てないってことに」 「うん……まあ、そうかなとは思ってたよ」 「それはそれは。それなら立ち読みにも、さぞ熱が入ることでしょうね」 「……何が言いたいんだ」 突如として険悪な雰囲気になった少女の言葉に、僕は眉をひそめる。 「別に。ただ……」 少女はそれっきり、僕の問いかけには答えようとしない。だがそのかわり僕に背を向け、ストーブに手をかざしたまま、少女はぽつりと言った。 「あなた最近、読むのが遅くなったみたいよね」 その一言に、僕はドキリとした。 そして彼女がそう言い終わったとき、十時の鐘が鳴った。 ● ● 折が悪いことに、次の日は例年にない大雪が降っていた。 このところ、今にも雪がこぼれそうな寒い日が続いていたので覚悟はしていた。だが昼過ぎから降り始めたその雪は、夜には完全に町を覆い尽くしていた。 僕は塾の休み時間、窓から外を眺めて溜息をついた。 『あなた最近、読むのが遅くなったみたいよね』 少女のその言葉が、何度も思い出されていた。 そう。確かに読むペースが遅くなっていたのは、事実だった。その事は僕自身も気付いていた。 だが僕には、それを指摘した少女の意図が分からなかった。それに少女があのように、婉曲的に言った理由も。いつもの彼女だったら、もっと毒舌に任せ手酷く言っているような気がした。 いったい彼女は、僕に来て欲しくないという意味を込め、ああ言ったのだろうか……。 彼女らしくないその口ぶりが、彼女の意図が、まったく分からなかった。 「どうしようかな……今日は」 一応、そう独白する。 だが幸いにも、悩む以前にこの雪だった。 今日は歩きで訪ねるのは無理だった。例え行けたとしても時間かかり、ろくに閉店まで時間がないに違いない。だから少女の意図はともかくとして、今日は店を訪ねないのが賢明だった。 体の良い言い訳を見つけた僕は、悩みをひとまず棚に上げることにした。少なくともこれで、明日までは悩まないですむ。 どういうわけか頭を悩ませるほどの存在になった少女を疎ましく思いつつ、僕は授業へと耳を傾けることにした。 そして、その授業が終わった後。 僕はやはり、毒書院を訪ねていた。 「あなたやっぱり、どこか変よ。いえ、どこかって言うか、もちろん頭が変なのだけど」 「我ながらそう思うよ」 全身雪まみれでガタガタと震えながらドアを開けた僕を、少女は呆れた様子で眺めていた。積もりに積もった雪を踏み越えてきたせいで、僕のズボンはぐしょぐしょになっていた。 「今日は来ないでくれると思って、すっかり油断していたわ……」 少女はそう言って、溜息をついた。何か、諦めの境地という感じの溜息だった。 そしてそれと同時、十時の鐘が店内に鳴り響いた。 「う……」 閉店時刻の鐘を聞き、僕はバツの悪い思いをする。これでは、醜態をさらしに来ただけも同然だった。我ながら、今日の僕はどうかしていた。 「その……おじゃましました」 これ以上傷口を広げたくない僕は、大人しく引き下がることにした。これ以上無様なマネをしては、少女に何を言われるか分かったものではなかった。 ところがそのまま帰ろうとした僕を、 「待ちなさい」 少女は少し怖い声で呼び止めた。 「な、何かな?」 「いいから。そこで待ってなさいよ」 少女はぎゅっと念を押すように言うと、店の奥に入っていった。 そしてパタパタと駆け戻るときには、少女の両手にはめいっぱいのタオルが抱きかかえられていた。少女はそのタオルをばさばさと僕に巻き付け、言う。 「少し、暖まって行きなさい。家まで、まだかなりあるんでしょ」 「……あ、うん」 少女は店の隅から椅子を持って来るといつものストーブの前に置き、また奥へと入っていった。僕はありがたく座らせて貰うことにした。 ストーブの熱に当たると、凍りついていた体が溶けるような気がした。 しばらくそうしていると、少女がマグカップを二つ持って戻ってきた。 「はい」 「あ、ありがとう」 マグカップには、ありがたいことに熱いコーヒーが入っていた。 「……」 というかありがたさを超えて、不気味な程の大サービスだった。ここまで来ると、逆に不安になる。きっとご馳走が出たときの死刑囚は、こんな気持ちになるのだろう。 ちなみにコーヒーの味は、 「うん、その、なんだろう……どちらかといえば、おいしい……かな?」 「私が入れたコーヒーが、苦くないはずないでしょ」 少女は自分の特性を、良く理解しているようだった。 「むしろキャラ的には、毒入りでないのが申し訳ないぐらいだわ」 そう言う少女が自分用に飲んでいるのは、ココアのようだった。どうやら自分には甘い性格らしい。いや、もちろん贅沢を言うつもりはないが。 「でも今日は随分と良くしてくれるんだな。どういう風の吹き回しだ?」 すると少女は久しぶりに、あの浅ましいもの見るような目で僕を見た。初めて会った時に僕を見下した、あのまなざしだった。 「相変わらず、悪趣味なのね。その性格は、早くなおしなさい」 「うん、何か悪趣味だったか?」 「どう考えても悪趣味でしょ。どうして良くしてくれるのかですって? よくもまあ、恥ずかしげもなく聞けるものね。品性を疑うわ。あなた、その理由を私の口から言わせて、悦に入りたいわけ? それとも私はここで見え見え照れ隠しでも言って、あなたの優越感を刺激してあげればいいのかしら」 「えっ、いや、そんな、ただちょっと予想外だったから、驚いて」 「あなたが来てくれたからよ」 僕の言葉を切るようにして、彼女は言った。 そしていつもの澄まし顔で、少女は穏やかな声を続ける。 「こんな大雪の中、あなたが来てくれた。たとえそれがどんな理由であれ、私はそれが凄く嬉かったの。だからこれは、そのお礼よ」 そこまで言ったところで、少女はくすりと自嘲的な笑みを漏らした。 そして低い落ち着いた声で、告白を始めた。 「今だから言うけど、あの日の晩の私は、本当はお客なんて待ってなかったの」 「待ってなかった?」 「そう。最後の本がずっと売れずに、お爺さまの毒書院が永遠に続けばいい、心の底ではそう思ってたの。最後の一冊が売れたときに、私の中でお爺さまは死ぬ。きっとそんな気がしてたのね」 そう言う少女の様子は、恥ずかしそうだった。幼い本心を隠していたことを、恥じているのかもしれなかった。 「でも最近は、違うのよ。私はこの店が終わる時のことを考えるようになった。終わっても良いと考えるようになったの。私はお客を、待つようになったわ」 彼女は言った。 「いえそれどころか、ときどき分からなくなるの。お客を待っているのか、あなたを待っているのか」 少女は媚びるわけでもなく、ただ淡々とつぶやいていた。 「その変化が自分でも嬉しくて、同時にとても不愉快で。だから昨日私は、あんなことを言ってみたの。悪かったわね」 彼女はそう言ったきり、口を閉ざした。のろのろとゆっくりとした動作で、ココアを味わっている。 毒書院の中に、沈黙が生まれた。それはどこか触れれば崩れてしまいそうな、とても傷つきやすい沈黙の気がした。 だから僕は言わなければならなかった。僕が今日、この毒書院に来てしまった理由を。いや、今日だけではない。ずっと誤魔化していただけで、僕がこの本屋に通い続けていた理由を……。 「なあ、僕は」 「あの本、貸してあげましょうか」 僕が言いかけたところを、少女は再び断ち切るようにして言った。どこか、ぎこちない声で。 「こんな雪の中来て読めずじまいじゃ、割に合わないわよね」 彼女はそう言って、あの最後の一冊を本棚から持ってきた。 「今晩は貸してあげるわ。どうせ明日もまた、来るのよね?」 「いや、来るとは思うけど。そんなことより、僕は」 「一期一会。機会を大切にするんでしょ? 私がこんな親切なのは、今晩だけよ。もしこれで明日無くなっていたら、きっと後悔するでしょ」 彼女はそう言って、僕の手に本を押しつけた。 「予感がするのよ。もうすぐこの最後の本の買い手が決まるって、そういう予感が。だから今のうち、借りておきなさい」 彼女は有無を言わせぬ口調で、そう言い切った。何かを隠しているような、そう言う風だった。 だが僕は何か言おうにも、完全に言い出すタイミングを逃していた。仕方なく、悔しいような安堵したような、複雑な心境のまま尋ねた。 「……いいのか?」 「良いわよ。一晩で読めるでしょ。あなた本当は、読むの早いんだから」 「ああ、そうだな」 僕がそう答えると、少女はにっこりと微笑んだ。この少女の初めての笑顔は、とても魅力的だった。 そして十時半の鐘が鳴ったのを契機に、僕は毒書院をあとにした。 そう。 僕はのうのうと、毒書院を後にしたのだ。 少女に再び毒を盛られたとも、気付かずに。 ● ● その毒に気付いたのは、次の夜、毒書院の前に立ったときだった。 そのときの光景を、僕はすぐに受け入れることができなかった。 なぜならもうすでに、全てが手遅れだったから。 その夜、古びた光を漏らしているはずの窓から、明かりが失われていた。 ラストセールの貼り紙があった入り口には、その代わりに真新しい紙が貼られていた。 『おかげさまで、完売いたしました。長年のご愛顧、ありがとうございました』 読んだ瞬間、腰から力が抜けた。 気づくと僕は雪の中に、膝を落としていた。 「嘘だろ……」 だがその毒書院だったその店からは、全くの気配が、人の温度が感じられなかった。どう見てもすでにその店は、無人だった。 毒書院は、僕のいない間に閉店したのだった。 泣きたくなるほどの、喪失感だった。 「なんでだよ……明日本を返しに来いって、自分で言ったくせに」 僕はそう嘆きながら、積もった雪を握りしめる。あまり出来事に、思考が追いつかなかった。 だってどう考えても、理不尽だったのだ。 昨日、あんなことを言っておきながら。 あんな優しくしておきながら。 こんな卑怯な不意打ちのように、店をたたんでしまうなんて。 どう考えても、納得がいかなかった。 「自分から、本まで貸すっていったくせに……」 だがそこまでつぶやいたところで、少女の言葉が思い出されていた。 『一期一会。機会を大切にするんでしょ?』 『もしこれで明日無くなっていたら、きっと後悔するでしょ』 彼女は昨日、そう言ったのだ。 そう言ってこの本を、僕に貸したのだった。 だが思ってみればその少女の言葉は、本当にこの本のことだったのだろうか。 少女のどこかぎこちなかった口調を、思い出す。 少女はもっと別の何かを、言いたかったのじゃないだろうか。 『あるんだよ。古本屋で一目惚れするってことが』 『その出会いを大切にしなけりゃいけないんだ。その機会が一生に一度、今この瞬間にしか起こらない奇跡だと思って』 これは以前僕が、少女に言った言葉だった。 僕は彼女に言ったのだ、出会いを、そして機会を大切にすると。 『私がこんな親切なのは、今晩だけよ』 そして少女は昨晩、こうも言ったのだ。今晩だけよ、と。 だがそれは、本のことではなかったのだ。 僕は気づいた。この喪失感の中で、気づかされてしまった。 昨日僕は、再び試されていたのだ。いったい僕は、何のために本屋に通っていたのかを。 一期一会、最後のチャンスとして。 あなた本当に、この本が読みたかったの? それはかつて僕が最初に、少女に突きつけられた質問。その質問は昨夜、再び形を変えて繰り返されたのだった。 僕は、断らなくてはいけなかったのだ。間違っても本を借りては、いけなかったのだ。 なのに僕は、再び嘘をついた。 本を借りて帰ってしまった。自分を誤魔化して。彼女に嘘をついて。 僕は、見逃したのだ。最後の機会を。その瞬間を逃せば、二度と取り返しがつかない奇跡があると知りながら。 自業自得だった。彼女の言うとおり。僕の心は、救いようもなく貧弱なのであった。 そしてもう、何もかも手遅れなのだった。もう二度と、毒書院の扉は開かないのだった。 僕は再び、読んだ。 『おかげさまで、完売いたしました。長年のご愛顧、ありがとうございました』 それは実に淡々とした内容ながら、僕を殺すには十分な猛毒だった。 だが僕は震える手で、その貼り紙を剥がした。例えどんな内容であろうと、それは彼女から僕への最後のメッセージだったから。だから僕には、それを手に取らずにはいられなかった。 だがその無機質な文章は、彼女に代わって僕を責め立てているような気がした。いつの間にか、貼り紙の字がぼやけ始める。 どうやら僕はとうとう、泣き始めてしまったようだった。 そしてその涙の粒が、貼り紙に落ちるのと同時に、 「……ふっ……ふふっ……」 後ろから、笑い声が聞こえた。 妙な予感が、寒気とともに全身を貫く。 僕は恐る恐る、時間をかけてふり返った。まるで、祈るように。 するとそこには、 「くくっ、無様ねえ」 少女が、立っていた。 前掛けの代わりに真っ黒のコートを着て、少女が雪の中に立っていた。 少女はいつもの澄まし顔をしようとしながら、だが堪えきれず笑いを漏らしていた。 「あなた、そんな雪の中で、くっ……あっ、だめっ……笑いが……くふふっ」 少女は口元を片手で隠して笑い、感に堪えないという様子で身悶えしている。 「そんな必死でっ……くくっ……」 少女の頬は上気して赤くなり、目元は潤んでさえいる。どうやら僕は、相当恥ずかしい姿を晒したようだった。僕は、ぶ然として尋ねる。 「いつから見てたんだ?」 「もちろん、最初からよ。あなたがあんまり右往左往するから、ふふふっ、私もう……」 少女はもう澄まし顔を止め、隠すこともなく笑っていた。 そしてひとしきり笑うと少女は、 「もう、あんまり私を喜ばせないでくれるかしら」 トロリとした嫌らしい笑いを浮かべて、言った。どうやら彼女は、俺がショックでオロオロするところを見て、悦に入っていたらしかった。 「悪趣味な……」 「そうね、悪趣味だわ。でも、たまには良い物ね。こういうのも」 彼女は悪びれることなく、そう言った。この潔さは見習いたいものだった。だが、 「これで少しは反省したでしょ、嘘つき」 そう言われると、確かに反論ができなかった。 「三度目は、許さないわよ」 少女はそう言った。 だから僕は、言うことにした。正直に。 自分がどうして、あの本を買おうとしたのか。 どうして自分は、本屋に通っていたのか。 僕は言った。 「――古本屋で、恋をしたんだ」 「――あの夜巡り会った君は、猛毒のように強烈で、奇跡のように素敵な少女だったんだ」 「――だから僕は、毒書院を訪ねて君に会えるのが、とても幸せだったんだ」 すると少女は嬉しそうに小さく頷いた。そして何の毒もない真っ白な言葉でこういった。 「ありがとう」 そして少女はニヤリと笑ったあと、わざと澄ました顔をしてこう続けた。 「じゃあ約束通り、返して頂くわ」 そう言って、片手を差し出す。 僕は突然のことに、思わず問い返していた。 「返すって、あの本をか?」 「そうよ、だって言ったでしょ。あの本は、それに相応しい人に譲るって。あなたにあの本は、必要ないわ」 「ま、まあな」 「それにもう、あの本の買い手が決まったの」 「……は? その、誰に売ることにしたんだ?」 僕の慌てた問いかけに、少女は何のてらいもなく答えた。 「もちろん私よ」 彼女のその屈託のない様子に、僕は半ばあきれるようにして尋ねる。 「……こういう本は、くだらないんじゃなかったのか?」 「あら、つい今この瞬間から、猛烈に読みたくなったのよ。文句ある?」 「あ、いや、もちろん無いけどさ」 「でしょ。ならさっさと、かえしなさい」 少女の言葉にあたふたする僕を見て、彼女は悪趣味な笑いを浮かべながら本を受け取る。 そしてそれが僕の告白に対する、彼女の返事なのだった。 「さて、じゃあ中に入って暖まりましょうか。今度は甘いココアでも入れてあげるわ」 彼女はそう言って、僕に腕を絡ませる。僕は笑って、彼女に応じた。 猛毒は、口に苦しの猛毒少女。 その彼女が入れるココアが、たまらなく楽しみだった。 ● ● そして最後の、種明かし。 最後の客となった少女に渡された、最後の一冊。 その本の題名は―― 『女性のための恋愛術』 |