高得点作品掲載所      飛乃剣弥さん 著作  | トップへ戻る | 


未完の魂、死の予定表

Chapter1§ヲレン=ラーザック§

 一日目09:45□冷蔵庫にある「お酢」と「超高純度アルコール」のラベルを貼り替える□
 二日目15:46□中庭に生えているキノコを冷蔵庫に入れておく□
 三日目12:55□窓の外を一時間見続ける□
 四日目18:09□プレイルームで拾った箱を封筒に入れて玄関ホールの花瓶に入れる□
 五日目16:25■暖炉の中に飛び込む■
 六日目14:00□ポケットに手を入れて裏口から保管庫に入る□
 七日目15:02□中庭の木陰で一時間昼寝をする□
 八日目16:58□書庫で一番奥の本棚にある左から五番目の本を読む□
 九日目08:58□冷蔵庫にある調味料を一種類、自室に持ち込む□
 十日目10:30□地下のワインセラーで、ワインの一本に香水をふりかける□

「それでは皆様。内容をご確認いただけましたでしょうか」
 アーニー=メレンシュタインと名乗ったメイド服姿の女性は、コチラを見ながら透き通った声で確認した。
「皆様にお配りしたのは明日からの『死の予定表』で御座います。これから行うゲームには、皆様の命を賭けていただきます。もし生き残る事が出来た場合、招待状にも明記いたしましたように命に見合うだけの金額を送らせていただきます」
 心中を見透かすような蒼い瞳を洋風の大広間に集められた五人に向け、アーニーは抑揚のない口調で淡々と説明する。
(『ゲーム』、か……)
 ヲレンは不愉快そうに顔を歪め、アーニーを見た。
 天井の豪勢なシャンデリアから降り注ぐ光を受けた彼女の肌は、白磁を通り越して病的なまでに白い。肩口で切り揃えられたストレートの黒髪を全く動かす事なく、無表情のまま言葉を紡ぐアーニーは、さながら精巧に造られた人形のようだ。
「皆様にはその予定表の表紙に血を一滴垂らしていただき、ある種の契約を交わしていただきます。その契約が成立した瞬間から、予定表に書かれている事には絶対服従となり、皆様の意思とは関係なく内容通りの事を実行してしまうようになります。また、この洋館からも出る事が出来なくなります。よろしいでしょうか」
 ヲレンを含む五人は、皆何も言わない。
 ここまでは招待状に書かれていた通りの内容だ。ソレを承諾したからこそココに集まった。今更念を押して確認されるまでもない。
「この予定表に抗う事なく当洋館で過ごされれば、皆様は間違いなく十日以内に死にます。ですがそれではゲームになりません。最初にお配りしたペンと石をご確認下さい」
 言われてヲレンは、一枚の羊皮紙に纏められた『死の予定表』をテーブルに置き、隣りに添えられている黒いシンプルなデザインのペンと、淡い燐光を放つ石を手に取った。
「石で予定表の内容を消す事が出来ます。ペンで予定表に別の内容を書く事が出来ます。ですがその二つは一度使うと効力が無くなってしまう作りになっています。つまり、一度だけ予定を変更する事が出来ます」
 パチパチと薪をはぜさせて燃える暖炉を背に、アーニーは口のみを動かして、台本に書かれているセリフを棒読みするように喋る。
「その変更により死を回避する事が出来れば皆様の勝ちです。欲を出さなければ、この先一生働かなくてもいいだけの大金を差し上げます。しかし回避できなかった場合は、皆様の負けです。これは勿論、死を意味いたします。よろしいでしょうか」
 静まりかえった大広間では、木製の大きな振り子時計が無機質に時を刻んでいる。水銀を流し込んだかのような、重く粘着質な空気が肌にまとわり付いているかのようだった。
「また、予定表はお互いに見せ合ってはなりません。内容を話し合ってもいけません。これらの事が発覚した時点で、皆様の負けが確定いたします。この場合も、死を意味いたします」
 静かに言いきり、アーニーは少し間を空ける。
 そして二呼吸ほどの静寂が続いた後、アーニーは再び口を開いた。
「コチラからのゲームの説明は以上です。何かご質問は御座いますでしょうか」
「つまり、や。こっから出るには死体になるか大金持ちになるかの二つに一つしかないっちゅーこっちゃな」
 ヲレンの正面に座った男性が、異国的な訛りのある口調で言う。
「その通りで御座います。ベルグ=シード様」
 アーニーは目だけを彼の方に向け、微かに頷いた。
 目の下に掛かるくらいまで長く伸ばした藍色の髪をキザっぽく掻き上げ、ベルグは鼻の頭に乗せた丸レンズ眼鏡の位置を直す。
 体にピッタリとフィットした白いシャツの上に、黒のジャケットと同色のシーンズをラフに着こなした性格の軽そうな男だ。見る者に数多くの女性遍歴を否応なく想像させる。
「ホンマ、エライ酔狂な遊びすんなー。ココの主人殿も。まぁ自分で稼いだ金どー使おーと本人の自由やから別にええけど。ほんで? 肝心の主人殿は挨拶に出てけぇへんのか?」
 自分の招待状を指で挟み、軽く振って見せながらベルグは明るく言った。
(確かに、な……)
 ベルグの言葉にヲレンも胸中で頷く。
 すでにルールの説明を終えたというのに、この招待状の送り主である洋館の当主はまだ顔を見せていない。
「アクディ様は非常にご多忙で御座いますので、主な進行はすべで私が仰せつかっております」
「そーかー。せっかく世紀の天才錬生術師に会える思ーて来たんやけどなぁ。残念やわ」
 ベルグは真横に細く伸びた猫目を更に細くして、どこか揶揄するような口調で言う。
 錬生術――それは特殊な技法を用いて魂を練り上げ、無から生を産み出す術。
 この洋館の主であり、元天才医術師でもあったアクディ=エレ=ドートが開発し、彼にしか使う事が出来ないとされている秘術だ。
 だが人工的な創生を快く思わない人達も多く、世間からの風当たりは強い。それ故にアクディは医術界から追放され、この洋館に追い込まれたとされている。
「ほんで一つだけ確認したいんやけどな。この予定表に書かれてる事以外は何してもええんか?」
「結構です。常識の範囲で皆様にお任せいたします」
「ほんならメンドさんのスリーサイズとか聞いてもええんか?」
「基本的にゲームに関係の無い質問には答えないよう仰せつかっております」
 ベルグの問い掛けに、アーニーは全く表情を崩す事なく冷静に答える。
 ベルグは大袈裟に肩をすくめて溜息をつくと、縦長のテーブルの上に片肘を付き、目の前に置かれた銀の燭台を指先でもてあそんだ。
「そんな暗い顔して、暗い声で喋ってたらモテへんでー。せっかく美人やのに」
「ここでの仕事に支障はありません」
「そう言いきれんのは、メイドさんがアクディの創った『ソウル・パペット』やからか?」
 猫目を薄く開き、ベルグは声のトーンを少し低くして言った。
 錬生術で生を受けた者は『ソウル・パペット』と呼ばれる。文字通り『魂の人形』という意味だ。その完成度が上がれば上がるほど人間に近くなるという。
 しかし錬生術は扱いが非常に難しく、完全に成功したという話は未だに聞かない。そして不完全な形で産み出されたソウル・パペットは、外見は人間に似ているが内面は大きくかけ離れている場合が多い。
 例えば、言動が人形を連想させるアーニーのように。
「その質問には答えられません」
「やろな」
 最初から答えは分かっていた、といった様子でベルグは口の端を歪めて微笑する。
「俺からの質問はしまいや。ルールも単純で分かり易いから、別に聞く事無いわ。他の奴らは何か聞かんでええんか? 命賭けたゲームやで」
 他の四人を順番に見ながら、ベルグはおどけたような口調で言った。
「それじゃあアタシからも二つだけ、いいかしら?」
「どうぞ。ローアネット=シルフィード様」
 深いスリットの入った紫色のイブニングドレスから覗く長い足を組み替え、ローアネットと呼ばれた女性は厚い唇の上に艶笑を浮かべる。
「まず一つ目。もし生き残る事が出来た場合、お金はどういう形で渡されるの?」
「即金でお渡しします。その準備はすでに整っています。重すぎて持ちきれない場合は、コチラで人を雇ってローアネットの様のご自宅に運ばせる事も可能です」
「そぅ」
 アーニーの答えにローアネットは腰まである長い髪を梳き、満足げに頷いた。ウェイブ掛かった薄紅色の髪の毛から、芳醇なフレグランスの香りが立つ。
「二つ目。さっきそちらの方が言った事の細かい確認なんだけど、予定が起こりうる場所については前もって調べていてもいいの?」
「結構です。問題ありません」
「分かったわ」
 恐らく水商売系の仕事をしているのだろう。均整の取れた妖艶な肢体と、彫りが深く整った顔立ち。少し下がり目のアイラインの下には泣きぼくろがある。細長い指先にある爪は丁寧に手入れされ、複雑なネイルアートが施されていた。
「他に、質問は御座いますか?」
「はーいはいはい! 小生も聞きたい事があるでござるよ!」
 ヲレンの斜め前から子供の声が上がった。グレイの子供用スーツに身を包み、首に蝶ネクタイを巻いた少年が元気一杯手を上げている。
「どうぞ。ユレフ=ユアン様」
「アクディ様は元気でござるか!?」
 椅子の上に立ち、ユレフは足をバタつかせながら甲高い声で訊ねた。その言葉に皆の視線が集中する。
 アクディの名前に敬称を付ける者は数少ない。それはアクディの錬生術が忌み嫌われた物だからだ。ましてや堂々と『様』を付ける者など極々一握り。この洋館で働くアーニーを除けば、世界中で十人居るかどうかだろう。
 そして彼らはアクディを敬う者として、世間からは冷たい目で見られる。それ程までにアクディの研究は異端視されていた。
「ご多忙ではありますが、健康状態に問題ありません」
「良かったでこざる! ソレを聞いて安心したでござる!」
 ユレフは無邪気に笑いながら言うと、ブロンドの柔らかそうな髪の毛をフワフワと浮かせて座り直した。他の人からの目など全く気にした様子はない。
(相変わらずだな、ユレフ……)
 ヲレンは目を細め、鼻歌を歌ってるユレフを忌々しげに睨み付けた。
「おいガキ。自分、ホンマにゲームの意味分かっとんのか? アクディ信者で会いたいんか何か知らんけど、負けたら死ぬんやぞ。まさかとは思うけど、死ぬっちゅー意味も分かってへんのとちゃうか?」
 ユレフの隣りに座っているベルグが、少し心配そうな目を向けて言う。
「小生は賢いでござるよ。少なくともお前よりはな」
「お、『お前』て……。ガキのクセに生意気なやっちゃな。けったいな喋り方やし」
「貴様に言われたくないでござるよ」
「なんやとー!」
「ベー!」
 怒声と共に掴みかかろうとするベルグを、ユレフは軽い身のこなしで椅子から飛び退いてかわした。
「他に、質問は御座いませんか?」
 大広間の中で追い掛けゴッコを始めたユレフとベルグを無視して、アーニーは残った三人に顔を向ける。
「……タバコ」
「はい。何で御座いましょう、ノア=リースリーフ様」
 ベルグの居なくなった椅子に両足を乗せ、ノアと呼ばれた女性は気怠そうに頭を掻いた。
「……ココでタバコは吸っても、大丈夫なのか?」
 女性にしては低い声だった。ユレフの甲高い声の後だから余計にそう聞こえるのかも知れない。
 背中の中程まである少しくすんだ緑色の髪をいじりながら、ノアは白いカッターシャツの胸ポケットからタバコの箱を取り出した。
 上着はそのシャツは一枚だけで地肌に直接着ているせいか、体のラインがハッキリ見える。しかしローアネットのように艶麗な雰囲気は微塵もなく、むしろ退廃的で無気力な印象を受けた。
「問題ありません。ですが火の不始末にはくれぐれもお気をつけ下さい」
「……死ぬなら一人で死ね、という事だな」
 どこか自虐的な笑みを浮かべながら、ノアはタバコを一本くわえた。そして左腕に巻いたリストバンドからライターを取り出して火を付ける。
「……聞きたかったのはそれだけだ」
 まだ二十を少し過ぎたくらいだろうが、達観しきった表情のノアは、五人の中では一番落ち着いて見えた。
 半分だけ開かれた碧眼は曇り、光を灯していない。化粧など全くしておらず、アーニー程ではないが肌の色も不健康そうに青白かった。サイズの合っていない男物のジーンズは方々が破け、やせ細った華奢な足を晒している。機械的に紫煙を吐き出すその様子は、完全に荒みきっていた。
「他に質問は御座いますか? ヲレン=ラーザック様はよろしいしょうか」
「ああ」
 ヲレンは短く答えると、腕を組んで俯いた。
 質問も何も自分はこの洋館の関係者だ。このゲームの主旨は熟知している。気を配るのはユレフのみ。あとの人間はどうでもいい。
「それでは契約を交わしていただきます。皆様、目の前に御座います細い針で指を軽く刺し、血を一滴予定表の上に垂らして下さい」
 ヲレンはアーニーの指示通り、針を取り上げて指を刺す。痛みはなかった。
 針を抜き、程なくしてぷくっと膨れあがってきた紅い玉を羊皮紙に押しつける。
 体の内側に手を這わされたような悪寒。一瞬目の前が暗くなり、奇妙な睡魔に襲われた。しかしそれもすぐに払拭される。恐らく、コレが契約の成立した証なのだろう。
「契約を済ませられた方からお部屋にご案内いたします。今日はもう遅いので明日からの十日間に備えて、ごゆっくりお休み下さい」
 アーニーは両手を前で合わせて深々と頭を下げる。

 死のゲームの開始だった。

 †一日目 【自室 08:55】†
 アーニーに案内された自室のベッドで横になり、ヲレンは天井を見つめて思索に耽っていた。クリスタルに包み込まれた魔術光が、美しい明かりを室内に広げている。
 ゆうに二人分の広さを持つ室内にはレッドカーペットが敷かれ、窓際にダブルサイズのベッドが置かれていた。ちょっとしたキッチンや冷蔵庫、シャワーも完備され、部屋の隅にあるソファーの近くには疲れを癒すヒーリングライトが備え付けられている。 
 ヲレンが今考えている事は昨日から同じだった。
(アクディの狙いが分からん……)
 このゲームの主旨は熟知している。だからそれだけに不気味だった。アクディが何を考えているのかさっぱり分からない。彼は人の命を弄ぶような人間ではなかったはずだ。
(単なる脅し、か……?)
 ゲームを真剣なものにし、より盛り上げるための。そうとさえ思えてくる。
 死のゲームへの招待状が届いたのは一週間ほど前の事だった。
 アクディの呼び出しはいつも突然だ。だからその事に関しては別に驚かなかった。
 しかし招待されたのが自分とユレフだけではなく、他に三人も居たのは予想外だった。
(しかもユレフは本名のまま……)
 ヲレンに送られてきた招待状には、自分の正体を伏せて来るようにとの指示があった。最初どういう意味があるのか分からなかったが、他にも招待客が居るという事を知って納得した。確かに部外者に自分の正体がバレるのはマズい。
 だから『ヲレン』という名前も偽名だ。他の四人の招待状にどう書かれているのかは知らないが、もしかしたら皆偽名を使っているのかも知れない。特にノアという女性は怪しい。彼女にも偽名を使わなければならない必要性はある。
 だが少なくともユレフは本名だ。ソレは間違いない。
(指示を無視した……?)
 可能性は色々考えられる。
 自分へプレッシャーなのか、アクディの趣向なのか、単に指示が行っていないだけなのか。それとも――
(余裕、か?)
 本名を明かしても正体がバレないという自信がある?
 確かに『ユレフ』という名前が世の中に出回っている訳ではない。だからすぐにはバレる事はない。
(アイツが、ソウル・パペットだという事は……)
 ユレフは完全なソウル・パペットだ。アクディの生み出した最高傑作。ありとあらゆる能力に秀でている。だからこそ、偽名を使ったり姿を変えたりして正体を隠す必要がある。
 ソウル・パペットは世間的に忌み嫌われている錬生術で生み出された存在だ。確固たる肉体を持たないため、身体機能の停止――すなわち『死』を向かえたとしても、蘇る事が出来る。錬生術を施す事で。
 しかしその行為は魂の輪廻に重きを置く教会の考えに、真っ正面から反発する。
 教会は世界で唯一にして最大の宗教機関だ。簡単な病気なら無償で治療してくれたり、貧しい者には金銭的な援助もしてくれるため、信者は多くいる。
 もしユレフがソウル・パペットだとバレれば、世界中の人間を敵に回しかねない。いくらユレフでも彼らから逃げ続けるのは不可能だ。
 この洋館に部外者を招いた事はかつて一度もない。彼らからアクディの研究データが漏れ、ユレフの正体がバレる可能性がある。
 それに勘の良い男もいた。
(ベルグ=シード、か……)
 アーニーの事をソウル・パペットではないかと指摘した男だ。金に飢えた遊び人かと思っていたが、なかなか鋭い。
 しかし完全に当たっているわけではない。アーニーはソウル・パペットではない。だがこの調子では、いつユレフもソウル・パペットではないかと疑われてもおかしくない。
 アクディに確認しなければならない。どうしてユレフは偽名を使っていないのか。そしてどうしていつもとは違い、こんなゲームをする必要があるのか。
 アーニーの話ではアクディは忙しくして顔を出せないと言っていた。洋館の中には居るだろうが、どの部屋に居るかまでは分からない。ここにはヲレンも知らない隠し部屋が沢山ある。アクディの世話役であるアーニーにも教えていない部屋もあるだろう。
「ん……」
 どうやってアクディに会うかを思案していると、ヲレンの体が勝手に動き出した。
 部屋に置かれている、水晶球に埋め込まれた時計の針に目をやる。
 九時四十五分。
 最初の予定の時間だった。ヲレンはこれから一階のキッチンにある冷蔵庫に行き、『お酢』と『超高純度アルコール』のラベルを貼り替えなければならない。
 この行為にどういう意味があるのかは分からない。
 五日目の予定に書かれた露骨に死を匂わせる『暖炉の中に飛び込む』という行為。
 もしかしたらソレを目隠しするための、全く意味のない行為かも知れない。
(まぁ、ソレもアクディに聞けばわかる、か……)
 十日もあれば何とか見つかるだろう。例え見つからなかったとしても、最終日には顔を出すはずだ。その時に聞けばいい。
 ヲレンは自分の意志とは関係なく部屋の出入り口まで歩き、金色のドアノブに手を掛ける。ドアのすぐ横には、ヲレンの方を向いた大きな姿鏡。
 そこに映っていたのは、ユレフと同じ位の少年だった。 

 キッチンに行くと紫色のイブニングドレスを着た女性が、冷蔵庫から星形の果物を取り出していた。
 確か名前はローアネットといったはずだ。
「あ、あら、ヲレンさん。変なトコ見られちゃったわね」
 高さ四メートルはある巨大な冷蔵庫から離れ、ローアネットは気まずそうに髪を掻き上げた。つまみ食いをしているところを目撃されてたせいか、顔が少し紅い。
「貴方も朝ごはん食べ足りなかったのかしら?」
「まぁ、そんなところですよ」
 予定表の内容を他人に喋ってはならない。ソレはルールの一つだ。
 ヲレンの体はローアネットを押しのけるようにして冷蔵庫の前まで行き、右手を扉に当てる。扉は音もなく消えて無くなり、中にある豊富な食材をさらけ出した。ヲレンはローアネットからは中が見えないよう大きな体で壁を作ると、肉と果物に挟まれたお酢の瓶を迷う事なく探し当てる。シールで出来たそのラベルに手を掛けると、ゲル状になってアッサリと剥がれ落ちた。
「ねぇ、ヲレンさん」
 冷蔵庫の奥にしまい込れていた超高純度アルコールの瓶に手を掛けたところで、ローアネットに話し掛けられた。
「貴方はどうしてココに来たの?」
「どういう、意味ですか?」
 言われた内容がすぐに理解できず、ヲレンはさっきと同じ要領で超高純度アルコールのラベルを剥がしながら聞き返した。
「貴方がココに来た理由。命を張ってまでお金が欲しいの?」
 ああ、そう言う事か。
 ゲル状になったお酢のラベルを超高純度アルコールの瓶に貼り付けると、再びシールになって固定化される。
「教会からの命令なんですよ。生を冒涜する狂医術師、アクディ=エレ=ドートを捕まえて大司教様の前に引きずり出さないといけないんです」
 二つの瓶のラベルを交換し終えると、ヲレンは体の自由を取り戻した。
「貴方、教会の人? なんかイメージと違うわ。もっとヒョロっとした人達ばっかりだと思ってた」
 身長二メートル近くある巨漢のヲレンを見上げながら、ローアネットは意外そうに呟く。
「それは偏見というものですよ」
「じゃあエライ人の命令で死ぬかも知れないゲームに参加させられてるの? 『生を冒涜する』とか言っといて自分は高みの見物って訳?」
「まぁ大司教様にはお世話になっていますからね。せめてもの恩返しですよ」
 ヲレンが冷蔵庫の前から離れると、消失したはずの扉が自然に復元された。
 ローアネットは納得のいかない表情で、銀色の無機質な直方体をしたクッキングスペースに体を預ける。そして星形の果物に小さくかぶりつきながら、高いヒールで床を鳴らした。
「お役所仕事も大変ねぇ。アタシだったらそんな命令されたら絶対に辞めてるわ」
「それじゃあ貴女はどうしてココに来たんですか?」
「アタシ?」
 自分の理由を聞き返され、ローアネットは何か考えるように視線を上に向ける。
「……アタシは、お金が欲しいのよ。どうしてもね」
 瞳の奥に強い決意の光を灯し、ローアネットはどこか思い詰めたような顔で言った。
「そう、ですか」
 ヲレンは気圧されたように、言葉を少し詰まらせる。
 彼女の表情は真剣そのものだ。何があったのかは知らないが、少なくとも遊び金欲しさでココに来ているわけではなさそうだ。
「ま、お互い頑張りましょ。あの予定表見た感じじゃこのゲームに勝つのって結構簡単っぽいからね」
 急に明るい声になって、ローアネットは陽気に笑いながら手をヒラヒラと振った。そのままキッチンから出て行く。
(簡単、か……)
 ヲレンが予定表を見た時に抱いた印象と同じだ。
 ならばローアネットの予定表もヲレンの物と同じく、露骨に分かる死の予定が書き込まれているのだろうか。
 その点も腑に落ちなかった。
 アーニーの話ではペンと石を使って、一度だけ予定を書き換えられる。つまりヲレンの場合であれば、五日目の『暖炉に飛び込む』という予定を書き換えてしまえば、死を回避出来る。残りの予定には、死に繋がるような物は一つもない。
(とにかく、ソレもアクディを見つけて聞かないとな……)
 アクディを探すため、ヲレンはキッチンを後にした。

 洋館は五階建ての構造になっている。
 玄関ホール部分は一階から三階まで吹き抜けになっているため、二階と三階の敷地面積は狭いが、それでも部屋数は二十を越える。一階は大広間やキッチン、大浴場があるために部屋数は十程度しかないが、四階と五階には四十近い部屋が用意されていた。
 この巨大な洋館に居るのは招待された五人とメイドのアーニー、そしてどこかに居るであろうアクディの七人だけだ。さらに招待された五人の部屋は全ての階に分かれているため、洋館を歩き回らない限り他の誰かに会う事は希だった。
(この階には居ない、か……?)
 自分の部屋がある三階の隠し部屋を全て探し終え、ヲレンは軽い落胆と共に長い廊下を歩いていた。
 天井の近くを光輝蝶が羽を光らせて舞い、柔らかい光と星のように輝く鱗粉を落としていた。自浄機能の備わったクリアガラス製の窓の外は、すでに暗くなっている。三階を探すだけで半日も費やしてしまった。
「ヲレン=ラーザック様」
 突然、後ろから自分の名前を呼ばれる。
 振り向くとアーニーが背筋を伸ばして立っていた。いや、立ちつくしていた、という表現の方がしっくりくるかも知れない。それ程までに生気を感じさせなかった。
「夕食の準備が整いました。大広間にいらして下さい」
 朝食、昼食の時と同じく、いきなり呼びに現れたアーニーは、無機的な気配を纏わせながら言う。
(聞いて、みるか……)
 ヲレンは少し考えた後、アクディの事を訊ねるためにアーニーに近づいた。
 招待状には正体を隠してココに来るように書かれていた。誰にも自分の事をさとられようにと。恐らく、そこにはアーニーやユレフも含まれているのだろう。今からアーニーとしようとしている会話を、他の人間に聞かれれば自分とアクディの繋がりがバレる。それはユレフが相手でも同じ事だ。
 だが少々の危険を冒してでも聞き出さなければならない。
 この狂行の意味を知るために。
「アーニー。アクディはどこに居る」
 ヲレンはアーニーの前に立ち、なるべく小さな声で聞いた。
「アクディ様はご多忙のため、自室に籠もっていらっしゃいます」
「その部屋はどこにある」
「その質問にはお答えできません」
 やはりな。
 この返答は予想していた。
 ヲレンは一度目を瞑って軽く深呼吸し、少し違った語調で聞き直した。
「アーニー。僕はアクディ様の事が心配なんだ。アクディ様は生まれつき体が弱い。寿命も常人より遙かに短い。ひょっとして、病に倒れているんじゃないのか?」
 アクディは医術師として、そして錬生術師として天才的な能力を誇っていたが、体は脆弱だった。もう五年も前から浮遊車椅子での生活を余儀なくされている。
 その事はユレフとアーニー、そしてヲレンしか知らない。
 先程の言葉でアーニーはヲレンの正体に気付いたはず。ならば教えてくれるかも知れない。アクディの居場所を。
「その質問にはお答えできません」
 しかし、返答は変わらなかった。
 アーニーは基本的にアクディに言われた事しか実行しない。例えヲレンの正体が分かったとしてもイレギュラーな事はしないし、その事を皆に吹聴したりもしないだろう。
「そうか……」
 彼女が答えられないと言った以上、絶対にアクディの居場所を喋る事はない。これ以上詰問しても結果は変わらない。やはり、自分で探すしかない。
「夕食は後で食べる。私の部屋まで運んで置いてくれ」
「かしこまりました」
 アーニーは慇懃に礼をすると、無表情のままヲレンの前から姿を消した。

 †二日目 【中庭 15:50】†
 昨日の夜から今日の午前中に掛けて、二階部分の部屋を見て回った。しかし、ヲレンが知っているどの隠し部屋にもアクディの姿はなかった。
(どうするか、な……)
 ヲレンは予定表の内容に従い、中庭でキノコを採りながら難しい顔をしていた。そこは洋館の敷地内にある、色鮮やかな緑が生い茂る空間。
 夜になると発光する千枚葉を持った高い樹が、外壁に沿って等間隔に植え込まれ、大量に飼育されている光輝蝶の巣となっている。真ん中には時間によって色を変える彩虹噴水が備え付けられ、その周りには風で揺れるたびに涼やかな音色を奏でるサウンド・フラワーが美しい花を咲かせていた。
 そしてヲレンが採っているキノコは、彩虹噴水の水で適度な湿り気を帯びた土の上に生えていた。
(このままじゃマズい、か……)
 直感ではあるが、このまましらみ潰しに探し続けていてもアクディは見つからないような気がする。それに急がなければならない理由が一つ浮上した。
 今ヲレンが集めている、指先程の大きさしかない小さなキノコ。
 コレは確か鬼茸という毒キノコだったはずだ。
 どういう症状を引き起こすのかまでは知らないが、ほんの僅かで致死量に至る強力な毒素を持っていたはず。
 予定表に従うならば、今からこのキノコを冷蔵庫に入れなければならない。食べれば死んでしまう、この毒キノコを。
 しかしこの鬼茸は赤地に黒の歪な斑点が散りばめられており、かなりグロテスクな外見をしている。
 例え名前や効果を知らなくても、コレを食べようという気にはならないだろう。
 だが、もし予定表に食べるように書かれていたとすれば……?
「こーんな所にいたでござるか、ヲレン殿」
 甲高い子供の声を背中に掛けられ、ヲレンは思考を中断せざるを得なかった。
「いやー、探したでござるよ。ヲレン殿は食事を部屋で摂っているから、話をする機会がなかなか無かったでござる」
 鬼茸をロングコートのポケットに入れ、ヲレンは立ち上がった。そしてキッチンに向かって歩き始める。
「ああー、待つでござるー」
 ユレフはヲレンを追い掛けながら、少し悲しげな声を発した。
「ユレフさん、でしたね……。それは申し訳ない事をしました。私、人と話すのがあまり得意ではないもので……」
「いやいや、気にする事はないでござる。人間誰でも得手不得手があるものでござる」
 ユレフは小さな胸の前で腕組みして歩きながら、コクコクと可愛らしく首を縦に振る。
「それで、私にどのようなご用ですか?」
 出来れば長話はしたくない。コイツの顔を見ていると気分が悪くなってくる。
「ヲレン殿はこのゲームをどう考えているでござるか?」
「どう、とは……?」
「アクディ様がどのような意図を持って小生達に命のやり取りをさせているのか、と言う事でござる」
 ほんの僅かだがユレフの語調が変わった。
 先程までの無邪気で子供っぽい雰囲気はなりを潜め、コチラを試すような狡猾な視線を投げかけてくる。
「……私には決して許せる行為ではありません。教会の代表者として必ず生き残り、アクディを粛清しなければならないと思っています」
「質問の答えになっていないでござるよ」
 建前上の意見を述べたヲレンに、ユレフは間髪入れずに鋭く言い放った。
「小生が聞きたいのは、アクディ様がどうしてゲームの中に死を取り入れたのか、という事でござる」
 ユレフが自分に何を聞きたいのかよく分からず、ヲレンは眉を顰めながら答える。
「……それは、ゲームに緊張感を持たせるためでは」
「なるほど。ソレもあるかも知れないでござるな。でも小生の考えは違うでござるよ」
 そこまで言って、ユレフは口の端を不敵につり上げた。
「誰がいつどこで死んでもおかしくない状況を作り出してくれた。小生はそう考えているでござるよ」
 ユレフはすっ、と目を細めて得意げに続ける。
「もっと言えば、アクディ様が小生に『殺しても良い』という許可を与えてくれたのだと解釈しているでござる」
 すでにユレフには外見から想像できる幼さは微塵もない。
 あるのは狂気的な瞳の輝き、誰かの死への渇望、底知れない殺意。
「小生はある人物を探しているでござる。ソイツは必ず招待客の中にいるはず。小生の目的はソイツを見つけだし、この手で殺す事でござるよ」
 アッサリと言ってのけるユレフに、ヲレンは背中に氷柱を差し込まれたかのような怖気を覚えた。
「小生以外の者を全員殺してしまえばソレが一番てっとり早いのでござるが、それはさすがにアクディ様に怒られるでござる。せっかくアクディ様が趣向を凝らしてくれたゲームを台無しにしてしまうでござる。アクディ様も楽しんでいただかないと意味がないでござる。きっとアクディ様は、いかに小生がソイツを探し出し、どれだけ早く殺せるかを見ているでござるよ。きっとコレがアクディ様の意図しているところでござる。間違いないでござる」
 ここに来て、ヲレンもようやくアクディの意図が理解できた。
 アクディが自分に正体を隠すように仕向けた理由。それは他の三人に自分の事がバレるのを恐れたからではなく、『ユレフ』にバレる事を恐れたからだ。
 アクディがユレフに正体を隠させなかった理由。それはヲレンにだけユレフの事を認知させるため。そしてユレフを警戒させるため。
 ユレフは自分の正体を知れば殺すつもりだ。
 恐らく、今と似たような事を他の三人にも言って探りを入れているのだろう。ユレフが探し出そうとしている人物らしい反応を示すかどうかを見るために。
「ず、随分と極端な思考をお持ちなんですね。ですが人を殺めるという行為は大罪です。アクディのしようとしている事と同じく、決して許される行為ではありません。貴方がどうしてココに招かれたのか、どのような過去を背負っておられるのかは存じ上げませんが、まだ幼い身。先の長い人生をまっとうに歩むためにも、どうかお考えをお改め下さい」
 震えそうになる声を強引に押さえ込み、ヲレンはなるべく教会からの使者として自然な言葉を選んで口にした。
「アクディ様を理解していない者の言葉は聞かない事にしているでござる」
「し、しかし……自ら手を下すというのはルールに沿わないのでは?」
「やってはいけないとは言われなかったでござる」
 悪びれた様子もなく、ユレフは揺らぎのない自信に満ちた言葉で言い切る。
 ユレフは一度『やる』と言った以上、必ず実行する。それは今まで何度もこの身で味わって来た。
 完全なソウル・パペットとしての実力を。
「そんな暗い顔する事ないでござるよ。多分、ヲレン殿は白ではないかと考えているでござる」
 ユレフは柔らかそうなブロンドをいじりながら、子供っぽい顔に戻ってにこやかに言う。
 その言葉にヲレンは僅かな安堵を覚えるが、同時に別の恐怖を感じた。
「それでは、すでに……?」
「怪しいヤツが居るでござる。もう少しソイツと話をしてみるでござるよ」
 やはり。すでにユレフが疑っている者が居る。
「それれじゃあ時間を取らせてしまって悪かったでござる。どうも有り難うでござる」
「あ……!」
 ユレフは一方的に言うと、小走りに中庭から去って行った。
(誰の、事なんだ……)
 又一つ、問題事が増えた。

 昨日と同じように自室で夕食を取り終え、シャワーを浴びた後、ヲレンはヒーリングライトを浴びながらソファーに深く腰掛けていた。
(まいった、な……)
 溜息を付き、ヲレンは目を閉じる。
 結局、アクディの居る部屋は見つからなかった。鬼茸という死を匂わせる要素も浮上した。しかも冷蔵庫から取り出す事も出来ない。出しても体が勝手に中に戻してしまうのだ。どうやら予定表に『入れる』と書かれていると、その状態を維持するようになっているらしい。
 さらにユレフの恐ろしい目的を知ってしまった。
 そして――自分と間違えられた誰かが殺されようとしている。
 頭を悩ませる問題が次々に降りかかってくる。
 ますますもってアクディの狙いが分からなくなって来た。ユレフの言うとおり、本当に自分を殺す事を許可したのではないかとさえ思えてくる。
 自分はユレフを憎んでいる。それは向こうも同じ事だ。
 アクディの開催するゲームは、何もコレが初めてではなかった。不定期的にではあるが、これまでこの洋館で何度も行っている。
 ゲームの内容は種々様々だ。
 隠れんぼや宝探しといった幼稚な物から、一階から五階までの最も効率的な歩き方、この洋館に生えている植物の暗記や、陽の光が最も強い場所と時間の特定といった知的な物、そして剣技や格闘術といった肉体的な物まで。
 色んな事について競い合った。
 ユレフと二人だけで。
 そしてそれら全てに置いて、ユレフは勝利をおさめてきた。ヲレンが勝った事は一度もない。そして絶対的な劣等感を刷り込まれた。何をやってもユレフには――ソウル・パペットには勝てないという暗示に掛かってしまった。
 自信を失い、招待状が届くたびに憂鬱な気持ちにさせられた。
 だからヲレンはアクディを憎んだ。
 どうしてこれ程までに自分を貶めるのか理解できなかった。何度理由を聞いても、アクディからは曖昧な答えしか返ってこなかった。
 ――お前達のため。そして私のため。
 納得のいかないまま、敗北感だけがどんどん積もって行った。
 ゲームに勝利したユレフはいつもアクディに褒められ、多大な寵愛を受けていた。
 ヲレンにとってはソレが最も許せなかった。
 自分に掛けてくれるのは上辺だけの慰めの言葉と、次は頑張れという無責任なねぎらい。
 自分はユレフの成長のために利用されているだけなんだ。
 いつしか根拠も無くそう思い込むようになっていた。
 アクディを憎み、ユレフを疎み、洋館からは出来るだけ遠ざかって生きていこうと思っていた。
 しかし、今回の招待状が届いた。
 そこには正体を隠して来る事と、今回のゲームが最後であり、死を取り入れた真剣勝負であるという事が明記されていた。
 『最後』。
 ヲレンの目には『死』というフレーズよりも、そちらの方が大きく目に付いた。そしてすぐにアクディの身に何かあったのだと思った。彼の体が弱い事は十分すぎる程に知っていたから。
 そう思うとすぐにでも洋館に行きたいという気持ちで一杯になった。
 アクディの事は憎んでいた。しかしどこかで慕わしい想いもあった。自分もユレフと同じように褒められたいと思っていた。
 新しい命を与えてくれたアクディに。
 指定の日、指定の時間に洋館に来た時、そこにいたのはユレフだけではなかった。部外者が三人もいた。しかし一人は完全な部外者ではないと察知できた。
 ノア=リースリーフ。
 彼女からはユレフと同じ雰囲気を感じた。
 新しいソウル・パペット? 自分の知らないところで、アクディが創り出していた?
 その考えはヲレンに果てしない悲壮感をもたらした。
 今日の昼間、ユレフが言った事はもしかすると当を得ているのかも知れない。
(廃棄処分、か……)
 要らなくなった物は捨てられる。より優良で、より完全で、より新しい種を残す。
 そのためにアクディは、間接的にユレフに自分を殺すように指示した。
 それがこの『死のゲーム』が『最後』だという意味?
(僕は、ここで死ぬ……?)
 自分はソウル・パペットではないが、例え肉体的に死んだとしても、恐らく生き返る事は出来るだろう。
 アクディにその意思があるならば。
 だが、もしアクディが自分を必要としていないのであれば――
(潮時、か……)
 自嘲めいた笑みを浮かべ、ヲレンは窓に映った少年の姿の自分を見つめていた。

 †三日目 【書庫 16:45】†
 洋館の四階にある膨大な蔵書量を誇る書庫。
 ここには医術書を初め、黒魔術、白魔術といった魔法書や、物理、化学、生物などの自然書、果てには惑星学、光闇学が纏められた天地書まで揃えられている。
 だが、ヲレンが用があるのはそんな書物ではない。
 天井にまで届きそうなほどの高さを持つ、黒鋼石で作られた本棚が、さながら訓練を受けた軍隊のように整然と立ち並ぶ書庫内。左から十二列目と十三列目の本棚の間を抜け、ヲレンは書庫の一番奥まで足を踏み入れた。
 そして白く塗られた無機質な壁に手を当てる。口の中で小さく何かを呟くと、壁だった場所は黒く抜け落ち、人一人がようやく通れるくらいの穴を開けた。
 その中に入り、ヲレンは暗い隠し通路を躊躇う事なく進んで行く。
 そして数分後。丸く象られた燐光がヲレンの視界に入った。淡い光に照らされ、浮かび上がるようにして存在しているのは、複雑に入り組んだガラスの管、縦長の太いリアクター、呼吸するかのように明滅を繰り返す操作パネル。
 ここはアクディの研究部屋の一つ。
 数多くのソウル・パペットの試作品を生み出してきた場所。
 部屋の中央には頑丈な合板で作られた薄汚れた机が、主の帰りを待って鎮座していた。
 ヲレンはその机の上に置いてある、分厚い背表紙の黒いノートを手に取る。そして中を確認した。
 几帳面な文字でびっしりと書き込まれた研究成果。所々に図や表が挟まれ、中には暗号のように意味を為さない文字の羅列も含まれていた。
 ヲレンはその研究日誌を持って、来た通路を引き返した。あまり長く居ると出入り口が閉まり、閉じ込められてしまう。
 自分の力では、あの出入り口を外から開く事は出来ても、中から開く事は出来ない。ソレが出来るのはマスターキーワードを知るアクディだけだ。
 ヲレンは書庫の隅にある読書用の机に腰掛け、持って来た研究日誌に改めて目を通した。
 錬生術の事、コレまで生み出してきたソウル・パペットの事、そしてアクディ自身の体の事も書き記されていた。
 ――人形ではなく、人間を創りたい。
 それはアクディがいつも口癖のように言っていた言葉。
 アクディは魂の冒涜という、教会からの大反感を買う研究を行っている。一部の人間には、不老不死の体を得るために死者の肉体を弄んでいるとの曲解までされている。ソウル・パペットという仮初めの人工生命体を使って、人体実験を繰り返していると。
 だがそうではない。
 アクディは生の重さ、死の深さをよく分かっている。ヲレンはその事を、アクディとの触れ合い学んだ。
 だから理解できない。このゲームを行う意味が。
 先程、予定表に従って窓の外を一時間眺めていた。
 中庭でベルグとローアネットが二人、自分達の事について話をしていた。
 ベルグは生きるという事にはあまり興味がなさそうだった。自分の命を冷め切った気持ちで見つめていた。
 しかしローアネットは違った。
 一日目、彼女と会話した時に感じたように、何としても生き延びたいという強い意志を持っていた。
 そんな人間をお金で釣り、アクディはこの死のゲームに参加させた。正直、信じられなかった。
(『最後』のゲーム、か……)
 ヲレンはその意味をもう一度考える。
 ユレフと自分のバカげた競い合いに終止符を打つという意味なのか、研究に見切りが付いたという意味なのか、それとも……すでにアクディの命が尽き掛けているという意味なのか。
(目新しい情報はない、か……)
 軽く息を吐きながら、ヲレンは分厚いノートを閉じた。
 この研究日誌は以前に読んだ時のまま変わっていない。何か最近のアクディの事について書かれていればと思っていたのだが、どうやら期待はずれだったようだ。
 ヲレンが研究日誌を持って立ち上がり、元の場所に戻そうとした時――
「――!」
 書庫の出入り口。その隣りにある申し訳程度の大きさの窓ガラス。
「アクディ様!」
 ヲレンはそこに映っていた人物の顔を見て、思わず叫んでいた。
 見つけた。ついに見つけた。
 この洋館の中に居た。まだちゃんと生きていた!
 ヲレンは慌てて席を立ち上がり、アクディを追って書庫の出入り口に向かって走る。そして荒っぽく扉を開けた。
「……ッ!」
 だが、外には誰も居なかった。
(そんなバカな!)
 首を大きく左右に振って辺りを見回す。
 長い廊下の曲がり角。その影に見慣れた黒いローブの裾が吸い込まれて行くのが見えた。
「待って下さい!」
 ヲレンは叫びながら廊下を走り、アクディの消えた曲がり角に飛び出す。
 しかし、左右の壁に開いた三階と五階に続く階段と、その真ん中を通る長い通路があるだけで、アクディの姿はどこにも見あたらなかった。
「くそ!」
 どこかの部屋に入ったのか。それとも別の階に行ったのか。
 その後、夕食も取らずに、夜遅くまでアクディを探したが、再び彼の姿を見る事はなかった。

 †四日目 【書庫 10:31】†
(無い……)
 ヲレンは書庫の奥まった場所にある、読書用の机の前で一人呆然と立ちつくしていた。
 昨日、遅くまでアクディを探していたヲレンは、九時を少し回った頃にようやく目を覚ました。誰も居ない大広間で一人、遅めの朝食を取った後、昨日出したままにしていたアクディの研究日誌の事を思い出した。
 慌てて書庫に行ったが、確かに置いていたはずの研究日誌はどこにも無かった。
 アーニーが気を利かせて直してくれたのかと思い、アクディの研究部屋も見てみたがどこにも無かった。
(誰かに、読まれた……)
 そう考えて間違いないだろう。
 あの日誌には自分の事、アーニーの事、そしてユレフの事も書かれている。
 とんでもない失態だ。あれだけ気を付けなければならないと自分に言い聞かせておきながら、アクディの姿を見て忘我し、取り返しの付かない事をしてしまった。
(どうする、か……)
 招待客一人一人に聞いて回るか?
 だが逆に、どうして自分がその本の事を知っているのか聞かれたらどうする。勘の良い者なら、すぐにアクディとの繋がりを看破するかも知れない。
 持って行った者がユレフ以外なら、自分も偶然興味深い本を見つけて読んでいたとでも言えば言い逃れ出来るだろう。
 しかし、もしもユレフだったら。
 ユレフはすぐにヲレンの正体に気付くだろう。そうなればユレフは間違いなく自分を殺す。
 あまりにもリスクが大きすぎる。
 まだ死にたくない。アクディに貰った命をこんな所で失いたくない。
 それならばこのまま黙って知らない顔をしていた方がまだましかも知れない。あそこには『ユレフ』の名前は明記してあっても『ヲレン』という名前は書かれていない。
 ユレフに自分の正体がバレない限り、他の人間にもバレる事はない。
(最低だ、な……)
 結局、どれだけもっともらしくソウル・パペットを擁護する言葉を並べ立てたところで、自分が可愛いだけだ。自分の生活と命を最優先に考え、後のどうにもならない事は目を瞑って放棄する。自分でまいた種なのに、自分で刈り取る事すらしない。
 ユレフの事を残酷で冷酷だと思っていたが、やっている事は自分も変わらない。
 違いと言えば直接的か、間接的か。それだけだ。
(『最後』のゲーム、か……)
 本当に最後だ。こんな最低な事は最初で最後にしなければならない。
 ようやく湧いてきた『最後』という言葉に対する実感を、喉の奥に溜まった生暖かい唾液と共に嚥下し、ヲレンは書庫を後にした。

 午後六時十分。
 部屋から持ち出したどこにでもある封筒を手に、ヲレンは五階にあるプレイルームに向かっていた。
 予定表に書かれた事に従い、体が勝って動いていく。
 これからプレイルームにあるはずの箱をこの封筒に入れて、玄関ホールにある花瓶に入れなければならない。
(それにしても……)
 すでに四日が過ぎたが、この予定表に書かれている事の意味不明な内容が理解できない。
 初めて昼食を皆と一緒に取ったが、まだ誰も死んではいなかった。特にベルグとユレフは緊張感のない様子で、互いの肉の取り合いをしていた。
 すでに死を回避してしまったのか。それともまだ訪れていないのか。彼らの予定表を見ない限りは何とも言えない。
 だが少なくとも自分の死は明日に迫っている。
 大広間にあった暖炉。
 明日の午後四時二十五分に、ヲレンはあの中に飛び込む事になっている。あそこの暖炉は特殊な耐火シールドで覆われ、火が外に出る事はない。だから半永久的に火種を供給し続ける炎烈宝玉を入れて、夜でも燃え続けている。
 そんなところに飛び込めば間違いなく焼死だ。
 だからすでに予定表を修正するペンを使って手は打ってある。これで間違いなく死は回避できる。
(死にたくない、な……)
 四階から五階に続く階段を一段一段確かめるようにして上って行きながら、ヲレンは胸中でその言葉を呟いた。
 何としても生き残らなければならない。
 そうしなければ元の生活に戻る事も、アクディに会う事も、ユレフに謝る事も出来ない。
 それに最後まで生き残る事が出来れば、少なくともユレフとの勝負は引き分けという事になる。勝ったわけではないが、初めて負けなかった事になる。
 もしかしたらアクディも褒めてくれるかも知れない。
 ユレフも少しは自分の事を認めてくれるかも知れない。
 生き残る事が出来れば――
「……ん」
 階段を上りきって五階の長い廊下に出た時、誰かの声が聞こえた。それ程大きいわけではないが、耳の奥まで届く。独特の波長を持った透き通るような声だった。
 ヲレンが予定表に従って歩を進めると、声はだんだんと大きくなっていった。
 誰かがプレイルームの中で歌っている。女性の声だ。
 アーニー? 違う。彼女はそんな事をするようには命令にされていないはずだ。
 ではローアネットか? 外見からはあまり想像できないが、商売上そういう特技を身に付けていたとしても不思議ではない。
 ヲレンは扉の前に立ち、緩やかに湾曲した白い軟体金属の扉に触れた。そして扉の中央に開いたかと思った小さな穴は、波紋が広がるように大きくなり、ヲレンが通れるくらいになったところで固定化される。
「あ……」
 ヲレンの姿を歌声の主が見つけたのか、心を優しく包み込むような柔らかく温かい声はピタリと止んでしまった。
 ちょっとしたダンスホールほどの広さを誇るプレイルームには、部屋の一番奥にグランドピアノが置かれているだけで、他には何もない。フローリングの広大な床が、有り余るスペースを持てあましている。
 グランドピアノのすぐ隣り。
 忌々しそうにコチラを睨み付けているのは、ヲレンの予想をどちらも裏切った女性、ノア=リースリーフだった。
 今の彼女には、最初に見た時に感じた退廃的で大人びた印象は微塵もない。
 年相応の若い女性に見える。
「……何の用だ」
 ヲレンに聞こえるくらいにハッキリと舌打ちし、ノアは低い声で言った。
「スイマセン。お邪魔でしたね。ちょっとした用事がありまして。すぐに退散しますよ」
 ヲレンはノアの方に近付きながら、愛想笑いを浮かべる。どうやら目的の箱は、グランドピアノの中にあるらしい。
「……ふん。お前の予定って訳か」
 肩に掛かったくすんだ緑色の髪の毛を鬱陶しそうに手で振り払い、ノアは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
 ヲレンは何も答えないまま無言で歩く。予定表の内容は他人に喋ってはならない。それはこのゲームのルールだ。
(彼女もソウル・パペット、か……?)
 ノアを横目に見ながら、ヲレンはグランドピアノの真横まで来る。
 やはり、どこかユレフと同じ雰囲気を感じる。口では上手く説明できないが、内面から発せられる何かが似ている。
「……お前、死にたくないって顔してるな」
 ノアは胸ポケットから取り出したタバコを一本口にくわえ、左腕のリストバンドからライターを取り出して火を付けた。そして紫煙を吐き出しながら、挑発的な笑みを浮かべる。
「そりゃあ誰だって死にたくはありませんよ。いくら神に仕える身とは言え、私だって命は惜しい」
「そうじゃない。お前、誰かに追い掛けられてるだろ。ソイツに殺されたくなくて逃げ出したい、助かりたいって顔してるぞ」
 何だ、この女。まるでコチラの心を見透かしたように。
 ヲレンは表情を変えないように気を付けながら、グランドピアノの中を覗き見る。そして弦の間に挟まっている、拳大の小さな紙箱を取り出した。
「そんな物が挟まっていたのか。どうりで……」
 ノアはピアノの上に置いた灰皿でタバコの灰を落としながら、安堵の表情を見せて呟く。
「それでは私はこれで。どうも失礼しました」
「お前といいユレフってガキといい分かり易いな。似たもの同士か?」
 紙箱を封筒の中に入れ、帰ろうとしたヲレンの背中にノアの声が突き刺さった。ユレフの名前を出されて、自分でも分かるくらい顔の筋肉が引きつる。ノアに背中を向けていなければ、無様なくらい動揺の色を見せていただろう。
「……仰ってる意味が分かりませんが」
 後ろを向いたまま、ヲレンは小さい声で言う。
「どっちも臆病者って事だよ」
 嘲るような声が聞こえた。
 臆病者? 自分はともかくユレフが? どういう事だ?
 気になりはしたが、ヲレンはそれ以上何も言わずにプレイルームから出る。彼女と話していると、自分の恥部を無理矢理露呈させられているような嫌な気分に陥る。
昔、ユレフにも自分の考えている事をかなり言い当てられていたが、ノアはそれ以上だ。まだ会ってろくに話をした事もない相手に、ここまで的確に内面を読まれるのは初めてだ。
 これもソウル・パペットとしての能力なのだろうか。
 たださえ暗い気分が、更に暗くなった。

 †五日目 【大広間 16:20】†
 あと五分。
 あと五分でヲレンは今、目の前で激しく燃えさかっている暖炉に飛び込まなければならない。
 今、自分の周りに人は誰も居ない。他の人の助けは期待できない。
 しかし大丈夫だ。すでに対処してある。
 昨日の夜は殆ど眠れなかった。朝から何も喉を通らない。
 最初あれだけ気になっていたアクディやユレフの事は頭の隅に追いやられ、予定表に書かれた事以外考えられなくなった。

 『五日目16:25■暖炉の中に飛び込む■』
 
 わざわざ目立つように黒い四角で両側を挟んで書かれている。明らかに他の予定とは異質な雰囲気だ。
 あと二分。
 体の中からは心臓の鼓動がうるさいくらいに響いている。自分の荒い息づかいがやけに鮮明に聞こえ、口の中は乾ききっているのに何度も唾を飲み込もうとする。
 指先の震えが止まらなくなってきた。目の焦点が朧気になり、足下がおぼつかなくなってくる。
 あと一分。
 もう自分が今どこで何をしているのかすら曖昧になって来た。現実と虚構の区別が無くなり始め、耳の奥で不愉快な金属音が鳴り響いている。吐き気がピークに近くなって来た。
 あと十秒。九、八、七……。
 何度も心の中で大丈夫だと繰り返す。
 四、三、二……。
 駄目だ。もう何も考えられない。
 一……。
 体が動き始めた。
 自分の意志とは関係なく、激しく燃えさかる暖炉の前まで歩き、ヲレンは身を屈める。そして躊躇う事なく炎の中に身を投げ出した。
「――!」
 悲鳴すら声にならない。
 肌にまとわりつく暖気。それはすぐに灼熱の如き業火へと変貌し……。
「……は」
 いや違う。『暖かい』事は確かだが『熱く』はない。
 自分の周りを見ると、いつの間にか消えないはずの暖炉の炎は見事に消えていた。
「……は、はは……はははっ」
 極限まで高まった緊張感が一気に弛緩し、ヲレンは暖炉の中で乾いた笑みを浮かべた。
「ははははは!」
 回避した。無事死を回避できた。
 予定表に書かれている訳ではないのに、笑いが止まらない。あまりの喜びに心が壊れてしまったかのようだ。
「……自分、ンなトコで何しとんのや? ヤバいクスリでもヤッとるんか?」
 暖炉の外から呆れた声を掛けられた。
 異国的な訛りのある口調。
「い、いや。これは、ベルグさん……」
 鼻の頭に乗せた丸いレンズの眼鏡を少しずらし、ベルグは見てはいけない物を見てしまったかのような表情をコチラに向けていた。
「ちょ、ちょっと暖炉の中に大事な指輪を落としてしまいまして。それを、探していたんですよ、はい。ははは……」
「ふーん。指輪、ねぇ……」
 不審気な視線を向けてくるベルグに、作り笑いを浮かべながら即席の言い訳をして、ヲレンは急いで暖炉から出る。
 予定表の内容を喋ってはいけないというルールが有ろうと無かろうと、詳しい事は言いたくない。
「まぁ、趣味は人それぞれやし。自分のやりたい事やったらええ思うけど……。ココ集まった奴ら、けったいなんばっかしやなー、ホンマ。まだローアが一番まともに見えるで」
 猫目を平和そうに細めながら、ベルグは呆れたような口調で言った。
「そ、それでは、私はコレで」
 ヲレンは暖炉の中で体にこびり付いたススや埃を払い落としながら、足早に大広間の出入り口に駆け寄る。
「ちょい待ちーな。この暖炉の火ぃどーすんねん。自分、この何ちゃらって宝玉の点火方法知らんの?」
 逃げるようにして去ろうとするヲレンの背中に、ベルグは不満そうな声をぶつけてきた。
「い、いや。多分、アーニーさんに聞けば分かるんじゃないでしょうか」
「無責任なやっちゃなー。ソレできたら苦労せんわ。あのメイドちゃん、メシ呼びに来る時以外殆ど見ぃひんねん。メンド業舐めとるで、絶対」
「ま、まぁ忙しいんじゃないですか? アクディの手伝いをしているのかも知れませんし」
 自分の言葉でヲレンはようやく冷静になり始める。
 必要がない限り部屋から出歩かないせいもあるだろうが、確かにアーニーに会う回数は少ない。ベルグの言うとおり、ヲレン自身も食事に呼びに来る時以外見ていない。
(アクディの側に居ると考えるのが自然、か……)
 誤魔化し笑いを浮かべる顔の裏で、二人の事を考える。
 死を無事回避できて、心に余裕が戻り始めていた。
 ヲレンはまだ何か言いたそうなベルグを振り切り、大広間から出た。そしてポケットから『死の予定表』を取り出す。

 『五日目16:25■火の消えた暖炉の中に飛び込む■』

 予定表にはそう書かれていた。
 ヲレンが使ったのはペンだけだ。ペンだけで『火の消えた』という一文を書き加えた。だからまだ、文章を消すための石は残っている。
 コレで恐らく、他の四人よりは半歩ほど優位に立てたはずだ。
(よし……)
 もう一度気合いを入れ直し、ヲレンはアクディの居る部屋を探して洋館内を歩き回り始めた。

 †六日目 【玄関ホール前 13:50】†
 二階から上はすべて探し終えた。
 あとは一階部分だけだ。だがもし、ここにもアクディが居ないとすれば……。
(いや、居る……)
 この洋館に居る事は間違いない。三日目に書庫の窓の外で見た懐かしい姿。実に一年ぶりの再開。
 不定期的にこの洋館に招集される時以外は、ヲレンもユレフもこの洋館に入る事を許されていない。外界に出て、世の中を勉強してこいというのがアクディの意向だ。
 だからアクディの世話役として、常に彼の側にいる事の出来るアーニーを、たまに羨ましく思う。しかしそれは言ってもしょうがない事だ。
 アクディの命令はヲレンにとってほぼ絶対。
 逆らって嫌われるくらいなら、多少の不満があっても素直に従う。
 憎悪と愛情は相反する物のように見えて、表裏一体。
 ユレフと比べられ、自分に惨めな思いをさせるアクディを嫌いつつも、彼に捨てられたくないという想いは強く根付いている。
「……ん」
 また体が勝手に動き出した。
 予定の時間だ。

 『六日目14:00□ポケットに手を入れて裏口から保管庫に入る□』

 相変わらず訳の分からない指示。
 本当に意味がある事なのかどうかすらも分からない。だが逆らう事は出来ない。それはこのゲームのルール。
(どうせすぐに終わる、さ……)
 これが終わったらゆっくり一階を調べよう。
 今はもう、このゲームをやる意味を聞くためではなく、ただ純粋にアクディに会いたい。会って話をしたい。そして出来れば聞きたい。
 僕は貴方に必要とされていますか、と。
 ヲレンはコートのポケットに手を入れ、玄関ドアから続くレッドカーペットの上を歩く。そして二階に導こうとする幅広の階段の横を通り抜け、壁に付き当たったところで左に折れた。
 そのまま壁に沿い、頭上にせり出した中二階部に位置する屋内テラスの下を歩いて、ドンドン細くなっていく通路を進んで行く。
 めったに使わない保管庫。その裏口に繋がる通路なだけあって、ここを通る者は殆ど居ない。床には何も敷かれて居らず、無機質な硬質タイルを剥き出しにしていた。
 数分後、硬いブーツの底を鳴らしながら、ヲレンは裏口にたどり着く。飾り気のない材質不明の扉は、ヲレンを自動感知して音もなく真横にスライドした。
 中には乱雑に詰め込まれた様々な日用品や長期保存用の食材。床には埃が積もり、何かの衝撃で落ちてしまったのか、割れた瓶が方々に散乱していた。
(このゲームが終わったら掃除でもする、か……)
 ふと、そんな事を思いながら、ヲレンは保管庫内に入ろうと更に一歩を踏み出す。
「――!」
 直後、突然視界が急下降した。
 足が浮き、体が大きく前のめりになって地面に吸い込まれていく。
 何かに足を取られ、激しく滑ったのだと思った時には手遅れだった。
 ヲレンの体が落下していく先。そこには狙いすましたかのように、割れた瓶の鋭利な断面が牙を剥いている。
 だがポケットに手を入れているため、それを回避する手段は持ち合わせていない。
「な……」
 掠れた声。喉に感じる熱い塊。
 一瞬、何が起こったのか理解できない。
 視界に映るのは、ついさっきまで遙か下にあった汚い床、瓶の破片、そして少しずつ広がっていく真紅の液体。
(何だ、これ……)
 全身から力が吸い取られるように抜けていく。
 睡魔にも似た脱力感。絶望を伴う虚無感。だんだん瞼が重くなり、視界が茫漠とした物になっていく。
 薄い空気を求めるように口を何度か開閉した後、ヲレンは声を発する事すら出来ずに、意識を暗転させた。

 † † †  

 薄暗い空間。
 窓もない狭い室内に、数匹の光輝蝶だけが舞っている。その中央にある浮遊車椅子に、体をスッポリと包み込む大きめのローブを着た男性が座っていた。
 髪の毛は完全に白くなり、顔には深い皺が刻まれている。頬は痩け、唇は油を失って萎縮し、腫れぼったい目は閉ざされていた。
「アクディ様」
 その男に後ろから女性の声が掛かる。
「アーニー……」
 男はその呼び掛けに、しゃがれた声で答えた。
「ヲレン=ラーザック様が死亡いたしました」
 機械のように淡々と報告するアーニー。
 しかし男は何も返さない。重苦しい沈黙が室内に訪れる。
「アクディ様」
 アーニーはもう一度男の名前を呼んだ。
「後は……お前に任せる……」
 彼は疲れた声で言い終えると、口を閉ざす。
「承知いたしました」
 アーニーは深く頭を下げ、闇に溶け込むようにして部屋を後にした。

 □■□■□■□

Chapter2§ローアネット=シルフィード§

 一日目12:05□玄関ホールの花瓶にいけられている花をしばらく観賞する□
 二日目11:21□冷蔵庫のお酢をカプセルに詰め、治療箱に入れる□
 三日目10:05□冷蔵庫に入っていたキノコを粉末化して戻す□
 四日目16:54□書庫にて、窓際の真ん中の席に座って一時間本を読み続ける□
 五日目19:05□保管庫で食事を摂る□
 六日目11:03■胸にナイフを突き刺す■
 七日目12:28□黒い扉の部屋に入る□
 八日目10:22□プレイルームで片手でピアノを弾く□
 九日目18:55□大浴場に服を着たまま入る□
 十日目09:45□四階で五分間自由に歩いた後、最も近い部屋に入る□

 †一日目 【キッチン 09:26】†
 始まってしまった。自分の命を賭けた『死のゲーム』が。
 すでに覚悟は出来ていたはずだった。だが実際に始まってみると、あっけなく揺らぎ始めた。我ながら滑稽に思えてくる。
 決意が鈍り、気を抜くと死の恐怖に押しつぶされそうになる。まだ午前中だというのに、お酒でも飲んでいないと不安でふさぎ込んでしまいそうだ。
「あらあら、結構色々揃ってるのねー」
 少しでも気を紛らせるために、わざと明るい声で独り言を言いながら、ローアネットは冷蔵庫の中身を物色する。
 思わず見上げてしまう程の高さもある冷蔵庫内には、凝った意匠の瓶が雑多に押し込められていた。ローアネットはその中から、底が扁平で上に螺旋状の管が取り付けられている瓶を取り出す。そして直接口を付けて一口胃に流し込んだ。度数の高いアルコールが熱を伴って体内に入り込み、すぐに心地よい酩酊をもたらしてくれる。
(頑張らないと……アタシが頑張らないと……)
 部屋に置いてきた『死の予定表』の内容を思い返しながら、ローアネットは自分に言い聞かせるように何度も胸中で呟いた。
 目を背けてはいけないと分かっていながらも、アレを肌身離さず持ち歩く気にはなれない。持っているだけで死と接している気がする。
 六日目の予定に書かれていた『胸にナイフを突き刺す』という内容。
 恐らくアレを書き換えれば取りあえずの死は免れるのだろう。だが、死のキッカケがこの予定表だけとは限らない。
 実はこの『死の予定表』はダミーで、全く関係のないところから死が迫ってくるかも知れないのだ。
(例えば……)
 今飲んでいるお酒が毒入りであるとか。
「――!」
 そこまで考えて、ローアネットは酒瓶から口を離した。急に気分が悪くなり、銀製のシンクに手を付いて飲んだ物を全て吐き出してしまう。
「く……」
 荒くなった呼吸を整えながら、ローアネットは大きく深呼吸をした。
 それはない。そんなはずはない。
 単純に招待客を殺したいだけならもっとストレートな方法があるはずだ。
 アクディは楽しんでいる。だからこの狂行を『ゲーム』と称した。きっとどこかで自分達が苦しみ悩んでいる姿を見て、ほくそ笑んでいるんだ。
 ソウル・パペットという人造人間を創りだし、怪しい研究に没頭しているような奴だ。そのくらいの事はしても何の不思議もない。
 だから簡単には殺さない。回りくどい方法でじわじわと嬲りながら殺す。
(けど、そんな奴が生み出した治療法に頼らないといけないなんてね)
 自分がこの洋館に来た理由を思い返し、ローアネットは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
 ローアネットにどうしても大金が必要だった。
 『コールド・エッジ』と呼ばれる致死性の病に冒された、たった一人肉親である弟を救うために。
 治療法はあるにはある。だが成功確率は非常に低い。しかもその治療法は現代魔術医療に沿った物ではなく、オカルト的な要素を多分に孕んでいる。
 言ってみれば、今アクディが行っているソウル・パペットの研究の前身とも言える内容だ。そして治療に必要な多額の費用と相まって、世間での浸透率は非常に低い。
 だが、それでもローアネットはそれにすがるしかなかった。
「ふん」
 小さく鼻を鳴らし、ローアネットは再びアルコールを喉に流し込む。
 もうさっきまでのような不愉快なモノはない。少し酔いが回ってきたせいか、大分腹が据わった。
(生き残ってやる……! 絶対に!)
 もう一度固く誓い、ローアネットが冷蔵庫の中から星形の果物を取り出した時、後ろに誰かの気配が生まれる。
 ローアネットはお酒の瓶を背中に隠し、慌てて振り返ると、二メートル近い大男がコチラを見下ろしていた。
 形の良い頭は綺麗なスキンヘッドで、着ているベージュのロングコートは、下から盛り上がった分厚い筋肉のせいで一段と大きく見える。しかしその厳つい体躯とは裏腹に、まるで小動物を思わせる優しい瞳と、子供のような柔らかい笑みを浮かべていた。
「あ、あら、ヲレンさん。変なトコ見られちゃったわね」
 ローアネットは髪を掻き上げながら、誤魔化し笑いをしてヲレン=ラーザックを見上げた。まさかこんな不細工なところを見られるとは思っていなかった。お酒のせいで少し顔が紅くなっているかも知れない。
「貴方も朝ごはん食べ足りなかったのかしら?」
 ローアネットは自分の事を言及される前に、ヲレンに話を振る。
「まぁ、そんなところですよ」
 ヲレンは少し眉を上げ、曖昧な答えを返しながら自分の前を通り過ぎた。そしてさっき自分がしたように冷蔵庫に手を当てて扉を消し、中を見始める。どうやら探し物をしているようだが、大きな背中が壁のように立ちふさがっているため、何をやっているかまでは見えない。
「ねぇ、ヲレンさん……。貴方はどうしてココに来たの?」
 どうしても聞いてみたい衝動に駆られ、ローアネットはヲレンがこの死のゲームに参加した理由を尋ねた。
「どういう、意味ですか?」
「貴方がココに来た理由。命を張ってまでお金が欲しいの?」
 最初の言い方では伝わらなかったらしいが、言い直したローアネットの言葉に、ヲレンは得心したような顔になってコチラに体を向けた。
「教会からの命令なんですよ。生を冒涜する狂医術師、アクディ=エレ=ドートを捕まえて大司教様の前に引きずり出さないといけないんです」
「貴方、教会の人? なんかイメージと違うわ。もっとヒョロっとした人達ばっかりだと思ってた」
 ローアネットは少し間の抜けたような声を上げて目を丸くした。
 教会は世界で唯一にして最大の宗教機関だ。生の美徳、死の安寧、魂の輪廻を説き、国家規模での支援を受けているところもある。そういう地域では政治への干渉力も強く、信者の数も多い。
 アクディの行っているソウル・パペットの研究は、まさに教会の教えに反する物。関係者が動き出したとしても不思議ではない。
「それは偏見というものですよ」
 ヲレンは肩をすくめて苦笑しながら言った。
「じゃあエライ人の命令で死ぬかも知れないゲームに参加させられてるの? 『生を冒涜する』とか言っといて自分は高みの見物って訳?」
「まぁ大司教様にはお世話になっていますからね。せめてもの恩返しですよ」
 事も無げに言うヲレンにローアネットは眉を顰めて、冷たい銀色の直方体をしたクッキングスペースに体を預ける。
(いくら恩返しだからって……)
 ヲレンにとっての大司教という人物は、自分にとっての弟のように大切な存在なのだろうか。
 ローアネットは片手に持った星形の果物を、歯先で小さく噛み切って口に入れながら、踵を床に打ち付けた。
「お役所仕事も大変ねぇ。アタシだったらそんな命令されたら絶対に辞めてるわ」
 弟の事を考えながら、ローアネットは溜息混じりに細く息を吐く。
「それじゃあ貴女はどうしてココに来たんですか?」
「アタシ?」
 急に自分の方に話をふられ、ローアネットは天井に目を向ける。そこには宝石で外側を覆われた照明が吊されていてた。
 昨日から色々と見て回っているが、この洋館にある物は全てが高級品だ。
 アクディがまだ天才医術師として名を馳せていた頃に築き上げた、莫大な資産に物を言わせているのだろう。
 アーニーの説明では、このゲームの勝者には大金が送られると言っていた。それも即金で。この洋館の内装を見れば、その言葉に偽りがない事がよく分かる。
 だからどうしても生き残らなければならない。弟のために。
「……アタシは、お金が欲しいのよ。どうしてもね」
「そう、ですか」
 無意識に低くなってしまった声のトーンに、ヲレンは少し驚いたように目を大きくした。
「ま、お互い頑張りましょ。あの予定表見た感じじゃこのゲームに勝つのって結構簡単っぽいからね」
 今度は意識して明るい声を出し、ローアネットは脳天気に笑いながら手を振る。
(簡単……そう、簡単な事よ。たった十日でしょ? 今まで生きてきた三十年に比べたら一瞬よ、一瞬。すぐに終わるわ。その間だけ、いつもよりちょっと気を付けてればいいのよ)
 ローアネットは自分にそう言い聞かせながら、キッチンを後にした。

 十二時になる少し前、アーニーが昼食の準備が出来たと言って部屋に来てくれた。
 だが今は要らないと断った。
 全く食欲がなかったからだ。
 部屋に持ち帰ったお酒を飲み過ぎたというのもある。だがそれ以上に、これから起こるであろう怪奇現象の事を考えると、何か別の事をしようという気にはなれなかった。
(き、た……)
 十二時五分。
 ベッドの上で膝を抱きかかえていたはずの腕が、自分の意思とは無関係に解かれる。左足が床に下ろされ、続いて右足も。そして体は自然な動きで扉の前まで歩いていく。
 右手が勝手に持ち上がり、ドアノブに手を掛けて扉を開けた。そのまま廊下に出て、ローアネットはレッドカーペットの上を進んでいく。
(気持ち、悪い……)
 まるで全身麻酔を打たれた後、見えない誰かに手足を動かされているような不快感に、ローアネットは頭痛と吐き気を覚えた。

『その契約が成立した瞬間から、予定表に書かれている事には絶対服従となり、皆様の意思とは関係なく内容通りの事を実行してしまうようになります』

 昨日アーニーから言われた事を思い出す。
 正直、半信半疑だった。
 誰かを操る類の黒魔術で『マリオネット』というのがある。しかしそれを行使するには術者がかなり近くにいなければならない。それも対象が眠っているか気絶しているか、あるいは死んでいるか。どちらにしろ抵抗意識のない者に限定される。
 だが、今ローアネットは抵抗していないわけでも、誰かが側に居るわけでもない。
 にもかかわらず、体は完全に自分の支配から離れて動いている。だが他人から見れば普通に歩いているとしか思わないだろう。それほどこの『契約』がもたらす束縛は、普段のローアネットの動きを忠実に再現していた。
 階段を下りて一階へ。そして玄関ホールのほぼ中央に置かれている、巨大な花瓶の前で足を止める。
 予定表通りの事を実行するのであれば、ローアネットはこの花瓶にいけられている花をしばらく観賞する事になる。少し前にこの場所を調べてみたが、死に結びつきそうな物は特に無かった。
 金の装飾が為された木製の台。その上に置かれているのは、円錐を逆さにしたフォルムのクリスタル製の花瓶。微小な一点で胴体を支えているにもかかわらず、傾く事も揺れる事もなく、八分くらいまで満たされた蒼色の水をたたえている。
 その花瓶には茎に直接花弁のついた花が何本もいけられており、時間と共に花の透明度を変えていた。
「おおー、ようやく二人目発見でござる!」
 花をじっと見ているローアネットの横手から、子供特有の高い声が飛んでくる。
「ココは無駄に広いからなかなか見つからないでござるよ。まったく」
 視界の隅に声の主を映し出すと、子供用のスーツに蝶ネクタイをしたブロンドの少年が立っていた。
 確かユレフという名前だったか。この『死のゲーム』への参加者の中で、間違いなく最年少の男の子だ。
「この花、そんなに珍しいでござるか?」
 ユレフは花とローアネットの顔を見比べながら、可愛らしく小首を傾げた。
「まぁ、ね……」
 花から目を離す事なく、ローアネットは曖昧に返す。
(声は出るみたいね……)
 自分の声を聞いて少し安堵しながら、ローアネットはゲームのルールを思い出した。
 予定表の内容を誰かに喋ってはならない。もし発覚した場合は失格となり、死がもたらされる。
(犬死にだけはごめんだわ……)
 体の動きが止まった事で、少しだけ精神的余裕が出始めた。それに『花を鑑賞する』という行為は止められないが、手足を動かす事は出来るようだ。
「この花は『ルナティック・ムーン』という亜熱帯地方に咲く花で、酸度の高い水を栄養源にするでござるよ。花びらの透明度は茎から抜き取った時点で固定化されて、透明であればあるほど価値が高いでござる。魔術の触媒や、薬草の材料、部屋のインテリアにも使われるでござるよ。花言葉は『人間らしい人間』。コレをプレゼントとして渡す時は、『仲直りがしたい』という意味が込められているでござる」
 淀みなく喋るユレフに、ローアネットは感心したように眉を上げて見せた。
「良く知ってるわね、ボーヤ。どこで習ったの?」
「本で読んだでござる」
 言いながらユレフは、小さな胸を自慢げに張る。
 天才少年、というやつなのだろうか。
 まぁこんな狂ったゲームに参加するくらいだ。常人ではないのだろう。それでも普段なら説得して、こんなゲーム止めさせているところだが、残念ながらそこまでの余裕はない。今は自分の事だけで精一杯だ。
 それに彼自身も覚悟が出来たからこそ、このゲームに参加しているのだろう。
「ところでローアネット殿。貴女に聞きたい事があるでござるよ」
「何かしら」
「アクディ様をどう思うでござるか?」
 あまりに唐突な質問に、ローアネットは眉間に皺を寄せた。
「この洋館の主、よね……。まだ出て来ないみたいだけど。彼がどうかしたの?」
「質問しているのは小生の方でござる」
 ローアネットの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ユレフは早口で言い放つ。
 表情は全く変わっていない。花の説明をしていた時と同じように、無邪気な笑みを浮かべている。
 しかし――明らかに雰囲気が違っていた。
 反論を許さない圧迫感。猛獣に睨まれたかのような重圧感。
 嘘を言ってもすぐに見破られる。なぜかローアネットにはそう思えた。
「アクディ、ね……。そうね……あまり良い印象はないわ。招待して貰ってるのに何だけど」
 幸か不幸か、自分は今この『ルナティック・ムーン』という花から目を離す事が出来ない。だからユレフと目を合わせる事も出来ない。
 もし目を見て話しをしていたら、もっと別の事を口走っていたかも知れない。
「どうしてでござるか」
「世間一般で思われてるのと同じ事を思ってる、って言ったら分かるかしら?」
「分かるでござる」
 短く言ってユレフは言葉を区切った。
「ローアネット殿はこのゲームに勝ちたいでござるか?」
「そりゃあ、ね……。まだやり残した事が沢山あるわ」
「小生も勝ちたいでござる」
 そしてまた、ユレフは言葉を切る。
 しばらく沈黙が続いた後、ユレフはローアネットの前に回りこんで口を開いた。
「もし小生がここでローアネット殿を殺せば、競争相手が一人減るでござる」
 冷たい光を双眸に宿し、ユレフは酷薄に言う。
「それ、本気で言ってるの……?」
「勿論でござる」
 まるで絶対的な後ろ盾に護られているかのような、自信に満ち満ちた口調。
 本気だ。根拠は無いが間違いないと言い切れる。
 子供のような外見をしてるが中身は悪魔だ。アクディの信者なだけあって、この少年も狂っている。
「もしそんな事したら、アタシは絶対にボーヤを道連れにしてやるわ。どんな事をしてもね」
 しかしローアネットは臆する事なく、強く言いきった。
 自分はこんな所で死ぬわけにはいかない。弟の病気を治すという使命がある。そのためには何としても生き残り、治療費を手に入れて戻らなければならない。
 ――絶対に。
「冗談でござるよ。いくら何でもそんな不細工な事はしないでござる」
 ユレフはローアネットの横手に回ると、声に笑いを混ぜながら言った。
「ではではー。また会おうでござるー」
 そして軽い足音を立てながら、玄関ホールから姿を消す。
「……っく」
 上に向けていた首を下ろし、ローアネットは苦しそうに息を吐いた。
 予定表の拘束力はすでに無くなっていた。だが、下を向く事は出来なかった。ユレフと目を合わせる事は出来なかった。
 彼の目を見た瞬間、弱い自分をさらけ出してしまいそうで。
 一気に弛緩した空気の中、ローアネットは深く息を吸い込んで呼吸を整える。まるで限界を遙かに超えて水の中に潜っていた気分だ。冷たい汗が思い出したかのように噴き出してくる。
(アタシの方は、もう二度と会いたくないわね……)
 胸中で苦々しく呟きながら、ローアネットは花瓶の前を離れた。

 †二日目 【キッチン 11:25】†
 昨日はあれから何事もなく終わった。
 夕食まで自室に閉じこもり、誰にも会わずにヒーリングライトを浴びていた。しかし、ユレフから植え付けられた得体の知れない恐怖が癒える事はなかった。
 体力を落とさないために夕食はちゃんと摂った。それも大広間で。あのまま引き籠もっていたら気が触れてしまいそうだったから。
 そこで再会したユレフは驚くほど子供っぽかった。食事の邪魔をされていちいちリアクションするベルグをからかいながら、楽しそうに笑っていた。数時間前に見せたあの冷たい雰囲気は微塵も感じなかった。
 ノアとヲレンは来ていなかった。二人とも自室での食事を希望したと、アーニーに言われた。
 一夜明け、目覚めと共に自室で熱いシャワーを浴び、少し読書をした後ローアネットは予定表に従ってキッチンに来ていた。勝手に動いてしまう体も、さすがに二回目となると少しは違和感も和らいだ。下見をしてある事もあって、少しは心に余裕が持てる。
(あと九日……)
 これほど一日が長かったのは久しぶりだ。
 お金を稼ぐため、今の仕事に就いた最初の日に匹敵する長さだった。
(あと九日で……)
 胸中で同じ言葉を繰り返しながら、ローアネットは予定表の内容に従って、冷蔵庫から『お酢』と書かれた瓶を取り出す。そして真後ろにある、五段に重ねられた白銀製の引き出しの一番下を開けた。
 中にはいくつものアンプルに包帯、注射器などが揃えられていた。そして奥の方に片手で持てるくらいの小箱が置かれている。箱に触れると真ん中から二つに分かれ、中から無数の小棚が立体的にせり出してきた。
(何も起こりませんように……)
 下見と言っても完全に出来るわけではない。予定表にはカプセルの場所は具体的に書かれていなかった。だから、こんな場所にあるなど知りもしなかった。
 もしかしたらココに死の瞬間が潜んでいるかも知れない。
 ローアネットは気を緩めれば呑み込まれそうになる恐怖と戦いながら、小棚の一つから無色透明のカプセルを取り出した。ソレを二つに割って中の粉末を捨て、さっき冷蔵庫から持って来た『お酢』を代わりに注ぐ。カプセルは液体に触れても溶ける事なく、まるで吸い付くようにして元の形へと再生した。
 ソレを治療箱に戻し、引き出しの奥にしまい終えたところでローアネットは体の自由を取り戻した。
「っはぁ……」
 安堵とも落胆ともつかない溜息をローアネットは漏らす。
 何も起こらなかった。無事、予定をこなす事が出来た。
 今やった事にどんな意味があるのかは分からない。しかしそんな事はどうでもいい。単なるゲームの一環に過ぎないと笑い飛ばして、気にしなければそれでいい。
 気にしなければ……。
 ――だが、なかなか簡単に割り切れる物ではない。
 気にしないでおこうと思えば思うほど、この予定への意味を求める気持ちは強くなる。アクディへの猜疑心と共に。
(戻ろう……)
 部屋に戻ってヒーリングライトでも浴びながら本を読もう。別の事をしていれば少しは気が紛れる。
 そう思って立ち上がり、ローアネットはキッチンから大広間に続く扉をくぐった。
「お、なんや。先客がおったんかい」
 俯きながら歩いていたローアネットに、異国訛りのある特徴的な声が掛けられる。
「ベルグ、さん……」
 顔を上げると、縦長のテーブルに腰掛けてくつろぐ猫目の男、ベルグ=シードがコチラを見ていた。
「なんや。自分も昼飯待ちきれんよーになったんか?」
 ケラケラと陽気に笑いながら、ベルグはリラックスしきった表情で言ってくる。
 壁に掛けられた木製の大きな振り子時計を見ると、もうすぐ十二時になろうかというところだった。
「ここのメシは美味いからなー。あーもー、思い出しただけでよだれ出てくるわ。そない思わへんか?」
 座っている椅子を前後逆にし、背もたれに体重を預けてベルグは人なつっこい笑みを浮かべる。
「ま、まぁ、確かにね。美味しいわ」
 正直、味など全く覚えていなかったが、ローアネットは平静を取り繕い、崩れかけている内面を晒さないように気丈に返した。
「はよけーへんかなー、あのメイドちゃん。さっきから腹の虫が『メシくれメシくれ』てうるさいんやけど」
 鼻の頭に乗せた眼鏡の位置を直しながら、ベルグは足を落ちつきなく揺すってアーニーが来るのを待ち遠しそうにしている。
(変な人ね)
 ローアネットは小さく笑いながら、ベルグの隣りに腰掛けた。
 いつの間にか肩に入っていた力が抜けている。全身にのし掛かっていた不愉快な重圧感も消えていた。
「おー、間近で見るとやっぱ色っぽいなー、ネーチャン。メイドちゃんみたいな影のある女もええけど、自分みたいにお色気ムンムンの女の方が俺の好みやわ」
「ローアネットよ。ローアネット=シルフィード」
 ウェイブ掛かった薄紅色の髪の毛を妖艶な仕草で梳きながら、ローアネットは微笑する。
 今までローアネットが相手にしてきた男が言えば下品で愚劣な言葉も、ベルグが言うとなぜか爽やかに聞こえる。この洋館自体が放つ重苦しい空気も、ベルグの周りだけには漂っていないように見えた。
「名前も色っぽいなー。ローアって呼んでええか? 俺の事もベルグでええから」
「いいわ、ベルグ」
「おおー、そーやって名前呼んで貰うと、ズキューン! ってくんなー。ええ感じや」
 不思議だった。
 ベルグの明るい声を聞いていると、本当に体が軽くなった気かする。なんだかさっきまで真剣に悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
 そして本当に不思議だった。どうしてこんな人がココにいるのか。
「ベルグ、貴方はどうしてココに来たの? お金?」
 ベルグはヲレンのように誰かからの命令を聞くようにも、ユレフのように狂っているようにも、ノアのように暗い過去を持っているようにも見えない。
 ならばどうしてこの『死のゲーム』に参加したのだろう。まさか遊び金を手っ取り早く稼ぐため、とでも言うつもりなのだろうか。
「俺か? 俺はな、もういつ死んでもおかしないねん。せやから最後におもろい事しよかー思ーてココ来たんや。どや、カッコエエやろ」
 目に掛かった藍色の髪の毛をキザっぽく掻き上げながら、ベルグは自慢げに言った。
「いつ死んでも……? どういう事?」
 意味が分からずにローアネットは聞き返す。
 暗殺者に狙われていて、ココに隠れ家を求めて来たとでも言うつもりだろうか。
「コールド・エッジって病気あるやろ。なんか魂抜けて行くとか言う、訳の分からん病気や。俺な、それやねん。三年前くらいに背中に痣あんの見つけてな、一応医者行ったんやけど、治すのにどえらい金額ふっかけられるわ、胡散臭い治療法説明されるわで、何かメンドなってな。別に死んでもええわ思ーてほっといたんやけど、なかなか死なんからココ来たんや。どや、いさぎええやろ」
 底抜けに明るく話し終えて、ベルグはケラケラと笑った。
(コールド・エッジ……)
 その言葉でローアネットの胸が、焼けた杭を打ち込まれたような灼熱を伴う苦痛に押しつぶされる。
 コールド・エッジ――それは無痛性の死の病。潜伏期間は不明であるが、約二年と言われている。この病気に掛かると背中に青白いひし形の痣生まれ、発症すると例外なく死亡。痛みを感じる事なく、全身が麻痺するようにして死んでいく。
 この病気が発見されてから二十年以上も経っているというのに、現代魔術医療ではその原因は未だ特定できておらず、一部のオカルト集団で仮説が唱えられているのみ。
 その仮説とは、体から魂が抜けていくというもの。
 そしてコールド・エッジを治療する方法はただ一つ。
 アクディの開発した『人工ソウル』と呼ばれる物を、発症する前に体に埋め込み、魂の抜け穴である青白いひし形の痣に蓋をしてしまうという方法。
 だが方法自体が非医学的で、その手法を適応するのに掛かる費用は法外な額となる。
 だからコールド・エッジに掛かってしまった患者は、ベルグのように最初から諦めてしまう者も少なくない。
 しかし――
「それしては……やけに明るいのね」
 ベルグほど明るい患者も珍しい。
 アクディのオカルト的な解釈を適応するなら、コールド・エッジに掛かった者は発症前であっても少しずつ魂が抜けていく。だから、だんだんと無気力になっていく。
(アタシの弟みたいに……)
 ローアネットの弟は、コールド・エッジに掛かってもうすぐ二年だ。病気の進行度合いとしては殆ど末期。だからコチラが何を話しかけても上の空で、目の焦点もあっていない。最近では実の姉であるローアネットの存在自体、認識していないのではないかと思える時もある。
 しかしベルグはすでに三年経っていると言っていた。
 なのにどうして……。
「ま、俺にも色々事情っちゅーもんがあるからな。こんなモンは気の持ちようや」
「……羨ましいわ」
 自然と、その言葉が口をついて出た。
 弟もベルグのように明るく暮らす事が出来れば。開き直って日常を過ごす事が出来れば。そして自分もベルグのようにこの洋館で笑う事が出来れば、どれだけ気が楽だろう。
(アタシには無理、かな……)
 笑う事は出来る。だがソレは本当の笑顔ではない。
 強がる事は出来る。だがソレは本当の強さではない。
 ただ今の状況に押しつぶされないように、ひたすら自分を偽って、なけなしの勇気を絞っているだけ。
 この洋館での生活については勿論の事、弟の病気の治療費を稼ぐ為に躰を売る商売をしなければならない事についても。
「なんやなんや、そんな暗い顔しなや。せっかくの美人が台無――」
「ベルグ=シード様、ローアネット=シルフィード様。昼食の準備が整いました」
 いつの間に来ていたのか、アーニーがベルグの言葉を遮って後ろから声を掛けた。
 振り返り見ると湯気の立つ沢山の料理が、銀の台車に乗せられて運ばれて来ている。
 エッセルキノコの塩菜炒め。海若葉のロートスガーリック・ソテー。鮫喰い鳥の丸焼き。チェルソーフラワーのオニオンミックス・スープ。
 どれも高級食材をふんだんに使った料理ばかりだ。香ばしい匂いが湯気に乗って鼻腔をくすぐる。 
「おおー! 待ってましたメイドちゃーん! 俺もう腹ぺこやー!」
 ベルグは文字通り椅子から飛び上がると、目の色を変えてアーニーに飛びついた。
「どうぞ先に召し上がってらして下さい。私は他の方をお呼びして参りますので」
 アーニーはベルグの突進を軽くかわすと、料理の皿を淡々と並べながらローアネットに言う。
「……あ、ありがとう」
 床に敷かれたレッドカーペットと熱烈なキスを交わすベルグに視線を落としながら、ローアネットは溜息混じりにナイフとフォークを手に取った。

 †三日目 【一階廊下 10:30】†
 予定表の内容に従って冷蔵庫に入っていたキノコを粉末化した後、ローアネットはベルグを探して洋館内を歩き回っていた。
 キノコは乾燥しきって固くなっており、手で押し潰すだけで簡単に粉になった。アーニーが料理にでも使うために仕入れて来たのだろうか。赤地に黒い斑点という、かなり気持ち悪い色をしていた。
 しかしあれ程目立つ物があればすぐに気付く。確か昨日までは無かったはずだが。
(ま、出されたとしても、あんまり食べたくないわね……)
 もっとも、自分が粉末にしてしまったため、料理の中に混ぜられていたとしても分からないのだが。
「あ……」
 中庭に目を向けた時、ベルグが木陰で休んでいるのが見えた。何をするでもなくただ視線を宙に投げだし、眠そうにあくびをしている。
 ローアネットは一階廊下の突き当たりまで歩き、裏口を開けて中庭に出た。そして横手からベルグに近寄り話し掛ける。
「探したわ、ベルグ。ちょっとお話、いいかしら?」
「へ?」
 ローアネットの声に、ベルグは首だけを動かしてコチラを向いた。
「昨日のお昼にした話しの続き、してもいい?」
「昨日の昼っちゅーたら……ぁあ、コールド・エッジの事か?」
「そうよ」
 ローアネットはベルグの隣りに腰を下ろし、太い木の幹に背中を預ける。
 昨日の昼食時、ベルグと二人だけならその時に聞こうと思っていた。しかしすぐにユレフが大広間にやって来た。子供の前でする話ではないし、なにより彼には聞かれたくない。
 ユレフがあまり好きではないという事もあるが、ベルグと二人きりの時にゆっくり話したかった。
 昼食後もベルグはすぐにどこかへ行ってしまい、夕食にも姿を見せなかった。だから今日の今まで彼を捕まえる事が出来なかった。
「言いたくなかったら遠慮なくそう言って。ひょっとしたら貴方を傷付ける事になるかも知れないから。別に無理に聞き出そうなんて思ってないわ」
「なんやなんや、エライもったいぶった言い方やな。別に何でも話したるでー。どーせもーすぐ死ぬしな」
 明るく笑いながらベルグは言う。とても死を間近に控えた人間の言葉とは思えない。
「それはコールド・エッジで? それともこのゲームで?」
「どっちでもええ。ま、出来たら痛ない方がええけどな」
 相変わらずベルグに悲壮感は見えない。『死ぬ』という事を、まるで買い物にでも行く事のように日常的な物として受け入れている。
「……ねぇ、どうしてそんなに笑っていられるの?」
 ローアネットにはそこが理解出来なかった。
 死ぬ事が分かっているから今を精一杯楽しんで明るく生きたい。それは辛うじて理解できる。しかしベルグはコールド・エッジに冒されている。魂が抜けていけば、生きる気力も失われていく。自分の弟のように。
 にもかかわらず、どうしてこんなにも笑っていられるのか。そこが理解できない。
「笑ってな失礼やからな」
 零れるように口から出たベルグの言葉。
「失、礼……?」
 意味が分からずローアネットは聞き返した。 
「俺なー、昔ごっつ美人の婚約者がおったんや。キザったらしい言葉でゆーたら、『野に咲く可憐な一輪の花』って感じやった。ホンマ……俺なんかには勿体ない、ええ女やった」
 猫目を薄く開き、ベルグは左手の人差し指にはめた指輪を見せながら続ける。恐らく婚約指輪なのだろう。
「けどな、死んでもーたんや。俺と同じコールド・エッジでな。それが四年くらい前や。潜伏期間は二年言われとったけど、アイツの場合はたった一ヶ月やった。治療費何とかする暇もなかったわ」
 心地よい風に乗って耳に届く、サウンド・フラワーからの小さな音色。普段なら涼やかで綺麗な歌声も、今はどこか悲しげに聞こえる。
「けどな、アイツは絶対に悲しそうな顔はせーへんかった。周りに心配かけんよーに、いっつもニコニコしとったんや。多分、辛かった思うで。相当無理しとるんが見え見えやった」
 分かる。胸が痛い程に。
 自分の弟もコールド・エッジに掛かったとたん、どんどん元気が無くなって行った。ベルグの婚約者はその辛さに耐えるだけではなく、さらに明るく振る舞っていた。精神的な負担は計り知れない。
「アイツが死んで殆どすぐやなー。俺もコールド・エッジに掛かったんは。正直嬉しかったなー、あん時は」
「嬉、しい?」
 信じられない言葉に、ローアネットは声を高くした。
「そうや。これでアイツのトコ行ける思ーたら嬉しかったわ。しかも同じ病気でな。ま、周りに言われて医者には行ったけど、別に治そーとも思わんかった。アイツが受けとった苦しみ、俺もたっぷり味ってあの世に行けるんや。これ程めでたい事はないやろ。せやから俺は暗い顔なんかせーへんねん。絶対にな。俺だけ苦しい時に苦しい顔してたらアイツに失礼やろ? あんなに頑張っとったアイツに」
 ローアネットはすぐに掛けるべき言葉が見つからなかった。
 まさか脳天気な顔の裏側で、そんな深い事を考えていたなんて思いもしなかった。
 ベルグは強い。自分などとは比べ物にならないくらいに。
 婚約者と同じ苦しみを味わうために笑い続ける。日に日に無気力になっていく自分を奮い立たせ、明るい顔のまま死を迎えようとしている。
「けどま、すぐ逝ける思ーとったけど、これがなかなか上手い事行かんもんでなー。三年経ってんのにまだ死なん。さすがの俺も最近ちょっとしんどなって来てなー。せめて笑ってるウチに死にたいからココ来たんや。最後の最後におもろい事体験して、みやげ話作っとこか思ーてな」
 言い終えてベルグはまたケラケラと陽気に笑った。こうしている間も、ベルグは自分と戦い続けているのだろう。コールド・エッジに呑み込まれないように。
「話はこれでしまいや。どや、満足したか?」
「……ええ。どうも有り難う」
 今のローアネットには消え去りそうなほどの掠れた声で、そう言うしかなかった。
「そら良かった。ほんならコッチこそ出来ればーでええんやけどな。ローアがなんでココ来たんか教えてもろーてええか? 昨日、エライ思い詰めた顔しとったから、ちょっと気になっとったんや」
「アタシ、は……」
 話さなくてはならないだろう。相手の事だけ聞いて自分は何も喋らないというのは、さすがに気が引ける。
「弟が居てね……。貴方と同じ病気なの」
 ローアネットは呟くような口調で喋り始めた。
 幼い頃に両親を亡くし、唯一の肉親となってしまった弟がコールド・エッジに掛かっている事。すでに二年が経っている事。そしてその治療費を稼ぐため、自分の躰を売る商売をしている事。
「だからね……アタシは絶対にこのゲームで生き残って、弟を治せるだけのお金が欲しいの」
 ローアネットが全てを話し終えた直後、ベルグは突然体をコチラに向け、額を地面にこすりつけて頭を下げた。
「スマン! 我ながら無神経な事聞いてしもーた! 悪気があったわけやないねん! 俺アホやから細かいトコまで気ぃ回らんねん! 勘弁してくれ!」
 そして土下座の体勢のまま、ベルグは一方的に謝罪の言葉を述べる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。別にそんな……。元はと言えばアタシの方から聞いたんだし、貴方が謝る事なんてないわ」
 突然の事にローアネットは戸惑いながら、ベルグに顔を上げるように言った。
「いいや! 俺が悪かった! こういう事はキッチリケジメ付けとかなあかん! 逃げも隠れも開き直りもせえへんから、煮るなり焼くなり揚げるなり好きなようにしてくれ!」
 しかしベルグは頭を下げたままソレに応じない。
(まったく……ホントに変な人ね)
 微笑混じりの溜息をつきながら、ローアネットはベルグの頭に手を乗せる。
「はいはい。それじゃもう気にしてないからこの頭を上げて。そうしたら許してあげる」
「へ? そんな事でええんか? 例えば予定表書き換えるペンと石よこせとかでもええんやで? どーせ俺はいらんし」
 間の抜けた声で言いながら、ベルグはようやく顔を上げた。
「いいわよ、そんなの。ソレはちゃんと貴方が使いなさい。それでこのゲームに勝って長生きして、もっと沢山みやげ話を作りなさいよ」
「けど、なぁ……」
 言い淀むベルグに、ローアネットは少し怒った顔になる。
「簡単に死ぬなんて言わないの。貴方が辛いのは、分かってるけど……」
 生きて欲しい。きっとベルグの婚約者も、彼が死ぬ事など望んではいないはずだ。最後まで生き残ってお金を貰って、弟と一緒にコールド・エッジの治療を受けて欲しい。
「まぁ、気が向いたらな」
「アタシが向かせてあげるわ」
 彼のように素敵な人には、死んで欲しくない。
「貴方が三年経っても生きていられるのは、貴方の婚約者さんが命を分け与えてくれてるからかも知れないわね。自分の分まで強く生きてっていうメッセージなんじゃない?」
「……かもな」
 ベルグは少し戸惑ったような顔つきで、照れくさそうに後ろ頭を掻いた。

 †四日目 【書庫 09:25】†
 ベルグと楽しくお喋りをしながら朝食を食べたかったが、彼は今日も出てこなかった。朝に弱いのだろうか。そう言えば朝食時には一度も姿を見ていない。
 ローアネットと静かに食事を済ませたユレフも、ベルグが居ないと張り合いがないのか、少し元気が無いようにも見えた。
 朝食の後、ローアネットは書庫に向かった。予定表に『書庫にて、窓際の真ん中の席に座って一時間本を読み続ける』と書かれていたからだ。
 本の種類は特に指定されていなかったが、ローアネットは迷う事なく医術書を選んだ。そして病名の頭文字で五十音順に大別された中から、『こ』で始まる病気について纏められた本を取り出す。
 勿論、コールド・エッジについて調べるためだ。
 二年前、弟がこの病気の掛かってからというもの、何度も王都図書館に足を運んで調べ上げた。そして暗記してしまうくらいに症状と治療法を読み返した。色々な本に様々な言葉で書かれていたが、本質的な部分は何も変わらない。
 だが、ココにある本ならばあるいは……。
 ローアネットは本を持ち、丸いクリアガラス製の窓の側にある読書机に座った。そして僅かな期待を込めて本を開く。

『コールド・エッジ。
 発病から約二年の潜伏期間を経て発症する先天性の病気。無痛ではあるが精神的な鬱状態となり、発症すると確実に死に至る。発病理由不明。発病により背中に青白いひし形の痣が確認される。粘膜感染、母子感染、空気感染でうつる事は無い。
 本病気のメカニズムは未だに不明であるが、精神の急激な老化によるショック死であるとの見方が強い。

 BN五〇四年にアクディ=エレ=ドートが治療法を確立。『人工ソウル』と呼ばれる霊的物質を用いて、本病気の治療に成功。しかし成功率は約五%と非常に低い。また治療法も現代魔術医療では解釈できず、オカルト的な要素を多分に孕んでいるため、医学界では問題視されている』
 
「…………」
 ローアネットは落胆と共に本を閉じた。
 内容は今まで見てきた物と変わらなかった。
 コールド・エッジの治療法を生み出したアクディ。彼の洋館にある膨大な蔵書量を誇る書庫。そこにある医術書ならば、もかして世間で言われているのとは全く違う治療法が書き記されているのではないかと思っていたのだが……。
 コールド・エッジの治療法は確かに、一般に普及している現代魔術医療とは大きくかけ離れている。
 現代魔術医療は新陳代謝を激的に高めたり、ウィルスを物理的に排除したり、麻酔無しでも痛みのない手術をしたりする事を可能とする。それらは全て科学的な解釈が成立し、おとぎ話の中の魔法のように、死者を蘇らせたり、無から有を生み出したりする事は出来ない。
 だからアクディの開発した治療法は世間的に異端視されている。
 しかしいくらオカルト的だと言われていようと、ローアネットにはそれにすがるしか道がない。治療を受けた後、周りから冷たい目を向けられようと構わない。たった一人の肉親を失うくらいならば。
(あら……)
 あと五十分程どうやって時間を潰そうかと頭を上げた時、向かいにある読書机に分厚い背表紙の本が置かれているのが目に入った。綺麗に製本されている他の物とは違い、角がボロボロになっている。
 タイトルなどは書かれておらず、無地の黒い表面が不気味に晒されていた。
 ローアネットは席を立ち、その本を取り上げた。そして一ページ目を捲ってみる。

『錬生術とはコールド・エッジの症状を逆転させた、魂からの創生である』

 一瞬、体が感電したような痺れを覚えた。
 ローアネットは震える手でページを捲っていく。そこには錬生術について、事細かに記されていた。
(これってアクディの……)
 間違いない。研究日誌だ。
 錬生術の仕組みや、ソレを使った実験の研究データが几帳面な字で書き連ねられている。

『コールド・エッジは発病すると背中にソウルの抜け道が出来る。形状の小さい精神系のソウルはそこから徐々に漏れて行き、心的疾患をもたらす。そして発症と共にソウルの抜け道は全開となり、形状の大きい身体系のソウルが大量に漏出する事によって肉体は死に至る』

(ソウル……ソウルって?)
 ローアネットは椅子に座る事も忘れ、『ソウル』という言葉の説明が書かれているページを探した。

『ソウルとは神経、感覚など肉体という表面上の機能を維持するために必要な霊的物質である。例えば喜びの感情を司るソウルが抜けると悲観的になり、味覚を司るソウルが抜けると味を感じなくなる。運動を司るソウルがなくなると動けなくなり、内臓の筋肉の動きも止まってしまうため死亡する。これがコールド・エッジが発症した時の症状である。
 ソウルは大きく精神系と身体系に分けられ、前者は小さく後者は大きい。おそらく肉体の機能を維持するための重要度合いで大きさが決まっているのだと思われる』

(内臓を動かすためのソウルが無くなるから死ぬ……? これがコールド・エッジが発症した時の症状?)
 予定表に書かれている訳でもないのに、ローアネットの指は勝手に動いて研究日誌を捲り続ける。

『今日もコールド・エッジの治療ため、二人の患者が来た。だが私にはどうする事も出来ない。カウセリングをして、心の病を和らげてやる事くらいしか。根本的な治療法が見つからない。医術師に就いてから、これ程の無力感を味わった事は無い』

 本の後ろ半分はアクディの日記になっているようだった。医術師としてコールド・エッジの治療にあたっている時の苦悩が書きつづられている。

『コールド・エッジに掛かった患者が目の前で死んだ。これで十人目だ。なのに症状が全く分からない。体はどこも悪くないのに突然死んでいく。まるで魂でも抜けて行くかのように』

『私は考えを変える事にした。コールド・エッジは現代魔術医療に則った常識的な考えでは解決できない。物の見方を四次元的にし、直感を信じるしかない』

『非常識であるが、私は何の根拠もない一つの仮説を立てた。人の肉体は目に見える物だけで支えられているのではない。その更に奥に別の要素が絡んでいる。私はそれを『ソウル』と仮称した。コールド・エッジはこのソウルが抜けていく病である物として、治療法を模索していく』

『オカルトの分野でよく用いられいる、悪魔召喚のための道具。召喚された悪魔を捕縛するという筒状のリアクターを使って、私はソウルのトラップを試みた。コールド・エッジに掛かった患者の体に、あらゆる角度からリアクターをかざしてみた。患者からは奇異の視線を投げかけられた。トラップは成功しなかった』

『オカルトに関する知識をかなり身に付けた。どうやら道具だけでは駄目のようだ。魔法陣や呪文も必要になる。周りから、私の事をおかしくなったと言う連中が出始めた』

『ついにソウルのトラップに成功した。私の仮説は間違っていなかった。リアクターの中には霧のような物が溜まっていた。後はコレを元の体に戻す事が出来れば……』

(ホント、天才と何とやらは紙一重ってヤツね……)
 医術師とは思えないあまりに異常な行動の数々に、ローアネットは眉間に皺を寄せてページを捲る。
 それからソウルを体に定着させる研究が進む。一応の成功は見せるが、コールド・エッジの症状を緩和できても完治する事までは出来なかった。どうやらすでに出て行ってしまったソウルを、何らかの形で補完する必要があるらしい。
 そしてアクディは人工ソウルの研究に没頭し、医術に更なるオカルトを取り入れていく。
 三年の歳月を掛け、アクディはソウルを構成している要素の特定に成功。それらを含む物質を集めた。
 不死鳥の角、双頭龍の鱗、牙ヤシの果肉、黄金虫の羽、アエレウス・ピラニーの目玉。
 どれも一つで家が一軒建てられる程、高価な物ばかりだ。
 これまで天才医術師として名を馳せてきたアクディ。知らず知らず築き上げて来た莫大な財産に物を言わせて、彼は『人工ソウル』を生み出す事に成功した。
 そして――

『ついにコールド・エッジを完治する事が出来た! 『人工ソウル』を使って失われたソウルを補完すると共に、ソウルの抜け道を塞ぐ事が出来た! これで彼女はもう普通の生活を送る事が出来る! 記念すべきと言っては不謹慎だが、最初の患者はまだ年端もいかない少女だった。名前はノア=リースリーフ。彼女の名前は一生忘れないだろう』

(ノア……)
 知っている名前だ。自分と同じく、この『死のゲーム』への参加者。退廃的な雰囲気を纏う若い女性。
(同姓同名?)
 分からない。それ程珍しい名前というわけではない。単なる偶然かも知れない。
 いつか本人に聞いてみなければ。コールド・エッジに関する情報は多いに越した事はない。

『コールド・エッジの治療法を確立したというのに、世間からの風当たりは強い。どうやら私が研究に没頭している間に、狂医術師としてのレッテルを貼られてしまったらしい。自分達がコレまで考えの拠り所にしていた現代魔術医療の理論で解釈出来ない物は全て拒絶する。今の医学界は頭の固い愚かな連中ばかりだ。私に賛同してくれる者は、ほんの一握りだけだった』

 それから、アクディの嘆きが続く。
 治療の成功率がどうしても上げられない事。『人工ソウル』を生み出すための材料費が非常に高く、治療費が思うように下げられない事。そして、アクディの体に死期が近づきつつある事。

『私は医術師だ。自分の体の事は誰よりも熟知している。後十年、持つか持たないと言ったところだろう。だから私は残したい。自分が存在した事の証を。たった十年足らずでやり遂げられるかどうか分からないが、何としても完成させたい。錬生術を』

 アクディは生まれつき体が弱く、生殖機能に異常があった。
 彼は子供を作る事が出来ない体だった。しかし自分の子孫を残したい。養子や人工授精などではなく、“自分の手で”子供を創りたい。
 生きて来た軌跡を残すために。
 そこでアクディはソウルに目を付けた。
 体からソウルが抜ける事で死に至るのならば、逆にソウルを集める事で生を為す事も出来るはず。
 そう考え、錬生術の研究を立ち上げた。
 アクディは医学界を去り、自分の為の研究に集中するために人里離れた場所に洋館を建てた。そしてソウル・パペットと呼ばれる人工生命体を生み出していった。

『私の理論は間違っていなかった。『人工ソウル』を用いてソウル・パペットを生み出す事に成功した。素晴らしい事に、ソウルという霊的物質をある程度安定させれば、ソレを受け入れる肉体は自然に構成されるようだ。やはり生命の根元はソウルだ。肉体などソレに付随する入れ物に過ぎない。最初のソウル・パペットを仮に“タイプA”と命名。後でちゃんとした名前を考えよう。しかし一応人の形は為したが、まだまだ人間性には乏しい。更なる研究が必要だ』

『今日、タイプAが階段から落ちて首の骨を折った。一瞬、自分の愛娘が死んだような悲しみに襲われた。しかしソウル・パペットは、ソウルのみから生み出された生命体だ。例え肉体が破損していてもソウルさえ無事な形で残っていれば、再度錬生術で安定化させる事で生き返らせられるらしい。本当に良かった』

 それからしばらく、錬生術は失敗続きのまま一年が過ぎた。
 絶好の滑り出しかと思われた研究に、早くも陰りが差してきた。そして――

『私は取り返しの付かない事をしてしまった。死者の冒涜。元自分の患者に何と言う事をを……。絶対にしてはならないと思っていた事に手を出してしまった。最初に生み出したソウル・パペット以降、人の形にすらならずに苛立っていたせいかもしれない。私自身が子を成せない体だと知った時から、生の重さ、死の深さは常に考え続けて来た。だから医術者を目指した。しかし、自分の手で生み出した子を持ちたいという欲求に、どうしても逆らえなかった。私はもうおかしくなってしまっているのかも知れない。果てしない罪悪感を感じつつも、すこぶる出来の良いソウル・パペットに胸の高鳴りを押さえられない。最初のソウル・パペットから数えて彼はタイプGに当たる。“ギーナ”と命名しよう』

『ギーナは非常に人間的だ。表情も豊かで、喜怒哀楽を表に出してくれる。ただ言語機能に多少の障害がある。また情緒も若干不安定な傾向にある。しかし些細な事だ。外界に触れて他の人間と接すれば、きっとより人間に近付くに違いない。私の子供が王都で歩いて、会話をして、食事をしている。考えただけで昂奮を禁じえない』

(狂ってるわ……)
 気分が悪くなり、ノアは研究日誌を閉じた。
 コレを読んでいるとアクディが堕ちていく様子がよく分かる。天才と呼ばれる人間は、何かちょっとしたキッカケで、これ程までに変わってしまうものなのだろうか。
 そして自分は今、この狂った元天才医術師が生み出した治療法に救いを求めている。ならば自分も一歩、狂気へと足を踏み入れている事になるのだろうか。
(それならそれで、しかたないわ……)
 目を瞑り、軽く頭を振りながらローアネットは自嘲めいた笑みを浮かべた。
 この本に書かれている情報は貴重だ。この洋館を出てしまっては決して手に入らない。一気に読む事は出来ないが少しずつなら。心の整理をしながら、ゆっくり読んでいこう。そしてアクディを受け入れていこう。
 彼の狂気に当てられて、気がふれてしまわないように。

 †五日目 【五階廊下 13:51】†
 アクディの研究日誌を自室に持ち帰りはしたが、昨日はあれから続きを読む気にはなれなかった。
 『死の予定表』と『狂気の日誌』。
 二つの災厄をなんとか現実の物として受け入れ、気持ちを落ち着けるので精一杯だった。
 食事をしている時、ベルグが掛けてくれた心配そうな声で少し落ち着いた。ユレフがベルグの肉を狙ってはしゃいでいるのを見て少し和んだ。初めて皆と一緒に夕食を食べたヲレンが見せた完璧なナイフさばきや、ノアが食事をしながらタバコを吸っている姿に、少なからず安堵を覚えた。日常を感じる事が出来た。
 そして一晩寝て、ようやく平静を取り戻せた気がした。
 今日、ベルグと談笑しながら昼食を摂った後、ローアネットは洋館の中を散策していた。気分転換した後、アクディの研究日誌を読むつもりだった。
「ん」
 五階の高い位置から中庭を見下ろしながら、長い廊下を歩いていると、他とは明らかに異質な雰囲気を放つ扉が目に留まった。
 黒塗りの金属製の扉に、細い針金のような物が縦横無尽に走っている。針金の中には光が通り、幻想的な幾何学模様を浮かび上がらせていた。自分達の部屋にある綺麗な木目調の扉とは似ても似つかない。
(何かしら……)
 妙に興味を引かれて、ローアネットはその扉のドアノブに手を掛ける。しかし扉は押しても引いても開く事はなく、時間と共に消失するわけでも、真上にスライドするわけでもなかった。
 少しの間色々試してみて、ローアネットは自分の予定表に書かれていた事に思い当たる。

『七日目12:28□黒い扉の部屋に入る□』

(これじゃ入れないじゃない……)
 それともココ以外に黒い扉の部屋があるのだろうか。
「う、うぉ! なんでンな事まで分かるんや!」
 突然響いた叫びに、ローアネットは無意識に声の方へと顔を向けた。
 声の主はすぐに分かった。異国訛りのある特徴的な喋り。間違いなくベルグだ。誰かと話をしているのだろうか。
(お昼食べた後すぐに居なくなったと思ったら……)
 ローアネットは少し不満顔で、声が聞こえた方に歩を進める。
 自分より優先して話をしたい人が居るという事なのだろうか。
 少し歩き、ローアネットはプレイルームの前で足を止めた。緩やかに湾曲した白い軟体金属の扉が彼女を迎える。その扉に手を触れると真ん中に小さな穴が開き、無数の同心円を生み出しながら広がっていった。
 そして自分の体が通るくらいの大きさになったのを確認して、ローアネットはプレイルームへと足を踏み入れる。
「あら……」
 意外な組み合わせにローアネットは思わず声を上げた。
 中に居たのはベルグ、そしてノアだった。部屋の一番奥にあるグランドピアノの隣でベルグは硬直して、ノアは面倒臭そうにタバコをふかしながら、コチラに視線を向けている。
「ロ、ローア! どないしたんや、自分!」
 ローアネットの姿を見て、何故か上擦った声を上げるベルグ。あからさまに何かやましい事をしていましたと自己主張していた。
(やっぱり、若い子には勝てないのかしらね……)
 薄紅色のロングヘアーを梳きながら、ローアネットは優美な足取りで二人に近づく。
「お邪魔、だったかしら?」
 そして悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ベルグの隣りに立った。
「い、いやぁ! ンな事あらへん! お話は大勢でした方が楽しいに決まっとる! なぁ、ノアちゃん!」
「……さぁな」
 ノアは半眼になって気怠そうにそっぽを向く。まるで自分が邪魔者だと言わんばかりの仕草だ。
 『せっかく二人きりだったのに』
 そんなノアの心の声が聞こえてきそうだった。
「あ、そ、そーや! ローア! ノアちゃん、ごっつ歌上手いんやで! こぅ、なんちゅーか心が洗われるみたいな感じや! なぁノアちゃん! も一回歌ってくれへんか?」
「……断る」
 『私が歌うのはベルグにだけだ』
 ローアネットにはそう聞こえた。
「はいはい、どーもアタシはお呼びじゃないみたいね。二人の邪魔して悪かったわ。どうぞごゆっくり」
 ローアネットは大袈裟に肩をすくめて見せ、立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょー待てやローア! 自分、何か変な勘違いしとるやろ! 俺は予定表に書かれとったから仕方なく……!」
 しかしベルグの言葉にすぐにハッとなり、慌てて振り向いた。
 ――予定表の内容を他の人に喋ってはならない。
 このルールを破った者はゲームに負けたと見なされ、死が訪れる。
「ベルグ!」
「う……!」
 ベルグは苦しそうに胸を押さえて、その場にうずくまった。
「馬鹿! 何て事するのよ!」
 ローアネットはベルグの顔を胸に抱き入れながら、悲痛な叫び声を上げる。
 死んでしまう。ベルグが死んでしまう。こんな、こんな些細な事で!
「芝居だ。下らん」
 頭上から冷め切ったノアの声が聞こえてきた。
「え……?」
「ノアちゃーん、ネタバレすんの早いでー。もーちょっと、このふくよかな胸の中で……」
 ベルグは幸せそうな顔でローアネットの胸に頬をすり寄せている。
「ベルグ!」
 平手で思いきり頬を叩き、ローアネットは乱暴にベルグの頭を放り出した。
「本気で心配したじゃないの! この馬鹿!」
「っつー……。いやいやスマンスマン、悪気は無かったんや。俺自身、ホンマにアカンか思ーたからな」
「悪気が無かったら何しても良いって訳じゃないでしょ!」
 痛そうに頬をさするベルグに、ローアネットは柳眉を逆立てて激昂する。
「……バレなければルール違反でも問題ない、という事か」
 二人のやり取りを見ながら、ノアは冷静な口調で言った。
「そーみたいやな。ま、時間差で来るかもしれんし、ルール違反の度合いによるんかもしれんけど、取りあえず今は平気みたいや」
 ベルグも少し真剣な表情になり、猫目を薄く開いて思慮深げな光を見せる。
「アクディはただ単純に俺らを殺したいわけやない。このゲームには何か意味があるんや」
 単純に殺したいわけではない。それはローアネットも考えていた事だ。
「意味っ、て……?」
 どこか遠慮がちな声でローアネットは聞き返した。
 さっきまで軽かった空気が、一瞬のうちに圧迫感のある物へと変貌している。息苦しさを覚えるほどに。
「例えば、や。俺らに届いた招待状。あれかてちょっと考えたらおかしいで。あんな物騒な内容の手紙、テキトーにバラまいとったら大混乱や。それこそ教会の連中の目に止まってみー、こんな洋館イチコロやで」
 確かに。
 招待状にはこの『死のゲーム』の内容が、それなりに詳しく書かれていた。
 アクディの洋館で行う事。何もしなければ十日以内に死ぬ事。生き残る事が出来れば大金を受け取れる事。ルール違反をしたり、洋館を出たりすれば自動的に死が訪れる事。
 受け取った人が酔狂な遊びだと流してくれればそれで良いが、中には正義感の強い者も居るだろう。国や教会に知らされでもすれば、大挙してこの洋館に押し寄せて来てもおかしくない。
 狂医術師、アクディ=エレ=ドートを処罰するための絶好の機会になるだろうから。
「でも待って。確かヲレンさんは教会の関係者だって言ってたわ。このゲームに生き残ってアクディを大司教の前に連れ出すんだって」
「教会の関係者ぁ? ホンマかぁ?」
 ベルグは首筋を掻きながら、胡散臭気な視線を向けて来る。
「まぁ……本人から聞いただけだけど」
「もしそーやとしたら教会もエライ回りくどいマネすんなー。立派な物的証拠もあるーゆーのに。ソイツ偽モンちゃうんか」
「どーして嘘なんか付く必要があるのよ」
 まるで自分が責められているようで、ローアネットは少しにムキになって返した。
「……つまり、お前は私達五人に何か共通点でもあると言いたいのか? ヲレンとか言う奴はソレを隠している、とでも?」
「そー! まさしくその通りやノアちゃん! さすが鋭いなー!」
 ノアの呟きにベルグが歓声を上げる。
「悪かったわね。鈍感で」
 ソレが何だか気に入らなくて、ローアネットはふてくされたような顔になった。
「さっきから何スネとんねん。ま、ちょっと怒った顔も色っぽいけどな」
「う、うるさいわねっ」
 顔を紅く染めて、ローアネットはベルグから視線を逸らす。
「……で、その共通点って言うのは?」
「いやまぁ、単なる憶測なんやけどな。もしかしたら、コールド・エッジ絡みなんちゃうかなーって。アクディゆーたら、錬生術かコールド・エッジやろ? 例えば、俺ら全員コールド・エッジに関わってるとしたら、アクディとの繋がりも無いこた無いなぁ思ーて。少なくとも俺は自分が掛かっとるし」
「……コールド・エッジ、ねぇ」
 ノアは新しいタバコに火を付けながら、どこか馬鹿にしたような視線を向けた。
「なぁノアちゃん。自分、ひょっとして親戚とかにコールド・エッジになった人とかおるんちゃうん」
「……さぁな」
 しかしノアはベルグの問い掛けに答える事なく、曖昧な返事を返す。
(そういう、事か……)
 『コールド・エッジ』
 その単語に触発されて、ローアネットの中に確証に近いモノが生まれた。
 恐らく、アクディはコールド・エッジに掛かった事がある者に招待状を送りつけている。
 ベルグは自分自身がコールド・エッジ。
 ノアは直接聞いたわけではないが、アクディの研究日誌に書かれていた人物と同一ならば、過去に掛かっていた事になる。
 そして自分は……。
(ダメよ……)
 何か言おうとしてローアネットは口を閉ざした。
 コレを言ってはいけない。自分にはこのゲームに参加する資格がない事がバレてしまう。
 アクディの研究日誌の事は伏せておこう。変な事を口走ってボロが出てしまっては元も子もない。
 自分は書庫で研究日誌など読まなかったし、そこにノアの名前が書かれていた事など当然知らない。
「話の途中で悪いんだけど、アタシはちょっと席を外すわ」
 残念そうな声を出して、ローアネットはプレイルームの出入り口に歩き始める。
「どないしたんや、腹でも痛いんか?」
「まぁ、ちょっと、ね……」
 歯切れ悪そうに言うローアネットに、ベルグはすぐに「ああ」と何かを察してくれた。
 こういうポーズを見せれば、勘の良い彼ならすぐに予定表の事を思い浮かべるだろう。そして詳しい事を言えない理由も分かってくれる。
 今はとにかく一人になりたい。
 一人で落ち着いて考えて、何を喋っても良いのか、何が自分に不都合をもたらすのか、ソレを頭の中で整理しなければ。

 昼間はココのルールを上手く使って、危ない場面を切り抜ける事が出来た。だからあの時は少なからず感謝した。しかし今は……。
(サイテー……)
 薄暗く、埃っぽい保管庫。
 殆ど使われた形跡はなく、もう何年も前に押し込められたまま放置されているだろう雑品が、山のように積まれていた。綿の抜けたヌイグルミや、弦の切れたバイオリン、針のない置き時計など、すでにゴミと化している物も沢山ある。
 下見に来た時からある程度は覚悟していたが、いざその時となるとまた少し違う。
 そして保管庫の隅の方には、一人用の古い木製のテーブルが置かれていた。側には保管庫の裏口らしき扉も見える。テーブルの端には危なっかしく、ワインの瓶が何本も並べられていた。ほんの少しの衝撃でも落ちてしまいそうだ。
 すぐにでも出て行きたくなる陰湿な空間。
 だがローアネットは予定表に従い、ココで夕食を摂らなければならない。
(ホントに、何の意味があるって言うのよ……)
 もはや単なる嫌がらせにしか見えない。
 ワインの瓶が置かれたテーブルには、すでにアーニーが豪勢な食事を運んで来てくれている。いつもならば美味しそうな食事も、ココで見ると動物の餌に見えてしまうから不思議だ。
「まったく……」
 ブツブツと文句を言いながら、ローアネットはテーブルに腰掛けた。
「いただきまーす」
 そして白々しく手を合わせてから、ナイフとフォークを両手に持つ。
 皿に盛られた野菜をナイフでフォークに乗せ、口に運ぼうとした時――
「ひぃぁ!」
 何か小さい物が目の前を走って行ったのを見て、ローアネットは悲鳴を上げた。口に入るはずの野菜はフォークから抜け落ち、埃の積もった床へとこぼれ落ちる。
 一瞬だがハッキリ見えた。アレは、自分の嫌いな……。
 小さなソレは甲高い泣き声を響かせながら、床に落ちた野菜に飛びついた。
「ネズミー!」
 ソレの正体を口に出して叫び、ローアネットは慌ててイスから立ち上がる。その拍子に足が激しくテーブルにぶつかった。
「あ」
 短く声を上げるが、時すでに遅し。
 ローアネットの見ている前で、机の隅に置かれたワインの瓶はバランスを崩し、床へと吸い込まれていく。そしてけたたましい破砕音を響かせて、床の上に散乱した。
「あーあ……」
 疲れた声を出すローアネットの視界に、割れた瓶の破片が床から生えた牙の如く映る。
 まったく踏んだり蹴ったりとはこの事だ。
 片付けるにしても掃除道具の場所をアーニーに聞かなければならない。下手に自分で拾って、指でも切ったらさらに憂鬱になる。
 体の自由はすでに戻っていた。最後までではなくとも、『食事を摂る』という行為をすればそれで良いらしい。
 ローアネットはネズミの居る保管庫から一刻でも早く外に出るため、早足で出入り口へと向かった。そして自動スライド式の扉を抜けて外に出た時、視界の隅に見知らぬ人影が映った。
 やせ細った体。痩けた頬。腫れぼったい両目。曲がった背中。全身をスッポリと覆う、大きめの黒いローブ。
「貴方、ひょっとして……」
 直接見た事はないが、本で何度も目にした事がある。その時の写真とは随分人相が違っているが間違いない。
「アクディ……」
 ローアネットの呟きを合図にしたかのように、老人は背中を向けて歩き始めた。そしてすぐに二階への階段を上がり、姿を消してしまう。
「あ、ちょっと……!」
 思いも寄らないの人物との突然の邂逅に、ローアネットは動揺の色を隠せないままアクディを追った。

 †六日目 【自室 14:45】†
(なんだったのかしら……)
 結局、昨日はあれからアクディには会う事が出来なかった。いや、ローアネット自身、本気で探そうとしていなかっただけかも知れない。
 アクディを見て反射的に追い掛けてしまったが、今会ってもまともな会話など出来そうもない。まだあの研究日誌を読む前なら、コールド・エッジについてもっと詳しい事を聞き出そうとしていたかも知れない。
 しかし、自分はすでに彼の狂気の一端に触れてしまった。
 コールド・エッジの症状を逆転させた錬生術。ソレによって生み出されたソウル・パペット。不死の人工生命体。彼らに注ぐ親としての愛情。
 ローアネットには理解できない部分が多すぎる。
 それに自分が今最も優先させるべき事は、アクディとの会話でも彼の思考の理解でもない。
 このゲームに最後まで生き残る事だ。弟をコールド・エッジを治すために。
(ま、取りあえず第一段階は突破、ってところかしらね)
 ベッドに横になり、書き換えた自分の予定表を満足げに見ながら、ローアネットは嬉しそうに笑った。
今日の十一時三分。ローアネットは自分の胸にナイフを突き刺す予定だった。しかし、その時間はとっくに過ぎている。無事、死の予定は回避した。
(あと四日。あと四日何も起こらなければ、アタシの勝ち……。そうすればコールド・エッジの治療費だって手に入るし、ベルグも……)
 考えただけで頬が緩んでくる。
 死を無事回避してからというもの、今日はずっとこの調子だ。気持ち悪いほど気分が浮かれている。最初に構えすぎたのかも知れない。
 何もしなければ死ぬ、などと言われたものだから過剰な反応を示してしまった。まさかこんなにあっけなく回避できるとは思っていなかった。
 もしかしたらアクディも、簡単にお金を渡すと有り難みがないから、こんな凝った演出をしているのかも知れない。
「ローア、おるか?」
 そんな楽天的な事を考えていると、部屋のドアがノックされた。すぐにベルグだと分かり、慌てて予定表をサイドテーブルの引き出しの中に隠す。
「え、ええ、居るわ。どうかしたの?」
 ローアネットは上擦りそうになる声を何とか抑えながら、ドアの近くまで行き、ロックを外した。そして部屋の内側へと扉を開ける。
 外には予想通りベルグが立っていた。
 だが、心なしか表情が暗い。
「ローア、落ち着いて聞いてくれ」
 そして沈んだ声で、ベルグは絞り出すように続けた。
「ヲレンが死んだ」
「……え?」
 一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。
 死んだ? ヲレンが? 何故? ナゼナゼナゼ?
「保管庫でな、倒れとったんをアーニーが見つけたそうや」
「保、管庫……?」
 その言葉に全身の温度が一気に下がる。下顎が震えだし、歯の根が噛み合わなくなった。口の中の水分が一気に乾ききり、喉の奥が痛い程に張り付くのが分かる。
「ひょっとして……死んだのって……ガラス、が……?」
「あ、あぁ。けど何で知って……」
 ベルグの言葉が終わらないうちにローアネットは部屋を飛び出し、彼の体を押しのけて廊下を駆けた。
 後ろからベルグが呼ぶ声が聞こえるが、足は止まらない。まるで予定表の内容に従うかのように勝手に走り続ける。
(嘘でしょ! 嘘よ! そんなの嘘よ!)
 何度も何度も心の中で叫びながら、ローアネットは保管庫に向かった。

 ローアネットが着いた時、丁度アーニーが保管庫の床に白いシーツを掛けているところだった。しかしシーツは平坦になる事はなく、大きな人の形に盛り上がっている。
 ローアネットはその隣りに力無く座り込み、恐る恐るシーツを持ち上げた。
「ひ……」
 最初に目に飛び込んできたのはヲレンの瞳だった。丸い瞳を更に大きく見開いて、何か信じられない物でも見たような視線を宙に投げ出している。
 そして彼の顔の下には、まだ出来て間もない血溜まり。床に降り積もった綿埃を紅く染め上げ、少しずつ広がってきている。
 鮮血が流れ出している源。その場所に刺さっている物を見て、ローアネットは全身からありとあらゆる力が抜けて行くのを感じた。
「は……あはは……あははははは……」
 乾いた笑い声が無意識に口の端から漏れる。
 ヲレンの喉に刺さっていたのは、ワインの瓶が割れた破片。
 昨日、ローアネットがココで食事をしていた時、誤って割ってしまったワインの。
(殺した……アタシが、殺したんだ……)
 あの時、ちゃんと片付けていれば。アクディになど気を取られず、もう遅いからと言って次の日に持ち越したりせず、自分の死の回避で頭を一杯にせず、もっと気を回していればこんな事にはならなかった。
「……喉元を一撃、か。苦しむ暇もなかったな」
 後ろからノアの声が聞こえた。彼女の声は驚くほど落ち着いていて、どこか冷淡だ。
「ついに一人目の脱落者が出たでござるか」
 続いてユレフの声も聞こえる。彼も別に動揺した様子はない。
 この二人はおかしい。狂ってる。人が一人死んだというのに、どうしてこんなにも普通にしていられるんだ。
「ヲレン=ラーザック様の処理は私が行っておきます。皆様はゲームを続けて下さい」
 淡々として口調でアーニーが言った。そしてヲレンの体にシーツを巻き付け、隣りに持ってきていた浮遊台車に体を乗せていく。
 おかしい。みんなおかしい。
 こんな物なのか? 人の命とはこんなにも軽い物だったのか? 死というのはこんなにも浅い物だったのか?
 焦燥に似た疑念が胸中で渦巻き、ローアネットは吐き気を伴う震えに耐えるかのように体を抱きしめた。
 いや、一番おかしいのは自分だ。あんな下らない事で、誰かの命を奪ってしまった自分が一番おかしい。
 アクディの事を狂っているなどと罵っておきながら、自分はそれ以上に狂っている。一般人の皮をかぶった異常者だ。
 許されない。許されるはずがない。人の命を奪っておいて、自分だけのうのうと生きているなど……!
「ローア!」
 自分を呼ぶ声と共に、背中に温もりを感じた。そして逞しい腕が体の前に回される。
 ああ、誰だろう。こんな薄汚れた自分を抱きしめてくれるのは。何だか、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
「落ち着け、ローア。何があったんか知らんけど、お前は何も悪ない。せやから自殺なんかアホな事すんなや」
 自殺? 何の事だ? 自分は自殺など……。
 彼の手が自分の右手に添えられる。そして無機質な音を響かせて、右手から何かガラスのような物が落ちた。
「アイツは運が悪かった。ただそれだけや。予定表の内容通り行動して、死んだ。その事はアイツかて承知しとったはずや。覚悟は出来とったはずや。死の回避に失敗したんはアイツの責任や。お前は何も悪い事ない」
 彼は必死になって自分を励まし続けてくれる。
「どうして……」
 口から掠れた言葉が出た。
「どうして、アタシはこんな事を……」
 何故自分はココにいる? 何故自分はこんな所で人殺しをしている?
 分からない。思い出せない。どうしてこんな事をしているのか。
「弟助けるためやろ! 金貰って、弟のコールド・エッジ治すんちゃうんかい! しっかりせーや!」
 ああ……。そうか。そうだ……。
 そのために私はココに来た。最後まで生き残って、お金を貰って、そしてベルグも一緒に……。
 私がしっかりしないと。私がちゃんとやらないと……。
「ベルグ……」
 後ろから抱きしめてくれている彼の名前を呼ぶ。
「ちょっとだけ、我が儘言ってもいい……?」
「おぉ! 何でも来いや!」
 ベルグの頼もしい言葉を聞いて、ローアネットは力無く笑った。

 ローアネットは自分の部屋で、ベルグと一緒のベッドに入っていた。
 窓の外はもう暗い。あれから二人で時間を忘れて愛し合った。
 ローアネットはベルグの温もりを確かめるように肌を寄せ、彼の逞しい胸板に顔を埋める。生の証である心臓の鼓動音がハッキリと聞こえてきた。
「……ごめんなさいね。変なお願いしちゃって……」
 少し悲しげな声で言いながら、ローアネットはベルグの顔を見る。
「貴方の婚約者さんに悪いって思ったんだけど、こうでもしないと、おかしくなっちゃいそうで……」
 ずるい女だと思われただろうか。計算高い女だと思われただろうか。
 だがそれも仕方がない。自分はそう思われて当然の事をしてしまった。
「今更謝んなや。元々俺が自分から買って出た事や。これでローアが元気になってくれるんやったら安いもんやで。何やったらもう一回しよか?」
「ばか……」
 彼の明るい言葉に胸の中が暖かくなる。
 ベルグには何度も助けて貰った。何度も励まして貰った。そのたびに自分が強くなっていく事を実感できた。
 弟のコールド・エッジを治すため、自分の躰を売る事を決意した時、弱い物は全て捨て去ったつもりだった。感情を押し殺し、理性だけで自我を保ち、妖艶な娼婦になりきった。
 ――アタシは男日照りの色情狂。
 自分にそう言い聞かせる事で、気が狂ってしまう事から何とか逃れる事が出来た。好きでもない男に抱かれている自分を冷静に客観視する事で、辛うじて精神を繋ぎ止める事が出来た。
 だが、今はもう駄目だ。
 こうしてベルグに寄り添っていないと、あっけなく壊れてしまう。
 自分は人殺しなのだという罪の意識に押しつぶされてしまう。
 自己暗示で誤魔化しただけの脆弱な外殻を、『強さ』と勘違いしていた自分には、これ以上気丈に振る舞う事は出来ない。
「ねぇ、ベルグ……」
 ローアネットは少し甘えたような声でベルグに話し掛けた。
 もぅ、彼には全てをさらけ出してしまいたい。
「アタシね、ホントはココに招待されたわけじゃないの」
そして楽になりたい。彼に自分を委ねてしまいたい。
「アレはね、弟に来た招待状。代理人は不可って書かれてなかったから、ダメ元で来てみたの……」
「そうか……」
 ベルグは別に驚くでもなく、ローアネットの長い髪の毛を優しく撫でてやりながら聞いている。
「それでアタシね、書庫で面白い本見つけたのよ。アクディの研究日誌」
「アクディの……?」
 ベルグは少し目を大きくして聞き返した。
「そぅ。錬生術についても色々書かれてたわ。途中で気分が悪くなって読むの止めちゃったけど。それでね、そこにノア=リースリーフって女の子が昔、コールド・エッジの治療を受けた事があるって書いてあったのよ」
「ノアって……あのノアか?」
「多分……」
 ローアネットの言葉に、ベルグは面白そうな顔になって頷いた。
「つまり、少なくとも俺ら三人には強い接点があるゆーこっちゃな」
「そうよ」
 コールド・エッジの患者としての接点が。
 アクディは恐らく、コールド・エッジの患者のカルテから今回の招待客を選んだ。それにどんな意味があるのかは分からないが、可能性としては高いだろう。
「ほんならヲレンっちゅー大男も、ユレフってガキもコールド・エッジの患者なんか」
「多分、ね……」
 確証はない。二人とも、コールド・エッジに掛かっているにしては元気すぎる。アクディの理論で解釈するならば、精神系のソウルが徐々に抜けていっているはずなのだから、鬱状態になっていてもおかしくないはずだ。
 だが、自分のすぐ隣りに例外が居る。
 ヲレンは教会で特殊な訓練を受けていたのかも知れない、ユレフは明らかに普通の子供とは違う。
「ま、今日はもー難しい事考えんのやめにしよ。明日に備えてグッスリ寝た方がええ」
「ん……」
 確かにベルグの言うとおりだ。
 招待客の共通点が分かったところで、この死のゲームに生き残れるわけではない。どんな不測の事態にも対処できるように、体力を温存して置いた方がよほど建設的だ。
「今夜は、ずっと一緒に居てくれる?」
「遠慮せんでも俺は別に毎晩でもええでー。ローアネットお嬢様のご指名とあらば」
「ふふ……よきにはからえ」
 こうして、夜は更けていった。

 †七日目 【五階廊下 12:31】†
 昨日の夜は体力の温存どころか、かなり激しく消耗してしまった。
 しかし心の方は満ち満ちている。
(きっと愛の力ね)
 そんな事を考えながら、ローアネットは上機嫌で五階の廊下を歩いていた。
 お昼近くまで寝ていたローアネットが目を覚ますと、ベルグはすでにベッドの中に居なかった。何か用事があったのかも知れない。恐らく予定表に何か書かれていたのだろう。
 それに関してはローアネットも同じだった。
 これから自分は黒い扉の部屋に入らなければならない。だが、あれから時間を見つけて他の場所も探してみたが、黒い扉はどこにもなかった。五階のココだけだ。
 一昨日確認した時には鍵が掛かっていた。中には入れないはずだ。それとも夕食を保管庫で摂った時のように、『入る』というモーションをすれば予定をこなした事になるのだろうか。
 まぁどちらにせよこんな簡単な事で今日の予定は終わる。
 これであと三日だ。三日耐え抜けば、大金を得てこの洋館から出られる。
(きっと、ベルグと一緒に)
 ローアネットは根拠もなくそう考えながら、廊下を進んだ。
 視界の中で黒塗りの扉が少しずつ大きくなっていく。レッドカーペットの敷かれた床を確かめるように一歩ずつ歩を進め、ローアネットは黒い扉の部屋の前に立つた。そしてドアノブに手を掛ける。
「あら……」
 思わず間の抜けた声が漏れた。
 一昨日、あれだけ色々やってもビクともしなかったドアノブはあっけなく下り、黒塗りの扉は室内に呑み込まれるようにしてローアネットを招き入れた。
「え……」
 部屋の中に一歩を踏み出したローアネットの口から、乾いた声が漏れる。
 そこには本来あるべきはずの物が無かった。
(床、が……)
 抵抗する暇もなく、ローアネットは足下に空虚な口を開けた室内へと吸い込まれる。
 直後、全身を包み込む無重力感。
 内臓が持ち上がり、意識が裏返りそうになる。
 ――そして、足下に重い衝撃が走った。

 † † †

「アクディ様」
 アーニーは薄暗い部屋で、浮遊車椅子に身を沈ませている男に声を掛けた。
「ローアネット=シルフィード様が死亡いたしました」
 そして人間味を感じさせない淡々とした喋りで、事務的に報告する。
「アーニー……」
 男は彼女の声に、空気の抜けたような声で返した。
「後は……お前に任せる……」
 男はそれ以上何も言わず、沈黙を守り続けた。
「承知いたしました」
 これ以上命令が無い事が分かると、アーニーは深く頭を下げ、闇と同化するようにして部屋から出て行った。

 □■□■□■□

Chapter3§ベルグ=シード§

 一日目09:05□大浴場でゆっくりする□
 二日目13:15□自室で仮眠を取る□
 三日目21:09□保管庫の裏口の前で油をこぼす□
 四日目10:05□五階廊下で今考えている事を大声で言う□
 五日目13:20□治療箱の液体カプセルを精神安定剤の袋に入れ、プレイルームに持って行く□
 六日目13:42□玄関ホールの花瓶にある鍵を使って扉を開け、自室に戻る□
 七日目14:54■五階の窓から飛び降りる■
 八日目09:05□最初の五分間だけ朝食を食べて席を立つ□
 九日目15:36□キッチンでつまみ食いをする□
 十日目23:09□深夜に一人で大浴場に行く□

 †一日目 【大浴場 09:10】†
 辛くない、と言えば勿論嘘になる。
 コールド・エッジに冒されてすでに三年。精神的にはかなり参って来ている。
 早く発症して死んでしまいたい。楽になりたい。
 もう、二年ほど前から毎日のように考え続けてきた。
 だが許されない。一般的に言われている潜伏期間から一年以上もオーバーしているのに、まだ死神は自分の前に姿を現さない。
 この世で最も大切な婚約者を助けてやれなかった罰を受けているのかも知れない。まだまだ苦しみ足りないと神がのたまっているのかも知れない。
(ま、別にええけど……)
 洋館の一階にある大浴場。その脱衣場で服を脱ぎながら、ベルグは壁一面の鏡に映った自分に冷めた視線を向けた。
 長く伸びた藍色の前髪。その奥で薄く開かれた双眸。決して筋肉質ではないが、均整の取れた体つき。そして左手の人差し指にはめられた、シンプルなデザインの婚約指輪。
 銀色に光り輝くソレを見るたびに、彼女の事を鮮明に思い出す。
 婚約者は熱心な教会のシスターだった。しかし教会の教えでは、指輪などの貴金属の類は悪魔との交渉に使われる物として非常に気嫌いされている。そしてシスターとして神に身を捧げている以上、結婚も出来ない。
 だから彼女は脱会した。
 教会よりも信仰心よりも、ベルグと一緒に居る事を選んだ。
 この指輪は彼女が最初にプレゼントしてくれた物だ。教会を抜けた証として、これからはベルグに身を捧げる誓いの印として。そして将来の幸せな生活への祝福として。
(年取ると昔の事よー思い出すわ……)
 やれやれ、と軽く嘆息して、ベルグは脱衣場と大浴場の間に張られている暖気遮断シールドを抜けた。マジックミラーとなっているシールドを抜けると、天然石を敷き詰めて作られた和風の大浴場が迎えてくれた。
 ヒーリングハーブを浮かべた浴槽、立方体をとったガラス張りの空間に精神安定作用のある霧を吹き込んだ箱浴槽、水中呼吸の出来る魔術が施された全身浴槽、バンダナタイプの脳感応装置を付けて水との一体感を楽しむ娯楽浴槽など、種々様々な湯浴が用意されている。
「っほー、さっすが大金持ちやなー。スケールデカイわ」
 感嘆の声を上げながら、ベルグは取り合えず一番オーソドックスな普通の浴槽に向かった。体を包み込む暖かい空気と、足下から伝わる冷たい石の感触が心地よい。
「そぼ品ぼない声ばベルグべごさるば」
 突然、浴槽が話しかけて来た。
「おぉ、お喋りするモンもあるんかい。こら珍しい」
「お前は馬鹿でごさるか。小生でござるよ」
 湯船の中央が持ち上がり、中からブロンドの少年が姿を現す。
 確か初日にケンカを売ってきた、ユレフとかいう生意気な子供だ。潜水からご挨拶とは、なかなかに凝った趣向を取る。
「知っとるわい。ボケただけや。もっと気の利いたツッコミ入れんかい、このダァホ」
 言いながらベルグは高く飛び上がって、派手に浴槽へとダイブした。大きく舞い上がったお湯が、ユレフの小さな頭をあっけなく呑み込んで行く。
「っだー! 何するでござるか! この無礼者!」
「やかましいわ。どーせ濡れてんねんからおんなじやろ。細かい事ゴチャゴチャぬかすな」
「貴様の教養を疑うでござる」
 不満そうに唇を尖らせて、ユレフはブツブツと口の中で文句を言った。
「ほんで、何でお前がこんなトコおんねん。ガキのクセに朝風呂か」
「年齢は関係ないでござる。大体見かけで人を判断するのは愚か者のやる事でござる」
 可愛いクマが刺繍されているピンク色のタオルで顔を拭きながら、ユレフは憮然とした表情で返す。
「おいガキ。自分がどんだけ偉いんか知らんけどな、なんでこんなイカれたゲームに参加しとるんや。親は何も言わんかったんかい」
「その親に言われてココに来たでござるよ」
「はぁ?」
 予想外すぎる答えに、ベルグは素っ頓狂な声を上げた。
「親にって……。お前嘘つくんやったらもっとマシな嘘つかんかい。ありえへんぞ」
「本当でござる。だから小生は何としてでもこのゲームに勝たなければならないでござるよ」
 ベルグはユレフの目をじっと見る。
 子供特有の丸く大きな瞳が、髪の毛と同じ金色の輝きを放っていた。
「……ホンマか」
「ホンマでござる」
 瞳には揺れも鈍りも無い。この目を見る限り嘘を言っているようには見えない。
 だとすればユレフは捨てられたのだろうか。食いぶちを減らすために。そして運が良ければ大金を手に入れるために。
 ユレフの家庭の事情は知らないが有り得ない話ではない。しかし身に付けていた物からして貧乏なようには見えない。他に何か深い理由があるのだろうか。
(……ま、ええわ。こーゆーのはあんま触れん方がお互いのためやな)
「おぃガキ」
「ユレフでござる」
「ほんならユレフ。絶対に死ぬなよ」
 ベルグは真剣な顔になって低い声で言った。
 見たところこの少年は、十歳に届くかどうかといった年齢だ。大切な人や物との出会いがこれから先沢山待っている。ソレをこんな下らないところで放棄してしまうなんて哀れすぎる。
「それはあり得ないでござるよ。小生は絶対に死なない自信があるでござるよ」
「っほー、エライ大きー出たな。その自信はどっから来るんや?」
「小生が天才だからでござる」
 小さい胸を張って言い切るユレフの顔に、ベルグは両手を器用に使ってお湯を細く飛ばした。
「っだー! だから何するでござるか!」
「水鉄砲」
「そんな事聞いてないでござる!」
「おお、スマンスマン。湯鉄砲やったな」
「殺すでござるー!」
 叫びながらユレフは、ピンクのタオルを横薙ぎに振るう。水を吸ったタオルは、痛快な音を立ててベルグの頬にヒットした。
「……の、ガキぃ! 人がおだてたったら調子乗りクサリおってー!」
「いつおだてたでござるかー!」
 そして、大浴場での格闘戦が始まった。

 二時間後。
 お互いに疲れ果て、二人とも石の床の上で大の字になって寝そべっていた。
「……な、なかなかヤルやんけ。ガキ……」
「ゅ、ユレフで……ござる……。貴様も、思った以上に出来るでござるな……」
「ベルグや……。そのチンケな脳味噌にしっかり叩きこんどけや、ユレフ……」
「了解でござる……。ベルグ……」
 荒い呼吸を繰り返しながら、二人は相手の健闘をたたえ合った。ベルグもユレフも憔悴しきっているが、どこか満足げな表情を浮かべている。
「と、ところで、ベルグ……。お前、ギーナって名前に心当たりあるでござるか?」
「銀杏? 俺、アレ臭いから嫌いやねん……」
「……もぅいいでござる。最初からお前は違うと思っていたでござる」
 何の事かよく分からないがユレフは一人で納得したような声を出すと、よろよろと立ち上がった。そして笑う膝を押さえつけながら、弱々しい足取りで脱衣場へと向かう。
「おぃ……ユレフ。もーちょっと休んでいった方がええんとちゃうか」
「しょ、小生には色々とやる事があるでござるよ。まったく……まだ一人目なのに大きく体力を消耗してしまったでござる……」
「一人目? さっきから何のこっちゃ……」
「お前はもぅ気にしなくていいでござるよ。容疑者からは外れたでござる」
 言っている事がサッパリ理解できないが、いつの間に掛けられていたかも知らない疑いは晴れたらしい。
(俺も……のぼせる前に出んとなー……)
 そんな事を考えながら、ベルグは心地よい気怠さに身を任せて目を閉じた。

 †三日目 【一階廊下 21:13】†
 生活のリズムが狂ってしまっている。
 一日目は大浴場で一人、夕食の前まで眠ってしまっていたし、二日目は昼食の直後に『自室で仮眠を取る』などという予定が入っていたものだから、九時くらいまで起きられなかった。だから夕食も逃してしまった。
(まぁ、その分は今日でガッツリ取り返したけどなー)
 膨れたお腹を満足げにさすりながら、ベルグは予定表の内容に従って保管庫の裏口に向かっていた。
 手にはキッチンから持って来た調理用の油。これからこの油を、裏口の前でこぼさなければならない。
 まさしく意味不明の行動だが、そんな事はどうでもいい。別にこのゲームに生き残って洋館を出ようなどとは考えていない。婚約者の居るあの世に行った時に、面白いみやげ話が出来ればソレで良い。
 少なくとも、今日ローアネットと話をするまではそう考えていた。
 コールド・エッジのもたらす影響は深刻だ。日に日に無気力になっていく自分に必死に抗おうとするが、最近抵抗しきれなくなってきた。例えばいったん眠りに落ちるとなかなか目が覚めない。だから朝は苦手だ。
 精神的に鬱状態なのは勿論の事、肉体的にも疲労の蓄積が早い。あと一年もすれば、間違いなく寝たきりになっているだろう。大多数のコールド・エッジ患者がそうであるように。
 せめてそうなる前には死にたい。そんな死体同然で生きていても楽しいわけがない。
 そう、考えていた。しかし――

『貴方が三年たっても生きていられるのは、貴方の婚約者さんが命を分け与えてくれてるからかも知れないわね。自分の分まで強く生きてっていうメッセージなんじゃない?』 

 昼間、中庭でローアネットに言われた言葉。
 今までそんな考え方をした事など一度もなかった。
 じわじわと黒く塗りつぶされていく精神からの苦痛。ソレを受け入れる事で、婚約者のために何もしてやれなかった自分への罰になればと思っていた。 
 全てを否定的に考え、心は負の感情で浸食されていった。

『簡単に死ぬなんて言わないの。貴方が辛いのは、分かってるけど……』

 ローアネットの弟も自分と同じくコールド・エッジらしい。だから痛いほどに分かるのだろう。
 病魔に精神を犯され、生きる事を諦めてしまう事の悲しさを。
(ホンマ……どないしょーかなー……)
 ここに来て迷いが生じてしまった。自分に生きて欲しいと思ってくれる人と出会ってしまった。
 コールド・エッジが発病して以来、ベルグは周囲から冷たい目で見られ続けてきた。
 タイミングがあまりにも悪すぎたのだ。
 婚約者がコールド・エッジで死んだ直後に、ベルグもコールド・エッジに掛かった。だから周りの人間は疑念を抱いてしまった。
 コールド・エッジで死んだ者の体から、その病原菌が他の人へ感染するのではないか、と。
 今までにそのような事例は報告されていない。コールド・エッジは先天性の病気だ。生まれた時に、その要素が有るか無いかが決められている。
 しかし例外も十分に考えられる。
 コールド・エッジが見つかってから二十年以上も立つというのに、確立している治療法と言えば、成功率の非常に低いオカルト的な物だけ。つまりそれだけ謎が多い病気という事だ。だから今新しい事例が報告され