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「今日から禁煙してください」

 一方的に告げられた理不尽な言葉。ヘビースモーカーの俺にとってこれは死の宣告に等しい。当然受け入れられるわけがない。
「嫌だね。他の面では全然無駄遣いしてないんだからタバコぐらい自由に吸わせてくれよ」
「あなたがタバコを毎日二箱も三箱も吸うから家計が苦しいんです」
 実はこれに近いやりとりは初めてじゃない。妻は今までにもやんわりと禁煙を勧めてきた。その度に断固拒否してきたのだが今日は向こうも簡単に引き下がるつもりは無いらしい。
「それに健康のことも心配なんです。もしあなたが急に大病で倒れたりしたら私や子供はどうなるんですか」
「何を大げさな」
「真剣に聞いてください。由希はまだ五歳なんですよ。あなたにはまだまだ元気でいてもらわないと。由希の結婚式や孫の姿が見たくないんですか?」
「多分俺は見ないほうがいいだろうな。相手の男をボコボコにしてしまうかもしれん」
 冗談で場を和まそうとしたが無駄だった。妻は目を潤ませ、真剣な表情でジッと見つめてくる。その瞳には確固たる意思の光が宿っていた。
 その様子を見て心が少し動く。タバコはやめたくない。だが妻は本気で俺のことを心配してくれている。由希の結婚式や孫も本心では絶対に見たい。でも……。
「そうは言ってもな、もうこれは習慣になってるからいきなりスパッとやめるなんて絶対無理だぞ。徐々に減らしていくってのはどうだ?」
「それではダメです! 一週間も経てばまた元の本数に戻っているに決まっています!」
 たしかにそうかもな。俺はそんなに意思の強い人間じゃないと思うから、最初にきっぱり決断しておかないとすぐ誘惑に負けてしまうだろう。だがそれはいきなり禁煙したとしても同じことだ。一箱だけ一箱だけ、と呟きながら自販機のボタンを押す自分の姿がありありと目に浮かぶ。
 しかし妻の真摯な気持ちにも応えてやりたい。どうしよう。どうすればいいんだ。
「少し、考えさせてくれ」
「……分かりました。あなたがどれだけタバコが好きか、私はよく知っています。だからこんなに強く言っていいものか迷いました。でも私と由希、そしてあなた自身のために心を鬼にしました。あなたならきっと良い選択をしてくれると信じています」

 妻が出て行った後の書斎で、俺は手元にある最後の一箱を睨みながら考えた。家族のこと、将来のこと、健康のこと。禁煙が良いことづくめであることを頭では理解しているのだが、タバコを愛してやまない気持ちがその思考にノイズを生じさせている。
 気づけば悩み始めてから一時間以上が経っていた。このままではいつまでも答えが見つからない。一服して気分を変えよう。そう思ってタバコの箱を開けた。
「ん?」
 中には一本しか入っていなかった。三本ぐらい残していたつもりだったのだが。
 これを今吸ってしまっていいものだろうか。もし禁煙するとしたらこれが最後のタバコになる。そんなに貴重な一本を軽々しく吸えるものではない。どうしたものか。
 とりあえずその一本を箱から取り出し、机の上に置いてみた。それを見つめていると何だか寂しい気持ちになってくる。
 初めてタバコを吸ったのは高校生の時だった。親父のタバコをくすねてトイレの中で吸ってみた。あの時は吸い方をよく知らなかったからむせ返ってしまって、どうしてこんなものに大人は金を出すのか不思議でしょうがなかったな。
 妻との初めてのデートの時。待ち合わせの時間より一時間も早く来てしまい、気を落ち着けるために一服しながらずっと待っていた。約束した時間の十分前に来た妻は俺の足元にたくさん落ちていた吸殻を見て『ごめんね』って謝ったんだっけ。あの後からだったなあ、携帯灰皿を持ち歩くようになったのは。
 知らない間に俺は涙を浮かべていた。
 他にもたくさんの思い出がある。喫煙を始めてから十五年。人生の約半分もの間、俺の傍にタバコはあった。それを今日限りでやめるなんて簡単には決められない。
「パパ、泣いてるの?」
 いつの間に書斎へ入ってきたのか、最愛の娘が隣に立っていた。俺は急いで目をこすり、無理やり笑顔をつくる。
「いや、目が痒くてね。ゴミでも入ったのかな」
 由希は何も言わず、しばらく俺の顔と机の上のタバコを見比べた。そして最後にジッとタバコを見つめた後、何を思ったのか右手を一生懸命伸ばしてそれを掴んだ。
「こらこら、それは玩具じゃないよ。パパに渡しなさい」
 タバコを返すよう由希の前に手を差し出した。が、由希はそれを無視してベランダの窓を開け、タバコを外へ放り投げた。
「なっ!?」
 俺はベランダに飛び出してタバコの行方を探した。数分間、必死になって探した甲斐あって無事発見することができた。──昨日の大雨で庭にできた水溜りに浮かんでいるのを。
「由希! どうしてこんなことをした!」
「う……」
 しまった。つい怒鳴ってしまった。ぽろぽろと涙を流し始めた由希を見て後悔の念に苛まれる。タバコの一本ぐらいで何をやっているんだ俺は。
「ご、ごめん。パパが悪かった。だから泣かないでくれ。由希の泣き顔なんてパパは見たくないよ」
「アタシも、ヒック、パパの泣いてるところを見たくないよ、ヒック。だからパパを泣かす悪いものをやっつけただけだもん!」
 ……この言葉は俺の心に根付く妄執を吹き飛ばすのに十分な力があった。妻だけでなく子供にまで心配されるなんて、俺は父親失格だな。でもこれで決心はついた。泣き続ける由希の頭をそっと撫でてやる。
「ありがとう、由希のお陰で助かったよ。ほら、その証拠にパパは笑っているだろう? だから由希も一緒に笑おう」
 さっきみたいな嘘の笑顔ではなく、俺の本当の笑顔を見て由希も一緒に笑ってくれた。どんなに濁った心でも一瞬で浄化してしまえるこの笑顔を、俺はどんな代償を支払ってでも守りたい。
 これまでずっと悩んできたことは禁煙するかしないかではなく、家族とタバコのどちらを選ぶかだったのだ。答えは当然家族。悩んでいたのが馬鹿みたいだ。たしかにタバコを手放すのは寂しい。でもそのせいで家族が悲しむのならそんなもの必要ない。
「あなたー、由希ー。ごはんよー」
 キッチンの方から妻が俺達を呼ぶ声が聞こえる。
「行こうか、由希。今日の夕飯はなんだろうなー」
「アタシ知ってる! ハンバーグだよハンバーグ!」
「おお、そうかー。パパの大好物だ」
 俺と由希は手をつないでキッチンに向かった。



 禁煙五日目。
 正直に言うとつらい。禁煙宣言してもすぐに恋しくなり、数日後には何事も無かったかのようにタバコを吹かしていた奴を何人も知っているがその気持ちはよく分かる。ともすればタバコの自販機にふらふらと吸い寄せられてしまう俺の弱い意志を支えているのは由希の涙だった。
 あの時の涙はタバコの誘惑に対してだけではなく、人生を歩んでいく上で立ちはだかる障害を打ち破る時にも俺を支えてくれるだろう。
 だが、そんな俺でもやはり口元が寂しいので今はガムを噛んでいる。こればかりは徐々に減らして慣れるしかない。
 会社に提出するための資料を整理していると由希が書斎に入ってきた。
「ん、どうした。もう夕飯の時間?」
 由希は黙ったまま俺の隣まで来て、机の上にあるガムの山を凝視し始めた。
「ははは、ガムを噛んでみたいのか。でもこれはミント味──」
 由希はいきなり両手でガムの束を鷲掴みにすると開けっ放しにしていた窓の外へ放り投げた。
「えっ、ゆ、由希?」
 どうしてガムまで? わけが分からない。俺はこの異常としか思えない行動にただ呆然とするしかなかった。やがて由希はタバコの時のように涙をぽろぽろ零しながら叫んだ。

「だってママが泣いてるんだもん! タバコがガムに変わったんじゃ意味がない、もっともっとブランド物のバッグが欲しいのにって泣いてるんだもん!」


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