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わたしは捨て子だった。
捨てられる前の記憶は二つだけ。母親の温もりと甲高い子供の声だ。 まぶたを閉じると思い出すそれは、けれどもすぐに消える。 今も一番覚えているのは、星空。いつしか一人で見上げていた星空。寒い夜の凍った空気の向こうにある星空はきれいだった。 体を震わせて凍えていると、誰かが近づいてきて頭を撫でてくれた。 「ねぇ、お菓子食べる? 少ないんだけど」 手にクッキーを乗せて差し出してきた。お腹を空かせていると思ったのだろう。 確かにそうだった。わたしはお腹を空かせていた。いつも、いつもそうだった。 「もうちょっとあればいいんだけど。ごめんね……頑張ってね」 わたしが食べ終えると、目を細めてこちらを見てきたのを覚えている。哀しそうな視線だった。その時はわからなかったけれど、今はわかる。 お礼を言うと、お菓子をくれた人は一度だけ振り返って去っていった。 たったそれだけだった。何も変わりはしなかった。 わたしは声をあげた。わたしは叫んだ。わたしは歌った。どうしてかわからない。どこかにある本当の優しさを求めていたのかもしれない。 けれど、本当のところはわからない。今になってもわからない。今は―― △ しん、と静まり返った夜空の彼方。ティンクル、ティンクル、瞬くのは星々。 けれど、人は夜空をあまり見上げない。駅前商店街のもっと明るい光を見て、心を躍らせる。寒さに身を縮めて、クリスマスを待ち望む。 古くからあるパン屋の窓ガラスには、色紙でできた手作りサンタが貼ってあった。 ファーストフード店の前に立つ白髭のオヤジも、赤い帽子と服を身につけている。 世間は精一杯に浮かれていた。思惑はそれぞれに浮かれていた。 ペットショップでも、クリスマス価格。赤のリボンをつけたチワワと裏返って眠るアメリカンショートヘアが三割引になっていた。 日本のクリスマスは本来の意味からは離れている。けれど、楽しいお祭りだ。 なのに、大学生の木沢高志はため息混じり。うつむいてバス停に並んでいた。 ディーゼルエンジンの音が聞こえ、高志は顔を上げる。 目の前のロータリー中央にはモミの木。大きな銀色の星を頂上に冠し、綿の雪と色とりどりの玉、サンタとトナカイ、そして点滅する灯りで飾られている。 (今年も二次落ちか……三年連続。僕も幸せ気分でクリスマスツリーを飾りたいよ) 嘆いた高志の視線をバス停に入ってきたバスが遮った。 高志は体を動かし、微妙に肩からずれていた黒のコートを直した。拍子に白に赤ラインのマフラーが落ちる。それをかけ直し、バスのステップに足をかけた。 出発点だから整理券は出ない。高志はそそくさと一番後ろの席に座った。 半分ほどの座席が埋まり、ドアが閉じる。バスはゆっくりと走り出した。 窓の外を、煌く商店街が後ろへと流れていく。 (一次は毎回通ってる。文章の粗とか、構成が悪いとかとはきっと違う。たぶん) 思わず出たため息が窓を白く曇らせた。心の中のように。 高志は今日の午後、文学賞の二次落ちを知った。大学のパソコンから見た応募先のウェブサイトで、自分の作品がないのを四回確認した。 それからずっと、落ちた原因を考えている。それは去年と同じだった。 (テーマが悪かったんかな。僕には重すぎた?) 高志が描いたのは本当の優しさ。捨て子の劇団員を主人公に、世に溢れる嘘に塗れた優しさではなく、厳しさの中にある真に尊い優しさを描いた。 うまく描けていた自信はある。過去最高だった。けれど、評価はされなかった。 二次で落ちたということは、小説にはなっているが何かが足りないということだ。 (他にもあるかも。でも、やっぱり無理したテーマだったんだろうな) 数時間も考えてきて、なんとなくわかってきた。うまく描けていたと思ったのは、幻想だった。書いている時は昂揚していて気づかなかったことだ。 そもそも高志は捨て子でもない。孤独を描いてみたが、きっと真実には遠い。 まだ高志には世の中の厳しさなんてわからない。きっと現実感がなかった。 けれど、一番の失敗は本当の優しさなんて考えたことだ。 それは高志の頭の中にある空想でしかなかった。プロットを落とした時、応募した時はわかったつもりでいた。なのに今は、わからなくなっている。 (優しさってなんだろうな……打算のない、自分を捨てた本当の優しさって) 答えの出ないまま、バスは高台にある団地に入っていく。 上り坂の途中、窓の外に夜景が見えた。商店街は明るく、他はぽつぽつと光があるだけだ。上り切って、バスは信号のない道を走っていった。 高志が降りるバス停のアナウンスが入る。ブザーは誰かが押してくれた。 バスは団地の中央にあるバス停に停まる。辺りは暗い。 定期券を取り出し、高志は二番目に降りた。後ろに人はいない。先に降りた赤のダウンを着る人を追い越し、足早に自宅へと向かった。 大通り沿いの道は夜でもちらほら人影がある。自宅までは十分ほどだ。 家に帰れば、家族がいる。落ち込んでいれば、声をかけてくれるだろう。 なんでもないと高志が答えて、たぶんそれで終わる。 去年も同じだった。しつこく追求されないのが、逆にありがたい。 (優しさ、かもしれないな。でも、どうなんだろう?) もししつこく聞かれれば、高志は嫌がる。険悪なムードになる。そうして嫌な思いをするのは、高志だけでない。家族も同じように嫌な気分になる。 嫌な思いをしたくないから、聞かない。本音だ。高志だって、よくそうする。 等間隔に並ぶ街灯の下を歩く高志の歩調は、いつの間にか重たくなっていた。 不意に高志の目の前に影が一つ、飛び出してきた。 小学校低学年くらいの女の子だった。高志からは家の壁で見えない空き地から走り出て、近くに立っていた女性に抱きついた。母親だろう 母親は手にした本屋の紙袋を落としそうになりながら子供を受け止めた。コンビニのビニール袋を手にした手でその頭を撫で、頬の赤い子供の顔を見やる。 「食べたよ。でも、寒そうだった。心配……猫さん、うちは飼えないんだよね?」 「今はね。でも、紗枝がいい子にしてたら、きっとお父さんが頑張ってくれるわ」 子供と母親の会話はずれていた。子供は今まさに空き地にいるだろう猫を飼いたいと言ったのに、母親は父親が稼いで引っ越してからと言った。子供が心配した猫はそのままに、何年後かにペットショップで猫を買うのだろう。 よくある会話だ。子供は気づいていないし、母親もわかってなどいない。 (子供は優しいかもしれない。でも……自分は捨ててない) 単にかわいそうと思っただけ。斜めに見れば、弱者を強者が見下ろして哀れんだだけ。そんなのは高志が思う本当の優しさとは違う。 しかし、母親は静かに微笑む。自分の子供が見せた優しさ嬉しく思っているのだ。 冷たい風が吹いて、子供が手を伸ばす。母親は子供と手をつないで、歩き出した。 高志は二人とすれ違い、空き地の横を通ろうとした。 「ニャーニャー、ニャーァニャ!」 聞こえてきたのは猫の鳴き声。高志はつい顔を向けてしまった。 空き地の端にダンボール箱が置いてあった。すっと胸を張った子猫が高志を見ていた。痩せこけていた。全身が震えているように見えた。 高志は胸には小さな痛みを感じた。子猫を驚かさないようにそっと近づいた。 子猫は丸い瞳で高志を見上げてくる。一声、鳴いた。 何かしようと思って近づいたわけではなかった。けれど、近づいてしまった。一瞬のためらいの後、高志はゆっくりと屈んで子猫の喉を撫でた。 一匹には大きいダンボール箱の中で、子猫は気持ちよさそうに目を細める。 ふたになる部分に太いマジックで「もらってください」と書いてあった。 親猫を飼っていただろう主が、この子は野良猫ではないと伝える言葉だ。半分は貰い手への淡い期待。もう半分は飼い主自身への慰めだ。 箱の底には何も敷いていなかった。地面の冷たさが直接伝わってくるだろう。 (ああもう……こんなの、ホントに死んじゃうじゃないか) 凍えて、寂しく、一匹で、息絶える子猫の姿が頭に浮かんだ。数日もしないうちに保健所から人が来て、まるでゴミのように処理される姿まで。 「いや、今はけっこう丁寧に扱われるはずだ。供養までしてもらえるはず。確か」 思わず呟いたのは、このまま去ろうとする自分への慰め。親猫の飼い主と同じだ。 けれど再び子猫が鳴いて、高志は立ち上がることができなかった。 白い息をため息のように吐き、高志はおもむろに右手を自分の首に持っていった。巻いていたマフラーを外し、両手で丸くふわりと整えた。 まだ高志の温もりが残るマフラーを、ダンボール箱の中に入れた。 子猫の足元にマフラーを敷いていると、背後から声がかかった。 「あら、タカちゃんじゃない。変なところで会うわね」 屈んだまま半身に振り返ると、見知った顔の女性が立っていた。ここからすぐ近くのマンションに住んでいる、五十代半ばの伯母だった。 渋いこげ茶のコートを着た伯母はコンビニの袋を手に提げていた。 「こんばんは。伯母さんこそ、こんな時間に一人でコンビニですか?」 高志は小さく頭を下げてから、すっと立ち上がった。 「そーなのよ。うっかりトイレットペーパーを切らしちゃってね。薬局までは遠いでしょ? 車で行くのが面倒だったから、ついつい。甘いお菓子もついつい」 朗らかに言う伯母は地域の行事にも積極的に参加する活発な人だ。昨日の夕方に駅前で会った時は、近所の主婦会の帰りだと言っていた。 「それで、タカちゃんは何してるの? あらあら、捨て猫? 嫌ねぇ」 近づいてきた伯母は高志と一緒に子猫を見下ろした。 「昔は貰い手も多かったけど、今は難しいわね。ペットOKのマンションも増えたけど、住む人はブランド志向も強いから……雑種はダメね」 数年前まで不動産屋の営業部で活躍していた伯母らしい言葉だった。 「伯母さん、犬猫って苦手じゃなかったですっけ?」 「ええ、好きじゃないわ。特に犬は。うるさいし、臭うし、トラブルの種にもなるし。でもねぇ、身勝手なのは人間なのよね。わたしもだけれど」 肩をすくめた伯母は眉をぴくりと動かした。高志を見てきて、口を開く。 「これって、タカちゃんのマフラーじゃない?」 「え、あ。そうですけど、なんでわかったんです?」 高志が戸惑いの声をあげると、猫も鳴いた。伯母は得意げな顔をする。 「やーね、そんなのわかるわよぉ。昨日もしてたでしょ? マフラーなんてそうそう替えるものでもないし、白に赤のラインは目立つわよ」 伯母はビニール袋を持たない方の手をひらひらと振り、続けた。 「それにしても、タカちゃん。本当に優しいわねぇ」 「そんなんじゃないですよ。使い古したマフラーですし、こんなのただの偽善です」 反射的に、そして自虐的に否定した。満足していた自分に気づいて、嫌になった。 沈黙が二人に舞い降りて、子猫はマフラーの中に丸まった。 高志の視界の隅っこに、目を閉じた穏やかな子猫の顔が映る。自分の行為は自分のためだったと、高志は思う。子猫のためとはとても言えない。 それは間違いないことだ。けれど、子猫は震えることなく目を閉じている。 「そうです。偽善なんです。放っておいたら自分が苦しいからしただけです」 吐き捨てるように言うと、子猫の片耳がぴくりと反応した。 「捨てた人は人通りがそこそこあるとこに捨てました。さっきも女の子が食べ物をあげてたみたいです。飼いたいとか言ってました。でも、言っただけ。僕もマフラーだけで、助けたりしない。僕も含めて、全部が偽善なんですよ」 伯母は目尻にしわを寄せる。ただ黙って高志の言葉を聞いていた。 「今こう話してるのも、話さないと僕が辛いからです」 感情が訴えるままに高志の声は高くなっていった。 「本当の優しさなんて、ないです。物語の中のことです。現実は偽善。自分のためです。でも……でも、何もしないよりいいかもしれません」 絞り出した結論は、大学の壁に貼ってあったポスターの言葉に似ていた。 それはまるで罪の告白。結局のところ、高志は子猫を最後まで助けない。 それは自分と小説の否定。一生かけても、本当の優しさなんてきっとわからない。 (わかるはずもないんだ……そんなのはきっとないから) 高志が目を伏せると、伯母は盛大にため息をついた。白い息が風に流れて、すぐに消える。高志が視線を戻すと、伯母は両腰に手を当てていた。 「もー、タカちゃん。考えすぎよ。どこかの先生かと思っちゃったわ」 軽く首をすくめた伯母は顔中でにこりと笑った。 「すみません。ちょっと、いろいろあったので……」 小説を書いていることは誰にも内緒のこと。だから高志は言葉を濁して謝った。 「でもねぇ。ちょっと感動したわ。なんだかますます優しいって思うわよ」 「やめてくださいよ。こんな変なことを最後まで聞いた伯母さんの方が、優しいです」 「あら、やだ。そんなの立派な偽善に決まってるじゃない」 伯母はビニール袋を持つ手を口元に当て、余った手で手招きのようなしぐさをした。 偽善という言葉が示すことがわからず、高志は何度も目を瞬かせた。 「ふふ。止めたら、面倒でしょ? 聞いてるだけの方が楽だもの。これでも営業でトップクラスの成績だったんだから、そういうことは心得てるの」 真意かどうか判断のつかない軽い口調で言い、伯母は両手を下ろした。 高志はなぜだか心が少し軽くなるのを感じた。 数呼吸の間があって、伯母ははっと目を見開いた。慌てたように腕時計を見やる。さらに慌てて、その場で足踏みした。 「タカちゃん、ごめんねー。わたし用事があるからそろそろおいとまするわ」 「あ、僕こそ変な話で時間を潰しちゃってすみません」 またと、お互いに挨拶する。その言葉が終わるや否や、伯母は背を向けた。競歩のような歩き方で去っていく。あっという間に見えなくなった。 残された高志の視線は自然に子猫へと向けられた。子猫は目を閉じたままだった。二人の声をものともせず、眠ってしまったらしい。 高志は音に気をつけながら体を曲げ、子猫の背にマフラーの端をかけた。 子猫の体がぴくりと動く。高志が息を止める。子猫は眠ったままだった。 (恥ずかしい話、しちゃったな。書くのは平気なのに) 今さらながらに頬が赤くなる。寒さのためと違って、熱くなる。けれど、すぐに胸が痛くなる。子猫の傍を離れなければならないからだ。 高志は子猫を見つめたまま、後ろ歩きで一歩一歩後ろにさがった。 空き地を出ると、いつの間にか緊張していた体の力が抜けた。 (さよなら。また違う誰かに助けられるといいね) もうできることはない。しばらくは違う道を帰ろうと心に決め、高志は歩き出した。 見えないが、近くでエンジンの音がした。聞き慣れた、バスのディーゼルエンジンだ。 (もう少し大きくなれたら、一匹でも生きていける。きっと) 子猫を見つけてから幾度目かになる、自分自身への慰めだった。人は偽りの優しさで自分を慰めて生きていく。きっとそうだと、高志は唇を噛んだ。 それでも――高志は感じたことをそのまま書こうと思った。ただの願望だとしても。 ▽ △ 高鳴る胸をおさえた。この日をどれほど待ちわびたことか。 三十代半ば、筋肉質の山岸孝之は夜のマンションの廊下で拳を握り、気合を入れた。短髪の中年は咆哮をあげたい衝動をなんとか抑える。 彼に課せられた使命は人生おける最大最高唯一無二、全力を注ぐべき使命だった。 それはすなわち――八歳になる娘の幸せ。 (俺の一番は娘! いや、待て! 妻はどうするのだ? ぬううっ) 人生における最大級の難問に直面し、山岸は頭を抱えて苦悩する。 凍れる白い息が赤い山岸のタートルネックに映えた。 唐突に、しかし山岸にとっては必然に、スクワットがはじまる。考えがまとまらない時は体を動かす。山岸には最良かつ最適な行動パターンだ。 十年と少し前、山岸は大学のサッカー部に所属していた。サークルではなく、地域二部リーグ参加の部だ。紛れもない体育会系。すべては肉体が解決する。 廊下に回数を数える声を響かせつつ、山岸は屈伸運動を加速していく。 「四十六、四十七、四十八、四十九、五十!」 区切りで勢いをつけ、山岸のスクワットはさらに加速した。普通ではないが、普通だ。 そして答えは百二十六回目のスクワット中に、閃きとともに訪れた。 (引き分けでいいじゃないか! 勝ち点は一ずつだ! 俺的には十!) 引き分けのあるリーグに参加していたことに深いありがたみを感じつつ、山岸は汗ばんだ額を拭った。頭の上に湯気が出ている。髪は短いが濃い。 わずかに乱れた呼吸を整えつつ、山岸は腕時計を見た。まだ時間はたっぷりある。 (いかんな。頭を冴えさせようと、寒さの中に出たのに) 月例会の開始三十分前に玄関を出た理由を思い出し、確かに冴えたかどうかは微妙だが、体は温まり、頭の血の巡りは明らかによくなっていた。 山岸が赴くは住んでいる九階建てマンション、グランディア高須の月例会。今年最後の月例会だ。普段ならどうということもない月例会だが、今日は違う。 娘のために最高のクリスマスプレゼントを贈る――そのための月例会なるのだ。 事前の準備、根回しはきっちり済ませてある。 マンションの各戸を回るため、ここ一月の間は残業をほとんどしなかった。残業になるはずの仕事はすべて朝早く出かけて、始業までにこなした。早朝の眠さは缶コーヒーと安い栄養ドリンクを友にして、耐えた。すべては娘のために。 (ぬぬっ。やはり娘が一番なのか? 俺は沙耶子を大事には思っていないのか?) 人生における最大級の難問が不意にリピート。 (いいや違うな。娘が喜べば、沙耶子も喜ぶ。おおう、繋がっているのだ) 今度は即座に答えを出し、山岸は満足したように頷いた。 「山岸さん、こんばんは。汗まで掻いて、相当に張り切っておられますな」 「おお、児玉さん。今日はご主人がお出になるのですか。それは頼もしい」 渋い声がした方を見ると、隣に住む初老の男が立っていた。 「頼もしいと言われましてもな。舞台を整えたのは山岸さんお一人。わたしたちは大船に乗ったつもりで安心して見ているだけのことですぞ」 目尻に刻まれた深いしわをさらに深める。着ていたは濃い緑のセーターと黒のチノパン。着替えは直前ではなかったらしく、白い毛が幾つも服に付いている。 「いえ。すべてはみなさんのご協力があったからこそです。さあ、行きましょう」 山岸は固めた右拳を左手の腹に叩きつけた。小気味よい音が夜の廊下に響く。 二人は歩き出し、一階にある会議室に向かった。 普段なら階段を使う山岸だが、児玉がいるのでエレベータを使う。反対側から来た中年女性、早川も同乗した。三人は仲間に近い立場だ。 月例会の開始五分前に会議室に入ると、ほとんどの人は揃っていた。いつもならば半分くらいしか集まらないのだが、今日は違った。二十四戸の代表が四角く集うには無理があるため、大学の講義室のように机が並べられている。 山岸はざっと眺めて、味方が三人足りないことを確認した。交流の少ないマンションにあって、山岸だけはほぼ全員の顔を知っている。 (うむ。石塚さんと二宮さんは心配ない。二人とも信頼できる人たちだ。だが……) 顔をしかめた山岸は残りの一人、橋田のことを心配しながら一番前の席についた。 (迎えはいけん。あの人はこちらから行けば、絶対に来なくなる) まだ時間はある。山岸はこの場で三人を待つことにした。少なくとも橋田以外は来る。心配はない。目的を達するには一人分の余裕がある。 (最悪、橋田さんが来なくても決は採れるからな。うむ、焦るな。大丈夫だ) イブを翌日に控えた今宵、一つの決を採るのが山岸のすべてだ。 重要事項の変更――マンションの管理規定には入居戸数の四分の三の賛成が必要と記されている。空室はないから、二十四戸の四分の三である十八戸の賛成があれば、決を採ることができる。かなり厳しいラインだが、不可能ではなかった。 元々規則を破っている戸が十戸もあったのだ。九戸は自分勝手な違反。去年、中古で買った児玉だけが管理人の説明誤りによる不慮の違反者だった。 規則違反は既に暗黙の了解となっていたのだ。それでも、山岸は規則を破れなかった。 それは性格だからしかたがない。それに、それでは娘に胸を張れない。 ならば、と山岸は重要事項を変更することを考えた。即座に実行に移した。娘のためと思えば、ためらうことはなかった。苦労は承知の上だった。 しかし、意外にことはすんなり運ばれた。違反している十戸は簡単に了承した。自分を含めれば十一戸。残り七戸の説得だったが、気にしない人が多かった。 残り二戸で躓いたが、何度も足を運んで説明した。娘のためと言うとわかってくれた。 (みんな子供には優しかったからな。うむ、日本の未来も明るい) 各戸訪問を順に思い出した山岸の頬が緩む。嫌われた相手もいるが、仲良くなった相手の方が多い。都会の薄い人間関係など遠く思えた。 そして結局、山岸が得た賛成は十九。だから、橋田が現れなくとも問題はない。 月例会開始時刻になる直前、ドアが開いた。入ってきたのは主婦の二宮だった。 「えー、では時間になりましたので、はじめます」 司会進行役を担う痩身の中年女性、仲原が声をあげた。立ち上がり、前に歩み出る。プリントを一番前の列の人に渡し、眼鏡をかけなおした。 「ちょっと待っていただけませんか? 石塚さんと橋田さんが来ていない」 手を挙げた山岸が意見を言うと、仲原はあからさまに不快な顔をした。 「待てません。待っても石塚さんは来られませんし」 「なんですって? 石塚さんが来られない? それはどういうことです?」 山岸はつい声を高くした。会議室がざわつく。主に賛成側が戸惑う声だ。 仲原は会議室を見回し、軽く肩をすくめてみせた。 「一昨日からハワイに旅行です。老夫婦のクリスマスはハワイでと言っていましたよ」 さらりと告げられた事実に山岸は絶句するしかなかった。 一度だけ石塚に話をしたことがある――賛成は十九戸だと。もしかしたら、石塚は自分の票が議決には影響しないと考えたのかもしれない。 (そうだとしても、あれほど頼んだじゃないか。どうして! ぐううぅ) 山岸は声には出さず歯を噛み締めた。胸の中で唸る。 「橋田さんが出席されないのはいつものことですし。では、はじめましょう」 仲原は躊躇なく月例会をはじめようとする。 山岸が仲を悪くした相手が、石塚の隣に住む仲原だった。重要事項変更に最初は少しも反対していなかったのに、山岸が既にかなりの根回しを進めていると知ると態度を一変させた相手だ。最終的には反対派の一番手になっている。 つまりは嫉妬だった。考えが至らず、山岸はマンションのリーダー的存在を後回しにしたのだ。隣の児玉から話を進めたのは、山岸の大きなミスだった。 あくまで落ち着いた表情の仲原はプリントを持ち直し、全員に正対した。 「今日の議題は一つだけです。前回提出された――」 「待ってください。あと少しだけ。お願いですから」 山岸が懇願すると、待ってやったらどうかと児玉がフォローをしてくれた。主に違反者の声が幾つか重なり、仲原の表情は曇った。 「……しかたありませんね。待ちましょう。ただし、五分だけです」 仲原が定めた五分の猶予は逆に終わりの宣告だった。 賛成派の結束は緩い。違反者の十戸以外は会議が長引くことを嫌うだろう。山岸は五分以上を望めなかった。声を出せば、賛成を約束している幾人かにも引かれそうだったからだ。そうなれば、次回までもを完全に失ってしまう。 しかし次回となれば、山岸には意味が薄くなってしまうのも事実。そもそもこれだけの人数を集めるのは簡単にはいかない。なのに、どうにもできない。 (イブはもう明日なんだ……なんとか、頼む。橋田さん。約束、守ってくれ) 祈る。その時間――五分は三百秒。長いようで、短かった。 「はい。ここまでです。第一の議題、前案から変更は幾つかありますが、みなさんは内容を把握していることと思います。それでは、挙手にて決を採ります」 淡々とした仲原の言葉に、山岸は今回の決をあきらめた。まだ希望はあると自分を慰め、すまないと娘に心の中で謝る。来月は無理でもその次には、と思った。 その時、ドアが大きな音をたてて開いた。一気に期待を膨らませ、山岸は見やる。 しかしすぐに落胆。望んでいた橋田ではなかった。 入ってきたのは濃い茶色のコートを着た女性だった。記憶では五十代の彼女はビニール袋を提げていた。外から帰って直接来たらしい。 「よかったぁ。まだはじまったばかりなのね。入ってもいいかしら?」 「ええ、速水さんなら構いません。一番後ろの席にどうぞ」 促された速水は山岸をちらりと見やり、そそくさと奥へ向かった。仲原が「速水なら」と言ったように、彼女は反対の立場をとっている。 反対派が増えても影響はない。しかし、賛成派の核、違反者の間にはあきらめムードが漂った。暗黙の了解があればいいと感じているかもしれない。 (むうう。ここまでか……また一からやり直すしかない。やらねば) 頭を垂れた山岸は両肩まで落として、仲原が決を採るのを待った。 「では、ペット可条項に賛成の人は挙手を」 ペット可条項――山岸がペット可マンションの規定を参考にして草案を起こし、十一月の月例会に提案、さらに各戸を回って意見を取り入れながら完成させた条項だ。 奔走した動機は至って単純。娘が猫を飼いたいとねだってきたからだ。ただそれだけ。 すべては娘のため。クリスマスに最高の贈り物を……しかし、及ばなかった。 山岸は弱々しく手を挙げ、おもむろに背後を見る。ダメとわかっていても、数を数えてしまう。賛成を約束してくれた人は手を挙げてくれていた。 しかし、足りない。やはり一人足りない。何度数えても、足りなかった。 「あら? もしかして否決なのかしら?」 速水が驚いた顔をしていた。山岸の根回しを知っていて、可決されるものと思っていたのだろう。何度か瞬きをして、彼女はすっと手を挙げた。 半ば呆けた山岸はまじまじと速水の顔を見た。彼女は意味深な笑みを浮かべている。 「速水さん。それはもしや、賛成ということですか?」 「仲原さん、ごめんなさいね。賛成に回らせてもらうわ。ただし、条件つき。山岸さんがこの条件を呑めないなら、わたしは手を下げるつもり」 速水は立ち上がり、山岸を見返してきた。山岸は見つめたまま、座ったままだ。 「この案はわたしが見てもよくできてるわ。飼うことに厳しい内容になってる。この条件で飼うのは大変。飼う側がなかなか了解しない内容ね。なのに、山岸さんは意見をまとめた。守られれば、トラブルも今よりは減るでしょうね」 まずは誉め言葉、それがむしろ山岸には怖い。 「反対している人も、後々反対してたことを何かの理由にしたいっていうのもあると思うの。あら、気を悪くしないでね。わたしもそうなのよ」 おばさんがよくする手招きのようなしぐさをして、速水はほほほと笑った。 仲原がいらついたようなリズムで足を鳴らす。 「でもねぇ。今まで何もしてこなかったのに、自分の子供のために急に張り切りだすのはどうかしら? 他の家のペットのためもあるって言われても、腑に落ちない。暗黙のルールを正規のものにと言っていたけれど、ついででしょう?」 とつとつと話す速水の言葉を、山岸は痛む心で聞いた。確かに速水の言うとおりだ。娘のためだけの自分勝手。ルールの正規化など、口実の一つだ。 「よいことをしている顔して、でも自分のためだけの、偽善にしか見えないのよねぇ」 厳しい言葉に、山岸は何も返すことができなかった。それは事実だ。 「仲原さんのように、今までトラブルの仲裁に当たっていた人とは完全に別だわ」 「わたしはするべきことをしたまでです。ちょうど会長でしたから」 「あら、謙遜するのはさすがね。もしも山岸さんが仲原さんのようだったら、わたしもすぐに賛成していたところよ。きっと仲原さんも、反対している人もね」 速水の言葉に仲原の表情が柔らかくなる。足で床を叩く音が消えた。反対を通してきた住人からも、きちんとルールを守るならと小さな声があがる。 「だから簡単には賛成できない。お願いがあるのよ。それはわたしの偽善なのだけれど」 ふふふと苦笑をして、速水は手を口元に当てた。 「猫を飼うんでしょう? 西の空き地に捨て猫がいたわ。子猫なの。知り合いが新しそうなマフラーを、古いって言いながらダンボールに敷いてあげたんだけど、きっと死んじゃう」 「……その子猫をうちで飼うことが、賛成するための条件ということですか?」 速水の意図を理解した山岸は眉間にしわを寄せた。 「物分りがよくて助かるわ。うちじゃ、主人もわたしも苦手なの。なのに、かわいそうって思っちゃったから、もうホントに困ってたのよ」 山岸はすぐには答えを出せず、会議室に集まった面々を見た。山岸が頷けば、みんなが賛成する。しかし拒否すれば、賛成派の一部も反対しそうな雰囲気だ。 「もしダメなら、この飼う条件のままで今飼ってる一代限りを認める案を出すわ」 止めになる速水の台詞。山岸はわかりましたと頷くしかなかった。 娘にねだられたアメリカンショートヘアーは駅前のショップで、まだ売られずにいた。しかし、二匹はペット可条項で認められない。 (むうう。誰かが拾っているか、もういないか……それを祈るしか) 約束を破る選択肢は山岸にはない。それでは娘に胸を張れない。 「大丈夫。かわいかったし、子供さんも気に入るわ」 なんの根拠もないだろうことを自信ありげに言われ、山岸は腹を立たてた。しかし、ここで怒りをみせてはペット可条項が否決されてしまう。それでは児玉さんたちにも申し訳がたたない。また不正のルールに戻ってしまう。だから耐えた。 速水が着席し、ペット可条項の決がもう一度採られる。一人を除いて全員が手を挙げ、ペット可条項はグランディア高須管理規定として正式に認められた。賛成した者が賛成した証しとなるサインと印鑑を押していく。山岸も虚ろなままにサインし、押印した。 山岸が娘にどう説明しようかと思っているうちに、月例会は終わっていた。誰もが席を立つ中、座ったままでいると肩に手を置かれた。 「子猫のこと、一日早いけど今夜中にお願い。コンビニのお菓子じゃ、きっと足りなくて震えてるから。予防接種のことは黙認よ。ただし急いでね」 満足げに言ってきた速水を、山岸は黙って見上げた。勝手な女だと思う。 「それじゃ、子供さんによろしくね。よいクリスマスを」 最後に小声で言い残し、速水は会議室を出ていった。 残された山岸は机を叩いた。鍵を持つ仲原に促され、のそりと会議室を出た。娘への言い訳と謝罪を考えながら。 △ ▽ △ 『以上、十二月第四週の書籍ランキングでした! さあ、今週のピックアップは――』 リビングは今日も温かい。外は暗く、間違いなく寒いだろう。 『半年間、じわじわと順位を上げてきて、ついにベストテンに入った“偽善は偽り”。高沢キシのデビュー作です』 気持ちのよいソファに寝転がっていると、眠くなってくる。欠伸が出た。 『自分の偽善に苦悩する大学生と他人の偽善に翻弄されるサラリーマン。この小説に描かれているのはすべてが偽善。偽りなく偽善』 テレビからは明るい光と音。キッチンからはいい香り。隣には頬を赤くした顔がすやすやと。玄関が開く音がして、「ただいま」と野太い声。 『しかし読み終えてみれば、温かい読後感。いつの間にかみんなハッピー。情けは人の為ならずの本当の意味、知ってますか? そうです。僕もですね、だからしちゃいました。千円札で募金なんてこと。偽善はよいことです。宝くじ当たらないかな。ははは』 この季節になるといつも思い出す。温かい部屋の中から、寒い夜空の下を思い出す。 ソファを下りたわたしは窓際へ。カーテンの隙間から暗い外を見た。 しん、としているか、中からはわからない夜空。ティンクル、ティンクル、瞬く星は窓ガラスの反射で数えるほどしか見えない。 胸の高鳴りはない。穏やかだ。こんな日々を待ち望んだことは一度だってなかった。 二年前はこんな日々があると、わたしは知らなかったから。 わたしは捨てられていた。それはいつまでも変わらない。けれど、もう関係ない。今は温かくて、お腹も空いていない。傍には家族もいる。 幸せだ。きっと幸せだ。だから、今日も声をあげる――強く、高く。 「ニャー!」 |