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夢と勇気と恋心

 深く息を吸って細く吐き、浩司は空っぽの左手をじっと見つめる。
「平松浩司はインターハイ予選でベンチに入れる」
 呟いた瞬間、存在しないはずの重みが左手の中に生まれた。
 どこからか溢れ出した赤い砂が指の隙間をさらさらと音もなく抜け落ちていく。風に舞った砂は虚空へと消え、再びどこかへと姿を消した。
 そうか。やっぱり……そうだよな。
 心の中で小さく嘆息した浩司は軽く右手を上げ、ハイタッチを交わした。
 一本の白いラインを越え、コートへ入る。
 踏みしめた土の感触がスパイクを通じて伝わってきた。常峰高校サッカー部に入部して二年と一月、浩司がフィールドに立つのは六度目になる。
「残り二十分だ。気合入れていこーぜ」
 ボールを右腕に抱いた主将、佐藤隆文が声をかけてきた。青のユニフォームが似合う背の高い男は中盤の司令塔で、まさにチームの要だ。
 両手で頬を叩いた浩司は「わかってる」と頷き、駆け出した。
 公式戦ではない。しかし、重要な試合だ。
 この試合の後、インターハイ予選のレギュラーとベンチ入りが発表される。三年生の浩司にとっては最後のチャンスになる――はずだった。
 けれどもう、レギュラーにはなれない。
 そしてもう、ベンチ入りさえできない。
 それは絶対的なことであって、覆りはしない。手から零れた赤い砂が確かな証しだ。
 呟きとともに浩司は予知能力の一種を発動させていた。
 念じて呟いたことが未来において決して実現しない時、浩司の左手の中には赤い砂が現れる。少しでも実現する可能性があるのなら、砂は現れない。
 砂漠の砂のように乾いた赤い砂は、シンプルに不可能だけを告げてくるのだ。
 小学生の浩司がなんの捻りもなく“赤の未来”と名付けたこの能力は、今の今までただの一度たりとも外れたことはない。
 だから、浩司にとってこの試合は本当にただの練習試合になってしまった。
 なのに、胸は高鳴る。
 浩司がサッカーを好きになったのはワールドカップ最終予選を見た時からだ。
 同点で迎えた最終決戦の延長。一点を先に取ればワールドカップへの扉が開く状況で、日本代表は円陣を組んだ。本当の意味での日本代表の輪だった。
 遠い外国のスタジアムを青一色に埋め尽くしたサポーターの大きな声援が響く。
 日本からテレビを通して見守る浩司たちの想いも届いた。
 そして、日本代表は勝った。勝利を願ったすべての人の想いが一つになった気がした。気のせいかもしれないけれど、子供心に確かな勇気をもらった気がした。
 僕も勇気を与えたい――少し大人びていた浩司はそう思った。
 自然とサッカーをはじめた浩司は中学、高校とサッカー部に入った。高校は進学校だったが、同学年の部員はかなり多い。
 去年のインターハイ後、新チームになっても浩司は公式戦のベンチには入れなかった。
 そして今、浩司にとっては本当の意味で高校最後の試合を迎えた。
 絶対に、一点取るんだ。
 フォワードのポジションについた浩司が決意を胸に刻んだ瞬間、再開のホイッスルが鳴った。コート内に戻ったボールがパスで繋がれていく。
 ほんの少しだけ自信のある足を活かし、浩司は右サイドから中央へ切れ込んでいった。
「コージ!」
 味方の声はほとんど耳に届かない。左から飛んでくるボールだけに意識が集中する。
 走りながら、浩司は右の太ももでトラップしようとした。が、重く強いボールの勢いを、浩司は消しきることができなかった。  
 地面に落ちたボールは浩司のコントロールできる範囲外に転がる。
 秀でたダッシュ力で、詰めてくる相手ディフェンダーより早くボールに触れる。
 シュート? けどっ。
 開けたシュートコースはそれほど広くない。一瞬の迷いの後、浩司は顔を上げて首を左右に振った。視界の端にフリーの味方が映る。
 急ブレーキをかけながら、浩司は即座にパスを選択した。
 が、浩司の視界の外から飛び込んでくる影――相手ディフェンダーはあっさりとパスカットし、前線へボールを蹴り出した。
「バカ野郎! なにやってんだ! 今のはシュートできただろ!」
 隆文らしき声を聞きながら、浩司は唇を噛んだ。
 大事な場面で浩司の悪い癖が出てしまった。シュートよりもパスを選択しようとしてしまう、フォワードとしては弱気すぎる癖だ。
 悔やむ間もなく、浩司は守備に回った。前線から相手に圧力をかけていく。
 均衡した試合はここまで一対一の同点だった。練習試合ではあるが、お互いに負けたくはない。残り十分を切った試合は一気に熱さを増していった。
 激しく攻守が交代し、浩司は右サイドを何度も走った。
 そして、残り時間三分――隆文が前線で鮮やかにボールをカットした。
 まだスタミナを十分に残す浩司はダッシュする。
 右手を上げた浩司とアイコンタクトを交わした隆文が、間髪入れずに相手ディフェンスラインの裏へとスルーパスを入れてきた。浩司だけが間に合う最高のパスが通る。
 浩司は右足でトラップした。ボールが足元に落ちすぎてスピードが鈍る。
 左斜め後ろから、相手ディフェンダーが追いすがってきた。肩をぶつけてシュート体勢をとらせないようにしてくる。
 パス? けど、最後なんだ!
 コートに入って、浩司はまだ一度もシュートをしていない。このまま終わりたくはなかった。この試合が最後なのだ。次はない。
 この……負けるかっ。
 気合を込めた左足で踏ん張った浩司は体を斜めに倒して相手の体を押し返した。
 右足を思い切り振り抜く。
 白い糸のように伸びたボールはまっすぐにゴールの右隅へ――突き刺さった。
 吹かれたホイッスルが五月初旬の高い青空に響く。
 声にならない叫びをあげて、浩司は右拳を胸の前で強く握りしめた。
「ナイス!」「よくやった!」
 集まってきた味方に揉みくちゃにされ、浩司は地面に倒れた。土の味がする。
 やった。勝つぞ。勝つんだ!
 起き上がって自陣に引き上げながら、誰よりも強く思う。もしかしたら、引退を決意した選手の心境にも似ているかもしれない。
 キックオフの笛が鳴ると、相手は同点を目指して強引に攻めてきた。
 勝っている試合の残り時間は長い。
 常峰高校のディフェンス陣は体を張って相手のドリブルを、シュートを止める。浩司も守備にまわり、懸命にプレッシャーをかけた。
 そして、審判の吹いた長いホイッスルが試合の終わりを告げる。
 試合は二対一で常峰高校が勝った。朝から全部で三回行った練習試合の勝敗も常峰高校の二勝一敗にあり、勝ち越しで終わった。
「おまえのおかげで、PKまでしなくてすんだぜ」
「あのシュート、ロナウドクラスだったな!」
 コートサイドのベンチに引き上げる浩司に部の仲間が祝福の一撃を入れてくる。
 最後の試合、飾れたな。
 少し切ない想いを胸に秘めて、浩司は一番端に置いてあった自分の荷物に近寄った。土の上に座って、生温いスポーツドリンクをカバンから取り出す。
「おめでと。平松くんのゴールが決勝点だね」
 不意に陽射しを陰らせたのは、ジャージ姿の橘岬――同学年のマネージャーだ。
 肩まで伸びた黒い髪を風に揺らした彼女はすっと手を浩司の前に出してくる。握られていたのは結露した一本のペットボトルだった。
「これ、MVPの賞品です」
 悪戯っぽく笑った岬はペットボトルを浩司のおでこに当てた。
 冷たい。
 部にクーラーボックスはないから、岬が持ち込んだものだろう。素直に受け取った浩司は頬の汗を拭って「ありがとう」と言った。
「それからもう一つ、おめでと」
 そう言って岬がは指を一本立てた。浩司は意味がわからず訝しげに眉をひそめる。
「あれ、知らなかった?」
 小首を傾げた岬は目を瞬かせて浩司を見てくる。
「えっと、さっきのゴールが平松くんの初ゴールなんだよ。だから、おめでと」
 岬の瞳はまっすぐで、その声は透明だった。嫌味などではなく、本心から浩司の初ゴールを、二年と一月かけたゴールを祝ってくれている。
「そっか。初ゴールか。少し思い出ができたかな」
 浩司が目を細めると、岬は少し不満そうに眉頭を上げた。
「えー。まだ終わってないよ、あのシュートなら、きっとベンチ入りできるよ」 
 言葉の最後で微笑んだ岬は「じゃあ、仕事しなきゃいけないから」と告げ、くるりと浩司に背を向けた。小柄な体を弾ませるようにして仕事に戻っていく。
 僕の、初ゴールか……初、ゴール。
 最初で最後のゴールを思い起こし、浩司は岬の言葉が心に沁みるのを感じた。自分が忘れていたことを伝えてくれたことが、妙に嬉しかった。

 レギュラーとベンチ入りの発表があって――浩司の名前は呼ばれなかった。

   ◇

 土曜日の午後、市立図書館にある学習室の席は六割くらいが埋まっていた。茶色の会議机が並ぶ部屋は空調が効いていて、夏でも冬でも快適だ。
 休みの日、午後になると浩司はいつも必ずここにきて参考書を広げていた。
 自宅にこもって一人で黙々と机に向かうよりも、皆が勉強している雰囲気の中にいるほうがなんとなく効率があがる。家からは少し時間がかかるが、自転車を走らせている間にも英単語を覚えているので時間は無駄にならない。
 ふぅ。休むかな。
 集中して数学の問題を解いていた浩司は一息ついた。顔を上げると、幾つもの丸まった人の背中が目に飛び込んでくる。それは見慣れた光景だった。
 学習室にくる顔ぶれはあまり変わらず、暗黙のうちに座る席が決まっている。
「ふぁ……ちょっと眠いな」
 欠伸をした浩司の定位置は一番後ろの列の最奥だった。前にも横にもほとんど人が座ることのないその席を、浩司は気に入っている。
 軽く筋を伸ばす運動をして、浩司は窓の外に目をやった。
「平松くん」
 突然背後から声をかけられて、浩司は振り向いた。カバンを肩にかけた岬が、ノートと参考書、筆記用具を手に持って立っている。
「マネージャーも、受験勉強?」
「もうマネージャーじゃないよ。先週までで、終わっちゃった」
 即座に否定した岬は制服姿だった。赤の可愛らしいワンポイントリボンが着る人を選びかねないデザインの制服だが、岬にはよく似合っている。
「チャンス、活かせなかったのが痛かったね」
 先週の日曜日、インターハイ予選二回戦で常峰高校サッカー部は逆転負けを喫した。
 夏がくる前に夏は終わり、浩司たちは受験に向けて専念しはじめている。進学校である常峰高校では毎年のことで、ほとんどの部が同じだ。
「平松くんがいたら、よかったのに。あの時のシュートみたいに裏に走って――」
 言いかけて、岬ははっと気づいたように言葉を止めた。
「ごめん。平松くんにはあんまり楽しくない話題だよね。わたし、ダメだよね。あの時もベンチ入りできるよなんていい加減なこと言っちゃったし……」
「いいって。ベンチ入できないのは最初からわかってたことだから」
「わかってた? あんなにいいシュート決めたのに?」
 大きく首を傾げた岬は不思議そうに小さく口元を歪めた。浩司があまりにもはっきりと断言したからか、疑問に思ってしまったらしい。
「ん……ああ、ちょっとしたおまじないでさ。僕、そういうの信じてるんだ。変かな?」
 本当のことを言えない浩司は適当に誤魔化した。
「うーん。意外かも。頭いいからそういうの信じないタイプに見えるよ」
「あはは。頭がいいのは関係ないって。いや、それに僕はそんなよくないし……マネ――橘さんは不思議なこと、例えば占いとか信じてる?」
「わたしは都合のいいことだけ信じちゃうタイプ。だから、今日は信じてる」
「今日は? いい占いだった?」
 浩司が訊くと、はにかみ気味の笑顔になった岬は意味深な目を向けてきた。
「新しい場所で未来を開く人に会えるでしょう――って、テレビで見たの。新しい場所っていうのはきっとここ。初めてだから」
 岬の言葉を受けて、浩司は眉をひそめて自分自身を恐る恐る指差した。
「えっと……午前中からずっと一人でしてたんだけど」
 持っていた参考書を脇に挟んだ岬は両手を合わせて浩司に祈りを捧げだした。
「どうしてもよくわからない場所があるの。数学の数列なんだけど、そこがわからないと進めなくて。もし平松くんが迷惑じゃなかったら――」
「もちろん、いいよ」
 言葉を遮るように浩司が言うと、岬の顔はぱっと明るくなった。
「ほんとにほんと? 迷惑じゃない?」
「全然。教えるのってものすごく自分の勉強にもなるんだ。それに、部活で橘さんにはたくさんお世話になったしね。恩返しくらいしないと」
 笑って答えた浩司は「小声で少しなら迷惑にならないしね」と付け加えた。
「声かけるの迷ってたの。占い信じてよかったぁ」
 胸を撫で下ろした岬はカバンを置いて隣の席に座った。シャープペンとノートを準備した岬は参考書を手にし、付箋の貼ってあったページを開いた。
「この問題なんだけど、解説読んでもどうしても理解できなくて」
「あー、これか。これはさ、僕も詰まったんだ」
「嘘ぅ。平松くんも?」
 目を丸くして驚く岬を見て、浩司は自分の参考書を手に取った。
「へー。平松くんもこの参考書なんだ……なんだかすごい使い込まれてる感じ」
 感心する岬はぱらぱらと捲る時に親指が触れる参考書の小口を見ていた。手垢で黒く変色しているさまは費やされた時間をそのまま示している。
「わたしもそんなになるまでできたら受かりそうなんだけど、難しいかなぁ」
「これしか使ってないから、自然になるだけっしょ」
 軽く肩をすくめた浩司は、岬が開いているページと同じページを開いた。
「ほら、赤いっしょ? ん……」
 マーカーが引かれた解説文を示した浩司は、岬の口元が綻んでいるのに気がついた。その表情はなんだかお気に入りを見つけたような顔だ。
「僕、なんかおかしい?」
「え? あ、ごめん。その『しょ』って言い方がなんかいいなーって思って」
 顔を曇らせた浩司に、岬は屈託ない笑顔を見せてきた。
「ふーん。北海道の方言らしいよ。母方がそっちの出だからかな?」
 大きくどきりと跳ねた胸の鼓動を隠して、浩司は軽く応えた。ぱたりと自分の参考書を閉じて「さ、解説するよ」と言った。


「こーゆーとこは初めてだな。なんかものすごっくそわそわする」
「そう? 慣れれば落ち着けるよ」
 浩司と岬がいるのは、セルフサービスのカフェだった。市立図書館の最寄駅にあるカフェはしゃれた感じで、解放的な雰囲気だった。
 ガラス一枚隔てた外では、梅雨の長い雨が今日もしとしと降っている。
 これはデートではない。岬が言い出した「お礼」だ。
 浩司が岬と初めて会って以来、岬も毎週末に学習室にくるようになった。約一ヶ月が過ぎた今、浩司の隣の席は既に岬の定位置になっている。
 隣同士に座る二人だが、挨拶以外の無駄な世間話はほとんどしない。
 お互いの存在が刺激しあって、二人は集中できるようになっていた。
 日に一回か二回、岬が自分一人で頑張ってもわからないところを質問してくるが、浩司にとっては理解の確認になるだけでなく、気分転換にもなって一石二鳥だった。
 いつの間にか二人は自然とよい勉強仲間になっていた。
 そして今日、岬が「勉強を教えてもらったお礼がしたい」と浩司を誘ったのだ。
 カッパを着て図書館に来ていた浩司は、岬の傘に入れてもらいながら自転車を押し、ここまで一緒に歩いてきた。
「えっと、やっぱり迷惑だった? 勉強、遅れちゃうし」
 浩司が黙ってアイスカフェラテを飲んでいると、岬が心配そうに訊いてきた。
「そんなことない。こんなところにくるチャンスなんてないし、勉強も遅れないよ。メリハリしっかりつけた気分転換は必要だしね」
 真顔で答えた浩司はプラスチックの使い捨てコップをテーブルに置いた。
「平松くんは真面目だね」
「それは心外だよ。仮病で学校サボったこともあるしさ。徹夜でワールドカップ観て、めちゃくちゃ眠かったから、親に頭痛いとか言って」
 浩司が真剣に否定すると、岬は一瞬堪えてから「ぷっ」と噴き出した。
「サッカー、好きなんだね。部活の時も部で一番ってくらい熱い顔してたし」
「実力はなかったけど……好きだよ」
 浩司が少しだけ言葉を濁らせながらも肯定すると、岬の表情に嬉しそうな光が差した。自分のアイスカフェラテを一口飲んで、岬は訊いてくる。
「一番好きな選手は誰? フォワードだからやっぱりフォワードの選手なの?」
「うん。フォワードだね。けど、人とはたぶんちょっと違うんだ」
 浩司が答えをはっきり言わないでいると、軽く口を尖らせた岬は「教えてよー」と睨みつけてきた。教えなければ、退かない構えだ。
「僕が好きなのは岡野。ワールドカップを決めるゴールをした――」
「嘘ぅ」
 浩司が最後まで言い切る前に、岬は驚きの声をあげた。誰もが似たような反応を見せることを経験している浩司は顔をしかめた。
「だから、あんまり言うのは好きじゃないんだ」
 そっぽを向いた浩司の袖を引っ張って、岬は浩司に再び正面を向かせた。
「あのね。わたしもなんだよ。一番好きなのは岡野選手」
「え? 嘘だろ」
 表情を固まらせた浩司はそれ以降の言葉を失った。それだけ岬の言葉は意外だった。はっきり言って一般的な選択ではない。
 浩司が何も言えずにいると、岬は目を輝かせて好きな理由を説明しはじめた。
「あのゴールはカッコよかったよね。わたし、すごく感動した。足が速いだけってよく言われちゃうけど、反対にそれってすごいことだと思うの」
 やっと会えた唯一の理解者に対するように、岬の勢いは止まらない。
「それでね。高校の時はちゃんとしたコーチもいないサッカー部に入ったの。チームメイトも不良みたいな人ばっかりだったんだけど、みんなで頑張って名門って言われるまでにしたんだよ。わたしと同い年の頃に――すごいよね」
 息継ぎのタイミングで、岬は浩司の顔を見て言葉を止めた。
「……平松くんも、知ってるよね?」
 首を引っ込めて小さくなった岬は怯える子猫のように訊いてきた。
「うん。僕が好きな理由もだいたい同じ。僕の場合は、僕も足だけ少し速くってちょっと似てるかもって思うからってのもあるけど」
「ごめん。好きなら知ってて当たり前なのに、一人で勝手に盛り上がって……」
「いいさ。僕も同じ人が近くにいて嬉しかったから」
 申し訳なさそうに身を縮こませる岬に対して、浩司は頬をかいて照れを隠した。それから、浩司から話題を変えた。
「橘さんは大学に行ってもマネージャーするの?」
「うん。きっとする。サークルじゃなくて、部のマネージャーしたいなって思ってるよ」
 浩司の思っていたとおりの答えが返ってきた。岬は相当サッカーが好きらしい。
「平松くんはしないの?」
「したいんだけど、たぶん実力と時間がないんじゃないかな」
「実力はなんとか――ごめん、またいい加減なこと言っちゃう。でも、平松くんの足なら十分通用する場面があると思うよ。これはほんとだよ?」
 ベンチ入りできると言った時のことを思い出したらしい岬が、お世辞ではない本心だと念を押してくる。元マネージャーらしいというより、岬らしい気遣いだった。
「ありがと。時間があれば実力がないのを承知で入るよ。少なくともサークルには、ね」
「時間って……どうして?」
「医学部だとね。授業がけっこう詰まってるらしいんだ。兄貴も苦労してる」
 開業医の家に生まれた浩司には三つ上の兄が一人いる。今は一人暮らしをして大学の医学部に通っている兄も、そして浩司も、医師を目指すのは半ば必然だった。
「ふーん。やっぱりお医者さんって大変なんだ。サッカー好きなのに、ちょっと残念」
「いいんだ。最後の試合でゴールも決めれたし、悔いはないよ」
 浩司の言葉は嘘だった。好きな道に入れない自分を悔やまないはずがない。厳しい現実と成長した理性が、浩司に分別のあるフリをさせているだけだ。
 できるならこのままサッカーを続け、いつか日本代表になってピッチに立ちたい。
 最高のフォワードになって、勇気を与えられるゴールを決めたい。
 けれどそれは、子供の夢だ――誰にだって夢をあきらめる瞬間がくる。ほんの一握りの選ばれた人を除いて、必ず訪れる瞬間だ。
「それに医者だってやりがいのある道だよ。目指すことができる僕はたぶん、幸せさ」
「平松くん、大人だねー」
 笑った岬は浩司のおでこをとんと突つくマネをした。笑い返した浩司の胸は少しだけちくりと痛んだ。まだ大人になりきれていない痛みだ。
「橘さんは大学どこに行くつもり? あ、言いたくないならいいんだ」
「T大。まだD判定だから頑張らないといけないなぁ」
 岬がため息混じりに言ったT大はかなり上位に分類される国立大学で、この地方では二強の一角になる。偏差値で言えば、六十を超える大学だ。
「橘さんの頑張りなら十分合格できるよ。一歩一歩さ」
「うーん。そう言われると嬉しいかな。でも、やっぱり不安だよー。うー」
 軽く言った浩司の言葉を受けて呻いた岬は、ぱたりとテーブルの上に突っ伏した。その拍子に岬の左手が浩司の右手に触れる。
 顔を伏せたまま、岬は動かなくなった。静かに肩だけが上下している。
 今、浩司が岬の小さな背中から感じるのは疲れと不安だった。普段岬が見せていた表情は受験勉強の重圧を隠した表情だったらしい。
 僕はなんて無責任なんだ……
 簡単に「合格できる」と言ってしまったことが、浩司を暗い気持ちにさせていた。
 だから、岬の合格する可能性に対する根拠を求めようとした。
 浩司がじっと見つめる先は岬の左手だった。自分の右手と触れている細い指先だ。
 触れている相手ならば、浩司の“赤の未来”は発動できる。浩司自身の未来でなくとも、他人の未来であっても赤い砂は不可能だけを告げてくれる。
 浩司なりの計算があった。岬はD判定を取り、ずいぶんと頑張っている。不可能である可能性はほとんどない。それなら、不可能でないと確証を得たい。
 確証を得て、岬にはっきりともう一度「十分合格できる」と言いたかった。
 岬に気づかれないように、浩司は左手をテーブルの下に移動させた。触れている相手には赤い砂が見えてしまうからだ。
「橘岬は受験でT大学に合格できる」
 岬に聞こえない小さな声で、浩司は呟いた。 
 そして――左手の中から赤い砂が零れ落ち、床に到達する前に宙に消えていった。発動した“赤の未来”ははっきりと不可能を告げた。
 な……ん、で?
 焦る胸中で、浩司は言い訳を探した。すぐに見つけ、行動に移す。
「橘岬は受験でH大学に合格できる」
 二強のもう一方の大学で“赤の未来”を発動させた。赤い砂は現れない。念のためもう一つ、首都圏の高偏差値の大学でもやってみる。手の中は空のままだ。
 安堵のため息を漏らした浩司は岬の指先に触れていた右手をそっと引いた。
「大丈夫だって。きっと合格できるよ」
 別の大学だけれども、いい大学にとの意味を込めて浩司は言った。
 今は岬のモチベーションのためにも言えないけれど、いつか岬の実力があがってきた時に別の大学を勧めれば、きっと岬は望む大学に合格できる。
「そう、かな? 平松くん、わたしが合格できるくらい教えてくれる?」
「僕なんかでよければ、もちろんさ」
 顔を上げた岬に、浩司は強く頷いてみせた。二人の顔に陽の光が差す。いつの間にか雨がやんで、雲の間から青空が覗いていた。

   ◇

 七月も下旬になると学校の廊下にはいつも夏特有の重い空気が澱んでいる。
 本来なら一昨日から夏休みに入っているが、進学校である常峰高校には前半と後半のそれぞれ一週間が補習授業期間になっていた。
 だから終業式を終えても、校内はまったく変わることがない。
 暑さが最高になる昼休み、浩司は中学からの悪友である飯塚俊彦と歩いていた。右手には水筒と購買で買ったパンの入ったビニール袋が握られている。
 首筋にじっとりと汗を感じつつ、二人はいつもの場所へ向かっていた。
「あ、平松くん」
 角を曲がったところで反対側から歩いてきた岬に声をかけられ、浩司は「やあ」と手を上げて足を止めた。俊彦も合わせて立ち止まる。
 学校では誰か友達といることが多い岬は、珍しいことに一人だった。
「お弁当忘れちゃったから、買いに行くところなの」
 舌をぺろっと出して、岬は自分の失敗を告白した。 
 友達とお昼にしようとして、岬は初めて気がついた。友達は先に弁当箱のふたを開いてしまい、岬は一人で購買に向かうことになった――浩司は勝手にそう納得した。
「えっと、おめでと。期末テスト、二番だったね」
「ありがとう。橘さんこそ、ちゃんと成績上げてるっしょ」
 進学校である常峰高校では、テストと名の付くものはすべて、その結果が学年全体に発表される。浩司はなんとなく岬の成績も見ていた。
「平松くんのおかげ、かな?」
「お互いさまってやつじゃない? 僕の成績も橘さんのおかげだよ」
「そうかな? えへへ、お役に立てて嬉しいです」
 おどけた調子で、岬は照れを隠した。それからひらひらと手を振って「またね」と言い、購買の方へ去っていった。
「今の、橘岬だろ?」
 歩き出した浩司の一歩前に出るように足を速めた俊彦が訊いてくる。
「そうだよ。なんで知ってるのさ?」
「去年の文化祭、企画でインタビューしたからな。常峰高校のヒロインに訊くってやつだ。先輩のくっだらねぇ発案だったけど、無理矢理やらされた」
 愚痴る俊彦は放送作家を目指していて、現在は部員五人の放送部に所属している。
「ヒロインって、どんな基準なんだか」
「きっちりアンケート取ったじゃねぇか。橘は同学年で三番目だったか」
 言われてみれば、浩司も記入した記憶がある。特に書くべき相手がいなかったから、クラスで目立っていた子の名前を書いたはずだ。
「インタビューした中じゃ、すげぇ好印象だったぞ。笑顔がいいよな」
「確かに橘さん、明るい顔が似合うよね」
「好きな食べ物はみかん。好きな色はグリーン。夢は深谷グリーンズに入社したいって言ってた。あれはサッカー部マネらしい、いい答えだった」
 深谷グリーンズは地元のサッカークラブで、今はJ2の下位に低迷している。
「ま、小さいクラブだからまず新入社員はとらなくて、厳しいけどな」
 俊彦はインタビューの後、しっかりと内容を調べたらしい。浩司にとって悪友以上に親友である男は気分屋で適当なところもあるが、根は真面目な男なのだ。
「好きな選手は岡野だったぞ。かなーり珍しいよな。ん? コージと一緒だな」
 俊彦は岡野のことまで知っていた。インタビューはずいぶん深いものだったらしい。しかし、岬は嫌な顔一つせずに朗らかに答えただろう。
 グリーンズか……夢のことは知らなかったな。
 岬の新しい一面を知った浩司は心の中で自分が知っていることを並べてみた。
 得意教科はなしで、苦手は数学。アイスカフェラテが好き。浩司の家から自転車で十分くらいの場所に住んでいるが、学区の関係で中学は別。犬より猫派。自宅がペット不可のマンションだから、ペットショップで猫を眺めて和んだりする。
 他にもいろいろ、いつの間にか浩司は岬のことを知るようになっていた。
 橘さんとけっこう話したんだな。
 しみじみと思う。先週も気分転換にと二人で駅前のカフェに行ったのだ。
「――を忘れてない人……って、コージ。てめぇ、ぜんっぜん聞いてないだろ」
「そりゃ聞かないさ。トシの言ったことはだいたい知ってるしね」
 文句を言ってくる俊彦をやぶ睨み気味に見やり、浩司はげんなりした顔をした。
「そいじゃ、最後だ。人気はあるのに、彼氏はいない――って、まさか」
 急に足を止めた俊彦が意外そうな表情を固めて浩司を見てくる。つられて立ち止まった浩司は、その視線に含まれた意味を一瞬だけ遅れて理解した。
 とくん――なぜだか、浩司の心臓は跳ねた。
 胸を押さえそうになった右手を左手で掴んで、浩司は大袈裟にため息をついた。
「あのさ。そんなわけないじゃないか」
「でも、さっきの会話はなんだ? 元部員とマネージャーってのとはちょい違ったぞ」
「……別に。図書館でよく会うだけだよ」
 変なところに鋭い俊彦に対して、浩司は簡単にいきさつを説明した。偶然に図書館の学習室で会うだけの勉強仲間なったのだ、と。
「ほほぅ。んで、橘とは毎週のように会ってるのか? どーなんだ?」
「んー、橘さんが休んだのは一回だけかな」
 渋い顔で答えながら、浩司は定位置の机の下に置いてあった置き手紙を思い出した。
『平松くんへ。ごめんなさい、今日は午前だけで帰ります。ごめんなさい。橘』
 二度も謝る文面に和んだ記憶が蘇って、くすりと笑ってしまう。小さな淡い緑の便箋に入った書き方に癖のある手紙は今も浩司の家の机の奥にある。
「をいをい。なんだその笑顔は。どー見ても幸せもんの顔だぞ?」
「残念。僕にそんなことが起きると思う?」
「まー、確かにそうだわな。コージにはあり得ねぇ。うむ。俺の経験上絶対ない」
 腕を胸の前で組んだ俊彦は納得の頷きを繰り返した。
「どー考えても向こうから告白してきたってことはねーだろーし、コージからってのもねーだろ。致命的な欠点があるからな――ち。つまんねぇ」
 冷静な分析を展開した俊彦は大袈裟に舌打ちし、意味深な視線を浩司に向けてくる。
「致命的な欠点って、なんだよ」
「こーゆーのは言葉で言ってもダメだ。いつか助けてやるから待ってろ」
 意味不明のことを言ってぽんと肩を叩いた俊彦は満足したように歩き出した。ポケットに手を突っ込み、鍵を取り出す。二人の目的地はもうすぐそこだった。
「……トシ、僕のこと思いっきりからかっただろ?」
 追いかけた浩司は恨めしそうに言った。
「気づきやがったか。実は最初からわかってた。佐藤ってやつと噂になってるからな。まだ佐藤がタイミングを見計らってるらしいんだが」
 にやりとほくそ笑んだ俊彦は種明かしをして、鍵をくるくると回した。
 ずきり――なぜだか、浩司の胸は痛んだ。
 痛みを押し殺すように息を吐いて、浩司は俊彦の太ももを蹴り飛ばした。
「ってーな」
 蹴られたところを擦りながら、俊彦はドアの前に立った。プレートには放送室と記されている。月曜日の昼休み、ここは俊彦の仕事場になるのだ。
 鍵を開けて入った俊彦に続いて、浩司もさっと放送室に入った。
 正面の壁は、学校各所に配置された火災報知器やスプリンクラーの位置を示す黒いパネルが占拠している。他にも校門や校舎の出入り口にある防犯カメラのモニタが四セットも設置されていた。一昨年、放送室は防災室も兼ねる改築がなされたのだ。
 ことあるごとに校長が自慢げに設備を語るため、誰もが知る無駄施設になっている。
 そしてその結果、放送室はずいぶん狭苦しくなってしまった。
 けれど、それであってもここは快適だった。特に夏の間は格別と言ってもよい。
 ドアを閉じた浩司はエアコンのスイッチを入れた。低い機械音とともに生暖かい風が吹き出してくる。風はすぐに冷たくなった。
 職員室と体育教官室、そして放送室にだけエアコン設備があるのだ。
「あー、天国天国。毎日でもいいんだがな」
 ちょうど五人の放送部は曜日ごとに昼の校内放送の担当を決めている。月曜日が俊彦の担当になっていて、浩司も冷気のお裾分けを受けていた。
 既に早弁を済ませている俊彦は慣れた手つきで放送の準備をはじめている。
 浩司は入り口横のカラーボックスの上に水筒を置き、パンをビニール袋から取り出した。くすんだ緑のパイプ椅子に座り、足を組んで小さくなった。
「えー。あ、あ。それでは、待ちに待たせたマンデーランチタイムショウ――」
 五日間で最も人気がある月曜日の校内放送が今日も景気よくスタートした。もちろん人気の根拠は先週きっちりとアンケートした結果だ。


 同じ日、帰りの電車で浩司は偶然岬を見つけた。
 二人の友達と一緒の岬は浩司が座っている席とは反対側のドア付近に立っている。彼女らしい明るい表情で楽しそうに談笑していた。
 少しだけ口元を緩めた浩司はいつものように英単語暗記本と睨めっこをはじめた。
 規則正しい音を響かせながら、普通電車は走っていく。
 二つの駅で停車し、やがて三駅目の車内アナウンスが浩司の耳に届いた。金属が擦れる高い音とともに電車が停まったのは市立図書館の最寄駅だ。
 なんとなく顔を上げた浩司は岬の後姿を見た。
 友達に続いて最後に降りようとしていた岬は振り返って手を振ってきた。
 浩司が小さく手を振ると、岬はとんと跳ねるように電車を降りた。
 プシュウ――エアシリンダ特有の音をたてて、ドアが閉じる。電車は走り出し、岬の姿はものの数秒で見えなくなった。
 今日は月曜か。遠いな……あれ?
 不意に頭を過ぎった想いに、そして週末を待ち遠しく思う自分に浩司は戸惑った。
 無意識のままに呼吸が苦しくなって、鼓動が速くなった。
 何か大切なことが心の奥から湧き上がってくる。それは岬の明るい笑顔と重なった。それは岬の透明な声と響きあった。そして浩司は、自分の想いに気がついた。
 そうか。僕は橘さんのことが好きなんだ。
 心の中で言葉にした想いはじんわりと浩司の心に沁みて、静かに胸を熱くした。
 けれど、俊彦の言葉を思い出す。
 サッカー部元主将の佐藤隆文と岬は噂になっている。
 隆文は二年以上同じ部活で練習をともにした仲で、浩司もよく知っている男だ。部をまとめる統率力があって、後輩からも信頼されていた。成績も平均以上だ。
 少し軽めの性格は好みが別れるかもしれないが、悪い性格とは確実に違う。
 もちろん同学年、後輩問わずで女子の人気も高い。可愛い子から告白された話は何度か聞いたことがある。なのに、付き合っている相手はいないらしい。
 俊彦から聞いた岬との噂が初めて――つまり、恋愛にも一途で真面目だろう。
 浩司の知る限り、付き合う相手として申し分はない。
 一般的なことから隆文と岬に対象を変えても、二人はお似合いにしか思えない。
 けど……まだなんだよな。
 浩司はかすかな望みも思い出していた。俊彦は「佐藤がタイミングを見計らってる」と確かに言っていた。二人の仲は正式なものではないらしい。
 それならば、ほんの少しだけ浩司にもチャンスがあるかもしれない。
 英単語暗記本を閉じた浩司は左手を見つめた。
 確かめる術がある。
 けれど――今はまだ“赤の未来”を発動できなかった。かすかな可能性を自分で消してしまうかもしれないことは、浩司にはできなかった。
 あの時はけっこう簡単にできたのにな。どうしてだろう? 変な感じだ。
 最後の練習試合の時には可能性を消すかもしれない行動をとれた。
 なのに、今はできない。唇が動かなかった。
 サッカーは中学、高校と真剣に続け、それなりの納得をもっていたからかもしれないのに対して、淡い恋心は初めての気持ちだからかもしれない。
 まだ何もしてないから、なのかな。違うような気もするけど……
 考えているうちに、電車は次の駅に停まり、そして出発した。
 生まれて初めて乗り過ぎを経験することになった浩司は情けないため息をついた。

   ◇

 ついに夏休みに入った。名目ではなく、本当に学校が休みになる実質的な夏休みだ。それでも受験生には気楽な休みとはならない。
 浩司は図書館に来るのを週末だけと決めた。毎日はリズムを崩しそうだったからだ。
 土曜の午後、いつもの時間――浩司は胸に大きな不安を抱いていた。
 あれからずっと学校でも電車でも岬を見かけることはなかった。想いに気づいてから初めての図書館は、想いを秘めて岬に会う初めての場所になった。
 だから今日、どう接したらいいのか、何を話せばいいのかわからない。
 できるだけ自然にしよう。たぶん、それが正解だ。
 心に決めて、浩司は学習室のドアを開けた。視線の先に岬がいる。浩司の想いを知ることのない岬はにこりと微笑んで片手を上げてきた。
 同じように手だけで挨拶した浩司はすたすたと歩み寄って、定位置に座った。
「今日もよろしく」
「こっちこそ」
 小声に小声で返した浩司は数学の参考書とノートを机の上に並べた。シャープペンを取り出し――そっと横目で岬の表情をうかがう。
 数学の問題集をしている岬はもう集中した表情になっていた。
 負けてられないよな。
 浩司も自分の勉強をはじめる。最初の五分くらいは岬の息づかいまでが気になっていた浩司だが、真剣な岬につられるように集中力を増していった。
 途中、岬の質問を受けても、浩司は自分の想いが気にならなくなっていた。
 岬の隣で、浩司は浩司のままでいることができた。
 どう接したらよいのか不安に思ったことは杞憂だった。自然にしようと心を構える必要もなかった。ただ、確かに胸の鼓動だけはいつもより弾んでいた。
 不思議だけれども、浩司にとっては逆にそれがなんだかとても嬉しかった。
 そうして、土曜日の午後は駆け足で過ぎていった。
 図書館が閉まる時間が近づき、浩司は切りのよいところで参考書を閉じた。ふうと小さく息を吐くと、隣でもぱたりと同じ音がした。
「さて、先生。帰りますか」
 変な言い方をして小首を傾げた岬の仕草にどきりとしながらも、浩司は「そうですね。そうしましょう」と調子を合わせて応えた。
「平松くんって、意外とおもしろいよね。ちゃんと返してくれるの、嬉しいかも」
「そう? 誉められてるのかわからないや」
 笑みをこぼした岬に浩司は肩をすくめてみせた。
「一応たぶん、誉めてると思うよ」
 もう学習室には人が疎らで、しかもその誰もが帰り支度をしていたので、二人は普通の声で話しながら机の上を片づけた。
 一緒に立ち上がってカバンを持ち、学習室を出ていく。
 階段を下りて受付の前を通り、正面玄関を出た。二人はたいていここで別れる。浩司が自転車で岬が歩き、しかも帰る方向が違うからだ。
 しかし、浩司は自転車置き場には向かわず、足を止めた。空を仰いで大きく息を吸う。
「た、橘さん」
 今からカフェに行こうよ――続くはずだった誘い文句は言えなかった。
「どうしてT大なの? H大もほとんど同じだと思うんだけど」
 代わりに出た言葉だったが、無意味な言葉ではなかった。浩司の第一志望はH大学医学部で、岬がH大学を選べば同じ大学に通えるかもしれないからだ。
 それだけでなく、岬が不合格になるという“赤の未来”を避けることができる。
「言ってなかったかな? わたしの志望はT大の法学部だけなんだよ」
 目を瞬かせて立ち止まった岬は指を一本立てて答えた。明るく透明ないつもと変わらない声には、どこか決意の滲んだ響きがあった。
 焦りと不安を感じた浩司は「な、なんで?」と上擦った声で訊いた。
「それはね。グリーンズに就職できる可能性があるからなの」
 少し自慢げに胸を張った岬は「あ」と声をあげて、申し訳なさそうに浩司を見てきた。
「平松くんには話したことないんだっけ?」
「橘さんの夢のことなら知ってる。去年の文化祭でインタビュー受けたっしょ」
 俊彦に聞いたとは言わなかったが、嘘ではない言葉だった。
「あ、そんなこともあったねー。うん、わたしの夢なんだ。サッカーも、グリーンズも好きだから。仕事でずっと関わっていけたら最高でしょ?」
 岬の問いに、浩司は強い頷きだけで答えた。胸に嫌な予感を抱きながら。
 そんな浩司の気持ちに気づくことなく、岬は言葉を続けた。
「T大の法学部に舟橋ゼミがあってね。教授がグリーンズの社長と友達らしいの。しっかり勉強してれば、推薦してくれる可能性があるんだって」
 熱い瞳で語る岬が描く未来は具体的で、普通なら浩司も手放しで応援するところだ。
 けれど――それはできない。
「もうそれしか方法がないみたいなの。唯一の可能性になるのかな」
 岬の言葉はつまり、岬の夢が叶わないことを意味する。
 浩司は痛いほど拳を握りしめた。情けないことに、そうすることしかできなかった。
 岬の夢は浩司が夢見ていた代表選手のような非現実的な夢ではない。けれど、あきらめた末のなんとなく妥協した夢とは確実に違うだろう。
 しかし、岬がT大に進むことは不可能だ。今の頑張りは無駄になってしまう。
 誰かが普通に他の大学を勧めても、今みたいに夢を語って岬はT大を受けるはずだ。落ちても、再挑戦するかもしれない。いや、浩司の中にいる岬ならば必ずそうする。
 なのに、すべては報われない。いつまでも報われない。
 岬を説得できる可能性があるのは浩司だけだ。そして、それは早いほうがいい。遅れてしまえば、岬はショックを受けたまま受験することになってしまう。
 だから今、伝えなければならない。精一杯の勇気を振り絞るのは今しかない。
 意を決した浩司は、カラカラに乾いた重い口を開いた。
「橘さん。橘さんはT大には合格できないんだ。絶対に落ちる。どんなに頑張っても」
「え……え? どういう?」
 突然の言葉に戸惑う岬に、浩司はもう一度「T大には絶対落ちる」と言い放った。
「待って待って待って。どうしてそんなこと言うの?」
「落ち着いて聞いてほしい。僕には変な力が――予知能力があるんだ。だから、橘さんがT大を受けたら落ちるってことがわかる。浪人しても、必ず落ちる」
「……平松くん、そういう冗談はおもしろくないよ?」
 岬の表情がきついものになっても、浩司は退かなかった。岬のために、退けない。
「冗談とは違うんだ。冗談でこんなこと、言わない」
 そう言って、浩司は岬に近づいた。浩司の真剣な様子に何かを感じたのか、岬は半ば色を失って立ち尽くしている。
「ベンチ入りの発表前から僕は知ってたんだ。だからあの時、思い出って言った」
「嘘……とは違うの?」
「そうだったらよかったんだけど、本当なんだ。僕の左手には、僕の言葉が不可能なら赤い砂が現れる。嘘じゃない。手品でもない。何度でもできる」
 浩司は岬の震える左手を右手で握り、自分の左手を岬の前に差し出した。
「橘岬は受験でT大学に合格できる」
 どこからともなく現れる赤い砂が浩司の手の中に溢れる。
 手のひらが一杯になり、砂はさらさらと零れ落ちた。そして、地面に落ちる途中で跡形もなく消えていく。さらさら、さらさら……音もなく、幻のように。
 浩司は砂に紛れて落ちる雫を見た。
 顔を上げる。岬の頬に一筋の跡――涙だ。浩司の言葉を信じた涙だった。


 浩司はいつの間にか家に帰っていた。床に直に座って本棚にもたれていた。
 あの後のことを、浩司はほとんど覚えていなかった。懸命に何かを説明しようとしたような気がするし、一言も言葉をかけられなかった気もする。
 T大合格は不可能だと伝えることはできた。岬は信じて、わかってくれた。
 だからと言って、達成感なんて少しもなかった。
 涙を拭いながら走り去る岬の背中が網膜にこびりついて離れなくなっていた。涙声の「ごめんなさい」という言葉が耳の奥から消えなくなっていた。
 正しいことをしたと思うのに、岬を助けたはずなのに――心は晴れなかった。
 それはきっと、気づいた想いに自分で終止符を打ってしまったからだ。夢を潰してしまった男にチャンスはない。たぶん、ない。
 たぶん? まだ未練がある……?
 気持ちが宙ぶらりんになっているようで、ただ苦しかった。
 浩司はもう楽になってしまいたかった。はっきりとした結果を得て、まだ淡いだけの想いを忘れてしまいたかった。
 だから、空の左手を見つめた。震える声で自分を呪うように、言葉を口にした。
「平松浩司は橘岬への告白でよい返事をもらえる」
 当然のように現れた赤い砂は容赦なく不可能を告げてきた。望んでいた答えを目の当たりにして、浩司は目を閉じた。


 実質的な夏休みである三週間、浩司は一度も図書館に行かなかった。
 と言うより、ほとんど家から出なかった。ただ一度、全国模試を受けるために学校に行った以外は、近所のコンビニが最も遠い外出になってしまった。
 模試の時は教室から出ず、逃げるように帰った。
 後期補習授業がはじまった今日も、浩司は昼休みになるまでずっと教室にいた。
 岬に会うのが、彼女の顔を見るのが怖かったからだ。
「模試の結果、散々だったな。なんかあったか?」
「……別に、たまたまさ。疲れてて調子が悪かっただけだよ」
 投げやりに答えた浩司は俊彦と並んで廊下を歩いていた。手には水筒とビニール袋。今日が月曜日だと気づいたのは、教室に呼びに来た俊彦の顔を見た時だった。
 休みの間、浩司は俊彦にも会っていなかった。誘われても、適当な理由で断っていた。
 一度ケリをつけたはずの想いなのに、くすぶったままだった。
 ずいぶん時間がたったのに、浩司はまだ気持ちの整理がつけられずにいた。
 黙っていればよかった。そうすれば、楽しい夏休みになったはずだ。
 後悔は胸を締めつけるように膨らみ続け、張りつめた風船のようになっていた。岬のためだったと言い聞かせても、無駄だった。
 告白して振られた後、捨て台詞で告げればよかった――暗い考えさえ浮かんだ。
 岬への想いをどう心の引き出しにしまったらよいか、浩司にはわからなかった。
「あのさ……あ、いや。なんでもない」
 俊彦に相談しかけて、浩司は口を閉ざした。俊彦には“赤の未来”を話せない。親友でもそれはできない。岬の時は本当に特別だったのだ。
「なんだよ。俺には言えないような深刻な事態にでも陥ったか?」
「あはは。そんなことにはならないっしょ」
 気にかけてくれる俊彦にありがたみを感じながら、浩司は嘘をついた。
「ほー。まあ、悩める少年は著しく成長するって言うからな」
 ぽんぽんと浩司の肩を二度叩いてきた俊彦に何も応えることができず、表情を陰らせた浩司はうつむいて視線を床に落とした。
 しばらく無言で歩いた二人は放送室へ向かう最後の角を曲がった。
「む……悪いな、コージ。一つ言い忘れてたことがある」
 唐突に神妙な声を出した俊彦は浩司の背中を押し出すように右手を当ててきた。
「今日は俺一人しか放送室に入れないんだった」
 言葉の意図がわからず、浩司は視線を上げて俊彦の顔をうかがった。俊彦の視線はまっすぐに正面を向いていた。浩司はその視線を追って首を回した。
 放送室のドアの前に女の子が一人、立っていた――岬だった。
 思わず足を止めようとする浩司の動きを、背中に回された俊彦の手が邪魔してくる。
「トシ、何するんだよ」
 非難の声をあげるが、真顔の俊彦は取り合ってくれない。浩司は俊彦に腰を抱かれるようにして、ぐいぐいと放送室の前まで押されていった。
 手を伸ばせば岬に触れることができる距離になり、浩司は岬の足元を見つめた。
「よく知らんが、後はよろしくまかせたぜ」
 言いながら、俊彦は放送室の鍵を器用に左手で開けた。浩司に対する右手の縛めを解いた途端、右ボディブローを叩き込んでくる。痛みのない重い一撃だった。
「コージ、逃げるなよ――あ、ちなみにだが」
 ドアを開いて体を室内に滑り込ませた俊彦は上半身だけを廊下側に残した。
「そっちの階段、昼はほとんど人来ないぞ。上が特別教室だからな」
 ばたんとドアが閉じられ、浩司は岬と二人っきりになった。まだ顔を上げることができない浩司の右手が、温かいものに包まれる。
 走り出した岬に引かれるようにして、浩司はすぐ近くの階段まで連れていかれた。
 岬の背中にあの日の背中が重なって見え、胸が痛んだ。
 音のない静かな踊り場まで駆け上がると、岬は立ち止まって振り向いてきた。
 無言のまま、浩司は斜め下に視線を向けた。
「平松くん……ね、平松くん。平松くんってば」
 三回呼ばれて、浩司は体を硬直させた。視界に岬の両手が伸びてきた。そのまま浩司の顔まで近づいて、両頬を抓ってきた。
「いてててってってて、た、ひゃちはなさんっ。いひゃい」
 ちぎれてしまいそうなほどに頬を引っ張られて、浩司は初めて岬の顔を見た。
 口をへの字に曲げて、岬は怒った顔をしていた。
「ずっと図書館来ないし、今日見た模試もひどかったし、教室に行ってもいないし、会ったらうつむいたままだし――もー、すっごく心配したんだから」
 頬から離れた両手を腰に当てて、岬は不満そうに浩司を睨みつけてきた。
 どう応えてよいかわからず、浩司は押し黙った。
 すると岬は後ろで手を組み、体を横に傾けて浩司を見てきた。明るく微笑んで。
「はい。終わり。怒るのはもうおしまい。だって、感謝してるから」
「……え、え?」
「平松くん、あの時のこと気にしてるんでしょ。わたしにひどいことしたって、変に悩んでるんじゃない? 違うよ。ひどくない」
 戸惑う表情を浮かべる浩司を前にして、岬は踊り場を一歩一歩ゆっくり歩き出した。
「最初はね、バカって思った。なんてひどいこと言うんだろうって思った」
 体を揺らしながら、岬は浩司の周りを時計回りに歩く。
「でも、平松くんはわたしのことを想って言ってくれたんだよね。そうじゃなかったら、言わないもの。わたしだったら言えない」
 まるで浩司を慰めてくれるかのような岬の声は、優しく柔らかく浩司の耳に届いた。
「それに、平松くんのおかげでいろいろ考えることができたんだよ」
「……僕の、おかげ?」
「うん。カッコよく夢って言ったけど、深く考えてたこととは違うの。一番いい将来かなって、なんとなく思ってはいたけど、それだけ」
 ほんの少し自嘲気味に首を傾げた岬は浩司の正面でその歩みを止めた。
「平松くんに不可能だって言われて、どうしようか考えたの」
 口を真一文字に結んだ岬は意志の込められた瞳で浩司を見つめてくる。
「そしたら、わたしはやっぱりグリーンズに入りたいんだって、ちゃんとわかった。岡野選手は好きだけどレッズじゃダメ。サッカーに関わるだけでも、ダメなの。一週間かかっちゃったけど、本当の夢なんだって気づけたの」
 浩司と視線を合わせたまま、岬は小さく深呼吸をした。そして、宣言する。
「だから、わたしはT大を受けるよ。やっぱりそれしかないから」
「けど、それは――」
 否定し、岬を止めようとした浩司の言葉は岬の言葉によって遮られた。
「落ちるって知ったからって、簡単にはあきらめられなくなっちゃった。本当に大好きってわかったら止められないんだよ。絶対に」
 岬は自分自身を見つめ、悩み、もう一度調べ直し――そうして、決めたのだ。
「夏休みの勉強頑張って、こないだの模試でB判定までいったよ」
 自棄ではない決意と覚悟が、深い色の瞳に滲んでいた。
「ごめん。僕が……予知なんかしなかったら、橘さんは苦しまなくてもよかった」
「そうだよ。平松くんが悪いんだよ」
 浩司の鼻先に人差し指を一本突きつけて、岬はくすりと笑った。
「あんなこと言わなかったら、T大落ちたわたしはどこか別の大学行ってたかもしれないんだから……でもね、きっといつか後悔してた」
「本当にT大を受けるつもり? 僕の予知は絶対に外れないんだ。だから――」
「わかってる。平松くんがあんなに成績落とすくらいだもの」
 もう一度止めようとした浩司の口を指先で塞ぐようにした岬は口調を強くした。
「でも、自分で確かめたい。確かめてダメでも、また頑張りたい」
 浩司の“赤の未来”を信じた上で、岬は結論を出していた。浩司のように“赤の未来”の絶対的な力を知らないとしても、それには強い心が必要だ。
「わたしは平松くんの予知に挑戦します。勝って、平松くんの辛さを払います」
 突きつけていた手を高く上げた岬は選手宣誓のように宣言した。
「うーん。今のはちょっと恥ずかしかった。なんだかドラマみたいになっちゃったね」
 手を下ろした岬ははにかみながら言い、ほんの少し頬を染めた。
「橘さん……ありがとう」
 無理だとわかっていても、浩司の胸は涙が出そうなほどに嬉しさで満ちた。たった今、抱いていた後悔は霧が晴れるように消えていった。
「にはは、感謝されちゃった。ちょっとお願いしやすくなったかな」
「何? 僕ができることなら、するよ」
「えっとね。まず一つ目は……図書館、来てほしいの。成績、あがったんだけど、数学だけはどうしてもわからないことが多くって」
 両手の指先をくるくると絡めながら上目遣いで見てくる岬に、浩司は頷いて応えた。
「それから、二つ目はね。平松くんにちゃんと成績戻してほしいの」
 がくりと落ちた浩司の成績を心配した岬の言葉に、浩司は強く頷いて応えた。自分のことで岬の心を惑わせるわけにはいかない。
「最後はね。あの不思議な力をもう一度見せてほしいの」
「え? けど、それは――」
 予想外ですぐには応えられないお願いに、浩司は口ごもった。けれど岬は、浩司の影を踏むほどに近づいてきて、左手を差し出してきた。
「必要なの。だって、もしかしたら何かヒントが隠されてるかもしれないでしょ?」
 前向きな岬の言葉に浩司は勇気づけられた気がして、岬の手を取った。
 温かくて柔らかい。
 あの日は感じることさえできなかった感触に胸の鼓動が速くなる。それを隠して、浩司は細く息を吐きながら左手を胸の前に持ってきた。
「もう一度だけ訊くよ。本当に、いい?」
「うん、大丈夫。わたしも何か感じないか集中するから、平松くんもしっかりね」
 真剣な面持ちで言ってくる岬に頷いて、浩司は意識を左手に集中した。
 今までただ一度も“赤の未来”のカラクリを調べようと思ったことはない。だから岬の言うとおり、何かを得ることができるかもしれない。
 二度深呼吸をして、浩司はあの日と同じ言葉を口にした。
「橘岬は受験でT大学に合格できる」
 左手の中に――赤い砂は、現れてこなかった。二人の見つめる先で、浩司の左手はいつまでも空のまま、ただかすかに震えていた。
 お互いの息づかいだけが聞こえてきて、浩司は耳の奥が痛くなるのを感じた。
 やがて、半ば呆然とした表情の岬が浩司の顔を見てきた。
「ね、その……したの? 終わった、の? こんなに長くかかるの?」
「した。確かにしたよ。感覚でわかるんだ。それは間違いない。けど、おかしい。こんなに遅れることなんかなかった。これは――」
 目の前で起きたことの意味を知った浩司は、左拳を握りしめた。
「そうだ、そうだよ。不可能なことじゃないんだ!」
「ほんと? わたし、T大に合格できる?」
 目を見開いて訊いてくる岬に、浩司は何度も「できる」と頷いた。見る見るうちに岬の表情が明るくなり、その目尻から雫が零れ落ちた。
「平松くんっ!」
 歓喜の声をあげた岬は弾むように浩司の胸に飛び込んできた。
 抱きつかれた浩司は両手の行き場を失って、息を止めた。岬の背に腕を回すようなことはできない。激しい動悸を抑えようとするのに精一杯だった。
「あ……ごめ、んなさい」
 我に返ったらしい岬は浩司から離れ、照れくさそうに謝ってきた。
「いいよ。僕の胸ならいつでも貸せる」
 浩司が冗談っぽく言うと、岬は「バカ」と両手で浩司の胸を突き放した。二歩後ろに下がって、目を閉じていーっと白い歯を見せてくる。
「すごいよね。もう挑戦に勝っちゃった。橘さん、すごいや」
 浩司が感心したふうに言うと、岬は首を横に振った。
「すごくない。予知が変わったのは、きっとわたしが変われたから。でも、それは平松くんのおかげだと思う……うーん、なんか恥ずかしいことばっかり言ってる」
 困ったように眉頭を少し上げた岬は口を尖らせた。
「普通は変われないよ。僕は今まで一度も変われなかった。誰も変われなかった」
「今まで、でしょ? これからは違うよ――って、もう。だから、恥ずかしいよ」
 そっぽを向いた岬は「お昼休み終わっちゃうね」と気恥ずかしさを誤魔化すように話題をいきなり変えてきた。お腹に軽く手を当てて、浩司を見てくる。
「んと、まだお昼食べてないから行かなきゃ」
 浩司の言葉を待つことなく、岬はくるりと背を向けた。髪を揺らしながら階段を一段飛ばしで下りると、振り返って見上げてくる。
「平松くん、ほんとにありがと。また図書館で、ね」
 澄んだ声で言った岬は小さく手を振ってからぱたぱたと走り去った。
 一人踊り場に残された浩司は左手を見つめ直した。
 赤い砂が現れないということは可能性があるに過ぎない。もしかしたら一パーセントもないかもしれない。けれど、今はそれでも十分だった。
 穏やかに戻っていく心臓の鼓動を感じながら、浩司は階段を下りた。
 廊下は静かだった。
 ……トシのやつ、変に気を利かせたな。
 本来なら、軽妙な月曜日の校内放送がスピーカーから聞こえてくるはずだ。俊彦がこの棟だけスピーカーのスイッチを入れ忘れるとは思えない。
 親友の気遣いに感謝しながら、浩司はビニール袋片手に一人で教室へ戻っていった。

   ◇

「――ってわけで、今日のラストはラブソングでお別れだ」
 残暑も消えゆく九月中旬の月曜日、浩司はいつものように放送室で昼食をとっていた。エアコンの恩恵は減ったが、慣れた居場所は心地よい。
 マイクのスイッチを切った俊彦が大きく背伸びをして、首をコキコキさせている。
「トシにしては珍しい曲かけるね」
「まーな。一昨日フラれちまった哀しみを表現してみたってとこだ」
 さらりと言った俊彦だったが、両手で頭を抱えて「だーっ」と叫びながら頭を上下しだした。しばらくして、糸の切れた操り人形のようにがっくりと頭を垂れた。
「なんか、大変だったみたいだね」
「まーな。なまじ二年とか長く付き合ったから、意外とこれがショックでけーんだよ」
 ため息とともに顔を上げてきた俊彦は浩司を下から睨み上げてきた。
「ち。幸せそうな顔しやがって――あん時の死にそうな顔とは別人じゃねーか」
「ん……何を言ってるのさ?」
 浩司が目を細めて眉間にしわを寄せると、俊彦は「何をだとぅ?」とすごみながら両手を伸ばしてきた。浩司の首に手をかけ、締めつけてくる。
「橘岬とうまくいってるらしーじゃねーか。きっちり耳に入ってるぞ」
「ト、シ……そん、なんじゃな――いって」
 手の首輪を外そうとして外せなかった浩司は俊彦の脇の下に手を差し入れた。攻撃方法はもちろん、くすぐりだ。俊彦は耐えられないと、知っている。
「ひゃ、ふぁっ。それは反則、だぞ。ひゃはは」
 悶えだした俊彦の手が緩む。浩司はくすぐるのを止めて身を引き、拘束から逃れた。
「――ったく、何を言い出すかと思ったら」
「はぁはぁ、死ぬかと思った……なぁ、まさかと思うがマジでなんもないのか?」
「ない。図書館で会うだけなのは、変わらないよ」
 駅前のカフェに行くことはあるが、あくまで図書館の後の気分転換だ。浩司と岬の関係は何一つ変わっていない。二人の成績だけがきちんと上昇している。
「相変わらずなやつだな。なんでだよ?」
 俊彦は浩司の気持ちには完璧に気がついているようだ。だから、質問の意図は「なぜ告白しないのか」ということだ。
「なんでもなにも、可能性がないことをするわけないじゃないか」
「可能性がないって、誰が決めたんだ?」
 断言した浩司に対して、俊彦はやぶ睨み気味な視線を向けてきた。浩司にははっきりとした根拠があるが、言えるものではない。
「僕が決めた。少しは知ってるのさ。どう考えたって今は隆文の方に脈があるだろ?」
「隆文? ああ、佐藤か。確かに学校じゃ佐藤の方が仲よさそうだ」
 岬と隆文は同じクラスで、以前俊彦が言っていたように噂になっているくらいによく話をしているらしい。浩司もそれは知っている。
「だがな、俺が見たところ五分五分だぞ? 早いもの勝ちってとこだ」
「……橘さんは誰かを特別好きってことはなさそうだよ」
「そーだな。佐藤からの気持ちらしい。だがな、強い気持ちは人を変えるぜ?」
 俊彦の言葉にどきりと心臓が大きく跳ねた。岬の想いは岬自身を変えた。親友の言葉は間違いではないと、浩司は知っている。
 それでも今はまだ安心だ。もともと時期を選んでいるらしい隆文なら今を選ばない。
「今は受験が優先。僕も橘さんも。隆文も同じはずさ」
「ち。優等生らしい答えを返しやがる。うだうだしてると、チャンスは消えるぞ?」
 俊彦の言葉に浩司は「考えとく」とだけ返した。けれど、今は絶対に行動を起こす時ではない。受験だけの問題ではなく、今はまだダメだ。
 浩司の“赤の未来”は告白が成功することはないと告げたままだからだ。
 あれから二度発動させても、結果は変わっていない。何かが変われば、不可能は可能になると岬は教えてくれた。しかし、それだけだ。
 まだ、どうすればよいのかまではわかっていない。
 何を変えれば浩司の告白に可能性がでるのか、ヒントさえない。
「俺が持ってる橘岬のパーソナルデータを分析すればだな、どっちかつーと積極的な方が好まれるぞ。それから、ドラマチックなことも好きそうだ」
「……あのさ。どんな分析なんだよ。どうせなら真面目に言ってよね」
 浩司が不満げな視線を向けると、俊彦は一つ咳払いした。
「しかたねぇな。マジで言えば、橘のタイプは夢を忘れてない人だ。前にも言ったぞ?」
「ん? そうだっけ……あー、夏休み前に聞いた気もする」
 あの時は俊彦が並べる岬のインタビュー結果を半分聞き流していた。岬自身がしっかりとした夢を持っているだけに、確かに夢は重要なことかもしれない。
 けれど、日本代表になってピッチに立つという浩司の夢はもう潰えている。
 医者になるという将来を、夢と言ってよいかわからない。
 僕の、夢か――もう一度、橘さんみたいに考えてみようかな。
 浩司が小さな決めごとを胸に刻んだ時、俊彦が流していたラブソングが終わった。計ったように昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。


 衣替えが終わって二週間、秋もしだいに深まってきた。
 午後十時、浩司はリビングにいた。暗めの照明の中、ただ一人ソファに座っている。両親にはどうしてもと言って、一人にしてもらったのだ。
 将来について真剣に考えはじめてちょうど一ヶ月、今もまだ浩司は夢を描けずにいた。
 まず最初に浩司は、漠然と考えていた医者という職を調べてみた。
 医者には一言で括れないほどにさまざまな種類があり、そのどれもが社会にとって重要でやりがいのある仕事だった。誰にでも誇れる将来だ。
 感動や勇気を与えることができる職でもある。思っていたとおり、それ以上だった。
 けど、ぱっとしないんだ。胸が躍らない。
 それは浩司の素直な気持ちだった。知れば知るほど、冷静な理性は医者の道を勧めてくるが、奥底に眠る熱い感情は目覚めなかった。
 目を閉じて浮かんでくるのは、あの日のゴールだった。
 やっぱり、好きなんだよな。
 何度も確認した想いだ。そしてその度に卒業すべきだと思った。幼い子供のように単純なだけの「好き」で夢を語る時間は終わったはずだ。
 けれど、いつかも感じた大人になりきれない痛みが浩司の胸を突いてくる。
 あきらめたと思っていても、やっぱりそれはフリだった。
 岬のことが羨ましい。自分の夢をきちんと消化して、最高の未来を描いている。
 だから、浩司も岬と同じように考え、調べてみた。
 サッカーに関わることは思った以上に多かった。岬と同じようにチームの事務、サッカー雑誌の記者、スパイクを製作するメーカー、部活の顧問――間接的なことも含めれば、無限と言ってもいいような道があった。
 なのに、浩司は岬のように自分の想いを消化することができなかった。医者と同じでどうしても胸が躍らない。あくまで浩司は感動を「与えたい」のだ。
 その気持ちに嘘はつけない。そこを偽ってしまえば、単なる妥協になってしまう。
 たとえ子供っぽい夢だとしても、今は譲れない。
 だから今日、浩司は自分の「好き」の原点に立ち返ってみることにした。
 液晶テレビを目の前にして姿勢正しく座り、深呼吸をする。
 リモコンでビデオをスタートさせると、唸りにも似た耳をつんざくような歓声がリビングに響き渡った。画面には青一色のスタジアムが映っている。
 サッカー日本代表が臨んだワールドカップ最終予選最終戦のビデオだった。
 やっぱり、僕はここに立ちたかったんだ。
 まだ開始のホイッスルさえ鳴らないのに、胸が熱くなってくる。
 そして、気迫をぶつけあう試合がはじまった。
 一進一退の攻防――多くないチャンスと少なくないピンチが交互に訪れる。最初の歓喜は前半の三十九分、ベテランの左足から生まれた。
 天高く振り上げられた拳を見て、心が震える。夢を見続けた男の叫びだった。
 やや防戦になった残り時間を凌ぎ、一点リードで日本は前半を折り返す。 
 後半、日本は激しい反撃を受けた。開始直後にいきなり同点ゴールを奪われ、十四分には逆転のゴールを相手のエースに叩き込まれてしまう。
 リアルタイムで見ていた当時、浩司はあきらめを感じたことを思い出した。
 しかし、日本代表は誰もあきらめてなどいなかった。
 今までチームを引っ張ってきたベテランの二人を若手に代え、攻める。そして後半の三十一分、代わって入った次代のエースが頭でボールをゴールに叩き込んだ。
 勢いを増す日本。けれど、相手もそう簡単には再逆転のゴールまでは許してくれない。
 ホイッスルが鳴り、試合は延長戦に入ることが決まった。
 あ……
 呼吸が止まった――嵐の雲間から光が差し込むような光景が浩司の目に映った。


 土曜日の午前、浩司は朝一番に誰もいない学習室に入り、定位置に座った。
 岬に真っ先に伝えたいことがあった。
 時計の秒針が刻む音だけを聞きながら待っていると、ほんの五分もしないうちにドアが開いた。浩司が顔を向けると、入ってきたのは制服姿の岬だった。
「あれ? 平松くん、今日は早いね」
 とととっと駆け寄ってきた岬がいつもの笑顔で不思議そうに言ってくる。
「橘さんにどうしてもお礼を言いたくて」
「お礼? わたしはなんにもしてないと思うんだけど……」
 疑問符を頭の中に一杯浮かべた表情のまま、岬は隣に座った。勉強の準備をせずに姿勢を正した岬は、浩司の言葉を待ってくれているようだ。
「前、サッカーは止めるって言ったけど、止めないことにしたんだ」
「ほんと? なんか嬉しいな」
 岬は自分のことのように浩司の決断を喜んでいるように見えた。それだけで浩司も嬉しくなる。けれど、浩司の決断はそこで留まらない。
「ピッチに立つんだ。ワールドカップ出場を決める試合のピッチに、僕も立つ」
「あきらめなかったら、きっと叶う可能性はあるよ」
 ほんの少しさえ失笑することもなく、岬は浩司の言葉を肯定した。
「僕はスポーツドクターになる」
 口を真一文字に結んだ浩司の言葉に「え?」と驚いた岬は「どういうこと?」と訊いてきた。浩司が予測していた反応だった。
「あの岡野が決めた試合、延長の前に円陣が組まれたっしょ?」
「うん。みんな集まって――あっ」
 浩司は小さく頷いた。岬も気づいてくれたことがひどく嬉しい。
「そうなんだ。僕があの試合で日本中が一つになれたって感じたのは、円陣を見たからなんだと思う。あれは本当の意味での日本代表の輪だった」
 同点で迎えた最終決戦の延長で組まれた円陣は最初、コートに残る十一人で組まれた。
 控え選手や交代を終えたベテランも肩を合わせていった。
 けれど、そこで終わらなかった。
 監督やコーチと次々とベンチから飛び出し、輪に加わっていった。総勢数十人にもなった輪の中には栄養士やドクターまでもが混じっていた。
 勝つんだという気持ち、戦っているのは全員だという気持ちが伝わってきた。
 初めて見た真の意味での日本代表の円陣だった。
 だから、浩司はどの試合よりも感動を覚えたのだ。全員が参加した円陣を通して日本中が一つになれたような気がしたから、あんなにも胸が震えた。
 すっと胸を苦しめていたわだかまりが消えていった。自分の夢が確かに見えた。
「いつかきっと、代表のチームドクターになってあの輪の中に入るんだ」
「すごいね。平松くんなら本当にできちゃいそう」
「できるように頑張るつもり。ものすごく大変なことは調べたからわかってる。けど、医者になった上にサッカーに関われて、感動を与えられるんだ」
 描いた夢の道のりはひどく険しいものだった。それでも、見続けられる夢だった。
 サッカーを続けるのは実戦の経験を重ねるためだ。苦労するのは目に見えているが、好きなことをしながら将来に繋げられるなら、最高に違いない。
「でさ、まずは志望校を変えることにしたよ。T大を受ける」
「え? わたしと一緒?」
 自身を指差した岬は驚いた様子で目を開いた。
「国立ではT大がスポーツドクター系は一番強いらしいんだ。医師免許を取ったらT大の医局に入って、まずどこかのチームドクターを目指す」
「平松くん、すっごく考えたね。ほんとに真面目すぎるよ」
 くすりと笑った岬は浩司の肩を突いてきた。
「はー。わたしは成績あがらなくなったのに、平松くんだけ先に行っちゃう。ずるいな」
「何言ってるのさ。ずっとB判定くらいっしょ?」
 眉尻を下げてしょげる岬に浩司は首を傾げて訝しげな視線を向けた。
「うん。Cの上からBの中間くらいをふらふらさまよってる感じ」
 右手を上下にひらひらさせて、岬は自身が置かれた不安定な状況を表現してくる。それを見た浩司は自分の頬が緩んでしまうのを感じた。
「そのままなら、大丈夫だよ」
「もー、合格率六割ちょっとくらいだよ? 四割も落ちちゃう……うー、不安だよぅ」
「模試が本番だったら、B判定が取れれば確実に合格できるよ」
 不審そうに見てくる岬に、浩司は模試の判定根拠を説明した。
「模試ってのはさ、C判定の真ん中が合格ラインなんだ。模試で合格ラインぴったりの人が本番で取る点数が高くなるか低くなるかは五分五分っしょ?」
「うん。だいたいそうだと思う」
「逆にB判定の人が本番で合格ラインを下回る確率が三割から四割くらいなんだ」
「えっと、本番でB判定の点数は合格点ってこと?」
 察しのよい岬は浩司の言葉をすぐに理解したようだった。念のため確認するという意味だけを込めて、浩司は結論を口にする。
「そ。安定してC判定の上以上が取れてるなら、合格する確率は判定以上だよ」
「――でも、不安だよぅ」
 珍しく弱気を見せ続ける岬を見やり、浩司は頬をかいた。
「あのさ。数学の参考書出してみてよ」
 学習室で岬に初めて会った時のことを思い出しながら言うと、岬は怪訝そうにしながらカバンから数学の参考書を取り出した。その間に浩司も同じ参考書を取り出す。
「覚えてる? ほら、もう同じ色だ」
 浩司の指が示したのは二人の参考書の小口だった。
「そっか。わたし、平松くんと同じくらい頑張ってこれたのかな? 受かるかな?」
 岬と一緒に黒くなった小口を見つめ、浩司は強く頷いた。
 学習室に三人目が入ってきて、二人の会話は終わった。アイコンタクトを交わして、勉強する準備をはじめる。まだ先は長く、けれど短い。

   ◇

 冬の気配が空気に混じってくると、受験生の時間の流れは一気に加速していく。
 クリスマスや年末はあっという間で、お正月もない。
 ただ願掛けだけは忘れず、浩司も俊彦と一緒に初詣には行った。帰りに合格祈願のお守りを二つ買う。一つは岬に贈ろうと思ってのことだ。
 浩司と岬の成績は偏差値や判定で言えば、ずっと変わらずにいた。
 常に合格ラインを超えているから、それは順調な証しだ。
 けれど、二人の仲は浩司から見れば少しも進展していない。週末に図書館で会い、月に一回くらい駅前のカフェで気分転換する。心地よいけれど、それだけだった。
 大晦日に発動させた“赤の未来”の結果も以前と変わっていない。
 夢を決意した浩司でも、まだ“赤の未来”の不可能を覆すことはできなかった。
 それでもいいんだ。今は、受験の方が大事だ。
 センター試験まで数日を切った日、浩司は自分の気持ちと“赤の未来”を封印することにした。もし今“赤の未来”が告白に可能性を示しても、行動には移せないからだ。
 今の関係のまま二人の合格を迎えること、それが最高の結果だ。
 一月に入って最初の土曜日、浩司は岬にお守りを渡した。岬からは同じお守りを受け取った。中身は同じでも気持ちを交換することができた。
 そうして速い時間は流れ、センター試験も無事に終わった。
 浩司の自己採点はいつもより少し悪かったが、T大医学部の合格ラインは超えていた。岬の結果はかなりよかったらしく、学習室では始終笑顔だった。そして、俊彦に至っては自己新の点数を叩きだして胸を張っていた。
 浩司と岬は志望どおりにT大学の願書を送り、俊彦は楽してやると笑った。
 そして、二次試験に向けて赤い本との格闘がはじまる。
 一月後半と二月半ば過ぎまでの約一月は本当に短い。過去問題を解いて志望の大学の学部の試験に慣れている間に二次試験、前期日程の日がやってくる。
 T大の医学部と法学部の前期日程の試験日は同じだったが、浩司と岬は会わなかった。
 一つ前の土曜日に、受験票を見せ合って健闘を誓ったのが最後だ。
 今は僕にできることに必死になる時だ。
 浩司が試験に全力を尽くしていると、一日は瞬く間に過ぎていった。
 ある程度の手応えを胸に、浩司は帰途につく。岬も同じ、いやそれ以上の手応えを感じていることを願いながら――一人で家まで帰った。
 浩司の受験は前期日程で落ちた場合に受ける後期日程を除いて終わった。
 時期をほぼ同時にして、滑り止めの私立の結果が出てきた。失敗したと感じていたK大以外は合格した浩司だが、落ち着くことはできない。
 第一志望に受からなければ、いきなり浩司の夢は頓挫してしまうからだ。

 そして、かすかに春の温もりが感じられる三月初旬、まだ国公立二次試験前期日程の結果が出る前、三月五日の月曜日に常峰高校は卒業式を迎えた。

   ◇

 常峰高校の卒業式は簡素で、午前中の一時間半で終わってしまう。その後、卒業生は校内で、もしくは外に出て一日を好きに過ごし、最後の日を心に刻む。
 卒業式が終わり、一息ついた浩司は体育教官室に向かった。
 お世話になった先生一人だけに感謝を込めて握手をするという伝統をこなすためだ。嫌われた先生には誰も握手に行かないという裏をもつイベントでもある。
 浩司が選んだのは体育担当の、そしてサッカー部顧問の先生だった。
 体育教官室に入ると、ちょうど一人だけいた先客が去るところだった。見知った顔の卒業生はサッカー部の一員で、少し赤い目をしている。
 すれ違う瞬間に軽く手を合わせた浩司はそれだけで男同士の挨拶を済ませた。
 顧問の前に立った浩司は無言で小さく頭を下げた。
「なんだ、次は平松か。どうやら今年も女生徒はなしだなー」
 からからと笑った顧問は頭をかいた。尖がりもせずに目立たない先生だったからか、毎年握手に来るのは部関係だけらしい。
「三年間、お世話になりました。練習試合のゴール、きっと忘れません」
「おお、あれな。あれはよかった。迷ったくらいだからな」
 浩司がなんの気なしに出したことを、顧問は覚えていた。そんなことが胸に響いてくるのはやはり卒業の日だからかもしれない。
 今日で、あと数時間で高校生活のすべてが終わる――高校最後の日なのだから。
 合格の報告に来ることはあるが、それはもう違うことだ。
「あれは平松に足りんもんが足りてたからな。まあ、ちと遅かったのがなぁ」
 言った顧問はにっと口元を緩めて、トンと浩司の胸を軽く叩いてきた。浩司は何か言おうとしたが「次待ってるから、またな」と遮られてしまう。
 後に続いていたのは女子だった。眉間にしわを寄せた浩司は体育教官室を後にした。
 足りないもの、か……
 顧問の言葉を反芻しながら、浩司は教室に戻る三階の廊下を歩いていった。長い間ボールを追いかけたグラウンドを横目に見て、ふと足を止める。
 それなりにきつかった部活を思い出しながら窓を開け、外を眺めだした。
「コージ、そんなセンチな顔は似合わねーぞ」
「風が気持ちいいだけだよ」
 振り返った浩司に近づいてきたのは俊彦だった。センター推薦で合格を決めた俊彦は一月末から登校しておらず、二人が会うのは久しぶりだった。
 窓にもたれて並んだ二人は窓枠に腰をかけるようにして体勢を落ち着けた。
「これからの予定はどーなってる?」
「三時からカラオケ。んー、それまでの予定は特にないね」
 クラスメイトの大半が参加するカラオケは卒業式後の定番イベントの一つだ。幹事である学級長がしっかりとパーティルームを予約している。
「んじゃ、まだ暇だろ。おもしろいことするから、ちょっと付き合ってくれよ」
 意味深な言い方をしながら、俊彦はポケットに手を突っ込んだ。
「なんなのさ。変なこと――」
 細めた目で俊彦を斜めに見やった浩司は、廊下を歩いてきた卒業生らしい女子三人の会話を耳にして言葉を止めた。
「ホントホント。佐藤くんから呼び出したらしいよ。ついに、だよねー」
「へー。岬どうするのかな?」
「どうなのかなー。やっぱり恥ずかしながら小さく頷いちゃったりするんじゃない?」
「えー? もう大学生の付き合いだよ。もっとこう、あれだよねー」
 あると思っていた。浩司も考えていたことだからだ。けれど、卒業式が終わってすぐに発動させた“赤の未来”は相変わらず不可能を告げてきた。
 だから浩司は動くことができなかった。
 もしも僕にチャンスがあるなら、橘さんの気が僕にあるなら……橘さんは断る。
 心の中の焦りを消し去る言葉を繰り返し、浩司は冷静を装う。
 しかし、すべてを悟っているような表情をする俊彦がゆっくりと口を開いた。
「俺、前にも言ったよな。強い想いは人を変えるぜ?」
 静かに言い放たれた言葉は浩司の心臓を貫くように胸に刺さった。
 隆文の想いがどれほどかはわからない。けれど、半端なものだとは思えない。いい加減な気持ちなら、隆文は告白してきた誰かと付き合っていたはずだ。
 浩司が隆文と誰かとの付き合いを知らない可能性もあるが、小さすぎる可能性だ。
「佐藤はタイミングを計ってる、とも言ったはずだ」
 岬に一途だろう隆文は断り続け、ずっとタイミングを待っていたのだろう。
 隆文が告白したら……
 結果を想像することはひどく簡単だった。仲のよい相手から真剣に想いを告げられれば、気持ちは揺らぐ。岬が頷く可能性は高い。
 そして、浩司の告白が失敗すると告げる“赤の未来”はそれを逆に証明している。
「僕にはもう、何もできない。失敗を祈るしか」
 失敗する未来がわかっている以上、行動を起こしても無駄でしかない。自分を変える時間もない。だから、この場で結果を待つだけだ。
 思いつめた表情で床の一点をじっと見つめる浩司に対し、俊彦は何も言わなかった。
 何を変えればよかったんだろう?
 今さらのことが浩司の頭を廻るが、答えは出てこない。答えが出るのなら、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
 悔しさとともに、浩司の頭にはこの一年が渦巻いていく。
 岬は最後の練習試合の後、声をかけてくれた。浩司の変わった方言を「いいね」と微笑んでくれた。同じ選手を好きだと目を輝かせて話してくれた。
 傷つけた夏休み前、泣きながら走り去った岬の背中が思い浮かんだ。
 あの踊り場で抱きついてきた岬の温もりが蘇ってきた。
 スポーツドクターになるという浩司の決意を、喜んでくれた。子供っぽいと失笑することなく、まるで自分の夢のように聞いてくれた。
 すべての記憶は――すべての思い出はたった一つの想いに収束していく。
 本当に大好きってわかったら止められないんだよ。
 岬の言っていた言葉の意味が今、はっきりとわかる。どうしてもこの想いを伝えたい。自分を誤魔化して、あきらめたフリをしたくない。
 失敗するってわかってても……違う! 成功を思って踏み出すんだ。
 翻らない決意を胸に、浩司は窓から背を離した。
「トシ、悪い。予定ができた。おもしろいことには付き合えないや」
 言葉半ばで浩司は俊彦に背を向けた。駆け出そうとして、しかしできない。その場でたたらを踏んで立ち止まってしまう。
 岬の居場所を知らない浩司には、行くべき先がわからなかった。
 校舎裏か、教室か――それくらいしか思いつかない。
 学校中を探している時間はない。隆文の告白が先になっては遅いからだ。ただ伝えるだけなら、あきらめているのとなんら変わらない。それでは意味がない。
「ち。これから俺の時間だったんだがな」
 不満そうな声に浩司が振り返ると、俊彦はにやりと不敵に口元を歪めている。
「いつか助けてやるから待ってろって言ったのも忘れたのかよ?」
 コンパスを失った船のように途方にくれかけた浩司に、俊彦は下手くそなウインクをしてきた。ポケットに突っ込んだままだった手を抜き、何かを放ってくる。
 右手で受け取った浩司は手の中の物を確認して顔を上げ、戸惑いの表情を浮かべた。
「コージの方が俺が考えてたよりおもしろそーなんだよ。俺がデビューしたらドラマの脚本に使ってやる。ロイヤリティは払わねーぜ」
 軽い口調で言った俊彦は真顔になり強い口調で「止まるなよ」と付け加えた。
 右手を握りしめながら「さんきゅ」とだけ言い、浩司は踵を返して駆け出した。攻める側の残り時間はひどく短く感じられるけど、まだきっと間に合う。
 後は僕に告白する勇気があるかどうか――あ、ああ……あ、そうか!
 走りながら、浩司は閃くように気がついた。体育教官室で叩かれた胸が熱くなる。
 僕に足りなかったのは勇気なんだ。
 いつも“赤の未来”に負けていた自分を思い起こした。赤い砂を生み出していたのは自分自身の心かもしれない。いや、きっとそうに違いない。
 今やっと、気がつくことができた。それは俊彦のおかげでもある。
 トシはずっと少しだけ背中を押し続けてくれてた。
 全部言葉で聞いてしまえば、きっとここまで強い想いには至らなかった。表面だけの理解で終わっていた。だから俊彦は遠回りに教えようとしてくれていた。
 岬と隆文の噂を教えてきたこと、振られたことを語ってきたこと――そのためだ。
 くそっ、僕にはもったいなすぎる。
 最後のチャンスを開く鍵をくれた親友は、紛れもなく最高の親友だ。
 親友の気持ちに応えるためにも、浩司は走った。
 ほんの少し、本当にかすかだけれども“赤の未来”を覆す淡い期待が出てきた。
 階段を飛ぶように二階に降り、廊下を全速力で突っ切って目的地を目指す。慣れ知った道を、浩司は最短距離で駆け抜けた。
 そして、一枚のドアの前に立つ。荒い呼吸を整えている暇はない。
 俊彦から受け取った鍵で、浩司は放送室のドアを開いた。
 ドアも閉めずに飛び込んで、スイッチを入れる。俊彦の操作を見ていたから、簡単なことならわかる。全校放送でマイクの音量は大、だ。
 一瞬だけ過ぎる手から零れる赤い砂の光景を、浩司は一息で振り払った。
 胸に溢れる想いのすべてを言葉に託す。
「図書館のきみへ。僕、平松浩司はきみのことが好きだ!」
 叫んだ言葉は学校中に響き渡った。かすかなエコーが消えると、耳に沈むような静寂が訪れる。けれど、これで終わりではない。
 このままでは答えを聞けない。岬に会わなくてはいけない。
 と、いきなり鼓膜が痛いほどに震えた。
 ジリリリリリリリ!
 開いたままだったドアの外から、耳を壊すかのような警報の音が入ってくる。運よくハウリングは起こさなかったが、危ないところだった。
 なんで、こんなタイミングで――まさか?
 不幸を呪いかけた浩司は警報の意味に気づき、放送室の壁を占拠するパネルを見上げた。
 火災報知器の位置を赤い光が一つ、点っている。
 三階、すぐ上の廊下だ。特別教室の並ぶ、人がいないはずの場所だ。
 どうしてそこにいるのか、そんなことはどうでもよかった。
 弾けるように浩司は放送室を飛び出した。激しい音とともにドアを後ろ手で閉じ、廊下を走る。階段を上って踊り場を回り、さらに上った。
 廊下に駆け出ると、そこには鳴り響いている警報の源があった。
 反対側の階段へと消えていく人影が一つ見える。
 見覚えのある背中を追いかけようとして、浩司の視界にドアの開いている教室の中が映った。濃い緑の黒板に、柔らかい白い文字が書かれている。
 足を止めた浩司が見たのは、ただ一言のメッセージ――ごめんなさい、


 一日が終わりかける時間、浩司は電車に一人で座っていた。規則正しい振動がいつものように伝わってくる。乗っている人は少ない。
 あの場で立ち尽くした浩司は岬を追いかけることができなかった。
 すぐに先生に捕まり、担任から大目玉を食らった。
 遅れて合流したカラオケではクラスメイトに散々からかわれた。結果を何度も訊かれ、その度に「振られた」と苦笑いをしていた。相手が誰かは言わなかった。
 ……なんで、なんでこんなに悔しいかな。
 クラスメイトの話から、隆文も振られたと知った。面と向かって振られたらしい。
 だから、ますます悔しい。そして羨ましい。
 浩司は答えを直に聞くことができなかった。岬には逃げられてしまった。
 けれど、考えてみれば当たり前のことだ。校内放送で告白するなんて、浩司の独りよがりでしかない。まともな答えを期待する方が間違っている。
 橘さんにはいい迷惑だった。名前で呼ばなくて、ほんとによかった。
 救われるところを見つけて、自分を慰めてみる。
 けれど、どうしたって哀しくなる。勇気を出して告白したことで十分だと、そんな偽りの満足感で自分を誤魔化すことはできなかった。
 僕に足りなかったのはなんだったんだろう……教えてくれよ。
 恨めしそうに見つめた左手は、今は空だ。しかし、呟けば今も赤い砂が零れるだろう。夢を追う決意と告白する勇気を得てもなお、足りないのだ。
 岬が変えることができた未来を、浩司は最後まで変えることができなかった。
 二人は決意は似ていても、どこかが違ったのだ。
 浩司は思い出した。岬が決意と覚悟を口にした時の、深い色の瞳を――勇気に真偽があるのなら、岬の瞳には本物が宿っていた。
 けど、僕の勇気は偽物だった……あれはただの衝動なんだ。
 思えば、土壇場の浩司は意を決してきた。
 しかし、それは勇気とは違う。最後の練習試合でゴールを決めた時も、岬に不可能を告げた時も、そして今日岬に告白した時も、全部そうだ。
 動く時はいつもぎりぎりだった。最後の最後になってようやく心が決まる。
 いや、決まるのではない。決めざるを得なかっただけだ。
 崖っぷちに立ったされた恐れや焦りに抵抗しただけの衝動であって、勇気とは違う。本物の勇気は怖れや焦りに関係なくずっと心にあるものだ。
 やるせない気持ちが胸に溢れかえった。今さら気がついてももう遅すぎる。
 トシの後押しも無駄にしてしまった。
 情けなくなる。けれど、俊彦でさえ本物の勇気を見誤っていたかもしれない。後押しされて踏み出した一歩は偽物だった――本当に?
 自問して、息ができなくなった。
 最高だと思った親友が真剣な顔で言ったのは「止まるなよ」だった。
 トシは間違ってない。止まってしまったのは僕だ。
 踏み出した瞬間の勇気は本物だった。ただ、一歩では届かなかっただけだ。なのに、浩司は立ち止まってしまった。二歩目をためらい、岬を追いかけなかった。
 それは今日だけのことではない。ずっとそうだった。
 最後のゴールを決めた時、それで満足してしまった。岬に落ちると告げた時、ただ嘆くだけだけで何もしようとしなかった。
 自分で「一歩一歩さ」と言っておきながら、浩司はすぐに立ち止まっていた。
 本当に大好きってわかったら止められないんだよ。
 岬の言葉が蘇り、浩司は痛む胸に深く空気を吸い込んだ。窓に映る自分を見つめる。
 なんでこんなに悩んでるんだろう――答えは一つしかない。
 岬への想いが今も変わっていないからだ。夏からずっと想い続けてきた想いを、まだあきらめたくない。このまま終わらせたくない。
 本当に大好きだってわかってるなら、もう一度踏み出すんだ。
 けれど、焦ったら今日と同じになってしまう。
 神さまがくれた幸運は浩司と岬の志望を同じ大学にしてくれた。頑張った岬はきっと受かっている。きっと自分も。だから、時間と機会はきっとある。
 もしも「きっと」が外れてしまっても、そこからまた踏み出せばそれでいい。
 もう“赤の未来”は関係ない。大切なのは前に進みつづけることだ。
 そうだ……離れてしまった距離は、一歩一歩ゆっくりと縮めていこう。

   ◇

 卒業式の翌々日、曇り空の下を浩司は医学部の掲示板前にやってきた。
 多くの受験生の誰もが、白いロール紙に並んだ四桁の数字の中から自分の受験番号を探そうと、視線を移ろわせている。浩司もその一人に加わった。
 ぽつりと雨が降りはじめ、すぐに色とりどりの傘の花が開いていく。
 天気予報、雨はないって言ってたのにな。
 人の傘から垂れる雫に肩を濡らしながら、浩司は自分の受験番号を探した。小さくない手応えはあったが、不安がなくなることはない。
 ……あ、よし。あった――拳を握った瞬間、雨がやんだ。
「濡れたら、風邪ひいちゃうよ?」
 不意に背後から聞こえたのは透明な声だった。息を止めて、浩司は振り返る。
「合格おめでとう。さすがに平松くんだね」
 パステルグリーンの傘の半分を浩司に差し出す岬は微笑んでいた。見せ合った受験票の番号を覚えていて、合格は先に知っているらしい。
「でも、傘忘れたのはよくないよ。風邪こじらせたら、一緒に入学式出られないでしょ」
「え? じゃあ、橘さんも受かった?」
 訊くと、岬は「うん。しっかり合格でした」と笑顔のVサインを見せてきた。
「おめでとう――あれ? けど、ここ医学部だよ? なんで?」
 法学部の合格発表は別の場所だ。そして、医学部の掲示板は最寄駅から一番遠い場所にある。帰る途中だとしても、岬がここにいることはおかしい。
「えっとね……平松くんに言わなくちゃいけないことがあって、待ってたの」
 答えた岬が一歩近づくと、二人はちょうど傘の下に収まった。
 息が届きそうな距離から見上げてくる岬の眉尻は下がり、表情は不安色に染まっていた。
「一昨日、嬉しかった。なのに、ごめんなさい」
「いいんだ。直に返事をくれて、ありがとう。やっぱりすごく辛いけど、嬉しい」
 浩司が苦笑いすると、岬は「あれ?」と戸惑いの声をあげた。
「まだわたし、返事してないよ……もしかして平松くん、勘違いしてる?」
「勘違い――って、何を?」
 岬の言葉の意味を浩司は理解できなかった。訝しげに眉をひそめる浩司を、小首を傾げた岬は目を瞬かせながら見つめ返してくる。
「今のごめんなさいはね、一昨日返事ができなかったことへのごめんなさいだよ?」
「けど、返事は黒板に書いてあった。橘さんが走ってくのも見た」
 文字も後姿も幻とは違う。岬があの場所にいた不自然があっても、あれは現実だった。
「あれは伝言。直接会ったら気持ちが溢れちゃうから、伝言だけ残したかったの」
 岬の口から出てきた言葉は、浩司の予想の外だった。
「あの時、すぐそばの踊り場にいたんだよ。思い出、一人で振り返ってた。そしたら、平松くんが下を走ってくのが見えたから、思わず階段を上がったの」
 用事もないだろう特別教室の廊下に岬がいた理由は単純なことだった。
「あの告白はすっごく驚いたよ」
 浩司のひどく身勝手な告白だったのに、岬は少しも嫌な顔をしていない。
「でも、嬉しかった。すぐに返事を伝えたかった」
 感情がこもる岬の声はわずかに高くなる。潤んだような瞳はじっと浩司を見上げている。
「思わず警報のベルを押して……でも、まだダメって思ったの」
 真一文字に結ばれた口元は岬の意志の強さを語っていた。
「受かるまでは平松くんの気持ちに応えられなかった。だって、浮かれちゃう。前期で受かる自信なんてなかったから、後期も大事だったの」
 前期日程が終われば切れてしまいそうな気持ちを、岬はしっかりと繋いでいたらしい。
「落ちたら、平松くんはきっと自分を責めるでしょ?」
 岬の推測は正しい。浩司が「やっぱり“赤の未来”のせいだ」と思うことは目に見えている。告げたことや“赤の未来”を持つ自分自身を悔やむだろう。
「だから、受かることをわたしの最初の返事にしなきゃって思った。それにね――」
 視線を逸らしてうつむいた岬の頬にほのかな朱が差した。
「もともと思ってたの。合格して、わたしの気持ちを伝えようって。T大に受からなきゃいけない理由がいつの間にか増えてた。でも、平松くんの告白がなかったら、できたかわからないかな……今わたしがここにいるのは、きっと平松くんの勇気をもらったから」
 再び顔を上げた岬は「話が脱線しちゃったね」と照れを隠すように表情を綻ばせた。
「それでね。伝言は途中書きだったの……でもあれは、平松くんのせいだよ」
 頬を膨らませ気味に口を尖らせた岬は明るく言った。
「ベルの意味に気がつくの早すぎるんだもの。詰めが甘くなかったら、危なかったかな。ドアが閉まる音、大きなヒントだったよ」
 ふふっと笑みを漏らした岬はおどけたように小さく舌を出した。
「慌てて逃げちゃった。だから、返事を待ってほしいって最後までは書けなかったの」
 浩司は思い出した。ごめんなさいの後ろには「、」があった。
 あの置き手紙のように「、」は後に文が続くことを表していた。伝言が最後まで書いてあれば、締め括りはきっと「ごめんなさい」だろう。
「だからね、平松くんは勘違いをしてるの。わたしはまだ返事をしてない」
 周りは騒がしいのに、傘の下だけが静かになっていく。
「えっとね……もう一回、言ってほしいな。図書館のきみじゃなくて、わたしの名前で。今度はわたしだけにしか聞こえないように」
 真っ赤に頬を染めて見つめてくる岬を見つめ返し、浩司は深く息を吸った。
 結果はなんとなくわかっている。けれど、簡単なことではない。
 大切なこの言葉には、今までと違う勇気がいる。一昨日から――春からずっと抱いてきたすべての想いを集めて、浩司は勇気にした。
「僕は橘さんが好きだ。僕と付き合ってください」


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