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紅色手毬と秘めやかな

  『紅色手毬と秘めやかな』

 いつの間にか、三度目の春を迎えている。
 聖(ひじり)は図書館前の花壇の縁に腰を下ろし、開館時間を待っていた。住宅地の中に建っているためか前の道路の幅は狭く、車は滅多に通らない。
 手持ち無沙汰になると、つい煙草を取り出してしまう。ゆっくりと火をつけ、深く吸い込む。朝の日差しに白い煙はひどく不釣合いに見えた。
 いつの間にか煙草が吸える歳になっている。浪人期間がまた一年延びてしまったというのに、落胆は少ない。最初の年こそ落ち込んだものの、そうした気分の浮き沈みは、年々減っていくのを実感する。慣れたくもないものに慣れてしまったのかもしれない。
 ただそれでも、家にいるのは居心地が悪い。両親や兄は嫌味一つ言わない。だが、彼らが裏でそのように示し合わせているのを聖は知っている。彼らの気遣いはありがたく、そして同等にわずらわしい。
 そこで聖が選んだのは、朝早くから予備校の時間まで市営図書館で勉強することだった。毎朝身支度を整えるとすぐに、逃げるように家を立つ。開館時間より早く来てしまうことも稀ではない。
(……逃げているつもりはないんだ)
 と、自嘲気味に聖は思う。(合格さえできれば、こんなことはないのに)
 結局、煙草は半分も吸わないうちに、携帯灰皿に押しつけて消してしまった。
 見上げると、空は鮮やかに青い。空気はまだひんやりと冷たいが、昼になれば春らしい陽気になるだろう。
 その青を、鮮やかな赤が横切った。
 それは放物線を描き、軽くバウンドすると、聖の足元に転がってくる。
「……手毬?」
 祖母の家の玄関にも似たものが飾られていたのを思い出す。色とりどりの刺繍がほどこされ、とりわけ赤い糸が目立つ。いや、赤と言うには深く鮮やかな色、紅の糸といった方がしっくり来る。拾い上げると、土など汚れが目立った。
「どうして、こんなものが」
 図書館前の道路を挟んで向かいには長い練塀が続いている。その奥には、松の木々、そして瓦ぶきの屋根が見える。手毬の飛んできた方向から考えると、塀の向こうにいる誰かが放ったものだろう。門の端にある小さな裏口から投げた本人が出てこないかと待ってみたが、誰も出てこない。
 聖は眉をひそめて腕時計を見た。まだ開館時間には二十分近くある。拾った手毬は汚れているがいかにも高級そうで、その場に捨てるには忍びない。
(仕方ない。困っていると悪いし)
 と、少し迷った末、聖は立ち上がると塀を伝って歩きだした。(これを届ければ、お礼に何かもらえるかもしれない)
 そういう安易な期待に後押しされてでもある。


「あらあら、どうもすみませんねえ」
 と、家政婦はぺこりと頭を下げた。ふくよかで丸い顔がどこか微笑ましい女性である。おそらく母と同じくらいの年齢だろう。
 想像以上に長かった塀を伝っていくと、驚くほど立派な門があった。インターホン越しに事情を説明すると、門扉が開き、彼女が出てきたのだ。家政婦などドラマの中でしか見たことのない聖は戸惑いつつも挨拶を返した。
 塀の長さや造りからある程度大きな家だろうと予想していたが、ここまでの日本邸宅は予想していなかった。家政婦の背後から見える敷地内をうかがうと、松やつつじが植えられた日本庭園が広がり、その奥に平屋造りの邸宅が見えた。
 表札には、阿良野とある。
 ぼんやりしていると、家政婦が聖の返した手毬を掲げて、
「この手毬、お嬢様のものなんです。本人にお礼をさせますから、ちょっとお待ちいただけますか」
「え、いや……」
 聖の返事を待たずに彼女は邸宅の方へ走っていった。腕時計を見る。
(もう図書館が開く頃だな)
 面倒くさいので逃げようかとも考えたが、行動に移す前に石畳の向こうに家政婦の姿を認めてしまう。しかし、そこからが長かった。一向に近づいてこない。家政婦はしきりに後ろを気にしながら、何かを引っ張っているようだった。
 赤い着物の少女である。彼女がお嬢様とやらなのだろう。家政婦が拘泥しているのは、その少女が進むのを嫌がっているからだった。それでも大人の体力には適わず、二人は少しずつ進んでくる。
(勘弁してくれ……)
 と、聖は天を仰いだ。嫌がる子どもからお礼を言われてもうれしくない。愚図っている子どもほど扱いの難しいものもない。やっぱり逃げよう。二人との距離が縮まってからようやくそう決心する。
「あ、あの!」
 聖の声に、少女は傍目でもわかるほど、肩をびくつかせた。内気な少女なのだろう。長い黒髪は前髪だけまっすぐに切りそろえられ、少々幼い印象を受ける。見たところ十歳くらいか。手にはあの紅色の手毬があった。
「俺、これで失礼します。お礼言われるようなことしていませんし、時間もないんで」
 家政婦があわてて待つよう言ってきたが、聖はお辞儀をすると回れ右をした。
(逃げるが勝ち。面倒な思いはごめんだ)
 そう考える頭に、ぽこん、と何かが当たった。
「痛て」
 さほど痛くないものの、つい反射的に言葉がついて出る。何だ、と辺りを見渡すと、足元に手毬が転がっていた。
「お、お嬢様!」
 家政婦の声。振り向くと、少女が着物の色に負けないくらい顔を真っ赤にして、明らかに何かを投げたポーズのまま固まっていた。その横で家政婦がおろおろしている。
(な、なぜ……?)
 手毬を投げつけられる理由が思いつかず、聖は首をひねりながら、とりあえず手毬を拾った。
 少女が顔を赤らめたまま、そろそろと近づいてきた。深くうつむき、胸元に当てた手はかすかに震えている。
「…………お」
 と、恐る恐るといった調子で少女は言う。「お礼くらい、い、言えます」
 消え入るような小さな声。お礼が言いたい、というよりは、意地を張っているだけに見える。初対面の人は嫌だが、かといって挨拶一つできないと馬鹿にされるのも嫌だ、そんな内心がありありと見てとれた。
 しかし、お礼の言葉はなかなか出てこない。すうはあすうはあ、と深呼吸を繰り返し、その度に口は「あ」を形取るが、ありがとう、にはならない。
 着物姿といい、この極度の内気症といい、浮世離れした風の少女である。その動きは何となくウサギを連想させ、聖は彼女の必死な様に思わず口元を歪めた。
 それを少女はすかさず見とがめ、赤い頬をさらに赤くさせた。それでも、非難を口にするだけの勇気はなさそうであった。
「はい、どうぞ」
 と、聖は手毬を彼女の手に押しつけた。「大切なものなんだろ。人に投げちゃいけないよ」
「あ……」
 少女は驚いたように手毬を受け取った。上目遣いに聖を見る。
「……怒ら、ないの?」
 聖は呆気に取られて少女を見返した。
(相手を怒らせてからお礼を言っても、意味ないだろ)
 そもそも、彼女に怒っている相手に何か言えるだけの勇気があるとは思えない。まあ、子どもらしい考えだと言えなくもないが。
「じゃあ、俺はこれで」
 少女がお礼を言うのを待っていたら、いつまで立っても終わらない。近くに控えていた家政婦に目礼をすると、軽く少女に笑いかけ、歩き出した。
 二、三歩歩いたところで、
「……あ、ありがとう」
 という小さな声が聞こえた。


 翌日。
 いつも通り早朝の図書館前で煙草を吸いながら、聖は昨日の出来事を思い出していた。
 浪人生の生活は変化に乏しい。一応新聞には目を通すものの、どれも他人事である。だからというわけではないが、昨日の出来事はなかなかに印象的だった。広い敷地のお屋敷に着物姿のお嬢様という、見慣れないもののせいだろう。
 赤い手毬が視界を横切ったのは、まさにそんな時だった。
 拾って確かめると、見覚えのある紅色の手毬である。辺りを見渡しても、あの少女や家政婦の姿はない。ということは、今回もまた塀の向こうから飛んできたらしい。
(……ひょっとして、また届けないといけないのか)
 そう思い始めた時、塀の端にある裏口の扉がわずかに動いたのを聖は見逃さなかった。そして隙間からのぞく着物の袂も。しかし、聖が近づくと、扉は反射運動のように勢いよく閉まってしまう。
「おいおい……」
 呆れながらも、これで扉の向こうにいる相手は予測できた。呼びかけようとして、ふと少女の名前も知らないことに気づく。
「あのさ、手渡すだけだから開けてくれないかな。この手毬、大切なものなんだろ?」
 と、できるだけ優しい声音で言ってみる。
 けれども、扉はうんともすんとも言わない。仕方なく、聖は聞こえよがしに続ける。
「そうかぁ、誰もいないなら、この手毬は落し物として交番にでも届けよう。それとも近所の幼稚園に寄付しようかなあ」
「だ……だめです。わたしのなんです!」
 よくやく扉が開き、聖は彼女に挨拶をした。それでようやくハッタリだと気づいたらしく、少女は頬を真っ赤に染めた。


 聖が名乗ると、彼女もおずおずと自らの名を口にした。
「……沙与(さよ)、です。おおみ、しり……」
「お見知りおきを、だろ」
 相変わらず緊張で表情の硬い彼女に、聖は笑いをかみ殺しながら手毬を返した。
「……ありがとう」
 と、沙与は伏し目がちに微笑んだ。今日は若草色の小振袖を着て、動きやすいように紐で袖をたすきがけにしている。七五三のような装飾小物は一切なく、随分と着慣れた様子である。動作にも慣れを感じる。
「着物とか毬とか、好きなのか? そういう和風っぽいやつ」
「うん」
 と、沙与は素直にうなずいた。「……毬つきはお婆様に笑われたのです。下手だから。……だから、悔しくて練習、してます」
「毬つき? 投げて遊んでいたんじゃないのか」
 でなければ、塀を越えて飛んでくるはずがない。沙与の手毬はゴム毬のようによく跳ねるものではない。
 しかし、その一言が沙与本人にはひどくショックだったらしい。肩を落とし、小さく上がっていた口角まで下がってしまった。
「毬つきの練習をしていてあんなに飛ばすか、普通」
「だから、下手だって……」
 うめくように沙与が言う。あまりにも落ち込んでいるので、あわてて聖は平謝りした。
「練習しているんだろ。なら、絶対うまくなるから。俺だって毎日勉強していたら、ちゃんと平均点は上がったんだから」
「……勉強?」
 聖はぎくりと口元を押さえた。自分の不名誉な立場を知られるのは好きではない。
「学生さんなのですか?」
 それまで考えていたらしい沙与が聞いてきた。平日に普段着でいる男がただの学生には見えないせいだろう。怪訝そうな言い方だった。
「学生は学生でも、浪人生だ」
 と、観念して聖は正直に答える。「医大に入りたいんだ」
「お医者様、ですか……」
 単純に感心したらしい沙与に、聖は苦笑する。
「いや、まだ合格してないからな。医者になれるかはわからない」
「じゃあ、わたしと一緒」
 と、どこかうれしそうに沙与が言う。「見習い、なの」
「うん、まあそうだな。医者と毬つきの見習いか」
「……おそろい」
 一応聖の気持ちを思いやってか手毬で口元を隠しているものの、明らかに笑っている。
「おそろいだとどうなんだ?」
「一緒に、頑張れるのです」
 ふふふ、と笑い声が漏れる。
(友達が増えてうれしい、って感じだな。これは)
 失礼といえば失礼だが、彼女に悪気がないから注意するのも気が引ける。ただ、あれだけ自分を警戒していた少女が今はすっかり気を許してくれたことは素直にうれしかった。
「そうだな、頑張ろうな」
 聖は彼女の髪を撫でてやった。彼女は照れたように頬を染め、くすぐったそうに首をすくめた。
 春の日差しが暖かい。自分の背中も彼女の黒髪も熱を吸って、何もないのに笑いたくなる、そんな暖かい気分だ。なぜか、すごく久しぶりな気がする。
(そうか、最近根つめてばかりだったから……)
 納得し、聖は一人微苦笑を漏らした。


 こうして、早朝の短い間だが、沙与とのささやかなやり取りが始まった。彼女が誤って手毬を塀の外へ放ってしまう日もあれば、彼女の方から自発的に出てくる日もあった。
 何度か会っていくつかのことがわかった。
 まずは、彼女は毬つきが非常に下手だということ。まさに彼女の言葉通り。時々目の前で披露してくれたが、跳ねにくい手毬と動きにくそうな着物というハンデがあるにしても、一向に上達している気配がない。そもそもの運動神経に問題があるようだった。
「いちじく、にんじん、さんしょに、しいたけ……」
 手毬歌は完璧に覚えているものの、それを歌いきる前に手毬はあらぬ方向へ飛んでいってしまう。彼女は悔しそうに唇を噛み、転がった手毬を拾いに行く。
「上手くできるようになったら、お婆様に見せてあげたいのです」
 と、沙与は初めより饒舌になった口で言う。「その時は、お婆様の昔の着物を着るつもり、です。わたしはお婆様の若い頃にそっくりだって……よく言われるから」
 もう一つは、どうやら彼女が学校には行っていないらしいこと。小学生が登校する時間にのん気に遊んでいるのはおかしい。
「沙与はちゃんと学校行っているのか?」
 聖が聞くと、沙与は決まって視線を斜め下に向け、唇を尖らせる。
「と、時々は、行っています。何です、何です、勉強しないと駄目だって言うのですか?」
「……俺にそれを言われても困るなあ」
 学校に行きたがらないのには何か事情があるのだろうと、聖はそれより深く聞かないことにした。
 また、沙与は、裏口のある通りより向こうへは行こうとしない。毬が転がる範囲だけである。聖と会うまでは屋敷の敷地外に出ることもなかっただろう。
 それが彼女の不登校のせいだと気づくのは簡単だった。
 ある日、沙与が転がった手毬を拾いに道路に出てきた時である。
「お嬢様!」
 悲鳴とも怒声ともつかない叫びが響いた。見覚えのある家政婦が裏口から出てくる。
「園田(そのだ)」
 沙与は驚いて振り返った。
「お外に出てはいけないとあれほど申したでしょう」
「お婆様にいただいた手毬をなくすわけには、い、いかないもん」
 おどおどとした言い訳を聞き流し、園田と呼ばれた家政婦は彼女の腕を取った。そのままいつか見たように無理矢理彼女を引っ張って連れて行く。沙与から先に裏口をくぐらせると、ちらりと聖に目を向けた。お嬢様と危険な場所に連れ出すな、という非難の目つきを予想していたのだが、園田の目じりは優しげに下がっていた。
「いつも、ありがとうございますね。今日は旦那様がいらっしゃるものでして」
 と、園田は一礼すると、裏門を閉めた。
(……メンツというやつか)
 ようやく聖は合点した。お金持ちのお嬢様が不登校なのが問題なのだ。沙与の着物姿はかなり目立つ。近所の住民に見られるのは、体面的によろしくないのだろう。だから、学校に行こうとしない沙与を外に出そうとせず、その結果があの内気症というわけだ。まあ、学校を嫌がる原因もその気性にありそうな気もするが。
 園田は沙与が元気に遊ぶようになったのを喜びつつ、立場上、注意しなければいけなかったのだ。
 案の定、次の日も沙与は何もなかったように手毬とともに現れ、その内、何日かに一遍は園田が注意しにやってくるようになった。


「じゃあ、図書館開くからこれで」
 軽く手をふると、聖は鞄を持ち直した。
 雲の多い日のことである。聖の成績も、沙与の毬つきの腕前もほんの少しだけ上向きつつある。
「……ねえ、あのね」
 と、沙与が聖の服の裾をつまんで呼び止めた。最近となっては珍しく頬を紅潮させ、うつむき、なかなか用件を口にしない。
「ん、どうしたんだ?」
「あ、あのね。お昼にも、また来てほしいんです」
 散々待たされた後に、ようやく沙与は小声で言ってきた。そういえば、彼女から何かお願いされるのはこれが初めてのように思う。
(それなら、聞いてやるしかないな)
 別に面倒な頼みではない。パンでもかじりながら、彼女の話を聞くのも悪くないだろう。
「しょうがないなあ。どうしても、か?」
 おどけた調子で聞くと、沙与は素直に表情を曇らせる。聖は笑いをかみ殺しながら了承し、二人で待ち合わせの時間を決めた。
 いつもより早めにコンビニに行き、昼食を買った。菓子パンを二つと牛乳をカゴに入れると、レジ前に陳列された飴が目に入り、一瞬悩んでからそれもカゴに入れる。沙与にあげたら喜ぶだろうと思ったのだ。
(まあ、お嬢様にこんな安いおやつあげてどうするんだって話だけど)
 普通なら道すがら食べてしまう昼食を図書館まで我慢する。どうってことない変化だが、どこか新鮮な気分だった。花壇の縁に腰を下ろし、沙与を待つ。
 煙草を吸いながら、腕時計をちらりと見る。約束の時間を五分ほど過ぎていた。
(遅いな……)
 結局、空腹を我慢できずに牛乳を飲み始めてしまった。菓子パンの包みも開けて、ゆっくり食べ始める。随分時間をかけて食べていたつもりだったが、全部食べ終えても沙与は現れなかった。二十分の遅刻である。
 飴を鞄にしまい、ゴミを図書館の入り口前のゴミ箱に捨てると、さすがに自分が少し苛ついているのがわかった。
(どうしたんだろう)
 約束したのは今朝だから、まさか忘れたということはないだろう。具合が悪そうな様子もなかった。怪我は、あの運動神経だ、ひょっとしたらあるかもしれない。
 苛立ちと不安を打ち消そうと、もう一本煙草を吸う。それでも落ち着かず、さらに一本。
 その時、見慣れたものが塀の向こうから飛んできた。
 紅色の刺繍。
 ちょうど車が来ていたので、聖はあわてて手毬を拾い上げた。しかし、沙与本人は一向に姿を見せない。念のため、裏口をノックしてみたが、反応はなかった。
「沙与。いるんだろ? 何してるんだ?」
 塀に向かって呼びかけるが、それでも沙与は出てこない。
(何してんだよ。今さら恥ずかしがる必要はないだろう)
 手に持つ手毬と塀を憮然と見比べる。手毬を投げ入れてやろうかとも考えたが、沙与のことを思うとそれは乱暴な気がしてできなかった。塀を回りこみ、門の前でインターホンを押す。
 しばらくして出てきたのは、園田だった。何やら忙しくしていたのか、少々息が上がっている。彼女の背後から敷地内をうかがうと、数名の家政婦が庭に出て右往左往しているのが見えた。
「あらまあ、いつもありがとうございます」
 園田は聖から手毬を受け取ると、深々とお辞儀をした。
「あの、沙与は……」
「お嬢様ですか」
 と、園田は大げさに腕を振った。焦りを表そうとしているようだ。「それが、姿が見えないんですよ。わたくしどもも探しているのですが」
「見えないって」
 聖は驚いて、聞き返した。「だって、手毬が転がってきたのんだから」
「そうですよね。おそらくどこかに隠れていらっしゃると思うんですが。……お嬢様のお転婆には困ったものです」
 と、小さくため息を吐く。「そういうことですので、お嬢様にはきつく言っておきますから、今日のことはどうぞ勘弁してくださいましね」
「は、はあ」
 彼女は一礼すると、扉を閉めながら意味ありげに笑った。
「……難しい年頃なんですよ」
 取り残された聖はぼんやりと豪奢な造りの門扉をしばし見つめていた。
「何なんだ、一体」


 些細なことだ。
 何度も自分に言ってみたものの、どうにも気になってしまい勉強もろくに手につかなかった。
 その上、次の日の朝も沙与は現れなかった。今度は手毬すら落ちてこない。念のため、昼も図書館前で待ってみたが、やはり来なかった。
(何やってんだかな、俺。これじゃ怪しいやつみたいじゃないか)
 予備校へ向かいながら、聖はうんざりと己の行動を省みた。
 薄曇りの空を夕日が染めている。灯り出した家々の明かりを横切り、横断歩道を渡り、コンビニの前を通り過ぎる。
 予備校は駅前にあるため、自然と帰宅する人々の流れに逆らう形となる。その中に見知った顔がないことを願いながら歩く。ストレートに入学できた連中は、今年で大学三年生になっている。
 煙草の味はわかる。酒の味もわかる。だが、聖はキャンパスの空気を知らない。それを憐れまれ、理解した風に気軽な応援をされるのは我慢ならない。自分が惨めになるだけだ。
 家では家族を避け、家の外では友人を避ける。そうやって今まで過ごしてきた。それが自分にとって一番楽なのだ。
 なのに、沙与が来なかったことを、自分は寂しいと感じている。
 それに気づき、苦い気持ちがこみ上げてきた。
(情けない、馬鹿らしい。相手はほんの子どもだってのに)
 神社の前を通りかかった時、その隣に店を構える和菓子屋から園田が出てくるのを発見する。手にはその店の紙袋が下がっている。手ごろな値段のわりに美味しいと評判の店で、聖も時々買い食いをすることがある。
 園田はすぐに聖に気づき、にこにこと近寄ってきた。
「あら、こんばんは。奇遇ねえ、聖君」
「買い物ですか」
 彼女は振り返り、和菓子屋のガラスドアに張られているポスターを小さく指差した。桜の花びらが描かれた背景の中に、桃色の饅頭の写真が載っている。饅頭の上には桜の塩漬けがちょこんと飾られている。「桜まんじゅう」という商品名が大きく書いてある。
「ええ、お饅頭です。お嬢様が食べたいとおっしゃったので。もうそろそろ夏でしょう。期間限定みたいですから、急いで買いにきたんですよ」
 いつも通りの穏やさで、彼女は答えた。
「じゃあ、沙与は元気なんですね」
「ええ、まあ。とてもお元気ですよ」
 と、彼女は苦笑した。「花より団子と申しますか。見ていてやきもきするほどです」
 わけのわからないことを言う。彼女とは短く挨拶をして別れた。
 彼女の気楽な様子からしても、沙与が元気なのは間違いないだろう。その事実に軽く傷つきそうになり、またも聖はその情けなさに深く落ち込んだ。
(何か嫌われるようなことしたか。いや、しかし……)
 悩みながら、桜まんじゅうのポスターを見る。確かに美味しそうだ。和風好みの沙与が興味を持つのもうなずける。ぼんやり眺めていると中の店員が迷惑そうににらんできたため、聖は仕方なくその場を離れた。
 しかし、足取りは先程とは違って軽い。
(そうか、なるほど)
 大体のことはわかった気がした。


 翌朝は、雨をぎりぎり持ちこたえているような暗い曇天だった。天気予報でも昼には降り出すだろうと告げていた。
 聖は煙草を吸いながら、沙与を待つが、やはり現れない。
 三本目を吸い終えて、聖は決心した。携帯灰皿に吸殻をしまうと、裏門の前に立つ。
「あー……」
 と、我ながらわざとらしい声が出た。「図書館の開く時間だ。よし、今日も勉強頑張ろう」
 言って、しばらく息を潜める。
 裏口の向こうで、ごそごそと物音がしたかと思うと、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……ほら、お嬢様。もたもたしてらっしゃるから」
「う、うるさいです、園田。それができたら苦労など……」
 外をうかがうように、扉がきぃ、と音を立てて開いた。
 聖はにっこりと笑いながら、片手を挙げる。
「おはよう」
「……え」
 と、沙与の目が見る見る丸くなった。「な、なな、何で……!」
「まあ、聖さん」
 園田も口元を両手で覆い、しかし実にのんびりと驚いた。「人が悪いですよ、騙すなんて」
 二人して裏口からこちらをうかがっていたらしい。正確には、出ていくのを躊躇う沙与を園田が後押ししていたのだろう。そして、白々しい芝居に騙され、聖がいなくなったのか確認しようと扉を開けたのだ。
「それはお互い様ですよね」
「何のことでしょう」
 聖が言うと、園田はとぼけるように小首をかしげた。その横で、沙与はショックでまだ口をぱくぱくさせている。
 きっと昨日も、二人はこうして裏口の向こうにいたのだろう。
「一昨日の昼、手毬を投げてきたのは沙与じゃない。園田さんだった」
 沙与の面持ちが強張った。
「沙与は、屋敷を抜け出した。園田さんはそれに協力をして、俺はそれに利用された。そうだろ、沙与」
 彼女を安心させようと、蒼白の沙与に笑いかける。
「別に、怒ってないから」
「……ほ、ほんと?」
 聖がうなずくと、気が緩んだのか沙与の目に涙が浮かんだ。
 話を続ける。
「誰も取りに来なかったら、俺は表の門まで届けに来るだろう。そこで、園田さんが、お嬢様がいないと言えば、俺は、手毬が転がってきたからいるはずだと言う。もし言わなくても、園田さんがそう言うように誘導することは簡単だろうし。でも、沙与本人は敷地の中にいない。抜け出していたんだ。推理小説風に言えば、アリバイ作りに利用されたんだな、俺は。園田さん以外の家政婦に、お嬢様が敷地の中にいると思わせるために」
「どうして気づかれたんです?」
 園田が落ち着き払って聞き返してきた。
「まずは、その昨日も今日も沙与が来なかったこと。思い当たることはなかったから、変だと思うのが当然ですよ。もし、昨日沙与が何事もなく来ていたら、多分気づかなかっただろうけど」
「……うぅ」
 沙与が決まり悪そうにうめいた。彼女にしてみれば、約束を破ったことに負い目を感じ、出るに出られなかったのに違いない。
「もう一つは、昨日の夕方に園田さんが桜まんじゅうを買っていたこと。沙与が食べたがっていたと言っていましたけど、桜まんじゅうは春の期間限定商品です。けど、沙与は屋敷の外にはあまり出ないのに、一体どこで知ったのか」
 それが、屋敷を抜け出した時なのだろう。
 屋敷の者は沙与を外に出したがらない。それは不登校の沙与にも原因があるが、彼女だって窮屈な思いをしているに違いないのだ。彼女のささやかな冒険を怒る気にはなれなかった。
(それに、どこにいたって安らげないこともある)
 例えば自分のように、と言うわけではないが。それでも、ずっと進めずにいる自分からしてみれば、沙与の勇気は好ましく、少しうらやましい。
「でもなあ」
 と、手を沙与の頭に乗せたまま、苦言を呈す。「あまり心配させるなよ。理由があるなら仕方ないことだろ」
「……うん」
 ほっとしたように、涙目で沙与はうなずく。
「和菓子が食べたいなら、俺に言ってくれればよかったのに。買出しくらいしてやるぞ。女の子だからって、お菓子好きなのを恥ずかしがることないと思うけど」
 沙与くらいの年頃の少女は過剰に体重を気にするものだが、何もあそこまでして隠す必要はないだろう。
 だが、聖の一言によって、それまで微笑を浮かべていた沙与の表情がまたも凍りつく。逆に、園田は何が面白いのか肩を震わせて笑い始めた。
「ほら、お嬢様。申しましたでしょう、行動ありきだと。お饅頭に気を取られているから、誤解されるのですよ」
「……わ、わかってます」
「何をだ?」
 聖が疑問符を浮かべると、沙与がさっと近寄ってきた。初めて会った時のように深呼吸を繰り返し、耳まで赤くした顔で聖を見た。
「こ、これ!」
 と、聖の手に何かを押しつけてくる。「も、もらって、ください!」
 それは、
「……俺に?」
 沙与は無言で何度もうなずく。それが緊張した彼女にできる精一杯の返事だった。
 赤い布地に白い飾り紐がついたお守りである。学業成就と刺繍され、裏面を見ると、近所の神社の名前があった。そう、和菓子屋の隣にあった神社の名前が。
 沙与が何かを祈るような面持ちで聖を見つめていた。
 聖は、少女とお守りの間で視線を往復させた。
 ずっと止まったまま、すり減っていた自分。だが、彼女は、
(進むことを、望んでくれている……)
 口元を歪めた。こみ上げてくる笑いと、自分を殴りつけたい気持ち。
(一昨日と昨日だけの話じゃない。ずっと情けなかったんだな、俺は)
 聖は沙与の頭を髪が乱れるのもお構いなしに撫でる。
「ありがとう。大切にする」
 その一言に、沙与の表情は花が咲いたように輝いた。
「……おそろいで、一緒に頑張るって言ったから」
「そうだったな」
「また、明日も会ってくれる?」
「もちろん」
 と、聖は大仰に首肯した。「沙与は俺の妹みたいなものだから、頼みは聞いてやらないとな」
 一瞬にして、沙与が笑顔のまま固まった。
「…………いもうと」
 何やらひどくショックを受けたように、肩を大きく落とす。それからの沙与はどこか上の空で、昨日買った飴をあげても、もとの元気は戻らず、時間が来るとまた明日と小声で言い、とぼとぼと裏口から帰ってしまった。
 園田は一礼すると彼女を追って裏口の扉に手をかけたが、ふと思い出したように振り返った。
「お嬢様は、自分で聖さんに差し上げるお守りを買いに行くのだ、と聞かなくて、もう本当に大変だったんですよ。やり方は少しあれでしたが、聖さんなら許してくれるだろうと信頼していたのでしょう。その気持ちは察してくださいましね」
「ええ、まあ。……あの、沙与は大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。乙女心と何とやらです。明日にはいつも通りですから」
「今は春ですけど」
「誰にだって、秘めやかに思うものがあるのですよ」
「はあ……」
 聖の生返事に園田は意味深に笑う。釈然としない気持ちが残るが、それは決して昨日までの暗いものではなかった。
 聖が礼を返すと、ちょうど雨が降ってきた。
 梅雨が始まろうとしている。集中力の削がれる夏が来る前に、ある程度勉強を進めておきたい。聖はもらったお守りを鞄の内ポケットに大切にしまうと、図書館へ急いだ。


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