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傘が、寄り添っている。
自身を立たせるための格子に阻まれながらも、その柄を絡め合っている。 整えられた純白の傘と無造作に突っ込まれたコウモリ傘は、その持ち主らの関係を表すかのように隣り合わせで身を寄せ合っていた。 その持ち主は、コンビニの中。透明のドアからも窺えるレジの店員とその女性客は、他に客がいないのをいい事に喋り続けている。楽しそうにレジのテーブルに身を乗り出すその女性客の様子に、隣の店員がイライラと意味のない店内巡回を始めた。 その客の話を営業スマイルではない笑顔で聞いていた店員は、ふと表情を曇らす。熱心に話を続ける客は、その変化に気付かない。 「なぁ……香菜」 話を遮られた香奈はむっと顔をしかめたが、すまなさそうに眉を下げる店員に何事かと口を動かすのをやめた。 「ごめん……。別れてくれ」 香菜の目を直視できなくなった店員は、わざとらしく店内を巡回している店員に目をやる。成り行きをずっと見ていた店員は頬を歪めて笑っていて、その小ぶりな唇で「それでいいの」と聞こえないように空気だけを吐き出した。香菜はと言えば、怒りとも驚きともつかない表情でしばらく固まったままだったが、はっと我に返ったように店員にまくし立てる。 「何、何でよ! 健吾、あたしなんか悪い事した? 急に別れるなんて、嘘でしょ? やだ、嘘だって言ってよ!」 香菜の瞳が急速に潤う。健吾の目は意を決したように香菜を真っ直ぐに見据えていて、それが何よりも嘘ではない事を物語っていたからだ。 「……後で連絡する。ゆっくり話そう?」 香菜がそう問いかけても健吾は何も答えない。今にも溢れそうな涙をこぼさないように「じゃぁね」とそっとそっと呟いて、香菜は重たいドアを音を立てて閉めた。勢いよく閉めた反動で、とうとう香菜の目から涙がこぼれ落ちる。 「やだぁっ……」 香菜は嗚咽を漏らす。降り注ぐ雨に紛れて熱い液体が香菜の頬を濡らす。 しばらく雨に打たれ、感情的になっている頭を冷やした。傘差さなきゃ、と香菜が傘立ての方に振り返る。 その時、香菜は見てしまった。 コンビニの店員が二人、抱きしめ合っている所を。 健吾の顔はドアと反対側を向いていて、こちらからは表情を伺えない。もう一人の店員、彼女と目が合う。 香菜は思わず吐き気を催した。そして、傘を取るという目的も忘れて駆け出した。 彼女はにやり、と不敵に笑み、それから健吾に口付けをねだる様を、香菜に見せつけたのだ。 忘れられた純白の傘は、何事もなかったかのようにコウモリ傘に身を寄せる。 持ち主の気も知らず、相も変わらず愛おしそうに柄を絡ませ合っている。 「健吾ぉ……」 香菜は一人カフェテラスの目立たないテーブルで泣き伏していた。 コンビニの最寄りのカフェテラスとはいえ、ずぶ濡れの身なりでここまで来たので、ウェイターには驚いたような表情をされたが、敢えてそれを無視してカフェオレを一つ頼んだ。 テーブルに突っ伏して、ただただ重力に逆らわない涙でそこを濡らしていた。ずぶ濡れなのに自身を拭かないのは、香菜が意地っ張りで涙を誰にも悟られたくないからである。 それでも真っ赤に腫れた目と鼻をすする音はごまかせず、カフェオレを持ってきたウェイターは気をきかせて無言でカフェオレを置いて去っていった。 香菜は先ほどの出来事を回想する。そして、その度にテーブルを雨粒とは違うもので濡らした。 健吾とは切れたくない、そう思いつつも先程の出来事でもう離れてしまっている事実はどれだけプラス思考に考えても拭えなかった。 とりあえず話はしなくちゃ、と香菜は懐から携帯を取り出す。ワンプッシュでダイヤルできるように設定してあるのは、健吾だけだ。 耳にはカフェテラスにいる客の話し声、いよいよ本降りになってきている雨音、携帯から流れ行く電子音しか聞こえない。 そして、健吾が電話に出た瞬間それ以外の音は聞こえなくなった。忙しくカフェテラスの窓を打っている雨音でさえも。 「もしもし?」 『……香菜?』 少しの沈黙の後に、健吾の決まり悪そうな声。きっと電話の向こうでは眉を顰めているんだろう、と香菜の頭の中では容易に想像できた。 「全部見てた」 『……え?』 今度は少し長めの沈黙。何を見てたかは健吾にだってわかるはずだ、と香菜は携帯から出る音を聞き漏らさないように耳に押し当てた。 「全部。あの店員さんと付き合ってるみたいだね」 『そ、それは』 「もういいよ。ちゃんと別れるから。じゃぁね」 涙声を出さなかったのは、香菜の最後の意地。健吾の弁解の言葉も聞かなかったのは、最後の強がり。 でも、それも所詮強がり。震える指で押された電源は、繋がった健吾との糸をいとも容易く断ち切ってしまった。 それを自覚した瞬間に、また目頭が熱くなる。こんなのはあたしじゃない、と自分を叱咤してみるも、効果は全くと言っていいほどなかった。 終いには泣きやむ事を諦めてしまい、香菜はそこがカフェテラスだという事も忘れ、ただただ泣きじゃくった。握り締めた携帯は、もう健吾に繋がらないよう、番号もアドレスも全て消してしまっていた。 カフェテラスの風情ある時計は、気がつけば夕刻をさしていた。2時間近く、一杯のカフェオレで粘ってしまったらしい。 いい加減ここから出よう、家でまた泣けばいいや、と香菜はそそくさと勘定を済ませ、外に出ようとした。 まだ、雨が降っていた。電話した時よりは小降りになっているものの、まだまだ傘がなければ風邪を引く。 仕方なく、すぐそこのコンビニまで走る事にした。ここから家まではまだまだ遠い。そこから健吾に毎日会いに来ていたのかと、香菜の中で呆れさえ起こった。 自分のブーツが水溜りの水を撥ねさせる。ブーツは雨中走ったので濡れそぼって、つま先まで冷えてしまっていた。それもかまわず、香菜はコンビニへと走る。ショートボブの毛先が湿気て広がり、短いスカートから伸びている足には鳥肌が立っていた。 コンビニの前。息を切らして立つ香菜は、ついつい中にいる健吾を見つめてしまう。営業スマイルで接客している健吾に、香菜は見えていない。隣で健吾を横取りした店員がこれ以上ないほどの笑顔で隣をレジを扱っていた。客がレジにこない隙を見つけては、二人は目を合わせて微笑んでいる。 もう私達は終わったんだ、とその光景は香菜に再認識させた。入りこむ隙もないほど、あの二人は好きあっているんだと。 また涙が溢れそうになるのをぐっと堪えて、傘を引き抜こうとした。と、傘が何かに引っかかって傘立てから抜けない。 無造作に傘立てに入れられたコウモリ傘の柄が、香菜の傘のそこに絡み合っていた。仲むつまじく、手を繋いでいるように、しっかりと。 香菜はそれをしばらく見つめた。そして、傘を引き抜こうとする手をふっと緩めた。そして、その手でコンビニのドアを開ける。 「いらっしゃいま……」 営業スマイルでこちらを向いた健吾の顔が面白いくらいに固まる。すぐに眉を下げて下を向いた健吾の前を素通りして、香菜は一本のビニール傘を手に取った。そのまま、健吾の方のレジに持っていく。 「三九九円になります」 健吾が営業スマイルも忘れ無表情で精算をする。香菜は財布から四百円を取り出して、健吾の方に傘ごと押しやった。 「何……」 「傘、もらってもいい?」 ビニール傘は健吾にあげるから、あの傘を頂戴、と香菜は外の傘立てを指さした。 「……別に、いいけど」 「ありがと。ばいばい」 おつりも受け取らずに、隣の店員の軽蔑するような眼差しも無視して、香菜は外に出た。そして、傘立てで絡まりあう傘を二本とも手に取る。 「あんた達だけでも、一緒にいたいよね」 独り言でそう呟いて、香菜は結局その傘を差さずに帰った。今は、流れてくる涙の原因がわからなかった。 香菜は、それから純白の傘を使わなくなった。代わりに空色の新しいシンプルな傘を買って、純白の傘はコウモリ傘と一緒に傘立てに押し込んだ。もう、思い出さないように。思い出を、傘に全て託すように。 傘が、寄り添っている。 お互いを阻んでいた格子もないその傘立てで、隙間もないほど身を寄せ合っている。 昔の恋にしがみついたまま、今日も傘は寄り添っている。 |