高得点作品掲載所       ガタックさん 著作  | トップへ戻る | 


冬が終わるまで

十月

 卒業まであと半年。
 クラス全員、進路も就職も何とか決まった。残りの授業は適度に出席していれば、何事もなく卒業できる。
 担任の五嶋(ごとう)が教室に入った瞬間から、教室全体に緊張感の欠落した気だるい空気が蔓延していた。朝一番の授業からしてこんな状態なので、三時間目も過ぎれば半数以上は寝ているだろう。
「起立、礼」
 級長・諏訪(すわ)の規律正しい声にも、学生たちはのろのろと立ち上がり、ため息のような礼をして、ドサッと重たい腰を下ろす。
「出席とるぞー」
 学生に負けず劣らず気が抜けるような声で、五嶋は出席をとり始めた。
 この五嶋助教授、北神工業高専一の変わり者と評判だ。
 この男、覇気と言うものがない。
 まず身なりからして落ちぶれている。無精ひげに適当に撫で付けた頭。ヨレヨレのワイシャツに申し訳程度にぶら下がってるネクタイ。足元は素足にサンダルだ。
 学生が居眠りしようとマンガを読もうと声を荒らげて叱ることもなければ、授業も研究活動も通り一遍、上司に言い訳できる程度だ。
 ボーッと宙を見上げる姿はどこか世離れした仙人のようでもあるが、その実世俗の垢にべったりとまみれ、酒も煙草もギャンブルもしっかり嗜む。教官室でくわえ煙草で週刊誌のグラビアを眺めているその姿は、とても真っ当な教官とは言えない。
 三十六歳ながら、不惑を前に早くも冴えない中年の哀愁が漂っている。
 五嶋が担任を勤める、この電気工学科五年は全部で三十三人。うち二人が女子だ。
 三十二人目までは全員の返事が返ってきた。が、五嶋の目は既に、窓側最後列のたった一つ空いた席を捉えている。
「渡部(わたべ)」
 返事がないことは誰もがわかっていた。
「渡部しのぶ、いないかー」
 五嶋は出席簿の渡部しのぶの欄にバツを一つ加えた。その前には、欠席を示すバツが既にいくつか並んでいる。
「渡部、今日も休みか」
 何処からともなく、非難めいた声が上がる。
「あいつ、よくサボるよな。そのくせ成績いいから腹立つんだよ」
 級友たちは本人がいないことをいいことに、次々と渡部しのぶの噂話を始める。
「見るたびに違う男連れてるぜ」
「派手に遊んでそうだよな」
 下卑た噂話が尽きないところが、渡部しのぶという女子学生を如実に物語っている。
 五嶋はというと、何事もなかったのかのように黒板に向いて授業を始めだした。
 渡部しのぶのサボリは今に始まったことではないし、今すぐ単位を落とすというわけでもない。まだ猶予はある。
 
 このクラスには抜きんでた成績優秀者が三人いる。級長の諏訪要、副級長でもう一人の女子の結城春賀(ゆうきはるか)、そして渡部しのぶだ。三人とも既に有名国立大への編入を決めている。
 渡部しのぶはとかく要領が良い学生だった。
 授業は休みがち、だけどギリギリのところで出席日数は足りている。授業中もいつも窓の外を眺めていて、教科書を見ることノートを取ることもないのだが、なぜかテストではいつも高得点をはじき出す。
 彼女の飲酒や喫煙も、学生の間ではもはや周知の事実だが、現場を抑えた教官は誰一人いない。欠席や問題行動が多い割に成績が良いので、面と向かって怒ることができない教官たちは彼女を疎んでいる。
 容姿端麗で、派手な男付き合いもよく引き合いに出される。
 毎夜繁華街に現れては、男と一緒に大騒ぎしているともっぱらの噂だ。学校一の美人との評判でありながら、派手な顔と性格のおかげで逸話には困らない彼女を、級友たちはやっかみ半分にあれこれと噂する。
 渡部しのぶのような色々な意味で「頭のいい」学生は、五嶋は嫌いではない。
 書類上「優秀な学生」であるしのぶに、今更生活態度を改めるよう注意するのは野暮というものだ。そもそも、不精者である自分に注意できる資格はない。
 いつも華やかで自信たっぷりで、周囲を翻弄して楽しんでいるかのような渡部しのぶ。
 しかしながら、五嶋は気づいている。
 派手な振舞いの陰で、彼女が抱え、ひた隠しにする苦悩に。

 その日、五嶋は夜の繁華街に一人佇んでいた。別に呑みに来た訳ではない。遠くの都市で行われた学会の帰りなのだ。
 ネオンがきらめく駅前の盛り場は、いつ来ても賑やかだ。ここまで来たからにはいつもの店に──と足を運びたくなるが、生憎今日は車がある。駅から遠い自宅まで、こんな時間ではバスもろくに走っていないし、タクシーなど高くて問題外。仕方なく帰りは車で帰ろうと、朝から近くの駐車場に留めておいたのだ。
 時計は既に二十二時を回り、家路につこうとしている人影もちらほら見える。
 オレもとっとと家に帰って、ひとっ風呂浴びてからビールでも飲むか──そう心に決めて一歩踏み出そうとしたその時、通りの向こうに見覚えのある人影を見つけた。
 派手な顔に似合わない、古風な長い黒髪。長身のスレンダーボディをファーで彩られた黒のコートで包んで、堂々と煙草をくわえている。
 その向かいで、顔のいい男が何やら彼女に対して怒鳴り散らしていた。五嶋の知らない顔だ。
 彼女──渡部しのぶは男からの怒号も何処吹く風と、そっぽを向いて煙草をふかしている。
 諍いの原因が何かは全くわからないが、二人がケンカしていることは確かだ。周囲は見て見ぬふりをしつつも、気になるのか振り返ったり囁きあっている。
 急に、男がしのぶの胸倉を掴んだ。それでも彼女は平然として、男の顔をじっと見据えている。
「……てめえッ!」
 激昂した男が振りかざした拳を──五嶋は無意識のうちに掴んでいた。知らず知らずのうちに足が動いていたようだ。
「せ、先生?」
 突然現れた担任の姿に、しのぶが目を丸くする。
「何だよ、テメエは! ジャマなんだよ!」
「あー……この子が何かいたしましたかね?」
 五嶋のトボけた口調が、相手の男の怒りに油を注いだようだ。
「うるせえッ! お前がしのぶの新しい男か!」
 否定する間もなく、しのぶが抱きついてきた。
「そう。この人オヤジに見えるけど、あなたと違ってスゴイのよ」
「スゴイって……何が?」
「先生は黙ってて」
 何だかよくわからないうちに男と別れる口実に仕立て上げられたようだ。迷惑以外の何物でもないというのに。
「だからさぁ、いい加減諦めてよ。しつこいっつーの」
 勝手な言い分だ。細かいことはわからないが、何だか相手の男が可哀相になってくる。
「オレは……オレは……絶対に別れないぞ!」
 涙目になった男が、しのぶめがけて突進する。
 次の瞬間、しのぶのピンヒールブーツが男の股間に炸裂していた。鮮やかに決まったその蹴りに周囲があっと息を飲み、男たちが皆一様に顔をしかめる。
 苦悶の表情を浮かべ、股間を抑えながら跪いてしまう彼を、しのぶは勝ち誇ったように見下げ吐き捨てるように言った。
「ベッドの中でもそのくらいしつこければ、まだ良かったんだけどね。じゃあ」
 ギョッとするような捨てゼリフを吐いて、しのぶは五嶋の腕を掴んで引っ張り、その場から逃げ出した。
 騒ぎの輪が見えなくなるところまで離れてから、しのぶはようやく手を離して五嶋を解放した。
「おいおい……オレを別れ話のダシに使うなよ」
「だって、絶妙のタイミングで現れてくれるんだもん。使わない手はないでしょ?」
「あんな別れ方して……本当に良かったのか?」
「いいのいいの。ちょっと優しくしてやったらつけあがっちゃってさ、人のこと束縛しようとするんだもん。ウザイから早く切りたかったの」
「……割り込むんじゃなかったな」
「でも助かったよ。先生、ありがと」
 そう言って微笑む柔らかな表情は、ついさっきまでの豪快な悪女っぷりを忘れさせる。
 しのぶは何気なく、手に持っていた煙草をまた口にくわえた。そしてふと、五嶋と目が合う。
「あ」
 ヤバイ──と彼女が思ったのかどうかはわからないが、バツ悪そうに歪めた顔を笑って、五嶋は携帯灰皿を差し出した。
「お前、確か二十歳過ぎてたよな?」
「うん……まあ」
「なら後はしまっとけ。オレは時間外に仕事はしない主義なんだよ」
 しのぶは煙草の火を消しながら、五嶋をいぶかしむように見つめている。
 が、すぐに気を取り直すと、五嶋の姿を上から下まで眺めた。
「そう言えば……先生、こんなとこで何してたの?」
「出張だったんだよ。今戻ってきたとこなんだ」
「じゃ、これから帰るの? 車なら家まで送ってよ」
 ここで断ったら……彼女のことだ、学校で何を吹聴されるかわからない。
「しょうがないな」
「やったぁ」
 しのぶは五嶋の片腕にしがみ付くように腕を絡ませてきた。深い意味というよりは、五嶋の気が変わって逃げられないように、だろうか。
「タクシー代高いぞ?」
「ケチくさいこと言わないでよ。かわいい学生が困ってるんだから、タダで送ってくれたっていいじゃない」
「じゃあ……カラダで返してもらおうか」
「いいわよ。何なら、今すぐそこのホテルに入ってもいいけど?」
 そう言ってしのぶはニヤリと笑う。
 五嶋は舌を巻いた。もとより本気ではないことをわかった上での切り返しであろうが、
こういう冗談が通じないのはやはりやりづらい……が、それ以上に面白い。
 二人、腕を組んで連れ立って歩く姿を学校の関係者に見られたら──という不安も少しは頭をよぎったが、何とかなるという変な自信が五嶋にはある。
 しのぶのほうに何かトラブルが起こったとしても、そこまでの責任は五嶋には無い。
 駐車場に留めてあった五嶋の古臭いセダンの前に到着すると、鍵を開けるや否や、しのぶはあっという間にドアを開けて助手席に滑り込んだ。もう梃子でも動かない姿勢である。
「早くエンジンかけてよ。寒い」
 五嶋は勿体つけたようにゆっくりと運転席に座り、キーをいれてセルをまわした。
 とはいってもすぐには暖まらず、恐らく薄着であろうしのぶは両腕で自分の体を抱きかかえるようにしてブルブルと震えている。
 腕を組んできたのは、身体の温もりを求めてきたからかもしれない。
 五嶋は自分の着ていたコートを脱いで、しのぶに向かって放り投げた。
「着とけ」
「先生、寒くないの?」
「お前とは鍛え方が違うんだよ」
 全く寒くないといえば、それは嘘だった。もう十月も末、この北国では雪もちらつく季節だ。スーツのジャケットだけではやはり寒い。
 それでも、ここに来るまでの間にしのぶが身体を寄せていた部分が、ほんのり暖かく感じたのは気のせいだろうか。
 しのぶはそれ以上の遠慮をせずに、五嶋のコートを前にかけた。
 車を走らせると、しのぶは窓ガラスに頭を持たれかけ、外をぼんやりと見つめたまま動かなかった。授業中と同じ、僅かに憂いを湛えたその横顔は、次元を超越したところで物事を思想する菩薩像のようにも見える。
 信号で止まっている間、そんなことを考えていると、見つめられていることに気づいたのか、しのぶが振り向いて笑いかけてきた。
「どしたの? 私の顔に何かついてる?」
「よだれのあと」
「そんなものついてないよ」
 信号が青に変わって、アクセルを踏み込むと、今度はしのぶが話し掛けてきた。
「……先生って、恋人いないの?」
「いるように見えるか?」
「見えない」
「だろうな。ま、実際いないんだからしょうがないけど」
「ずっと独身決め込むつもり?」
「んなこたあない。いい女がいれば結婚するさ」
「ふーん……」
 興味があるのかないのか、ただ聞いただけなのか。そう言ったきりしのぶは黙り込んだ。
「お前はどうなんだ?」
「どうって?」
「本命の彼氏が別にいるんだろ?」
「本命ねぇ……」
 思わせぶりな口調だ。
「なんだ、いないのか?」
 そう問い掛けると、しのぶは意味深にクスクス笑い出した。
「彼氏はいるけど、本命はいないかな」
「どういう意味だ?」
「本当に好きな男って、いないかも」
 五嶋はますます混乱した。
「向こうから『付き合って』って言われたら、断らずに付き合ってる。だから彼氏は何人もいるよ。だけど、本当に相手のことが好きかどうか、考えたことない」
「考えてから付き合うのが普通だろ」
「だって、断るの面倒だし、向こうが私のこと好きって言ってくれるなら、それでいいのかなって思ってさ」
「自分から『この男と付き合いたい』って思ったことないのか?」
 しのぶはしばらく考えた。
「……ないね。でも、これはこれで結構楽しいし、今日みたいに揉めることもあるけど、そんなに不都合してないよ」
「そうか」
 拍子抜けするほどあっさりした返事をして、五嶋はその話題を終えた──が、それに納得していないのはしのぶのほうだ。
 急に話を打ち切ったことが不満なのか、運転中の五嶋の横顔に噛み付いてきた。
「……それで終わり? もっと何か言うことあるんじゃないの?」
「何か言って欲しいのか?」
「そうじゃないけどさ、教官として言うべきことがあるでしょうが」
「だから時間外は仕事はしない主義だって言っただろ。今ここで、お前のモラルを問いただすほど教育熱心じゃないの」
「あ、教官がそんなこと言っていいわけ? 私がこの先グレちゃったりしたら、どう責任とるつもり?」
「もう手遅れだろ」
「ひどーい。先生がそんな人だとは思わなかった」
「オレは最初からこうだ。どうしても何か言って欲しいって言うなら、時間外料金払ってもらうぞ」
「どうしてもって……もういいよ」
 ふてくされたように、しのぶは口を尖がらせて顔を背けた。やけに子供っぽい、彼女らしくない表情がフロントガラスに映る。
 しばらくの静寂。
 低いノイズだけが車内に満ちている。
 しのぶは真っ直ぐ前を見据えて、夜の闇を睨みつけるような目をしている。
「……時間外料金でも残業代でもなんでも払うからさ、何か言ってよ」
 しかめっ面のままそう言ったしのぶに、五嶋は可笑しさがこみ上げてきた。
「……お前らしくないな」
「今日は叱られたい気分なの」
「変な奴だな。自分から叱られたいだなんて」
「そういう気分の時だってあるでしょ」
「不安定だな。生理前か?」
「失礼なヤツ……もう、やる気ないならいいよ!」
「……寂しいんだな、お前」
 顔はそっぽを向いても、しのぶのその背中が僅かな動揺を隠せなかった。
「そんなこと……ないよ」
 心の奥底に押し込めながら、吐き出したくても吐き出すことのできない、彼女の苦悩。
 僅かな言葉の間が、その存在を表しているかのようだ。
「お前が何をしようと誰と付き合おうと、それはお前の勝手だよ。男と付き合うことで寂しさが紛らわせるって言うんならそれでもいいさ。だけどな、それは一時的にごまかせてるだけで、問題の根本的な解決にはなってないぞ」
「……何勝手に想像してベラベラしゃべってんのよ。違うって言ってるでしょ!」
 キレ口調で言い返すしのぶに、五嶋はそれでも穏やかな口調で続けた。
「お前が何か言ってくれって言うから、言ってるだけなんだけどな……まあいいや。お前が違うって言うんなら、そういうことにしとこうや」
 五嶋はまたもや無責任に話を打ち切った。
 さて、今度はどう出てくるか──
 反応を待っていると、意外にもしのぶは今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。
 それから先、アパートに着くまでに彼女は一言も喋らなかった。五嶋もまた、その沈黙に付き合ってそれ以上の話をしなかった。彼女に考える時間を与えたのだ。
 しのぶの住むアパートは、学校の正門を出てすぐのところにある。実家はこの街から車で三時間はかかるところで、しのぶは入学時からここで一人暮らしをしていた。
 アパートの前で車を止め、サイドブレーキを引くと、しのぶはずっと伏せていた顔をやっと五嶋に向けた。
「先生ってさ、不思議な人だよね」
「え?」
「学校でも怒ったとこ見たことないし、何やっても誰に対しても冷めてるカンジで、他人に興味ないんだと思ってた……」
「ほう、そんな風に見えたか」
「でも違う……そうやって油断させておきながら、さりげなく揺さぶりかけて、はぐらかしてはこっちの口を割らせようとしてる……見かけによらずタチの悪いオヤジね」
「まだ三十六だぞ。オヤジはないだろ」
「ほら、またそうやってはぐらかす」
 五嶋は鼻で笑った。
「──で、口を割るつもりはないのか?」
 すぐに答える気にはなれないのか、しのぶは五嶋のコートに埋まるようにして、ルージュに彩られた口元を隠す。
 が、直に諦めたように、コートの下から口を開いた。
「……先生は一人で寂しくないの?」
 不安そうな、眠たそうな表情だ。
「誰もいない家に一人で帰るの、辛くないの?」
 五嶋は煙草を取り出し、火をつけて、ゆっくりと煙を吐き出してから答えた。
「そうだなぁ……冬は寒いから家が暖まってるといいなとは思うけどな、寂しいとは思わないなぁ」
「……強いんだね」
 消え入るような小声で、しのぶは呟いた。
「私は……一人はイヤだな」
 ブーツを履いた爪先を見つめる横顔。色の白い頬が薄暗い車内で眩しくさえある。
「家で一人、夜を過ごすなんて耐えられない。誰でもいいから、眠るまでそばにいてほしいの」
「それで、夜な夜な街に出ては、添い寝してくれる男を引っ掛けてるのか」
「ミもフタもない言い方ね。ま、その通りなんだけど」
「でも──そんなこといくら繰り返したって、この先も何も変わらないぞ」
 しのぶは返事もせず、黙り込んだ。その姿はまるで叱られた子供のようだ。
 五嶋は突如灰皿を引き出して、煙草の火を押し消した。
「……これ以上は説教になっちまうな。このへんにしとくか」
 しのぶは慌てたように身体を起こした。
「ちょっと! 何、その無責任な終わらせ方──」
「オレはお前じゃないから、お前の悩みがどのくらいのもので、何が原因かなんてわかりゃしないさ。オレにできるのは、問題について考えるきっかけを与えることだけだ。これ以上のカウンセリングは、他でやってくれ」
 しのぶは切れ長の目を吊り上げて五嶋をじっと睨みつけていたが、やがて目をそらし、深く嘆息した。
「……やっぱり先生って変わってる。そうやって突き放したフリして、本当は答えがわかってるんでしょ?」
「さあな」
「ズルイ男……」
 しのぶは呆れたように、またため息をついた。
 少しやりすぎたかな──五嶋がそう思ったのも束の間。
「でも……おもしろい。先生みたいな男の人、初めて。もっと知りたくなっちゃった」
 何か新しい企みを思いついたように、悪戯っぽく笑う。やはり一筋縄ではいかない少女だ。
「ね、今日は先生が添い寝してくれない?」
 彼女の艶やかな唇が、五嶋の横顔にずいと迫った。
「先生なら、添い寝以上のことはしないでしょ?」
「オレに据え膳を食うなって言うのか?」
「お望みなら、食べてもいいけど?」
「遠慮しとくよ。お前食ったら、毒に中って死にそうだからな」
「何よぉ。先生こそ腹ワタがドロドロ真っ黒で、生臭くてアクたっぷりで、煮ても焼いても食べられませんってカンジだけど」
 きれいに手入れされた指先を、五嶋の頬に突き刺す。
「でも、食べてみたら案外通好みの美味しい味かもしれないね」
「モノは言い様だな。何なら、本当に食べてみるか?」
 そう言って差し出した五嶋の腕に、しのぶは口を大きく開けて噛み付くフリをしながら、サッと身を翻して車を降りた。
「とっくに賞味期限切れでしょ? 腐ってんじゃない」
 運転席側に回ってきて、開けた窓から小憎らしい笑顔を見せる。
「何を言う。オレはまだまだ新鮮だぞ」
「ムリしちゃって。年寄りは早く帰って寝なよ」
「お前なあ……せっかく送ってやったのに、その言い草は何だよ」
「だって、添い寝してくれそうもないし、望みがないならさっさとオサラバするだけでしょ? おやすみ」
 しのぶはクルリと背を向けて、アパートの階段を音を立てて上り始めた。
 まったく、食えないヤツだ──
 窓を閉めようと、スイッチに手をかけた、その時。
「あ、先生」
 しのぶがこちらを振り返った。窓から身を乗り出して応える。
「……明日の夕方、先生の教官室に行ってもいい?」
 そう言ったしのぶの顔は妙に真剣だった。
「いいぞ。コーヒーぐらいご馳走してやる」
「シャンパンぐらい用意してよ」
「バカ言うな。学校の中だぞ」
「しょうがないなぁ……じゃ、それでガマンしてあげる」
 憎まれ口を叩くその表情は、少し安堵したかのようにも見える。
 再び階段を上り始めたしのぶの後姿を確認して、五嶋は車を出した。
 しのぶが何かしらの悩みを抱えていることは、だいぶ前から気づいていた。こんな自堕落な五嶋でも教育者の端くれ。受け持っている学生に対しては最大限の注意を払っている。
 だが、真正面から聞いたところでそれを素直に喋るような子ではないし、下手を打てばこちらがやり込められそうな相手だ。彼女が他の教官から敬遠されるのは、そういう大人をバカにしたところがあるからだ。
 奇行ともいえる男性関係、目まぐるしく変わる感情、そして時折見せる寂しげな顔──しのぶのそういう行動は、彼女なりのSOSだったのではないかと思う。
 もっと早くに気づいてやるべきだった。
 卒業まであと半年。教官として、彼女にどれだけのことをしてやれるだろう。

□□□

 しのぶが五嶋の教官室のドアをノックすると、中から気の抜けた返事が返ってきた。ドアを開けると、最初に目に入ったのは級長の諏訪の顔だった。
「諏訪くん?」
「あれ、しのぶさん? 珍しいね、ここに来るなんて」
 端正な顔をほころばせて、諏訪が微笑む。天が二物を与えてしまった級長の向こう側で、むさくるしい顔の五嶋は肘掛椅子にどっかりと座り、仕事もせず週刊誌を読み漁っていた。
「来たか」
 五嶋がニヤリと笑うので、しのぶも負けじと笑って見せる。
 その二人の間で怪訝な顔をしているのは、事情を知らない諏訪だ。
「何か……あったんですか? しのぶさんもどうしたの?」
 本当のことを言うわけにもいかず、しのぶは笑ってごまかした。
「うん、まあ、ちょっと先生のとこに遊びに来てみただけ。でも大した用事じゃないから」
 そう言って後ろ手にドアを開けようとしたしのぶを五嶋は目で制し、そして諏訪に言った。
「諏訪、今日はもう帰っていいぞ」
 諏訪は仰々しく驚いた。
「え? まだ書類整理終わってませんよ」
「んなもの明日でいいよ。ほら、結城が待ってるんだろ? 早く行ってやれ」
「そんなこと言ったって……」
 諏訪は五嶋と苦笑いを浮かべるしのぶの顔を交互に見比べる。頭の中で、これからこの二人の間で何が行われるのか、必死で考えているのだろう。他の学生ならともかく、しのぶと五嶋という滅多に見ない組み合わせだから、彼が怪しむのも無理はない。
 しばらく考えた後、諏訪は諦めたように笑った。
「わかりました。僕は帰りますよ」
 それ以上の細かい詮索をすることもなく、諏訪はどこか腰の引けているしのぶを応接セットのソファへと誘った。
「しのぶさん、ごゆっくり」
 最後、そう言って諏訪は片目を瞑って見せた。しのぶにしてみれば、彼が変な勘違いをしてるのではないかと逆に心配になる。
 諏訪が部屋を出て行くと、ドアがやけに大きな音を立てて閉まった。その後に訪れた静けさが、しのぶの身体を縛り付ける。
「……何を緊張してるんだ?」
 突然、背後から声がしたので、しのぶの心臓は飛び跳ねんばかりに脈打った。
「き、緊張なんか……して……ないわよ」
 上手く回らない口が下手な嘘を露にする。
 自分でも何でこんなに焦っているのかよくわからない。
 いや──本当はわかっている。
 この男の手にかかれば、全てをさらけ出してしまいそうな、そんな危険。
 嘘も、悩みも、本心も、何もかもを喋らされてしまいそうで、怖い。
 五嶋に何かを言いたいような、何も言いたくないような、そんなどっちつかずな気持ちのままでこの部屋に来てしまったことを、今更後悔してももう遅い。
 五嶋は立ち上がり、戸棚からマグカップを取り出すと、しのぶに背を向けて何かを作り始めた。ポットのお湯をカップに注ぐ音が、変な薬品を注いでいるようにも聞こえて恐ろしくさえ感じる。
 真向かいに腰を下ろした五嶋は片方のマグカップを差し出したが、しのぶはすぐに手を出す気にはなれなかった。
「……何か言いたいことがあって、ここに来たんだろ?」
 そう切り出されても、すぐには素直になれない。
「言いたいことなんてないよ」
「じゃあ、何でここに来たんだ?」
「別にぃ。ただの気まぐれよ。今日は何も予定ないし、暇つぶしにでもと思って」
 昨夜のことははっきり覚えている。
 ほんの少し、寂しい気持ちを五嶋に見せてしまったこと。
 夜という時間のせいで、五嶋に揺さぶりを掛けられて弱った心のせいで、魔が差したとしか言いようのないあんな醜態を晒してしまったのだ。そう信じたい。
「そうか……ま、お前は正面切っても正直に喋るようなタマじゃないからな。相当ヒネくれてるよ」
「人を性悪女みたいに言わないでよ」
「性悪でもなんでも、ここまで来た以上は喋ってもらうぞ」
 五嶋の両目がしっかりとしのぶを捕らえた。
 今までずっと、五嶋のことをただのクラスの担任教官としか見ていなかった。他の教官のようにあれこれ口うるさく言わない有難い存在であったことは確かだったが、それ以上の何者でもなかった。
 それがどうしたものか。
 気がついたら五嶋のペースに乗せられ、ここにくる羽目となり、そして今窮地に追いやられている。
 しのぶは初めて、五嶋の顔をしっかりと見た気がした。
 普段はダレきった覇気のない顔をしているのに、たった今、自分をじっと見据えているその目には力を秘めた妖しい光がある。
 しのぶの一挙手一投足を見逃すまいとしてるのか、視線を外そうとしないどころか、瞬きさえしていない。
 背筋が寒くなって、しのぶは狼狽を隠そうと目の前のカップを掴んで口に運んだ。
「そのコーヒーな」
 口をつけようとしたその時、五嶋はあざ笑うかのように言った。
「自白剤が入ってるんだ」
「……自白剤?」
「そう、自白剤。飲んだら最後、全てを話さずにはいられなくなるってやつさ」
「まさか……そんなものが簡単に手に入るわけないでしょ」
「ま、それもそうだな」
「え? 何? 嘘なの?」
「お前の言うとおりだ。そんなアブないものが簡単に手に入るわけがない」
 しのぶは呆れた。全く、冗談にもほどがある。
「あのねぇ、人を脅かすのもいい加減にしてよ!」
「何だ、一瞬でも信じたのか?」
 しのぶは言葉に詰まった。薬が効いて、この口が勝手にあることないこと喋りだして止まらなくなる様を想像したことは確かだ。
 飲む気をなくしてカップを置いたしのぶを、五嶋はまた意味ありげにせせら笑った。
「飲まないのか?」
「先生が変なこと言うから飲む気がなくなったの」
「……怖いんだろ。本当に入ってたら……そう思って怖くなったんだろ。違うか?」
「違うわよ!」
「そんなに喋ってしまうのが怖いのか? お前、案外小心者だな」
「だから違うって言ってるでしょ!」
 腹立ち紛れにしのぶはカップを引っつかむと、冷めかかったコーヒーを口に含んだ。
「……飲めばたちまち喉が熱くなり、それから全身が熱を帯びたように熱くなる。やがて脳の神経に作用し、意識が朦朧として、ついにはオレの質問に抗うことができなくなる」
 既にしのぶは味わう暇なく、コーヒーを喉に流し込んだ後だった。
 口の中が変だ。コーヒーの味とは違う。
 そうこうしているうちに喉が熱くなってきた。まさか……?
 五嶋はただじっと、しのぶを見つめている。微動だにせず、不気味に微笑みながら妖しい光を宿した瞳でしのぶの身体を射抜くように凝視している。
 段々と身体まで熱く感じてきた。
 喉が渇く。唾を飲み込んでも、渇きは癒されない。
「効いてきたか?」
 ──そんなはずない! そんなはずは……
 いつの間にか口を開けて、喘ぐように呼吸している自分に気づいた。
「……騙したわね」
 掠れ気味の声を絞り出すものの、ひりつく喉からうまく声が出ない。
「洗いざらい全部吐いちまうか?」
 悔しさでしのぶの目に涙が滲んできた。
 ──こんなヤツの口車に乗せられた私がバカだった。このまま前後不覚に陥って、全部吐かされるんだ、きっと……
 ああ、悪魔が笑ってる……悪魔が私をあざ笑ってる……
「何が……可笑しいのよ」
 五嶋は横を向いて、必死で笑いを噛み殺していた。可笑しくて苦しくてたまらない、そんな顔がしのぶの心を逆撫でする。
「人が……苦しんでるのが……そんなに……可笑しいの!」
「お前、まだ信じてるのか?」
「何を?」
「本当に自白剤飲まされたと思ってんのか?」
「え? 違うの?」
「お前が自白剤だと思ってるのはコレだ」
 そう言って、五嶋が取り出したのは一本の黄色いチューブだった。
「……ハァ?」
 しのぶは目が点になった。
「何それ……ショウガ?」
 ──変な味がしたのも、喉が熱いのも、全部コレのせい?
「お前も単純だなぁ、こんな簡単な騙しに引っかかるなんて」
 そう言って軽く吹き出した五嶋のマヌケな横面が、しのぶを正気に戻したのと同時に、煮えたぎる怒りを湧き上がらせた。
「……っざけんなよ、このクソジジイ!」
「涙ぐみながら凄まれても全然怖くないぞ?」
 ニヤつく五嶋にそう言われて、しのぶは慌てて袖で涙を拭い去った。
「これが教官のやることかよ!」
 叩き割らんばかりの勢いで机を殴りつけて立ち上がったが、五嶋はひらりとかわすようにソファを立った。
「あー面白かった」
 五嶋の無防備な背中によっぽどナイフでも突き立ててやろうかと思ったが、手ごろなものが近くにないのが残念だ。
 強い緊張状態から急に解放されたせいか、全力疾走した後のような疲れの波がどっと押し寄せてくる。その波に押されるままにまたソファに座り込んでしまった。
「ほらよ」
 振り返った五嶋が、別のマグカップを新たに差し出した。
「口直しだ。今度は何も入ってないよ」
 しのぶにはそれを拒否するだけの気力はもはや残っていなかった。疲れた顔でそれを黙って受け取り、僅かに躊躇っただけですぐに口をつけた。
 今度のコーヒーは格段に美味く感じた。
 胸いっぱいに吸い込んだ芳醇な香りと、喉から全身に染み渡るじんわりとした温かさ。張り詰めていた心と身体がゆっくりと解きほぐれていく気がする。
 飲み終わった頃には、怒る気も失せていた。
 疲れきった身体をソファに深く沈めて、カップの底に残るコーヒーの雫をぼんやりと眺めていると、何処からともなく五嶋の声がした。
「おふくろさんのことで、悩んでるんだろ?」
「うん……」
 頷いてしまってから、しのぶは驚いて顔を上げた。
 五嶋は、いつの間にかまた目の前に座って、こちらを見て意地悪く笑っていた。
「……コレがホントの自白剤ってヤツさ」
「あ……」
 ──ヤラれた……
 一気に目が覚めた気分だった。
 何て手のこんだ悪戯をする奴なんだ、と思っていたら、これが本当の目的だったのだ。
「なんてヤツ……信じらんない……」
「バーカ、騙されるお前が悪いんだよ」
 そう言われてしまっては、ぐうの音も出ない。
 もはや逃げも隠れもできなかった。
 一つため息をついて、しのぶは気持ちの整理をつけた。が、一度覚悟を決めてしまえば、言葉は意外なほど簡単に口から滑り出す。
「──私ね、母親が大っ嫌いなの」
 五嶋は面食らうこともなく、平然と話を続けた。
「お前のとこは確か母子家庭だったな」
「そ。十年前にパパと別れて、それ以来母一人子一人」
「立派な母親じゃないか」
「ホントにそう思う?」
 しのぶは皮肉たっぷりな笑みを浮かべて見せた。
「離婚の原因は、母親の浮気にあったの。それも一度や二度じゃない、それこそ男をとっかえひっかえで、パパが愛想を尽かして出て行ったのよ。世間じゃ美人女社長だなんて持て囃されてるけど、娘の私から見ればただのアバズレババア。いいトシしたオバハンが何やってんだかってカンジ」
「酷い言い様だな」
「子育てだって満足にできてないんだよ。家事も育児も他人にまかせっきり。それで自分は金に飽かして毎晩遊び歩いて……母親らしいことの一つもしてくれない、バカな女だって思ってた。そんなのをずっと見てきたからさ、私は絶対こんなふうにはならないって、なりたくないって思って、家を出るために遠く離れたこの学校に来たんだ」
 物心ついたときから、夜は嫌いだった。
 思い出されるのは家を出て行く母親の着飾った背中、きつい香水の匂い……そればかり。
 それらの意味を知ったとき、母親を恋しく思う気持ちは嫌悪に変わった。
「でもさ……いつの間にか、大嫌いな母親と同じことしてんだよね……」
 一人になることを望んで家を出たはずなのに、孤独な夜に耐えられなくて、夜ごと出歩いては男の腕の中に潜り込んでいた。
「どこで間違っちゃったんだろ……こんなことやめようって思うんだけど、夜になるといてもたってもいられなくなって、誰でもいいからそばにいて欲しくなるんだ」
 肌のぬくもりを感じていても、そこは決して安住の地ではなく、抱えきれない寂しさが癒されることは絶対にない。
「母親のこと、けなす資格ないよね。私も同じことしてんだもん。ホント、イヤんなっちゃう……」
 そう言って、しのぶは笑った。内に秘めていた寂しさを隠そうともせず、今にも泣き出しそうな笑顔だった。
 それきり、しのぶは口をつぐんだ。
 再び訪れた深い沈黙。しのぶは俯いて、五嶋はソファの背に大きくもたれて天井を仰いで、互いに思い思いの方向に視線を泳がせている。
 時計が静かに時を刻む音と、パソコンの低いノイズ。
 時折遠くから聞こえる学生の明るい笑い声がなければ、ここが学校の中であることを忘れてしまうくらいだ。
 晩秋の夕日はすでに落ち、ブラインドの向こうに垣間見える景色は宵の口を迎えている。
 あまりにも長い沈黙に、しのぶは五嶋が寝てるのではないかと心配になった。顔を上げると、五嶋は相変わらず天井を見つめていたが、その眼が光を反射していることに気づいた。
「夜になるといてもたってもいられなくなる、か……そういう気分になるときもあるよな」
 突然の五嶋の言葉に、しのぶには驚きを隠さなかった。
「え……先生もそういう時、あるの?」
「あるにきまってんだろ。一人で鍋をつつくには寒すぎる夜だってあるよ」
「へー、なんか意外。先生ってそんなの全然気にしない人だと思ってた」
「たまにはそういうこともある」
「で、先生はそういう時、どうするの?」
「そうだなぁ……行きつけの飲み屋に行ったり、お気に入りのオネーチャンがいるスナックに行ったり、あとは……」
「あとは?」
「泡の国に行ったり……」
「えっ、マジで!」
 五嶋はただ笑うだけで、それ以上のことは言わなかった。
「……ま、オレにはお前のやってることについて、とやかく言う権利はないってことだ。毎晩男と遊び歩いたって、喜んで付き合ってくれる男がいるだけ有難いもんだ」
「何よ……相談しがいのない先生……」
「問題の根っこはそこじゃない、もっと別なところにある」
 しのぶは先を促すように五嶋の目をじっと見つめたが、五嶋は焦らすように煙草に火をつけ、煙を大きく吐き出してから言葉を続けた。。
「……お前、実家には帰ってるのか?」
「帰るわけないじゃん。あんな親の顔なんて見たくない」
「だろうな。電話もしてないのか?」
「たまにケータイにかかってくるけどね。ムシよ、無視」
「こんなこと、お前に言っても無駄かもしれんがな」
 挑発的な物言いに、しのぶはほんの少し目を吊り上げた。
「オフクロさんと、一度じっくり話し合ってみる必要があるんじゃないか? 嫌いだから、っていうもっともらしい理由をつけて母親から逃げ回ってるばかりで、言いたいことの一つも言えずに心の中に溜め込んでるんだろ」
「言いたいことなんて……」
「母親と面と向き合って、無視されるのが怖いか?」
 図星だった。しのぶは明らかに顔色を変えて、五嶋に食って掛かった。
「違う!」
「ならはっきり言ってやろうか。お前はな、母親の愛情に飢えてるんだよ」
 しのぶは急に色を失って、唇をわなわなと震わせはじめた。
「だから代わりの愛情を手軽に得ようと、毎夜男を渡り歩く破目になるんだ。違うか、え?」
 言い返すことなどできなかった。
 五嶋の言うことは、恐ろしいほどよく当たっていたからだ。
 言葉の代わりに、しのぶの瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。拭っても拭っても、涙は次から次へと溢れ出す。
 しのぶは五嶋の顔を見つめたまま、泣いてボロボロになった顔を隠そうともせず、ただただ涙を零し続けた。
「……そんなに泣くなよ。オレが泣かしたって思われるだろ」
 気がつくと、五嶋がティッシュの箱を差し出していた。この男にしては珍しく困ったような表情で、逆にそれが追い詰められていたしのぶの心を解きほぐす。
「……先生が泣かしたんじゃない」
「女泣かせるほどオレはモテる男じゃないんだよ」
 泣き顔のまま軽く吹き出して見せると、五嶋もやっといつもの憎たらしい表情に戻った。
 箱ティッシュをひったくるように奪い、数枚取り出して鼻をかむ。
 顔を覆って涙を拭き、それをゴミ箱に捨てる頃にはしのぶもすっかり元通りの悪女に戻っていた。
「男に泣かされたのは初めてだわ。先生もなかなかやるじゃない」
「褒めたって何も出やしないぞ」
「ホントは女喰いまくって泣かせまくった悪い男なんじゃないのぉ?」
「こんな立派な紳士に向かって何を言う」
「紳士って言うよりは、ホームレスよねぇ」
「お前、ひどいこと言うなぁ」
「先生ほどじゃないわ」
 視線を交わして、そして口元に笑みを浮かべる。しのぶはカバンを掴み、おもむろに立ち上がった。
「帰る」
「そうか」
 ドアに向かうしのぶを引き止めようともせず、見送ろうと五嶋はドアまでついてきた。
 ドアノブに手をかけたところで、ふと、しのぶは五嶋を振り返った。
「先生……」
「ん、なんだ?」
 しのぶの目に映る、五嶋の平然とした顔。
 こちらから迫ればかわされ、逆にかわそうとすると追い詰められる。こんなつかみ所のない男は初めてだ。
 それなのに、表情のない五嶋の顔を見ていると奇妙な安心感に包まれる──そんな自分に気づいて、しのぶの胸が微かに疼いた。
「先生の言うとおりかもしれない……」
 その疼きをかき消すように、しのぶは言葉を吐き出した。
「私、ママに避けられるのが怖くて、いつの間にかまっすぐ顔を見るのさえ恐ろしくなってた。いつもケンカ腰で会話するくせに、正面きってケンカすることさえできなかった……」
 母親の顔を思い出そうにも、ちゃんと見ていないからはっきり思い出せない。口紅を塗った唇だけは思い出せるのに。
 何もかも、五嶋の言うとおりだ。
 顔を会わせればいつも言い争い。そのくせ売り言葉に買い言葉みたいなケンカばかりで、本心など吐き出せなかった。目を合わせるのが怖くて、目をそらされるのが怖くて、いつしか真正面から母親の顔を見ることが出来なくなっていた。
 ドアに寄りかかり、心情を表すかのように目を伏せたしのぶに、五嶋は温かみさえ感じさせる穏やかな低音で話し掛けた。
「親と真面目にケンカすることだって、大切なことだ。自分の気持ちをちゃんと伝えたかったら、言いたいこと全部言って、本音ぶつけてみろよ」
 五嶋が教官らしいことを言ってくれたのがうれしかった。
 ずっと誰かに叱ってもらいたかった。心のモヤモヤを吐き出して、受け止めてもらいたかった。
 その相手が五嶋でよかったと、しのぶは今更ながら思う。
 けれど、この男に正面から礼を言うのは何だか癪だ。さっきも悪戯されてからかわれたばかりだし──なら、こちらもやり返せばいい。
 次の瞬間、しのぶの右腕が五嶋の首に巻きついていた。しなやかな腕は、驚く五嶋の顔をグイと引き寄せる。
 安らぎさえ感じる、煙草の匂い。
 自分と五嶋。何となく、似たもの同士。人生を真っ当に生きていない者同士だ。
 しのぶは五嶋の頬に、軽く唇を押し当てた。
 一陣の風のようなキス。硬直している五嶋を残し、しのぶは電光石火の早業でドアを開けて教官室を出て行く。
 今頃、五嶋がどんな顔をしているのか──廊下を早足で歩くしのぶはそれを考えただけで笑いがこみ上げてきた。


十一月

「そう言えば、この間、珍しくしのぶさんが遊びに誘ってくれたんですよ」
 今日も今日とて教官室で競馬新聞を読み耽っている五嶋に向かって、諏訪は忙しなく働きながら言った。
 諏訪の話では、諏訪の彼女である結城春賀としのぶは学校では仲がよいが、校外で一緒に遊ぶようなことは今までほとんどなかったらしい。それが先日、二人ともに夕食に招待されたと言う。
「三人で鍋したんですよ。しのぶさんて一人暮らししてるだけあって、料理うまいんですね。パッと見は料理なんかしなそうな感じなんですけど」
「鍋ねぇ……うらやましい限りだ」
「今度は先生も誘おうって言ってましたよ。一人で鍋をつつく可哀想な独身男を励まそうって」
 雑誌越しに諏訪をジロリと睨む。諏訪は慌てて顔の前で手を振った。
「僕が言ったんじゃないですよ。しのぶさんが言ったんです」
「ったく、あいつめ……」
「今日は女二人でカラオケだそうです。なんか最近、しのぶさん変わってきたんですよね……」
 意味ありげな諏訪の視線を受けても、五嶋は気づかないふりをした。
「……先生、しのぶさんと何かあったんですか?」
「何かって……何だ?」
「とぼけないでくださいよ。この間、しのぶさんがここに来た時から、あの日からしのぶさんの様子がなんがちょっと違うんですよね」
「何もないよ」
「そうかなぁ……」
 そう言って諏訪は首を捻ったが、五嶋は内心でほくそえんでいた。
確かに、少しずつではあるがしのぶは確実に変化している。
授業中の態度は相変わらずだが、心なしかすっきりとした顔つきになって、五嶋と目が合えば意味ありげな笑顔を見せるようになっていた。
 諏訪の話からすると、毎夜の男遊びの生活にも変化が現れているようだ。
 そのことは後日、しのぶの口から直接聞くことができた。
「最近はね、春賀と諏訪くんの邪魔をする小姑になってるの」
「なんだ、もうババアになったのか」
「あの二人見てると面白いんだもの。もうすぐ卒業だし、そしたらあの二人とも会えなくなっちゃうなと思ってさ、今のうちに色々けしかけとこうと思って」
「他人より自分のことを心配しろ」
「大丈夫。私はちゃんといい男を捕まえますから」
「選びたい放題だもんな」
「みんな別れたわよ」
「ほう!」
 茶化して大げさに驚いてみせたが、しのぶは意外に神妙な面持ちだった。
「何だか急に面倒くさくなっちゃって……一緒にいてもつまんないことも多かったしさ、キレイさっぱり清算したの」
「そうか」
 五嶋はそれ以上、褒めも笑いもしなかった。
 夜の七時を過ぎ、五嶋が帰り支度を始めた頃になってから、しのぶが一人教官室にやってきたのは、自分にそれを話したかったからだろう。
 が、それ以上に、男関係を清算したものの夜になって人恋しさが募って、誰か頼れる人間にそばにいてほしかったのではないだろうか。
 こっちの都合も聞かずにいきなり入ってきて、勝手にコーヒーを淹れてソファに居座ったしのぶの背中を見ていると何となくそう思えてくる。
「……この間ね、ママに電話した」
「何て?」
「『冬休みには帰る』って……今はそれが精一杯だった」
「上出来だよ」
「そう? 先生にそう言ってもらえたら、少し気が楽になったよ」
 しのぶは振り返って、彼女らしくない柔らかな笑顔を見せた。
「先生ってさ、学生の相談なんか乗らない人だと思ってた」
「まあ仕事だからな。宮仕えの苦しいところだよ」
「またそんなこと言っちゃってさ。先生って案外照れ屋さんなんだね」
「そうかぁ?」
「……思ってたよりもずっとイイ人だね」
 しのぶにそこまで言われると、なんだか背中がむずがゆくなってくる。
「お前……どうしたんだ? そんなに持ち上げても何も出ないぞ?」
「先生に貢いでもらおうなんて思ってないから安心して。公務員の安月給じゃたかが知れてるでしょ」
 それでこそしのぶだ。毒のない彼女はワサビのない寿司のようでなんだか物足りない。
「じゃあお前が貢いでくれよ。最近じゃビールも高くて発泡酒ばっかりでな、たまには高い酒も飲みたいよ」
「ドンペリとか?」
「いいねぇ。もっとも、オレの給料じゃ買えないけどな」
「またまた……独り者なんだから貯めこんでるんでしょ」
「競馬やパチンコでスッちまうんだよな、これが」
「うーん、教職者にあるまじき振舞いねぇ」
 しのぶのコーヒーが空になっているのを確かめて、五嶋は立ち上がりロッカーからコートを取り出した。帰る意思の表れだ。
 しのぶは僅かに表情を曇らせて、それを見ていた。
「……帰るの?」
「もう八時だぞ。腹減ったんだよ」
 そう言って座るしのぶの頭を軽く叩くと、彼女も諦めたように立ち上がって帰り支度を始めた。
 連れだって外に出ると、凛とした夜の冷気がむき出しの頬を突き刺してきた。
「今夜は冷えるなあ」
「透明な空……」
 しのぶの詩的な言葉に夜空を見上げると、冷え込む夜特有の澄み切った空に星がくっきりと瞬いていた。
 空を見上げるしのぶの横顔はどこかあどけなく、いつもは年齢以上に大人っぽい彼女を不思議と幼く見せる。
 校門を出ればすぐにしのぶのアパートだ。送っていくというほどの距離でもない。五嶋の住む官舎のほうが遠いくらいだ。
「寒いからな、風邪引かないようにしろよ」
「ね、先生、ご飯うちで食べてかない?」
 そう言って笑うしのぶがどこまで本気かわからないが、それだけ彼女が人恋しく思っている証拠だろう。
「バーカ、そんなことできるわけないだろ。仮にも学生と教官だぞ」
「そっか、そうだよね……んじゃ」
 五嶋が正論を唱えたのが気に入らなかったのか、しのぶはろくに挨拶もせず背を向けた。
「渡部」
 呼び止めると、しのぶはアパートの階段を登る足を止め、五嶋を見下ろした。
「……今度教官室に来るときは、食い物の一つでも持って来いよ。腹がふくれりゃもっと遅くまで仕事できるからな」
「じゃあ、ドンペリとキャビアでも差し入れしてあげるわ」
 唇の端に笑みを浮かべるその顔には、さっきのあどけなさの欠片も見当たらなかった。

 五嶋の真意はちゃんと伝わったようで、しのぶはたびたび手土産つきで夜の教官室にやってきた。
 さすがにアルコールを持ってくることはなかったが、学校近くのコンビニで買い込んだ食糧を携えてやってきては、気のすむまで他愛もない話を繰り広げた。
 しのぶは本当に頭のいい学生だと、五嶋は改めて思った。
 一回り以上も年の離れた学生とは話が合わないことが普通なのに、しのぶはどんな話にでもついてくる。際どいことを言ってもうまく切り返してくるし、返す刀で斬られることもしばしばだ。頭の回転が速い人間でないとこうは行かない。
 他意があるのかないのか、単に友達が少なくて話し相手がいないだけなのか。
 五嶋としてはしのぶの話は結構面白いし、退屈することがないのでいいのだが……
 しのぶは自分のことをどう思ってるのだろう?
 そんなことを考えて、五嶋はふと可笑しくなった。自分にもまだそんな感情が残っているとは。
 大体、相手は学生だ。そして自分は教官。
 他人より倫理とかモラルという言葉に縁遠い五嶋でも、学生と教官の間に横たわる一線の意味くらいわかる。
 ましてや、相手はあの「渡部しのぶ」だ。
 男を手玉に取ることなど屁でもない彼女のことだ。きっと深い意味はないのだろう。彼女にとって五嶋は、身近に見つけたグチを聞いてくれる話し相手の一人なのだ。
 教官室のブラインド越しに外を眺めると、既に日は落ち、夕闇が辺りを包んでいた。
 空から舞い落ちる細雪が地面をうっすらと覆い、見るもの全てを淡く白く化粧させている。
 もうすぐ十二月。冬休みが近い。休みが明ければ一月、あっという間に二月になって、五年生は早い春休みに入る。
 五年間付き合ってきた学生たちとももうすぐお別れかと思うと、感傷的になるというよりはホッとする気持ちだ。
 恩師とは言い難い担任だったことは間違いない。それでも、進学なり就職なりしてここを巣立っていく学生たちは、少しは自分のことを思い出してくれるだろうか──
 未だ遠い春に想いを馳せていると、慌しい声が教官室に飛び込んできた。
「ケータイの充電切れちゃった。先生、充電器ある?」
 ノックとほぼ同時にドアが開いて、返事をする暇もなくしのぶが入ってきた。
「オレは携帯電話なんて持ってないぞ」
「マジで? 信じらんない」
 ソファに荷物を放り投げ、まるでここの主のように部屋の中を闊歩しながら携帯電話の残り電池を確認している。
「あーやっぱダメだ……電源入んない」
「んなもの使えなくったって生活できるだろ」
「使えないと不安なのよ」
 振ろうが叩こうが、どうやっても電池は回復しない。しのぶはとうとう諦めて、電話をカバンに放り込んだ。
「先生マジで持ってないの? 不便じゃない?」
「別に。家に帰れば固定電話あるし、ここにもあるからな。それに携帯なんか持ってたら、休日も面倒な仕事の電話がかかってきてイヤだろうが」
「うーん……確かにそれもあるわよねぇ」
「休日くらい好きなことに集中したいもんだ」
「何言ってんだか。平日だって集中してるじゃない」
 そう言うしのぶの目線は、机の上の競馬雑誌に向かっている。返す言葉もない。
 しのぶはまた勝手にコーヒーを淹れて飲み始めた。ここは五嶋の城だというのにもはや我が物顔だ。
「ねぇ先生、中間テスト、どこ出るの?」
「そんなこと教えられるか」
「何よ、ケチ!」
「テストの心配する前に、時間数の心配をしたらどうなんだ? ギリギリだろ」
「平気よ、ちゃんと考えてるから」
「そんなこと言って、急に病気でもしたらどうするんだ? え?」
「大丈夫。こう見えて身体は結構頑丈なのよ」
「ちゃんと飯、食ってるのか?」
「食べてるわよ……何? 今日は人の心配ばっかりして……」
「若くして荒んだ生活送ってると、年取ってから急にくるぞ。もう老化が始まってんじゃないのか?」
「ちょっと! 失礼ねぇ……うら若き乙女に向かってそんなこと言うなんて」
 今日は一体何時までつき合わされるのだろうか。
 他愛もない話をただしているだけで、気がつけば二時間も三時間も過ぎていることがある。おしゃべりに没頭しているわけではないのに、しのぶと話し込むと不思議と時間が経つのを忘れてしまう。
 ふと時計を見ると、既に一時間が経っていた。
「……つーかさ、あの先生目がやらしいんだよね。エロイ目で人のこと見るなっつーの」
「お前がエロイ服ばっかり着てるからだろうが」
「今時このくらいの服じゃ、男だって簡単に振り向きゃしないよ」
「そうかぁ? そんな胸元大きく開いた服着てりゃ、オヤジなら誰だって目が行くと思うけどな」
「そう? 先生も見たいの?」
「見せてくれるのか?」
「タダじゃダメー」
「金取るなら別にいいや」
「ホントは見たいんでしょ?」
 内線電話のベルが鳴った。
「もったいつけるなよ」
 軽口を叩きながら五嶋は受話器を取った。
「はい、五嶋です」
『こちら学生課です。まだいらっしゃいましたか』
「そちらこそ遅くまでご苦労様です。で、どうかしましたか?」
『先生のクラスに渡部しのぶって学生がいましたよね?』
「はいはい、おりますが」
 しのぶに目を向けると、彼女はきょとんとして見つめ返してきた。
『その渡部しのぶの叔父と名乗る人物から、電話が入ってましてね』
「電話?」
『ええ。なんでも本人の携帯に電話しても繋がらないし、自宅には電話がないようで、連絡が取れないって学校にかけてきたみたいなんですよ』
「はあ……何か火急の用でもあったんですかね?」
 そう言いながら、五嶋は言い知れえぬ不安に胸騒ぎがし始めていた。
『先生、彼女の居場所……なんてご存知ありませんよね?』
「はあ……居場所と言うか……本人なら目の前におりますが」
『えっ? そこにいるんですか』
「はあ……たまたまですがね。本人に代わりますよ」
 それ以上の野暮な詮索をされたくなかったので、早々にしのぶに受話器を差し出した。
「お前に電話が入ってるそうだ」
「私に?」
「叔父さんかららしいが」
 しのぶは恐る恐る受話器を受け取ると、向こう側の職員と話し始めた。
「渡部です……はい、繋いでください」
 叔父らしき人物と話し始めたしのぶは、最初はただ気のない返事を繰り返しているだけだったが、次第にその顔色が変わってきた。
 電話を持つ手が細かく震えている。
 いつしか無言となり、無表情な顔は青ざめ、彼女の細面を一気に憔悴させた。
「……うそ……」
 一言呟いて、しのぶの身体が急に崩れ落ちた。
「渡部、しっかりしろ!」
 力なく床にへたりこんだしのぶは、大きく見開かれたその瞳から大粒の涙を零している。
「ママが……ママが……」
 うわ言のように呟くその言葉で、五嶋は全てを察した。
 垂れ下がった受話器を掴むと、しのぶに代わって何かを喚いている声に答えた。
「もしもし。御電話代わりました。渡部くんの担任の五嶋と申します」
『あ、これはどうも……しのぶの叔父の香田と申します。あの……しのぶは……』
「話ができる状態じゃありませんね。差し出がましいようですが、できましたら事情をお聞かせ願えますか」
『はい。あの、実は……しのぶの母親が交通事故で亡くなりました』
 ある程度予期していたこととはいえ、実際に言葉で聞くと胸に重くズシンとくるものがある。
「そう、ですか……ご愁傷様です」
『今日の昼ごろですか、本人が運転する車がガードレールに激突して大破しましてね。救急車で運ばれたんですが……病院で息を引き取りました』
「……ご事情はよくわかりました。本人が回復次第、そちらに戻るよう手配します」
『よろしくお願いします』
 しのぶの母親が死んだ──
 電話を切り、五嶋は胸の中の重苦しい空気を一度吐き出して、座り込むしのぶの背中を見つめた。
 母親の突然の死──悲しみに打ちひしがれて、動くどころか声を出すこともままならない。絶望に叩きのめされ、ただ泣くことしかできないのだ。
「渡部……立てるか?」
 しのぶの手をとっても、その腕に力はなく、何の手応えもない。
 仕方なく、五嶋はしのぶの身体を抱え上げるようにしてソファに座らせた。
「しっかりしろ。急いで実家に帰るんだ」
 しのぶの目を真正面から見据えても、彼女は宙を見つめたまま涙を溢れさせるだけだ。
 五嶋は時計を見た。しのぶの地元までは電車でも二時間半。この調子では、正気を取り戻すのを待っていたら、今日中には家に辿り着かないだろう。
 五嶋の決断は早かった。
 寮にいる級長の諏訪を教官室に呼び出し、それから官舎に戻って自分の車を持ってきた。何とか二人がかりでしのぶを車に乗せ、万が一明日戻ってこれなかったときのことを諏訪に託す。
 不安そうな顔で見送る諏訪を残し、しのぶの実家に向けて車を出した。
 ちらちらと舞っていた雪は、高速に乗るうちに本降りへと変わった。この雪では思うようにスピードが出せない。忌々しい雪だ。
 しのぶは未だ放心状態だ。闇夜を流れる雪を呆然と見つめ、青白い頬を晒している。
 五嶋は早く、安全に彼女を実家まで送り届けることに集中した。
 永遠に続くような、長い長い沈黙──時間の感覚さえ狂うくらいに、重く、苦しい空気が車内に張り詰めている。
 降りしきる雪は激しさを増し、白魔のように襲い掛かってくる。焦る気持ちを抑えながら、五嶋は車を安全に走らせることに心を配った。
 最寄りのインターチェンジを降り、市内をあと二十分も走れば着くだろうというところに差し掛かって、しのぶがいきなり口を開いた。
「……天罰かなぁ」
 その声は泣いてはいなかった。
「天罰?」
「ママに逆らってばっかりで、何一つ言うこと聞こうとしなかった。バカにして、蔑んで……自分も同じなのにね。やっとママの顔真正面から見る決心がついたと思ったら……神様が怒っちゃったんだね。親の死に目にもあわせてくれなかった……」
「らしくないな。お前が神様なんて信じるタチか?」
「あ、ひどーい。私だって神様にすがりつきたいときだってあるわよ」
「お前は神でも仏でも利用するだけ利用して、いらなくなったらすぐにポイって感じだろ」
「人のこと極悪人みたいに言うのやめてよ。先生のほうがよっぽど神をも恐れぬ極悪人だわ」
 静かに微笑んだその横顔には、もう涙はなかった。
 下手な慰めの言葉をかけるよりも、普段どおりの軽口を叩くほうが彼女にはいい。これだけの憎まれ口を叩けるならもう安心だろう。
 気を持ち直したしのぶの案内で、程なく実家に辿り着いた。
 この辺りでは豪邸の部類に入るのだろう。立派な門をくぐると広々とした庭に囲まれた豪勢な屋敷が見えてきた。五嶋の住む官舎の二LDKとは大違いだ。
 家の前にはたくさんの車が止まっており、もうすぐ日付が変わろうとする時間にもかかわらず、屋敷の中は煌々と明かりが灯って人が慌ただしく出入りするのが見えた。
 車を止めると、しのぶは自分の足でしっかりと降り立った。
「今頃になって……思い出すんだよね」
 玄関に向かう足を止め、彼女は言った。
「何を?」
「ママの顔。小さい頃に見た……幸せそうな笑顔。何でこんな時に思い出しちゃうんだろ」
 しのぶは寂しげに笑って見せ、そして俯いた。
「ね、先生……ママにどんな顔して会えばいいんだろ?」
 しのぶの黒髪に雪がうっすらと積もっている。それを掃うかのように、五嶋は大きな手のひらを頭の上に乗せた。
「泣きたかったら泣けばいい。怒鳴りたかったら怒鳴ればいい。気持ちに任せて、好きなようにしてみろ」
「うん……わかった」
 意を決して、しのぶは歩みを進めた。
 
 母親の遺体を目の前にしても、しのぶは取り乱すことはなかった。
 静かに合掌した後、震える手で白布をめくると、生前の美しさを彷彿とさせる母親の死に顔が現れた。
 しのぶによく似ている──五嶋はそう思った。
 閉じられた瞳が開かれることは二度とないが、その目もきっと似ていたのだろう。死化粧を施された顔ですら華やかだと感じる。
 しのぶは嗚咽することもなく、ただじっと母の顔を見つめていた。
 後ろで手を合わせ、その様子を見ていた五嶋には表情を窺い知ることはできなかったが、彼女は気丈に振舞い、ついに涙を見せることはなかった。
 通夜は明晩、告別式は明後日だという。
 これ以上ここに留まる理由は五嶋にはない。黙って帰ろうとすると、慌ててしのぶが外まで出てきた。
「先生、ありがと」
 さっぱりとした表情で、彼女は言った。
「忌引の手続きはオレがやっとくから、一週間ゆっくり休んでこい」
「うん、ありがと。なんか私、先生に『ありがと』って言ってばっかりだね」
「そう思うんなら何度でも言ってくれ」
「タダじゃ言えないわよ」
 その時、二人の横を一人の中年男が通り過ぎて行った。
 五嶋を値踏みするように見つめ、それからしのぶと意味ありげに視線を合わせ、軽く挨拶をして去っていく。
「あれ、元パパ」
 あごで指し示し、しのぶは鼻で笑った。
「十年前に家を出てって、今は再婚して奥さんも子供もいるんだ」
 そう言いながら、しのぶの目はずっと父親の背中を追っていた。
 実の父でありながら、今はもう父と呼ぶことも頼ることもできない。
 母親さえ失ってしまった彼女は、これから先、何を拠りどころに生きてゆけばいいのだろうか。
「ね、先生」
「ん、なんだ?」
「ちょっとだけ……胸貸してくれない?」
 そう言いたくなる気持ちは──五嶋にはわかるような気がした。
「高いぞ」
「ツケにしといてよ」
 減らず口に笑って腕を広げると、しのぶはゆっくりとその胸に顔を埋めてきた。
 天を仰ぐと、真っ黒な空一面に大粒の綿雪が舞っている。降り積もった雪はこのまま根雪になるだろう。本格的な冬の到来を告げるように、今夜は特に冷える夜だ。
 胸の中で小さくすすり泣くしのぶの肩をそっと抱く。
 伝わる温もりが、彼女が今ここで生きていることをしっかりと教えてくれたような気がした。


十二月

 後期の中間テストも終わり、明日からは冬休みが始まる。
 クリスマスイブの今日は午前で授業も終わりだ。ホームルームでどこか浮き足立つ学生たちを見ていると、クリスマスも冬休みも関係なく、四季の移ろいにさえ疎くなった五嶋でも何となく心浮き立つものを感じる。
 その学生たちもおのおの帰路に着いた。彼らは彼らなりに、イブの午後を思い思いに過ごすのだろう。
 ふと──しのぶのことを思い出す。今日のホームルームでもいつもと変わらず、聞いているのかいないのかわからない顔でどんよりとした雪空を見つめていた。
 忌引が終わり、学校に戻ってきたしのぶは、以前となんら変わりない笑顔であった。
 心配する諏訪や春賀をよそに、いつもどおりの男を小バカにしたような態度で、自信たっぷりに振舞う悪女ぶりには心配する余地など何処にもないように見える。
 が、それはあくまで表面上の話だ。
 いくら気丈に振舞っていたとしても、肉親を突然失ってしまった心の傷は深い。関係を修復しようと思い立った矢先のことだからなおさらだ。
 母親のことを完全に吹っ切るにはまだ時間がかかるだろう。
 それでも、五嶋はしのぶの芯の強さを信じていた。彼女くらいの知恵と度胸の持ち主なら、きっと一人で立ち上がれる──
 昼飯を食べ終わって、気だるい雰囲気に紫煙を燻らせていると、人がいなくなり、校内が静まり返っているのがよくわかる。イブを学校で過ごしたい物好きな学生などいるはずもない。
 今日は諏訪もとっくに帰って、この部屋に一人取り残された気分になる。
 それでも重い腰を上げて、たまっている仕事にイヤイヤながら手をつけた。これを終わらせなければ、正月を迎えられないのだ。
 いつもこき使っている諏訪も、いなければいないで案外仕事に没頭できる。
 気がつけば時計は十八時を回り、定時といわれる時間は過ぎた。ちょうどキリのいいところで一段落つけたということもあり、今日はもう帰ることにした。
 家に帰ったところで、シャンパンを飲むわけでもケーキを食べるわけでもないが、熱い風呂に入ってビールの一本でもあおるくらいの幸せは感じたい。四十手前の独身男にはふさわしいクリスマスイブだ。
 学校の敷地内の外れに教職員用の官舎はある。その官舎の一階の端の部屋が五嶋の住処だ。歩いて五分の距離だが、官舎につく頃には降りしきる雪が頭と肩に積もっていた。それを手で払い、ポケットから鍵を取り出す。ドアに差し込もうとして、五嶋は気づいた。
 ドアが僅かに開いている──
 面倒なことになった。この聖なる夜に、サンタクロースならぬドロボウに入られるとは……
 まだ中に犯人がいるかもしれない──が、万が一鉢合わせしたら、そのときはそのときだ。五嶋は静かにドアを開けて中に入った。
 見慣れない靴が一足、きちんと並べておいてあった。それだけではない、いつもは散乱している五嶋の靴もきれいに整理されている。
 意外だった。ドロボウならこんな几帳面なことをするはずがない。
 そう思っていると、何事もなかったかのような暢気な声が五嶋を出迎えた。
「あ、先生お帰り」
 不法侵入の犯人は片手にフライドチキンを、片手にシャンパングラスを持って現れた。
「渡部……」
 呆れて物も言えない。
 あまりにも堂々として、一つも悪びれていない。しかもフライドチキンに噛み付きながら、既に一杯引っ掛けている様子だ。
「先生遅いから先に始めてたよ」
 約束した覚えなど毛頭ないし、家に来るなんて一言も聞いていない。
 大体、担任の家のドアをこじ開けて入り込んだ上に、勝手に飲み始めているとは一体どういう了見なのか。
「寒いから早く中入ってよ」
 まるで自分の家のような物言いだ。
 コートを脱ぎ、他人の家に上がるような感覚でリビングのドアを開けると、いつもの冷え切った空気とは違う暖かい空気が身体を包んだ。
 テーブルの上には色とりどりの料理が並べられ、中央にあのドンペリが鎮座している。
「寂しい独身男のために、一緒にクリスマスを祝ってあげようってんだから、感謝してよね」
 勝手な言い分だが……無下に断る理由もないだろう。
 暖かい部屋に美味そうな料理と酒、そして出迎えてくれる人──それだけで心まで温かくなったのも確かだった。
「何一人で先に飲んでるんだ? オレにもくれよ」
「高いんだから、心して飲んでよ」
「どうせ男に貢がせたものだろ」
「あ、わかった?」
 ネクタイを外しながらテーブルの前に腰を下ろすと、しのぶが自分で持ってきたものだろうか、家にはないはずのシャンパングラスを渡され、黄金色の液体が注がれた。
「じゃ、乾杯」
「メリークリスマス」
 グラスを軽く合わせると、シャンパンを一気に飲み干した。空きっ腹だったせいか、胃が燃えるように熱い。
「一気にいくねぇ。駆けつけ一杯じゃないんだからさ、もっと味わって飲みなよ」
「ドロボウに入られたかと思って肝を冷やしたんだぞ。気付けの一杯だよ」
「だって、先生帰ってくるまで外で待つのイヤだったんだもん」
「それだけの理由で、他人の家をピッキングして開けるな」
「いいじゃん別にぃ。盗られるようなものなんてないでしょ」
 そう言われると妙に納得してしまうのが悲しいところだ。
 料理に手をつけると、これもなかなかに美味かった。ほとんどは買ってきたものらしいが、しのぶが唯一自分で作ったというサラダも、下手なお世辞を言う必要がないほどだ。
「おいしいでしょ」
 サラダをおかわりして食べる五嶋の横顔を嬉しそうに眺めながら、しのぶは言った。
「腹減ってるから何でも美味いんだよ」
「ちょっとは素直に褒めてよね」
 しのぶの頬が桜色に染まっている。酔いが回っているのか、いつも以上に饒舌だ。
 気がつけば、シャンパンの瓶が空になっていた。お互いに酒には強いようで、飲むペースが速い。五嶋は中身に乏しい冷蔵庫の中から缶ビールを出してきて、しのぶと開けた。
 それにしても──しのぶがいるだけで、この部屋がいつもより明るくなったように感じる。これが若さというものか。いつもが鬱々としているわけではないが、男やもめの生活にはない眩しいほどの華やかさが彼女にはある。
 美味い酒に美味い料理、そして話が弾む相手がいる──こんなクリスマスも悪くない。自分の話にケラケラと笑い声を上げる彼女を見て、五嶋は思った。
 料理をあらかた食べたところで、しのぶはケーキを取り出した。二人で食べきるのにちょうどいいサイズのショートケーキだ。
 クリスマスにケーキを食べるなんて、何年ぶりのことだろうか。
「やっぱ、クリスマスはケーキだよねー」
 小さな子どものように嬉々として、しのぶはケーキを二つに切っている。五嶋は彼女が今日ここに来た理由がわかったような気がした。
 しのぶもまた、クリスマスを一緒に祝う相手がいないのだ。
 ただ一緒に騒ぐだけの男なら、すぐに捕まえられる。
 けれど、世界が煌びやかに彩られるこの聖夜に、家族がいない寂しさを、大事な人を失ってしまった悲しみをわかってくれるのは、彼女にはきっと五嶋しかいなかったのだろう。
「美味いな、これ」
 酒飲みの五嶋でもそう言えるほど、確かにおいしいケーキだった。
「でしょ? 並んで買った甲斐あったわ」
 しのぶも小さい頃は、両親とともに和やかなクリスマスを過ごしていたのだろう。
 ケーキを口いっぱいに頬張って、唇の端についた生クリームをペロッとなめるその仕草を見てると、家族みんなが幸せだった頃のしのぶが目に浮かぶようだった。
「結構食ったなぁ」
 今日はしのぶのオゴリだという。先日実家まで送ってもらった礼だというのだ。
 その料理も残り少なくなり、残り物をつまみながら二人でビールをチビチビと飲んでいる。既に二十三時を過ぎた。しのぶもさすがに飲み疲れたようでペースがグンと落ち、会話も途切れるようになってきた。
「なんだ? ニヤニヤして……」
 口数が減った代わりに、しのぶはニコニコした笑顔で五嶋をじっと見つめている。深酔いしてるようには見えないが、その瞳が夜という魔の時間を反映して、妖しく光っているようでもある。
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか」
「えー? 夜はまだ始まったばかりでしょ」
「ここで飲み明かすつもりかよ」
「……それもいいかもね」
 しのぶは缶ビールの残りを飲み干して、息をついた。
「お前、飲みすぎだろ。送ってってやるから、帰って寝ろ」
「えーやだー」
「冬休み初日から二日酔いで過ごす気か?」
 そう言って、五嶋は気づいた。
「冬休みと言えばお前……正月はどうするつもりだ?」
「どーしよっかなー……実家に帰ってもしょうがないしねー……先生、おせち料理一緒に食べてくれる?」
 しのぶは冗談めかして笑ったが、五嶋は彼女の切れ長の瞳をまっすぐに見て、微笑んだ。
「またオゴってくれるならな」
 意表を突かれたように、しのぶはビックリして目を丸くする。
 それから彼女もまた微笑を浮かべて、五嶋の目をまっすぐに見つめ返した。
「……先生って、やっぱり優しいね」
 五嶋はその視線から逃れるように、横を向いてビールをあおった。
「ホメたって何も出やしないぞ」
 テーブルの向こう側に座っていたしのぶが、四つん這いでゆっくりと忍び寄ってきた。その姿は、長い尻尾をピンと立ててすまして歩く猫にも見える。
 しのぶは五嶋のすぐ横に腰を下ろすと、通った鼻筋を五嶋の横っ面に近づけた。
「ね、先生……セックスしようか」
 香水の甘い香りが五嶋の鼻をくすぐる。
 五嶋は表情一つ変えずに答えた。
「お前……やっぱり酔ってるな」
「酔ってないわよ。アレぐらいの酒で酔うほどヤワじゃないの」
「じゃ、オレをからかおうって魂胆か」
「もう、これだから先生はひねくれてるっていうの」
 そう言うと、しのぶは突然五嶋の唇を塞いだ。
 柔らかい唇の感触を楽しむ間もなく、生暖かい舌が口の中に滑り込んでくる。されるがままにしのぶに任せていると、床の上に身体を押し倒された。
 しのぶは五嶋の上に馬乗りになって、それでも唇は塞いだまま離そうとしない。
 口の中で五嶋の舌を絡め取り、拒否の言葉まで奪い去るかのようだ。
「……女に押し倒されるのは趣味じゃないんだがな」
 唇がようやく離れて、負け惜しみのようにそう言うと、しのぶは濡れた唇を満足げに歪めた。
「いいじゃない、たまには」
「満足したんなら、そこどいてくれ。重いぞ」
「あら、まだ満足してないわよ」
 しのぶは五嶋のワイシャツのボタンに手をかけた。
「……女に脱がされるのも趣味じゃないんだけどな。一体何が目的なんだ?」
「純然たる性欲」
 屈託のない笑みを浮かべて、彼女はそう言い放った。
「単にヤリたいだけだって言うのか?」
「そう。女だってヤリたくてしょうがない時はあるの」
 しのぶはボタンを外す手を止めて、五嶋の頬をそっと撫でた。
「一回ヤッたからって、恋人ヅラするわけじゃないから安心してよ。今夜一度きり」
「逆にオレがお前にイレ込んじまう可能性は考えないのか?」
 そう言うと、しのぶはどこか寂しげに笑って見せた。
「……私は三月になったら卒業して、ここからいなくなっちゃうのよ。だからさ、今夜一度きりのいい思い出にしようよ。後腐れは一切なしってことで」
「ずいぶんと都合のいい話だな」
「でも、先生にとっては悪い話じゃないでしょ?」
「そうは言ってもなぁ……」
 煮え切らない五嶋に、しのぶは意地の悪い笑みを浮かべた。
「まさか……教官と学生って関係に尻込みしてんじゃないでしょうねぇ? 怖いもの無しの五嶋先生がそんなことでビビってるわけ──ないわよねぇ?」
 こんな言い方をされては、退路が断たれたも同然だ。しのぶの作戦勝ち、前に進むしかなくなる。
 五嶋は腕を伸ばして、しのぶの顔を引き寄せた。
 今度は自らの意思で、軽くキスする。
「……後悔するぞ?」
 五嶋の問いに、驚くほど澄んだ瞳で、しのぶは言い切った。
「後悔なんて……しないわよ。先生だから……」
 彼女の瞳に映る自分の姿が、次第に揺れ始める。
 腕を引いて転がるように上下を逆転させると、乱暴に口付けして、しのぶの瞳の中から逃げ出した。

 眩しい朝の光に叩き起こされて五嶋が目を開けると、横に寝ていたはずのしのぶの姿はなく、消えかかったぬくもりだけが残されていた。
 身体を起こしてむき出しになった肌に、冷え切った部屋の空気が沁みる。
 部屋の中を見渡しても、彼女の影も形も見つけられない。殺風景な部屋がただ広がるだけだ。
 あれは夢だったんだろうか──なんて思えるほど、ロマンチストでもオプチミストでもない。あれが夢なら、自分のこの体たらくはなんだ?
 しのぶが出て行ったのさえわからないくらいに、深く眠っていたらしい。未だ身体に残る心地よい疲れが、それをはっきりと教えてくれる。
 寒さに震えてもう一度布団に潜り込むと、枕元に置いてあった一枚の紙切れが目に止まった。ベッドに横たわり、その紙を天にかざす。
『ありがとう。先に帰るね』
 流麗なしのぶの字。
 大きく息を吸い込むと、微かに香る彼女の匂いに胸がズキンと痛む。
 ため息をついて痛みを逃がし、眩しい朝日を遮るように腕で目を覆った。
「ありがとう……か」
 呟きは一人残された部屋に木霊して消える。
 目を閉じた暗闇に浮かぶ、しのぶの顔──
「後悔するのはオレのほうだったな」
 しのぶの気持ちには気づいていたはずだ。
 気づいていながら──なぜしのぶを抱いてしまったのか。
 彼女の口車に乗せられて? いや、違う。
 自ら乗ったのだ。しのぶの挑発を「口実」にして。
 自分の気持ちを確かめるために……いや、それでさえも気づいていたはずなのに。
 いつしか彼女を想っていた。
 朗らかな笑顔に、皮肉たっぷりな冷笑に、騙されて怒る顔に、瞳から零れ落ちる大粒の涙に──そして時折見せた、柔らかな春の陽のような微笑に、その全てに心奪われている自分がいた。
 その想いは少しずつ、それは音もなく深々と降る雪のように、いつしかこの胸に降り積もっていたのだ。
 罪悪感はさらさらない──と言えば嘘になる。超えてはならない「一線」に怖気づいていたわけではないが、歳の離れたしのぶに好意を抱いている自分に気がついて、恥ずかしさにも似た罪の意識を抱いたことは確かだ。
 そして今、罪は本物になった。
 しのぶが自分を愛しているとわかっていたのなら、彼女を突き放すべきだった。
『ありがとう』
 礼を言われるようなことは何一つしていないのに……
 情けではない。この想いは親切でも思いやりでもないのだ。
 あの時、しのぶに言った「後悔するぞ」という言葉は、本当は自分自身に向けられたものだった。
 その答えを彼女に託してしまった。彼女のせいにしてしまった。
 ほんの少しの罪悪感が、一線で踏み止まることも、素直に想いを伝えることさえも不可能にしてしまったのだ。
 五嶋はもう一度、大きなため息をついた。
 空っぽになった胸を満たすのは、深い後悔のみ。
 カーテンを僅かに開けて見えた空は青く、降り積もった雪が光を反射して忌々しいほどに眩しい。
 この雪が解けて春になれば──しのぶは学校を卒業して遠い地に旅立つ。
『私は三月になったら卒業して、ここからいなくなっちゃうのよ』
 しのぶの言う通りだ。
 卒業まであと僅か。
 そんな残り少ない時間で、自分に何が出来る? 彼女に何を残せる?
 引き止めてまでしのぶを幸せに出来るだけの力が、自分にあると言うのか?


一月、そして二月

「先生、これ、どうしますか?」
 諏訪が声をかけても、五嶋はボーっと外を見つめたままだ。
「先生……先生ってば」
「……ん? なんだ?」
「これ、どうするんですか?」
「ん? 何の話だ?」
 今日三回目のこんなやり取り。諏訪はため息をついた。
 歳が明けて一月。
 冬休みが終わり、学校に戻ってきた諏訪は、以前とは違う五嶋の僅かな変化に気づいていた。
 心ここにあらず。そんな言葉がピッタリだ。
 いや、この担任は元々こんな人間だ──と言われればそうかもしれないが、五年もこの教官室でこき使われてきた優秀な級長にはその違いがハッキリとわかる。
 こんな五嶋は初めてだ。
 五嶋はこう見えて、実に頭が切れる。
 耄碌したような惚け面は、実は相手を油断させる術なのだ。そうして相手が見せた隙に付け入り、弱みを握る。そうなったら最後、この男に骨の髄までしゃぶられ利用されるのがオチ。
 そして自身は弱みだらけのように見えて、その実付け入る隙など何処にもない。そんな人間だからこそ、こんな体たらくでも失職することなく助教授の椅子に座っていられるのだろう、と諏訪は思う。
 学生に対しても、何も知らないようで、実は細かいことまで何でも知っている。そんな千里眼、地獄耳の五嶋が……どこかおかしい。
 話を全然聞いていなかったり、目の前の物に気づかなかったり、そんなことが多くなったのだ。とうとうボケてしまったか──なんて本気で思うわけではないが、思いたくもなるボケっぷりだ。
 そんな時、五嶋は決まって窓の外を見つめている。今も降りしきる雪を眺めていた。
 今更雪に何の感慨もないだろうと思うのだが……その横顔を見ていると、なぜか授業中のしのぶを思い出す。似ている。
 おかしいと言えば、しのぶもだ。冬休みが明けた頃から、自分たちをやたらと遊びに誘うようになった。
 休み前、彼女が頻繁にここに出入りしていたことは諏訪も知っている。
 だが最近はここに姿を見せていない。五嶋からそんな話も聞かなくなったし、しのぶ自身も言っていた。
『最近? あー……なんか先生と話すのも飽きちゃったんだよねー。諏訪くんと春賀のジャマするほうが楽しいんだもん』
 そう言うしのぶの目が泳いでいたことを、諏訪ははっきりと覚えている。
「五嶋の教官室に行きたくないから」ではなく「行けないから」──そう思えてしまった。行き場所を失ったからこそ、自分たちと一緒にいる、と。
 ──二人とも、あんなに楽しそうだったのにな……
 五嶋としのぶ。時期を同じくして変わってしまった二人に、諏訪は疑問を抱かずにはいられない。かといって、二人の変化に何の因果関係が……と問われても答えられないのだが。
「……よく降るなぁ」
 不意に五嶋が言った。まだ窓の外を見ている。
 朝からずっと降り続く雪は銀世界をさらに白くし、まるで化粧直しをするかのようだ。今日だけでかなり積もっただろう。
「このまま冬が終わらなかったら……どうなるんだろうなぁ」
 五嶋らしくない言葉だ、と思った。
「そんなことありませんよ。三月になったらちゃんと雪が解けて、春は来るんですから」
「このまま春が来なかったら……あいつも……」
 五嶋は独り言のように呟いて──そしてハッとして諏訪を見た。今になってやっと自分がいることに気づいたような顔だ。
「オレ……今何か言ったか?」
 諏訪は息を呑んだ。やはり五嶋はどこか変だ。
 けど──ここは聞かなかったことにしよう。
 首を横に振ると、五嶋は安心したように息をついて、また雪空を眺めた。
『このまま春が来なかったら……あいつも……』
 ──あいつも? あいつって……まさか……
 あれは五嶋最大の失言だったのかもしれない──心ならずも聞いてしまったことに、諏訪の胸が少し痛んだ。

 一月はあっという間に行き、「逃げる」二月に入った。
 五年生は卒業を目前に控え、最後の試験を迎える。ここで落ちたら春からの新生活も立ち消え、恥をかくことこの上ない。そんなことは、五年間ずっとトップを守り続けた諏訪にとっては杞憂以外の何物でもないが。
 テスト最終日。今日が終われば明日からは春休み、次に皆と会うときは卒業式だ。
 朝のホームルームで、教壇に立った五嶋は全員の顔を見渡した。
「今日で最後だからな、気ィ抜くなよ。それと、明日から春休みだからってハメ外し過ぎたら、最悪内定取り消しになるからな。遊ぶのも程々にしとけ」
 級友たちは気のない返事をする。
 五嶋も級友たちも、何一つ変わらないいつもの朝の風景。五年間付き合ってきたこの顔ぶれとも、今日と、あとは卒業の日にしか会えないというのに、感慨もへったくれもない皆の様子にはもはや苦笑するしかない。
 諏訪はふと、二つ隣のしのぶを見た。
 今日も窓際の席で外を眺めている。最近の五嶋にそっくりだ。その横顔が心なしかやつれているように見えたのは、気のせいだろうか?
 あれから結局、五嶋としのぶ、それぞれの問題にそれ以上の進展は何もなかった。
 本当にこの二人には何もなかったんだろうか──自分の直感が間違っていたとはあまり認めたくはないが、二人は「教官と学生」。何かがあればそれは大事になる。
 取り越し苦労に終わったのなら、それでいい……のだけれど。
 ──しのぶさんと先生って、案外お似合いのカップルだと思うんだけどなぁ。
 他人の関係にあれこれ妄想を働かせている自分が可笑しくなったが、ホームルームが終わり、テストが始まる時間になって諏訪は頭を切り替えた。
 そのまま、そのことは忘れてしまうつもりだった。無理に思い出すこともなかったはずだ。
 テストが終わり、退寮の準備をしようとしていた自分に、思い詰めた様子の春賀が衝撃の告白をしなければ。
 
 夕刻。
 諏訪が教官室に入ると、五嶋はいつものスタイルで雑誌を読んでいた。
 五嶋は諏訪に驚いているようだった。既に「秘書」としての任は解かれ、晴れて自由の身になっていた自分がここに舞い戻ってきたのだから。
「どうした? まだ仕事手伝ってくれるのか?」
 そう言って五嶋は笑ったが、諏訪は笑える気分ではなかった。
 五嶋もすぐに気づいたようだ。諏訪の後ろに、思案顔の春賀がいたことに。
 ソファを勧められると、諏訪は春賀を先に座らせ、自分は日課のようにコーヒーを淹れてから春賀の隣に座った。
「帰る用意で忙しいんじゃないのか?」
「それよりも重大な問題が出来たんです」
 普段は柔和な諏訪が厳しい顔でそう言っても、五嶋は「それがどうした」と言わんばかりの顔で雑誌に目を落としている。
 諏訪は春賀を見た。彼女は落ち着かない様子で、もじもじと俯いている。軽く促すと、春賀は意を決したように顔を上げて、五嶋を真っ直ぐに見つめた。
「あの……しのぶのことなんです」
 五嶋は、初めて春賀に向いた。
「渡部がどうかしたか?」
「あの……しのぶには口止めされてたんですけど……」
 親友との約束を破ることに罪悪感を覚えるのか、春賀の口は重たい。
「なんだ、ハッキリ言えよ」
「……しのぶ、『大学に行かない』って言い出したんです」
 諏訪がこの話を春賀から聞いたとき、当然のように五嶋の顔が浮かんだ。
 昨夏には既に合格していた大学に、今時期になって急に「行かない」などと言い出したのだ。これは只事ではない。
 彼女の心変わりの裏には絶対に五嶋が絡んでいる──諏訪はそう確信していた。
 五嶋は一見無表情だったが、その中に僅かな驚きが潜んでいたことに諏訪は気づいていた。隠していたつもりかもしれないが、五年も付き合っていれば多少の手の内はわかる。
 それ以外の何かを探ろうと思った矢先、春賀がまた口を開いた。
「それだけじゃないんです。しのぶ、最近体調が悪いみたいで、ほとんど何も食べてないんですよ。それなのに……この間、心配して家に行ったら……しのぶ、トイレで吐いてたんです」
 諏訪は飲んでいたコーヒーを噴き出した。
「な、何それ……僕聞いてない……」
「しのぶ……何か変な病気にでもなったんじゃないかと思って……私、心配なんです」
 青ざめる諏訪にも気づかず、春賀は大真面目で親友の病気を本気で心配している。
 ──いや、まさか……そんな、ね? あのしのぶさんが……?
 諏訪は五嶋を見るのが怖くなった。いや、別に五嶋が原因という確証はどこにもないのだが、よからぬ妄想が激しい胸騒ぎを引き起こして、顔を向けられない。
 突然、大きな音がした。
 驚いて顔を上げると──それは五嶋が椅子の背に勢いよくもたれかかった音だった。
「……せ、先生?」
 五嶋は答えなかった。天を仰ぎ、目を閉じて、疲れ切った顔でため息をついている。
 一見──それは学生を心配する担任の姿だ。
 が、諏訪には別の意味に思えて仕方がない。それが自分の「希望」だとわかっていても。
 五嶋は煙草を取り出し、火をつけた。いつもは諏訪に一言断ってから吸うのに、今は気にする素振りもない。
 このポーズの真意は何処にあるのか──諏訪は五嶋から目を離さず、その一挙一動を見守っていた。
 しばらくの沈黙の後、五嶋は静かに口を開いた。
「……諏訪」
「はい?」
「今からちょっと一緒に来てくれるか。ああ、結城もな」
 意図がわからず、諏訪と春賀は共に首を傾げる。
「どうしたんですか?」
 五嶋は大して吸ってない煙草を灰皿に押し付けると、おもむろに立ち上がった。
「細かいことはいいから、とにかくオレと一緒に来てくれ」
「何なんですか? 一体……」
 諏訪と春賀の怪訝な顔を笑って、五嶋は自信たっぷりに言った。
「オレが逃げ出さないよう、見張っててくれ」

□□□

 五嶋たちが向かった先、それは五嶋のクラスの教室だった。
 諏訪も春賀も、しのぶの居場所について心当たりはないと言ったが、訊ねながらも五嶋は不思議と確信していた。彼女はここにいると。
 しのぶを想って浮かぶ顔はいつも、教室の窓側最後列の席に座り、憂いを湛えて外を眺める横顔だった。
 教室は電気もついていなく、中は真っ暗のようだ。誰かいるような気配はない。だが、ドアを開けて中を覗き込むと──窓際の一番後ろ、いつものその席にしのぶはいた。
 窓から差し込む薄明かりに照らされた教室は降りしきる雪の影を映し、ある種幻想的な雰囲気を醸し出している。
「渡部」
 声をかけて、やっとしのぶは振り返った。薄暗い中で見る彼女の顔はひどく不健康そうに見える。
 外の凍えるような寒さを思わせる冷たい笑み。「今更何しに現れた」とでも言いたげなその冷笑でさえ、美しいと思ってしまう自分がいた。
「聞いたぞ。大学に行かないって言ってるそうじゃないか」
 歩み寄ると、しのぶは一瞬ビクッとして逃げるような素振りを見せたが、後ろは窓だ。すぐに諦めて五嶋から目をそらし、代わりに後ろにいる春賀に非難の視線を送った。
「春賀……約束破ったわね」
「しのぶ、ゴメン……で、でも! 私、心配で……」
 庇うように、五嶋は春賀の言葉を遮った。
「何でだ。何で急にそんなこと言い出したんだ?」
「先生には関係ないでしょ」
 五嶋は座るしのぶの腕を掴んだ。
 驚いて五嶋を見上げた彼女の顔。こんな至近距離で見たのは久しぶりだ。
「お前……オレに何か言うことはないか?」
 しのぶは何か言いたそうに口を開いて──また閉じた。目をそらし、視線を泳がせる。
「何も……何もないわよ」
「お前、嘘つくの下手だな」
 五嶋は笑ったが、彼女は噛み付きもせず、目を合わすことすら怖がっているように見えた。
「自分の口で言えないのなら、オレが代わりに言ってやろうか?」
 何も知らないくせに──そう言わんばかりの顔で、しのぶはそっぽを向いている。
「お前、妊娠してるんだろ」
 しのぶが目を見張るのと同時に、後ろで春賀が叫んだ。
「に、妊娠?」
 目の前のしのぶは震えおののき、悪魔でも見るかのような目で五嶋を見上げている。
「……腹の子の父親は、オレなんだろ」
「えーっ!」
 またも春賀は悲鳴に近い叫び声を上げた。驚くのも無理はない。まさか自分としのぶが、そんな関係になっていたとは、勘のいい諏訪ならともかく、潔癖症の春賀にしてみれば天地がひっくり返るほどの衝撃だったに違いない。
「違うわよ! だから先生には関係ないって言ってるでしょ!」
 しのぶは物凄い剣幕で立ち上がったが、それでも五嶋とは目が合わせられないらしい。そこが彼女の正直なところだ。
 手を振り解き、教室を出て行こうとするその背中に、五嶋は皮肉をぶつけた。
「じゃ、別の男の子どもなんだな。みんな別れたって言ってたけど、オレ以外の男とも寝ていたってワケだ。やっぱお前尻軽だなぁ」
 しのぶが足を止めた。俯き、握り締めた拳が震えている。
 五嶋を振り返ったその顔は、怒りと、悲しみと、そしてほんの少しの優しさが混ざった複雑な表情だった。
「違う……先生、私……」
「じゃ、オレの子どもだって認めるんだな?」
 しのぶは小さく頷いた。
 今にも泣き出しそうな顔──と思ったのも束の間、すぐにそれはあざけり笑う表情に変わった。
 向こうで厳しい顔をしている諏訪と、引きつった顔で今にも倒れそうな春賀、そしてしのぶ。三人三様の表情だ。
「……私、先生に言ったよね? 『一夜限りのいい思い出にしよう』って。『後腐れはなし』って。だからもう、先生には関係のないことなの」
 あの夜、しのぶは確かにそう言った。
 だがあれは、彼女の本音ではなかったと五嶋は思っている。嘘、いや方便だったと。
「この子を産もうが堕ろそうが私の勝手なの。わかったらもうほっといてよ」
「お前は本当にそれでいいのか?」
「いいに決まってるからこう言ってるんじゃない。先生に養育費請求したり認知しろとか言わないからさ。先生には面倒なこと何もないでしょ? もうすぐ卒業式なんだから……このままで終わらせてよ」
 養育費に認知──考えてることがわかりやすい。
 勝手とは言うが、しのぶは堕胎などせず、一人で産んで育てるつもりだろう。
「……本当にそれでいいんだな?」
 しのぶの目をじっと見つめ、念を押すように訊ねる。彼女は鼻で笑って見せた。
「くどいわね。同じこと何回も言わせないで」
「そうか……」
 五嶋はしのぶに向かって歩み出した。
 しのぶは一瞬怯んだが、五嶋の身体は彼女の真横をすり抜けていた。
「じゃ、お前の好きなようにしろよ」
 すれ違いざまに残した言葉に、しのぶも、そして諏訪と春賀も驚いて眼を丸くする。
 あまりに無責任で慈悲のない言葉──ともすればそう聞こえるかもしれない。しかしこれは、五嶋なりの計算があっての言葉だ。
 そしてしのぶは……その計算通りに動いてくれた。
 そのまま教室を出て行こうとする五嶋の背中に、彼女の震える声がぶつけられる。
「何よ……またその手?」
 足を止め振り返ると、しのぶは唇を噛み締め、五嶋を睨むように見つめていた。
「そうやって突き放して、知らないフリして、私に喋らせようって魂胆なんでしょ。同じ手は二度も通用しないのよ。言わなくたってわかってるんでしょ? 私の、本当の気持ち……」
「さあな」
 そっけなく突き放す素振りでさえ嘘だ。本当は痛いほどわかっている。
「そういうところがズルイっていうの。私にばっかり喋らせて、先生は絶対に自分の気持ち話さないくせに」
「聞きたかったら、お前から先に話せよ」
「もう……アッタマくる」
 そう言いながらしのぶは怒りもせず、静かに歩み寄って五嶋の胸に額をつけた。
 降りしきる雪の中で抱きしめたあの日を思い出す。
「悪かったって思ってるよ。先生に無理言って、抱いてもらったこと……だって、ああでも言わなきゃ先生に抱いてもらえないと思ったんだもん。ああ言っとけば先生には責任ないでしょ? 本当に『一夜限りのいい思い出』にしたいって思ってたのよ……たとえ万が一のことが起きてもね」
 彼女らしい浅はかな考えだ、と五嶋は苦笑した。
 しかしながら、彼女の浅慮を大っぴらに笑えるほど五嶋とて深慮があったわけではない。だからこそ「万が一」が起きたのだし、今こうやって対峙することになっている。
「本当にあれで終わらせるつもりだった。『いい思い出』だけあれば、後は一人でも生きていけると思った……でも、でもね」
 しのぶは顔を上げ、五嶋の目をまっすぐに見つめた。
 あの夜と同じだ。彼女の瞳に映る自分の姿が揺れている。
「やっぱり先生が好き。先生……優しいんだもん。むさいし口は悪いし意地も悪いけど……優しいんだもん。わかってるよ……優しいのは『先生』だからって。『先生』だからこそ、私のこと心配して優しくしてくれるんだって。わかってるよ……でも、それでも先生が好きなの。ずっと一緒にいたいの!」
 口止めしながらも春賀に「大学に行かない」と言ったのは、いつか自分の耳に入ることを期待して、そして「一人でも大丈夫」という強がる気持ちとは裏腹な「引き止めてほしい」という気持ちがそうさせたのだろう。
 しのぶの大きな瞳から涙が溢れて、零れ落ちた。
 彼女の泣き顔は嫌いだ。儚くも美しい涙──けれど悲嘆に暮れる顔は、いつも勝気な彼女には似合わない。そう思っていた。
 だから、あの夜は抱いてしまった。潤む瞳から逃げてしまった。彼女を泣かせたくなくて、自分の気持ちを伝えるのが怖くて。
 だが、もう逃げない。
 もう大丈夫──しのぶも、自分も、何もかも全てあるがままに受け止められる。
「全く……オレもナメられたもんだ。オレがお前の気持ちに気づいてないとでも思ったのか? こちとらお前に懲戒免職心配されるほどマヌケじゃないんだよ」
 しのぶの肩に手を置いて、五嶋は笑って見せた。
「お前もホント、見かけによらず小心者だよ。大胆なことやってのける割に、肝心のところで本音正直に言わないんだからな。ま、そこがお前らしいといえばお前らしいんだが」
「な、何よ……そんな言い方しなくたって──」
 それ以上の言葉を消すように、五嶋はキスでしのぶの唇を塞いだ。
 後ろにいる諏訪と春賀の驚く顔が目に浮かぶようだ。
「……これでわかっただろ?」
 唇を離して言うと、しのぶはまだ呆気にとられていたが、心得たように意味ありげに笑うと美しい唇を歪めて嫌味を放った。
「……さあね。先生だって、まだ本音言ってないでしょ」
 全く──これだからしのぶは面白い。
「わからん奴だな……」
 五嶋は悪態をつきながらも、しのぶをしっかりと見つめた。涙に濡れる瞳の、その奥にいる自分を叱咤するように。
「お前が好きだ。だから、もう……」
 突然──五嶋は床に膝をついた。跪き、しのぶの身体にしがみついていた。
「もう……何処にも行かないでくれ」
 それしか言えなかった。それ以上は言葉にならなかった。
 しのぶを、この温もりを、そして授かった小さな命を──絶対に離さない。離したくない。ただただ愛しくて、抱きしめた腕に力を込めた。
 外は深々と降る雪──冷え込む冬はまだ終わりそうにない。
 けれど、見上げたしのぶの顔に満ちる微笑は、優しく自分の頬を包む手のひらは、満開の桜の隙間にこぼれる春の陽のような暖かさだった。


三月、そして冬は終わる

「先生……五嶋先生ってば」
 肩を揺すられて目を覚ますと、そこは自分の教官室で、目の前に諏訪の顔があった。
「こんなとこで寝てたら風邪引きますよ。もうお帰りになったらどうですか」
 いつの間にかソファの上で居眠りしていたらしい。
 夢まで見ていた──しかもあの時の夢とは。五嶋は一人苦笑した。
「降ってきましたね……」
 諏訪は嘆息しながら、持ってきた書類を机に置いた。窓の外を見ると、確かに宵闇に白く淡い雪が舞っている。
 明日、諏訪にやらせるか──書類を見なかったことにして、五嶋は立ち上がりロッカーからコートを出した。
「僕の車で送りましょうか?」
「いいよ。雪に打たれて帰るのもまたオツなもんだ」
 軽く噴き出す諏訪とともに部屋を出た。
「もうすぐ四月だって言うのに、また冬に逆戻りですね」
 鍵をかけていると、後ろで諏訪がそう言った。廊下から見える中庭の雪は融けかけて、その下の地面も見え始めていたのに、降り出した雪は薄汚れた世界をまた白く塗り直している。
「ちゃんと冬は終わるよ。四月には、入学式の頃にはすっかり融けてるさ」
 以前諏訪に同じようなことを言われた気がする。本人にそれを言うことになるとは、巡り合わせとはかくも奇妙なものだ。
「入学式か……いよいよだなぁ」
「ま、四月から副担任としてよろしく頼むよ、諏訪先生」
 少しおどけて言うと、諏訪もまた笑って応えた。
「お疲れ様です」
 そう言って彼は隣の教官室に帰って行った。
 諏訪が、そして彼女がこの学校を卒業した三月から、既に八年が経っている。

 外に出ると、融けかけてグサグサになっていた根雪は舞い戻ってきた寒さで固まり、歩きづらいことこの上ない惨状になっていた。
 やはり諏訪に送ってもらえばよかったか──そう思いながら今更戻るのも面倒で、仕方なく歩みを進めた。
 気づくと、校門の前に一台の車が止まっている。近づくと、運転席から女が長い黒髪を翻して降りてきた。
「ちょっと、そこのダンディなオジサマ。良かったら乗ってかない?」
 人を小ばかにした笑みと物言いは、何年経っても変わることがない。
「わざわざ待ってたのか」
「買い物帰り。そろそろ帰ってくる頃かなって思って、張ってたの」
 そう言うと、しのぶはニヤリと笑って見せた。
「父ちゃん! 早く帰ろうよ!」
 後部座席の窓が開いて、小憎らしい一人息子が顔を出した。日に日に自分に似てくる気がする……
 ふと空を見上げると、いつしか雪は止み、雲の隙間に星が瞬いていた。明日からは晴れて、暖かな陽気が戻ってくるらしい。一週間も続けば、この雪もかなり融けるだろう。
 助手席に乗り込むと、運転席に座ったしのぶは五嶋の顔を見て幸せそうに微笑んだ。
 さっき見た夢と変わらない、暖かな笑顔──
 春はもう、すぐそこまで来ている。


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