| ブラック木蓮さん 著作 | トップへ戻る | | ||
|
|
明日が怖くて、眠れない。
だから最近の俺は、いつも寝不足なのだ。 眠ってしまうと、明日が来る。 そんな当然のことが、俺には恐ろしかった。 原因は分かっている。 今日という日を、怠惰に過ごした後悔。 今日という日を、無駄に過ごした後悔。 その罪悪感こそが俺に、明日へ旅立つことを拒否させる。 しかしだからといってべつに、寝ずの努力をするわけでもない。 ゲーム、ネット、マンガに読書。 ただ夜更かしをして、明日を迎えるのを拒否するだけ。 『明日できることは、今日やろう』 そんな標語の、ひどく歪んだ形。 それが俺の『明日恐怖症』だった。 そんの夜更かしの日々の中。 俺はある夜、巡り会う。 悲しみの『台無し少女』に。 そうあれは、 ――月の冴えない夜だった。 『台無し少女と、明けない夜に』 万引きを、見てしまった。 そのとき俺がコンビニにいたのは、小腹が空いたからというつまらない理由、つまりはいつもの夜更かし癖のせいだった。 だが俺はそこで、一人の少女を見つけてしまった。 時刻は零時近くという、少し遅い時間。だがお菓子の棚を眺めるその子は、確かに見覚えがあった。 特に見覚えがあるのは、そのさらさらの前髪。 あの前髪だけは、見間違えようがない。 教室では俺の横に座る、学年きっての優等生。クラスメイトの美月冴夜さんだった。 だが彼女が夜のコンビニというは、少しばかり不釣り合いだった。 彼女のような真面目っ子は、夜は十一時に寝て朝六時に起床。クラスで一番早く学校について、律儀に花瓶の水を取り替えるものと思っていた。 まあ、実際のところうちのクラスに花瓶はないのだが、彼女はそれを思わせるような、定規で測ったような性格をしていたのだ。実際四月に入学して以来、彼女の前髪は常に直線を保ち続けているし。 ちなみに俺は、彼女の前髪を結構気に入っている。 これぞ優等生という感じ良い。 いかにも模範的な生徒を眺めることは、俺の澱んだ学生生活における一服の清涼剤なのだ。 だから俺はコンビニで彼女を見かけて少し嬉しくなる反面、がっかりする気分もあった。 俺の印象に反して、今晩の美月さんは黒のジャケットに桜色のスカートというとても華やかな服装だったのだ。普段は三つ編みの髪も、今は肩にかかっている。 理想の押しつけといえばそれまでだが、彼女にはたとえ学外であっても丈長セーラー服な人でいて欲しかった。ましてや深夜のコンビニなど論外。 「……ちょっと残念な偶然だな」 彼女の服装を見た俺は、そうつぶやいていた。 しかも今の彼女は、服装以上に様子が変だった。 俺が気付いたとき彼女は、ぼんやりとお菓子を眺めていた。 それはまるで、頭の悪い生徒が教科書を眺める目つき。 しかし授業中の彼女は良く見るが彼女がそんな目つきをしているのは一度も見たことがない。 しばらく迷った末に、俺は彼女に話しかけないことにした。早い話が美化された美月さん像の、守りに入ったのだ。俺にだって、自分の隣に理想の美少女がいると盲信する権利ぐらいある。 しかしその逃避が、また良くなかった。 俺が目を離す、その直前。 彼女の手は、ふわりとチョコバーを摘み上げると、 それをポケットに滑り込ませていた。 万引き!? 一瞬浮かんだ単語を、俺は慌てて打ち消した。 まさか。彼女が万引きなどするはずない。まして物は、たかが百円のチョコレートだ。 だが俺が息をひそめ見守る中、彼女はレジを素通りする。周囲を気にする風もない、ゆっくりとした動作。 そしてためらうことなくドアを押し開け、一歩踏みだす。 万引き成立。 疑う余地もなく、それは万引きだった。 「あの美月さんが……嘘だろう」 俺は殴られたような気分で、遠ざかる彼女を見送る。 彼女は波に揺られるような、おぼつかない足取りだった。ふらふら、ふわふわと黒髪をなびかせ、夜へと溶け込んでいく。 見送って俺は、深い溜息をついた。 「参ったな……どうするよ、俺?」 まあ、ここは二択だよな。 今晩の非行少女・美月冴夜か。明日の秀才美少女・美月冴夜か。 どちらを選ぶかだ。 今夜彼女の後を追えば、きっと俺の中の秀才美少女は失われる。 だが今晩のことさえ忘れれば、彼女は明日も秀才美少女でいてくれるのだ。明日も彼女は朝おはようの笑顔を見せ、お節介にも俺の宿題ができているか心配するのだ。お前がいつもそうだから、反骨心溢れる俺は宿題してこないんだと言っているのに。 さて、どうする。 「……ま、迷うまでもないな。俺にとって価値があるのはいつも宿題を見せてくれる美月さんだ」 俺はそう言って、ぐしぐしと頭を掻く。もう小さくなった後ろ姿から目を離すと、俺はさっさと肉まんを買うことにした。 「えっと、肉まん一つ」 深夜で疲れ気味であろう店員は、いつもの緩慢な動作で肉まんを包んでくれる。だが普段は見慣れているはずのその作業が、今夜はどういうわけか俺を不快にさせた。 ……いや、どういうわけか、ではないか。 焦れた気分で外を見ている自分に気付き、そう思った。俺の目はいつの間にか闇夜に、彼女の姿を探していた。 俺は一息つくと、こう言った。 「肉まん、やっぱり二つで」 「美月さんっ」 コンビニから走ること十数秒。意外に遠くへ行っていなかった美月さんは、すぐに見つかった。俺の声を聞いた彼女は、まるで風に舞う木の葉のようにふわりとふり返った。 「どうも、こんばんわ……って、氷室君?」 俺と認めた途端、彼女は少し慌てたような顔をした。焦ったそぶりで前髪に手を伸ばすと、ちょいちょい、と整えはじめる。 「って、慌てるのは前髪の方かよ」 俺だって言いたかないが、今の君はもっと慌てるべきことがあるはずだ。 しかし前髪をただす彼女は、どういうわけかとても嬉しげだった。 「でもさ、前髪は大事だよ」 「まあそれには全面的に同意するが」 「でしょー」 彼女は嬉しそうに笑うと、トロそうな仕草で手をヒラヒラとさせた。そしてその天真爛漫な笑顔のまま、彼女は言う。 「聞いてるよー。氷室君、前に私の前髪のこと褒めてくれたんだってねー」 「……」 ……どうして知ってやがる。正直、かなり不意打ちだった。しかし俺はここで素直に褒めてあげられるほど真っ直ぐ生きていない。 「言ったかな?」 「違うの? 残念だなぁ。氷室君が褒めてくれたって聞いたから、ずっとこの前髪にしてたのに」 「くっ……」 こ、こいつ……なんてピュアなセリフを……。たとえ地球が逆回転しても俺には言えない、ピュアなセリフだった。自己嫌悪に潰されかける俺に、彼女は容赦なくたたみ掛ける。 「私の自意識過剰だったんだね……がっかりしたよ」 そう言って彼女は、ふっ、と何かを悟ったような悲しげな顔をした。それは見る者の心をくすぐる、寂しげな表情だった。 「……絶望したよ」 「……いきなり絶望ですか」 「私の前髪を認めぬ世界など、滅びればいい」 「お前はどこの魔王だ」 「そんなわけだから、明日、美容院行ってくるね」 「なっ!」 「次はぼうずにしようかなぁ」 ……この女、俺のことを脅迫する気かっ! そんなことされたら、俺の数少ない学校生活の楽しみが! くそう、この氷室綾人様を甘く見やがって! だがこの俺が、その程度の脅しに屈するものかっ。屈するものか! …………。 ……。 「すみません。かなり褒めちぎった覚えがあります」 「でしょー。すーなおに褒めてくれればいいのにさー。まーったく氷室君は、いつもひねくれてるんだから」 彼女はふにゅにゅと頬を緩ませ、俺の横を歩き始めた。 しかも歩く位置が近い。 五分咲きの桜のように広がった白のスカートが、しょこしょこと俺のジーパンを撫でている。正直、かなりくすぐったい距離だった。 だが普段この少女は、こんな馴れ馴れしい子だっただろうか。やはり今晩の美月さんは、どこかが変だった。 「そう言えば、氷室君はこんな夜遅くまで何してるの? 夜更かしはあんまりしちゃだめだよ、また遅刻しちゃうよー」 こんな風なところは、いつもの彼女。しかしどこか酔ったような声の色合いは、今夜の彼女特有のものだった。 いったい、どうしたんだろう? そう考えていた俺は、だから思わず本当のことを答えてしまった。 「ああ、ちょっとコンビニで買い物を」 そしてこの答えは、明らかなミスだった。 「ああ……」 彼女は俺の答えを聞き、納得したような、感嘆のような、不思議な声を出した。そして彼女は、笑顔のままで言った。 「見たんだね」 一言。 針で刺すような、一言だった。 その一言に突き刺された俺は、その表情で雄弁に答えてしまったらしい。彼女は、確信を込めて言う。 「納得だよぉ。どうして仲良く話しかけてくれたのかなって、不思議だったんだもん。だって氷室君は、基本、ひねくれ者だもんねー」 彼女は仮面のような笑顔を貼り付けたまま、平然と言った。 「で、私の万引きを見て、氷室君はどう思った? 呆れた? 怒った? バカにした? それとも、喜んだ?」 その彼女は、俺をもてあそぶように言った。彼女は聞いているのだ。 『お節介な私の汚点が見られて、楽しかった?』 まさかそんなわけがない、と断言できたらどんなに良かったか。 だが美月さんは気付いているのだ。俺の中に、そういうひねくれた部分があると。 「でも……それでもやっぱり喜んではいないな。美月さんには、やっぱり憧れの優等生でいて欲しかったから」 「ふーん、押しつけがましいんだね。あっははは、まさか氷室君、私に『物を盗むのは良くない』なんて説教しに来たわけじゃないよね」 「あはは、まさか。ところで知ってるか? 人の物を盗むのは、良くないんだぜ」 俺は言ってやった。 彼女はあきれを通り越し、しばし驚いた顔をした。だが時間が経つと共に笑いが広がっていく。 「いいねー、やっぱ氷室君は味があって。もはや清々しいぐらいだねー」 彼女は相変わらずのんびりと言う。しかしその楽しげな表情は、さっきの仮面のような笑顔よりよほど可愛らしかった。その笑顔に引き込まれた俺は、いつの間にか尋ねていた。 「なあ、いつも万引きしてるのか?」 「してないよー。今日が、初めて」 彼女は即座に答えた。 「本当か?」 「本当だよー。でも、その初めてを、よりによって氷室君に見られちゃうなんてねぇ」 美月さんは、自嘲するように言った。 「これは、どういう意味なんだろうね?」 「どういう意味って?」 聞き返した俺に、しかし彼女は謎めいた答えをした。 「天罰なのか、天恵なのかって感じだね」 彼女は俺にかまわず、ほろほろと話し続ける。 「私にはね、昔からずっとこういう衝動があったんだ」 「こういう衝動?」 「うん。私はこれを『台無し衝動』って呼んでるんだ」 台無し衝動。 確かに、その通りだろう。 優等生・美月冴夜さんの万引き。 台無しという表現は、的確すぎる。 「でも私はね、この衝動を必死に押さえ込んできたんだ。どんな卑劣な方法を使ってもね」 卑劣な方法……ってどういうことだ? いや、だが今それ以上に気になるのは、 「じゃあ今日は、どうしてやっちゃったんだ?」 俺がそう聞くと、彼女はにやぁと笑った。罠にかかったネズミを見るような、嫌らしい笑いだった。 「よくぞ聞いてくれたね、氷室君。そうだねぇ。最近の流行で言えば、こう表現するんだろうね……」 彼女はそこで、一拍入れる。そして、 「なぁんとなく、だよ」 台無し少女はその一言に、たっぷりと味わいを込めていた。 それは明るいようでいて、果てしなく苦い一言。 俺はその一言に、先ほど見たテレビニュースを思い出していた。 『殺した理由は……なんとなく……です』 今をときめく殺人犯、通称『スコップちゃん』の言葉である。 通り魔事件が起きたのは、三ヶ月前の深夜。殺害方法は、土木用スコップによる撲殺。犯人は、少女。被害者は面識の無い男性。 そして動機は、なんとなく。 マスコミが飛びつくには、十分すぎる内容であった。 『スコップちゃん』の名は、瞬く間に日本中へ広がった。かくいう俺も現場が隣町ということもあって、その事件のことはよく知っていた。 実は夜中の散歩がてら、現場を見に行ったこともある。閑静な住宅地にある、細い道だった。俺は真夜中その道に立ち、通りがかる人をずっと眺めてみた。早い話が、ただの夜更かしだった。 しかしテレビに出て好き勝手言う見識者達よりは、スコップちゃんのことを真面目に考えていたと思う。彼らはまるで現代文の教科書を読み解くように、彼女を注釈した。 今日も今日とてテレビでやっていたのは、そのスコップちゃんについてだった。なにやら明日はその『スコップちゃん』事件の初審議が行われるらしく、有識者達が何かしらお上品な解釈をのたまっていた。 彼らに言わせればスコップちゃんは以前から、窃盗、器物損壊、放火、傷害等を繰り返していた常習犯らしい。彼らはそのことを指摘した上で、歪んだ家庭環境が彼女の破壊傾向を形成したのではないか、という一様の見解を示していた。 その解釈が正しいかのどうか、俺には分からなかい。 だが少なくとも彼らはみな一様に、歪んだ家庭とは無縁そうな顔をしていた。 「駅のホームではね、いつも白線よりずっと内側で待ってるんだ。そうじゃないと、思わず突き落としたくなっちゃうからね」 美月冴夜さんは肉まんを眺めながら、とろんとした口調で言った。 「氷室君もときどき考えない? あの背広の人を突き落としたら、どんだけ『台無し』になるだろうって」 その口調はまるで、『月が綺麗だね』などと世間話をするようだった。 けれど今晩の夜空は曇っていたし、彼女の足は震えていた。彼女が人にこの話をするのは、どうやら始めてのようだった。 今俺達が座っているのは、公園のベンチだった。 彼女のあの一言のあとで、俺が肉まんのことを思い出したからだ。 「話をしながら食べようと思って、買ったんだ」 俺が差し出す肉まんを見て、彼女はクスリと笑った。 「その言い訳がましいところが、また氷室君らしいねー」 彼女はそう言いながらも、ほくほくとした様子で肉まんを受け取った。 だがさっそく肉まんを食べようとする俺を見て、彼女は眉をひそめた。 「氷室君、立ち食いはお行儀悪いと思うよー。どこか座れる場所を……」 だがいつもの優等生の口調は、途中で途切れた。。 自分の口調に気付いた美月さんは、ふっ、と自嘲めいた笑みを浮かべて話すのを止めた。俺はそれに気付かないふりをして、そこに公園があるよ、と答えた。 公園に入ってすぐのところに、ベンチがあった。 膝が触れそうなほど近くに腰をかけた美月さんは、はむり、と肉まんをかじって先ほどの告白を始めた。それはさらさらと砂時計が流れるような、ゆっくりとした語りだった 最初の一口目以降、彼女はまったく肉まんを食べようとしなかった。肉まんが嫌いなのかと聞いた俺に、彼女は甘えるフリをして答えた。 「食べ終わるまで、ちゃんと待っててよね」 膝すら震わせて切り出した話は、しかし彼女にとってまだ一口目に過ぎないようだった。 「別に人に迷惑をかけたいとか、そういうのとは違うんだよ」 彼女は話し続ける。 「例えばさっきの話だったらね。別に線路に落ちるのが自分でも良いの。今飛び降りたら、何もかも『台無し』になるなって思っちゃうんだ」 それはまるで、笑い話でもするようだった。 「遠回しな、自殺願望?」 「ううん、違うの。何て言えばいいかなー、やっちゃダメなことをやりたくなるっていうか、そうだねー、子供の頃高い積み木を見ると、崩したくなったでしょー。そんな感じかなー」 「それが『台無し衝動』か」 「そ、台無し衝動。現に今だって私は、台無しにしたいのを必死で我慢してるんだ」 彼女の視線は、いつの間にか俺の唇に注がれていた。 「もし今私が突然君にキスしたら、取り返しがつかないでしょ。せっかくの真剣な雰囲気が、台無しでしょ。でもね私の中には『やっちゃいけないからこそ、してみたい』って思う私がいるんだー」 「キス……ねえ……」 近くにある街灯の光を受けて、彼女の唇は艶やかに濡れていた。 「あ、でも自惚れないでね。別にキスする代わりに、殺したって良いんだから。キスだって、殺人だって、どっちでも同じ『台無し』でしょー?」 彼女はそう言った。台無しという点において、キスも、殺人も、自殺も、積み木も、彼女は全てを等価として語っていた。 俺は彼女の言うことが、なんとなく分かるような気がした。 彼女が抱えている衝動はおそらく、一種の破壊衝動兼自殺願望なのだ。 彼女の端正な前髪を見て、俺はそう思う。 キスも、殺人も、自殺も、積み木崩しも、全ては『優等生である美月冴夜』を否定したいという願望。何が台無しにしたいって、彼女はそれらの『愚行』を行うことで『優等生』である自分自身を『台無し』にしたいのだった。 だが分からないのは、彼女がその衝動を持った原因だった。 「ねー、ねー。氷室君には、『台無し衝動』はないの?」 彼女の瞳には期待の色があった。だが、 「無いな」 俺は珍しく、素直に答えていた。 「本当?」 「ああ……積み上げていない積み木は、崩せないからな」 「ん……?」 言葉の意味を取りかねる美月さんに、俺は逆に聞き返した。 「万引きも『台無し衝動』だったのか?」 「あ……うん、そうだね……そんな感じかなー」 彼女はせっかく忘れていたことを指摘されて、ちょっと嫌そうな顔をした。そして彼女は、つまむようにしてチョコを取り出した。 「台無し、だったでしょ?」 「新鮮だったって、言って欲しいのか?」 俺の答えに、彼女は力無い笑みを浮かべた。 「言わないでよ。悲しくなるから」 「だろ」 「……だよね」 彼女は一つ大きな溜息をつくと、チョコレートを眺めて言った。 「これ、どうしようかな……まさか、捨てるわけにもいかないし」 彼女の台無し衝動は、盗む、という行為にだけ意味があった。だからその盗んだ物自体には何の価値もない。 だが平常時の彼女の律儀深さは、盗み自体はもちろん、その盗品を捨てることにさえためらいを覚えるようだった。 「食べる……しかないよね」 彼女は相変わらず食べかけの肉まんを膝の上に置くと、気だるい仕草で包装をむき始めた。 おそらく毒のような罪悪感が、彼女の中で渦巻いているのであろう。彼女の横顔は、沈痛だった。 俺はその顔を見た途端、彼女の手からチョコを奪い取っていた。 「あっ、氷室君」 「美月さんは、こんなモン食うなよ」 俺は荒い仕草で包装をちぎり取ると、一気に口に突っ込む。 甘い。 一度に全部をほおばったせいで、吐き気を催すほどの甘味が俺の口を占領した。堪えて無理矢理咀嚼し、チョコを喉の奥に押し込む。 美月さんはそんな俺の様子を、衝撃を受けた顔で見ていた。 「……ひ、氷室君、ダメ……そんなの食べちゃ……だってそれ私が盗んだ……」 彼女の震えかけた声を無視して、俺は地面に茶色く濁ったつばを吐き捨てた。 「不味い」 「……ごめんなさい……」 「酷く不味い。美月さんが盗んだチョコだと思うと、特に不味い。吐きそうだ」 「……ごめん……」 さすがの彼女の声にも、泣きそうな気配が混じっていた。彼女は、俺の行為の意味を理解できてしまうほど、聡明だった。 「……ごめんなさい……その……私のために……」 「私の『ため』に? 違うだろ。お前の『せい』だ。お前が俺に食わせたんだよ。敬愛する美月さんに、盗品なんか食べさせるわけにはいかないからな。そうだろう、美月さん?」 「……ご、ごめんなさい」 俺の追いつめるような言葉を聞き、彼女はいっそう身を縮める。 「それにな、喉元過ぎればって言葉があるけど、俺は美月さんに自分で食べて、それっきり忘れて欲しくないんだよ」 「……忘れる?」 「ああ、俺が食えば忘れられないだろ。盗んだって罪も、人に盗品を食べさせたって罪も、そして何よりも美月さんに幸せでいて欲しいと願ってる人がいるってことも」 俺はそう言って、恩着せがましい説教を打ち切った。結局どう足掻いても愚かにはなれない彼女には、これで十分だった。 だが俺の言葉を受けた彼女は、俺の予想を超えた反応を示した。 「……氷室君……酷い」 「……どうした?」 「氷室君は……残酷だね……ひどいよ……今になって……答えを教えてくれるなんて」 「……?」 それは完全に泣きが入った、まるで気力を完全に失ったような声。 「……今晩氷室君に出会ったのは、間違いなく天罰だね」 俺を見る彼女の目は、まるで深い奈落を覗き込むように虚ろだった。その視線にぞっとした俺は、思わず言う。 「おい、別にそこまで気にすることは……」 その言葉を無視して、彼女は身をひねるようにして俺に抱きついてきた。彼女の膝の上に置いてあった肉まんが、地面に転がった。 「ど、どうしたんだ」 異性に密着するという不慣れな事態に動揺しながら、俺は慌てて問いかける。彼女は腕の中で、こごえるような声で答えた。 「怖い……怖いよ」 彼女の切迫した様子が心配になり、俺はとりあえず彼女を勇気づけるように強くだきしめる。だが彼女の震えは止まらない。 「私は……間違ってた……だから……怖い」 「何がだ?」 「……」 彼女は答えない。だがその代わりに濡れた瞳で俺を見上げ、こう聞いた。 「……ねえ、氷室君だって思うことがあるでしょう」 「何を?」 「明日が、怖いって」 俺はその問いに、思わず答えてしまった。素直に。 「ああ。怖いな」 そして、その途端。 俺達は『置いて行かれた』。 最初に気付いたのは、音だった。 音が、消えていた。 遠くから響く足音。公園を包む虫の声。そして風の音すらも。 全ての音が、消えていた。 「なんだ……?」 異常なはずの、静寂。だがその静寂は、なぜか俺をとても心地良くさせた。まるで長い旅の後、自分の部屋に戻ってきたかのように。そしてそれは美月さんも同じなのか、落ち着きを取り戻してあたりを見回していた。 「なんか、変だねー」 「ああ、変だな」 「うん……でも、なんか落ち着くね」 「そうだな」 俺達はこの異常な沈黙の中、信じられないほど平和な気分でベンチに腰掛けていた。 「あ……月」 ふと上を見上げた彼女は、のほほんとした声で言った。 つられて夜空を見上げると、そこには彼女の言う通り巨大な灰色の満月が浮かんでいた。 「今日、月出てたっけ?」 「今は出てるよ」 その満月にふと違和感を覚えた俺に、彼女は短く答えた。その一言で、俺もその違和感を忘れてしまった。 「綺麗な月だねぇ」 「そうだな」 彼女の穏やかな声になにげなく相づちを打つと、彼女はなぜか不満そうに言った。 「そうじゃないでしょー、氷室君」 「なにが?」 「女の子がさー、他の物をきれーだねって言ったらさー」 彼女は物欲しげな顔でそう言って、人差し指をくるくる回していた。 「他に言うことあるでしょー。はい、もう一度やり直し」 ああ、そういうことか。 「月が綺麗だねー、氷室君」 「君の前髪の方が、綺麗だよ」 「……ひねくれ者の君に期待したのが間違いだったよ」 彼女はそう言いつつも、ふふふ、と笑いを堪えている。まんざらでもなさそうな笑顔だった。 「でもいいや、合格」 彼女はそう言って立ち上がると、ごく自然な動作で俺に手を差し出した。 「行こー」 「行くって、どこに?」 俺は半ば本気で、そう聞いてしまった。 「だって……その、そろそろ帰る時間だし」 彼女もそう言いつつ、その言葉が本心ではないと知っているようだった。 俺達は、言葉に出さずとも気付いていたのだ。ここが普通の世界ではないと。 そう。 ここは、俺がずっと求めて続けていた世界。 明けることのない、明日のない世界。 人々が明日に旅立ったあと残される、抜け殻の『昨日』の世界。 明日から逃避した俺達は旅立てず。 この世界に二人っきりで、置いて行かれたのだった。 俺たちはそう、本能的に理解していた。 現に彼女はどこか期待した目で、俺にそっと手を差し出している。まるでお姫様が、手に誓いの口づけを許すように。 彼女は俺に尋ねていたのだ。一緒に、いてくれるかと。 俺は彼女の手に接吻する代わりに、素直にその手を取って立ち上がった。 「行こうか」 「そうだね」 そう言って俺達は、穏やかな気分で歩き始めた。まるで柔らかい雲を踏んで歩くような、心地よさ。先ほどまでの追いつめられた気持ちが、嘘のようだった。 俺は幸福感とともに、胸一杯に空気を吸い込む。この世界の空気は不自然なほど無味でありながら、実に良く俺の体に馴染んだ。そしてそれは彼女にとっても、同じようだった。 「風が、気持ちいいね」 辺りはほぼ無風。だが彼女の心の中には、静かな風が吹いているようだった。 公園の時計は、零時ちょうどを指したままだった。 道路脇の電灯には、一つも明かりがついていなかった。 「停電だね」 違うと知っている口ぶりで、彼女は言った。 「そうだな」 だがそんなことは、どうだって良かった。空に浮かぶ灰色の満月は、歩くのに十分な光を俺達に恵んでいた。 「月がこんなに明るいって、知らなかったよー」 俺達はそんなことを話ながら、堂々と手をつないで歩いた。ほかに人がいないので、人目は気にならなかった。 「誰も通らないんだな」 「つまり二人っきりなんだねー」 彼女はそれを、まるで素敵な大発見のように言った。笑顔がこぼれていた。 俺達はゆっくりとした足取りで、この世界を歩き回った。 すごく、ゆっくりと。 時間はもう、いくらでもあったから。 美月さんは時折くてりと俺の肩に頭を預け、いつもしばらくしてからそのことに気付き慌てて肩から離れていた。 俺は途中で、逆に彼女の肩に頭を預けてみた。 ひねくれ者、と怒られた。 全ての苦しみから逃れた、幸せな時間だった。 俺達を甘やかす、この素晴らしく満ち足りた世界。 だがそれも、長くは続かなかった。 しばらくして彼女は足を止めた。彼女の見つめる先を見て、俺も彼女が足を止めた理由を理解した。 今夜俺と美月さんが出会った、あのコンビニ。あのコンビニが今、俺達の眼前にとても不思議な姿を晒していた。 「真っ暗だな」 「停電だからねー」 真っ暗で、たった一人の人もいないコンビニ。二十四時間営業のそれしか知らない俺達の目に、その光景はとても奇妙だった。 「入ろっか?」 そんな意外なことを、美月さんは言い出した。 「犯人は現場に帰るって、言うしねー」 それは美月さんにとって自虐の言葉。だが彼女の声は不気味なほど平らだった。 見ると、彼女の瞳には退廃的な色が浮かんでいた。まるで苦痛を感じすぎた先に痛みを忘れてしまったように。賭博で破産寸前まで負け続けた人が、きっとこんな目をしているような気がした。 俺はその様子に、彼女がこの世界に来る直前見せた狼狽を思い出してしまう。 『彼女はあのとき、どうしてあれほど明日を恐れたんだろう』 再びその疑問が浮かび心を決めきれないうちに、彼女は俺の手を引いてコンビニに入っていく。 「ちょっと待っ」 「いいでしょー、氷室君」 ドアを押し開けた先には、降り積もった空気が溜まっていた。物音一つしない、蛍光灯すらつかないコンビニの中に、俺達は月明かりを頼りに入って行く。 「やっぱり、誰もいないねー」 一通りあたりを見回すと、彼女は驚いた風もなくそう言った。 だが店員すらない文字通り無人のコンビニは、さすがに薄気味悪い。中でも特に不気味だったのは、レジに忘れられてたカゴと袋だった。 かごの方に、乾物のつまみと漫画雑誌が。 その隣の白いコンビニ袋には、何本かのビールが。 まるで店員と客が、会計の途中でどこかに連れ去られてしまったようだった。 暗がりに目をこらすと、バーコードを読み取る端末が、カウンターから力無くぶら下がっていた。まるで手の中からポロリと落とし、そのまま忘れられたように。 俺はレジの奥に手を伸ばすとその端末のコードをたぐり寄せ、レジの端末受けに戻した。 この世界に来て初めて感じた他人の気配は、ひどく不快だった。 俺はそのカゴとその荷物を、彼女の目に付かないレジの内側の床に隠した。 するとそのとき、コンビニの一角から聞き慣れた音がした。 パタン 見ると、美月さんがぼんやりと冷蔵庫の前に立っていた。音は、冷蔵庫の扉を閉まるそれであった。 そして彼女の手に握られていたのは、五百ミリの缶ジュース。 「あ、喉が渇いたの?」 「うん……」 近づいて話しかけた俺に、彼女は心ここにあらずという様子で答えた。まるで、俺の存在を忘れてしまったような気配。 彼女のその様子に、俺は既視感を覚える。前にもこのコンビニで遭遇した、あの気配。 それは、万引きをしていたときの美月冴夜さんだった。 「俺もなんか飲も。ついでにそれ奢ってやろうか?」 俺はあのときの喪失感を思い出し、慌ててそう言う。 例え全てが許されるこの世界でも、彼女がまた万引きする姿を見るのはやはり辛い気がしたのだ。 「いいよ」 だが俺の願いも虚しく、彼女は無機質な声でそう答えた。ちらりと俺を見た目も、まるで石のように俺を見ていない。俺は何か拭いきれない不安を覚え、慌てて彼女からジュースを奪おうとする。 「遠慮するなって――」 だが俺の指が彼女の手に触れる、その寸前。 プシュッ 音がした。 それは全てを『台無し』にする音。俺達の蜜月に、亀裂が入る音。 彼女は、缶のタブを開いていた。 「……美月さん」 たまらない失望感を隠しながら、俺は彼女をいさめようとした。しかし俺がその言葉を探しあてる前に、彼女はその缶を唇にあてていた。 そして俺に見せつけるように、一気に中身を流し込む。 ところが口いっぱいに含んだところで、彼女の様子が変わった。 「んんっ、んっ」 開いている方の手で口元を覆い、肩を震わせうつむきになる美月さん。 けれど、ほどなくしてその指の間から液体がもれ滴ってきた。 彼女の口からこぼれたそれが、白い床に小さな水たまりを作る。 「おい。大丈夫か?」 「んっ……なにっ、これ、苦いよ」 こほっ、けほっ。 彼女はそう言いながら、苦しげに咳をした。どうやらむせただけらしい。一瞬何かの発作かとすら心配した俺は、胸をなで下ろしてハンカチを取り出す。 「はい」 「……」 彼女は悔しそうな目でちらりとハンカチを見ると、渋々とそれを受け取り口元を拭い始める。 「何飲んだんだ?」 「……んーん」 良く聞こえない。 だがその答えに思い至るところがあり、俺は彼女の手元を見る。するとその手に握られていたのは、やはりビールであった。 「……嘘だろ」 俺は思わず、そう言ってしまった。 一方の彼女も口元を拭いハンカチを自分のポケットにしまうと、ショックを受けたような表情でこう言った。 「苦い……苦いよ」 「だろうな。初めて飲んだとき俺もそう思った」 「信じられない……。お酒ってもっとすごくおいしい、やめられなくなるほどおいしい物だと思ってた」 まるで裏切られたかのような口調で、彼女は言った。 「……信じられない。こんな不味いなんて」 「べつに、ビールはそう旨くないぞ。ところでハンカチは」 俺が言い終わる前に、彼女はそのビール缶を差し出した。 「……いらないよ……こんなの」 「……ありがとうよ」 俺は受け取ったビールを、黙ったまま飲み干すことにした。 目の前で、再び万引きをした彼女。 たかがビールの味ぐらいで異常なまでの衝撃を受けたらしい彼女。 その彼女に、何を言って良いか分からなかったからだ。 これ、間接キスになるな。 そんな思いと共に、ビールを飲む。 だがその間も、彼女はうわごとのように呟き続けていた。 「信じられない……信じられないよ」 そして俺が飲み干す直前。彼女は糸に引っ張られるような動作で、出口の方へ歩き始めた。あのときと同じ、波間に揺られるような危なっかしい歩き方。 「美月さん?」 悪夢にうなされるような彼女の表情に不安を覚え、俺は急いでビールを空にする。だがその空き缶を捨てる場所が見あたらない。最近たまにある、ゴミ箱のないコンビニのようだった。 その間に、彼女はコンビニを出てしまう。 「しょうがない」 焦った俺は、床に缶を投げ捨てる。 彼女の万引きを嘆いた自分として少しためらったが、仕方なかった。それにどうせこの世界に俺達以外誰もいないのだ。 けれどもそう信じていた分、次の瞬間の出来事は予想外だった。 コンッ、カラカラン。 俺はその音に驚き、足を止める。 それは、空虚な金属音。 俺の投げ捨てた空き缶が、何もないはずの通路の真ん中で、何かにぶつかった音だった。 それは、ともすると聞き逃すかもしれない、奇妙な違和感。 だが俺は不審を訴える本能に従い、その正体を確かる。 「なんで?」 俺の投げ捨てた缶ビールに、ぶつかった物。それは奇妙なことに、同じ缶ビールであった。 「そんな……」 俺はその二つの空き缶を拾い上げ、つぶやく。 銘柄も、大きさもまったく同じ、二本の空き缶。 あり得ないはずの、出来事だった。 この空き缶は、先ほどのレジのカゴとは違う。平常時のコンビニの床に、空き缶が落ちているはずがない。 だとするならば、この空き缶を説明する方法は一つしかない。 「誰かいるのか? 俺達以外に」 ここは俺達以外誰も存在しない、『置いて行かれた』世界。 だからこそその空き缶は不可解だった。 それはこの不思議な世界の、更なる異常。 だが確かに『誰か』いたのだ。 俺達以外の『誰か』が同じようにここでビールを飲み。 そして俺とまったく同じようにここに捨てたのだ。 ならその『誰か』は、どこに行ったんだ? 「早く……美月さんのところへ行こう」 自分に言い聞かせるようにそう言って、俺は二本の空き缶を通路に置き店を出る。 俺達を優しく甘やかすために迎えた、この灰色の満月の世界。 その世界がどこかで破綻し始めたのを、俺は薄々感じ始めていた。 そして通り抜けたコンビニのドアが閉まる、その直前、俺は決定打とも言える音を聞いてしまった。 カラン。 それは、とても軽い音。 だがそれは俺達以外の『誰か』の、確かな悪意。 通路に置いた空き缶が、その『誰か』によって倒された音だった。 俺の背中を、ナイフで撫でられるような寒気が走る。 見られている。 このときに至って、俺はようやく先ほどの疑問の解答を得た。 『誰か』は、どこかにも行っていなかったのだ。 『誰か』はこのコンビニで待ちかまえていたのだ。 俺達がここを訪れるのを。 チャリ、チャリ、チャリ 床を引っ掻く音が、ナメクジの這うような遅さで背後に近づいてくる。 だが、振り向けない。 振り向いた途端、それが目にも止まらぬ速さで襲いかかってくるのが本能で理解できた。 チャリ、チャリ、チャリ その音が、ガラスのドア一枚隔てた向こう側に止まる。 うなじのあたりに、冷たい視線を感じる。 そして、声が聞こえた。 「……許せない」 俺は突き飛ばされるように、走り始めた。 『誰か』を引き離すのに、たいした苦労はしなかった。 だがあてもなく走った末美月さんに追いつくことができたのは、まったくの幸運によるものだった。 「美月さんっ。今コンビニで――」 だが美月さんを見つけたとき、俺は伝えるはずだった言葉を途中で飲み込んだ。 なぜなら先ほどの異常事態すら忘れさせる程、今の彼女の姿は異常だったのだ。 灰色の満月を背負って立つ、その姿。 「美月さん…」 白いセダンのボンネットの上に立ち、 その長い髪を振り乱し、 その前髪を、額に貼り付け、 その目の端から涙を流し、 ガシャン……ガシャーン 彼女は車のフロントガラスを、靴底で蹴り砕いていた。 まるで苦行のように。 涙を散らせながら、何度も、何度も。 「バカッ、何やってんだ、いくら誰もいないからってっ、危ないだろっ」 俺は慌てて、彼女の手を掴み車の上から引きずり下ろす。彼女は予想に反しなすままに俺の側に降りた。 「怪我はないか?」 だが俺のその言葉に対し、彼女は答えない。そのかわりに、彼女は空虚な声で言った。 「……楽しくない」 「は?」 「全然楽しくないんだよ、氷室君」 それは、底が見えないほど絶望に満ちた声だった。 「楽しくないって……」 その意味を図りかねた俺は、戸惑って聞き返す。その俺に対し、彼女は怒ったように叫んだ。 「楽しくないのっ、お酒も、物を壊すのも。楽しいと思ったのにっ、病み付きになるぐらい楽しいんだと思ってたのに、全然楽しくないのっ」 そりゃあ、そうだろう。 人に迷惑をかけ、犯罪を犯し。 それで楽しい気分になれるはずがない。 「なんでなのっ、氷室君」 自分を見失ったかのように、美月さんは問い続ける。 だが俺には、美月さんがそんなことを楽しいだろうと思い込んでいた理由の方が、見当も付かなかった。 「落ち着け、美月さん」 優等生・美月冴夜がこれほど取り乱す姿など、今まで考えたこともなかった。 「嫌っ。ずっと楽しいと思ってたのにっ、そう信じてたから生きて来れたのにっ、どうしてっ、どうしてこんなに辛いこと、あの子はっ」 彼女はそう言って、俺の胸元に掴みかかる。別に俺を責めているわけではない。 そうでもしないと、彼女はとても耐えられないのだった。彼女の心は、砕け散る寸前だった。 「落ち着けって」 俺は彼女が落ち着くまでなすがままにされる覚悟を決め、そう言った。 だがその途端、彼女はピタリと動きを止める。 俺の言葉を、聞き入れたわけではない。彼女の瞳は、俺ではない、別の物を見ていた。 「美月さん?」 彼女が見た物。それはキーを指したまま道ばたに止まっていた、一台のスクーターだった。 今度こそ、俺は彼女が何を考えているか分かった。 「ダメだ、美月さん。別にバイクに乗ったって、面白いことは」 「どいてよ、氷室君」 突然平静を取り戻した彼女は、意外な力強さで俺を突き飛ばした。 「いてっ」 その不意打ちに、俺は無様に尻餅をつく。まるで言い訳をするようだが、彼女の意志以上の何かに後押しされたような強い力だった。 そして俺が起きあがる間もなく、彼女はバイクに飛び乗る。 「行くよー」 自らを奮い立たせるようにそう言うと、彼女はキーを回す。彼女の横顔は楽しみとも、規則を破る愉悦ともほど遠い、悲壮なものだった。 彼女はまるで、何かの義務か負い目に駆り立てられているようだった。 キキッ 「きゃあっ」 手加減なく入れたアクセルに引っ張られ、バイクが急発進する。 「おいっ、まずはアクセルを緩めろっ、ブレーキは急にかけるなよっ」 「きゃあぁっあっ」 だがその言葉が届くか届かないかのうちに、彼女は遙か先、曲がり角の奥に消えていく。 「きゃああああっ」 ゴン ひときわ高い悲鳴が響き、鈍い衝突音が聞こえた。 バイクの音が消え、辺りには静寂が帰ってくる。 どうやら何かにぶつかって、バイクは止まったようだった。 「やれやれ」 だが最後にはバイクの速度はかなり落ちていた。たぶん大した事故にはなっていないだろう。 そう思った俺は大事に至らなかったことに胸をなで下ろし、彼女の消えた曲がり角へと歩く。彼女はまた『楽しくない』を連呼するのであろうと思いながら。 だが今度こそ彼女がこんな『台無し』を繰り返す理由を聞こうと、俺は心に決める。 だがこのときあまりの出来事に、俺は忘れていたのだ。 コンビニにいた『誰か』のことを。 それは、重大な失策。 彼女の居る曲がり角から、悲鳴が響いた。 「嫌あああああっっ」 今までで一番の恐怖に彩られた、美月さんの悲鳴。 まるで、見てはいけないものを見てしまったかのような。 疑う余地もなかった。 彼女は今『誰か』に出会ってしまった。 「美月さんっ」 全力で角を曲がり、たどり着いたその場所。だが美月さんはすでに逃げ出した後のようだった。その代わりそこにいたのは、 「……スコップ?」 倒れたスクーターに土木用スコップを突き立て、一人の少女が立っていた。 しかも服装は、黒のジャケットに桜色のスカート。奇妙なことに、今夜の美月さんとまったく同じ服だった。 「美月……さん?」 その服装のため、おれは思わず問いかけてしまう。だがそれは愚問だった。 少女の短い茶髪は、美月さんの黒髪と見間違えようもない。 だらしなく伸びた前髪が、美月さんの麗しいそれと似るはずもない。 一瞬でも二人を重ね見たのを不思議に思い、俺は声を荒げて問いつめる。 「お前、美月さんをどうしたっ」 すると茶髪の少女は、長い前髪越しに俺を見て、 「……美月……誰?」 そう問い返してきた。その冷たい響きと針のような視線に怯みつつ、俺は言い返す。 「美月さんは美月さんだ。さっきここにいた、美月冴夜だ」 「……冴夜」 彼女はその名前を繰り返すと、くらりと頭痛がしたかのように頭を振った。そしてバイクからスコップを引き抜き、こちらに近づいてくる。 チャリチャリチャリ。 引きずられたスコップとアスファルトが擦れ、不快な音を立てる。 それはあのときも聞いた、不協和音だった。 「お前が、コンビニにいた……」 少女がゆっくりと近づいてくる。何事かを、呟きながら。 「……冴夜……冴夜……さやサヤサヤ」 スコップを持った少女は、呪うように美月さんの名を繰り返していた。その狂気さえ孕んだ奇行に、俺は一歩後ずさる。 その瞬間、 ガチンッ 耳を覆いたくなる音が、響き渡った。彼女が振るったスコップが俺の鼻先をかすめ、アスファルトを叩いていた。 「嘘……」 俺はその出来事に、一瞬、自分の危機すら忘れた。いくら何でも本気で襲われることはないだろうと、高をくくっていたのだ。 「……許せない……お姉ちゃん……ばっかり……」 だが少女は本気だった。すだれのような髪の向こうで、瞳がギラギラと輝いている。 「……まさか……スコップちゃんか?」 俺はその研ぎ澄まされた殺意に晒され、一つの名を思い出す。三ヶ月前起こった、通り魔事件の犯人の少女を。 スコップちゃん。そうとしか思えなかった。 「ば、馬鹿な」 だとすれば訳が分からなかった。 なんでこの俺と美月さんの世界に、こんな殺人者が。 だって彼女は、もうとっくに捕まって。 明日、初公判だってテレビでも。 その言葉の意味に気づく前に、少女の第二撃が襲ってきた。 「うおああっ」 必死に飛び下がったその場所を、横薙ぎのスコップが通過していく。当たったら首すら切り飛ばしそうな、とんでもない速さで。 「なんだっ、なんなんだよっ」 俺は慌てて背を向け、それこそ死に物狂いで逃げ出す。 「……許せない……許せない」 背後から、少女のうわごとのような声が離れない。ガチン、ガチン、と背後から空振りの音が響く。 少女が、追ってきているのだった。 その音が響くたび、恐怖で足がもつれそうになる。そのせいで重いスコップを振り回しているはずの少女が、まったく引き離せない。それどころか、今にも。 足がもつれ、転ぶ。 「うおおっ」 迫り来る殺気を感じ、転がって次の一撃を回避する。俺の手のほんの数センチ横をスコップの刃が叩く。 だが、俺にできるのはそこまでだった。尻餅をついたこの状態で、次の一撃は絶対にかわせなかった。恐怖に指一本動かすことすらできず、俺は自分の加害者になる少女を見上げる。 「……許せない」 俺がもう逃げようもないと分かった少女は、いたぶるようにゆっくりとスコップを振り上げる。スコップが、灰色の満月を切り分けるように構えられる。 そして少女は俺の脳髄を目がけ、スコップを―― ――。 「え……?」 少女はスコップを振り上げたまま、動きを止めていた。俺はその出来事に戸惑い少女の表情を伺う。 意外なことに、少女の目は驚愕とともに見開かれ、俺のすぐ側の道路を見ていた。 「……知ってる、それ」 どういうわけか、くらか理性が戻り始めた声で、少女が囁く。それにつられるようにして、俺も彼女が見ている場所に目をやる。 するとそこに落ちていたのは、小さなゴミ。 転んだ拍子に俺のポケットから落ちた、あのチョコバーの包み紙だった。 「……それ、知ってる」 少女はもう一度そう言って、スコップを取り落とした。スコップが地面に転がり、硬い音を立てる。だが少女は気にせずしゃがみ込むと、チョコの包み紙を摘み上げる。 「……これ……あれだ」 そう言ってしげしげと眺める少女の瞳からは、先ほどの狂気が完全に姿をひそめていた。 少女はそうしてしばらく石のような無表情で眺めた末、俺にそのいまだ不可解な視線を向けた。 「……これなに……答えて……」 彼女はいくらか拙い言葉で、俺にそう問いかける。 「そ、それは、美月さんが」 死の恐怖から解放された気のゆるみでそこまで答えたところで、言葉を止める。それ以上は、言うわけにはいかなかった。だが少女には、それだけで十分のようだった。 「……」 彼女は毛の先ほどの反応を見せ、左手でスカートのポケットを探る。そして取り出したのは、 「……同じ」 彼女がもう片方の手でつまんでいるのと同じ、チョコの包み紙であった。ただし少女の取り出した方の包み紙は、なぜかとても古びていた。 まるで、何年も前の物のように。 「なんだ、それ?」 思わず聞いてしまった俺に、意外にも少女から答えが返ってきた。 「……初めて盗んだ、私が……ずっと前盗んだチョコ」 ずっと前に、私が盗んだチョコ。 「……お姉ちゃんが、すごくぶって、怒って……嫌だった」 「お姉ちゃんが?」 「……すごく……嫌だった」 そう途切れ途切れに話す少女の瞳には、みるみるうちに涙がふくれ上がってくる。 「……お姉ちゃん……が……これを……」 とうとう少女の目尻から、一筋の涙が落ちる。 そして俺は、少女の言葉の意味が思い当たった。 俺は少女の肩を握り、問いかける。 「なあ、君の名前は?」 「……美月……麻夜」 その名前は、俺の心を凍らせるのに十分な威力を持っていた。 だが俺は次の質問をしなくてはならない。 「……じゃあ、お姉ちゃんの名前は?」 さすがに声が震えた。だがその問いに彼女は答えた。 「……美月……冴夜」 「……そうか」 その答えを聞いて、心を決める。 今夜の美月さんの行動を、俺は理解し始めていた。だからこそ俺は、言わなければならなかった。 「良く聞くんだ、麻夜ちゃん」 滔々と泣き続ける少女の顔を真っ直ぐ見て、俺は言った。 「君の気付いたとおり、そのチョコは美月冴夜が盗んだんだ」 彼女はその言葉を聞いて―――顔をした。 その表情を描写する言葉を、俺は知らない。 しばらく話していると、美月麻夜の態度は随分とほぐれてきた。こうして見ると、その少女には無表情ながら確かに美月さんに通じる魅力があった。 「……食べたんだ、チョコ。あなたが」 だが口下手なのは、どうやら生来のもののようだった。 「ああ、食べた」 彼女と俺は地面に腰を下ろし、月を見上げていた。 「……もしそうなら、ついてない、お姉ちゃんも」 「そうかもな」 「……でも許せない」 「だろうな。だから美月さんも、苦しんでる」 すると少女は突然、俺の顔を覗き込んだ。妖しい色の瞳で俺を見つめ、その無表情をゆっくりと近づけてくる。そして、 ちゅ。 は……? 彼女はいきなり、俺の唇にキスをした。 慌てて離れようとするも、彼女は俺の頭を抱いて離そうとしない。 ちゅ、ちゅちゅ。 口内に彼女の舌が入りこみ、俺の舌を絡め取る。どこかで味わった苦みが、俺の口に広がる。 舌先を丁寧に愛撫される感覚に翻弄されつつ、おれは何とかその味を思い出した。あのビールの味だった。 そう思い出した頃に、少女はやっと俺の頭を離した。彼女は最後に名残惜しげにぺろりと一舐めして、顔を離すと、 「……素敵」 彼女は顔色一つ変えず、だが、どこかうっとりとした口調だった。 「……甘い……チョコの味……本当に食べたんだ」 「……それを確かめるために?」 「……半分は」 そう言って彼女は、ほんの少しだけ微笑んだ。キスされて急にこんなこと言うのも現金だが、その表情には人を惹きつける色気があった。 「……氷室はもうした、キス、お姉ちゃんと?」 「す、するも何も、俺達はまだ」 「……素敵」 彼女はもう一度、満足したように言った。 「……お姉ちゃんは許せかった……でも」 彼女はそう、言葉を切ると、 「……今のでちょっとだけ……許しても良い」 どうやら俺は、姉妹の意趣返しのために唇を奪われたようだった。そういやさっき殺されかけたのも、似たような物か。 彼女は立ち上がると、こう言った。 「だから伝えて……待ってるって、お姉ちゃんに」 彼女はそう言って、彼方の街並みを見る。 そこに見えるのは、赤い光。 「……火事か」 美月さんはまだ、続けているのか。 だが少女はそれを見て、満足したように呟く。 「……もう行く、私は」 そう言うと彼女の姿が、空気に溶けるように揺らぎ始める。 「どうした?」 慌てて聞く俺に、少女は答えた。 「私は……先に行く……だから、お姉ちゃんを」 俺は、その言葉を理解した。 明日へ向かう人間は、この世界にはいられない。姉の本心を知った妹は、前に進み始めたのだ。 だが彼女の顔には、どこか不安の色があった。 だから俺は言ってやる。 「任せとけ。必ず連れて行く」 「……素敵」 その言葉を最後に、美月麻夜は一足先にこの世界から旅立った。 かつて、きっかけがあった。 姉妹がまだ幼稚園児だった頃だ。 妹がほんの悪戯でチョコを盗み、姉はそれを叱らなければならなかった。 だがまだ姉も幼すぎて、どうしたら良いのかが分からなかった。 だから彼女は、妹を虐めてしまった。 何か、やらなきゃいけないと思って、でもどうしたら良いのか分からなくて。 彼女は困り果てた末、妹を虐めた。 それが最初のきっかけ。 それが二人を真逆にした。 姉は褒められる役。 妹は叱られる役。 姉は叱られる妹を見て、ますます怖くなり。 妹は褒められる姉を見て、ますます嫌になった。 彼女が最後に行く場所は、決まっていた。麻夜が事件を起こしたあの小道に、彼女はいるはずだった。 俺は炎に包まれた街並みを、駆け抜ける。ときどき火の粉が顔にかかりそうになった。 この終わらない世界が、今にも燃え落ちようとしていた。 「まったく……せっかくたどり着いたこの世界を燃やすなんてな」 俺は苦笑混じりに、うそぶく。 この世界に火を放ったのは、美月冴夜だ。彼女は今夜、妹の行った犯罪を繰り返していたのだ。何か一つ違っていたらそうなっていた、もう一人の自分、美月麻夜を追体験しようとしたのだ。 まず最初にチョコバーを盗み、そして……だがその時点で彼女は、俺に答えを教えられてしまった。 そして彼女は思ったのだ。自分が上手く妹を叱っていたら、こうはなっていなかったと。 だから彼女は、妹と自分の過去が裁かれる明日に目を背けた。そしてすがろうとした、今まで信じてきた言い訳を。 悪事がひょっとしたらとても楽しいことで、そのせいで妹はああなったのだと。 だが違った。それを証明するために追体験すればするほど、悪事が楽しくないということを彼女は知ってしまった。 そうして彼女は今、追いつめられていた。 俺が見つけたとき、彼女は道の真ん中にへたり込んでいた。スコップこそ傍らに置いてあったものの、それで人を殺す意味などもう失っていた。 「美月さん」 俺の声を聞いて、彼女は力無く顔を上げた。 「氷室君……私、どうしよう」 炎に照らされたその表情は、あまりにも痛々しかった。 「私……取り返しのつかないことを……」 「大丈夫だよ」 そんな彼女に、俺は励ますように言った。 「なんで、そんなこと……」 恨みがましい目で俺を見た美月さんに、俺は言ってやった。 「妹さんに、会ったよ」 その言葉を聞いた途端、彼女はビクリと肩を震わせ押し黙った。 「お前に会いたいってさ。待ってるって」 だが彼女の表情は、ますます暗くなっていく。 「無理だよ……」 「無理、ねえ……じゃあどうする、この世界と一緒に心中するか?」 俺達の周りはすでに炎に包まれていた。もう逃げる道はない。けれど、彼女は言った。 「……でも怖い、明日が」 当然だ。人はそう簡単に、勇気を出せない。 「そうだな、俺もだよ。俺も明日が怖い」 すると彼女は顔を上げた。それは、なにか下らない期待をした顔だった。 「じゃ、じゃあ……一緒に」 再び甘えようとした彼女の額を、俺は軽くこづいた。 「一緒に行くんだよ、明日に」 俺はそう言って、彼女を抱きしめた。ぎゅっと、力一杯。一緒にいたいという思いを込めて。 「美月さんと一緒に進む明日なら、きっと俺は何かを成長できる。だから俺はもう、怖くない」 彼女は、俺の胸に顔を埋めたまま何も言わない。だが、 「お前ももう一度妹さんに会おうぜ。俺も一緒に行くからさ」 そう言うと彼女はやっと、こくん、と小さく頷いた。 「そっか、じゃあ、行こ」 「……うん」 彼女はほんの少し元気を取り戻した声で、そう答えた。 だが俺達はまだこの世界から離れられていない。 心は決まった。だが最後の一押しが足りなかった。 目の前に、炎の壁が迫る。 「……やれやれ」 俺は彼女の頬に手を添えて、こちらを向かせる。彼女は少し照れるような表情で、素直に従った。こんなときであっても、そんな冴夜はとてつもなく可愛かった。 「目、閉じて」 彼女の前髪を整えてやりながら、そう言う。 すると彼女は今度こそ安心したように、目を閉じた。 そして俺は、ゆっくりと顔を近づけると……、 ……。 しばらくして、彼女は不思議そうに目を開けた。 「どうしてしてくれないの……キス……」 そんな彼女に向かって、俺はニヤリと笑って言ってやる。 「続きは、また明日」 「……ひねくれ者」 気付いたとき俺達二人は、抱き合ったまま公園のベンチに座っていた。 チリチリとした炎の熱の代わり肌に感じたのは、柔らかい光。 それは早朝の朝日だった。俺達は、翌朝を迎えたのだった。 「気持ちの良い、朝だな」 俺は晴れ渡った空を眺め、しみじみと言った。こんな気持ちの良い朝は初めてだった。冴夜も同意するように笑顔で頷くと、 にっこりと笑って俺をベンチに押し倒した。 「ちょっと」 「約束は守らなきゃ、だよー」 彼女はそう言うと、もう一秒も待てないというように俺の上に乗っかってくる。 「いただきまぁす」 彼女は物欲しげな笑顔でそう言うと、ためらいなく俺の唇にキスをした。 それはもう、たっぷりと。心ゆくまで。 お互いが溶けて一つになってしまいそうなほど、俺達は夢中でキスをした。途中でもう止めようとするたびに、きゅっと抱きついてくる彼女が、とても意地らしくて素敵だった。 とても長い時間キスを堪能した後、彼女はやっと唇を離した。さすがの冴夜も感極まったような、ご満悦の笑顔だった。 彼女はとろけた表情でコクリと頷くと、 「ごちそうさまぁ……」 そう言って俺の胸の上に、くてりと崩れ落ちた。 続いて、くー、くー、という寝息が聞こえてきた。どうやら優等生には、徹夜は大分きつかったようだった。 「……おやすみ」 そう言って、彼女をそっと抱きしめる。 俺は、彼女がこれから迎えるであろう辛い出来事を思い。 だから今ほんの少しの間、彼女の幸せな時間を守ってあげることにした。 後日談。 「おはよー氷室君。今日も早いねー」 学校に着くと、いつも通り教室には冴夜一人だけだった。今は、登校時刻の一時間前。こんな時間に来ているのは、せいぜい俺達ぐらい。 こうして朝二人っきりで過ごすのが、俺達の最近の日課なのだ。 「氷室君、早起き続くねー。昔の遅刻ギリギリに走り込んでたのが嘘みたいだね」 「ま、まあな」 俺はそうお茶を濁す。恋人に軽〜く悩殺されて生活習慣が改まったというのは、我ながらかなり情けなかったからだ。だが毎朝彼女の美しい前髪を独占できるという誘惑には、とても抗えなかった。 だがただ早起きしているわけではない。一生懸命な冴夜に刺激され、最近俺は何事も真面目に良くやっているのだった。朝早く起き、昼がんばり、夜ぐっすり眠る。そんな毎日がすごく爽快なのだ。 そして、 「ねえ、氷室君」 しばらく雑談混じりに教科書をめくっていると、彼女がそわそわし始めた。 「ん、そうだな」 ここ最近はどちらが先に折れるか我慢比べするのが、暗黙の了解だ。今日は冴夜の負けで、三勝六敗。俺は待たせた分、ありったけの愛情を込めて抱きしめ、キスをする。これが、朝の日課。 キスし終わると彼女はいつもぽーっとすごく幸せそうな顔になる。 「私、愛されてるねぇ。私キスされると、今日もがんばろーって元気が出るんだよねぇ」 「あ、それは俺もだな」 そんな風に話すうちに、俺はふと麻夜のことを聞いてみたくなった。 「最近、妹さんに会えてるか?」 「うん。麻夜ちゃんも、少しずつ話してくれるようになってるし。あ、そうだ」 そう言って彼女は手を叩く。 「氷室君のこと話してたらね、麻夜ちゃんも会いたいって」 「おお、それは良いな」 「それでね、麻夜ちゃんから伝言頼まれてるの」 そして彼女は、妹の口調を真似てみせる。 「……次するときは……レモン味だと……素敵」 さすが姉妹かなり上手い。だが麻夜嬢、その内容は……。 「ねえ氷室君。これどういう意味なのー? 麻夜ちゃんに聞いたら、氷室君に言えば分かるって」 まるで屈託のない様子で彼女は尋ねてくる。 「あ、あいつ……」 焦る俺を見て、不思議そうな顔をする冴夜。 恐るべし、美月麻夜。どうやら俺は彼女に、かなりの弱みを握られたようだった。 だが一方で俺はそんな他愛ない悪戯を聞き、姉妹がうち解け始めているのを感じていた。彼女達はきっと、もう大丈夫だった。 俺は彼女と話しながら、実感していた。 今日を精一杯生きている限り。 今日よりももっと楽しい明日が、俺達を待っているのだと。 |