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『雪のなかの青い鳥』
「いいか、みちる。絶対に目を開けるなよ。絶対にだからな」 目を閉じていても、まぶたを透かして吐息の白さが見えてきそうなほど、夜の空気は冷え切っていた。 日暮れから降り続いた雪は、町内をすっぽり白く覆った。クリスマス前に雪が積もるのは珍しい。一昨日までは晴れていたというのに、あっという間に冬はやってきてしまった。 「にしても、寒いなぁ」 私の手を引く蛍太が言う。 彼がいつも来ている薄っぺらのジャンパーにスニーカーという冬を舐めてきった格好で迎えに来た時は、さすがに驚いた。南国育ちで雪を見たことがなく、おまけに万年金欠で何事においても腰が重い性格の彼である。厚着をしようにも、そのための防寒具一つ用意がなかったのだろう。 一方の私は、ロングコートにマフラー、ニットキャップをかぶり、両手にはミトンの手袋。履いているはゴム長靴という完全防備。それでもまだ寒いのだから、彼が感じる寒さはどれほどだろう。ミトン越しにつないだのでは、彼の手のぬくもりまではわからない。 ――と、うっかり同情しそうになる自分を、あわてて制する。危ない、危ない。今はまだそこまでこいつに優しくしてはいけない。少なくとも、彼の見せたいものがわかるまでは。 私は彼の言いつけ通りに目をつむったまま、慎重に雪道を進む。 「ちるちるみちる」 唐突に、彼がつぶやいた。 「これ、何のことかわかるか?」 質問ではなく、確認のための問いのようだ。良いことを思いついた子どものように、無邪気で楽しそうな声調子である。 チルチル、ミチル。 青い鳥を探した子どもたち。 彼らもこうして手をつないで歩いたのかもしれない。 *** 蛍太の場合、腰が重いというのは完全に欠点だった。用心深く石橋をたたいて渡るのではなく、石橋をたたくことすらしないで呆然と立ちすくんでいるような性格なのである。 十二月に入ってから、彼は妙に落ち着きがなく、時折、決まり悪そうに何かを言いかける時があった。 私は、そのことに気づきつつも、確かめることが怖くて気づかないふりを通した。 そうして。 彼がようやく言う決心を固めたのは、クリスマスまで残り一週間を切った日のことだった。 それは、温厚に済ますにはあまりにも遅すぎた。腰が重いとかいうレベルではなかったのである。 「幸せは雪みたいに儚い」 生まれてから一度も雪など見たこともない生粋の南国育ちのくせに、蛍太は言う。 しかも、そこで言葉を切って、悔しそうに唇をかむパフォーマンス付き。 どうにかして、恋人――つまりは私のことだ――の同情を誘おうと必死だが、真実のところ、こいつは根本的にこういうものに向いていない。いわゆるファニーフェイスってやつで、何をやってもどこか様にならない。 大学に隣接したハンバーガーショップは、食事時でなくてもそこそこに混んでいる。暖房と学生たちの熱気のせいで、ガラス窓は全面結露しており、表の様子をうかがうことはできない。 しかし、やって来る客たちは一様に震えながら背を丸めており、この冬一番の寒波というやつが迫ってきているのは明らかだった。 私はハンバーガーの包み紙を丁寧に畳み終えると、ゆるゆると紙コップに被せられた蓋を取る。まだウーロン茶は半分近く残っていた。 「……で?」 なかなか本題に入らないので促してやると、蛍太は、う、と言葉に詰まる。ほらね、やっぱり。 私は苦笑して見せた。 「クリスマスにバイト入っちゃったんでしょ」 「すまん、みちる。イブもなんだ」 「あっそ」 それは彼が演技を始めた時点で、ある程度察しがついていたことだ。 「……あっそ、って」 動じたのは蛍太の方だった。 「みちる、怒らないのか? イブとクリスマス両方だぞ。あれだけクリスマス楽しみにしていたのに」 ええ、そうですとも。とても楽しみにしていた。 十一月からずっと私の頭の中は、私たちの経済状況でも可能な、最もロマンチックな過ごし方とは何なのかという議題で持ち切りだし、私が切り出す話題もそればかりだから、いくら鈍感かつ無知な蛍太だってクリスマスの重要性は実感していたはずだ。私がクリスマスに食べたいケーキは駅前のケーキ屋さんのブッシュドノエルだということとか、私の指輪のサイズとか、そういった情報の提供もさりげなく、しかし徹底的に行ってきた。 だというのに―― 蛍太はほとんど反応を見せない私を不審がっていたが、やおらキラキラと表情を輝かせた。 「そうだよな。クリスマスなんて別に大したイベントじゃないよな。さすがみちるは心が広い!」 どうやら、自分に都合よく解釈したらしい。 その顔を目がけて。 私は紙コップの中のウーロン茶を彼にぶちまけてやった。ぎゃー、と品のない悲鳴が上がる。 「うっわ、信じられねえ。つめてー、風邪引くー!」 他の客を気にせず大騒ぎする彼を残して、私は席を立つ。 ――引くなら引け。そして寝込んでしまえ。クリスマスを笑うやつは、冬将軍に泣かされてしまえばいいのだ。 クリスマスにこだわっているわけじゃない。別にキリスト教徒じゃないんだし、資本主義の策略に乗ってやる義理もないでしょ。 友人にはうそぶいているが、クリスマスにこだわりまくっていることは、私自身が一番よく知っている。 遊園地とかレストランとか、別に特別なことをしたいわけではない。何より、そんなお金は割り勘にしたって蛍太に出せるはずがない。 実家暮らしの私と違って、蛍太は一人暮らしだ。しかも仕送りも少ない。大学の学費免除制度と奨学金とアルバイト代で糊口をしのぐ、今どき珍しい正真正銘の苦学生である。 「だからさぁ、加藤と安野さんはサークルの会議、宮田さんは家族で旅行、東海林は法事だって。みんなサボれない用事ばっかで、そしたらもう残ってんの俺くらいだろ? な? 仕方ないんだって」 クリスマスはお店にとって稼ぎ時であり、かつ、バイトのシフトが最も埋まりにくい時期。蛍太の金銭事情と人の良さ――単純さとも言う――を知るバイト仲間が、蛍太を頼るのは当たり前といえば当たり前だった。というか、年末も近いこの時期に法事、って絶対だまされているから、それ。 「シフトは先月には決まっていたはずでしょ。どうして黙っていたのよ」 「言いづらくて」 「あんたは何もわかってない」 私は一方的に携帯電話を切った。 「……仕方ないって、何よ」 断ろうと思えば断れたはずだ。私とバイト仲間を天秤にかけて、それだけでも腹立たしいのに、あろうことかバイト仲間を取りやがったわけである。しかも、自分で選んだ結果なのに、それを仕方ないで済まそうとするなんて、人間としてどうかしている。 「あーもう! ムカつく!」 ばふー、とベッドに倒れ込む。 枕の横には編みかけのマフラーが転がっている。ラッピング用の袋やリボン、メッセージカードだってすでに用意してある。 イブは三駅向こうの百貨店にある特大ツリーを見に行って、その帰りにブッシュドノエルを買って、蛍太のアパートでささやかなパーティをする。そして、クリスマスはずっと二人きりで過ごす。私が思いつく低予算でロマンチックな過ごし方は、それが限界だった。 けれど、そのために友達やサークルからの誘いは全部断った。きっと蛍太も同じことをしてくれると思っていたのに。 右手を掲げる。何もつけていない薬指にばかり目が行ってしまう。 「あーあ……」 小さくため息をついて目を閉じると、風と雨が窓を強くたたいている音が聞こえた。昼間、蛍太と別れてから天候は一段と悪くなった。 確か、蛍太は今夜もアルバイトだったはず。この風雨の中を行き帰りするなんて、想像しただけで気分が滅入る。 「蛍太のやつ、転んだりしなきゃいいけど」 そこまでつぶやいて、今、彼に腹を立てていることを思い出す。 「べ、別に私には関係ないし、どうでもいいけどさ」 誰に向かってでもなく訂正する。そして、しばらくまどろんでいると、ふと外が少しだけ静かになったような気がした。 窓辺に寄る。晴れていればまだ夕日が差し込む時刻だが、今日は厚い雲が空を覆い、夜と言っていい暗さだった。 「……雪だ」 雨はいつの間にか白い雪に変わっていた。一つ一つが大きく重い、しめり雪。やがて積雪に変わる雪である。 雪は強風に煽られ、ななめに降りしきる。雨が雪に変わっただけの暴風雪。傘もまともにさせない天候である。視界はほとんど効かず、家の前を慎重に車が徐行していく。 蛍太から会って仲直りがしたいと電話がかかってきたのは、日づけも変わった深夜二時の少し前だった。 寝静まった我が家をこっそり抜け出す。お気にいりのブーツを濡らすのは忍びなく、迷った末、弟のゴム長靴を拝借した。 完全防備の私を見て、玄関先で待っていた蛍太は、 「へんてこな長靴」 という短い感想をくれた。 「みちる、雪だ! 初めて見た!」 蛍太はバイトが終わってから、ようやく雪景色と対面したらしい。ケンカしていたことなど忘れたように浮かれ調子で、雪だ、すげえ、と繰り返す。 今のところ、雪も風も収まっているが、星は見えず、目を凝らすと辛うじて暗い雲が速く流れているのがわかる。冬の空だ。 雪の深さは、足首と向こうすねの半ばほど。短い間にずいぶんと積もったものだ。 「のん気なものね。雪なんて、すぐに嫌気が差すわよ」 「……何だよ、冷めてるなあ」 蛍太は軽く顔をしかめたが、すぐに笑顔になって私の横につく。私たちは車が作ったわだちを左右に分かれて歩き出した。 雪は音を吸収する。深夜という時間と相成って、圧迫感のある静けさが私たちを包む。 「どこ行くの?」 「いいところ。ついてくればわかる」 蛍太がいつものように手をつなごうとしてきたので、私はさっとポケットに両手を突っ込んで拒否した。 何だ、この態度は。ウーロン茶のことをとやかく言われないのはありがたいが、ごめんなさいのセリフが出てくる気配はまるでない。 ひょっとして、もったいぶっている、とか。何のために深夜に呼び出したのか。一番可能性がありそうなのは、バイトのシフトを変わってもらったという報告だろう。いや、でも、もしかして。けれど、一度浮かんだ期待は簡単には消えてくれない。 あれこれ思案していると、視界の隅で蛍太が盛大に転んだ。 「痛ってぇ……」 「そんな靴履いているからよ」 内心を押し隠すためにも冷たく言ってやるが、彼に嫌味は通じない。何が楽しいんだか、けらけら笑いながら立ち上がる。頭から足まで雪まみれである。 「うわっ、背中に雪入った! つめてー!」 「ちょっと。時間考えてよ。そんな騒いだら迷惑だって」 雪の降らない場所から来た人は十中八九、雪が好きだ。これは私の偏見だが、蛍太のはしゃぎようからしても、あながち間違いではないと思う。事実、彼は何度も転びかけ、その度に楽しそうに笑った。 「……ねえ、どこ行くのよ? 用があるなら早くして。意味がないなら私帰るから」 含みを持たせて言ってようやく、蛍太の動きが止まる。 「意味はある」 「どこに?」 蛍太は少しだけ考える素振りを見せたが、意を決したように強引に私の腕を取った。 「ちょっと!」 小声で抗議する私を、蛍太はまあまあ、となだめる。 「ついてきてほしいところがあるんだけど、それまで目をつむっててくれないか」 「……変なことしないでしょうね? そんなのプレゼントとは言わないからね」 「変なことって?」 「それは」 自分の考えていたことに頬が火照るのがわかる。キ、の形を作ろうとしていた唇をあわてて別の形に変える。 「へ、変なことは変なことよ。私が変だと思ったら、即、ぶん殴ってやるから」 「理不尽な暴力は良くない」 昼間のウーロン茶を思い出したのか、蛍太は一言意見してから、 「そこに着くまで、な、いいだろ?」 「うっかり転んでも殴る」 「……努力する」 蛍太の口調は珍しく真剣だった。 さて、どうしよう。 彼の態度からして、ひょっとしたらひょっとするかもしれない。クリスマスを一緒に過ごせると期待しても、いいのだろうか。 しばし悩んだ末に、私はうなずいた。 蛍太はほっとしたように相好を崩し、改めて私の手を取る。 私は言われた通りに、目を閉じる。視界が利かず、頼りは彼の手だけ。その状況が、余計に私をドキドキさせた。 「いいか、みちる。絶対に目を開けるなよ。絶対にだからな。……にしても、寒いなぁ」 そろりと蛍太は歩き出す。一応、転ばないように努力はしているらしい。 そんな発見にすら、ちょっと嬉しくなる。 もったいぶるのはもういいから、早く言ってくれたらいいのに。 「ちるちるみちる」 唐突に、彼がつぶやいた。 「これ、何のことかわかるか?」 質問ではなく、確認のための問いのようだ。良いことを思いついた子どものように、無邪気で楽しそうな声調子である。 「わかるけど」 彼の言いたいことがつかめず、私は曖昧に、しかし弾んだ声でうなずいた。吐息が温かく、鼻先をかすめた。 *** 「下の名前、ミチルっていうのか?」 彼が初めて口にした私の名前は、どこか不思議な響きがあった。 今思えば、単に訛っていただけなのだけど、そんな音色で呼ばれたのは初めてだったから、妙にドキドキしてしまった。 新歓コンパの席で、彼は軽く酔っていた。少々上気した顔で、にかっ、と気安い笑みを見せた。 「じゃあ、幸せの青い鳥を探しているんだな」 *** つま先の感触がアスファルトの固さから土の柔らかさへ変わる。どこかの空き地だろうか。 まだ蛍太の許可は下りていないので目は閉じたままだが、もう手はつないでいない。ここに到着すると、彼の方から手を放したのだ。 「みちる、もういいぞー!」 前から声がした。 「だから、大声はやめなさいってば……」 小言を口にしつつ、目を開ける。 町はずれの公園だった。遊具もなく、柵で周囲を囲っただけの場所。知っていても遊びに来ることはない、そんな類の公園である。そういえば、蛍太の住むアパートもこの辺りだっけ。 「みちる」 呼び声で我に返る。 「どうだ、見てみろ!」 蛍太は、一際はしゃいでいるようだった。彼の見てほしいものが、今夜、わざわざ私を誘った目的であるに違いない。クリスマスの予定が狂って怒り心頭の私を喜ばせるために、彼が考えた贈り物。 何だろう。何だろう。 期待にドキドキしながら、ゆっくりと、彼のいる方に視点を合わせる。 だが、いまいち彼の意図がつかめず、私は小首を傾げた。 「ええと……、雪だるまがどうしたの」 そう。 蛍太の横には、雪だるまがあった。バケツの帽子、顔にはビンの蓋とサインペンが埋め込まれ、おどけた感じの目と口になっている。背は蛍太の胸の辺りまで。この雪の量でこの大きさなら、なかなか立派なものだ。とはいえ、取り立てて驚くものでもない。見慣れた冬の風物詩。 「バイトが終わってから急いで作った」 自信満々に蛍太は胸を張る。 明らかに反応を期待している眼差しに、私は急いで言葉を探した。 「がんばったわね」 「心がこもってない!」 蛍太は大げさに落胆する。 「いいか、こいつの名前はなぁ、チルチルだ。青い鳥にいただろ、チルチルとミチルの兄妹」 チルチルで雪だるまを指し、ミチルで私を指す。 「二人はだ、夢の世界で頑張って捕まえた青い鳥はどれも死んでしまったり、よく見ると青い鳥じゃなかったりして、とうとう捕まえることができなかった。けれど」 「けれど、夢から覚めると、実は自分たちが飼っていた鳥が、探していた青い鳥だった……でしょ。知っているわよ、そのくらい」 蛍太の言葉を遮って結末を話すと、彼は悔しそうに口をへの字に曲げた。 「まあ、いいけど。要は、青い鳥のテーマってのは……」 まさにその時、頭の中に唐突にひらめくものがあった。天啓のように、と言ってもいいくらいの確信と、しかし、うるさいアラームの音に似た嫌な予感を伴って。 「ちょっと待って。まさかとは思うけど」 知らず、目が据わってしまう。 「青い鳥をわざわざ探す必要がないように、クリスマスもわざわざ祝う必要はない、とか言うつもりじゃないでしょうね」 蛍太が笑顔のまま固まるのを認めつつ、私はさらに追及する。 「そんなつまらないことを言うためだけに、わざわざ雪だるま作って私を呼び出したんじゃないでしょうね。こんな寒い夜に、しかも深夜に! わざわざ!」 「……雪だるまじゃない。チルチルだ」 「へええ、あえてそこを訂正するわけね。聞くけど、それ以外に訂正する場所は?」 冷やかに問うと、蛍太は油の切れたロボットのようにぎこちなく身じろぎした。視線がチルチル、私、スニーカーのつま先を行き来する。 「バイトのシフトだけど、交渉はした。自分でも、あの鬼チーフ相手に善戦したと思う」 「それは頑張ったわね。一応、ほめておきましょう。……で、首尾は?」 「クリスマスとイブ以外に、二十六日から二十九日までシフト入れられた」 「死刑」 私の行動は早かった。 雪玉を作り、蛍太めがけて投げつける。一つじゃ全然足りない。作っては投げ、作っては投げる。当たれ。当たって砕けて死んでしまえ。この大馬鹿野郎。今度生まれ変わったらもっとマシな人間になれるように祈ってあげるから。そう、恋人を失望させないだけの賢さとか交渉力とかを持った人間に。 「うっわ、ちょっと、タンマ。マジでタンマだって! みちる!」 タンマ、何とも懐かしい言葉。変なことに感心しながらも、雪玉投擲の手は休めない。 蛍太は必死で避けているが、足を雪に取られてうまく動けないようだ。命中率はほぼ九割。面白いくらいによく当たる。蛍太の全身が、どんどん雪で白く染まっていく。その無様な様子が、さらに私の神経を逆なでする。 「ああもう信じられない。来て損した! 何が仲直りしよう、よ。嘘ばっかり。煙に巻こうとしただけじゃない!」 単刀直入に謝らないのは蛍太の悪い癖だ。同時に、優しさでもある。率直に言うことが自分も相手も傷つけてしまうことに繋がりかねないと知っている証だろう。外堀を固め終えてから、ようやく気持ちを伝え、行動する。普段はお調子者気どりで、明け透けなイメージを抱かれやすいが、本来の蛍太はどちらかと言えば、とても奥手なのだ。 と。 もしも私の機嫌が良ければそう評すだろう。だが、つまらない言い方をしてしまえば、彼はただただ腰が重いのだ。優柔不断。言いたいことが言えず、行動もできず、まごまごしているうちに、袋小路に迷い込んで四面楚歌。シフトを減らすつもりが増やしてどうする。 「ごはぁ!」 とりわけ硬く握った雪玉が蛍太の顔面に命中する。 蛍太は思いきりバランスを崩し、ひっくり返った。その時、足が雪だるまの身体の方に当たってしまい、衝撃で雪だるまのバケツがぐらりと動く。 あ、と思う間もなく、丸い頭が蛍太の上に落下した。愛嬌のあった白い頭は崩壊し、ビンの蓋でできた目がぽとりと落ちる。チルチルという名前があった分、何となく後味が悪くなって、私は雪玉作りを止めた。 雪だるまの残骸に身体の半ば以上埋まりながら、蛍太がうつ伏せで横たわっている。そのまま動く気配がないので、少しだけ不安になってきた時、 「……あー、もう無理」 足もとからくぐもった声が聞こえた。蛍太が倒れたまま、つぶやいたらしい。なげやりに。 「何かもう、どうでもいいやって思えてきた」 「え?」 「ムードとかロマンチックとか、みちるが欲しがっているものは俺には無理だったってこと。せっかく雪だるま作ったのになぁ」 ぶつぶつ言いながら、腕を立てて身を起こす。雪がジャンパーの上を滑り落ちる。よくよく見ると、ジャンパーの大部分に濡れ染みができていた。 「俺はだ、こう計画していた。まずな、みちるは俺の作った雪だるまを見て、すごいって喜ぶんだ。わざわざ私のために、バイトで疲れているのに作ってくれたんだー、って」 「……お生憎ですが、クリスマスの恨みはそんなもので懐柔されるほど薄っぺらくないの」 半眼で蛍太をにらむ。元をたどれば全部蛍太のせいなのに、まるで私が責められているようでカチンときた。さすがに気づいたのだろう、蛍太は取り繕うように両手を振った。 「それくらいわかってるさ。でもなぁ、ただクリスマスプレゼントを渡すだけじゃ、きっとみちるの言うロマンチックにはならないだろ。でも、俺も金ないし。雪だるまならかわいいし、俺にとっても念願っていうか」 「ちょ」 「雪なんて初めて見たけど、テレビで見るよりずっときれいだった。冷たいのに柔らかかった。これなら、ロマンチックかなぁって……」 「ちょっと!」 あわてて制止する。さらりと、何かすごい単語が聞こえた。私にとってとても重要な単語。急に心拍数が上がった気がする。 「今、クリスマスプレゼントって」 「うん、ちょっと早いけど。遅れるよりはいいだろうと思って」 余りにもあっさりと蛍太はうなずく。 「聞いてないよ。そんなの一言も」 「先に言ったら、ムードがないとか言って怒るだろ。昼間渡そうとしたら、怒って帰っちゃうから渡しそびれたんだ。だから考えたんだけど、駄目だ。俺は絶対的にそういうのに向いてない」 「それは、確かにそうね」 私のことだ、ハンバーガーショップで渡されたら、デリカシーがないとさらに激怒していただろう。ウーロン茶はちょっとだけ悪かったと思っていたのだが、意外や英断だったのかもしれない。 蛍太はごそごそとジャンパーのポケットを探っている。 「いいか、驚け。指輪だぞ」 「もう、内緒にするなら最後までにしてよ」 わざと怒って見せたが、それが限界だった。ものすごくうれしい。ドキドキする。 「……私が欲しいもの、覚えていてくれたんだね」 あの鈍感な蛍太が、である。きっと彼のことだから忘れていると思っていた。 「『サイズは九号よ。プラチナがいいけど、蛍太の財布じゃ無理よね。シルバーで構わないからね』……だろ? あれだけ言われたら誰だって覚えるさ」 「えー、そんなしつこく言った記憶はないわよ」 首をひねって誤魔化す。それを合図に、二人して肩を震わせて笑った。 ふと、蛍太がおもねるような態度を見せる。笑いながら、しかし申し訳なさそうに。 「じゃあ、みちる。バイトの件はこれで……」 「何言ってるの、それはそれでこれはこれ。話は別よ」 ぴしゃりと返す。半分以上、冗談のつもりで。 クリスマスのことは残念だけど、今さらどう言っても仕方ないのはわかっている。今夜のことは蛍太なりに気を使った証拠である。プレゼントに免じてこれ以上のわがままは我慢しよう、と自分に言い聞かせた。 だが、蛍太は真に受けたらしく、笑いを引っ込めて押し黙ってしまう。 やだなぁ、冗談だってば――苦笑しながら言おうとしたが、先に口を開いたのは蛍太の方だった。 「……ない」 ぽつり、と言った。呆然とした風にポケットに手を突っこんだまま。 「落とした、かも……」 「え?」 「指輪がない!」 悲鳴に近い声を上げて、蛍太は先ほど自分が倒れた辺りを探し始めた。濡れるのもいとわず膝をつき、必死に雪をかき分ける。 最後の最後にこの不手際。注意力散漫にも程がある。けれど、怒りは湧いてこなかった。 雪は確かにきれいだと思う。でも、冷たい。素手で触り続けていると、かじかんで骨に食い込むように重く痛むものだ。それなのに、蛍太は雪の中を探り続ける。それは自棄になっているようにも見えた。 「私も手伝うよ」 しかし、蛍太は首を振った。 「いいよ、みちるは。風邪引いたら大変だし。ちょっと待ってて、すぐ見つけるから」 「でも……」 やんわり拒否されてしまい、私は立ち尽くす。 蛍太の薄っぺらジャンパーは暗がりでもわかるほど濡れている。おそらくスニーカーの中も同じ状況だろう。雪の中を探す手に至っては手袋もつけていない。霜焼けになっているかもしれない。 一方で、見ているだけの私はとても暖かい格好をしている。ミトンの指先がちょっと冷たい気がする程度。コート、マフラー、ニットキャップ、ミトン、ゴム長靴。 崩れた雪だるまを見る。蛍太の手が目に使っていたビンの蓋を弾く。期待していた褒め言葉もなく、あっという間に壊れてしまった時、蛍太だって嫌な気持ちがしたに違いない。だというのに。 私はわがままだ。 ううん、わがまま過ぎる。蛍太がいろいろと鈍過ぎるように、私は他人に期待を押しつけ過ぎる。 私が本当に欲しかったものは何だったっけ? クリスマスにツリーを見に行くこと、ケーキを食べること、欲しかったプレゼントをもらうこと、どれも違う気がする。どうして私はあんなに怒ってしまったのだろう。 雪の中で四苦八苦している蛍太が、大きなくしゃみをした。それも二度。 「……馬鹿。先に風邪を引くのはどっちよ」 私は思わず蛍太の傍らに駆け寄る。途中でマフラーを外すと、冷たい空気が首筋を舐めた。 「立って」 言って彼の腕の引っ張り無理矢理立たせた。ジャンパーについた雪をたたくように払い、彼の首にぐるぐるとマフラーを巻きつける。 「もういいよ」 「え、え?」 状況がつかめないのか、蛍太は目をきょろきょろさせた。 「だから、もういいって言っているの。指輪がなくたって私はすごく幸せだって気づいたから」 ミトンも外し、彼の手にはめる。サイズが大きくてよかった。 「でも」 なおも名残惜しそうな蛍太を、じろりとにらむ。 「蛍太が寒そうにしているのを見てて、私が幸せな気分でいられるわけないでしょ」 最後にニットキャップを外し、背伸びして蛍太の頭にかぶせる。どれも女ものだからかなり不格好だけど、まあ仕方あるまい。 私は目じりの力を抜き、彼を見つめた。 「いい? 青い鳥のミチルだってね、チルチルがいなかったら寂しくて、青い鳥を探すこともできなかったと思う。チルチルがいてくれたから、ミチルは幸せを探そうと思えたはずなのよ」 幸せには前提条件がある。クリスマスもプレゼントも幸せの一つの形だけど、一人で叶えられるものではない。私はついそれが当たり前にあるものだと思ってしまった。だから、随分ひどいことを言ったし、つい暴力的なこともした。馬鹿みたい。一番大切なことを忘れていた。 まあ、バイトのシフトが逆に増えてしまった経緯など、あとで問いただすべきことは山積みだけど。 それでも、今夜のことは全部――雪だるまのことも、プレゼントのことも全部が、私のためだったということは信じられる。 指輪が惜しくないと言えば嘘になるけれど、迷いはなかった。 「帰ろう? 蛍太が風邪引いちゃうよ」 「でも、指輪が……」 「い、い、か、ら!」 なぜか私より未練がましい蛍太の腕を強引に引っ張って歩き出す。蛍太は公園を出た辺りでようやく観念したらしく、私の横に並んだ。 「蛍太。クリスマスってバイト終わるの何時くらい?」 「夜の十時。忙しかったら、もっと遅くなる」 申し訳なさそうに言うと、彼は私の手を取る。ミトンのやわらかな感触。 「じゃあ、クリスマスの日、バイトに行く前に鍵貸してよ。それでアパートで待ってるから。時間は短いけど、やっぱり会いたいよ」 「……それなら、合鍵は俺が作っておくよ」 「そう? じゃあ、お願いするね。ありがと」 「それは俺のセリフだって。やっぱりみちるは心が広いよな。ちょっと怒りっぽいけど」 「何だか一言多くない?」 笑いながら空を見上げると、雲間にうっすらと星が見えた。 「明日晴れるかな? 晴れたら、雪溶けるよね。そしたら、私、指輪探してくるよ」 「えっ」 心底驚いたように、蛍太が足を止めた。確かに一度はいらないと言ったものなのだから、現金な話に聞こえたかもしれない。 「や……、だって、せっかく蛍太のプレゼントだもの。蛍太のお財布じゃ指輪買うのだって簡単じゃないってこと、私知ってるし。でも、なくなったのは私のせいでしょ。明日ゆっくり探そうかな、って。ね、どんなケースに入っているの? それとも袋?」 「あ、その……」 「どうしたの」 「ええと、それも俺が明日探しておくよ。プレゼントした本人に捜させるなんて格好悪いし」 「……蛍太がそれでいいならいいけど」 妙に歯切れの悪い返事を不思議に思いつつ、それ以上追及するのは止める。怒ったり、ほっとしたり、ものすごく疲れた気がしていて、小さな疑問はどうでもよく思えた。 手をつないで家路につく。それはとても幸せなことだと、今はわかる。 「これ、ありがとう。暖かかった」 私の家に着くと、律儀にも蛍太はマフラーなど貸していたものを全部返してきた。私が貸すと言っても聞かないので、家の中から使い捨てカイロを探してきて渡す。 しかし、蛍太はすぐに帰ろうとはしなかった。 「あの、みちる」 何かを言いかけるのだが、結局、言う勇気はなかったらしい。軽いキスをすると、アパートに帰って行った。 足音をひそめて自分の部屋に戻る。外との温度差に震えながら、エアコンを入れた。 「……何を言いそびれたのかな、蛍太のやつ」 苦笑しながら、コートやマフラーをハンガーにかける。 明日、蛍太に会ったら聞きたいことがたくさんある。増えてしまったシフトのことや、別れ際に言いかけたこと。 エアコンの当たる場所にミトンを置いて乾かそうとした時だった。 「あれ?」 指先に、固い感触が当たる。あわててミトンを逆さまに振ると、小さく光るものが転がり落ちる。 銀色の指輪。 「あの馬鹿」 様々な疑問が氷解していく。 蛍太はなくしてなどいなかったのだ。 私が「話は別」だと言ったのを、私がまだバイトの件を怒っていると本気で真に受けてしまったのだろう。 それでよく考えもせず、思いつきで一芝居打ったのだ。きっと格好よく見つけたふりをして、私のご機嫌を取るつもりだったに違いない。 けれど、予想外にあっさりと私が許してしまう。仕方ない、後日渡そう。そう考えたが、私が明日探しに行くと言い出したから、蛍太は追い詰められた。実は芝居だから探しても指輪はありませんなんて、今さら打ち明ける勇気もない。――で、あわててミトンに隠して私に渡した。 だから、帰り際、マフラーなど防寒具を返すと言って聞かなかったわけだ。 「ほんと、馬鹿なやつ」 臆病で、行動は遅くて、自分のミスを打ち明ける勇気もなくて、ロマンチックとかムードとか女の子が喜ぶものを少しもわかっていない。よく苛々させられる。 でも、私のことを大切に想ってくれているのも知っている。 「明日問いただすことが、また一つ増えたわね」 つぶやいて、ゆっくりと指輪を右の薬指にはめる。 よく見ると、指輪の真ん中には小さな輝石がはめ込まれていた。 青い色の石。 それは、幸せを呼ぶ鳥の色だ。 |