| 久芳さん 著作 | トップへ戻る | | ||
|
|
「――かわいそうだろ」
頭上からふりかかった彼の声。 それにアタシは、嬉しくて叫びだしたくなる衝動をぐっとこらえる。 そしていかにも気だるそうに、睨むような目つきで、顔を上げるのだった。 ○○○ 顔を上げれば、薄曇りの空が視界に広がる。淡いねずみ色をしたそれは、一年ぶりに見る冬の空だった。 初雪はまだ、山間部でないと観測されていない。ひどく冷えた朝や夜にみぞれが降ったりはしたけど、真綿のような白い雪は、まだ、目にしていない。 首の痛くなる姿勢のまま、アタシは長くなった煙草の灰を落とした。 こうして毎日公園のベンチでくつろいでいると、日々うつりゆく季節を敏感に感じとることができる。今日のように昼間でも息が白くなるほど冷え込むと、いてもたってもいられず、朝からずっと公園にいた。 あちこち毛玉のできたセーターとジーンズに、お下がりでもらったコートとマフラー。どれも色は墨のような黒で、ポニーテールにした髪もまた、黒。肌が白いことが自慢で、アタシは真っ赤な口紅を好んでぬった。 息を吸うたび、鼻の奥がツンとする。鼻先も頬も赤くなっていると思うのだけど、公園には誰もいないので気にしない。ベンチの後ろに面した道路は、車なんてほとんど通らない。歩道に並んだ白樺が風をさえぎってくれるので、がたがた震えるほどの寒さを感じることはなかった。 あごの先だけマフラーにうずめ、アタシは目の端にうつった白いものに気がついた。 遊び相手がいなく、ぽつんと風に身を任せている遊具たち。ペンキがはげて、錆びついて、すっかり廃れてしまったこの公園。 真っ白な綿毛が、空を舞っている。 それもひとつだけでなく、複数に。 まるで雪のように。 「――違う」 でもそれは、本物の雪ではない。一瞬だまされたアタシは、腹立ち紛れに、にせものの雪に向かって紫煙を吐いた。 ラッキーストライクの煙をあびて、綿毛を汚すまいと、それは散り散りに逃げていく。 さらに煙をふきかけ、アタシは唇の端を曲げた。 ――おどかしやがって、ホントの雪かと思ったじゃないか。 心の中でそう呟き、また煙草をふかす。アタシはまだ十七歳。酒も煙草もパチンコも、アダルトビデオも一切解禁されない女子高生だ。 アタシが煙草を吸うと知っている人は、いないと考えていい。アタシだって好きこのんで吸っているわけじゃない。吸うのもまたこの季節の、このベンチでだけ。本当は煙草なんて大嫌いだった。 アタシがこんな格好するのも、煙草を吸うのも、れっきとした理由があるから。その理由を知っている人もまた、いないのだけど。 煙を、今度は空に向ける。雲よりも煙のほうが色が白くて、届かないところにまた雪虫が飛んでいる。アタシはさらに遠くに煙を吐こうと、フィルターぎりぎりまで火をつめた。 「――かわいそうだろ」 声がしたのは、今まさに吐き出そうとした瞬間。 「雪虫、嫌がってるだろ」 タイミングを逃したアタシは、自分の煙に負けて激しく咳き込んでしまった。 涙を浮かべるアタシから煙草をとりあげ、彼は踵でそれを踏みつぶす。そして隣に腰かけ、大きな手で背をさすってくれた。 「大丈夫か? シノブ」 ようやく咳の止まったアタシは、彼に気付かれないようこっそりほほ笑む。鼻先までマフラーをあげ、目だけを鋭く細めて、続くまで態度の悪い子でいようとした。 「……今年も会ったね、ユキムラ」 「シノブが俺を呼ぶからな」 ユキムラと呼んだ彼は、寒いというのに、コートなどの防寒具を一切着ていない。すべて白で統一された薄手の服に、足はあろうことか裸足。見ているだけで鳥肌がたつような格好をしているのに、吐いた息は白くなかった。 「煙草なんて身体に悪いぞ」 アタシから煙草とライターと携帯灰皿をとりあげ、ユキムラはそれを手の中に隠してしまう。地面に落ちた吸い殻は、きちんと拾って灰皿に入れた。 煙におびえていた雪虫たちが、再び、アタシたちの周りに集まってきた。 白い綿を身体につけて、あちこち飛び交う、雪のような小さな羽虫たち。正式名称はトドノネオオワタムシっていうのだけど、たいていの人はその名前を知らない。雪虫は雪虫だ。 この虫が飛びはじめると、季節はもうすぐ冬になる。 雪虫は、冬の使者といわれていた。 ひらひらと舞う雪虫を肩にとまらせて、嬉しそうに微笑むユキムラもまた、雪虫の飛ぶ時期にだけあらわれる使者だ。雪虫とともにやってきて、本物の雪が降ると消えてしまう彼と出会って、もう五年になるだろう。 「今年はちょっと、来るの遅かったんじゃない?」 「俺にも事情ってもんがあるんだよ」 公園のベンチに二人で座って、ぼんやりと空を眺める。それは毎年恒例のことで、初雪はいつも、彼と一緒にむかえていた。 とくに特別なことをするわけじゃない。しいていえば時間の共有。彼がいることでその使者の役目が果たされるというのだから、楽といえば楽だけど、果たして本当に彼は使者なのかと疑ってしまうこともある。 アタシは横目で、彼を盗み見た。 ユキムラは、成長というものをしない。会うたびに背がのびているアタシと違って、彼はずっと十代後半の青年の姿のまま。季節はずれの褐色の肌に、短く切った黒い髪。丸い瞳に、大きな口。笑うとのぞく白い歯。 男の人の表現に使うのはためらわれるけど、その横顔はとても綺麗だった。 「――シノブ」 ユキムラがこっちを向いて、アタシはあわてて視線をそらした。 「待ち人は、来たか?」 「……ううん」 彼はそれに、そうか、と呟くだけ。そして何も言わずに、再び空を見上げてしまう。 ――初雪は、毎年一緒に見れるからな。 そう語った彼は、もう、何年も帰ってこない。 ユキムラは、長らく離れ離れになった人をめぐり会わせる、再会の使者だった。 ○○○ 『彼』は、旅人だった。 旅行などの軽いものではない。家を離れ、さまざまな地をめぐる放浪の旅をしていた。 高校を卒業して、進学も就職もしなかった彼は、町から町へ転々と旅をしていた。資金がなくなったら小さなバイトをして、あとは絵を描いたり写真を撮ったり、ノートに何か書きためたりしていた。 そんな生活を始めて一年になると、あの時の彼は言った。だから当時十九歳ぐらいで、アタシはまだ小学生で。兄妹にも見えないその組み合わせは、とても不自然だったと思う。 スケッチブックやカメラの入った鞄を肩にかけて、町を放浪していた彼は、どう考えても不審者で。けれどもとくに人目を引いたりしなかった。空気のように穏やかに町に溶け込んでいた彼の存在は、ほとんど誰も気に留めなかった。親も、兄や姉も、友達も、アタシが彼と仲良しだったことなんて知らない。 町を歩くたびに必ず姿を見かけた彼。みんな気にも留めない彼に、唯一幼かったアタシだけが興味を持って、見つけるたびに迷惑にも付きまとっていたのだ。 ひょろりと長い背を猫のように丸めて、このベンチに座って、スケッチブックに絵を描いていた彼。その隣にはアタシ。誰も知らない自分たちの関係が、まだ小学生だったアタシにとって、とても特別なものだったのをよく覚えている。 そんな彼が町を去ると言ったのは、雪虫が空を舞い、もうすぐ初雪が降るだろうと言われていたころだった。 次の旅への資金もたまったので、次の町へ行こうと思う。そう告げた彼が一ヶ月近くも一つの町にとどまったのは、初めてのことだったらしい。 『俺、寒いの苦手なんだよ。だから次は暖かいところに行くわ』 空に向かって紫煙を吐きながら、彼は言った。 『寒いと煙草吸いたくなるから、すぐ減るんだよな。旅の資金はできるだけ節約したいし……っていったって、煙草はどうしてもやめられないんだけど』 シノブは未成年で煙草吸ったりするなよ。自分を棚に上げた忠告をする彼は、全身を黒い服でまとめていた。髪も黒ければ肌まで黒い。笑った口からのぞく歯だけは白かった。 『さびしいか?』 自販機で買ってもらったミルクティーを飲んでいたアタシは、そうとうひどい顔をしていた。鼻が赤いのは寒さのせいだけではなかったし、震える身体もまた、寒さのせいだけではなかった。目にたまった涙はもう、言い訳など通用しない。 『初雪、一緒に見るって約束したのに……』 『そうだな』 彼は公園でなにをしていたかといえば、雪虫の観察をしていたのだ。服にとまった雪虫をカメラにおさめたり、絵にしてみたり、時にはアタシにうんちくを教えてくれたり。 本物の雪が降るまでは、この町にいるつもり。そう言っていたはずの彼は、今まさに、アタシの前から旅立とうとしていた。 『できれば俺ももう少しここにいたいんだけどな』 じゃあ、と瞳を輝かせたアタシを、彼の涼しげな視線がさえぎった。 『これ以上ここにとどまるといついちゃいそうだから、いさぎよく去ることにした。まだいろいろと行きたいところがあるんだ』 『じゃあ満足したら帰ってくる?』 『それは……わからない』 まだ長い煙草を携帯灰皿にしまい、彼は目を細める。アタシに笑いかけたのではなく、これから先の自分の道を、じっと見据えているようだった。 口をあけた紅茶の缶はすぐに冷えてしまい、アタシは自分の息で手を温める。姉のおさがりであるコートは甘ったるいクリーム色で、彼の黒ずくめに憧れていた身としては、とても気に食わないものだった。 『でもまぁ、シノブと一緒に初雪見るって約束したんだから、男としてそれは守らないといけないよな』 『守ってくれるの?』 『あぁ』 うなずく彼の口からは白い息がもれて、ほんのりと煙草のにおいがした。アタシを見下ろす瞳はとてもやさしいのに、目つきだけはとても鋭かった。 『毎年、初雪が降るころにはここに戻ろうと思う』 『本当に?』 『本当に』 だから、と、彼はアタシの涙をぬぐった。冷たい空気に鼻がつんとして、またひとつ、涙があふれてしまう。彼はアタシの涙がとまるまで、根気強くぬぐってくれた。 『初雪は、毎年一緒に見れるからな』 指きりげんまん、嘘ついたらこちょこちょ千回するぞ。冷たくなった手でそう約束して、彼はアタシの前から去っていった。 ○○○ 彼はすでに、こちょこちょ千回の刑が決定している。 あの約束からもう八年もたっているのに、一度もそれを守っていないからだ。 アタシは毎年この季節になると、約束の公園で彼を待っている。けれど彼は来ない。あれはアタシを泣きやませるためについたその場しのぎの嘘だとわかっている。でも、どうしても彼を信じたかったのだ。 そしてそのアタシの前にユキムラがあらわれたのが、約束から三年後。今から五年前。まる三年、来ないとわかっている人を待ち続けているアタシのことが気になって、どうしても手助けしたくなったのだそうだ。 「……手助けっていっても、何かしているようには見えないけど」 思わず口をつく文句に、ユキムラは肩をすくめる。そして没収した煙草に勝手に火をつけた。 「残念ながら俺に即効性はないんでね」 気長に待つしかないらしい。 どうして彼が再会の使者なのかとか、いったいどうやって再びめぐり会わせるのかとか、今まで何度も同じ質問を繰り返していたけど、彼が満足のいく返答をすることはなかった。企業秘密だといっても、そもそもそんな企業は存在しない。 でもアタシは、彼を信じるしかない。変な宗教や新手の詐欺だったらとっくに関わりを断っていたけれど、ユキムラは宗教にも詐欺にもできないことをしているのだ。 少しひしゃげた煙草の箱を持つ大きな手。 それを吸うときに、少しあごを引くしぐさ。 まだ長いうちにやめてしまう行動。 細身の背中を、猫のように丸めて座る姿。 褐色の肌も、丸い瞳も、白い歯も。 その綺麗な横顔も。 身にまとう服だけが唯一違うけれど、それ以外のすべては、彼とまったく同じだった。 ユキムラは、その人が一番会いたいと思っている人物の姿になってあらわれるのだ。 はじめてユキムラに会ったときは本当に待ち人がやってきたと思って喜んだものだから、真実を告げられたアタシの落胆ぶりはそれはそれはひどかった。けれど彼が使者だと自己紹介したときは、強い希望を抱いたものだった。 「俺がくるうちは、再会の希望があるから。こなくなったら希望は薄いけど……ほら俺、今こうしてシノブの前にいるだろ?」 灰皿に灰を落としながら、ユキムラは目で雪虫を追う。彼が成長をしないのは、アタシの記憶の中での彼が、ずっとその姿のままで止まっているからだ。 ……否。 アタシの想いの強い姿が、その時だったからだろう。 「なぁ、シノブ」 「なに?」 「お前の待ち人って、最近ちょっと有名になってないか?」 ユキムラの質問に、アタシは無言でうなずいた。 彼のことを知っていたのはアタシだけだったから、親からも兄弟からも友達からも、詳しい情報を集めることができなかった。けれど風の噂に、彼のことは耳にしていた。 幸村玲一という名の男性は、日本をはじめさまざまな世界を旅し、その先々でさまざまな写真や撮り、絵を描いていた。エッセイのような旅行記を書く反面、世界の情勢を記すジャーナリストのようなこともやっていた。 最近、そんな彼の集めた写真や絵や文をおさめた本が、出版されることになったのだ。 テレビや雑誌で取り上げられていた彼は、あのころと変わってしまっていた。当たり前だけど年をとっていた。あのころの面影はあるけれど、今まで旅してきた中で一番思い入れのある国を訊かれても、聞いたこともないような国の名前をあげるだけだった。 アタシのことなんて覚えているわけがない。 アタシとの約束なんて覚えているわけがない。 ユキムラは優しいから、アタシが希望を失わないように、毎年気をつかってあらわれてくれているに違いない。 「ねぇ、ユキムラ」 「なんだ?」 「本当のこと言ってよ」 鼻をすするアタシに、彼は白い息を飲んだ。 寒くて、鼻が赤くなる。寒くて、身体が震える。寒くて、声が小さくなってしまう。 はあ、と大きなため息をついてみても、もう態度が悪い姿にはならない。 「玲一はもう、こないんでしょう……?」 寒くて、涙が出てしまう。 「アタシ、もう、玲一には会えないんでしょう?」 泣いてはいけない。泣いてはいけない。そう自分に言い聞かせるのだけど、一度緩んだ涙腺はなかなか言うことを聞いてくれない。毎年毎年会うたびに、めそめそ泣いている子だなんて、ユキムラに思われたくない。 そう思っているのに、涙で視界がにじむ。雪虫がまるで、本物の雪のように見えてしまう。 手袋で涙をぬぐっても、黒い毛糸は水を吸わずにはじくだけだ。目じりに涙がのびて、それがまたアタシに涙を誘った。 彼の本はアタシも買った。予想通り、この町のことも雪虫のこともアタシとの約束のことも一切書かれてなどいなかった。 行こうと思えば行けた距離でサイン会があったけど、アタシは行くことができなかった。もう一度、忘れられていてもいいから、一目彼を見ることができたら。そう思っていたけど、握手会に立ち会う出版業界の女性が幸村玲一の恋人だという噂を聞いて、しり込みをしてしまったのだ。 「やっぱり、初恋って実らないんだね」 「シノブ……」 ユキムラが来ると嬉しいのは、またいつか会えるかもしれないという希望があるからだ。玲一がアタシのことを忘れていて、顔を合わせてもアタシのことを誰だかわからなくて。それでもアタシには彼が彼だとわかる。そんな再会をすることができる希望があるからだ。 「玲一に会いたい」 口にすると、よけい涙があふれた。 会いたくて会いたくてたまらない。 そう思っているはずなのに。 「――シノブ」 気づけばアタシは、ユキムラの腕の中にいた。 「俺は、再会の使者なんだ」 アタシの顔を胸におしつけて、彼は耳元で囁いてくる。煙草は手に持っていなくて、両手でしっかりとアタシを抱きしめていた。 「その人が会いたいと思う人と、どんなに時間がかかっても、めぐり会わせることができる。俺がいれば必ず会うことができるし、俺は会えない人の前に、嘘をつくために現れることはできないんだ」 うずめる彼の胸から、鼓動が聞こえることはない。きつく抱きしめられているはずなのに、不思議と苦しくはない。彼の指の動きを感じるのに、アタシたちのような実感を伴うことはなかった。 それでも息づかいは聞こえるし、吸った煙草の煙も香っている。耳朶をくすぐる彼の低い声が、落ち着かないアタシの心を鎮めてくれる。 「めぐり会わせるのにはとても時間がかかるけど、再会は想いが強ければ強いほど早く訪れる。一日で会えた人もいれば、何十年もかかった人だっているんだ」 だから、と、ユキムラはアタシに顔をあげさせる。目じりに残る涙を、その太い指ですくって、桜色の舌でぺろりとなめた。 「強く、会いたいと思ってほしい」 心は落ち着きを取り戻し始めているのに、涙だけがどうしても止まってくれない。次から次へとあふれる涙に、彼はその薄い唇を寄せた。 「今のシノブは、心のどこかで、会いたくないと思ってるんだ。今はまだその気持ちが小さいけれど、それが大きくなってしまったら、会うことができなくなってしまう。俺だって、シノブの前にあらわれることもできなくなる。せっかく再会することができるのに、それを自分から拒んでしまうなんて、もったいないと思わないか?」 視線をアタシにあわせるから、彼はうつむき加減だ。その頭には、雪虫が数匹とまっていた。 きっとアタシの頭にも、雪虫がついているに違いない。 にせものの雪がこうして集まるのは、アタシたちがにせものだからだ。 ユキムラはにせものの幸村玲一。 アタシの心の中には、にせものの気持ちが住み着いている。 『玲一に会いたい』と思う心のどこかで、『玲一に会いたくない』という気持ちがある。 玲一に会いたい。会いたくない。最近、どちらが本物で、どちらがにせものかわからなくなってきた。 会いたいと思っているはずなのに、会うことがとても恐ろしい。あれだけ会いたいと願っていたのに、彼の姿を見たら、逃げ出してしまいそうで。 玲一はもう、昔の玲一ではない。 そしてアタシも、昔のアタシではないのだ。 「アタシ……」 「聞いてくれ、シノブ」 震えるアタシの頬を、彼の手が包み込んだ。 「その人に会えたら、なにをしたいと思う?」 もし玲一に会うことができたら。もし、目の前に、玲一が現れたら。 「もし逃げてしまったら、そのあと、後悔しないか? どうして会わなかったんだろうって、もう一度会いたいと思うんじゃないか?」 のぞきこむユキムラの瞳はとても澄んでいて、アタシの顔が映っている。その瞳のむこうに、玲一を待ち続けるアタシの姿があるような気がした。 玲一に会うのはとても恐い。アタシは大きくなって、彼は大人になっていて。もう昔のようにいかないのがわかっているから。 でも、会えないままでも、会って逃げ出したとしても、絶対に後悔することになる。 「アタシ……玲一に好きって言ってない」 あのとき、涙に負けて言えなかったこと。また帰ってくるかなんてどうでも良かった。アタシは彼に伝えるべき言葉があったはずなのに。 「アタシ、玲一に会って、好きって言いたい」 ようやく涙が止まって、うすぼんやりとした視界が徐々にはれてくる。 心を決めたアタシに、ユキムラが微笑んでいる。その顔は玲一にそっくりなはずなのに、笑いかただけが似ていなかった。 幼い子供をあやすような。あるいは、見守るような。慈愛というのだろうか、それとも母性というのだろうか。そんな笑みを、ユキムラは浮かべていた。 「強く願うんだ、シノブ。そうしたら絶対、会えるから」 「うん」 「会いたくないなんて思うな。もし思ったら、自分がしたいことを思うんだ」 「……うん」 包み込むユキムラの手が、次第に離れていく。いや、離れてはいないのに、感触がなくなっていく。 ユキムラの頭ごしに見上げる空には、雪虫が舞っている。ゆうゆうと我が物顔で飛んでいるのもいれば、せわしなく羽ばたいているのも。それぞれ好き勝手飛ぶからこそ、それが本物の雪ではないとわかるのだ。 まるくて澄んだ彼の瞳が、すこしだけ、さびしそうにかげっている。 その瞳を隠すように、ユキムラは目を細めて、再び微笑んだ。 「シノブと彼の再会を願って……」 彼の顔が近づいてきて、アタシは目を閉じた。 鼻先に、彼の吐息がかかる。煙草のにおいの混じった息の中に、少しだけ甘い、冷たい空気が含まれている。 ユキムラの唇が、重なる――。 目を開くと、一匹の雪虫が、アタシの鼻先を飛んでいた。 「ユキムラ……?」 名前を呼んでも、彼はいない。アタシは涙が伝った頬をぬぐった。 目を閉じる瞬間まで、ユキムラはいたはずなのに。塗料のはげかけたベンチには、火がついたままの煙草が転がっているだけだった。 唇に手を触れてみても、そこにユキムラの感触はない。彼はアタシに触れる前に、消えてしまったのだろう。 「ユキムラ……」 煙草を拾いあげ、アタシは口へと運んだ。 一息、肺へと煙を流し込む。そして煙草を灰皿に入れて、空を仰いだ。 口をすぼめて、高く紫煙を吹き上げる。白くかすむ空の向こうに、雪虫たちが飛んでいる。 手を伸ばせば届きそうな、煙の中の雪虫。逃げられてもいいから触れたくて、アタシはそっと指を伸ばす。 その雪虫は、アタシの手にとまると、あっという間に溶けてしまった。 「……雪?」 見れば、指先に水滴がついている。雪虫は溶けるはずがない。今のは雪虫ではなかったのだ。 思わず、立ち上がる。両手を広げて空を仰げば、たしかに、雪虫とともに、本物の雪が降りてきている。 ああそうかと吐いた息は、再び視界を白く染め、すぐに空気に消えていった。 ユキムラは、初雪が降ると消えてしまうのだ。 アタシが玲一とした約束は、一緒に初雪を見ることだから。初雪が降ってしまったら、もう遅いから。 「今年も、ダメだったな……」 呟きを、手袋の中に隠す。指先を息で暖めて、アタシは空を見上げ続けた。 今年がダメでも、来年があるから。来年がダメでも、再来年があるから。 そう自分に言い聞かせて、アタシはユキムラとの約束を心に留める。強く願えば必ず会えるから。会いたくないと思ったら、玲一と会えたときにしたいことを思えばいい。 アタシは玲一に会いたい。幸村玲一に会いたい。 会えるまで、ずっとずっと、初雪を待ち続ける。 吸って、吐いて、深呼吸。アタシは揺らぎそうになる心に活を入れた。 耳をすませば、あわただしい足音が聞こえてくる。初雪にはしゃいだ子供たちが遊びに来たのだろう。アタシは公園を去ることにした。 初雪はつぶの大きな綿雪で、すぐにやむ様子もなく、歩道にすこしずつ積もり始めている。道沿いに並ぶ白樺たちが、玲一の黒ずくめを真似たアタシを眺めているような気がした。 ポケットに手を入れて、あごをマフラーにうずめて、猫背気味にうつむいて歩く。玲一もよくこうやって歩いていたなと思うと、自然と笑みがこぼれてしまう。 足音はあいかわらずあわただしくて、次第に公園へと近づいてくる。小さな子供が友達を集めてきたのだと思ったけど、足音は一人ぶんだ。身軽ではないらしく、どたどたと重たそう。 「――シノブ!」 その声に、アタシは歩みを止めた。 振り向けば、黒い姿が、走りながら手をふっていた。 あいかわらず上から下まで真っ黒で、肌は一段と黒くなって。でも、笑った口からのぞく歯は、白くて。 「シノブ!」 ひょろりと背が高くて、口が大きくて、瞳が丸くて。 立ち尽くしたアタシの頬に、ひとつ、綿のように柔らかい雪が落ちる。 「……玲一」 溶けた雪が伝う頬に、こぼれた涙が重なった。 END |