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ブロロンッ、と爆音が鳴り響き、家の前にいつもの大きなバイクが止まった。その排気音が二人の合図なのだろう。典子は、悠介に何も言わず、家を出た。
土曜日の朝。妻の由美と朝食をとっていた悠介は箸を置き、今典子が出て行った玄関先を見やった。はぁ、とひとつ大きな溜息をつき、視線を由美に移した。由美は、何事も無かったかのように食事を続けている。 「おい、由美。あのバイク、またあいつか?」 「うん、そうじゃない?」 由美は、悠介と目を合わさず、そう答えた。 「俺に何も言わず出て行って……。まったく、何考えてるんだか……」 「あら、私には言っていったわよ。日光の方へ紅葉見に行くんだってさ。今日は、ちょっと遅くなりそうだから夕飯はいらないって――」 だから、そういう事じゃないんだって、と悠介は由美の会話を途中で遮った。 「バイクの二人乗りは危ないだろ、ってことだよ! あの男も、何の挨拶も無しに――あぁー、もぅー、由美、お前もそう言われた時に止めろよ! 行かせないだろ、普通。バイクで転んだりしたらどうするんだよ!」 悠介は、口に含んだごはん粒をいくつも飛ばしながら捲し立てた。 「あなた、心配しすぎよ。だいたい、竹田さんが車で迎えに来たって、そうやって怒るわけでしょ? あの二人だって、子供じゃないんだから考えてるわよ、ちゃんと。第一、そういう悠介だって私と付き合っていた頃は、よくバイクで二人乗りして色んなとこに連れて行ってくれたじゃない。忘れちゃったの?」 チッ、と舌打ちをし、食事が途中にも拘らず悠介は煙草に火を点けた。先に食べ終わった由美は、空になった食器を持ちながら立ち上がり、キッチンに向った。そのまま背を悠介に向け、食器を洗い始めた。 「ねぇ、悠介。あの頃、ああやってよくあなたの背中にしがみついて、バイクで色々行ったことは、今となればいい思い出なのよ。あぁ、青春してたなぁ、って。悠介もいい思い出でしょ? 青春してたでしょ? それと同じことよ。だから、少しは分かってあげなくちゃ、かわいそうよ。私だって、もう一度、ああやって青春したいもん!」 食器を洗いながら、由美が笑いながら振り返る。馬鹿言ってるんじゃないよ、と悠介は、半分以上残っている煙草を灰皿に押し付けた。残った食事に手を付ける気もなくなり、黒いソファーに仰向けに寝転んだ。両手を頭の後ろで組み、天井を見つめる。 もう一度、ああやって青春したいもん――か……。 悠介は、目を閉じ、由美と付き合っていた頃を思い出した。自分の背中にしっかりとしがみついていた由美の体温を今でも忘れていない。あの頃の若い、そして不安定な幸せは、今の幸せとは確かに違う。結婚し、子供ができ、家族の主として守るべきものが多くなると、安定した揺るぎない生活が、幸せだと思うようになる。生活水準を高めるべく一円でも多く稼ぎ、他人の家より豊かな生活をすることによって幸せを感じる。 ――確かにあの頃、お金は無かったけど、由美と一緒にいるだけで幸せだったなぁ。由美と一緒にいることさえできれば、何もいらないと思えたもんなぁ。 悠介は、鼻歌交じりで洗い物をしている由美の背中を見た。 「なぁ、由美。俺と付き合っていた頃と、今のこの生活とじゃ、どっちが幸せなんだ?」 何よ、いきなり、と、由美は食器を洗っていた手を止めて、悠介に顔を向けた。 「どっちって言われても、比べることはできないわよ。あの頃は、あの頃で幸せだったし、今は、今で幸せだし……。ただ、今の幸せがあるのは、あの頃の幸せがあったからだと思うのよ」 「何だか難しいなぁ、男と女って……」 「そう? 以外に単純な生き物よ、男と女って」 由美は、そう言い放つと再び洗い物に戻った。 悠介は、目を閉じ典子を思った。 竹田の背中にしがみついて幸せそうに笑っている典子を思った。 ◇ ◇ ◇ あのバイクの排気音が、家の前で鳴り止んだ。 夜の十時過ぎ。悠介は早めに床に就いていた。典子を思うと心配で、夕飯時に、その心配を振り払うかのようにいつもより多めの酒を胃に流し込んだ。その酔いのおかげで、眠気が襲ってきたのだ。意識が眠りの中に埋もれる間際、竹田と典子を乗せたバイクが、爆音を奏でながら家の前に止まった。その排気音が、悠介の意識を眠りの中から現実に引き戻そうとした。 ただいま、と典子の小さな声が聞こえた。と同時に、こんばんは、と男の声が続く。竹田だ。 「あ、お帰りなさい。竹田さん、今日はお世話になりました。さっ、どうぞどうぞ」 ――ん? 竹田? 竹田も上がりこんできたのか? 帰ってくるまで起きてるわ、と典子を待っていた由美の「竹田さん」と呼ぶ嬉しそうな声が悠介の意識を完全に現実に引き戻した。 「悠介は、酔っ払って寝ちゃったわ。ほら、竹田さん。突っ立ってないで、座って。今、お茶用意するわね」 「あっ、お構いなく。すぐ帰りますので」 何十年も聞き慣れたはずの竹田の声が、悠介の耳をちくちくと刺激した。 竹田――悠介と竹田は、大学こそ違ったが、小学校から高校までずっと同じ学校に通った。悠介と由美の結婚式で、友人代表のスピーチをしたのも竹田だった。竹田の結婚式には、悠介がそのスピーチをやる約束をしていた。四十路を目前に控えても独身貴族でいた竹田が、早く結婚することを、悠介は楽しみにしていた。 竹田が典子と付き合う前までは……。 「どうでした、紅葉は?」 由美は、お茶を竹田と典子の前に置いた。今日は、朝から出掛けて疲れきってしまったのだろう、典子はひとつ大きな欠伸をした。朝が早い典子は、普段この時間には深い眠りの中にいる。 「時期的にちょっと早かったかもしれませんね。あと一週間もすればもっと綺麗な紅葉が見れたかもしれません。ねぇ、典子さん」 そうねぇ、と、竹田の隣りで典子は微笑みながら返事をした。 「でも、二人とも、本当に幸せそうだわ。羨ましい。私も、悠介と付き合っていた頃を思い出すわ。二人乗りのバイクで色々な所に行って……。何処に行こうが、好きな人と一緒ならいつも幸せだったものよ」 「あー、悠介も、あの頃、由美さんのことを本当に好きだったもんなぁ。僕がツーリングに誘っても、由美さんとデートだからってよく断られたなぁ。友情より恋人のほうが大事なのかよって悠介をからかったもんですよ」 三人の笑い声がリビングに響き渡り、寝室の悠介の耳にも届いた。 (竹田も由美も好き勝手言いやがって。由美もよく恥ずかしげもなくあんなことが言えるなぁ、まったく……。自分の年を考えろよ、年を――) 「人を好きになることに年なんて関係ないと思うわ。人を好きになるあのドキドキは、いくつになっても感じていたいしね」 由美は、自分の発言に同意を求めるべく典子に視線を送った――が、しかし、いくら好きな人の隣りにいても、強烈な睡魔には勝てなかったのだろう、典子は、竹田に寄り添い、小さな寝息を立てていた。 「あー、寝ちゃいましたね、典子さん。朝から連れ回しちゃったから疲れちゃったのかな」 竹田は、典子の背中にそっと手を回し、支えた。そして、左手の腕時計をちらっと見る。 「あっ、由美さん、そろそろ僕も帰ります。えーっと、どうしましょう、典子さん。ベットまで連れて行きましょうか。今日は、起きそうもなさそうですし……」 「そうねぇ。そうしてもらっちゃおうかしら。私じゃ抱いて運べないし、無理に起こすのもかわいそうだし。悠介は寝ちゃってるし……。お願いしちゃっていいかしら、竹田さん」 はい、と竹田は返事をし、典子を抱き、寝室を案内する由美の後を追った。 ガチャ、と悠介が寝ている寝室の隣にある典子の部屋のドアが開いた音が聞こえた。すっかり目が覚めてしまった悠介は、慌てて目を閉じ、耳を澄ました。ぎぎっ、と、ベットのスプリングが軋む音がする。竹田が典子をベットに寝かせたのであろう。すいません、竹田さん。ありがとうございました、と由美の声が続いた。 「あのー、由美さん。悠介は、相変わらず……」 恐る恐るといった感じで、竹田は由美に話しかけた。 「うん……。悠介は……まだ、認められないみたいよ。今日も朝からご機嫌斜めだったし。夕飯時までうだうだと言っていたわ」 余計な事をべらべらと竹田に喋るな、と思いつつ、悠介は聞き耳を立てた。 「やっぱり……。僕が典子さんと付き合い始めてから、ろくに悠介と話してないもんなぁ。やっぱり、僕と典子さんが付き合うことに反対なのかなぁ……」 「んー、反対はしていないと思うよ。むしろ、心の奥では喜んでいるんじゃないかしら。ただ、二人が付き合っているっていう現実がまだ悠介の中で整理ができていないんだと思うの。このままいけば結婚、なんてことも考えていると思うし……あら、いやだ。勝手に結婚なんて言っちゃって、ごめんなさい、竹田さん」 (おいおい、由美。勝手なこと言うな、勝手なことを! 俺の立場も考えて物を言ってくれよな……) 「いえいえ。もちろん、僕も典子さんとの結婚を考えてお付き合いさせていただいています。いつかは、いや、近々、悠介と腰を据えて話し合い、僕と典子さんの将来ことを認めてもらうつもりです」 (しょ、将来のこと? それって結婚か? 結婚のことなのか?) すっかり酔いと眠気が覚めてしまった悠介は、毛布を頭まですっぽりと被り、竹田と典子が結婚式を挙げていることを想像した。おい、竹田。それじゃ、約束した友人代表としてのスピーチができないじゃないかよ! 悠介は心の中で竹田を責めた。 「――も幸せねぇ。見て、この寝顔。一年前には考えられない位、幸せそうな顔してる。全部、竹田さんのお陰よ。ありがとうございます、竹田さん。悠介には私からも説得してみるから安心して。だからこれからもよろしくお願いしますね」 一年前、悠介の父親が交通事故で亡くなった時、典子はひどく落胆した。一日中、仏壇の前で泣き崩れていた。そんな典子に笑顔を取り戻してくれたのは間違いなく竹田の存在だった。竹田と付き合うようになってから、日に日に典子に笑顔が戻ってきたのだ。悠介も、そのことを口には出してはいないが、竹田には心の底から感謝していた。由美と付き合っていた頃の自分と今の竹田が重なって思える。好きな人といつまでも一緒にいたい、好きな人を一生、守っていきたい。竹田が典子のことをそう思っているのが、手に取るように悠介には分かっていた。あの頃の自分が、由美に対してそう思っていたように……。実際、竹田なら典子を任せても安心だ、いや、典子の幸せそうな顔を思うとむしろそうなることを悠介は願った。ただ――ただ、竹田と典子が付き合って結婚、という現実が、どうしても悠介の心の中で消化できずに、もやもやと残っていた。二つの思いが、悠介の中で答えを出せずに渦巻いていた。いつまでもこのように答えが出せないままだと、竹田や典子に余計な気苦労をかけてしまう、と思いながらも……。 「じゃぁ、由美さん。僕はこれで。夜遅くまで典子さんを連れ回してしまってすいませんでした。悠介とは、近々話し合ってみます。すいません、御迷惑ばかりお掛けしてしまって――」 「竹田……」 典子の部屋のドアを開け、パジャマ姿の悠介が竹田に呼びかけた。 「ゆ、悠介……」 竹田は、ひどくびっくりしたのだろう、目を大きく見開き、突如現れた悠介を凝視した。その竹田の後ろにいた由美も、口を半開きにしながら悠介に視線をやった。 「悠介。済まない……。お前には心配ばかり掛けて、本当に申し訳なく思っている。いつかは、悠介と、典子さんとのこれからのことを話し合わなきゃと思っていたんだが――」 「いや、違うわよ、竹田さん。悠介のほうからいつも竹田さんの話し合いに応じなかっただけじゃない。竹田さんは、いつもその事について悠介と話したがっていたわよ」 由美が、竹田の話を遮った。悠介は、視線をフローリングの床に落としたままだ。 「なぁ、悠介。これだけは分かってくれ。僕は、典子さんを大切にする。一生、命を賭けて守っていく。この言葉に嘘偽りはない。信じてくれ、悠介!」 大きな目を更に大きく見開き、竹田は俯く悠介の顔を見やった――。 典子が寝ている部屋でしばし沈黙が時を刻んだ。 「……頼むよ」 え? と、竹田と由美が悠介に聞き返した。由美の悠介への視線が一瞬竹田に移り、また悠介に戻る。竹田は瞬きもせず悠介を睨み付けるように見詰める。重い沈黙が三人を支配する。 悠介は、顔を上げ、竹田を一瞥し、意を決したかのように膝を床に落とし項垂れる。そのまま手の平も床に合わせ、悠介は深く頭を垂れた。 悠介の言葉がこの沈黙を切り裂く。 「竹田……頼むよ。よろしく頼む! 色々心配や迷惑を掛けるかもしれないが、よろしくお願いします!」 竹田は、さらに深く頭を下げる悠介の後頭部の一点を見詰めた。 「ゆ、悠介。典子さんを大切にする。絶対に幸せにするよ。悠介。本当にありがとう、ありがとう……」 竹田は、悠介に頭を下げた――とその時、ベットで寝ている典子が、んんっ、と蠢(うごめ)いた。 「――悠介……ありがとう……んんっ……」 三人の視線が、一気に典子に注がれる。この部屋に典子の小さな寝息だけが微かに聞こえていた。 由美が典子に近づき、起きてるのかしら、と典子の顔をそっと覗く。 「ねえ、悠介。見て、この幸せそうな顔。恋してる女の顔になってるわよ、ほら。羨ましいわ」 ふふふっ、と、由美が悠介に振り向き、笑った。 悠介も典子の顔を覗き見る。寝息を立て、よく眠っている。 ――幸せになってくれよな、おふくろ……。 悠介は、自分の母親の幸せを願った。 ◇ ◇ ◇ 三ヵ月後、竹田と典子は小さな結婚式を挙げた。 悠介は、約束通り竹田の友人代表としてスピーチをした。自分の母親の結婚式で、その新郎の友人代表としてスピーチをするのは、何とも言えぬ違和感を覚えた。しかし、竹田を見つめる典子の幸せそうな顔を見ていると、自分の母親も女としての幸せを感じているんだなぁ、と改めて悠介は嬉しく思った。 ――人を好きになることに年なんて関係ないと思うわ。人を好きになるあのドキドキは、いくつになっても感じていたいしね―― 由美の言葉を思い出した。 この夫婦に、二十五歳の年の差なんて全く関係がないようだ。 ◇ ◇ ◇ ブロロンッ。 春先。悠介は、ガレージに眠っていたバイクを引っ張り出し、一日掛けてメンテナンスをし、十年振りにエンジンに火を入れた。十年もほったらかしにしていたわりには、エンジンの調子が良いようだった。むしろ、十年振りにエンジンをかけてもらって、喜んでいるようだった。 「由美ー! 早くしろよー! 俺はもういつでも出発できるぞー!」 悠介は、バイクにまたがり、アイドリングをしながら指定席に座る由美を待った。 ブロロロンッ。またひとつ、アクセルを煽り、エンジンを躍らせた。 「おまたせー! でもさぁ、悠介。いくら四月だからって、バイクで日光はまだ寒いよ。今だって、ちょっと寒いもん」 由美は、両手で自分の腕をさすった。 「おいおい、由美。何処に行こうが、好きな人と一緒ならいつも幸せ、なんじゃないのかよ」 後ろからしがみついてくる由美の体温を感じながら、悠介は勢いよくバイクを走らせた。付き合っていた頃の気持ちが蘇る―― (竹田もおふくろを後ろに乗せて、同じ思いでバイクを走らせているのかなぁ……) さらにアクセルを煽る。 春先の日光は、やっぱり寒かった。 (了) |