高得点作品掲載所       ブラック木蓮さん 著作  | トップへ戻る | 


燃え落ちる母、明日に咲く花

 母が盗まれた。
 その訃報が届いたのは、私が十の時だった。
 私は、捨て子だった。
 母には一度も会ったことがない。
 けれども、私は母の顔はとてもよく知っていた。
 私の母は本やテレビでも良く見かけるし、最近は映画にも出ていた。自分の母が世界中から愛されていることが、幼少期の私を支えた誇りだった。
 だからその分、母が盗まれたというニュースは衝撃だった。
 シーツをくしゃくしゃにしながら、私は一晩中涙を流した。あのニュースを聞いて悲しんだ人は沢山いたであろう。だが、私ほどの涙を流した人は絶対にいなかったはずだ。
 そんな私だから、そのチャンスを手に入れたとき、私はそれまでの全てを投げ捨て、旅立つことを決意した。
 夢を求めて、母を訪ねて。
 

 
 船室から出ると、日差しが溢れていた。お昼近くで盛りの太陽と、ときおり波間で照りかえりこぼれる日差し。眩しすぎるほどの光景が、念願かなった私をいっそう明るい気分にしてくれた。きっと何もかも上手くいく。そんな予感がしてくる。
 そんな天気に誘われてか、デッキには私以外にも乗客が集まっていた。皆それぞれに日差しを楽しんでいる。私もそんな中に混じって、ゆっくり海を眺めることにした。
 空と海が交わり、そこにクジラのような雲がのんびりと泳いでいる。
 絵でしか見たことのないような青空だった。ジョン・コンスタンブルもきっとこんな日は筆を取りたくなったに違いない。
 そんな日差しのせいか、あるいは私が浮かれしすぎたせいか、いつの間にかTシャツが少し汗ばんでいた。
 かまうもんか。
 私は開放的な気分でスカートから裾を出すと、胸元を摘み上げる。潮風がTシャツをはためかせ、わたしの髪を撫でていった。すっかり汗が引いていく。
 だが海色の風は、随分と私の帽子を気に入ってしまったらしい。気付いたときには、大切な帽子がふわりと舞い上がっていた。
「あっ、待って」 
 手を伸ばしたがもう遅い。帽子はすでに、船尾を越えて飛び去ろうとしていた。
 けれどそのとき、若い男性がふわりと手すりに飛び乗った。あわや長旅に出ようとしていた帽子を、ひょいとつまみ取る。
「すみませーん」
 手すりから降りた青年は、手を振って駆け寄る私に気付いたようだった。
 優しい笑顔で、帽子を手渡してくれる。
「この素敵な帽子は君のだね」
「はい。どうもありがとうございます」
 私は彼に深々と頭を下げた。好奇心旺盛の子犬のような目をした、温かい感じのする人だった。彫刻のように澄ました美しさはないけれど、木彫り人形みたいなぬくもりがある。こういう人をいわゆる好青年と言うんだろう。
 受け取った帽子を少し斜めにかぶりながら、浮かれていた私は彼に話しかけた。
「すごいです。こんな高い手すりにひょいって飛び乗って取っちゃうんですから」 
「いや、たいしたことないよ。体動かすのが僕の仕事だし。ところで……君のその帽子を見てたら、一つ頼みたいことができたんだけど良いかな。お礼代わりになんて言うのは野暮なんだけど」
 彼の目には、子供っぽい光が浮かんでいた。
「はい、何ですか」
「ちょっと腕組んで後ろ向いてくれる」
「こうですか」
 私は彼がさせたいことを何となく察し、くすりと笑いながら後ろを向く。
「それから右手をあごに当てて、腰からひねって振り返って」
 お約束通り、手の甲をちょんとあごに添え振り返る。腰のひねりを忘れずに。
「で、笑って」
 私はわざと、ちょっとだけやんちゃな笑いを浮かべた。幾人もの芸術家を虜にした、あの笑み。大好きな男の子をからかって遊ぶ少女のような笑みを。
「お、それだ。やっぱりその帽子のデザインはヤン・フェルメールだね」
「わ、ご名答。フェルメールの中期作品『白い帽子の少女』で被ってるやつです」
 彼は見事に、私の帽子の由来を言い当てて見せた。
「よく分かりましたね。フェルメールのあの帽子だって気付いてくれた人、あなたが初めてです」
「ほんと? その帽子に気付かないなんて、そりゃずいぶんと野暮だね」
「いいえー、普通は気付きませんよ」
 彼が呆れたような顔をする。誰も気付かなかった事に心底驚いているようだった。
「ふーん。やっぱ外の人はそうなんだな。でも大丈夫、パトリエ諸島に住む人なら、君の帽子を見逃すような粗相はしないよ」
 名画と同じ帽子を被った女の子、というのに興味がわいたのか、彼は私の話し相手になってくれた。
「あの、お兄さん、パトリエ諸島に住んでるんですか」
「うん、普段はパトリエ本島で警備員の仕事をしてる。あ、僕の名前は、ロキ。よろしくね」
「警備員さん、ですか……」
 パトリエ諸島には、世界で一番美術館が多い。その分当然警備員も沢山いるのだろうが……。
「あ、とてもそうは見えない、かな? よく言われるよ」
 そう言って苦笑するロキさんは、確かにどうひいき目に見ても警備員には見えないだろう。ジャコメッティの『歩く人』とまではいかないが、ひょろりとしていて、とても荒々しく泥棒を捕まえてるロキさんなんて想像出来ない。
 どちらかと言うと、栄養失調でこほこほセキしてる貧乏芸術家の方がまだ近い。
「お体、大事にしてくださいね」
「……さすがに初対面でそこまで心配されたのは初めてだ」
「え、あ、いえ。ロキさんは優しそうなのにそんな危ない仕事、気をつけてくださいって意味です。えっと、それで改めまして、私の名前はリザ・ボナパルトと申します」
「リザさんか。よろしく。リザさんはパトリエへは、観光に?」
「いいえ。パトリエ島には美術員になるために、バベル美術館の入館試験を……」
 そう言いかけて、考え直す。本当のことが言いたい。偶然出会っただけのこの人に胸を張って言えたなら、それで自分の決意を確かめられる気がしたのだ。
「パトリエ島には母を探しに来ました」
「お母さん? それってどういうこと。まさか……」
 上機嫌な顔から一転、心配顔になるロキさん。私は気遣って、わざと誇らしげに言ってみせた。まるで家柄を自慢する貴族のお嬢様のように、自慢げに。
「何を隠そう、私の母の名前は、モナリザって言うんです」
 


 私は捨て子だった。そして私が捨てられていた場所は、なんとあろう事か、世界一有名な絵の前だっだ。
 いったい誰が、どうやって? その事件を、週刊誌は面白可笑しく報道したらしい。
『モナリザ、熱愛発覚』『モナリザに実の娘が!?』
 こうして一時的とはいえ私は、話題の子となった。そのおかげで私は幸せなことに、多数の里親候補の中から選ばれた、最も思慮深く子育てに適した家庭に引き取られることなった。
 その上、ヨーロッパにおけるモナリザ人気は並々ならないものがあるのだ。『モナリザの娘』である私は、どこに行っても大切に可愛がられた。
 その扱いが正しいものかどうかはともかくとして、捨て子であった私が、家や社会で疎まれずに成長出来たことは本当に幸運だった。あるいはモナリザの前に捨てていった本当の両親も、その事を予期したのかもしれない。
 そんなわけでモナリザの娘、私リザは、実の母の知恵と、義理の母の愛情、そして名画の母の名誉に守られてのんびりと育ち上がった。
 お昼寝が好きで、お散歩が好きなその少女は、何より絵が大好きだった。
 描くのも好き。
 眺めるのも好き。
 一番好きなのはもちろん、お母さんの絵。
 まだ直接は見たことないけれど、好き好き大好き。
 いつか大きくなったら、お母さんに会いに行くんだ。私はいつもそう言っていた。
 だが私が大きくなり、一人で旅行出来るくらい大人になっても、その夢は叶わなかった。私が十才の時、お母さんは忽然と盗み出されたからだった。



「そうか、それでパトリエ諸島にモナリザを探しにね」
 パトリエ諸島は現在、世界の美術の中心地なのである。
 そこではパトリエ本島の巨大な塔、『バベル大美術館』を中心に多数の、美術館、画廊、収集家達が集まり、一つの都市を形成している。また、世界中から美術品が集める『収集』と同時に、芸術家達が育つための『育成』を行う街でもあり、あらゆる意味で美術の中心なのだ。
「パトリエには世界で最も美術を愛する人達が集まってる。でも、その愛し方が必ずしも正しいものとは限らない。美術愛に狂い、盗品と分かっていても買い取ろうとする人は少なからずいるんだ」
 ロキさんは憂鬱そうに言った。先ほどの笑顔からは想像も付かない、深く沈んだような顔だった。そうか、ロキさんは警備員だった。
「はい。母が表の世界に現れず闇から闇へと渡り歩くのなら、必ず一度くらいはパトリエを通るはずなんです」
「でもその売り買いを見つけられるアテはあるのかい?」
「今はありません。だからとりあえずは、バベル大美術館の美術館員になろうと思ってるんです。それにバベルの美術員は昔から憧れですから」
「ああ、なるほどね」
 バベル美術員の仕事は様々だ。
 バベル大美術館に収められる美術品の管理の他に、実はパトリエ島中の美術品取り扱いを仕切っている。
 パトリエはバベル大美術館を中心に創設された芸術都市。だからバベルは島中の芸術品、芸術家の動きを把握し、監視めいたことすら行っているのだ。そのためバベル大美術館にはお役所的側面も存在し、その最上級たる各階の責任者、いわゆるフロアマスターはかなりの力がある。
 ちなみに今のバベル大美術館は二〇階建てだそうだから、フロアマスターは二十人いるわけだ。
 展示品が増えれば二一階が増設されるのだろうが、とりあえず今はその二十人が、パトリエを二十の区に分けてそれぞれ担当管理している。
「だからバベル大美術館員になれば、母が売り買いされているのも見つけられると思うんです」
 そう言う私を、ロキさんは悲しい目で見た。無垢な子供を悲しませなくてはいけない、大人のような目だ。
「そう、それならぜひ頑張って欲しいけど……リザさんは知ってるのかな。大美術館員になることがどれほど大変なことか。バベル美術館員は鑑定士としての深い造詣とともに、自身も芸術家として優秀な人物しかなれないんだ。だからこそパトリエが治まってるのでもあるけれど……」
 そう。驚くべき事にバベル大美術館員は優秀である上に、全員が全員、自身が一流の芸術家でもあるのだ。彼らは芸術家の苦悩も、芸術家の喜びも、そして芸術への愛も知っている。ただ売り買いするだけの美術商とは、ひと味違う。
 だからこそ、島中の人々は安心してバベルに美術品の統括を任せているのである。
「大丈夫です。自信があります」
 心配そうなロキさん相手に、私は余裕たっぷりで胸を張って見せた。
「私、こう見えてもロゼ・シャンシェルジュの推薦文付きなんです」
「へええ……そりゃすごいね。なるほど期待出来る」
 彼は目を丸くした。無理もない。自慢じゃないが、いや、実は大いに自慢したくてうずうずしてるのだが、ロゼ・シャンシェルジュとはヨーロッパ随一の油絵のコンテストなのだ。
 そのコンテストで見事最優秀賞を取った私は、一ヶ月のパトリエ島無料滞在、パトリエ全美術館フリーパス、そしてそして、バベル大美術館員受験資格を手に入れたのだ。
「そう、じゃあ君は今年度の受験者なんだ。君のような子には、絶対受かって欲しいな。最近あの島は美術品の裏取引はひどくてね。君みたいな人がバベル美術館員になったら、きっと良くしてくれると思う。応援するよ」
「はい、ありがとうございます」
 初対面の私を応援する人の良いロキさんに苦笑しつつ、心からお礼を言った。ああは言ったものの本当はひどく不安だった私には、この上ない支えになったから。
「お、バベルの塔が見えてきたよ」
 彼の示した先に、巨大な塔が見えてきていた。
 明るい砂色をした円柱状で、大ピーテルブリューゲル作の『バベルの塔』に似ている。おそらくデザイン自体をそこから取ったのであろう。美しくて雄大で、なのに威圧感を感じない、不思議な光景だった。
「素敵な島……なんだか、夢みたいです」
「まあね。あの島はみんなの夢で出来てるから。例えばほら、見える? あの灯台のデザインは」
 だが彼の言葉は、不機嫌そうな声にさえぎられた。
「ロキ。もう島に着くというのに、いったいあなたは何してるのかしら?」
 彼のすぐ側に、一人の少女がいた。
 年の頃は私より少し下、十六才ぐらいだろうか。黒髪を無造作に三つ編みにし、やや猫背気味で、寒がりなのか薄いコートを羽織っていた。服に清潔感はあるが、装飾性は皆無。お洒落には興味ありません、これが私のスタイルです! という自己主張を全身から放っている。ただの先入観だが、芸術家肌というやつかもしれない。
 彼女は眼鏡越しに、ナイフのような視線で私たちを一瞥すると、
「仕事中にナンパは止めてちょうだい。不快だわ。すごく」
 平坦な、抑揚を無理に抑えた声。その鋭い目つきもあいまって、すごく怖い。ゴム風船を針でつついているような気分だ。私はあわてて説明する。
「違います。ナンパなんかじゃなくて、ロキさんはご親切に私の帽子を取ってくださって、それで」
「へえ、つくづく上手いのね。ロキ。見直したわ」
 彼女のとげとげしい視線に、ロキさんが凍りつく。ついでになぜか私もカチコチ。ダメ。この人は難しい。
「いや、エイミー、あの本当にだな、僕はただ」
「分かってるわよ。冗談よ」
 しどろもどろのロキさんに、少女は突然、ふっ、と笑みをもらした。そのまま溌剌とした笑顔になり、私にも微笑んでくれる。
「初めまして、旅行者さん。私の名前はエイミー。これとは仕事仲間で、これを困らせるのが私の趣味なの。不愉快だったなら、謝ります」
 エイミーさんは実はすごく魅力的な笑みをする人だった。先ほどまでの不機嫌な顔が嘘のような、花が咲いたような笑顔だった。その笑顔につられて私も機嫌良く挨拶する。
「私はリザ・ボナパルトです。バベルの入館試験を受けに来ました」
「へえ、入館試験? じゃあ、もしかしてロゼ・シャンシェルジュの推薦?」
「はいそうなんです。ってなんで分かるんですか!?」
「この時期に来る受験者はロゼの子って相場が決まってるの。他の受験者はもっと早く島に来るから」 
「詳しいんですね、エイミーさん」
「ああ、エイミーも小さな画廊の芸術家だから。入館試験展覧会も毎年鑑賞してるし」
 ちなみに、この入館試験展覧会というのは、バベル美術館入館試験の二次試験のことである。二次試験では、一次試験突破者の自作品を展示し、作品の優劣で合格が決まるのだ。
「えっと、せっかくだから、さっきの彼女の自己紹介を訂正しておくと、エイミーと僕はただの仕事仲間じゃなくて、えっと」
 はにかみながら言葉を探すロキさんに、エイミーさんは意地悪く、
「恋人以上、宿敵未満。そうよね、ロキ」
「……適切な表現すぎて……困る」
「殿方を困らせるのは、淑女の嗜みよ」
 クスクス楽しそうに笑う少女は可愛くて、ロキさんが好きになるのも分かる気がした。こうしてみるとエイミーさん、野暮ったい服や眼鏡をやめたら、とんでもない美人なんじゃないだろうか。
「さて、おしゃべりはここまでにして、下りる準備をするわよ、ロキ」
「うん、そうだね。今回は貴重品が多いから気をつけないと」
 エイミーさんは、粗野な見かけによらず、優雅に手をふると、
「さようなら、リザさん。また会いましょう。そう言えばあなたのロゼで優勝した絵は今持ってるの?」
「いえ、宿の方に先に届いてるそうです」
「そう。なら安心ね。だけど、最近は島も治安が悪いから気をつけて。じゃあ、試験頑張ってね」
「そうだね、ロゼの優勝者なら問題ないと思うけど、油断しないでね。と、これは僕の電話番号。島で困ったことがあったら連絡してね」
「ご親切にありがとうございます」
 差し出されたメモを、喜んで受け取る。旅先で知り合いがいるというのは本当に心強い。エイミーさんの目線が相変わらずチクチクしたが、見逃して貰うことにした。
「あら楽しみね、ロキ。きっと彼女、連絡くれるわよ。島の案内をしてくれません? ってあの可愛い声で。デ・キリコ通りにはつれてってあげなさいね、格好のデートコースだわ」
「って、そういう意味じゃないよ」
 こりゃ連絡しない方が良さそうだ。そう苦笑しながら、ロキさんと、彼の脇腹をくすぐるエイミーさんを見送る。
 船室に帰る前に、私はもう一度島を眺めた。
 波の向こう。
 夢が、すぐそこまで来ていた。



 パトリエ本島は、目を奪われるものばかりだった。
「ふわ、あの曲線美は、ガウディのカサ・ミラのオマージュですかっ、ですねっ!」
 建物一つ一つが、すっごく凝っている。街角の標識が、パン屋の看板が、見せる魅せる。
 先日のうち荷物は宿に送ってしまい、身軽だったのが災いした。かえって、きょろきょろふらふら寄り道してしまい、一向にたどり着かない。
「はっ、今私が通り過ぎたお店はまさか、ゴッホの『夜のカフェテラス』です! 私としたことが素通りするなんてっ」
 慌てて戻り、絵が描かれた視点を探す。ぴたりと絵に一致する場所を見つけ、一人悦にいる。うんうん。座って絵を描くとこの高さですよね。絵の通り夜にガス灯がついたらまた見に来なくては。
 そうやって行きつ戻りつ楽しみながら、私はやっとの事でルーベンス通りについた。
 宿は角を曲がってすぐ先、ここまでくると、本日の宿が楽しみになってくる。『ホテル・ラバンアジル』、名前通りなら白い壁の宿屋で、一階にはこぢんまりとした酒場があるのだろう。かつてはピカソなどの著名な画家たちが集った酒場の名だ。お酒には弱いが一杯ぐらい舐めるだけなら、縁起が良いかもしれない。
 そんなことを考えながら、私は軽い足取りで歩いていた。
 もう起きてしまった不運も知らず。
 来るべき挫折を、夢にも思わず。
 悪魔は私を、突き落とし。
 私の転落は始まった。
 



 頭から冷水を被った。
 そんな気分だった。
 青ざめる、という言葉があるが、本当に狼狽したとき、人間はまさに血の気が引くのだということを身をもって思い知った。 
 私の前にあらわれたのは、ひどい光景だったのだ。
 黒い、廃屋たち。
 街の一角が、無惨に焼け落ちていた。
「うそ……」
 特に、ちょうど私が目指していた場所。『ホテル・ラバンアジル』のあたりが。
 その一角には、まだお巡りさんらしき人たちが、歩き回っていた。
 氷で背中をさすられるような、悪い予感と寒気に襲われる。足をもつれさせながら、慌てて駆け寄り、お巡りさんの一人を捕まえた。
「あ、あの、ホテル・ラバンアジルって」
 慌てふためいた私の様子を見、察したのだろう。彼は残念そうに、
「すみません。昨晩の火事で、ご覧のような有様で」
 見れば分かることなのに、聞いた途端、膝から、くてりと力が抜けた。
 冗談じゃなかった。
 だって、宿には、私の荷物と……それと……。
 最悪の想像が頭をよぎり、体が勝手に震え始める。
「あの、私の絵がっ、私の絵がここに来てるはずなんですっ、昨日のうちに届いたってちゃんと連絡が来たんですっ。入館試験に出展予定の、大切な絵なんですっ」
「しかし本官は……」
「お願いします……お願いします……大切な絵なんです……だから……」
 半ば予想をしながら、私は彼に懇願する。彼が全く無関係な人だと気付きながら、私は虚しく哀願し続けた。
 わかってるくせに。
 考えるまでもなく、わかることなのに。
 彼がその事を言わないでくれるように、私は心から願った。 
「止めてください。本官はただの」
「お願いします。あれがないと私……」
 すると、私の騒ぎが目についたのか、別のお巡りさんが駆け寄ってきた。
「あの……リザ・ボナパルトさんですか?」
「はいっ」
 彼が私の絵を持ってきてくれるのではないか。
 そんな淡い期待が湧く。万に一つ、万に一つの偶然があるのではないか。そういう、一縷の望み。
「ホテルの主人が、意識を失う前に言い残したことがあるそうです。リザ・ボナパルトという画家が来たら、伝えてくれと――」
 だが、彼は無惨にも期待を裏切り。
 私の正気を、黒く塗りつぶした。
「……はい」
「……あなたの絵を持ち出せなくて、本当に申し訳ない。謝罪のしようもない、だそうです」
 嘘。
 それは嘘だ。
 そんなこと、起きるはずがない。
 あの絵が焼けるなんて、そんなことは起こりえない。
 そんな理不尽が許されるはずがない。
 許されてなるものか。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ。
 この人達が嘘をついているに決まってる。
 ああ、そう言えば。エイミーさんも言っていた、最近この島は治安が悪いって。だからこの人達はみんな嘘つきで。
 嘘つきに決まってるのだ。
「『母の肖像』という題名なんです」
 私の言葉に、二人の警察官は同情するフリをした。
 騙されるものか。
「そうでしたか、それはお気の毒です。わかります。この街の人々はみんな絵が好きで」、
「返してください」
「は? いや、あのボナパルトさん?」
 私が騙されてくれないので、二人は困ったように顔を見合わせた。
「私の絵を、返してください」
「お母さんのことを一番上手くかけた、自信作なんです」
「もしかしたら生涯最高傑作かもしれません」
「分かりますよ。燃やしたい気持ちは」
「でも、私の絵なんです」
「大切な絵なんです」
「バベル入館試験を受けるために必要な」
「すごく大切な絵なんです」
「だから燃やしちゃ駄目です」
「大切な絵だから、燃やしちゃ駄目なんです」
「――返してください」
「お願いします、返してくだ――」
 言い終わる前に全身の力が抜けた。
 目の前に空がある。
 いつの間にか私は地面に倒れていた。
 青い空の中に、私の帽子が見えた。
 私の大切な帽子が、風に飛ばされるところだった。
「あ……待って」
 薄れゆく意識の中で、私はロキさんのことを思い出していた。
 


「……すみません、ご迷惑おかけしました」
「気にしないで、本当に辛い目にあったんだから」
 醜態を思い出し恥じ入る私を、ロキさんは優しく慰めてくれた。
 数時間前、やっとの事で平静を取り戻した私が一番にしたことは、ロキさんに連絡を取ることだった。すぐにやってきてくれたロキさんは、私を自宅へと案内した。
「いきなり連絡とは、情けない話です」
「しょうがないよ。一ヶ月間泊まるはずだったはずの宿がなくなれば。誰だって心細くなるさ。と、はい、どうぞ」
 そう言って私の前に置かれたのは、ほんのりと香るコーヒーだった。
「コーヒーは嫌い?」
「いえ、頂きます」
 飲むと、じんわりと優しい暖かさがお腹から巡ってきた。ささくれ立っていた心が癒されるようだった。その温かさで張りつめていた糸がゆるみ、ぽつりと泣き言がこぼれる。
「どうしましょう、ロキさん」
 聞いてもしょうがないことを、私はロキさんに聞いている。彼の困らせるだけの、石を投げるような質問を。
 それに対しロキさんは、
「そんな自分を追いつめるような聞き方は良くないよ。今考えるべきことは、どうしよう、じゃなくて、君がどうしたいか、だよ」
「どう……したいか?」
「そう。したいことが決まれば、後はどうにでもできるさ」
 彼は何でもないことのように言って、私を勇気づけてくれた。
「私は……バベル美術館に入りたいです。バベルは子供の頃からの夢でしたし……それに、入ってお母さんを見つけたいです」
「そう。バベル美術員になってモナリザをね。んじゃ、まずは入館試験だね」
「はい、でも私の絵は……お母さんの肖像は……」
「あれ、お母さんの肖像?」
「あ、はい。私がロゼに出展した作品はモナリザをテーマにした作品なんです……まあ、今となっては作品だった、ですけど」
「……そうか。不幸だったとしか言いようがない話だけど……でもさ、確かに受賞した作品はそのお母さんの肖像かもしれない。けどそれを描いたのは君の実力なんだから、入館試験のためにまた別の絵を描けばいいじゃないか」
「いえ、ダメなんです。あの絵が焼けた時点で、私には受験資格が失われてるんです」
「知ってるよ。バベル入館試験は一次の筆記試験と、二次試験の出展作品審査。ただし二次の審査に作品を出展するためには、作品に一定水準以上の推薦が必要。で、その推薦が一次試験の受験資格もかねてる、でしょ」
「はい、ですから推薦のある作品がないと、一次試験すら受けられないんです」
 私は力無く、言う。だが、
「大丈夫。このパトリエ諸島にはね、受験資格相当の推薦文をつけられる画廊や美術館が、いくつかあるんだ」
「えっ、じゃあ」
「うん。君が相応の絵を描けば、きっと推薦文をつけてくれるよ。あるいは、今から君の別の絵を取り寄せれば、それで事足りるんじゃない?」
 言われて私は、今まで描いた絵のことをふり返る。だが私は首を横に振り、
「ダメです。今動かせる絵では、たぶん推薦文はつけてもらえません。それなりの品は値札が付いちゃってますし、今取り寄せられるのは、自分でも未熟だって分かる絵です」
「そう、なら描くしかないね」
「でも、道具もないし……何より時間がありません」
 絵の完成度と時間とは、別に関係はない。長い時間をかけた傑作もあるし、短時間でかける傑作もある。だがそうは言っても限度がある。
 試験までは一ヶ月を切っている。
 そんな短期間で傑作が描けるはずがない。その事を思うと、縄で首を絞められているような気分になる。
 けれど彼はたった一言で、その縄から私を自由にした。
「でもさ、描きたいでしょ。リザさん」
「え……」
「どうせ落ちるなら、描いて落ちたい。何もしないより、挑戦して落ちたい。そして何より、絵が描きたい。そうじゃない?」
「描きたい……?」
 そうか。私は言われて。
 私は自分の中の強い気持ちに気付いた。
 胸の奥に、ぎゅっと詰め込まれた切望。
 私は絵が描きたいのだ。
 悪夢から目覚めたような気分だった。
 どうしてこんな事に気付かなかったんだろう。
 受かるの落ちるのなんてつまらないことを、私は気にしすぎていたのだ。私は絵を見るのも、描くのも、大好きなんだ。
 なら、描いた方が楽しいに決まってる。どうせ落ちるなら、描いて落ちた方が、絵が燃えちゃったから受けられませんでした、なんて言うより何百倍もせいせいする。
「道具ならこの家のアトリエに揃ってる。場合によってはアトリエごと貸してあげてもいい」
「本当ですかっ!」
「うん。道具を揃える時間も惜しいでしょ」
「ありがとうございますっ」
 良かった。ロキさんに出会えて本当に良かった。
 絵が燃えてしまうなんて不幸にも程があるけど、でもロキさんに会えた分を足せば、まだどん底にまで落ちてない。
 だって私は、まだまだがんばれるんだから。
「本当にありがとうございます」
 私はもう一度、心からお礼を言った。
 本当は抱きついてすりすりしたいぐらい感謝していたんだが、エイミーさんのことを思い出して自重した。
 心の中で、すりすり。



 ロキさんの家は普通の一軒家だが、アトリエがあった。彼の話によれば、このパトリエでは誰もが多かれ少なかれ趣味の創作活動をするそうだ。彼もご多分に漏れず油絵を描くらしい。
「いろいろあって、最近は随分ご無沙汰なんだけどね」
 だが彼のアトリエはすごく充実していた。本職の画家に負けないぐらい道具が揃っている。
 そんな彼の作品にも興味が湧いたのだが、必死で作品を隠す姿が可愛かったので見逃してあげることにした。あとでこっそり見よう。
「あとは、宿の心配だね」
「そうですね。一応お金はあるんですけど」
 だが一ヶ月間悠々滞在というわけにはいかないだろう。まさか宿が火事になるなんて思わず、こちらには三食宿付きの予定で来たのだ。
「あとは……優勝商品を下さったロゼ・シャンシュルジュの方に連絡を取って事情を話せば、空いている宿を見つけてくれるかもしれませんが……」
 だからといって、今すぐ代わりの宿が見つかるだろうか。なんせ一ヶ月も宿泊させてくれる宿だ。しかもこの島はいつだって観光客でにぎわっているのだ。
 その事を悟ったのかロキさんはしばらく悩んだ末、
「一応、来客用の空き部屋やアトリエには、鍵が付いてるんだけどね」
 と言った。つまり気にならないんだったら泊まってもいいよ、ということらしい。一刻の時間も惜しい私としてはアトリエの側で寝られるのは願ってもないことなのだが、
「エイミーさんはどう思うでしょうか」
「……黙ってればダイジョウブ。今はキンキュウジタイ」
 やや強ばった表情が気になったが、お言葉に甘えることにする。せっかくだ。この一ヶ月だけは、なりふり構うまい。あとで沢山お礼をして、沢山謝ろう。
 こうしてロキさんの多大な支援の元、私はパトリエに小さな足場を固めたのであった。


 パトリエ本島に着いて、二日目。
 私は島を散策していた。
 散歩の目的は、絵の題材探し。島を歩いて、何か心の琴線に触れるものを探しているのだ。
 だが、昨日と違い島を歩いていても、ちっとも心が動かない。どこもかしこも名作で溢れるこの島なら、きっと何かひらめくと思ったのだが……。
 やはり腹を決めたつもりでも、焦りがあるらしい。気付くといつのまにか早足になっていたり、同じ広場を何周もしていたりする。
 いつもと同じ、好きに絵を描けばいいんだ、そう自分に言い聞かせるほど、よけいに追い立てられる。
 突然頭をかきむしりたくなったり、ふっ、と逃げ出してしまいそうになる。そして、すごく怖い。
 まるで、一人で暗闇を歩いてるよう。手探りで前に進んでいるつもりで、一人で同じ所ををぐるぐると回っている。そんな気分。私は臆病だ。
 こんな事ではロキさんに合わせる顔がない。ロキさんは、今だって私のために美術館巡りをしてくれているというのに。
 美術館の持つ推薦枠は、一定数に決まっている。今の時期では、推薦枠を使い切っている美術館がほとんどだろうが、まだ一席分ぐらいなら残している美術館もあるだろう。彼はそう言って探してくれているのだ。もはや感謝の言葉も出ない。
 でも感謝の言葉を考える前に、私はまず絵を描くべきだろう。それこそが唯一の、彼の親切に報いる方法だ。
 それが分かっているのに、私は惑っている。雲を掴むような感覚。
 考えてみれば私は題材探しなど初めてなのだ。いつも、描きたい、と思ったものを自然に描いていたので、自分から題材を求め歩いたことなどない。

 いや、違う。

 それがいけないんだ。
 ロキさんも言っていたではないか、大切なのは何を描くかじゃなくて、何が描きたいかだ。題材ではなく、描きたいものを探しているのだ。
 そう気付いたとき、それが目に付いた。
 いつの間にか町外れに出て、花咲く丘を歩いているときだった。
 これしかない。これが描きたい。きっとこの題材は、一生のうちで今の私が一番上手く描けるだろう。そう思えるものを見つけた。
 私はそれを集めると、慌ててアトリエに引き返した。


「ただいまっ、良い題材が見つかりましたっ」
 私は帰宅早々、嬉しくてそう叫んでしまった。ロキさんにもこの感激を味わって欲しくて。先に帰っていたロキさんは、笑顔で迎えてくれると、
「お帰り。推薦枠が残ってる美術館、いくつかあったよ。今年はどこも割と不作らしくてね、作品によっては推薦を付けてくれるそうだ」
「本当ですか、よかったあ」
 ほっとして、座り込んでしまいたい気分。流石に推薦枠がなければどうしようもないのだ。本当に良かった。トントン拍子で話が進む、とはこのことだ。もっとも元の運が悪いのは置いておくとして。
「ところで、題材ってそれ?」
 私の手の中にあるものを、ロキさんは不思議そうに眺めていた。
「はい、これです。素敵でしょ?」
「うーん、花か……でもその花束」
 腑に落ちないといった顔のロキさんに対し、私は胸を張って言った。
「テーマは『明日に咲く花』です」
 聞いた途端、彼の目にも光が浮かんだ。口元には私と同じ、面白いいたずらを思いついた子供のような笑み。
「……なるほど、普通は満開の花を描くところをあえて、ね。どんな作品に仕上がるか分からないけど、ひょっとすると傑作が出来るかもしれないな。それに、今の君にピッタリの題材だよ」
「はいっ。これなら今の心境が描き込めるって気がするんです」
「いいな、僕までなんだか楽しみになってきたよ」
 ロキさんの声は、甘いケーキを前にした女の子のように弾んでいた。つられて私も楽しくなってしまう。
「ぜひ、楽しみにしててください!」
 私と彼は、自然に通じ、笑いあった。きっとこのとき二人の間には、花が咲いていたんだと思う。
 ふと見ると、窓辺に飾られた植木鉢の花に、いつの間にか蝶がとまっていた。


 しかしながら、そう簡単に傑作が描けるほど芸術の底は浅くない。
 軽快に漕ぎ出した私の帆船は、数日のうちに暗礁に乗り上げた。
 最初の数日は、快調だった。
 キャンバスは、二十号を選んだ。あんまり小さいのも問題だが、題材は花だし、大きすぎると描き込むための時間が足りないからだ。
 木炭での構図決めとデッサンは、ほぼ二十四時間できっちり済ませた。花の様子は刻々と変化するし、絵とは実物に忠実である必要はないのだ。
 むしろ絵画とは、実物とは異なる部分、創作した部分こそが味なのだとも言える。意識の濃淡を描き、光と影を作り、虚構の美を添え、ある時は奪う。描き手の心を加えてこそ、絵とは出来上がるのだ。写真と絵の違いはそこにある。
 例えば人混みの中を歩く、女の人をテーマにしたとしよう。
 写真芸術ではその人にピントを押さえ、彼女が目立つ一瞬の構図を狙い、シャッターを切る。だが逆に写真は実物に忠実すぎるがゆえ、その一瞬を外せば、ただの人混みの写真になってしまう。
 一方の絵画。
 絵画の場合ならば、描き手の好きずきだ。描き手がその女性だけを意識しているのなら、ぼんやりとした中その人だけを鮮明に描く。彼女に輝きを感じたのなら光を当てればいいし、暗い哀愁を感じたのなら影を与えればいい。あるいは痛烈な赤の印象を与えられたのなら、彼女だけに赤を乗せ、背景から赤を奪うことも出来る。
 絵画とは描き手の心を反映する芸術なのだ。
 だからこそ、デッサンを終え色を置く段階になった途端、私は困ることになった。今の私の心には、どうしても焦りがあったからだ。
 ただ模写するだけなら、技術の問題。技術ならば今までの練習による自負もある、自信もある。だが模写に創作を加える部分では、そうはいかないのだ。
 焦りがあると、自信が持てない。
 描きたいものを描いているのならば、心向くまま描けるのだろう。だが、今の私にはどうしても試験というものが目の前にちらついてしまう。
 すると今描こうとしているものが正しいのか、迷ってしまう。
 パレットで試行錯誤して作った色にやっと満足し、筆に取り、キャンバスにペトリと乗せる。その途端、突然色を選び間違えた気がしてしまうのだ。
 思わず筆にも迷いが出る。大胆に絵が描けなくなる。
 まるで泥をかき回すような筆の運びになってしまう。
 こんな事ではいけない、と自分を叱咤するのだが、どうにもならない。
 いつもは一つに定まっている心が、今回はふらふらしている。そのせいで、上手く描けていない気がしてしまうのだ。数分前に満足したはずの部分が、すぐに気に入らなくなってしまう。 
 何もかも、私が臆病なせいだった。
 ちょっとした事件が起きたのは、そんなとき。私の創作がやっとこさ半ばまで進んだときであった。
「上がらせて貰うわよ」
 玄関の方から、いつか聞き覚えがある声が響いた。
 少し藍色を帯びた、落ち着いた声。
 エイミーさんだった。どうやらこの家の鍵を持っているらしく、呼び鈴を鳴らさずに入ってきたようだ。思わず息をひそめていると、ロキさんが出迎える声がする。
「どうしたの。今日は特に約束はなかったと思うけど」
「あら、まるで約束なしに訪ねちゃ悪いような言い方ね」
「いや、別にそういうわけじゃ」
「あなたの入れてくれる紅茶が、突然恋しくなる。そんなことがあっても良いと思わないの? 案外薄情なのね」
「いや、その、ごめん。そういうつもりじゃなくて。もちろん君ならいつだって大歓迎で、むしろ本当はいつも一緒にいた」
「冗談よ。ごめんね、突然押しかけちゃって」
 相変わらずだよ、エイミーさん。
 勝手知ったる、といった様子でロキさんと一緒にダイニングに向かう。その足音を聞き、私は安堵した。二人がダイニングでお茶を飲なり、あるいはロキさんの自室で愛を語り合う分には大丈夫だ。
 このアトリエは家の一番隅。私がいるとはばれないだろう。
 二人の声が、遠ざかっていく。
「でもね、ロキ。私が突然訪ねたのは、あなたが……じゃなくて、あなたの紅茶が恋しくなっただけじゃないわ」
「じゃあ、どうして」
「ついさっき、珍しい拾いものをしたの。で、その事で少し聞きたいことがあって」
「何?」
「あのリザさんっていう子、あれから連絡あった?」
「……いや、ないね」
 突然私の名前が出て、焦ったのだろう。ロキさんの返答には、ほんの少しだけ間があった。だがその間を、エイミーさんは別の意味にとったらしい。
「あーら、意外。ふられちゃったのね」
 エイミーさんの意地悪い声。ロキさんの脇腹をつつきながら、蜜をなめるような笑顔をしていることだろう。だがロキさんは、
「ああ、ん、そうみたいかもね。残念」
 らしくない返答。エイミーさんもきっとそう思ったはずだ。
 普段のお人好しのロキさんだったらきっと。
『ち、ちがうって、ふられたとか、そういう問題じゃなくて』
 とかまごまごと言っているところだ。
 エイミーさんも、しらけたように話題を変えた。
「でもそれなら困ったわね。あなたから連絡出来ると良かったのに」
「なんで?」
「それがちょっとね……さっきこれを拾ったんだけど」
 だがそう言いかけたところで、エイミーさんが言葉を切った。
「最近また油絵を描き始めたの?」
「……な、なんでソンナコトヲ?」
 ロキさんロキさん、カトコトになってる。
「だってほら、油絵の具の匂いがするじゃない」
 エイミーさん鋭いよっ。などと感心してる場合じゃない。アトリエの方に、どんどん足音が近づいてくる。ピンチだ。
「あ、ちょっと、ストップ待った待った」
「なによ、良いじゃないちょっとぐらい見ても。水くさいわね。それとも何かしら、私に見せたくないような絵なのかしら」
「いや、そうじゃないんだけどさ、いや、どうせなら完成してから見てもらおうと思って、ずっと黙ってたんだ。だからさ、完成まで待ってくれないかな?」
「あら、そうなの」
 ナイスです、ロキさん。エイミーさんも納得したような声だ。
 だが、
「そういうことなら――――ぜひ今見させて貰うわ。私の趣味はあなたを困らせることだもの」
 さすがエイミーさん、容赦なしっ!
「ああっ、分かった。見せるからっ。せめて見せる前に部屋の片づけをっ」
 わあ、ロキさんのセリフ、憧れのあの子が突然家にやってきて、部屋に入ろうとしたのを慌てて阻止して、時間を稼いでその手のお品を片づけようとしてる男の子にそっくりですよ。
「今のあなたの状態、憧れのあの子が突然家にやってきて、部屋に入ろうとしたのを慌てて阻止して、時間を稼いでその手のブツを片づけようとしてる男の子にそっくりね」
 すごいっ、シンクロニティ。
 なんて驚いてる場合じゃない。私がどうにかしなきゃ。
 ここはやはり隠れる、いや窓から逃げるべき? だが無情にも、すぐにドアは開けられた。
 アトリエに踏み込んできたエイミーさんは、彼女らしい、意地悪いけど魅力的な笑顔だった。そしてその笑顔は、私を見て、凍りついた。
 困惑したような声で、つぶやく。
「……リザさん?」
「……あのあの……お久しぶりです」
 氷のような瞳が、私を見ていた。ナイフの視線が、私の胸を貫いていた。
 胸が、えぐられるように痛んだ。
 ロキさんは、困り果てた様子で廊下でうなだれている。 
 でも、一番辛そうな顔をしていたのは、間違いなくエイミーさんだった。
 彼女は小さく震えていた。悲しみを怒りに変えて、彼女は堪えようとしていた。だが彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ロキ……」
 聞くも痛ましい声で、彼女は問いかけた。
「なんで……嘘つくの……」
 私は彼女の手が持っている『それ』に気付いた。
 『それ』は帽子だった。
 フェルメールの絵に出てくる、帽子だった。あの日風に飛ばされなくしたはずの、私の帽子だった。
 私はそれを見て全てを了解した。
 ロキさんの家を突然訪ねた理由も、ロキさんへの質問の意図も。
 エイミーさんは私に、帽子を届けてくれようとしていたのだ。
 無意識であろう。彼女の手は、全てに耐えるように帽子の端を握りしめていた。



「信じられない」
 事情説明を聞いたエイミーさんの第一声は、こうだった。
「本当なんです。信じてください。私はただここで絵を描かせて頂いただけで、それ以外のことは何も。それにロキさんはただの親切で」
「そうじゃなくて」
 エイミーさんは、乾いたタオルから水を絞り出すような声で言った。
「私が信じられないのは、平然とあなたを泊める、ロキの感性」
 的確で、痛烈な一言だった。
 世話になっている私が言うのも何だが、確かにこればっかりは、確かにロキさんに非がある。例え何も無くても、私を泊めればエイミーさんが不快な思いをすることは明らかなことだ。
「本当にごめん。どうしても、リザさんが困ってるのを見過ごせなくて。それに……黙っていて、騙そうとしたことも……何より、君のことを信じられなくて、本当にごめん」
 ロキさんはただただ謝っていた。その表情は後悔なんて生やさしいものを通り越した、まるで岩を背負ったような悲痛な表情だった。
「私を信じられなかったって、どういうこと?」
「うん。だから、最初にリザさんを泊めようとしたとき、君を信じて、包み隠さず言うべきだった。あのとき言っていれば、君はきっと許してくれていた。君は寛大で、芸術家に理解があるから」
「馬鹿……私だって嫉妬ぐらいするわ」
 エイミーさんは拗ねたように言った。随分大人びた子だと思っていたが、今は年相応の傷ついた少女だった。白衣のような上着を羽織った肩が、縮こまっている。
「それでもきっと君は、僕を信じて許してくれていたはずなんだ」
 よほどの信頼がなければ言えないことを、彼は真っ直ぐに言った。そしてさらに、
「だけど僕は、君の信頼を裏切った」
 自分の罪から目をそらさない、自虐的なまでの一言だった。エイミーさんも思わず身を固くする。
「本当にごめん。許してくれなんて言えない、もう一度信頼してなんて言えない、でも……償わせてくれないかな?」
 その言葉の苦さ。その場のしのぎやごまかしではない、ロキさんの本心から出た真摯な言葉だった。
 彼の言葉を聞き、彼女はやっとクスリと笑った。
「相変わらず、私をたらしこむのが上手いのね」
 顔に快活さの欠片が戻ってきていた。
「そう簡単に償える罪じゃないわよ」
「分かってるよ」
「そう……なら、私から一つだけ条件があるわ……」
 彼女はそう言って、突然私の方に向き直った。
「あなたの絵を見せてくれないかしら、リザさん」
「えっ、私の絵ですか?」
「そう。あなたの絵が見たいの。不愉快かもしれないけど、お願いするわ」
 エイミーさんの目には、憂いと期待の混じった、不思議な光が湛えられていた。



「へえ、なかなかね」
 絵を一目見た途端、エイミーさんは顔をほころばせた。
「まだ未完成だから何とも言えないけど、これは良い絵になるわ」
 彼女は朗らかにそう言うと。絵の隅々までじっくりと眺め回し始めた。
「それに、実に面白い性格の絵だわ。ねえ、題名はもう決めた?」
「はい。『明日に咲く花』という題名にする予定です」
「へーーーえ。なるほどねー」
 彼女はちろりと舌を出し、唇を一舐めした。普段は飾り気ないそぶりのエイミーさんだが、その無意識の動作は意外にも色気があった。どうやら本当に絵に熱中してくれているらしい。彼女は心から楽しんでいる、その事が凄く嬉しかった。
「明日に咲く花……ちょっとあざとい題名だけど……好きだわ」
 彼女の目には、わずかに妖しい色が浮かんでいた。極上の獲物を前にした、ライオンのような目だった。この人は本当に絵が好きなんだ、そう思わせる瞳。そしてその彼女を興奮させる絵だということが、誇らしかった。
 彼女はしばらくしてやっと絵から目を離すと、満足げにうなずいた。
「見事だわ。まさか『明日に咲く花』という題名で――『枯れ花』を描くなんて」
「はい。でもこの枯れた花束が、今の私の心境に一番近いんです」
「不屈の心、なのね」
 その通り。今回私が選んだ題材は、枯れた花束だった。満開でもなく、つぼみでもなく、枯れた花。だが私はそこに、不屈の強さを描きたかった。盛りを過ぎ、それでもなお美しくあろうとする花。そこに逆境に抗おうという私の決意を乗せた。
「決してみずみずしいわけじゃない。それでも、生命力に溢れて力強い、美しい枯れ花」
「ほ、褒めすぎですよ」
「そんなこと無いわ。こんな今にも咲きそうな枯れ花、初めて見た……まさに、明日に咲く花だわ」
「ありがとうございます」
 エイミーさんが一言言うたびに、私の中の霧が晴れていくのが分かった。傷だらけの自信が少しずつ治っていく。
「合格よ。私とロキを喧嘩させてまで描いた絵。凡作のようだったら、今すぐにでも追い出してたところだけど、これじゃあ、追い出せないわね」
「えっ、それじゃあ」
「だって私が見たいんだもの。この絵が完成するのを。それまでロキを貸してあげる。好きにこき使って。泊まるのも私公認」
 感激だった。絵を褒められたことは、今までに何度もある。でも、褒められてこんなに嬉しかったのは、これが初めてだった。
 もう迷わなくてすむ。そんな気がした。
「ありがとうございますっ」
「頑張ってね」
 エイミーさんは、ご満悦の顔だった。エイミーさん流の、魅入ってしまいそうなほど素敵で不敵な笑み。私は思わず、抱きついてすりすりしたくなってしまった。一応ロキさんの前なので、自重する。
 心の中で、すりすり。 



 油絵に終わりはない。何度でも絵の具を剥がし、塗り直すことが出来る。
 ならば、油絵が完成するのはいつか。
 答えは画家が満足したときである。
 逆に画家が完成と思わなければ、その作品はどんなに見事であろうと未完なのである。実際に、自分は絵を一度も完成させたことがない、なんて言う天才は結構いる。
 さて私の場合はどうか。私だって、どこまでも納得出来る絵を描きたい。だが今回の場合は残念ながら期限があるのだ。
 例の一件でのエイミーさんの大絶賛。おかげで自信を取り戻した私は、快調に制作を進めた。だが、いつ完成させるかという段になると流石に少し迷った。
 なんせこの『明日に咲く花』は、あの燃え落ちてしまった『母の肖像』の代わりに試験を勝ち抜かねばならないのだ。
 『母の肖像』は私の愛情と技術と時間を、心おきなく注ぎ込んだ自信作。あれ以上の作品を短期間に描くのは、とうてい無理だ。この『明日に咲く花』も確かに短期間で描いたわりには上々、かなりの自信がある。だが『母の肖像』に勝るとはとても言い難い。
 となると問題は、落としどころである。
 どこまで粘って、どこで筆を置くか。
 私としてはエイミーさんに少し意見を聞きたいところだったのだが、
「甘えないで」
 と一蹴された。本当に一言で済まされた。さすがです、エイミーさん。
 確かに、画家が自分以外の人の意見に合わせて絵を描くのは、あまり良い事ではない。画家の持ち味が損なわれるからだ。たとえ明らかな欠点があっても、そこがその画家の醍醐味、という場合も多く存在する。
 私は迷った末、締め切りまで三日を残して筆を置いた。
 美術館を回って頼み込む時間を考えたら、これがギリギリ。
 けれども、その心配は、一件目の美術館であっさり解消された。
 一番最初に訪ねたのは、シュバルツ現代美術館。割と新興の美術館で、推薦権こそ持っているものの、いまだに合格者を一人も出していないらしい。
 こういう美術館の方があっさり入れてくれるかもしれない。そう思った私の考えは、正しかった。
「ほう、これはこれは」
 受付に事情を話し、出てきた美術員の軽い審査の後、私はすぐに館長室に通された。
「これならば、喜んで推薦を付けさせて頂こう」
 ゴードンと名乗った館長は、私の絵を一目見て、気に入ったようだった。森の熊さんを思わせるずんぐりとした館長は、トレードマークらしいひげをひねりながら、そう言った。
「はい、恐れ入ります」
「我が館は毎年受験者に恵まれないのだが、おかげで今年は期待が持てそうだ」
「はいっ。一生懸命頑張って、必ず合格します」
「ところで――」
 そう言って、ゴードンさんはポケットから上質そうな葉巻を取り出した。それを見て私はちょっとムッとする。ゴードンさん、最初は紳士的で、すごく頼りになりそうな人だと思ったのだが。
「この絵を持ち込んだのは我が館が初めてでしょうな、リザ・ボナパルトさん」
「はい、ここの館の持つ受験枠がまだ開いていると聞いたもので」
「そうだろうとも、この絵ならどこに美術館に行っても気に入られるに決まっている。いやいや、君が一番にここを訪ねてくれたことは、実に幸運だ」
 ゴードンさんはそう言いながら、驚いたことに本当に葉巻に火をつけた。私は思わず、声を上げた。
「止めてくださいっ、絵を前にして煙草を吸うなんてっ」
 自分でもびっくりするぐらい、刺々しい声になってしまった。どうやら疲れが溜まっていたせいで、ピリピリしているらしい。ゴードンさんは、驚いて少し睨むような顔をしたが、気付くと慌てて葉巻を消してくれる。
 すぐに申し訳なさそうな顔で、謝ってくれた。
「いや、悪い。普段この館長室では葉巻を吸っているもので、つい癖でね」
 それならば仕方がない。私が面会しているのは会長室なのだが、たぶんイレギュラーなのだろう。だが……美術館長ともあろう人が……。
「いえ、私こそ失礼なこと言って申し訳ありません」
 だが作品を前にして煙草を吸うのは御法度なのだ。油絵は特に煙で傷むし、ヤニなど付いたら致命的だ。それに……また火事になどなったらそれこそ笑うしかない。
「安心したまえ。絵の管理には専門のスタッフが管理する。最近多い盗難も、我が館は大丈夫だ。最高の警備だとも。大船に乗った気でいなさい」
 ゴードンさんは安心させるように、その大きな手でどんと分厚い胸を叩いて見せた。
「そうですか。それを聞いて安心しました」
 そこまで言ってくれるなら、今度こそ大丈夫だろう。それに火事なんて不運、そうそう続くはずがない。
「君は後顧の憂い無く、全力で試験に臨みたまえ。そして我が館からぜひ初のバベル美術員を出そうじゃないか」
「はい、お任せください」
 頼もしい笑顔のゴードンさんに、私は深々と頭を下げた。良かった。色々残念なこともあったけど、私はどうにかこうにか、逆境を乗り越えたのだ。
 待っててね、お母さん。私がバベル美術員になって、必ず見つけ出してあげるから。
 帰り道は、雲の上を弾むような気分だった。
 これほど足取りが軽くなったのは、パトリエに来たその日以来だ。思わずつま先が踊ってしまう。
 帰る途中で、あの枯れ花たちを摘んだ丘を、もう一度訪ねてみた。これから来る夏に向けてか、ちらほらとつぼみが混じり始めていた。
 中にはもう、開きそうな花もあった。
 明日にはきっと咲くに違いない。



「おめでとう。上手くいったみたいだね」
「はい。もう言うこと無しの万々歳です」
 玄関を開けると、どこかに出かけようとしていたロキさんとばったり出くわした。私が手ぶらなのを見て、上手く推薦枠がとれたと気付いたのだろう。すぐに祝福の言葉をかけてくれた。
「何もかもロキさんとエイミーさんのおかげです。本当にありがとうございました」
「いやいや、僕たちがやったのはほんの手を添えるぐらいの手助け。これはリザさんの実力だよ」
「そんなこと無いです。ロキさんがいなかったら今頃どうなっていたか分かりません。ところで、ロキさんはこれから出かけるんですか?」
「うん、ちょっと流路確認が入って」
「流路確認?」
「あ、うん。どこかで美術品窃盗団が捕まったらしくてさ。で、その窃盗団が盗んだ品が、どこの美術館や画廊から出たものかってことを、各美術館の警備員が集まって確認するんだ」
 そう言えば、ロキさんの仕事は警備員さんなのだった。私自身はずっとアトリエに籠もっていたので忘れていた。昼夜問わず家を空けることが多いのも、そのためかもしれない。
「ってそれより、窃盗団が見つかったんですか。それならもしかしてお母さん、あ、いえ、モナリザも」
「出ないだろうね。こうやって捕まるようなちんぴらは、そんな大物盗んでないよ。今きっとモナリザを持っているのは、どこかの恥知らずな収集家さ」
「そうですか」
 まあ、そうだろう。そう簡単に見つかるはずがない。
「じゃ、出かけるけど、夕飯ぐらいには帰ってくるね」
「はい、いってらっしゃいです」
 と、出かけるロキさんを爽やかに、真心を込めたとびきりの笑顔で見送る私。どう控えに見ても、新婚ばかっぷるの奥さんが旦那さんを送り出す程度の愛嬌はあるに違いない。そんなフリをしながら、私は内心ほくそ笑んだ。
 絵の制作途中は保留していたことを、今日こそ実行すべきだ。
「絵を描き終わった今となっては、残念ながらロキさんのアトリエも卒業です」
 それに絵が完成した以上、この家に滞在することも出来ない。不本意ながら三週間近く宿代を浮かした(ロキさんが受け取ってくれなかった)ので、お金もある。
「よって立つ鳥後を濁さず。アトリエのお片づけをするべきですね」
 そしてその際、誤ってロキさんの絵を発見し、それを鑑賞してしまうなんて事故が起こっても何の不自然もあるまいのですっ!
 早い話が、私は制作中からずっと、ロキさんの絵を見たくてずっと我慢していたのだった。
 私はアトリエを掃除しながら道具類をまとめ、それを戸棚に片づけていく。その途中、私は戸棚の奥から目的の品を発見した。
 黒い額縁に、蓋がかかっている。間違いない。
 これほど充実したアトリエを持つロキさんだ。たとえ下手の道具凝りだったとしても、それなりの作品ではあるだろう。
 否、絵の下手さなど問題ではない。どんな絵であろうと、絵とは見られるためのものなのだ。
「どんな絵も人々の目に触れられたくては不幸というもの、だから私が見てあげましょう」
 胸を高鳴らせて蓋を開ける。
 そして出てきた絵は、私の予想を大いに裏切る絵だった。
「うわっ……すごい……」
 すごく……なんというか……すごく……。
「いや、上手いです。すごく上手いんです……でもこの絵……すごく……」
 いやらしい、絵だった。 
 もちろん私だって裸婦画ぐらい知っている。半裸だろうが全裸だろうが、芸術は芸術だ。女性の肉体には美しさがあるのも知ってるし、実は裸婦のデッサンもしたことがある。知識だって一通り以上ある。
 そういう意味のいやらしさではない。
 だいたいこの絵は、裸婦画ではない。絵の中の少女は、普通にドレスを着ている。だが、裸婦画なんて足元にも及ばないほどのいやらしさ、あるいは妖艶さ、色気のようなものが、その絵には描かれていた。
「なんか……目のやり場に困る絵です」
 桜色のドレスを着た少女が、ベッドに腰掛けているという絵だった。青い目の少女は、大河のように金髪を長くのばしている。左足を床に、右足をベッドに乗せてこちらから見て左を向くという、斜め四分の三からの構図だった。
 貴族の肖像画を描く際などによく用いられた、斜め四分の三の構図。この絵の少女も、貴族の肖像画のような立派なドレスを着ている。
 だが彼女が腰掛けているのは、椅子でもソファーでもなく、ベッド。そこは本来、裸婦が惜しげもなく肌を露わにする場所だ。
 表情もそう。少女は肖像画のために、澄ましたフリをしている。凛とした口元はよそ行きの、まさに肖像画のもの。
 だがその青い視線は、どこか恥ずかしそうにふわふわと漂わせている。上の空だ。
 少女は、とろけているのだった。
 かろうじて結ばれた唇からは今にも、ほう、と溜息がもれそう。気付けば少し、頬に朱が入っている。
 この絵に描かれているのは、普段は明朗快活であろう少女の、秘密の一面。恋を知った少女の、美しさともろさ。
 少女は、恋をしているのだった。
 恋慕していた相手に、誘惑されてしまった少女。彼女はその甘さに抗えなかった。だが少女は少女ゆえ、ベッドという二人が触れ合う場所でも、まだ怖くてドレスが脱げない。
 そんなイメージ、象徴を持つ絵だろう。
 題材がいやらしいという点では評価しかねるが、そのいやらしさを補って余りある――いや、そんなうわべの評価は止めよう。
 正直に言えば、私は嫉妬した。
 制作を終えるまで、この絵を見なくて本当によかった。見ていたら私の心は千々に乱れ、制作にも悪影響が出てただろう。
 大好きな絵というのはもちろんあるし、大嫌いな絵だってある。だが絵を見て嫉妬したのはこれが初めてだった。
 嫉妬?
 そういえば私は何に嫉妬しているのだろう。
 こんな素晴らしい絵を描いたロキさんか、あるいは絵の中の少女になのか。そうなのかもしれない。この美しい少女の想い人は、間違いなくロキさんだ。そしてロキさんもこの少女に夢中なのだろう。だからこそのこの絵だ。
 あのロキさんに、こんな激しい絵を描かせるほど愛された少女。嫉妬するには十分だ。
 まあ、どうであれ、見るものに嫉妬させるほどの作品だ。傑作であることは間違いない。
 でも、羨ましい子だ……。
「って、この金髪の子誰ですかっ!」
 いやいやいやいや、落ち着こう。
 ロキさんがこの子を好きだなんて、そんな馬鹿な。それはただ私が想像力豊かに妄想しただけで――そう思った瞬間、キャンバスの端の文字に気付く。
『永遠の恋人、オペレット嬢の姿絵』
 アウトっ!
 まずい。
 これはまずい火種を見つけてしまった。
 猛毒性致死性爆発性放射性第一級指定特別天然危険物だ。
 私の一件があった後だ。こんなものがエイミーさんに見つかっては、間違いなくもめ事になる。私は見なかったことにして、そそくさと棚に戻すことにした。ばれないように蓋をし
「絵が完成したそうじゃないの。首尾はどうだったのかしら?」
「ひっ」
 いつの間にかエイミーさんが後ろに立っていた。絵に夢中で気付かなかったらしい。
 そうなのだ。私が泊まっているのを知って以来、エイミーさんは良くここに来るようになったのだった。それは当然の配慮として別に良いのだが、まさか今日も来ていたとは……大失敗だった。
 いつも通りの黒の三つ編み。いつも通りの黒縁眼鏡。いつも通りの飾り気のない白の上着と描写まで定番化されたエイミーさん。少し猫背気味だが、その知的な瞳も、素敵で不敵な笑顔も十分魅力的な人だ。
 けれど絵の中で幻想的にまで美しい少女と比べると、残念ながら天と地の差があった。それほどまでに、絵の少女は美しかった。
「いきなり悲鳴とは随分と失礼ね。さてはリザさん、少し私と遊びたい――」
 そう言いかけて、エイミーさんはぴたりと口をつぐんだ。その目は私の持つ絵に釘付けられていた。しばらく逡巡した末、悔しそうにぽつりと漏らす。
「そう……この絵、まだ燃やしてなかったの……」
「知ってるんですかっ。この絵のこと」
「ええ……この子……ロキの昔の恋人だったの」
 エイミーさんは、どこか諦めたような寂しい目をしていた。でもよかった。昔の恋人ならギリギリセーフだろう。『永遠の恋人』などという一節も、若き日の過ちというものだ。
 だが、エイミーさんの言葉は、それどころではなく深刻だった。
「でもその子、病気で亡くなったの……でも死ぬ前にその子……ロキに『私が死んだら、もう一度だけ恋をして』って言い残したらしいの……馬鹿な子よね」
「……そんな」
 彼にそんなことがあったなんて。愛する人に先立たれ、しかもその最期の時には『もう一度恋をして』などという理不尽な遺言を。
 絵の中の少女は、願ったのだろう。ロキさんにまた恋をして幸せになって欲しい、と。
 自分が愛し愛され、幸せだったからこその願い。
 一人ロキさんを残さなければならない少女の、悲しい願いだった。
「彼は昔の恋人の絵は全部燃やしたって言ったけど……燃やせなかったのね。本当は昔じゃなくて、彼女は今でも永遠の恋人なのかも」
「……エイミーさん」
 エイミーさんの顔は、不思議と悲しそうではなかった。だがとても虚しい、灰色の砂漠のような表情だった。恋敵が故人だというのは、そういうことなのかもしれない。
「この絵を見たことは、彼に黙っておいてね。私たちの間の、秘密よ」
 彼女はその手で、大切そうに絵をしまい直した。
「もしかしたら、いつか、彼が自分の手で燃やしてくれる日が来るかもしれないし」
 エイミーさんは、その日まで待ち続けるというのか。
 ただ耐えることで。
 何て理不尽な、恋。ロキさんとあれほど両思いに見えた彼女が、こんな苦しみを抱えていたなんて。
 絵を元通りしまい終わったエイミーさんは、なぜか興味深そうに私の方を見ていた。
「どうしました?」
 彼女は答えず、私の前に立った。そのまま、すっ、と自然な動作で私の頬に右手を添える。まるでキスする直前の、恋人のように。
 だまったまま私の顔を、しげしげと眺める。そんなじっくり見られると、緊張してしまうのだが。
「なっなにを、見てるんですか」
 彼女の黒い瞳の中では、私が恥ずかしそうにもじもじしていた。そんな私を見て、彼女は言う。
「似てる」
「な、何がですかっ」
「一目見たときにも、思ったの。あなたはすごく似てる」
「私が? 誰にですか……?」
「あら、誰にだと思う?」
 そう言って彼女は、ぐっと顔を近づける。彼女の瞳に、私の青い瞳が映っていた。
「そのアクアマリンの青い瞳も」
 彼女の指は、私の首元をくすぐりながら背後に回る。私の髪留めに指が添えられた。
「その金髪も」
 プツリ、と髪留めが外された。自由になった髪がふわりと肩にのる。
「セーヌの流れのような、素敵な髪だわ」
 ダヴィンチが言った言葉。女性の髪を最も美しく描きたければ、水の流れを描けばよい。髪を川の流れにたとえられるのは、絵描きにとっては最高の褒め言葉だ。エイミーさんに言ってもらえるなんて、嬉しいことは嬉しいのだが……。
「その白い肌も、唇も、生き写し。この絵の少女に、そっくりだわ」
 うっとりと見つめながら、彼女が言う。
 どうしてだろう。相手は年下のエイミーさんだというのに、まるで美人のお姉様に品定めされている気分だ。なぜか魔法をかけられたように、彼女に魅入ってしまう。
「なにより、可愛いしね」
 彼女はそう言って私から手を離した。呪縛が解けた私は、よろめくようにして一歩離れた。いつの間にか息が荒くなっている。心臓が狂ったように高鳴る。何だろう、この胸騒ぎは。私の体は、何を伝えようとしたのだろうか。
 エイミーさんはいつも通りの小憎たらしい素敵な笑顔で、私を見ていた。
「大丈夫? 顔が赤いわよ」
「エイミーさんのせいですよっ」
「あ、感じちゃったかしら?」
「ち、違いますっ」
「じゃあ、発情しちゃったとか?」
「発情って何ですか、発情って! しかも意味は同じですっ」
「冗談よ。彼の絵を勝手に見た罰」
 年下のお姉様は、愉快そうにクスクスと笑っていた。だがその言葉を聞き、私は反省する。
「すみません。失礼なことをしてしまって」
「良いわ。次から気をつければ。あ、やっぱり次からも気をつけなくて良いわ、絵を見ることこそが我々の天分だもの」
 そうよね、と言って、エイミーさんはクスクスと笑った。
「でも、あなたがこの絵の子に似てるって言うのは本当よ。最初にあったときからずっと思ってたの。あるいはロキがあなたを助けたくなったのも、面影があったからかも」
 そう言うエイミーさんの目には、私には理解しがたい感情があった。
「でも……もしロキさんが私を、昔の恋人に重ねて助けたのなら、残念です」
 聞き、エイミーさんは首をかしげた。
「あら、どうしてかしら? 淡い恋心から助けられるなんて、素敵じゃない」
「いいえ。そんな理由じゃ納得出来ません。私にバベル美術員になって欲しくて、あるいは私にいい絵を描いて欲しくてだったなら良いんです。彼の美術愛から出た行為だというのだったら、納得出来ます。でも、もしそんな動機で私を泊めたというのなら、我慢出来ません。不純です。それに何よりエイミーさんに申し訳が立ちません」
 その言葉を聞き、エイミーさんは満足げに微笑んだ。今まで見た中で、一番晴れ晴れとした元気な笑顔。
 ちょっと驚いた。いつもどこか斜に構え、ヒネた笑いをする彼女が、こんな笑顔をすることがあるのかと。
「美術愛……くすぐるわね。そんな恥ずかしい言葉、良くもまあ真顔で言えるわね。あなた、きっとすごく良いバベル美術員になるわ」
 形の良い人差し指で、私の額をちょいとつついた。まるで可愛くて仕方がないというように。
「あなたは絶対に、受からなきゃ駄目。頑張りなさい」
 年下のお姉様は、腕を組んで微笑んでいた。その笑顔を見て、不思議と勇気が湧いてくる。この人が応援してくれるのならきっと受かるに違いない、と。
「ありがとうございます。絶対に受かります」
 私はめいっぱいの笑顔で応じて見せた。


 
 バベル大美術館、入館試験。
 その一次試験が、ついにやってきた。
 一次試験は午前と午後に分かれ、午前は美術学的知識を、午後は美術の批評眼が問われることになる。
 実に世界中から五百人以上が集まる試験会場では、さすがに緊張した。
 午前中の知識造詣もはや蘊蓄の域まで達する筆記試験をこなし、どうにかこうにかお昼にありつく。
 手応えは悪くなかった。
 大部分は答えられた。だがこの会場に来る人は全て、受験資格を持つ美術好き達なのだ。そもそも知識が足りないようではお話にならないだろう。
 むしろ一次試験で問題なのは、午後の部、批評眼を問う問題だ。
 用意されたのは絵、陶芸品、彫刻等の美術品十六個。この中から良いと思うもの六個選び、批評文を書きなさい、という問題だ。
 並べられたのは有名なものではなく、最近作られた作品。ここで知識ではなく、良い美術品とはどういうものか、真の意味で美術を理解しているかを問うのだ。
 感性と分析力が試されている。
 まずはどの品を選ぶか。
 私の持論は、芸術を楽しむのに理屈は必要ないというものだ。
 つまりその持論に従えば、良い、と思ったものを素直に選べばよい。ぴぴっと来るもの。琴線に触れるもの。表現は様々だが、ようは直感だ。
 そして理屈はその後、どうして自分がこの作品を気に入ったかは、気に入ったあとで分析してみる。逆はダメだ。いちいち理屈をひねくり回さないと評価出来ない作品なんて、まさに二流だ。
 良い作品は、まず人を魅了する。そしてその魅力を分析したとき、やっと理論的にその魅力が説明出来る。まるで種明かしをするように。そういうものなのだ。
 その持論の下、私は自信を持って午後の部を終えた。
 美術好きと言うことでは、人後に落ちない自信はある。今回の合格者は二百人。その中に入れないはずがない。そう思っていた。
 宿に戻ったときには、全身に心地よい疲労が残っていた。




 自信があるものほど試験に良く落ちる。そう言う話がある。
 自信を持っているものこそ自分の間違いに気付きにくいから、だそうだ。
 しかしだ。
 そもそも絶対に落ちる成績の人は元から自信がないだろうし。
 絶対に受かる成績の人は、当然自信があるだろう。
 だいたい常識的に考えて、自信はある方が良いに決まっている。
 そしてあの一次試験に関して言えば、私は絶対と言って良いほどの自信を持っていた。 
 だからこそ、その言葉を聞いたときはすごくショックだった。
「残念ながら、不合格通知だった」
 ゴードンさんは、慰めるように声でそう言った。
「気にすることはない。一次試験はなかなかの難関だ。我が館でも受かったのは五人中たったの一人だった。なに、君ほどの実力なら来年も喜んで推薦させて頂こう」
 だがそんな慰めが耳を素通りするほど、私は動転していた。まるで言葉で殴られたよう。座っているはずなのに、地面がぐらぐら揺れていた。
 悔しい。残念。悲しい。そんな気持ちがごちゃ混ぜになって胸に溢れる。
 だがそれ以上にあったのは、申し訳ないという気持ちだった。
 二次どころか、一次試験で、不合格? 
 こんな事ではロキさんとエイミーさんに合わせる顔がなかった。
 だがその事を考える暇もなく、私には一つの決断が迫られてしまった。
「ところでだ、リザ君。君の『明日に咲く花』という絵だが、ぜひとも我が館に買い取らせてくれないかね? あれは実に良い絵だった」
 ゴードンさんの突然の申し出に、私は少し困った。どうせ落ちたなら、あの絵をせめてエイミーさんにプレゼントしたかったのだが。
「もちろん、それなりの代価は払わせてもらおう」
 テーブルに置かれた小切手は、私の絵にしては上々の値だった。どうしよう。
 エイミーさんは確かに褒めてくれた。だがあの絵をもらって本当に嬉しいだろうか? あるいは絵なんかより、このお金を使って、ロキさんとエイミーさんに普通にお礼をした方が良いのか。絵を評価するのと欲しいというのは別物。少なくともこのゴードンさんは、私の絵を欲しいと言ってくれてるのだ。 
 それに、私はこのシュバルツ美術館の推薦枠を一つ潰している。そのお詫びとして、絵の一枚ぐらい売った方が良いのではないのか。
 様々な考えが、私の中に浮かんだ。その考えがごちゃごちゃ絡み合い、どんどんほどけなくなっていく。まるで毛玉のようだ。
 不合格のショックを受けたばかりの私には、難しすぎる問題だった。
「さあ、どうぞ」
 混乱する私に、押しつけられる小切手。結局、私が美術館を出るとき持っていたのは、絵ではなく一枚の小切手だった。
 私はいつの間にか押し切られていた。
「ああ……困りました」
 帰り道は底無し沼を歩いている気分だった。
 二人になんと言えばいいのか。あれほど大騒ぎをして迷惑をかけたのに……。
 一次試験で落ちた。結局は絵が評価される二次試験には行けなかったなんてとても言えない。
 しかも、あの私があの絵を描くために、ロキさんは私を泊めて、そのせいで二人は喧嘩までしたのだ。
 あの後二人はまた、仲良くはなっていた。だが私は二人に、治しようもないしこりを残してしまったのではないだろうか。
 いつか何かがあったとき、エイミーさんはふと思い出すであろう。ロキさんにも過ちがあったということを。彼を疑うきっかけになるだろう。
 よく考えれば、この間のあの絵。あの金髪の少女の絵を見つけてしまったのも、私だった。
 あれを知ったせいで、エイミーさんはどれほど胸を痛めただろう。知らなければ良かった真実。知ったってどうしようもない真実。自分の恋人が、まだ昔の恋人に執着しているということ。
 その恋敵が普通の女の子だったら、ロキさんを糾弾することも出来ただろう。だが相手はもう亡き人なのだ。あのエイミーさんだって、じっと耐えるしか道はない。それだったらきっと、知らなかった方がましだった。
 彼の絵が見たかった。彼の絵に興味があった。そんなことが言い訳になるだろうか。
 彼は最初から隠していたじゃないか、あの絵を。
 それをこっそり覗き見ようなんて。
 なんて悪趣味。
 なんて恥知らず。
 これからの私は、絵が好きなんです、などと無邪気に言えるだろうか。その絵好きのせいで、傷つけられた人が一人はいるというのに。
 どんな絵も人々に見られなくては不幸です、だから私が見てあげます。
 良くもまあ、傲慢に言ったものだ。
 私に見られたとき、あの絵はどう思っただろうか。
 きっと嘆いたに違いない。
 そうだ。こんな私にバベル美術員になる資格はなかったのだろう。
 だから私は不合格で。
 私の絵は燃える運命にあったのだろう。
 あれは神様からの、啓示だったのかもしれない。お前に美術員になってはならないという。
 思わず深い溜息が漏れた。胸の中の濁りを、口から掃き出しているようだった。だがどんなにはき出しても、心臓の泥は出て行かない。
 足も重かった。
 大理石で出来た足を、無理に動かしているようだった。
「私ってば、本当に何やってるんだろう」
 二人に迷惑をかけて、喧嘩させて、傷つけて。
 あげくの果てに、不合格。何の甲斐もなくなく、不合格。
 そう思うと、気分はどこまでも沈んだ。
 空は晴れ、元気な子供達が広場を遊び回っている。
 だが空を眺めると、太陽には厚い雲がかかり始めていた。
 もしかしたら、一雨来るかもしれない。随分と久しぶりの雨だ。ベンチ側の花たちは、長く続いた晴天のせいで萎れかけている。空を仰ぐ彼らが、雨を呼んでいるようだった。
 


 一雨来た。
 最初は私の頬をしめらせる程度だったそれは、すぐにザアザア降りになった。子供達はいつの間にかいなくなっている。ぽつりぽつりと来た頃には、帰り始めていたのだろう。
 だが私は雨に濡れていた。
 雨が来ると思っていたくせに、広場のベンチに座り続けていたのだ。無気力に、ぼうっと空を見上げて。枯れかけた花のように雨が降り始めるのを待っていた。
 いよいよ雨は本降りだった。私は下着まで濡れてしまっていた。ぺとぺとして気持ち悪い。
 雨宿りもせず、私は何をしているのだろう。雨に打たれて、罪滅ぼしのつもりだろうか。そんなことで、私の汚れが流れ落ちるとでも思ったのだろうか。馬鹿らしい。
 今からでも遅くない、このままでは風邪を引いてしまう。私は雨宿りを出来る場所を探した。幸い一カ所、広場の中央に大きく枝を広げる樹があった。あそこなら雨宿りが出来るだろう。
 すでに濡れてしまっている私は、小走りで木の下に入った。
 バッグから取り出したハンカチで、水を吸って重くなった髪を拭く。髪が肌にまとわりつき、鬱陶しかった。まったく、すぐ宿に向かっていればこんな無様なことをしなくてすんだのに。つまらないことをした。
 空を見上げると、どこまでも暗い雲が続いている。これでは当分止みそうもない。
 どうしよう。
 そう思っていると、広場の向こうから一組の男女が走ってきた。男性の方はひょろりとしていて、どこか背の高い木を思わせる。女の人の方は小柄で、男性に上着を借りているのか、ぶかぶかの青い上着を頭から羽織って雨よけにしていた。
 その二人を見て、私は固まった。
「嘘……ですよね……」
 それは、今の私が最も会いたくない、最愛の恩人達。
 ロキさんとエイミーさんだった。
 見つけないで、という私の卑屈な願いも虚しく、彼らは真っ直ぐ私の宿る木へやってくる。
 エイミーさんの方が先に、木の下へとたどり着いた。先客である私を上着の間からちらりと伺い、驚いたようだった。
「素敵な偶然。こんな事なら、たまには雨も良い物ね」
「エイミーさん……」
 相も変わらずの、斜に構えた笑顔。見ていて胸がチクリとする。
「それにしても、珍しいこともあったものね」
 彼女はそう言いながら、被っていた上着をぱんぱんとはたいてロキさんに差し出した。ロキさんはそれを受け取って、羽織りなおす。
「私、傘を差したことがないのよね。私が出かけるときは必ず晴れるから」
「エイミー、その自信の根拠は」
「私はそういう豪運の下に生まれているはずなの。見上げれば空は晴れ、カードを引けばジョーカーを、賭け事すれば必勝不敗、石を投げれば必ずロキに当たるのよ」
「……最後のそれは幸運なのか」
「幸運よ。私の趣味はあなたを困らせることだもの」 
 エイミーさんは相変わらずだった。あの少女の絵など無かったことかのように、ロキさんと自然に接していた。
 そうほんの少し安堵したとき、一番恐れていた質問が私に手渡された。
「さてところで、リザさん」
「もう、シュバルツ美術館に行って結果は聞いてきたのかしら?」
 二人はそう聞きつつも、確信に満ちた瞳で私を見ていた。まるで私の口からは吉報以外もたらされるはずがないというように。
 不合格とは、言いにくい空気だった。
 こころなしか声が出にくく、まるで喉に石が詰まったようだった。
 だが言わなくてはならない。
 私は歯切れ悪く、つぶやくように話し始めた。
「あの……シュバルツ美術館には行って……それでゴードンさんに結果を聞きました……それで」
 そこまで言ったところで、いきなり二人は私の両手を取った。そして次に続いたのは、
「「合格おめでとう!」」
 私がかけてもらう資格のない言葉。あり得ないはずの、声を揃えての賛辞だった。
「へ……え……」
 どうして。
 どうしてそんなこと言うんですか。
「さすが私の見込んだリザさんだわ」 
「もう、調子が良いなエイミーは。まあ、確かに心配はしてなかったけどね」
 次々と紡がれる、残酷な言葉達。
 目の前の二人の反応が全然理解出来なかった。まるで私が受かったかのように、まるで私が受かっていて当然というように。二人は次々と私を褒めたたえる。
「明日は二次試験かあ」
「ぜひ見に行かせてもらうわ。リザさんは完成した絵を私にも見せずさっさと持って行ってしまったものね。私に見せたくなかったのかしら?」
「あのときは一刻も時間が惜しかったからね。で、そのあとは試験本部の方に置きっぱなしか」
「ま、ある意味、今日あの絵を見れないことは幸せだけどね」
 その会話を聞いて、気付いた。
 そう。
 私は結果を聞いた帰り道だというのに、あの絵『明日に咲く花』を持っていなかったのだ。
 一次不合格になれば当然絵は返却される。だから絵を持っていない私を見て、二人は合格を半ば確信していたのだろう。
 しかしその絵は今、小切手に変わって私のポケットに入っているのだ。
 失敗した。
 どうして私は、これほど間が悪いのだろう。
 さっき売っていなければ。いや、せめてあのとき、エイミーさんに完成した絵を見せていないと思い出してさえいれば。こんな不運は起こりえなかったのに。
 そうすれば断れたのに。見せたい人がいるから、少し待ってくれと言えたのに。
 どうしてそんな大切なことに、気付かなかったんだろう。
 私は本当に救いようがない。最低だ。
「あの、あの……」
「明日のデートコースは、バベルの二次試験なんだ。二次試験は作品展覧会と合格発表をかねたセレモニー。なかなか見物だよ」
「そ、表彰会チケットは毎年プラチナものなのよ。コネをつかってやっと二枚手に入れたんだから。こうなったら最後まできっちり合格して、ぜひとも私たちのデートに花を添えなさいね」
 エイミーさんはそう無邪気に言って、私の胸をポンと叩いた。二次試験の展覧会を明日に控えて不安で一杯のはずだった私を、励まそうとしているのだろう。もう私には、そんなことする必要もないのに。
「いえ……それが無理なんです」
「無理じゃないわ。あの絵は私を惚れさせた絵だもの」
「普段は辛口のエイミーがこう言ってるんだ、大丈夫だよ」
 私の絵をあれほど評価してくれたエイミーさん。優しく言い添えてくれるロキさん。二人は私が受かると信じ切っている。
 言えない。とても言えない。
 私はもう、落ちているなんて。
 この空気の中どうやって言い出せば良いのだ。
 いたたまれない。 
 私は突然、二人の前から逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。このまま宿に逃げ帰って、一番早い船に乗ってこの島から逃げ出すのだ。
 二度とこんな悪夢に満ちた島に足を向けることもなく、二人にも二度と会わない。
 その想像はあまりにも魅力的で、そして破滅的な現実逃避だった。
 この大切な、半ば愛情すら抱いてしまった恩人達に、何のお詫びもなく逃げ出すなど、出来ようはずもなかった。
 本当のことを、言わなければならない。
 だがそのタイミングがつかめない。急流を歩いてわたる者が、一度足が川底から離れれば最後、二度とは足がつかず流され続ける。私の状況はまるでそんな感じだった。
 しかも今日はとことんと運が悪い日らしい。
 幸運の女神のように、悪運にも女神がいたとしたら、私を抱きしめていたことだろう。エイミーさんがこう言ったのだ、
「それにしても、リザさん、びしょ濡れね。明日は大事な日だって言うのに、風邪を引いたらどうするつもりなの。ロキ、流石のあなたもタオルとか持ってないわよね?」
 彼女はそう言って自分の鞄を探り始めた。実用的な、失礼ながら布袋と言っても差し支えのない、エイミーさんらしい鞄だ。しかし、彼女がそこから取り出したのは、私をさらに追いつめるものであった。
「あら、そう言えば、私こんな物も持ってたわね」
「そう言えば、昔エイミーにあげたやつだね」
「私は傘をささない主義だから忘れてたわ」
 それは小さな折りたたみ傘。女物らしく、持ち手の装飾も凝り、薄水色に白い模様が入っている。エイミーさんの持ち物らしからず、実用性より見栄え重視のようだ。たぶんロキさんがプレゼントした物だからだろう。
 そして見栄えの重視のその傘は、見るからに三人で入るには小さすぎた。
 私が口を開く前に、エイミーさんは私の胸に傘を押しつけていた。
「これで早く宿に帰りなさい」
 彼女はそれが当然のように言った。何の気負いもなく、まるで親切しているという自覚がないように。彼女はそういうことが出来る人なのだ。
 その事が私の心を強く突き刺した。
「だ、駄目ですよっ、そんなの。エイミーさんの傘ですっ。お二人で先帰ってください。私はもう少しこうしています」
「その濡れた服でかい? 風邪を引いちゃうよ」
「いいのよ。素直に受け取りなさい。明日に試験を控えたあなたに風邪を引かせるなんて片手落ちを、この私にさせないで欲しいもの」
 エイミーさんのいつも通りひねくれた口調は、その実とても温かかった。
 まただった。
 私はここまで来ても、また二人に迷惑をかけようとしていた。このどこまでもお人好しの二人に。
 駄目だ、そんなことでは。
「お願いします。これ以上お二人に迷惑をかけるわけには」
「良いんだよこれぐらい」
「ロキの言う通り。いままでの多大な迷惑に比べたら、こんなのお菓子のおまけ程度の迷惑よ」
「べ、別にそういう意味じゃないって。それに今までのだって迷惑なんて思ってないし、むしろ楽しかったよ」
「つまり宿代分はじっくりしっとり楽しませてもらったから気にするなと。そういうことかしら、ロキ?」
「違うよっ、いや、そうだけどさ。変なニュアンスはつけないで」
「あら、そうかしら。どうせずいぶんとお楽みだったんでしょう、あ、な、た」
 ちく、ちく、ちく。
「エイミー。その呪い殺し系怪談に出てくる、嫉妬した本妻の流し目はやめて。君がやると本当に怖い」
 わざと冗談めかして話す二人。私の悲壮な声はかえって、二人に気を遣わせてしまったらしい。本当に駄目な私。
 私が頑として折れようとしないのを見て、エイミーさんは少し困ったような顔で思案した。けれど、すぐに何か思いついたのか、
「もう、しょうがないわね。少し言い方を変えようかしら」
 少し怖い笑みになった。まるでネズミをいたぶる猫が浮かべていそうな笑み。そして彼女は、ロキさんに腕を絡めてこう言ったのだ。
「リザさん。これ以上私と彼との時間を邪魔しないでくれないかしら」
「え……」
「別に、あんたのために傘を貸すわけじゃないんだから。私は彼といたいの。あんたなんか、さっさと逃げ帰って、暖かい服に着替えて、ゆっくり休んじゃえば良いんだわ」
 エイミーさんは憎々しいげな表情のまま、ロキさんの肩に頭をのせた。
 呆れるほどの名演技だった。
 まるで本心から私のことが邪魔なんじゃないか、そう思うほど真に迫った動作だった。エイミーさん、実はとんでもない女優だ。
 ……いや、本当に演技なんだろうか。
 ……あるいは今までの優しさこそが演技なんではないのか。
 ……ロキさんに気を遣って、しぶしぶ私に親切を?
 そんなはずはないのだ。エイミーさんは心から私に親切をしてくれている。そんな分かり切ったこと。
 だが私の弱りきった心には、そんな分かりきった事すらあやふやになってくる。
 続いて、くくく、と笑いを漏らしたロキさんが、エイミーさんに調子をあわせた。エイミーさんの腰に腕を回し、抱きすくめる。
「ごめんねエイミー、君にそんな寂しい思いをさせていたなんて。ああ、きみを滅茶苦茶にしたい、人目のないところに君をさらって」
「ロキ……お願い……」
 エイミーさんは力が抜けたように、くたりと体を預ける。その様子を見て、この二人、本当に恋人なんだなあと実感する。恋人恋人と言いつつ、二人がこれほど近づいているのは初めて見た。二人の顔は、今にもキスしそうな距離……。
 と思った途端、突然私の心臓が暴れ出した。
 破裂するように、拍動し始める。
 なんで? なんで急に。
 心臓にバラの蔓で締め付けるような痛みが走った。
 その傷みに逆らって心臓は暴れ続ける。
 我慢出来なかった。
 私の理性に反し、本能は緊急に逃げ出すことを欲していた。
 そして逃げ出すだけならば、とても簡単なことだったのだ。
「わ、分かりましたよ。もう。お二人とも、そんな仲が良いところ見せつけないでください。妬いちゃうじゃないですか」
 私はやれやれといった感じの作り笑いを浮かべ、傘を広げた。
「じゃあ、またご迷惑おかけしますね」
「気にしなくて良いわよ」
「そうそう」
 二人は、どこかほっとした顔で、私を見ていた。
「どうぞ、お二人でごゆっくり」
「言うわね、あなたも……じゃあ、遠慮なくしましょうか、ロキ」
「おいおい」
 エイミーさんのニンマリとした笑顔を見て、私は慌てて身を翻した。気付けば駆け出しそうな足を押さえつけ、ゆっくりと歩く。
 少なくとも、二人が見てる前では走るわけにはいかない。
 そして角を曲がったところで、私は走り出した。
「あああああああっっっっ」
 やっちゃった。やっちゃった。
 この期に及んで、また親切を受けてしまった。あの二人は、いつまで雨宿りを続けるのだろう。
 私のせいで。
 本当のことを言わなかった、卑怯な私のせいで。
「どうしよう、どうしよう、どうしようっ」
 私はまた、なんて取り返しのつかないことを。
 もはや傘なんて役に立っていない。顔にびしゃびしゃと雨が当たる。
 私は追い立てられるように、水たまりを走り抜けた。
 顔を生暖かい物がぬるりと流れる感触があった。
 涙じゃない。涙は先ほどからあふれていたが、雨に混じって何もかも分からなくなっていた。
 手で拭ってみると、べったりと血が付き、手が真っ赤になった。
 鼻血がひどく出ていた。




 宿に帰っても、鼻血は一晩中泊まらなかった。
 腹痛が止まらず、ベットとトイレを往復しているうちに夜が明けた。
 明け方、やっとついた眠りの中で見た夢は、生涯最悪だった。
 夢の中の私は、私はエイミーさんに嘘つきと罵られ、ロキさんに冷たい目で見られていた。まるで手で触れるような、現実味のある悪夢だった。
 時計を見ると、お昼を過ぎていた。ぐっしょりとかいた汗を、ノロノロとふきとり。服を着替える。
 二次試験は、もう始まっている。九時から始まって午前が一次を突破した人たちの作品展示会。午後はバベル大美術館の二十人のフロアマスター(各階の美術員の最高責任者)が表彰台に現れ、今年度の合格者四十名に表彰をするはずだ。
 今頃ロキさん達は会場だろうか。あるはずのない私の作品を探しているのだろうか。そう思うと胸がひどくいたんだ。何も食べてない胃が、ムカムカした。
 私は最低だ。卑怯者だ。
 なぜ昨日あのとき、本当のことを言わなかったのか。言おうと思えば言えたはずだ。黒い後悔が、津波のように押し寄せてきた。
「謝ろう……謝ろう」
 私は自分に向かってそう言った。
 昨日のことも、何もかも、もう謝るしかない。今から表彰式の会場に行って、二人に謝ろう。
 そう決意をすると、少しだけお腹の痛みが取れた。
 そうと決まれば、ぐずぐずとはしていられない。私は手早く荷物を揃え、小走りで会場に向かった。
 場所はバベル大美術館の側の、ボッティチェリ大ホール。バベルの塔はすぐ分かるので迷うことはない。私はしばらくの後、そのホールの前にたどり着いていた。
 入り口に、バベル入館試験・二次展覧会会場という看板が掛かっている。場所はあっている。だが問題は入場券だった。二人が昨日プラチナチケットと言っていた通り、そもそも券が売っていない。
 中に入れない以上、もはや待つしかない。二人が出てくるのを何時間でも待ってやるという気概で、私は入り口のベンチに腰を下ろした。
 出てきたら、即座に謝ろう。長引けば長引くほど、事態は悪化するはずだ。そんなことをつらつらと考えたところで、私はふと気付いた。
「私……全館フリーパスって持ってなかったっけ?」
 美術館巡りどころではなかったので完全に失念していたが、ロゼ・シャンシェルジュの優勝商品に含まれていたはずだ。鞄をひっくり返して調べると、青いチケットが見つかった。
「これで、入れるかな?」
 これはあくまで、美術館用。果たして二次試験表彰会に入れるかは微妙だが、試してみる価値はある。私は大ホールへの入り口に向かい、そこに立っていた係員の方にチケットを見せた。
「この券での入場は、可能ですか?」
「このチケットですか……少々お待ちください」
 その男の人は少し困ったような顔をして、会場の中に入っていった。たぶん責任者の人に聞きに行ったのだろう。
 待っている間に、会場の声が聞こえてきた。どうやら中では表彰式が始まっているらしい。四十位以内に入った合格者、その推薦美術館、作品が発表されている。
 その最後の発表が、私に耳に入った。
『第四十位、ライアン・ベンチューリさん。推薦、シュバルツ現代美術館』
 その言葉を聞き、私は少し安堵した。シュバルツ美術館とはつまりゴードンさんの、私の推薦文を付けた美術館だ。私が一つ推薦枠を潰してしまったが、結果的に合格者が出たのなら良かっただろう。
 だが次に言葉を聞いた瞬間、そんな気持ちは軽く吹っ飛んだ。
『出展作品――『明日に咲く花』』
 頭が、真っ白になった。
 気付くと私は、ドアを突き飛ばして広い会場に飛び込んでいた。
 客席に集う人々に、二十人のフロアーマスターが並ぶ舞台。
 その一角。
 数十枚ある絵の一番左下。
 間違いなく私の、枯れ花束の絵だった。
 どうして。
 どうしてあの絵が、あそこに。
 私はここにいるのに。
 どうして私以外の人が、あの絵の名前で。
「どうしてっ、どうしてよっ! あれは、あれは私の絵で!」
 半ば泣きながら騒ぐ私に、警備員達が駆け寄ってきた。先ほどの係員も近づいてきて、声高に何か言っている。知るもんか。
 舞台に向かって走ろうとした私を、何本もの太い腕が押さえつけてきた。
「離してくださいっ。あれは私の絵なんですっ」
 叫ぶ私に耳も貸さず、屈強な男達は私を床に押しつける。回りのお客さん達が遠巻きに引いていく。そんな中、私は一人だけ見知った顔を見つけていた。
 ゴードンさんだった。
 助かった。彼なら知っている。彼ならこの状況を救って、間違いを正してくれるはずだ。私はすがりつくように、ゴードンさんに言った。
「ゴードンさんっ、助けてくださいっ。言ってくださいっ、あの絵は私の絵だって」
 警備員達の目が、ゴードンさんの方を向く。何かを問うかのように。だが、ゴードンさんが口にしたのは予想もしなかった言葉だった。
「やめてください。根も葉もない言いがかりだ。警備員の方々、早くその娘を追い出してください。ただの妄言とはいえ、そんなことを大声で言われてはうちの美術館の名に傷が付く」
 今までの紳士的な態度がまるで嘘のような、冷酷な目。私は全てを理解した。
「あなたが……仕組んだんですね」
 ゴードンさんは返事をしない、こちらを見ようともしない。
「替え玉受験。バベル美術員を出して、自分の美術館を有利に取りはからうために……許せない」
 許せない。
 許せないっ。
 私は警備員達に引きずられながら叫んだ。 
「あなたはそれでも、美術館長ですかっ。酷すぎますっ。恥を知りなさいっ。覚えておいてくださいっ。自分の欲望のために美術品を貶めるなら、あなたが美術を愛しても、美術は決してあなたを愛しませんっ」
 そう言った瞬間、ゴードンさんの顔が歪んだ。私の言葉が、痛いところをついたのかもしれない。憎悪に満ちた、炎のような怒りの表情。私は負けないようにお腹に力を入れて見返してやった。だがそれも一瞬。私は無理矢理会場から追い出されそうになっていた。
 だがそのとき、
「よくぞ言ってやったわ、リザさん」
 凛とした声が聞こえた。夏の風鈴のように涼やかな声の主。
 紛う事なき、エイミーさんだった。
「警備員の方々、手を離しなさい。彼女の分のチケットはここにあるわ」
 いつも通りの彼女。黒縁眼鏡に、三つ編みに、白の上着に、猫背に、美しい口元に小気味よい笑み。
 彼女は、ぴらりと気前よく未使用のチケットを取り出した。警備員さん達は困ったように顔を見合わせたが、おずおずと手を離した。
 地面を転がっていた私に、彼女は優しく手をさしのべてくれた。思わず握ったその手は、とても柔らかかった。
「ロキが来られなくなったの。彼ってば、大切な流路確認が入ったとか言って、私とのデートをすっぽかしたのよ。なんでもとんでもない品を盗んだ泥棒が捕まったとか言って。ま、その分のチケットは役に立ったようだけどね」
 彼女は残念そうな口ぶりとは裏腹に、実は上機嫌のようだった。幸運の女神も裸足で逃げ出す、お日様のような笑顔だ。
 だが今の私には、見とれている余裕はない。
「エイミーさん、ありがとうございます。……いつもいつも助けられてばっかりで。でも私のあの絵……エイミーさんはわかりますよねっ、私の絵なんですっ、どうしましょう。このままだと」
 別の人が、私の絵を使って合格してしまう。そんなのはいやだ。それに絶対に許せない。
 私の絵を、バベル美術員になるための道具として使うなんて。
 それは絵に対する愚弄だ。
 そんなことに使われる絵は、あんまりにも可哀想すぎる。
「そうね、止めないと。任せときなさい。あなたのあの言葉、美術を愛しても、美術には決して愛されない、ね。すごく重い言葉だったわ。そう、あなたの言うとおり。私たちは常に、美術を愛するだけじゃなくて、美術にも愛されるように誇りを持たなくてはね。本当によく言ったわ。辛かったわね」
 エイミーさんはそう言って優しく私を抱いてくれた。エイミーさんのしっとりとした肌に顔を埋め、私は涙の伝った頬をすりつけた。エイミーさんからは、甘酸っぱい匂いがした。
「だから手伝ってあげるわ。こんなにも苦しんで、そしてこれほどに絵を愛してくれたあなたなら、絶対に良いフロアマスターになって、この島を良くしてくれるもの」
 彼女はそう言って、私の手を取りずんずんと歩き出した。その歩みは迷い無く、舞台を目指している。
「ど、どうするつもりですか?」
「大丈夫、大丈夫。機械仕掛けの女神様に任せておきなさい。切り札が届くまで、私が時間を稼ぐわ」
 舞台の上では、まさに表彰が行われようとしていた。三十九人目の合格者が舞台に上り、合格証を受け取り終わっている。次に呼び出されるのは四十人目、最後の合格者で、私の絵を替え玉に使った人だ。
 その名前が呼ばれる直前、私の手を離したエイミーさんが、舞台に上った。想定外の乱入に、会場中の観客達も、舞台上の二十人のフロアマスター達も、驚いて目を奪われる。
 だが彼女は全員の視線を集めながら、全く臆する様子を見せなかった。
 逆に彼らの視線を当然のように受け、華麗に一礼して見せた。
 熟練の役者だって、これほどの舞台度胸はないだろう。
「会場にお越しの皆様、そして受験者の皆様、ようこそいらっしゃいました。おかげさまで、本年度もバベル大美術館と、このパトリエ諸島は実り豊かなこの日を迎えることが出来ました。フロアマスター共々、改めて礼をさせて頂きます」
 その朗々とした話しぶりに、会場が飲まれた。
司会者もフロアマスター達も絶句したまま、聞き入っている。良く通る声で客席に語りかける様子は、まるで劇の見せ場でスポットライトを浴びる主演女優のようだ。
「今年度の合格者達も、例年に負けず劣らずの実力者揃い。どの出展も実に素晴らしい作品達でした。これほどの受験者達に恵まれたのも、ひとえに皆様が美術を愛し、この島を愛してくれたからでありましょう」
「さて、その作品達の中でも今年度、頭一つ出て目を引いた絵がございます。そう、この『明日に咲く花』と題された一枚です」
 そう言ってエイミーさんは、私の絵を指し示した。
「枯れた花束という題材を選びながら、それに相反する生命力、力強さを描いてみせる感性」
「悠然と浮かび上がる光と影。レンブラントを思わせる、巧みな技」
「私はこの絵を一度、未完成の時点で拝見しましたが、正直これほどのものになるとは予想も付きませんでした。たった三週間で描かれた絵とは思えません。まさに賞賛に足る一枚です」
 会場からパラパラと拍手が湧いた。どうやら彼女のスピーチをプログラムの一環だと思ったらしい。無理もない。こうも見事に語られては。
 会場の拍手が止むのを待って、彼女は続けた。
「ですが、皆様お気づきでしょうか」
「本日出展された展示品は、実は百九十九しかないことに」
「残念ながら、本日一人だけ棄権をなされた、いえ、棄権を余儀なくされた方がいらっしゃるのです」
 本当だろうか。もし本当だとすれば可哀想な人もいるものだ。
 だが、その一人が最初から受けないでくれていたら、私が合格していたかもしれないのに、と栓のないことを考えてしまう自分が、また少し嫌になる。だが、次の瞬間、
「その受験者の名は、リザ・ボナパルトさんです」 
 ……え?
 耳を疑った。
 エイミーさんは、いったい何を言っているのだろうか。
 はったりにしても、あまりに無理がある。いったいそんな嘘をついて、どうやって盗作を止めるつもりなんだろうか。
 そう思ったところで、聞き覚えのあるヤジが飛んだ。
「貴様、突然現れて何を言うかっ、いったい何様のつもりだっ」
 ゴードンさんだった。どうやら雲行きがあやしいことに気付いて、邪魔しようとしているらしい。その声につられて会場がざわつき始める。舞台の下にも警備員達がやってくる。どうやら場合によっては、引きずりおろす算段らしい。
 壇上に座っていたフロアーマスターの一人が立ち上がった。いかにも重鎮といった様子の白髪のおじいさんは、少し困ったような笑みを浮かべている。
「あー、実に見事なスピーチです。ぜひこのままお聞きしたいところなのですが、その前にぜひあなたのお名前を」
「あら、随分な言い草ね。この私に向かって」
 エイミーさんは、地のしゃべり方に戻ってニヤリと笑いを浮かべた。見る人をゾクリとさせるような、年齢離れした妖艶な笑み。
「この私の顔に気付かないなんて、あなた達それでも芸術家、フロアマスターなのかしら……反省しなさい」
 彼女がそう言った途端、彼女の黒縁眼鏡が宙を舞った。トレードマークの三つ編みも、白い上着も。彼女が空に脱ぎ捨てたものだった。
 そう。それはまさに手品のよう。
 上着がふわりと舞い落ち、その上に黒の三つ編みのカツラが落ちたとき、舞台の上に立っていたのはエイミーさんではなく、天使を思わせる金髪の少女だった。
 桜色の上品なワンピースに身を包んだ少女は、隠していた長い金髪を整えるために、ふわりと身を翻している。その華麗な立ち居振る舞いは、まるで湖の上を舞う、白鳥のよう。
 ぶかぶかの白い上着に隠されていたその四肢は、すらりと伸びている。ノースリーブから覗く二の腕の白さなどは、思わず目を見張らんばかり。
 彼女の右手が目のあたりを撫でる。するとそこから現れたのは、海のように蒼い瞳。まるで最高級のサファイヤのように澄みきっている。
 そして粗野な眼鏡によってごまかされていた鼻。その鼻梁が描くのは、高く、完璧な曲線だ。
 そしてそれらの構成要素が、まさに極まれりといったほど絶妙の采配で置かれ、端正な顔立ちを作り上げている。
 その非の打ち所のない容姿は、まさに芸術の至高。一度見たならば脳裏に焼き付いて離れず、芸術家だったら万金を積んでもモデルになってくれと土下座をするだろう。
 間違いない。ロキさんの絵に描かれていた、あの夢のように美しい少女。まさにその人だった
 その金髪の美少女を見て、会場中の観客達は色めき立った。
「大館長……」「……大館長っ」「オペレット館長だ……」「バベル大美術館館長!」「ヴィジェ・ルブランの再来っ」

「エイミン・オペレット館長っ!」

 その歓声に答えるように彼女は、にぃっ、と笑う。
「ただいま、島中の皆さん。そして、お久しぶりね、お歴々。観ることが職業の美術員が私を見違えるなんて……あとの言い訳が楽しみだわ」 
 相も変わらずの、斜に構えた態度。
 この一ヶ月間で見慣れた、エイミーさん流の不敵で素敵な笑み。
 間違いない、あの人はエイミーさんなのだ。
 ということは……どういうことなのだ?
 ……館長?
 ……エイミン・オペレット館長?
 ……エイミーさんが?
 ……バベル大美術館の、大館長。
 ……フロアマスターを統べる、大館長。
 ……あの、エイミーさんが?
「えええええぇぇぇぇぇっっっ!?」
 会場は歓声で沸き立ち、二十人のフロアマスター達はみな一様に頭を抱えていた。どうやらついて行けないのは、この場で私だけのようだった。一方通行の人混みに、一人ぼうっと突っ立っている気分。いや客席でもゴードンさんだけは顔面蒼白で腰を抜かしているようだったが……あ、失神した。
 まあ、彼はともかく、観客達はエイミーさんの突然の登場に、喜んでいるようだった。
「ど、どういうことですかっ?」
 その情けない声の疑問には、フロアマスターの一人が答えることになった。どっと噴き出てきたのであろう汗を、ハンカチで拭いながら彼は言う。
「オペレット大館長。まさかあなたが、パトリエに帰っていらっしゃったとは」
「あら、帰ってきて欲しくなかった?」
 いきなりこれだ。
「いえ、まさかっ」
 可哀想に冷や汗が垂れてる。拭いてあげたいぐらいだ。
「いつ頃お戻りになられたのですか?」
「三週間ほど前に。この三週間ほどは、楽しませてもらったわ。さしずめローマの休日ってところかしら。シャガール広場で、彼と一緒に食べたアイスクリームは、どんな高級なアイスよりも美味だった」
 エイミーさんの夢見るような独白に、フロアマスターの人達がまた頭抱えた。まるで子供のいたずらを見つけた母親のように、いや、これでは喩えにならないようだ。
「で、では館長殿は、バベルにも帰らず、その変装に身をやつしたまま、三週間も島で遊び呆けていたと」
「遊び呆けていたなんてもんじゃないわ、もうあれね、堕落三昧で脳が溶けるかと思ったわ」
 エイミーさん、そんなこと誇らしげに……。
 ということはよく不定期に家を空けていたロキさんも、もしかしたらあれは仕事ではなくおデートだったということだろうか。
 そう言えば妙に身なりに気を遣ってたような気も。いや、それはともかく。
「じゃ、じゃあ、死んだっていうロキさんの元恋人は?」
「ああ、あれは嘘、全部嘘。私はちょっと顔を知られているから。遊び歩くときはエイミーさんになることにしてるの。だからあの絵は私の肖像画で、彼は、今も昔も私に首ったけ。騙して悪かったわ。でも、すごく驚いたでしょ?」
「ショック死しかけました……」
「あら残念。殺し損ねたわ」
 彼女は金髪を翻すと、華やかな笑顔で言ってのけた。
 彼女のあけすけな言葉に、会場が温かい笑いに包まれる。どうやらエイミーさんでバベル美術館館長の美少女は、島の人気者なのかもしれない。
 ああ、超鋭角フルスロットルの展開に頭がついていかない……。
 だが暖まった空気を引き締めるように、彼女は宣言した。
「さて、皆様。私、エイミンオペレットは、バベル大美術館館長の権限をもって、この『明日に咲く花』を描かれた、ライアン・ベンチューリ殿の合格に――」

「――異議を申し立てさせて頂きます」

 その危険な発言に、会場が水を打ったように静まりかえった。
 誰もが話せない、凪のような一瞬が訪れた。一瞬の静謐の後、ひそひそ声が溢れ始める。
 その声達を代表して、一人のフロアマスターが代表して問いかけた。
「オペレット館長。その発言は場合によって、重大な問題に発展する可能性がある」
「分かってるわ。この場に出てきた以上、私の言葉には公然性が出る。無責任なことは言えない。だから言わないわ、この『明日に咲く花』が本当はそこにいるリザ・ボナパルトさんの作品だなんて。証拠がないもの」
 そのストレートな言葉に、会場は再び静まりかえった。当然だろう、今エイミーさんは、栄えある合格者の作品に真っ向から斬りつけたのだ。
 どういうわけかエイミーさんはすごい人物のようだが、たとえその彼女でもそうそう許されることではないだろう。
 フロアマスター席の一人が、青い顔で問い返した。
「館長、ではこの絵の作者は――」
「野暮は言わないで、第六階のロビンソン教授。ここは晴れの舞台よ」
「ですが――」
「安心しなさい。私が八方丸く収めてあげるわ。簡単でしょう、あなたも私も皆様も、私の異議に納得してくれれば、全てはそれで解決だわ」
「……それはいったい?」
「私が異議。それは本日出展がなかった、二百人目の受験者、リザ・ボナパルト嬢の作品が、とても楽しみだということです」
 その言葉を再び聞き、私は思いあたった。
 つまりそれは、
「あなたは本当は合格していたのよ、リザさん。実は私と彼は、もう一昨日のうちに結果を知ってたの。私が調べてね」
 そうか。昨日何の疑いもなく二人が私に、いきなりおめでとうを言ったのは、そういうわけだったのか。そしてそれが本当だとするならば、
「私は……騙されたんですか」
「そう。あのゴードンとか言う館長は、自分の腹心の部下を合格させるためにあなたの絵が必要だったのよ。たぶん替え玉なんて言う弱みを握っておけば、そうやって合格したバベル美術員は好きに操れるって考えたんでしょうね」
 真実を知り、改めて怒りがこみ上げる。
 酷い。何て酷い嘘だ。
 その残酷な嘘のせいで、私は昨日どれほど苦しんだことか。罪悪感でお腹を痛ませベッドでうずくまった理由が、そんな嘘だったというのか。
 怒りを通り越して、むなしさすら感じてくる。もはやあきれるしかない。
 でもそれが今更分かったところで、どうすればいいのだ。
 一次試験が通っていたところで、私の作品が盗まれたことは変わらない。
 だがエイミーさんは、そんなことをまるで毛ほども気にかけない様子だ。舞台の上の絶世の美少女は、優雅に一礼すると、
「さてと、お歴々。そろそろお待ちかねの時間です」
「チケットを持たないナイトが、吉報を持ってやって参ります」
「不運な姫を救うために」
「明けない夜を照らすために」
「少女の不運に終止符を打つために」
 彼女はそう言って、客席の背後にある出入り口に向けて、その長い腕を伸ばした。
「早く来なさい、警備隊長――」
「――『第零階の』ロキウス・ミザリー」
「――二十一番目のフロアマスター」
「――私を待たせると、後が楽しいわよ、ロキ」
 すると彼女に応じるように、会場の扉が音を立てた。
 その音につられ、皆が振り返る。
 開け放たれた扉からは、うす暗い会場に光が差し込んでいた。それはどこか日の出を思わせる、ぬくもりのある光で。
 その光を背に、ロキさんが立っていた。




 ロキさんは、大急ぎで走ってきたのか肩で息をしていた。額には汗が浮き、髪が少し乱れている。
 だがその表情は、一点の曇りもなく晴れ渡っていた。
「間に合ったみたいだね」
 心配だったのであろうロキさんは、胸をなで下ろしたようだった。
「良かった。見つかったんだよ、リザさん。君にこれを届けに来た」
 そう嬉しそうに言って、片手に持った大きな鞄を見せた。あのタイプのケースは、キャンバスを持ち歩くためによく使われるものだ。
「なんですか……その鞄」
「なんだと思う?」
 手渡された鞄に、少し戸惑う。
 だが、その大きさを見た途端。妙な予感が私の背を走りぬけた。
 ずっと会えなかった愛しい人。その後ろ姿を遠目で見かけた。そんな瞬間に近い、快感じみた予感。
 大きすぎる期待と疑いで、指が震えた。掛け金を開けるのに、三度失敗する。そしてやっとの事で開けた鞄に入っていた物は、私を驚愕させるに十分なものであった。
「どうしてっ」
 私は息をのむ。驚きっぱなしの今日だったが、それは今までと比較にならないほどの驚きだった。
 夢のような出来事だった。
 そこにあったのは、この世にはもうないはずの絵。
 私の最高傑作、ロゼ・シャンシェルジュ最優秀作品だった。
「……ちょっとした幸運が重なったんだよ。世の中って言うのは奇妙な巡り合わせがあるみたいでね」
「実は君が泊まる予定だった『ホテル・ラバンアジル』の火事なんだけどね。実は火事が起きたとき、すでに君の絵はそこになかったらしいんだ」
「ど、どうしてですか」
「実は盗まれてた、そう言うことらしい」
「は、はいぃ?」
「おかげで君の荷物は火事の難を逃れていたんだ。で、その泥棒が昨日捕まってね、しかもその盗品改めをしていた警察官のうち二人が、これを見て騒ぎ出したらしいんだ。この絵は、あの子の絵に違いないってね」
 二人の警察官。
 そう言われて、心当たりがあった。
 きっとあの火事の現場にいた二人だ。
 あのとき、私が取り乱して食らいつこうとした、あの二人に違いなかった。
「二人は心配して一生懸命連絡してくれようとしたみたいでね。今日ギリギリになって僕に連絡が届いたんだ。君を迎えに来た男の人がいたってね」
「で、難を逃れて、君の絵は君の手元に帰ってきたわけ。普通最近の治安の悪さも、ときには考えものだね」
 彼はそう言い終えて、私の手を取った。
「さあ、行こう。エイミー……じゃなくて、エイミン館長も待ってる。足下に気をつけて」
 彼はそう言うと片手で『それ』を持ち、もう片手で私の手を握り、私をエスコートして壇上に上らせる。
 私は夢心地で、雲を踏むような足取りで階段を上った。
「ではこれにて、規定外審査をさせて頂きたいと思います」
 スピーカーからはエイミーさんの声が響いた。いつの間にか司会者からマイクを奪っている。
「エントリーナンバー二百番」
「リザ・ボナパルト殿。ロゼ・シャンシェルジュ最優秀作品賞受賞、バベル大美術館第零階フロアマスター、ロキウス・ミザリー推薦、同館長エイミン・オペレット推薦――」

「――作品名『母の肖像』」

 そして、幾多の不運を越え。
 焼け落ちたはずの母の絵が、舞台に掛けられた。
 私の最高傑作。
 藍色の月夜に歩く、美しい女の人の後ろ姿。
 ああ、この絵なら自信を持って言える。
 私は合格出来ると。
 最初の瞬間、この絵を見た者は誰もが既視感を覚え。
 そして次の瞬間、その女性の正体に気付くのだ。
 会場にさざ波が広がった。
「モナリザ……」「モナリザ……だと」「顔が見えていないのに……分かる」「これは……モナリザの後ろ姿だ」「どうして確信してしまうんだ……モナリザの後ろ姿だって……」「でも、間違いなくモナリザだ」
 そう。
 誰よりもモナリザを愛し、母を愛したこの私が、母のために描いた一枚『母の肖像』。そこにはあり得ないはずの、モナリザの後ろ姿が描かれているのだ。
 銀色の月が煌々と照らす、山道。
 その月に一人の女性が照らし出されている。
 その女性は黒い布を身に纏い、見るものに背を向けいる。彼女は歩きながら月を見ているのだ。伸びた髪は闇色で、それでいて鈍い光沢を放っている。
 だが、彼女で輝いているのは髪だけ。
 黒い服は周囲に溶け込み、その白い肌も危うく暗闇に溶け込みそうになっている。
「なんという切ない絵……まるであの日のことを思い出す……モナリザが盗まれたと知った、あの悲しい日のことを」
 フロアマスターの一人が、そうつぶやいた。横にいた一人も、同調してくれる。
「そう、それに……この極端に低く設定された視点……まるで幼児が大人の背中を見ているようだわ……」
「その子に背を向けて……モナリザが去っていく。月夜の晩に……」
「見ていると沸き上がる……この胸に沸き上がる苦しさ、そして孤独感……」
「だがこれは孤独感ではない……子供の頃誰しも一度は感じた感覚……そう……この感覚は……迷子の感覚に近い」
「それにお仕置きを受けてる感覚じゃ」
「そうですね……まるで、悪いことをしたお仕置きで、暗い物置に閉じこめられている……そんな不安が蘇ります」
「でももっと怖い、救いようもない感覚……」
「迷子でもお仕置きでもなく……そうこれではまるで母に……」
 ゾクリと、寒気が走った。誰もが思い当たり、そしてだからこそ誰もが口にしなかった。
『捨てられるような』
 と。だが、
「少し、違うわね」
 エイミーさんの声だった。
「母にしては美しすぎるわ」
 ロキさんも続ける。
「母の肖像画というテーマの絵では、母性、親しみ、暖かみなんかに比重を置いても、普通の女性的の美しさには重きを置かない。だがこの絵には女性としての魅力が混じっている」
「ではこの人は、本当に母なの?」
 エイミーさんの問いかけに、会場が静まりかえった。
 分かるようで、分からない。感覚として分かる答えが、言葉として表せない。会場中が、そんなもどかしい思いに捕らわれているはずだ。
「少し試してみようかしら」
 エイミーさんはそう言って、舞台の中央まで出てきた。
「彼女の立ち方はこう」
 そう言って、絵のモナリザの通りに立ってみせる。
「目線は月を追い、左手は耳元で髪をなでつけるように、右手は体の前にまわってる」
 彼女は絵のポーズを、ほぼ完璧に真似て見せた。
「……変だね」
「……変よね」
 ロキさんとエイミーさんは、ほぼ同時に言った。
「なんだか、実際にやってみると月を眺めている気がしないわ」 
「ああ、それによく見ると、この絵は光源がおかしい。彼女と月が同じ方向に見えるなら彼女の背は影になり、髪なんか輝かないはずだ」
 会場の人々は、頷く人と、首をかしげる人が半々。その首をかしげた人々の一人、中年女性のフロアマスターが口を開いた。
「……普通なら光の設定を間違えたと考えるところですけど……これほどの技量の持ち主が、そんなミスをするとは思えませんわ……」
「同感ですな。最初はその違和感を我々フロアマスターにすら気付かせない……それほど自然な光を描いています」
「むしろここまで来ると、間違っているのは光源ではなく、月ではないかという気すらしてきますね」
 とロキさんも、楽しそうに付け加える。
「この絵の光源は、絵を見るワタクシ達の背後、このあたりでちゃんと統一されてますものね」
 先ほどの中年女性のフロアマスターは、自分の背後を指で示して見せた。
「そうね……この絵で間違っているのは、月の位置だわ」
 エイミーさんの声には、納得したような色が含まれていた。
「私がこの絵のポーズを真似たとき感じた違和感……月を見ていないという実感……その正体は、月が本来、この位置になかったという証拠なんだわ」
「……だとすれば……なぜここに月が?」
 第六階マスターのロビンソン教授が、自問するように言った。
「トリックよ。この月は、この絵のトリックを成立させるために、後からつけ加えられるように描かれたものなのよ」
「……ああ、なるほどね」
 エイミーさんの一言で、ロキさんは気付いたようだった。
「ここに月があるから、分からなかったのか」
「そうよ。ここに月があるから、私たちの理性は『彼女が月を見ている』と判断した。でも、月がなかったらどうかしら」
 彼女はそう言って、また同じポーズを取って見せた。
「この姿から、次にする動作は何かしら」
 答えは明白だった。
 彼女は会場中の期待に応えるように、それをやって見せた。
 彼女は『振り向いた』のだった。
「そう……これが答え」
「私たちの理性は、この絵を離別と捕らえていた。モナリザが、月を眺めながら離れていく絵。だから寂しさ、孤独、そう言った感情がまず感じられた」
「でも、それだけじゃなかった。切なさや、迷子、それに、まるで母親にお仕置きを受けているような感覚も同時に混じっていた」
「そう、私たちの理性はこの月によってごまかされたけど、私たちの感性は『彼女が振り向いてくれる』ことに気付いていたの。何より彼女はモナリザだもの、こちらを見てくれるに決まっているわ」
「必ず振り向いてくれると知っている。だからこそ、切なさや、母のお仕置きと言った、遠回りな愛情を感じていたんだ」
「それがこの絵の真実」
「モナリザの中に『捨てた実の母』と『振り向き、助けてくれた母』が混在しているんだ。だからこの絵は、通常の母の肖像画とは異なっている」
「だからこの絵の本来の題名は『母の肖像』ではないわ。強いて言うなら『母達の肖像』とでも言うべきもの。そうなんでしょう、リザさん?」
 エイミーさんが最後の答えを見事に、提示した。
 その的確な分析に、会場中で満足げな溜息が広がった。まさに館長たるべくして、館長。皆はそう思っているらしかった。
 いや、それだけではない。気のせいかもしれないが、少なからず私の絵を一緒に感じ読み解く過程を楽しんでくれたようだった。
 その熱が引かないうちに、エイミーさんは再び動き始めていた。スピーカーから声が響く。
「それでは皆様にお楽しみ頂いたところで、そろそろ最後の合格発表と参りたいと思います」
 彼女はそう言って、会場を包むように両腕を広げて問いかけた。
「フロアマスターの皆様方、にお聞きします。この絵の作者、リザ・ボナパルト嬢こそが最後の、四十人目の合格者として相応しいと思われる方は、どうかご起立を願います」
 緊張の瞬間だった。
 肌の皮一枚下で期待がざわめき、同時に不安が胸を詰まらせるという不思議な感覚。
 永遠に味わっていたいその感覚は、実に一瞬だった。
 私の目の前で、動いたのだ、二十人のフロアマスター全員が。
 全員が全員、迷うことなく立ち上がったのであった。
 いや、それだけではない。
「見てごらん」
 いつの間にか横にいたロキさんが、そう言ってくれた。促されるままに、ふり返る。そこで見たもの。その光景は、たとえ人生最後の床にあっても必ず思い出せるであろう、生涯忘れられない光景だった。
 客席の全員が、立ち上がっていた。
 フロアマスター達も、客席の全員も、エイミーさんも、ロキさんも、みんなが私のために立ち上がり、拍手をしてくれていた。
 拍手がまるで、天使が奏でる音楽のように、私に降り注ぐ。
 体の奥から、喜びがじわじわと広がってきた。
 いつの間にか私の頬には、熱い物が伝っていた。
「ありがとうございます」
 この島に来てから、私は何度も泣いた。でもこれは、そんなのとは比べものにならない、本当のうれし涙だった。
「本当に、ありがとうございます」
 鳴りやまない拍手をの波間を縫って、エイミーさんが言った。
「では、ここに満場一致をもって、リザ・ボナパルトさんをバベル大美術館の二等美術員に任命したいと思います」
 エイミーさんの声も、心なしか震えていた。
 きっと喜んでくれているのだろう、私のために。
 なによりそのことが嬉しかった。何もかも最高だった。
 その喜びはあまりに甘美で、私は幸福感に酔ったような気分だった。
「リザ・ボナパルト殿、前へ」
「はい」
 私の合格証は特別にエイミーさんから手渡された。
 合格書を手渡し終わると、驚いたことにエイミーさんは私に抱きついてくれた。みんなの前で恥ずかしいなどと、全く思わなかった。私はそれより、この喜びをエイミーさんと分かち合いたい気分で一杯だった。
 しっかりと抱き留めた。
 私の腕の中に、輝くような金髪の頭が収まる。そう言えば、確かに私の金髪に少しだけ似ていた。残念ながら彼女の方が、ずっと艶やかだったが。
 その美しい少女の声が、私の耳に届いた。
「惚れ惚れするほどに素敵な絵だったわ、リザさん。あなたを信じて良かった。あなたはきっと、美術を愛し、そして愛される人だわ」
「か、買いかぶりすぎです……でも……いつかそうなりたいです」
 心からそう思った。愛し愛される。それはどんなに素晴らしいことだろう。私の言葉を聞き、エイミーさんは確信したようだった。決意で満ちた青い瞳で、私を見つめる。
「あなたは将来、良いフロアマスターになる。だから、まずはがんばってモナリザを見つけてあげなさい」
「はい、絶対に。私は母に会うためにこの島に来ましたから。でも……」
「でも?」
「この島に来て一番良かったことは、エイミーさんとロキさんに会えたことだと思います」
「……言うわね。あなたも私をたらし込むのが上手だわ」
 彼女はそう言って、くすくすと笑った。
 それは彼女の年相応の、少女の笑いだった。
 それがあまりに可愛らしくて、私までつられてしまった。
 彼女の蒼い瞳の中の私は、とても幸せそうだった。
 
 その幸福の中で、私は考えた。
 今の私たちを描いたら、どんな絵になるのだろう。
 抱きしめ合う、二人の少女。
 それを優しく見守る青年。
 きっとどんな絵よりも素敵な絵に違いない。
 そんなことを思っていた。


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