高得点作品掲載所       ガタックさん 著作  | トップへ戻る | 


したたかな指、しなやかな唇

  プロローグ

 むせ返るような汗の匂いと、体内の熱を吐き出す荒い息遣い。
 情事が終わったばかりの気だるい空気を演出するかのように、白いシーツが衣擦れの音を立てて波打つ。
 ベッドの上に屍のように横たわる女の裸体を残して、男はベッドから立ち上がった。
 浅黒い肌──一糸まとわぬその後姿は逞しくも洗練され、一切のムダを感じさせない。
 男は女を振り返り、唇の端に薄ら笑いさえ浮かべて、蔑むように言った。
「アイツより良かっただろ?」
 息も絶え絶えの女は、悔しさを滲ませる瞳で男を睨みつけるのが精一杯だ。
「あんなに感じてたじゃないか。 え? 証拠もここにあるぜ」
 そう言うと、男は手にしていた数枚のポラロイド写真を女に見せつけた。
 白く眩しい裸身を惜しげもなく晒し、恍惚の表情さえ浮かべている女の無残な肢体がそこに写し出されていた。
「これがどういう意味か……わかってるよな」
 男の口元に、卑劣な笑みが浮かぶ。
 女は顔を背け、唇を噛み締めて、ただ泣いていた。
 我が身に起きた突然の悲劇を嘆くように──拒絶する心に反して、与えられた快楽に忠実に反応してしまった我が身を呪うように。
 男の笑い声が高らかに響いた。
 冷酷に、非情に──端整な顔を醜く歪めて嘲り笑うその姿を、カメラはしっかりと映し出していた。






 第一章 

「はい、カット! お疲れさん!」
 横から飛んできた声は、気だるい空気もほろ苦い情緒も、その場に漂う雰囲気を全て吹き飛ばした。
 途端にベッドの周りに人が大勢集まって、ベッド上の二人を取り囲む。しかし、二人とも特別驚いた様子はない。二人のいるダブルベッドを取り囲んでいた照明や音声などの撮影機材の電源が落とされ、スタッフの手によって撤去が始まろうとしていた。
 そう、ここはAV──すなわちアダルトビデオの撮影現場なのである。
 ついさっきまで女を貪るようにして抱いていた男、AV男優・鳥羽充はスタッフの一人に手渡されたバスローブに袖を通し、ベッドの端に腰を下ろした。その後ろでは今回の共演女優・水野香月が疲れきった身体を投げ出すように未だ横たわっている。鳥羽はバスローブをもう一つ受け取り、それを香月にかけた。
「香月ちゃん、大丈夫? 痛くなかった?」
 その優しい微笑みは三十二歳の彼を十代の少年のようにも見せる。演技中の冷酷な男と同一人物とはとても思えない。
 香月は今日が初めての本番だった。デビュー作の相手として鳥羽を指名する女優は多い。自分を気遣う心優しい言葉に、香月もまた微笑み返した。
「大丈夫です。最初は怖かったけど、鳥羽さんがうまくリードしてくれたから最後までできたんですよ」
 男を立てる女を演じながら、香月は鳥羽に手伝ってもらってようやく身体を起こし、わざとよろけて彼の胸に顔を埋めた。
「鳥羽さんの指……すっごく気持ちよかったぁ。もう一度してほしいなぁ」
「香月ちゃんにそう言ってもらえると、オレもうれしいよ」
 そう言って、鳥羽は香月の頭を愛おしそうに撫でた。その仕草に、打算的な香月の女心は素早く次の手を画策する。
「鳥羽さんって、本当に優しいんですね。私、本気になっちゃいそう」
 甘えた声を出して、潤んだ瞳で鳥羽を見上げる。この瞳に見つめられて、彼女におちなかった男はいない。だが今日は相手が悪かった。
 劣情をそそるような香月の瞳に見つめられても、鳥羽はニコニコ微笑み返すだけだった。撮影中のケダモノのような雰囲気とは大違いだ。肩透かしを食い、慌てた香月が次の手を模索しているうちに思わぬところから横槍が入ってきた。
「充! 早くシャワー浴びて、着替えなさい!」
 抱き合っていた二人はびっくりして顔をあげた。ベッドの横で、怖い形相の女が仁王立ちで二人を見下ろしている。鳥羽はため息をついて、抱き締めていた香月の身体を優しく引き離した。
「奈緒ちゃん……そう急かさないでよ。女優さんのアフターケアだって、オレの大切な仕事なんだから」
「仕事熱心なのはいいけど、あまり優しすぎるのも問題ね。勘違いする女優さんが多くて困るんだから」
 その言葉に、香月はムッとして女を見上げた。「奈緒」と呼ばれた女もそれに応戦し、鳥羽を挟んで二人の女の視線が火花を散らしてぶつかり合う。その光景は、はたから見れば「夫の浮気現場に乗り込んできた妻と愛人の戦い」にも見える。不毛な戦いに終止符を打つように、鳥羽は香月の頬に軽くキスをした。
「香月ちゃん、またね」
 物足りなさそうに表情を曇らせる香月を残し、鳥羽は奈緒と共にベッドを離れた。

 控え室に戻る道すがら、すれ違う撮影スタッフから「お疲れ」と声をかけられるたびに、鳥羽は人懐っこい笑顔でそれに応える。その斜め後ろで奈緒は無表情で会釈を返し、鳥羽の後ろ姿を見つめた。
 栗色の柔らかい髪がくしゃくしゃに乱れ、首筋には汗が噴出している。白いバスローブに包まれた広い背中からは、一仕事やり終えた達成感が滲み出ていた。
 堤奈緒は鳥羽のマネージャーを務めている。鳥羽がこの世界に入った九年前からの付き合いだ。当時、奈緒はAV制作会社のキャスティング担当だったが、駆け出しの男優だった鳥羽に将来性を感じて、ことあるごとに彼を起用してきた。時に周囲と意見がぶつかることもあったが、奈緒はそれでも信念を持って鳥羽を使いつづけてきた。
 時に恋人を慈しむ優しい青年を、時に執拗なレイプ魔を、そして時に背筋も凍る異常性愛者を、鳥羽はありとあらゆる役を見事に演じた。
 もちろん、それだけではAV男優は務まらない。鳥羽は類稀なるセックステクニックの持ち主だった。「天性のもの」と言ってもいい。AV女優を骨抜きにし、虜にしてしまうそのテクニックは世の男達から羨望の眼差しを集め、女達はその凄さに魅せられた。そして鳥羽によって女優が快感に打ち震える姿は男女を問わず、観る者を欲情させた。
 だが、鳥羽の魅力はそれだけに止まらなかった。
 彼の端整な素顔──立ち居振舞いはとても紳士的で大人の男の魅力全開なのに、それでいて屈託のない少年のように母性本能をくすぐる顔も見せる。とてもビデオの中で女を殴って暴行するような男と同一人物とは思えない。メディアにさらけ出された彼の素顔は見るものを、特に女性を魅了し離さず、彼をただの「AV男優」に止めようとしなかった。
 鳥羽の人気は業界内にも広まっている。人当たりがよく、何よりも「仕事に一生懸命」な彼の姿勢は監督やスタッフから高い評価を受け、鳥羽の元には次々と仕事の依頼が舞い込んできて引っ張りだこの状態だ。共演した女優には常に優しい言葉をかけて緊張を解きほぐし、気分を盛り上げ、心にも身体にも気を配るその徹底ぶりが受けて、女優からの指名が多いだけでなく、鳥羽に本気で惚れてしまう女優も続出している。
 今や鳥羽がAV男優の頂点に上り詰めたことは誰の目から見ても明らかであった。
 三年前、周囲の勧めで鳥羽が個人事務所を立ち上げた時、鳥羽の強い要望で奈緒はマネージャーとして引き抜かれた。そういう経緯もあり、「鳥羽をここまで育て上げたのは私」という自負が奈緒にはあった。
 純粋にビジネスの面だけで鳥羽に目をつけたわけではない。実のところは奈緒の一目惚れだったのだ。好きな男には何が何でも成功してもらいたいという献身的な想いとは別に、あわよくば、という考えも確かにあった。鳥羽が成功するにつれてその思いはより一層強くなった。
 だが、多額の報酬と鳥羽からの信頼を得たものの、鳥羽からの愛情は未だ得られていない。鳥羽との間柄はドライなビジネスのみの関係以上に発展しようとしなかった。
 それでも奈緒は決して自分からその想いを伝えようとはしていなかった。
鳥羽の職業は「AV男優」。女とセックスをして、それを見世物にする職業なのだ。
 奈緒はいつも嫉妬の業火に身を焼かれる思いで、ベッドの上で濃密に絡み合う鳥羽と女優を見つめている。たとえ想いが成就して鳥羽が自分だけのものになったとしても、鳥羽は自分の目の前で他の女とセックスするのだ。今以上の苦しみを背負わなければならないのは目に見えている。愛情はいつしか憎しみに変わって、醜態を晒してしまうかもしれない。
 今の関係は、臆病な自分にはちょうどいいのかもしれない。奈緒はそう思っていた。
 シャワーを浴びて、濡れた髪のまま服に着替え始めた鳥羽は、背中に受ける奈緒の熱い視線に気付いたのか、急に振り返った。
「奈緒ちゃん、どうかした?」
 鳥羽の背中に想いの行方を探していた奈緒は、その声に驚いて、無理矢理笑顔を作って動揺を誤魔化した。
「早く髪乾かしなさい。風邪ひくわよ」
 姉が弟を諭すような口調だ。鳥羽は子供のような返事をして鏡の前に座り、ドライヤーのスイッチを入れた。
「あのさ、ここから地下鉄の駅までって、どうやって行けばいいの?」
 鏡越しに、鳥羽は奈緒に聞いた。
「今日、車じゃないの?」
「車検中。朝はタクシーで来たんだけど、たまには地下鉄でも乗ってみようかなって思ってさ」
「大きなビルに向かって歩いていけばすぐわかるわよ」
「そっか。ありがと」
 くせ毛の中を滑るしなやかな指──鳥羽の最大の武器だ。これが男の指とは思えないくらい、爪の先まできれいに整えられている。
 他人よりわずかばかり長くて細いだけなのだが、彼はこの指で三千人の女に快感と悦楽とほんの少しの幸福を与えてきた。もはや「神業」とまで言われる彼の指のテクニックは、今や鳥羽の代名詞ともなっている。
 その指が自分に触れるたびに、奈緒は身体が熱くなるような気がする。もし鳥羽に抱かれたら、この指が自分の中に入ってくるのかと思うとそれだけで熱いため息が漏れてしまう。
 つくづく、恐ろしい男だと思う。
 この男が本気で誰かを愛したら、相手の女は一体どうなってしまうのだろう。中毒患者のように、彼とのセックス無しでは生きていけない身体にされてしまうかもしれない。
 今のところ鳥羽には特定の恋人はいない。仕事が忙しくて休みも月に一度あるかないかというくらいスケジュールが詰まっているから、恋愛どころではないのかもしれない。常に鳥羽と一緒にいられる女はマネージャーである奈緒だけだ。そのことだけが想いを胸の奥底に押し込め続ける奈緒の唯一の救いであった。
「ねぇ……私の車で帰らない? 送っていくわよ」
 その言葉に込められたわずかな期待は、鳥羽の笑顔でサラリとかわされた。
「奈緒ちゃんの家、オレんちと反対方向でしょ? 奈緒ちゃんにそんな手間かけさせるなんてこと、オレにはできませんよ」
 いたずらっぽく笑うその表情には、何の悪意も感じられない。彼は本心からそう思っているのだ。下心を持たれるほうがずっとマシだというのに。
 荷物を詰め込んだブランド物のボストンバッグを掴んで、鳥羽はドアに向かった。
「んじゃ、また明日」
 肩越しに奈緒を振り返る。
「気をつけて帰るのよ」
 背を向けたまま手を振って、鳥羽は控え室を出て行った。その背中を追いかけるように吐かれた奈緒の大きなため息が主のいなくなった控え室を満たしていた。

 玄関を一歩外に出ると、春の乾いた風が湿り気の残る髪をかき乱した。
 左手首の腕時計を見ると、デジタルの無機質な字で「二三時三一分」と表示されている。朝九時にここに入ったのだが、撮影が押して結局こんな時間まで拘束されてしまった。
 夜の空気を震わせるように、静かに息を吐くとわずかに白い蒸気が立ち上る。桜も散ったというのに珍しく今日は寒い。空を見上げると、雲一つない澄んだ夜空一杯に春の星座が散りばめられていた。
 鳥羽は夜の通りを歩みだした。奈緒の言っていた大きなビルを目印に黙々と脚を進める。
 歩いていると、色々な思いや考えが浮かんでは消える。最近は車で移動することが多くて、歩くことがめっきり少なくなった。こんな機会は滅多にない。
 AV男優になってはや九年。ここまで長いようで短い道のりだったように思う。
 決して楽な道のりではなかったことは確かだ。AV男優という職業を一般人に明かすと「セックスして金が貰えるなんて羨ましい」とよく言われるが、人から羨ましがられるほどおいしい仕事だとは、鳥羽自身全く思っていない。
 どんな仕事でも、楽なだけの仕事などないのだ。他人から見れば「セックスしてるだけ」と思われるかもしれないが、鳥羽の年収が数千万に達するのにはそれなりの苦労と努力があるからなのであって、それも知らないでただ羨ましがられるのは少し腹立たしい。
 それにAV男優だというと、女に不自由していないと思われる。確かにそういう男優もいる。しかし、鳥羽が女とセックスするのはあくまで「仕事」なのであって、それがプライベートに繋がっている訳ではない。
 そもそも、相手の女優が自分好みであるとは限らない。それでも仕事は絶対にやり遂げなければならないのだ。相手がどんなに嫌いなタイプでも、主役はあくまで女優。撮影前から優しい言葉をかけて気分を盛り上げ、カメラアングルを気にしながら女優を感じさせ、必ずイカせなければならない。自分自身の快楽を求めることなど二の次である。
 自分は他人に言われているほど女に優しい性格だとは思わない。
 仕事で見せる優しさの殆どはホスト時代に会得した条件反射のようなもので、本当の自分は女に失望し、恋愛に幻滅している。
 鳥羽が最後にした恋愛はもう何年も前のこと、相手はAVの世界とは全く関係のない普通の女だった。鳥羽がAV男優であるとわかった途端、彼女は自分の前から消えた。当然の反応だ。まともな倫理観の持ち主なら、他の女とセックスして堂々と帰ってくる男を平然と迎えられるわけがない。
 鳥羽がAV男優だと知っていて好意を抱いてくれる女もいることはいるが、その場合遠回しにセックスを求められることが多い。有り体に言えば、自分が気持ちよくなりたいからセックスの上手い鳥羽をベッドに誘おうとしてくるのだ。仕事であれば相手をするが、プライベートで相手できるほど暇でも酔狂でもない。大体、下心がミエミエでそれだけで萎えてしまう。
 自分がAV男優である限り、女は自分に身体を求めるか、拒絶するか、そのどちらかなのだ。「AV男優」という肩書きがあまりにも重すぎて、誰も自分の本当の姿を見てくれようとはしない。
 それを悟った時、鳥羽の中で女に対する感情は麻痺してしまった。
 女が目の前に裸で横たわっていても、服を着て街を歩いていても、今の鳥羽には何一つ変わりないもので感情が揺れることはない。あらゆる女の容姿も地位も性格も、今の鳥羽にとっては女の何もかもが同一で変化のないものになってしまった。
 だからかもしれない。あれだけ望んだこの世界の頂点に立ったというのに、胸に広がり続けるこの虚無感。やっかみ半分の声や視線を受けるよりも、心を蝕む空しさに痛みさえ感じないことのほうが苦しい。
 そして、上り詰めた頂点のさらに上に広がる虚空に、これからの行き先を見失っている自分がいる。
 自分は今、人生の転機を迎えているのかもしれない。
 きらびやかにそびえたつ巨大なビルを見上げて、鳥羽は思いを噛み締めた。
 無我夢中のうちに三十歳を越え、男としては旬の時期を迎えている。一般的にも仕事が一番充実する年齢だ。
 ここで立ち止まっていてはいけない。男優としての頂点に立つことで満足してはいけないのだ。いつまでもこの地位にしがみ付いているだけではなく、AV男優として、一人の男として、更に飛躍するための翼を手に入れなければならないはずだ。
 今の自分はそれを探して、苦しみ、もがいているのかもしれない──
 考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか目当てのビルの真下に辿り着いていた。何処をどう通ってきたのか思い出せないほど、深く考え込んでいたようだ。
 都内でも有数の繁華街らしく、もうすぐ日付が変わる時間だと言うのに街はまだまだ眠る気配を見せない。それでも今夜は冷えるせいか、人影は少なかった。
 鳥羽は止めていた足を少し速めに動かした。堅い靴音が近くを走る高速道路の騒音にかき消される。その後に訪れた一瞬の静寂に、軽く早いリズムの靴音が響き渡った。
 不意に、頬を撫でるような柔らかな風が追い越していく。
 足元のレンガブロックを数えていた鳥羽が顔をあげると、その風には色がついていた。春にふさわしい柔らかい萌黄色だ。
 その風の正体がシフォン素材のドレスであることに気付いたのと同時に、ドレスをまとう女の身体が大きく前につんのめった。ベビードールドレスの裾から下着が見えてしまうのではないかと思うくらい大きく股を開いて、小さな悲鳴をあげて女は正面から地に伏した。ヒールが地面のブロックに躓いたのだろう。彼女の二歩後ろには片方の靴が転がっている。
 あまりの豪快さに、鳥羽は口をポカンと開けて棒立ちになっていた。我に返るまでの数秒の間に、女は手をついて上半身を重そうに持ち上げ、後ろを振り返った。
 鳥羽に見せたその顔は、まだ幼ささえ残す可憐な少女だった。淡い色のドレスに映える長く艶やかな黒髪が童子人形のようで少女をより幼く見せる。
つぶらな瞳が真っ直ぐ鳥羽を捕えている。派手に転んでしまったことを恥じるのではなく、一部始終を見ていた鳥羽を責めるのでもなく、野獣に睨まれた小動物のように脅えた目。
 確かに黒スーツにサングラスという鳥羽の格好は多少威圧的に映るかもしれない。しかし自分が少女を転倒させたわけではない。それを証明するためにも、少女に手を差し伸べようとポケットに突っ込んでいた手を出そうとしたその時、鳥羽は少女の瞳が自分を見ていないことにようやく気付いた。
 その視線は鳥羽の横をすり抜け、遥か後方を見つめている。少女の脅えた様子が気になりながらも、鳥羽は後ろを振り返った。
 人影が三つ、ゆったりとしたスピードでこちらに近づいてくるのが見える。近づくにつれて、それが屈強そうな黒人男性二人と白人男性一人という組み合わせであることがわかった。
 追われている──
 鳥羽がそう悟って再度少女を振り返ると、少女はもう立ち上がっていた。ドレスの下から伸びる細い脚はストッキングが破れ、膝に血が滲んでいる。目の前に立つ鳥羽の姿に気付いているのかいないのか、何も言わずに彼女は片方の足に残っていたヒールを脱いだ。
 鳥羽は無意識のうちに彼女に向かって手を伸ばしたが、その手は虚空を掴んだ。少女は身を翻して、風のようにまた走り出していた。
 少女を捕え損ねた腕の横を、今度はスピードを上げてきた三人の男達が巻き起こす暴風が通り抜ける。あっという間に少女が男達に囲まれ捕えられる光景を、鳥羽は呆然と見つめていた。
 男の一人に腕を掴まれ、少女は暴れるようにしてその手を振り解こうと必死になっている。少女をなだめるように三人の男は何事か語りかけているが、何と言っているのか英語のできない鳥羽にはさっぱりわからない。
 流暢な英語で少女は叫んだ。意味はわからないが、明らかに男達を拒否する言葉だ。それでも男達は少女の手を離そうとしない。 
 鳥羽は正直言って迷っていた。相手は明らかに自分より強そうだ。しかも三人。これでも一応顔と身体で売っている商売なので、怪我をすると翌日の仕事に支障が出てしまう。
 逡巡する鳥羽の目に地面に転がる一対のヒールが映った。ドレスと同じ萌黄色のヒール。少女が履くには少し大人っぽい感じがする。
 彼女は今、裸足なのだ──そのことに改めて気付くのと同時に、鳥羽の心は決まった。
 大股で近づき、少女を捕える男の黒い手を掴んだ。
「嫌がってるだろ。やめろよ」
 だが、鳥羽に向けられた男達の視線は明らかに戸惑っていた。
 日本語が通じなかったのだろうか。さっきの言葉を英語でなんと言えばいいのか思案していると、黒人の男が口を開いた。
「ぼくハこのひとニわすれものヲわたしタイだけデス」
 今度は鳥羽が戸惑う番だった。この黒人がちゃんとした日本語を喋ったことも驚きだったが、それ以上にその言葉に意表を突かれた。
「え、そうなの?」
 鳥羽が間の抜けた顔を少女に向けると、彼女はいまだ掴まれた腕を離そうと必死になっていた。もはや半狂乱で、何を言っても耳に入らないといった様相だ。
 鳥羽は再度男達に疑いの目を向けたが、困惑気味な視線が返ってくるだけで彼らが嘘をついているようには見えなかった。それを証明するように黒人は少女の手を離し、ハンドバッグを少女に差し出した。
「これ、わすれものデス」
 そこでやっと少女は暴れるのをやめた。拍子抜けするほど気の抜けた顔をして、目の前に差し出された女物のバッグと黒人の顔と見比べている。
 少女は黒人に向かって早口の英語で語りかけた。三人の外人と少女の間で交わされる英会話は鳥羽には全く理解できず、蚊帳の外に置かれたようで気分がよくない。
 それでも、その様子を見ていれば何を話しているのか何となくわかった。忘れものを渡そうと追ってきた男達を、少女はナンパと勘違いしたようだ。男達を見る少女の目は疑惑から当惑へ、そして羞恥へ変わり、しまいにはバッグを受け取って何度も頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返し口にしていた。
 男達は少女の勘違いに怒るわけでもなく、むしろ平謝りする少女を元気付けるように肩を叩き、最後は笑顔で手を振りながら去っていった。
 その背中が見えなくなるまで謝り続ける少女の横で、鳥羽は一人憮然としていた。
「人騒がせな奴だな」
 非難めいた声に少女はビクッと身体を震わせて、恐る恐る鳥羽に向き直った。
「ご、ごめんなさい……」
 さっきと同じ脅えた瞳。小さな身体をより一層縮こませて震え、破れたストッキングから覗く白い脚と膝に滲む鮮血が何とも痛々しい。眉根を寄せて上目遣いでこちらをうかがうその仕草に、鳥羽は責める気を無くした。
 大きなため息をついて叱責の言葉を逃がし、素っ気なく言った。
「もういいよ……靴持ってきてあげるから、そこのベンチに座ってなさい」
 少女の答えを待たずに鳥羽は背を向けて、地面に転がる二つのヒールに歩み寄って両手で拾い上げた。
 振り返ると、少女はゆっくりと地面を確かめるようにして歩き、真横にあったベンチに腰掛けるところであった。細く長い足をきちんと揃えて座り、うなだれるように俯いた少女の姿は哀れでさえある。
 勘違いであったとはいえ、少女のあの錯乱振りは異常なほどだった。鳥羽に対しても必要以上に脅えている。何がそんなに怖いのか、鳥羽はその訳が知りたかった。
 鳥羽が近づくと、少女は寒そうに震えていた。無理もない。スーツをしっかり着込んでいる鳥羽でさえ寒いと感じるのに、少女は薄い素材のドレスを着ているだけなのだ。
 鳥羽に気付いて少女は疲れきった顔をあげた。月明かりに照らされたあどけない顔は微かに青ざめて見える。涙の後を残す白磁の陶器のような素肌と桜色に染められた唇のコントラストが、化粧の濃い女達ばかり見ている鳥羽には新鮮に思えた。
 両手にヒールを握り締めたまま、鳥羽は少女の潤んだ瞳の中で揺れる自分の姿に魅入っていた。
 吸い込まれそうな瞳というのは、こういう目のことを言うのだろう。
 視線を奪われて、自分から目を逸らすことができない。少女もまた目を逸らそうとせずに、鳥羽をじっと見つめている。
 困惑と、恥じらいと、畏怖。
 その全てが入り混じった黒曜石の瞳の中で、鳥羽は立ち尽くしたまま動けないでいた。
「あの……どうしたんですか?」
 少女のおどおどとした声で、鳥羽は我を取り戻した。
「あ、ごめん。今、履かせてあげるよ」
 鳥羽が足元に跪くと、少女は慌てて両足を引っ込めた。
「自分で履きます」
 しかし鳥羽は少女の右足を取り、前に伸ばした。あっさりと抵抗することを諦めたその足に、ヒールをそっと履かせる。整えられた爪先はヒールに吸い込まれるように収まった。
「ピッタリ。君こそシンデレラだ」
 おどけて鳥羽が顔をあげると、少女の驚いた顔がようやく笑顔に変わった。
「ありがとう」
「やっと笑ったね。女の子はやっぱり笑った方が可愛いよ」
 少女が見せた柔らかな笑顔に、鳥羽は救われるような気がした。鳥羽は立ち上がり、少女を見下ろした。
「何があったのかは無理に聞かないけどさ。今度からはこういうことないようにね」
 自分を見上げる少女に向かって教師のように注意して、鳥羽は帰ろうと身を翻した。
「あ、あの……待って下さい……」
 呼び止める声に振り返ると、少女のすがるような瞳が待ち受けていた。
「もう少し……そばにいてくれませんか?」
 その願いには逆らえそうもなかった。幼い少女が脅えて、震えて、自分に助けを求めているのだ。そばについてやるぐらいのことはしてやらなければ。
 鳥羽は少女の隣に腰を下ろし、背もたれに寄りかかって夜空を仰いだ。少女は礼を言うわけでもなく、また俯いてモジモジとしている。しばらくしてやっと落ち着いたのか、少女は語り始めた。
「あの……本当にごめんなさい。私の勘違いだったんです。そこのフィアットホテルでパーティーがあってそれに出席してたんですけど、バッグをロビーのソファに置いたままだったらしくて、あの人達が私に届けてくれようとしてたみたいなんです」
「なんで逃げたりしたの? ちゃんと話を聞けばすぐにわかることでしょ?」
 鳥羽が顔を向けてそう言うと、少女の表情が途端に曇り、そして身体を強く抱き締めて震えだした。
「私……私……」
 その瞳がまた脅えだした。だがその目は鳥羽ではない、他の何かを見ているようだった。
「……ニューヨークでレイプ未遂にあったんです」
 その一言で鳥羽は全てを悟った。
 自分を追いかけてくる外国人──それは彼女に悪夢を思い出させるには充分な光景だったのだ。だから話を聞くどころではなく、あんなに震えおののいて、髪を振り乱してまで強く抵抗していたのだ。
「そっか……それでか。そう言う事情があったんならしょうがないね」
 だが少女は首を横に振っていた。
「わかってるんです……ここは日本で、私はあの時の私とは違うんだって。それなのに……男性にちょっとでも迫られるとすぐにあの時のことを思い出してしまって……他の人に迷惑をかけてしまって……」
「よっぽど怖かったんだね……でももう大丈夫だよ。今はオレがついててあげる」
 そう言って微笑んだ鳥羽の顔を、少女はじっと見つめた。
 あどけない中にも大人になった時の色香を予感させるような表情が見える。女性として未完成の美しさ。不安定でありながらその絶妙なバランスが鳥羽の心をくすぐる。
「あの……失礼ですけど、警察の方ですか?」
 少女の問いに鳥羽は答えようとして、喉まで出掛かった言葉を止めた。
 いや、AV男優だよ──正直に答えたら、少女は間違いなく逃げ出すだろう。レイプ未遂にあって、未だその悪夢を引きずっているのだ。AVなどパニックを引き起こす悪因以外の何物でもない。
「──なんでそう思ったの?」
「……こういうときに助けてくれるのって警察の方だからかなって思って……あの時も警察官に助けられましたから」
 鳥羽はふと思い出した。今日の撮影で自分は「悪徳刑事」の役だったのだ。被疑者の恋人をいたぶって、辱めて居場所を聞き出すという残虐非道な警察官を演じていたのだった。
 だからというわけではないが、ここはとりあえず少女の勘違いに乗ることにした。
「よくわかったね。台場署の鳥羽充です」
 軽く敬礼するようなポーズをとり、おどけて笑ってみせる。警察署の名前は適当に作ったのだが、それっぽく聞こえたのか少女は何の疑いも持たずに心から安堵したように微笑んだ。
 その微笑みが嘘の罪悪感を大きくする。しかし、本当のことを言ってこの少女をこれ以上脅えさせるわけにはいかない。またパニックを起こされたら面倒だし、あの脅えた瞳で見つめられるのは我慢ならない。
 鳥羽は気を取り直すように、一つ咳払いをした。
「お父さんとお母さんは何処? 名前は? 年齢は?」
 まるで迷子を取り扱う警察官のように鳥羽は少女に聞いた。こんなホストみたいな警察官がいるわけがないのだが、少女は鳥羽を信用しきっているらしく、頬を赤らめてそれに答えた。
「川南あずさといいます。あの……大学二年生で……ついこの間二十歳になりました」
 鳥羽は開いた口が塞がらなかった。見た目はどう見ても十二、三だ。小学生くらいか、いや喋る事が大人っぽいから中学生かもしれない、なんて思っていたら大学生だったとは。
「女子大生? マジで? 何処の大学?」
「T大の文Tに通ってます」
 その言葉にまたもや驚いた。T大とは「日本の最高学府」と呼ばれる非常にレベルの高い大学だ。しかもそこの文科T類といえば、将来の日本を背負って立つ優秀な人材が集まるところではないか。か弱いお嬢様かと思っていたら、ただのお嬢様ではなかった。
「ご迷惑をおかけして、本当にすいませんでした」
 あずさは立ち上がって、深々と頭を下げた。素直で礼儀正しくて、本当に可愛い子だ、と鳥羽は率直に思った。きっと育ちの良いお嬢様なのだろう。
 芯は意外にしっかりした子なのかもしれない。鳥羽を見つめる瞳には恐れも惑いももう見えなかった。その代わりに空のように澄んだ瞳の奥に、秘められた強い意思が見えたような気がした。
 その時、鳥羽の腕時計からデジタル音が鳴った。日付が変わった合図だ。
「十二時か。シンデレラはそろそろ帰る時間だよ」
 時計を確かめながらそう言った鳥羽に、あずさは微笑んで応えた。
「よし。じゃあ、帰ろうか。タクシー乗り場まで送ってくよ」
 二人が立ち上がると少し強めの風が吹いて、あずさの首に巻かれたスカーフがなびいた。寒そうに肩を震わせるあずさに、鳥羽は自分のジャケットを脱いで震える肩にかけてやった。
「さ、行こう」
 ブカブカのジャケットに包まれた小さな背中に手を当てると、あずさは嬉しそうに鳥羽を見上げ、そっと寄り添ってきた。
 恥じらいを見せながらも鳥羽に深い信頼を寄せるあずさ。
 鳥羽の心は激しく揺さぶられていた。嘘をついたことにこんなにも罪の意識を感じるのは初めてかもしれない。それを忘れるように、鳥羽はあずさに話し掛けた。
「パーティーって、誰かの結婚式だったの?」
「いえ、シンガポール大使館主催のレセプションパーティーだったんです」
「へ? シンガポール……大使館?」
「シンガポールの駐日大使が母の古い友人で、私は母の代理で出席したんです」
「お母さん、仕事か何か?」
「母は外交官でミラノにいるんです。父も兄も外交官で、父は香港、兄はブラジルにいます。家族の中で日本にいるのは私だけなんです」
 外交官一家の中で育ったお嬢様──まさにセレブだ。しかも母親がシンガポール大使の友人ともなれば、相当な地位にあるに違いない。
「じゃ、君も将来は外交官になるの?」
 あずさはわずかに表情を曇らせた。
「父と母はそれを望んでますけど……」
 鳥羽に向けられたわずかな笑顔は作られたものだった。それに気付いて、鳥羽はそれ以上の詮索を止めた。彼女には彼女なりの悩みがあるのだろう。
 二人は何も語らず、靴音だけを響かせていた。
 すれ違う人達が明らかに不釣合いな二人が並んで歩くのを興味深そうに見つめている。自分達がどういう関係なのか探っているのかもしれない。
 せめて心の中はあずさを守る騎士になった気分で、鳥羽は背筋を伸ばして、あずさに細心の注意を払いながら歩いた。そしてあずさも守られるお姫様のように、鳥羽に寄り添って決して離れようとしなかった。
 ホテルのエントランスに止まるタクシーの最前列に辿り着くと、タクシーのドアが開いた。
「シンデレラ、かぼちゃの馬車へどうぞ」
 鳥羽が真面目な顔で手を差し伸べると、あずさは微笑みを返した。そしてタクシーに乗り込もうとして、思い出したのか慌てて鳥羽のジャケットを脱ぎ始めた。
「あ、そのまま着ていっていいよ。どうせ安物だし」
 あからさまな嘘だ。襟元のタグをよく見れば高級ブランド名が書いてある。
「でも……それじゃ鳥羽さんが……」
「オレは大丈夫だよ。気にしないで」
 やはり寒いのだろう。あずさはしばらく迷っていたが、脱ぎかけたジャケットをもう一度肩に掛け、鳥羽の言葉に甘える意思を見せた。
「では、私のほうからお返しに上がります」
 鳥羽は慌てた。本当に来られたら嘘がバレてしまう。
「あ、オレね、刑事だから署には殆どいないんだよ。だからホントに気にしないで」
「いえ、そういうわけには参りません。せめてどこかでもう一度お会いできませんか?」
 あずさの切実な瞳に見つめられて、鳥羽は言葉を詰まらせた。これ以上拒否すれば、逆に怪しまれてしまう。しかしもう一度会えば、心苦しい嘘を重ねることになってしまうのだ。
 鳥羽は覚悟を決めた。
「──じゃあ、明後日の六時、このホテルのロビーで会おう」
 あずさは納得して笑顔を見せた。
「わかりました。では、その時にまた」
 あずさは一礼してタクシーに乗り込み、自動的に閉まったドアの窓を開けて顔を出した。
「今日は本当にありがとうございました。鳥羽さんのような素敵な男性にお会いできて嬉しかったです」
 嘘つきな男に向かって泣かせるようなセリフを言う。期待に応えるべく、鳥羽は最後まで騎士を演じることにした。あずさの手を取り、身を屈めて手の甲にキスをする。
「あずさちゃん、今度会う時は硝子の靴を持っていくよ」
 あまりにクサいセリフにもあずさは失笑することなく、優しい微笑みでそれに応えた。
「楽しみにしてます。失礼致します」
 あずさはもう一度頭を下げた。
 窓が閉まるのと同時にタクシーが動き出した。ホテルのエントランスを回って道路に出て行くタクシーの後ろ姿を見送り、エンジン音が夜の喧騒に溶け込んで聞こえなくなるまで鳥羽はその場に立ち尽くしていた。
 再び駅に向かって歩き出す。
 あずさを送って歩いた道を、今度は一人で辿る何とも言えない寂寥感。
 この肌に感じる寒さはジャケットを脱いだせいだけではない。遠い昔に感じた、胸を締め付けるようなこの想いに気付いて、我ながら少し気恥ずかしくなった。
 皮肉なものだ、と鳥羽は思った。
 仕事で三千人もの女とセックスしてきた自分が、あずさのような可憐な少女に、それも性欲とは無縁の場所にいる純粋無垢な少女に、こんな風に心を躍らされるとは。感情の存在しないセックスばかりしている自分が、あずさの恥じらう表情に、自分が見せた優しさに心から感謝する微笑みに、ただそれだけに心を激しく揺さぶられている。
 しかし、自分はあずさに嘘をついた。それを思うと心が苦しくなる。
 あの場であずさを安心させるためには必要な嘘だったとはいえ、「AV男優」という仕事に誇りを持っていたはずの自分がとても情けなく思えた。
 だが、その情けなさを忘れさせる、嘘の罪悪感でさえ甘く感じさせる何かがあずさにはある。
 この胸に湧き上がる名前すら忘れてしまった感情の正体が、もう一度会った時にわかるような気がした。

 それから四二時間のあいだ、鳥羽は少々上の空だった。
 それでも仕事だけはきっちりやる男だ。そのあいだに鳥羽は五人の女優を抱いたが、奈緒以外に彼の変調に気付く者は誰一人としていなかった。
「どうしたの? 今日はなんだか変よ」
 あずさと約束した時間まであと一時間。何とか撮影が終わって帰り支度を始めている鳥羽の背中に奈緒は言った。
 今日もいつもと変わらぬ気配りを見せていた鳥羽だったが、話を聞いていなかったり、セリフを間違えたり、普段の鳥羽ならやりそうにもないちょっとしたミスを奈緒は見逃していなかった。
「体調悪いんじゃないの?」
「そんなことないって。大丈夫だよ」
 体調がすぐれないのは事実だった。あの寒空の中をジャケットなしで帰ったのが効いたのか、鼻がぐずついている。だがその程度のことであって、特別心配されるようなことでもない。
「そう……それならいいけど」
 とは言ったものの、奈緒は納得していなかった。
 何か隠している──女のカンがそう告げている。奈緒は何気なく声をかけた。
「ね、早く終わったからゴハン食べに行かない? 和食のいい店見つけたのよ」
「ごめん。今日はこれから人と会う約束があるんだ」
 そう言う鳥羽の背中が、何処となく浮ついたように見える。奈緒のカンが最大限に働いた。
「女性?」
 鳥羽が振り返った。少し怖いくらいに真面目な顔をして、奈緒を見つめている。
 図星だ、と奈緒は思った。だからといって、鳥羽の行動を制限する権利は奈緒にはない。
「珍しいわね。あなたがプライベートで女性とデートするなんて」
 その声は平静を装っていたが、奈緒は内心で嫉妬の炎が燃え始めるのを感じていた。
「デートなんてものじゃないよ。貸した物を返してもらうだけさ」
 苦笑いする鳥羽の表情に、嫉妬の炎は急速に鎮火した。ホッとするのと同時に、鳥羽が今更女性とどうこうなることはない、と改めて自分に言い聞かせる。
 だが、その割に、背中に漂う雰囲気がいつもと違う気がする。さっきは浮ついたように見えたが、今は何となく迷っているように見える。
 自分の胸の内も、さっきから胸騒ぎがしてならなかった。
「どこで待ち合わせてるの? 送ってくわよ」
 帰り支度を済ませた鳥羽はいつものようにカバンを担ぎ、背中越しに顔だけを振り向かせた。
「いいよ、一人で行く。じゃ、また明日」
 奈緒が次の句を言う前に鳥羽は部屋を出て行った。

 スタジオを出ると雨が降り出していた。まだ日の入りの時刻には早いが、重苦しい雨雲が夕暮れの空を覆い尽くし、少し早めの宵を作り出している。
 鳥羽は通りを走るタクシーに手を挙げて止め、開いたドアに滑り込んだ。
「フィアットホテルまでお願いします」
 タクシーが走り出す。今、十七時十五分。多少道が込んでいたとしても、充分間に合うだろう。
 車窓を流れる雨に濡れた街の灯りをぼんやりと見つめながら、鳥羽はあずさのことを思った。
 あずさは雨に濡れていないだろうか。嘘つきな自分のために彼女をこの雨に晒すのは非常に心苦しい。一昨日も寒そうにしていたので風邪を引かないか心配だ。
 雨に濡れるあずさの姿を思い描き、疼くような胸の痛みを感じて鳥羽は目を閉じた。
 何故こんなにも心を揺さぶられるのだろう。
 女は皆同じに見えていたはずだ。だからこそ誰にでも優しくできたし、誰も好きになることはなかった。それなのに──あずさの美しい瞳に見つめられて、胸をときめかせている自分がいた。
 何故そうなったのか、自分でもわからない。ただ、あずさの澄んだ瞳の奥深くに、自分がもがき苦しみながら探している答えがあるような気がしている。どこか脆くて儚げな佇まいでありながらも、その中に強い芯が一本通っているような、そんなあずさの不思議な雰囲気がそう思わせるのかもしれない。
 会えばわかるのだろうか。答えは見つかるのだろうか。曇った車窓を指で拭き、クリアになった視界に鳥羽はあずさの笑顔を見ていた。
 車はあっという間にフィアットホテルのエントランスに着いていた。料金を支払ってタクシーを降りると、ドアマンがドアを開けて出迎えてくれた。
 ロビーに入り、辺りを見回す。あずさらしき姿は何処にも見当たらない。
 ティールームの片隅にあるテーブルにつき、コーヒーを頼みながらもう一度周囲を確認した。あずさのような長い黒髪の女性は誰一人としていない。時計を見るとまだ十分前だった。早く着いてしまったようだが女性を待たせるよりはマシだ。
 コーヒーが運ばれてきて、それに口をつける。この辺りだけは夕暮れ時の忙しない街の喧騒を知らないかのように、静かでゆっくりとした時間が流れている。
 鳥羽は一人がけのソファに身を深く沈めて、静かに息を吐いた。入れたてのコーヒーの香りが今日一日の仕事の疲れを癒してくれるようだ。時計を確かめると、十八時ちょうどだった。この雨ではあずさは少し遅れるかもしれない。そう思って目を閉じたその時──
「鳥羽さん?」
 自分の名を呼ぶ声に目を開けると、テーブルの横に知らない女が立っていた。
 モスグリーンのジャケットにジーンズ、足には歩きやすそうなスニーカー。肩にキャンバス地のトートバッグをかけている。ひっつめた髪型に縁なしの眼鏡という顔の女は、眼鏡の奥のつぶらな瞳で鳥羽の顔を心配そうに覗き込んでいる。
 その瞳には見覚えがあった。
「もしかして……あずさちゃん?」
 鳥羽が驚いて問い返すと、彼女は笑顔を取り戻した。
「そうです。あずさです。お待たせしたみたいでごめんなさい」
 対照的に鳥羽はあっけに取られていた。あの花のように可憐な少女がお堅い大学生ファッションで現れたことで、その大きな変わりように鳥羽は驚きを隠せなかった。
 あずさの髪には真珠をちりばめたように水滴が光っていた。肩も少し濡れている。荒い息を整えようと深呼吸を繰り返すあずさが、自分に会うために急いで走ってきたのかと思うと、少しいじらしく思えた。
「い、いや、いいんだよ。さ、座って」
 気を取り直して目の前の席を勧めると、あずさは嬉しそうに返事をしてソファに腰掛けた。
「このあいだと全然違う格好だったからびっくりしたよ」
 率直な意見をぶつけると、あずさは急に頬を赤らめた。
「大学から真っ直ぐここに来たんです。本当は一度帰って着替えてこようと思ったんですけど、授業が押しちゃってギリギリの時間になってしまったものですから」
 そうやって恥じらう顔はこの間と何一つ変わらなかった。
 確かに衣装もヘアメイクもこの間とは全く違うが、全身から滲み出る清楚な佇まいは隠しようがない。ドレス姿も良かったが、この身なりも彼女が勉学一筋に励んでいる姿を連想させて好感が持てる。
「こんな格好でごめんなさい。男性に会うっていうのに失礼ですよね」
 そう言うあずさに、鳥羽は首を横に振って見せた。
「いや、よく似合ってるよ。少なくとも君が大学で一生懸命勉強してるのがよくわかる」
「それって褒め言葉になってませんよ」
「学生なんだから、勉強が一番でしょ? どんな格好をしてても君は可愛いよ」
 決して世辞などではない。その本心はあずさにも伝わっていた。
 あずさは恥ずかしさを隠すためか、ちょうど横を通りかかったウェイターを呼び止めた。
「カフェオレを下さい」
 ウェイターが去ってもまだ恥ずかしそうに俯いているあずさの微笑ましい姿を、鳥羽はコーヒーを啜りながら優しく見つめていた。
 カフェオレが運ばれてきて、それを一口飲んでやっと落ち着いたのか、あずさは口を開いた。
「今日はお仕事早く終わったんですか?」
「え? あ、ああ……そう、今日はたまたま早く終わったんだよ」
 仕事の意味を理解するのにしばらくかかってしまい、鳥羽はしどろもどろに答えてしまった。
「お忙しいのにお時間を割いていただいてすみません。これ、どうもありがとうございました」
 そう言って、あずさは後ろから紙袋を取り出し、鳥羽に手渡した。中にはこの間のスーツの上着がビニールに包まれて入っていた。
「わざわざクリーニングに出してくれたの?」
「お借りした洋服はきれいにして返すのが礼儀です。あ、そうそう、これがポケットの中に入っていたので出しておきました」
 あずさが差し出したのは小さく折りたたまれた紙切れであった。手にとるとそれはメモ用紙で、何やら住所が書いてある。頭の中でその住所を反芻すると、それが何処なのかすぐに判明した。何のことはない、AVを撮影していたスタジオの住所だ。
「あ、ありがと」
 あずさがこの住所を見てどう思ったかは知らないが、ここで余計な詮索をされても困るので、鳥羽は焦ってメモをポケットに押し込み、話を逸らした。
「あのさ、この間思ったんだけど、あずさちゃんって、もしかして帰国子女?」
「ええ。生まれはボストンで、その後シンガポールとニューヨークに住んでました。中学からは日本の学校ですけど」
「やっぱりそうなんだ。道理で英語が上手いはずだよね。こっち帰ってきてからは女子校?」
「ええ。中学、高校と女子校でした」
「ちょっと前まで可愛い制服着てたんだ……見てみたかったなあ、あずさちゃんの制服姿」
「うちの学校の制服は可愛くなかったですよ。古臭いセーラー服で、ブレザーの学校が羨ましかったんですから」
 鳥羽の頭の中に、セーラー服を着たあずさの姿が映し出される。
 オーソドックスな三本線の襟に白のスカーフ、プリーツスカートの下に伸びる脚には真っ白い三つ折のソックス。三つ編みのおさげ髪がノスタルジックである。
 想像の中のあずさは何故か横座りで、白い脚を無防備に投げ出している。そして胸が大きい。上目遣いで男に媚びるような視線をこちらに投げかけている。
 職業病なのか、ついAV女優的な想像をしてしまう。目の前に座るあずさは慎ましやかで胸は小さく、決して男に媚びることのない強い意思を含んだ目をしているというのに。
「でもさ、中学高校と女子校だと、大学に入って大変じゃなかった?」
 あずさは小さく笑った。
「さすがに大学生になったら『男性が怖い』なんてことは言ってられませんでしたね。昔は男性に触れられるのもダメだったんですけど、今は男性の友人もいますよ」
「じゃあ、もう彼氏がいたりするわけ?」
 あずさは急に寂しげな笑みを浮かべて、首を横に振った。
「未だかつて男性とお付き合いしたことはありません。できないんです」
「──やっぱり身体を求められるのが怖い?」
 鳥羽の問いに、あずさは悲しそうに頷いた。
 予想された答えだった。
 幼少の頃の恐怖体験がトラウマとなり、今も心に重く圧し掛かっている。鳥羽の経験上、そういう傷を持った女性は、大人になっても性に対してマイナスイメージを抱き続けていることが多く、それを癒すのは並大抵のことではない。
「お付き合いしたくないわけじゃないんです。実際、『いいな』って思える男性だって何人かいました。けど……私が男性に求めるものは、身体じゃなくて心の繋がりなんです。だけど、それを男性に言っても信じてもらえないんです」
 心に深い傷を負ったあずさが男に身体ではなく心を求めてしまうのは当然のことだ。だがしかし、現実として男の多くはそれだけでは満足しない。いや、「心の繋がり」などという言葉自体がもはや理想であって、直接的な快楽を求める人間にはそれすら理解できないのかもしれない。
 あずさは急に身を乗り出し、鳥羽に詰め寄った。
「身体が繋がらなかったら、恋愛とは言えないんでしょうか? 心の繋がりだけを求めるなんておかしいんでしょうか?」
 そう問い掛けるあずさはどこか必死であった。鳥羽は怪訝に思いながらも、なだめるように答えを返した。
「おかしいとは思わないよ。世の中には身体の繋がりだけを求める人間だって一杯いる。心だけを求める人がいたって不思議じゃないよ」
「鳥羽さんは……」
 呟くように名を呼ばれて、鳥羽はコーヒーに伸ばしかけた手を止めた。顔をあげると、あずさの一途な視線が鳥羽を射抜いていた。
「鳥羽さんも……女性に身体を求めるんですか?」
 潤んだ瞳、朱に染まる頬、微かに震える唇。今にも泣き出しそうな顔で、鳥羽をじっと見つめている。その表情に、鳥羽は胸を突かれた。
 あずさは、自分に好意を持っている──
 言葉にしなくても、あずさの表情からはそれがはっきりと見て取れる。だが、それを知って、鳥羽は言葉に詰まった。
 あずさは自分を試している。
 自分がどう答えるかで、あずさはその後の態度を変えてくるだろう。あずさがどういう答えを望んでいるかもわかる。その答えを口にするのは簡単だが──
 ならば、自分は何を望んでいるのか?
 鳥羽がそれをじっくり考えている間、あずさはその一挙手一投足を見逃すまいと鳥羽から決して視線を離そうとしない。そして、鳥羽はゆっくりと口を開いた。
「オレも女性に身体を求めない……って言ったら、あずさちゃんは信じる?」
 あずさは頷き、微笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん」
「オレは女性が好きになれないんだ」
 あずさの微笑みが一瞬にして消え、表情が凍りついた。
「ホモってわけじゃないよ。女性に対して特別な感情を持てないんだ。ただ、それは本当に好きになれる女がまだ目の前に現れてないからかもしれない。だからね、正直なところは本当に身体が必要ないかどうかはよくわからないんだよ。今は女もセックスも必要ないと思ってるけど、本気で好きになれる女性が現れたら求めてしまうかもしれない」
 あずさは複雑な表情を浮かべていた。怒っているのか、困っているのか、悲しんでいるのか、どれともつかない表情だ。
「なんだか曖昧だわ……はぐらかされたみたい……」
 詰るような口調であずさは言ったが、鳥羽はそれでも余裕の笑みを崩してはいなかった。
「君の納得いかない答えを出したのが許せない?」
 あずさは図星を指されて、また顔を赤くした。一瞬言葉に詰まったが、ため息と共に諦めの言葉を吐いた。
「鳥羽さんは……私の気持ちに気付いているんですね」
「さあね。あずさちゃんがオレのことをどう思ってるか、オレがいくら考えてもそれは想像に過ぎない。あずさちゃんの口からはっきり聞かない限りはわからないよ」
「いいえ。わかってるはずです。だからそんな風に突き放すのでしょう?」
「それは違うよ」
 鳥羽は冷めたコーヒーを口に含み、喉に流し込んでからまた口を開いた。
「オレはね、あずさちゃんが本気で悩んでいるから、それに真剣に答えてあげようと思っただけだよ。あずさちゃんがオレを好きになってくれるのは嬉しいけど、だからといってあずさちゃんの望む答えは出せない。自分に嘘はつけないからね」
 あずさは唇を噛み締め、鳥羽を睨むように見つめていた。
「ずるいわ……そんな曖昧な答えでかわすなんて……」
「オレは正直な気持ちを言っただけで、かわしたつもりはないよ。本当にわからないんだ。恋人がいた頃は身体なしの恋愛なんて考えられなかった。でも、恋愛感情も性欲さえ持っていない状態が長く続いて、この先恋人ができても前のような恋愛ができるのかどうか、オレ自身その時になってみないとわからないんだよ」
「とやかく言ったって鳥羽さんは女性を好きになれないんでしょう? 遠回しにしないで『迷惑だ』ってはっきり言って下さい」
 あずさはそっぽを向いて、吐き捨てるように言った。こみ上げてくる涙を堪えているのか、噛み締めた唇が微かに震えている。一人空回りして突っ走るあずさの姿は、滑稽であるのと同時に愛おしくもあった。
「あずさちゃん」
 名前を呼んでも、あずさは鳥羽を見ようともしない。
「あずさちゃん、こっち向いて」
 それでもまだあずさは白い頬を向けている。
 鳥羽はその顔に指を伸ばし、顎に指をかけて強引に自分の方に向けさせた。あずさはびっくりしていたが、それに逆らわず拗ねた表情を見せた。鳥羽は微笑んで、落ち着いた声で語りかけた。
「あずさちゃんの気持ちは迷惑なんかじゃない。むしろうれしいよ。でも君は無防備すぎる。オレのことまだよく知らないのに、ちょっと優しくされただけで心を許してしまうなんて、男が苦手だっていう人がそんなんじゃまずいよ。オレが本当は悪人だったらどうするの。もっと相手を知ってからでも、心を開くのは遅くないよ」
 語り終えてもしばらくの間、あずさは鳥羽をじっと見つめていた。鳥羽もまたその視線に応える。
 先に視線を逸らしたのはあずさのほうだった。形のいい唇から深い深いため息を洩らして俯いてしまった。再び顔をあげたあずさからは、反論の言葉ではなく意外にも微笑みが帰ってきた。
「鳥羽さんの言うことには文句のつけようがないわ……確かに私は一度人を信じてしまうと疑わないところがあって、友達にもよく怒られるんです。でも、お言葉を返すようですけど、私、男性を見る目には自信があるんです。男性が苦手だからこそ、その人が本当にいい人かどうかすぐにわかるんです。そう思いませんか、鳥羽さん?」
 あずさが見せたニッコリとした笑顔に、鳥羽は舌を巻いた。
 そこはかとなく儚げな印象を匂わせていても、やはり女は手ごわい。
 仕事で数多の女を抱いて、女の事なら何でもわかるような気になっていた鳥羽は、改めて女の賢さを見たような気がした。そして同時に、あずさもまた「大人の女」であることを強く実感した。
「こりゃ参ったね。一本取られたかな? でもそういう聡明な女性、オレは好きだよ」
「お世辞はいいんです。フラれたことには変わりありませんから」
「だからさ、フッたつもりはないんだって」
 鳥羽はじれったくなって、テーブルの上に置かれていたあずさの手に自分の手を重ねた。
 あずさはびっくりして手を引っ込めようとしたが、鳥羽の手がそれを押し止めた。あずさのひんやりとした手を握り締め、熱を分け与えるかのようにじっとその手を離さなかった。
「友達から始めよう、って言うのは逃げ口上に聞こえるかもしれないけど、もっとお互いを知るところから始めようよ。確かにオレはまだ君に特別な感情を持ってはいないけど、君の事をもっとよく知れば、もしかしたらあずさちゃんがずっと探し求めていた『特別な女性』だって事がわかるかもしれない。そうじゃなくても、君と友人としての付き合いをしたいことは確かなんだ」
 あずさは鳥羽の目を見つめ、そこに言葉の真意を見い出そうとしている。射るような視線に晒されながらも鳥羽は穏やかに微笑み、握った手に力をこめた。
 周囲の話し声も、食器のぶつかる音も、ロビーに響き渡る堅い靴音も、そして外界の喧騒も、全ての時間が止まったように一切の音が消え、触れた手に感じる脈打つ鼓動だけが耳に響くような気がする。
 どのくらいの時間、そうしていただろうか。
 握り締めた手の温度が同じくらいになった頃、あずさは、今度はむすっとした顔で口を開いた。
「まるで子供扱いだわ」
「どうして?」
「だって、鳥羽さんの言うことはいちいちもっともなんですもの。反論する隙がないわ。鳥羽さんから見たら私なんて子供なんですね」
「確かにオレはあずさちゃんより一回りも年上だよ。だけど子供扱いなんかしてない。君のこと真剣に考えてるから、真剣に答えてるまでだ」
 あずさは拗ねた表情をはにかんだ笑顔に変えて、鳥羽を上目遣いに見つめた。
「もう……何も言い返せない。悔しいわ」
「嫌いになった?」
「意地悪なこと言わないで下さい。本当に嫌いになっちゃいそう」
「じゃ、返事は?」
「わかりました。鳥羽さんの言う通り、とりあえずはお友達というところから……」
「交渉成立だね」
 鳥羽は笑顔を見せて、ようやく握っていた手を離した。解放された手をあずさはじっと見つめている。
「ああ、ごめん。いきなり握っちゃって、イヤだった?」
「びっくりしました……でも、イヤじゃなかったです」
 あずさも心からの笑顔を見せて、カップに残る冷め切ったカフェオレを飲み干した。そのカップを皿の上に置くのと同時に、鳥羽は話を切り出した。
「じゃあ、とりあえず食事にでも行かない? ちょうどいい時間だし、食事しながら話の続きをしようよ。この近くにおいしい洋食屋があるんだ」
「いいですね。私もお腹空いてきました」
 鳥羽は手を挙げてウェイターを呼び、自分の分を払うと言い張るあずさをなだめて二人分の支払いを済ませた。こういう経験が少ないのか、「男に支払いをさせる」という習慣を知らないのかもしれない。
 鳥羽が荷物を持って立ち上がると、あずさもそれに続き、二人は連れ立ってティールームを出た。
 閑散としたロビーを二人は肩を並べて歩く。あずさをエスコートする鳥羽の心は言い様のない期待感で浮き立っていた。だが見た目は平静を保っており、あずさは鳥羽の心にできた隙になど気付いていない。
「雨、まだ降ってるんでしょうか?」
「止んでるといいね。あずさちゃんは傘持ってるの?」
「いいえ。今日は降らないと思ってましたから。駅からここまで走ってきたんです」
「そうか……店まで近いから歩いていこうかと思ってたんだけど、傘がないならタクシーで行こうか。風邪引いちゃうとまずいもんね」
「私、こう見えても結構丈夫なんですよ。私よりも鳥羽さんのほうが心配です。何と言っても、体力勝負のお仕事ですものね」
「そうそう。風邪引くと仕事にならないんだよね。代わりの人間見つけるのも大変だし」
「毎日忙しく動き回ってらっしゃるんでしょう? 大変なんですね」
「忙しいといっても、ずっと動いてるわけじゃないよ。それよりも精神的に疲れることのほうが多いかな。もちろん身体も酷使してるんだけど、相手に気持ちよくなってもらうためにいろいろと気を遣って、それでたまるストレスの方がきついね」
「え? 気持ち……よくなってもらう?」
「あくまで女優が主役だからね。いろんな事情を抱えてる女の子に気持ちよくイってもらうのがオレの仕事さ。でないといい作品ができないからね」
「は? 何の話をしてるんですか?」
 鳥羽が横を向くと、あずさの怪訝な表情がこちらを向いていた。
「何って……オレの仕事の話」
「鳥羽さんのお仕事は、警察官でしょう?」
「あ」
 しまった──と思っても後の祭りだ。
 鳥羽は嘘をついていたことをすっかり忘れていた。あずさに心を開いて会話しているうちに、いつの間にか全てをさらけ出した気になっていたのだ。
 だが、鳥羽はすぐに思った。
 職業のことは付き合いを深めていけば遅かれ早かれいつかはバレることだ。それが少し早まっただけのことに過ぎない。確かに職業は偽ったけれども、本当の自分の姿までは偽ってはいない。あずさは素の自分を見て好意を持ってくれたはずだ。
 鳥羽は足を止め、あずさに向き直った。
「あずさちゃん……ごめん。オレ、本当は警察官なんかじゃないんだ。あの時、あずさちゃんが脅えてたから、安心させようと思ってつい君の言うことに頷いてしまったんだよ……」
 あずさは悲しげな目をして、ゆっくりと言葉を吐いた。
「嘘を……私に嘘をついていたんですか?」
「あずさちゃんを騙すつもりなんてこれっぽっちもなかった。いつかは話そうと思ってたんだ。確かに嘘はついたけど、それは君を思ってのことだ。オレだって嘘をついていたことを心苦しく思っていたよ。オレが偽ったのは職業だけ。後は全部本当のことだ」
 とは言うものの、それを信じてもらう術は何処にもない。後はあずさの男を見る目を信じるしかない。
 あずさはその言葉に真実を見出そうと、鳥羽の目をじっと見つめた。鳥羽もまた、心の奥をさらけ出すかのように、あずさの視線に真っ向から立ち向かった。
「鳥羽さんは……私のために嘘をついたとおっしゃるんですね」
「そうだよ。君を安心させるために嘘をついたんだ。あの時にオレが『警察官じゃない』って言ってたら、君はますます脅えてたかもしれない。とにかく君を落ち着かせて、早く家に返した方がいいと思ったからそうしたんだ」
 あずさは何かを考えているようであったが、しばらくして強張った表情をようやく笑みに変えた。
「鳥羽さんは……本当に優しいんですね。そこまで考えていてくれたなんて……『嘘も方便』とはよく言ったものです。職業なんてその人の人となりには全く関係ありませんものね。鳥羽さんがどんな職業でも、鳥羽さんの本質は変わりありません」
 鳥羽もやっと緊張がほぐれて、大きく息をついて安心したように微笑んだ。
「オレも信じてもらえて嬉しいよ。やっぱりあずさちゃんの男を見る目は確かだね」
「それって私を褒めてるんじゃなくて、自分を褒めてるんじゃないですか」
 二人は顔を見合わせて声を上げて笑った。
 もしかしたら本当に、あずさは自分にとっての「特別な女」なのかも知れない──鳥羽は笑いながらそう思い始めていた。あずさは短時間のうちに本当の自分を理解してくれた。多くの女ができなかったことをあずさは難無くこなしたのだ。
 心がざわめいて何かを予感させる。これが「運命的な出会い」というものなのか──
「で、鳥羽さんの本当の職業はなんですか?」
 思いを巡らせていた鳥羽は、まだ職業を告げていなかったことにようやく気付いた。
「AV男優」
 途端に空気が凍るのを鳥羽ははっきりと肌で感じた。
 あずさは驚愕の表情のまま引きつり、瞬きもせずに鳥羽を穴が空くほど見つめている。あまりにもストレートすぎたかな、と思ったのも束の間、あずさが言葉を発した。
「AVって……オーディオビジュアルの略、じゃありませんよね?」
 その声は明らかに上ずっている。
「アダルトビデオのほうだよ」
 極めて冷静に、鳥羽は答えた。
 次の瞬間、あずさは一歩後ろに身を引いた。
「──あずさちゃん?」
 急速にあずさが遠くに離れていく感じがした。決して距離だけの問題ではない。離れていくあずさを引きとめようと、鳥羽は腕を伸ばしたが、その腕はあずさによって振り払われた。
「触らないで! 汚らわしい……」
 ロビー中に響き渡る大きな声であずさは叫んだ。ロビーにいた人間の殆どが、何事かと驚いて二人に注目する。しかしながら一番驚いていたのは鳥羽だった。
「け、汚らわしい? なんで?」
「わかりきったこと聞かないで! AVに出てる人間なんて身も心も汚れきってるわ!」
 手の平を返したようなあずさの突然の豹変振りに、鳥羽は何が起こったのか分からず、ただ呆然とするしかなかった。
 今やあずさは怒りに震え、鳥羽を親の仇とばかりに苦々しげに睨み付けていた。
「やっぱり私を騙してたのね。こうやって女を騙してビデオに出させるのね」
「いや……そんなつもりは一切ないって」
 しかし、鳥羽の取り成しもあずさの耳にはもはや入らなかった。
「AVなんて最低だわ……女性を上手い言葉で騙して、無理矢理辱めて、しかもそれをビデオに撮って売り物にするなんて、最低な人間のやることだわ!」
「女の子を騙して無理矢理辱めるだなんて、そんなことしてないよ」
「嘘よ! あなたは大嘘つきだわ。何が『女性に身体を求めない』よ……そういう仕事をしているあなたのその言葉をどうやって信じろって言うの? 大体、なんで職業を偽ったのよ。やましい気持ちがないのなら嘘なんかつく必要なかったじゃない。そういう気持ちがあったから、嘘をついたんでしょう?」
「だからそれは君を落ち着かせようと──」
「何もかも嘘よ! いい人のふりをして私を安心させて、ビデオに出させるつもりだったんだわ! やっぱりあなたは悪い男よ。嘘つきで卑劣で、いやらしい最低の男よ!」
 ここまで言われては、温厚な性格の鳥羽もさすがにカチンときてしまった。
「『どんな職業でも鳥羽さんの本質は変わりない』って言ったのは何処の誰だよ。あんたは自分で言ったことを否定するのか?」
「否定も何も、最初からあなたが自分の職業を否定していたんでしょう! 自分のことを棚に上げないで!」
「棚に上げたりなんかしてないよ。オレはあんたの男を見る目を信じてたんだぞ。オレの本当の姿を見てくれてたと思ってたのに、とんだ思い違いだったようだな」
 憮然たる面持ちの鳥羽に対して、あずさは顔を背けて、まるで汚いものを見るかのように鳥羽に一瞥をくれた。
「ええ、そうね。私の目が曇ることもあるっていういい教訓になったわ。AV男優だなんて最低な仕事をしてるあなたの下劣で低俗な本質を見抜けなかったのは私のミスよ」
 鳥羽は身体の中から熱い怒りが突き上げてくるのを感じた。
 大きく一歩前に踏み出し、あずさに詰め寄る。慌てて逃げようとしたあずさの手首をすばやく掴み、なおも逃げようとするその身体を強く引き寄せた。
「AVも見たことない、ましてやセックスもしたことない女に、オレの仕事の何がわかるって言うんだ?」
 獣が低く唸るような威圧的な声。それまで怒りに満ちていたあずさの表情は、途端に色を失った。
「あんたも他の女と同じなんだな。AV男優って言った途端にオレのこと避けやがる。エリートお嬢様から見たら、セックスして金稼いでるオレなんて欲にまみれた卑しい人間に見えるんだろうけどな、オレはオレなりにこの仕事に自信と誇りを持ってるんだ。何にも知らないお前にボロクソに言われて、黙っていられるほど落ちぶれちゃいないんだよ!」
 あずさだけは特別だと思いたかった。自分の良き理解者になってくれる女だと信じたかった。
 だがそれはやはり幻想に過ぎなかったのだ。
 あずさは「特別」などではなかった。AVと聞いただけで変態だの下品だの猥褻だのと喚き罵る今までの女達と何ら変わりないではないか。
 ついさっきまで触れ合っていたはずのあずさの心は、今や埋めがたい深い溝の向こうに行ってしまった。どんなに近くにいても、もはやその心に寄り添うことはできない。目の前のあずさの恐怖と怒りが入り混じった表情と強く抵抗する腕が、その現実を鳥羽に突きつけている。
「何ならオレがセックスを教えてやろうか? あんたのその平凡な倫理観を一晩かけてぶち壊してやるよ」
 鳥羽が凄みのある笑みを浮かべて言うと、あずさは息を飲んで顔を引きつらせた。
 もちろん、そんなつもりはこれっぽっちもない。だが、こうでも言わないとあずさへの想いを断ち切れそうになかったのだ。
 あずさは青ざめた顔で、もはや言葉も出ないほどに脅えきっていた。つぶらな瞳に映る鳥羽の姿は、今はもう鬼か悪魔にしか映らないのだろう。鳥羽が掴んでいた手首を離すと、途端にあずさは後ろに飛び退った。指の跡がくっきりとついた手首を隠すように押さえ、その身体は細かく震えていた。
 もはやどうしようもないのだ。これ以上ここに止まる意味など何処にもない。
 鳥羽は踏ん切りをつけるようにあずさに背を向けた。
「じゃあな」
 短くそう言って、鳥羽は歩き出した。あずさの視線を背中に痛いほど感じるが、それでも絶対に振り返らなかった。もう二度と会うこともない。振り返るだけムダだ。
 早足で立ち去る鳥羽のジャケットが風になびく。はためいたその裾のポケットから何かが舞い落ちた。あずさから手渡されたメモ用紙だ。だが鳥羽はそれに気付かず、そのままロビーから消えていった。
 メモ用紙が風に舞い、ひらりとあずさの目の前に落ちる。それを拾い上げ、顔をあげたあずさは鳥羽が視界から消えてもなお厳しい表情のままで、その目は未だ鳥羽の背中を睨みつけているようだった。






第二章 

 その夜、あずさは一睡もできなかった。
 いつもは寝つきが良い方なのだが、分泌されつづけるアドレナリンのせいで寝ようとすればするほど目が冴えてくる始末である。
 鳥羽が嘘をついていたことが許せなかった。その嘘を見抜けなかった自分が悔しかった。そして、その鳥羽に対してたとえ一時でも恋心を持ってしまった自分がとても恥ずかしく思えて、こみ上げてくる怒りで胸が苦しくなった。
 それだけのことならまだいい。
 あずさはAVがどういうものかは知っているが、それはあくまで聞いただけの知識であって、実際に見たことはない。見たくもなかった。
 見たことはなくとも、AVなど愚劣極まりないものであり、それを見ることも愚行。ましてやそれに出演するなど狂気の沙汰としか思えない。あずさにとって、AVは軽蔑すべきものであり、それに関わる人間もまた同じであった。
『AVも見たことない、ましてやセックスもしたことない女に、オレの仕事の何がわかるって言うんだ?』
 悔しさのあまり、たかぶった感情に流されるまま罵詈雑言の限りを尽くしていた自分に、冷や水を浴びせたような鳥羽の言葉。
 鳥羽の言う通り、AVのことを全く知らない自分が鳥羽の職業に対してあれこれ異議を申し立てるのは確かに道理に合わない。軽蔑すべき人間からそれを教えられ、あずさの自尊心は更に深く傷ついた。
『セックスもしたことのない女に何がわかる』
 あずさにとって、これ以上屈辱的な言葉はない。自尊心を傷つけられただけでなく、心の中まで辱められたような言葉だ。
 カーテン越しに朝の光を感じ始めても、この言葉が耳鳴りのように耳に残って離れなかった。結局一睡もできないまま朝を迎え、あずさは心身ともに疲れきった身体を引きずるようにして大学に向かった。
 友人と顔を合わせるたびに「どうしたの、その顔?」と言われる。鏡を見ると目の下にははっきりとしたクマができていたが、それ以上に自分でもまずいと思うほどに険悪な顔つきをしていた。
 午前中の講義が終わり、食堂に入ったあずさは見慣れた二つの顔に気付き、急いでトレイにランチを乗せてそこに向かった。その二人は男女で、テーブルに並んで座っていた。目の前に空いていた席に突如現れたあずさの姿を見て、二人は驚いた。
 女の名前は貴志有里子。ショートヘアに理知的な顔立ちの美人だ。
 有里子はあずさの母方の従妹であり、親友でもあった。あずさが日本に帰ってきてからは同じ学校に通い、また仕事で家を空けがちなあずさの両親に代わって有里子の両親があずさの面倒を見ることも多々あったため、二人は姉妹同然に育っている。それだけに、あずさは何でもよく有里子に相談していたし、有里子もまた傷を背負うあずさを守ることを使命に感じていた。
 そして男の方は山寺雅登と言い、有里子の恋人であった。雅登はあずさの唯一ともいえる男性の友人である。
「あずさ……どうしたの? 酷い顔してるわよ?」
 有里子もまた皆と同じセリフを吐いて、いつも美しいあずさらしからぬ表情に驚いていた。だがあずさはそれには答えず、険しい表情のまま席につき、雅登に顔を向けた。
「どしたの?」
 怖い顔を向けられて、雅登は怯みながらもお茶を口に含んだ。
「雅登くん、アダルトビデオ貸して」
 雅登は不覚にもお茶を噴出し、トレイの上の食事にかけていた。有里子は有里子で、口をポカーンとあけてあずさの顔を穴が空くほど見つめていた。
「アダ、アダルトビデオ、ですか……」
 しばらくしてショックから立ち直ったのか、雅登がやっとのことでそう言うと、あずさは神妙な面持ちで畳み掛けるように続けた。
「持ってるんでしょう?」
 まるで自分の恋人がAVを隠していることを追及するような口ぶりだ。本来有里子が言うべきセリフであるが、そこはさすがに従姉、迫力が似ている。
「も、持ってます……」
 自白を強要された雅登は、正直に頷いた。
「持ってるの?」
 有里子が目くじらを立てて雅登の襟首を掴んで揺すった。情けなく薄ら笑いを浮かべて肯定する雅登に、有里子は呆れてその手を離した。
「じゃ、貸して」
 あずさの突拍子もない要求に、有里子が我を取り戻して聞いた。
「あずさ……あのね、アダルトビデオって何かわかってる?」
「わかってるわよ。私の大嫌いなものが映ってるビデオだわ」
 今度は雅登が聞いた。
「あずさちゃん、誰かに頼まれたの?」
「違うわ。私が観たいの」
 有里子と雅登は顔を見合わせて、大きなため息をついた。
「あずさ、転んで頭でもぶつけた? あんたが自分からそんなもの観たいって言い出すなんてどうかしてるわよ。やめときなさいって」
「いいから貸して」
 有里子の忠告にも耳を貸さない。雅登が取り成すようににらみ合う二人の間に割って入った。
「……貸すのはいいけどさ、本当に大丈夫? そういうの全くダメなんでしょ?」
「大丈夫よ。たかが映像作品、作り物でしょ。そんなものぐらい平気だわ」
 しかし、テーブルの上で握り締められているあずさの拳が微かに震えているのを有里子は見逃してはくれなかった。
「大丈夫なわけないでしょ? 絶対パニック起こすわよ」
「貸してくれないなら、自分でレンタルしに行くわ」
 これにはさすがに有里子も慌てた様子を見せた。
「わ、わかったわ……わかったからそれだけはやめて。今日は午後の講義がないから、後で雅登と一緒にあんたの家に持っていくわ。だからレンタルに行くのだけはやめてね」
 あずさはわずかに表情を緩め、頷いた。
 沈痛な面持ちでため息をつく有里子に対し、雅登はどこか楽しそうだった。
「でさ、いろいろあるんだけど、どういうのがお好み? ジャンルで選ぶ? それとも女優で選ぶ?」
 半ばからかうような雅登の楽しそうな物言いにも、あずさは極めて真剣に答えた。
「鳥羽充が出てるのってある?」
「鳥羽充? 男優の?」
「そう。鳥羽充が出ているものなら何でもいいわ」
 驚いている雅登に、有里子が怪訝な表情で聞いた。
「鳥羽充って誰?」
「今一番人気のあるAV男優だよ。テクニックもさることながら、顔がイケてるってんで女性に大人気なんだよ。でもあずさちゃんが鳥羽充を知ってるとは思わなかったなぁ」
 あずさは何も答えなかった。
 知ったきっかけを話せば、一人で鳥羽に会いに行ったことを話さなければならなくなる。そんなことしたら「男には気をつけろ」といつも散々言っている有里子に烈火の如く叱られるのは目に見えている。
 有里子は心に深い傷を負って帰国した自分を男の手からずっと守ってくれた姉のような存在だ。時々あの時のことを思い出してパニックに陥ることがあったが、そんな時も有里子が必ず助けてくれた。
 だから「AVが見たい」と言い出した自分をたしなめた有里子の危惧もよくわかる。しかし、こればかりは引けなかった。これはもうあずさのプライドの問題である。
「じゃ、五時にあずさちゃんの家に持っていくよ」
「お願いね」
 
 それから約五時間後。
 あずさの自宅では、睨み合うあずさと有里子がいた。雅登は二人の女の間でオロオロとうろたえている。有里子は苦々しい表情を浮かべて、もう一度説得を試みた。
「本当に観るの? どうなっても知らないわよ」
「観るわ。早く貸して」
 手を差し出すあずさに、雅登は有里子の表情を確かめた。有里子はため息をつき、諦めたように首を縦に振った。
「んじゃ、オレが推薦する鳥羽充出演の珠玉の三本をご紹介しましょう」
 そう言って雅登は楽しそうに紙袋を取り出し、その中に手を突っ込んだ。
「まずは『美乳奴隷・沙耶』。続いて『覗かれたナース・深夜病棟の恥辱』、そして極めつけは『ザ・レイプ〜狙われた婦警』」
 驚くほど無防備に、続けざまに手渡されたAVのパッケージ。
 一糸まとわぬ姿で豊満な胸を剥き出しにし、その白い肌に真っ赤な縄をかけられ緊縛される女。
 ナースの白衣姿のまま後ろから医師に犯され、はだけた胸元を弄られている女。
 警官の制服を見るも無残に引き裂かれ、大きく足を開かされて局部を露わにする女。
 三本とも映っている女は違うが、小さく写っている男は間違いなく鳥羽充の顔だ。
 だが、あずさが理解できたのはそこまでだった。あずさの両手から続けざまに滑り落ちる三本のビデオ。床に落ちたその派手な音に雅登は驚いた。
「オレの大切なコレクションなんだから大事に扱ってよ」
 しかし、その嘆きはあずさの耳には入っていなかった。
 つぶらな目は大きく見開かれ、雅登以上に驚いた表情で宙を見つめている。差し出されたままの両手が震え、手の平に置かれていたはずのビデオに向かってあずさは呟いた。
「こ、こ、こんなものが……店に並んでいるの?」
「そうだよ。知らなかった? レンタルに行ったら、こんなのが何百本って並んでるよ」
 その光景を想像して、あずさは思わず目眩いを感じた。こんな破廉恥なものが店に見渡す限り並んでいるなんて、この国の公序良俗は一体どうなってしまったのだろうか。これがワイセツ物陳列罪に抵触しないのはおかしい。いや、犯罪として取り締まるべきだ。
 あずさが内なる怒りに燃えていた頃、有里子は雅登の襟首を掴んで怒鳴っていた。 
「あんたねぇ、何考えてるのよ! あんただってあずさの事情は知ってるでしょ! それなのに予備知識もなくホイホイ手渡すなんて……無神経もいいとこだわ!」
「だ、だって、あずさちゃんが手を出してるから……」
「それにね、何なのこのラインナップは! よりによってレイプだなんて……」
「だって、鳥羽充の出てる作品って、レイプものが多いんだもん……」
「言い訳無用! 大体ね、こんなものあんたが観てる自体おかしいわ! 変態よ!」
「変態って、それはひどくない?」
 延々と続く有里子と雅登の言い争い。いつもならあずさが仲裁に入るのだが、今はそれどころではなかった。
 脳裏に焼きついた、パッケージの写真。女達の淫らな肢体の隙間で、鳥羽充の憎らしい顔があずさを見下すように笑っている。
『AVも見たことない、ましてやセックスもしたことない女に、オレの仕事の何がわかるって言うんだ?』
 あずさを嘲笑うかのような鳥羽の言葉。今思い出しても悔しさで気が狂いそうになる。
 こんなことではダメだ。傷つけられたプライドを回復させるためにも、何としてでも見なくてはならない。パッケージごときで挫折してどうする。
 あずさは目の前に転がるビデオの一つを目を閉じて手に掴みパッケージを開けた。そして中にあるビデオテープを取り出し、ためらう暇もなくビデオデッキに無理矢理押し込む。あずさは自分が最悪の選択をしたことにまだ気付いていなかった。
 程なくして、画面に映像が映し出される。ちゃんと巻き戻されていなかったのか、途中から始まった。
 悲鳴をあげる女。その身体は床に無造作に投げ出された。男が、鬼気迫る顔の鳥羽充が、その上に馬乗りになって女の横っ面を二度三度張り飛ばした。なおも暴れる女のブラウスが引き千切られ、真っ白な下着が露わになる。恐怖に震える女の表情が大きく映し出され、女は叫んだ。
「やめて!」
 テレビから聞こえる声にシンクロして鳴り響くあずさの叫び。
 ずっと言い争っていた有里子も雅登も、そこでやっと事態の変化に気付いた。テレビの前でうずくまり、耳を塞いで震えるあずさ。そして画面ではレイプシーンが延々と続いている。
「雅登、止めて!」
 有里子は覆い被さるようにして肩を抱き、その肩を揺すった。
「あずさ! あずさ!」
 有里子の声が遠くで聞こえる──それよりもはっきりと聞こえるのは、街の喧騒と人々の怒号。下水と土埃と錆付いた臭いが混ざって鼻を突く。
 天を割る細長い光の帯。深い谷の底に突き落とされたような絶望感。
 ビルの谷間に差し込むその光の帯に、人の頭のシルエットが三つ浮かぶ。
 暗くて顔は見えない。いや、もう覚えていないのだ。何を言われ、何を言い返したのかも覚えていない。ただ必死に、力の限り抵抗したことは覚えている。
 自分に伸びる六本の厳つい腕。抗っても抗っても触手のように伸びる腕が服を引き千切り、剥ぎ取っていく。
 寒い──
 剥き出しになった肌に感じる刺すような冷気よりも、迫り来る恐怖で肌が粟立つ感覚。
 そう、これはあの日の光景。晩秋のニューヨーク。迷い込んだハーレムで暗い路地に連れ込まれ、三人の男達に乱暴されそうになった、あの忌まわしい記憶。
 これは記憶なのだ。今、現実に体験しているものではない。
 頭ではわかっていても、五感に残るあの時の感覚が細胞の一つ一つに鮮烈に蘇り、たった今、あの日あの場所に舞い戻ったような感覚に陥る。
 これは現実じゃない。虚構だ──
 忌まわしい記憶は何度も繰り返し再生され、その度に細部を変える。いつの間にか、忘れたはずの男の顔面に目鼻がついている。画面で見た鳥羽充の顔が、嘲笑うように自分を見つめていた。
「あずさ! しっかりしなさい!」
 耳元で聞こえる有里子の叫び声。鼓膜を破りそうな大きな声は、あずさを確実に現実へと連れ戻した。
「有里子?」
 真っ青な顔を上げ、あずさは有里子の目を見て名を呼んだ。有里子はいつものように、あずさよりも泣きそうな顔をして心配そうにこちらを見つめている。
 またパニックを起こしたようだ。気がつけば息は荒く、寒さを感じていたにもかかわらず全身に冷たい汗をかいている。あずさは息を整えるように大きく深呼吸をした。
「もう……大丈夫。ごめん……また迷惑かけちゃったね」
 有里子もまた安堵のため息をついて、眉根を寄せていた表情を柔らかくした。
「いいのよ、あんたが何ともないなら。でもね、もう観るのはやめにしなさい」
 有里子の説得にあずさは疲れたように頷き、肩に置かれていた手に自らの手を重ねた。伝わる手のぬくもりが冷え切った身体に熱を与えてくれるようだ。
 雅登はビデオデッキからテープを取り出してケースにしまい、曇った顔をあずさに向けていた。
「あずさちゃん、本当はなんかあったんじゃないの? こうなることわかってて見るなんてさ、君らしくないよ」
「そうね。あんたが意地張ってまでこんなもの見るなんて、何かあったとしか思えないわ」
 二人とも自分を心から心配してくれているのはよくわかる。だが、あずさはそれでも答えなかった。二人から顔を背け、拒否の姿勢をはっきりと見せる。
 あずさがフワフワした見かけよりもずっと頑固で意地っ張りな性格であることは、有里子が一番よく知っている。一度心を決めたら梃子でも動かないあずさを、これ以上追及しても答えが出てこないと知って、有里子はため息をついた。
 あずさの胸には深い敗北感が広がっていた。
 記憶の中に幽閉され、逃げ出すことのできない恐怖に震え慄く自分を冷たく見下ろす、鳥羽の冷笑。
 たかがビデオ一本、冷静に正視することができない自分に情けなさと悔しさが交互に胸を突き上げる。いつまでもあの時の悪夢に縛られたまま、これから先もこんなことを繰り返し、悪夢の中で鳥羽に嘲り笑われるのか。
 いや、絶対にこのままでは済まさない。何としてでもAVを最後まで見て、自分の正当性にけちをつける隙を与えさせず、AVがいかに低俗でくだらなく存在価値の全くないものであるかを鳥羽にとくと説いてやらなければ自分は立ち直れそうにない。
 だが、AVを一人で見る勇気はもうない。有里子はもう一緒に見てくれないだろうし、雅登も貸してはくれないだろう。これ以上無理を通せば、何があったのかを説明しなければならなくなる。
 どうしよう──八方塞がりに思えていたあずさの脳裏に、ふと、突拍子もない事態打開の妙案が浮かんだ。

 次の日曜日。
 あずさはリクルーターのような濃紺のスーツを着こんで、とあるビルの前に立っていた。初夏の陽気の中、澄み渡る青空とは正反対にあずさの心は重く沈んでいる。
 左手にはメモ用紙が握られている。鳥羽が落としていったものだ。
『作られた映像だからダメなんだわ。撮影してるところを自分の目で直接見ればいいんだ。あの人が撮影している現場に行けば直接文句も言えるし、まさに一石二鳥じゃない』
 何でこんな突飛な思いつきを自信たっぷりに実行したのか、あずさはのちに思い返してもわからなかった。だがこの時はこれが最善の方法だと思い込んでいたのだ。
 メモに書かれた住所だけで鳥羽充に会える確たる証拠があったわけではない。そもそもこの住所に何があるのかもわからなかったし、撮影スタジオがあるとわかっても、今日ここで鳥羽が撮影しているとは限らないのだ。
 それにも増して、あずさはここに来て改めて重大な事実に気付いた。
 ここでは「セックス」をしているのだ。それを自ら進んで見学しようとしているのだ。
 AVの出だしを見ただけでパニックに陥ったというのに、何故自分はこんなところまで来てしまったのか。もはや何かに取り憑かれているとしか思えない。
 そうだ──ここまで来た以上は引き下がれないのだ。引き返すことは鳥羽に対して負けを認めたことになる。鳥羽に味わわされた屈辱をここで晴らすためにも、こんなところで躊躇している場合ではないのだ。
 気合を入れて入口のガラス戸を押し、あずさは中に入った。静まり返った廊下に人影は見えない。もしかしたら今日は休みなのかと思いながらも、辺りをうかがいながらゆっくりと足を進める。
 ひんやりとした廊下の空気に響くパンプスの堅い靴音。窓のない廊下を照らす蛍光灯のくすんだ明かりが、この建物に満ちる邪悪な雰囲気を演出しているようで薄気味悪さを感じさせる。
 ふと、右前方のドアが軋んだ。女子トイレだ。足を止めて身構える。
 AV女優が裸で出てきたらどうしよう──冷静に考えたらそんなことはないのだが、今のあずさに冷静さを取り戻す余裕はなかった。
 だが、出てきたのはパンツスーツをビシッと着こなした、キャリアウーマン風の女性であった。あずさは彼女が服を着ていたことにホッとして、身体中に入っていた力を解きほぐした。
 ホッとしたのも束の間、彼女はすぐにあずさに気付いた。目が合って、思わずたじろぐ。
「あ、あの……こちらに……」
 鳥羽充さんはいらっしゃいますか、と続けようとしたあずさだったが、彼女はお構いなしに大股であずさに詰めより、両肩に手を置いてしっかりと掴んだ。そしてニッコリと微笑み、畳み掛けるように口を開いた。
「よかったわ! あなたが来てくれて。予定してた女の子がドタキャンしちゃってね。もう、ホント困っちゃうわ、約束も守れないんだから。でも早かったわね。あなたの出番まではもうちょっとかかりそうだから、本番始まる前にちょっと現場見ておきましょう」
「い、いや、あの、私は見学を……」
 あずさの話など全く聞かず、彼女はあずさの背中を廊下の先に向かって無理矢理押し進めた。
「そういえば自己紹介してなかったわね。私は鳥羽充のマネージャーの堤奈緒よ」
 鳥羽充の名前にあずさは少し緊張した。やはりここにいるのだ。鳥羽に会いに来たようなものなのに、いざ目の前にするとなると腰が引けてしまう。だが、奈緒はお構いなしにあずさの背中をズンズン押して、嬉しそうに話し掛けてきた。
「代役の手配はスタッフに任せてたから、あなたの名前まで聞いてなかったのよね。学生さんだって聞いてたけど」
「あ、あの……川南あずさと言います。T大の二年生です」
 律儀に自己紹介をしたあずさに、奈緒は大げさに驚いて見せた。
「T大ですってぇ? ホントに?」
「本当です」
「はあ……世も末だわねぇ。頭も良くて、見るからに育ちもよさそうじゃない。そんな子が自分からAV女優に志願してくるなんてねぇ」
「だから私は違います! ただ見学しに──」
「最初はね、みんなそう言うのよ。いざとなると怖くなっちゃってね。あなたにどういう事情があるのかは知らないけど、充に最初から最後までに任せておけば大丈夫よ。充の指にかかれば、すぐに気持ちよくなっちゃうわよ」
 気持ちよくなる? 不快極まりない行為の中で、何をどうすれば気持ちよくなれるというのか。
「あの、私、本当に見学だけなんです。AVになんて絶対出ませんから」
「またまた、そんなこと言っちゃって。ここに見学に来るってことはAVに興味があるからでしょ? 学生だってことは伏せておくし、顔出しがどうしてもダメだって言うならモザイクかけておくわよ」
 奈緒は完全にあずさを代役にきたAV女優と勘違いしている。何度違うと説明しても一向に信じてもらえない。
 そしてついに、二人は行き止まりにある鋼鉄製の重そうなドアの前に辿り着いた。足を止めると、訪れた一瞬の静けさを突き破って、中から悲鳴とも咆哮ともつかぬ女の叫び声が聞こえてくる。あずさの背筋が寒くなった。
「あ、あの……中で……何を……」
 わかってはいるのだが、聞かずにはいられない。恐る恐る奈緒を振り返り、震える声で問いただす。
「いやねぇ、わかりきったこと聞かないでよ。本番に決まってるでしょ」
 当然といった顔で答える奈緒。
「ほ、本番? な、何の──」
「いいから中に入って」
 奈緒はドアノブを掴んで一気に引くと、空いた隙間に怖気づくあずさの背中を押し込んだ。視界が急に暗くなり、澱んだ空気があたりに漂う。
 目に映るのは、暗い空間に浮かぶ光の島。
 二歩三歩、近づいてみると、それは無数のライトによって煌々と照らし出された大きなベッドだった。白いシーツの上に浅黒い肌の背中が見える。ベッドの周りにはカメラや照明、音声などの機材が雑然と並び、暗闇の中にうっすらと複数の人影が浮かんでいた。
「もっと近づかないと見えないわよ」
 初めて見る撮影風景の空気に飲まれたのか、呆然と立ち尽くすあずさは耳元で囁く奈緒の声で我を取り戻した。奈緒はあずさの背中を押し、ゆっくりとベッドに近づいていく。近づくにつれて、汗や化粧品の匂いが混ざったような不快な臭いが鼻を突いた。
 ベッドの上に見えた背中が再び動き始めた。パン、パンと手を打つような音。そして女の言葉にならないうめき声が上がる。あずさの立つ位置からでは、引き締まった男の背中しか見えない。しかし、よく見るとその背中の両脇から白い脚が二本生えていた。男の両腕が女の脚を抱えているのだ。
「ここじゃよく見えないわ。こっち来なさい」
 奈緒はまだ事態をよく飲み込めていないあずさの腕を取り、ベッドの側面に無理矢理引っ張っていく。そして、あずさはとうとう見てしまった。
 男の横顔は鳥羽充のものだ。膝立ちになる彼の前に全裸の女が横たわっている。白いシーツの上で胸も露わに、苦悶の表情を浮かべて喘ぎ声を上げていた。その身体は鳥羽の腰の動きに合わせてガクンガクンと揺れ動き、その度に一際高い声を響かせる。その動きは何処から伝わっているのかというと──ピッタリとくっつけられた互いの股間だ。いくらオクテなあずさでも、そこがどうなっているかぐらいわかる。
 画面というフィルターを通さず、モザイクも一切かけられていない、自分の目で実際に見ている光景。
 これが「セックス」なのだ。
想像を遥かに越えた衝撃。あずさの脳内で性に対する嫌悪感やら倫理観やらその他諸々の感情の糸がプツリと切れた。何も考えられず、目を見開き口をあんぐりと開けて、放心状態で目の前で起こっている現実を目に映すのみである。
 女優の艶めかしい喘ぎ声と、それを煽り立てるような鳥羽の淫猥な言葉、そして肉のぶつかり合う音。それだけが耳に残り、横で奈緒が何か一生懸命説明してくれる声など全く聞こえない。
 保健体育の授業で性行為についての説明を受けたことはある。だがあずさは殆ど授業を聞いていなかった。いくら授業でも聞くのさえいやだったからだ。休み時間に仲の良い同級生が興味津々にその話題を繰り返すのでさえ、あずさは軽蔑の目を向けていたくらいだ。
 そんな自分がAVの撮影現場に立ち、他人のセックスを目の当たりにしている。
 不思議だ。何でこんなに平然としていられるんだろう──
 自分の根底を揺るがすほどの大事件を前にして、間抜けな顔をしてその光景に魅入っている自分を冷静に見つめているもう一人の自分がいる。
 あずさの視線は、いつの間にか鳥羽の横顔をじっと見据えていた。額に玉のような汗を浮かべ、どこか楽しそうに女優を見下ろしている。その表情に、何故かあずさは心にじわじわと広がる怒りを感じていた。
 胸が段々とむかついてくる。今すぐにでもここで怒鳴り声を上げたいくらいだが、拳を握り締めてそれをグッと我慢する。忌々しい鳥羽の顔から目を逸らし、視線をベッドの周りに向けた。
 カメラを担いだ男がベッドで絡み合う二人に肉薄する。それでもベッド上の二人はお構いなしに行為を続けている。その神経でさえあずさには信じられないものなのに、それ以上にあずさを驚かせたのは、照明の女性スタッフが平然とした顔でライトを当て続けていることだった。彼女だけではない。周りにいる誰もが皆、何事もないかのような顔で情事に耽る二人を見つめているのだ。
「あ、あのっ……」
 一人悦に入って語っていた奈緒は、やっと口を開いたあずさに得意げな顔を向けた。だが、あずさは前を向いたまま、奈緒を見ようとはしていない。
「何?」
「ここにいる皆さんは……何とも思わないんですか?」
「何とも思わないって……何が?」
「め、目の前であんなことやってるんですよ! それなのに、なんで皆さん平気なんですか!」
 あずさが奈緒に顔を向けると、奈緒は不思議そうにあずさを見つめていた。「何を言ってるんだ?」という表情に、あずさの気勢はそがれてしまった。
 奈緒はゆっくりと微笑み、答えた。
「だって、仕事だもの」
「仕事だからって──」
 奈緒の顔から微笑みが消えた。今度は仕事に厳しいキャリアウーマンの顔だ。
「これが私達のいる世界なのよ。ここではセックスは『見世物』。感情なんてないわ。スタッフにとっては、ベッドの上の光景なんて馬の種付けくらいにしか見えてないわよ。あのね、あなたが今見ている映像は商品にするものなの。スタッフも充もあの女優さんも、いい商品を作るために一生懸命仕事してるだけなのよ」
「こんなものを一生懸命作ってるだなんて……おかしいわ……絶対におかしいわ。こういうのって子供を作るために、愛し合う夫婦の間だけで行われるものでしょう? それを見世物として商品にするなんて信じられないわ。この業界にはモラルってものがないの?」
 本気で憤慨するあずさの様子に、奈緒はさすがに「この子、本当にAV女優かしら?」という疑念を抱いたようだ。奈緒は小馬鹿にしたようにプッと噴出し、見下すような視線をあずさに投げつけてきた。
「あなたの言うモラルが何を指してるのかはわからないけど、少なくともセックスに関しては一般的な社会通念が通用しない世界ではあるわね。でもね、AVが売れているのはれっきとした事実なのよ。買う人がいるから作る。それってごく普通の市場の原理だと思わない?」
 言葉の端々に含まれた悪意は確実にあずさに伝わっていた。あずさもまた敵意を剥き出しにして食って掛かる。
「売れれば何をやってもいいって言うんですか。そんなの詭弁だわ」
「一応自主的な倫理基準があるから、何をやってもいいってわけじゃないわ。だけどニーズがある以上、それに応えるのが必然てものでしょう。法律に違反してるわけじゃないし、セックスのモラルなんて個人の自由じゃない。たまたまあなたの常識の範疇外だったからって、この業界についてあれこれ文句をつけるのはやめて欲しいわね」
 冷笑を浴びせられ、あずさは言葉に詰まった。今のところ、知識に乏しいあずさにはこの論理に反論する術は見つかりそうにも無い。
 言葉が出ない悔しさのあまり、あずさは奈緒を思い切り睨みつけていた。それでも奈緒は優位を崩さず、まだ若いあずさを諭すような口調で続けた。
「いくらT大生で学があるからって、今更AVにモラル求めたってどうしようもないわよ。プライドの高い女に見せたいんでしょうけど、これ以上カマトトぶるのはおやめなさい。処女じゃあるまいし」
 あずさの顔が見る見るうちに赤くなった。噛み締めた唇から怒りが滲み出し、目にはうっすらと涙さえ浮かべている。たとえ言葉の上とはいえ、自らの純潔を汚されてしまったのだ。悔しさと情けなさが胸を突き上げ、激しい怒りで身体中が烈火の炎に包まれたように熱く感じる。
 あずさは奈緒の鼻先に顔を近づけて、小さいながらも力のこもった声で言った。
「私は処女です!」
 奈緒は口をポカンと開けて、あずさの怒りに満ちた顔を穴が空くほど見つめていた。
「うそ……やだ、あなた、本当にAV女優じゃないの?」
「さっきから何度もそう言ってるでしょう!」
「女優じゃなかったら何なのよ」
「ただの学生です。撮影現場を見せてもらいたくて、見学に来ただけなんです」
 奈緒は大きなため息をついて、頭を抱えた。
「私の早とちりだったってわけね……よりによって充のファンを現場に入れるなんて……」
「ファンなんかじゃありません! あんな男……最低だわ」
 あずさの悪意に満ちた物言いに、今度は奈緒がカチンときた。
「最低? ちょっと、うちの充に酷いこと言ってくれるじゃない。あなた何様のつもり? ただで見学させてもらってその言い方はないんじゃない? 大体見学してどうしようっていうのよ」
「あの男を見返して、説教するためにここまで来たんです」
「説教? そんなことするためにここまで来たっていうの? バッカじゃない。何考えてんの? 何も知らないガキのくせして、口だけは一丁前なんだから……」
「ガキですって?」
「そうでしょ? セックスもしたことない処女のくせに、AVにモラルだのなんだのって文句つけるなんて無知なガキのやることよ」
 互いに目を剥いて激しく睨み合う二人の女。
 だが、周囲は二人のいがみ合いに全く気付いていない。皆クライマックスを迎えたベッドの上の鳥羽と女優に注目してるのだ。
「ところで、あなた、充とはどういう関係?」
 威圧的にあずさを見下ろし、奈緒はまるで「正妻」のように振舞う。急遽「愛人」にされてしまったあずさは屈辱といわんばかりに突っかかった。
「別に。関係なんてありません」
「そんなわけないでしょ? 関係ないのにここまで説教しに来たって言うの? それじゃただのバカじゃない」
「バカじゃないわ! 私はあの男に騙された上に侮辱されたのよ! これが黙ってられますか!」
「充があなたみたいなガキ騙して何のメリットがあるって言うのよ? そんな貧相な胸じゃ身体目当てにもならないし、お金ならあなたよりもずっとたくさん持ってるわよ」
 あずさは思わず自分の胸を押さえた。真っ平とまでは言わないが、「微乳」であることは確かだ。目の前に張り出している奈緒の存在感たっぷりのバストに比べれば、貧相といわれても仕方ないかもしれない。
「どうせさっきみたいなこと充に言って言い返されたのがオチなんじゃないの? 全くもう、これなんだからガキは……」
「いい加減にしてよ! そんなに疑うんならあの最低な男に直接聞けばいいじゃない!」
「最低な男って誰?」
 突如割り込んできた第三者の声に、あずさも奈緒も顔を横に向けた。
 そこには鳥羽充が爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。撮影はいつの間にか終わっていたらしい。
「奈緒ちゃん、この子代役の女の子?」
「あ、いや……」
 あずさは奈緒に向けていた憎悪の視線を今度は鳥羽に向けて、燃えたぎる怒りを呑気な笑顔にぶつけた。
「あれ? お前……」
 やっと鳥羽は気付いた。笑顔が驚きの表情に変わる。
「あずさ……ちゃん? 何でここにいるの?」
 言い返そうとして、あずさは鳥羽が裸であることに気付いた。
 が、視線は何かに引き寄せられるように下に向かう。くっきりと浮かぶ鎖骨、厚く逞しい胸板、引き締まった腹筋、そして──それが美しい黒曜石の瞳に映った瞬間、あずさは既に意識を失っていたのかもしれない。
 甲高い悲鳴がスタジオ中にこだまする。
 皆、何事かと悲鳴の中心に目を奪われたが、そこには床に崩れ落ちたあずさの姿があった。
 鳥羽が名前を叫びながら自分の肩を揺するのも、奈緒が息を飲んで立ち尽くす姿も、集まってくる野次馬達の覗きこむ顔も、今のあずさには何も聞こえず、何も見えない。
 暗い海の底に深く沈みゆく感覚だけが今のあずさを包んでいた。

 またこの場面だ。夢だとわかっているのにいつも抜け出せない。
 ハーレムの路地裏。地面に身体を放り出されて見えたのは、ビルの隙間に見える空。灰色の雲が低く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだ。
 もはや立ち上がることもできず、背を地面にすりながら後ずさりして逃げる。だが、三つの大きな人影は自分を追い詰めるように迫り、スニーカーをはいた足首を捕える。
 手足を力の限りバタつかせて抵抗するものの、十二歳の少女では大人の男の力にはどうやっても勝てない。あっという間に服を破られ、毟り取られてしまう。そして迫りくる男達の大きな身体──
 忘れようとして忘れられない事件。あれから七年以上経つのに、記憶は未だに自分を苦しめている。一度この中に入ったら最後、何度も繰り返し再生される記憶に囚われ、自分の力では現実に戻ることはできない。
 変だ──いつもならここで記憶が途切れて最初の場面に戻るのに、今日は続きがある。
 抵抗する気力を失い、力なく四肢を地面に投げ出している自分の足元で、男の一人が動いている。カチャカチャという金属音の後、長い衣擦れの音が聞こえる。
 先の見えない暗闇に浮かぶ、男の毛深い二本の脚。ズボンを脱いだのだ。
 そして視線を上に動かして見えたもの。
 記憶の底に封じ込められていた、最も忌まわしき映像。
 男の身体など見たこともない、父や兄のでさえ見たことのないあずさには、何の知識もなく突然、それも恐怖と絶望に打ちのめされた中で見てしまったそれは、この世のものとは思えないほど汚れきった邪悪なもの以外の何物にも見えなかった。
 自分の心が「思い出してはいけない」と鍵を掛けていたのだろうか。あまりにも衝撃的な光景だったため、この部分だけは七年の間記憶からずっと削除され続けていたのだ。
 だが、ついに失われた記憶は蘇ってしまった。
 
「じゃあ、この子を騙したっていうのは本当なの?」
「騙したっていうか、ちょっと嘘ついただけなんだけどね」
 ついさっきまで鳥羽が女と絡んでいたベッドの上で、未だ意識の戻らないあずさは安らかな寝顔を見せている。鳥羽はその横に腰掛け、あずさの白い頬をそっとなぞった。
「あなたがナンパするなんて珍しいじゃない」
 奈緒の棘のある言葉が背中に刺さる。妙に苛立たしさを感じさせる物言いばかりだ。
「自分から女引っ掛けるほど暇じゃないよ。色々と事情があってさ。結局AV男優ってのがバレて大ゲンカしたのさ」
「ケンカしたのに、何でここまで来るわけ? あなたに説教するためとか言ってたけど」
「オレもついカッとなって酷いこと言っちまったからなあ。よっぽど悔しかったんだろ」
 スタジオには眠るあずさとそれを見守る鳥羽と奈緒の三人しかいない。今日の分の撮影が終わり、スタッフは殆ど引き上げていった。
「ねぇ、いつまでこうしてるつもり? いつ起きるのかわからないのよ。後は警備員さんに頼んで私達は帰りましょうよ」
 奈緒の焦りのにじむ言葉に、鳥羽は首を横に振った。
「オレを訪ねてきたんだろ? 最後まで面倒見てやらなきゃ。何でここがわかったのか知らないけど、こいつがここまでくるなんて相当な度胸が要ったはずだよ。それに免じて、説教の一つでも聴いてやらなきゃさ」
 その時、あずさの目が急に大きく見開かれた。鳥羽も奈緒も驚いて息を飲む。安堵した鳥羽が優しく言葉をかけようとした次の瞬間、絶叫が響き渡った。
「NO!」
 突如暴れだしたあずさに驚いて、鳥羽は慌ててベッドから立ち上がった。
 その暴れようは並々ならぬものだった。ベッドの上で両手を突っぱね、両足をばたつかせて、見えない何かに向かって英語らしき聞き取れぬ言葉を絶叫している。
「な、何? この子……変よ」
 奈緒がそう言うのも無理はない。事情を知らなければはた目には発狂したようにしか見えないだろう。だが、鳥羽にはすぐにピンとくるものがあった。
「こいつ……パニックを起こしてる。昔を思い出してパニックになってるんだ」
「昔? 何かあったの?」
「こいつ帰国子女で、ニューヨークにいた頃にレイプ未遂にあってるんだ。多分、その時のことを思い出してるんだよ」
 理由はわかったものの、あずさをこのままにしておくわけには行かない。何とかあずさを落ち着けようと、鳥羽は宙を舞うあずさの両手を取ろうとした。が、あずさは鳥羽の顔を見るなり、より一層力強く暴れだしてしまった。もはや手の付けようがなく、近づくことさえできない。
「男じゃダメだな。怖がらせるだけだ。悪いけど奈緒ちゃん、手伝ってくれない?」
 鳥羽に申し訳なさそうに言われては、奈緒に断る術はない。奈緒はしぶしぶながらも、その豊満な胸にあずさの身体を強く抱いた。
「あずさちゃん、しっかりして! 大丈夫よ、怖がることはないわ」
 抱き留められてもなお、あずさはそれに抵抗し激しく泣き喚いていた。自分の置かれている状況が理解できていないらしい。
 心配そうに見守ることしかできない鳥羽の視線を横から感じながら、その期待に応えるべく奈緒は根気強くあずさに語りかけた。
「あずさちゃん! 大丈夫よ。あなたを襲う人はここには誰もいないわ。安心して。ゆっくり深呼吸して……そう……」
 次第にあずさは奈緒の言うことを聞き始めた。抵抗する力が徐々に弱くなり、泣き叫ぶ声はしゃくりあげて泣く声に変わり、そしてゆっくりと深呼吸を始める。
「奈緒……さん?」
 ようやくあずさは自分を抱き締めている人間が誰なのか気付いたようだった。奈緒を見つめる涙でグシャグシャな顔はまるで小さな子供のようで、奈緒を母親に見せる。
「ごめ、ごめんな……さい……ま、また……やっちゃった……み、みたい……」
 謝る声さえ未だ震えている。まだ完全に立ち直ってはいないようだ。奈緒は子供をあやすようにあずさの頭を撫でた。
「大丈夫よ。もう大丈夫……」
 その様子を横からずっと見ていた鳥羽も、あずさが我を取り戻したことにとりあえず安堵のため息をついた。
 だが同時に、やり切れぬ思いが胸を突き上げていた。
 幼い少女のほんのわずかな不注意が招いてしまった「性犯罪」という名の悲劇。その代償はあまりにも大きい。
 あずさに一体何の罪があったというのだろうか。月日を経ても未だ悪夢に悩まされ、まともな男女交際すらできずにいる。あずさをこんな風にしてしまった犯人に、今更ながら強い憤りを覚える。
「あずさちゃん」
 鳥羽が名を呼ぶと、あずさはビクッとして顔を向けた。明らかに脅えている顔だ。奈緒の腕の中で、母親にしがみつくようにして身体を震わせている。
「いつもこうなの? 昔を思い出してはパニック起こして、誰かに助けてもらってるの?」
 あずさは恐る恐る頷いた。
「いつまでもこんなことを続けるつもり? こんなことじゃいつまで経っても一人じゃ生きていけないよ?」
 鳥羽の咎めるような口調に、あずさは震える声で途切れ途切れに答えた。
「わ、私だって……パニック……なんか起こしたく……ないわ……で、でも……忘れられないのよ……あの時の記憶……過去は消せないのよ!」
 鳥羽は目を閉じてかぶりを振った。諦めとも否定とも取れる仕草だ。
 ジャケットを脱ぎ、シャツ一枚になる。唾と共に決意を飲み込み、開いた襟元から見える喉元が鳴った。
「奈緒ちゃん、そいつちょっと離して」
 奈緒の目に映った鳥羽は怖いくらい真剣な表情で、その瞳には妖しい光さえ輝いてるように見えた。
「どうしたの?」
「いいから、離れてて」
 鳥羽は奈緒の肩を掴むと、あずさから無理矢理引き剥がすようにして奈緒の身体をベッドの外に追いやった。
「ちょっと充、どうしたのよ?」
 だが、鳥羽は答えなかった。ベッドに一人取り残されたあずさをじっと見下ろし、あずさもまた脅えた瞳で鳥羽を見上げている。
 突如、鳥羽はあずさに覆い被さった。
 あずさに暴れだす暇を与えさせず、その細い身体を柔らかいベッドの上に押し倒した。そして馬乗りになり、暴れようとするあずさの両手を押さえつけてがっちりと組み敷いた。
「いやあっ!」
 あずさが悲鳴をあげる。だが、仰ぎ見た鳥羽の目は恐ろしいほど冷たかった。
 逃げ出そうと泣き叫びながら暴れるあずさの青白い頬を、鳥羽は思い切り張り飛ばした。心と身体に与えられた衝撃で途端にあずさは大人しくなる。
 放心状態のまま打たれた頬を晒し、見開かれた瞳から大粒の涙がこぼれる。あの時と同じ深い絶望感に包まれるあずさの耳に、鳥羽は悪魔のように囁いた。
「今ここで、お前をレイプしてやる。あの時は未遂で終わったんだろ? 最後までやれば何か変わるかもしれないぜ」
「やめて!」
 今度は反対の頬を打たれる。鳥羽は反対の耳になおも続けた。
「いつまでも甘えてんじゃねーぞ。パニック起こしたお前の面倒見る他人の迷惑も考えてみろ。過去は消せないだと? わかりきったこと言ってんじゃねぇ。みんな忘れたくても忘れられない過去の一つや二つ持ってるんだ。今を変える大した努力もせずに、過去に囚われたままでいるお前は、不幸な事故に合ってしまった自分に甘えてるだけなんだよ」
「違う! 私だって努力してる! あれから同じ目にあわないように護身術だって習ったわ!」
「努力ってのはな、結果がついてナンボのものなんだよ。それが大人の世界ってもんだ」
 鳥羽はあずさの襟元に手を突っ込み、ブラウスの襟元を引き千切った。ボタンが二、三個弾け飛び、極めの細かい肌と下着の白いレース生地が覗く。
「へえ、見た目はガキっぽいって思ってたけど、やっぱ身体は大人の女だな。処女は久しぶりなんだよな」
 白い喉から胸の谷間に向かって指を滑らせる。経験したことのない感覚に襲われ、怖さのあまりあずさは首を大きく振ってそれを拒んだ。
「お願い! もうやめて! こんなことしないで……」
「オレはやるっていったら本気でやるよ。処女を失えば、もしかしたら悪夢が消えるかもしれないぜ?」
 後ろで奈緒が驚いて叫んだ。
「ちょ、ちょっと、充! やめなさいよ! そんなことしたら警察沙汰に──」
 だが、奈緒を振り返った鳥羽はこれまで見たこともないような怖い目をしていた。あまりの驚きに奈緒は言葉を失ってしまう。
 鳥羽はもう少しで唇が触れ合う距離にまであずさに顔を近づけ、優しく冷酷に、最後通牒を突きつけた。
「今のままじゃ、お前は一生誰かに頼らなきゃ生きていけないガキのままだ。悔しかったらお前の言う努力の結果ってやつを見せてみろ。それが嫌なら、オレが痛みと引き換えに大人にしてやるよ」
 鳥羽はあずさの両手を離し、ジャケットのボタンを外し始めた。
 あずさは何を考えているのか、なすがまま鳥羽の手を拒もうともしない。そうしている間にも鳥羽の手はジャケットの前を開け、ブラウスの残ったボタンに手をかける。
 あずさはまだ動かない。全く抵抗する様子を見せないあずさに、鳥羽は最後の手段に出ざるを得なかった。
「もう一度、目の前で見せてやろうか?」
 鳥羽は馬乗りになったまま、ズボンのベルトに手をかけた。
 ベルトを外す金属音が冷たく響く。
 その音が、あずさの中でスイッチを入れた。
 言葉にならない絶叫と共に、鳥羽の両腕を掴みながら足を使って鳥羽の身体を横に倒す。意外に素早いその動きに訳もわからないまま寝転がってしまった鳥羽の左腕をとり、あずさは両手両足を使ってその腕を極めた。腕ひしぎ逆十字固めである。
「いてっ、いててて……あずさちゃん、ギブ、ギブ!」
 あまりの痛みに鳥羽はあずさの足をタップしたが、必死の形相で腕をねじり上げるあずさには全く伝わっていなかった。もはや鳥羽が何を言っても耳に入らない。完全に我を失っている。
「奈緒ちゃん! 何とかしてよ!」
 呆然とあずさの技を見つめていた奈緒は鳥羽の泣きそうな声に気付き、慌ててあずさを後ろから羽交い絞めにした。
「あずさちゃん、もうやめて! もう大丈夫だから! これ以上やったら充がケガしちゃうわよ!」
 耳元で叫ぶ奈緒の声に我を取り戻したのか、鳥羽の腕をねじ上げる力がフッと緩む。その隙をついて技から抜け出し、鳥羽は解き放たれた左腕を押さえながらベッドを転げ落ちるようにしてその場を逃げ出した。
 思った以上に追い詰められたあずさの力は強く、しかも意外な寝技を繰り出してきたことに鳥羽は心底驚いていた。
「いってー……なんだ、やればできるじゃないかよ」
 鳥羽は顔をしかめ、やっとのことで立ち上がった。肘の関節が千切れそうなほどに痛い。あのまま極められていたら間違いなく靭帯が切れていただろう。
 だが、その凶悪な技を鳥羽にかけた張本人はベッドの上にへたり込み、放心した顔で天を仰いでいた。
「──あずさちゃん?」
 名を呼ぶ声に、あずさはゆっくりと顔を向けた。その表情は拍子抜けするほどあどけなく、自分がしたことを全くわかっていないような顔だ。
 だがその表情は次第に崩れ、やがて声を上げて泣き始めた。幼子のように泣きじゃくるその姿に、鳥羽はかける言葉を見つけられなかった。

 あずさが泣き止むのを待って、鳥羽はあずさを車で送っていくことにした。
 送っていくことを告げられても、脱力しきったその身体を鳥羽の両腕に抱え上げられても、あずさは何も言わず、抵抗もしなかった。鳥羽の車の助手席に座らされて、その横で奈緒が恨めしそうな視線を送っているのにも気付かずに、あずさは魂の抜けたような身体をシートに深く沈みこませてただじっと宙を見つめていた。
 横に座るあずさが一言も喋らないのは心配だったが、それでも鳥羽は決して自分から話し掛けようとはしなかった。
 走る密室の中で二人、重苦しい雰囲気に包まれる。音楽もかけず、目的地を大学に設定したナビの無機質な音声だけが二人を繋いでいるような気がした。
 外は既に夜の帳が下りていて、流れるヘッドライトがあずさの青白い顔を照らし出す。その横顔を横目にちらりちらりと見ながら、鳥羽はあずさの心中を思った。
 怒ってるのだろうか? 
 感情の全く見えない横顔。あずさが何を思っているのか、全くわからない。
 聞きたいことはたくさんある。だが、今のあずさに何を聞いても答えは返ってこないだろう。今はただ、あずさが口を開くのを待つしかない。もしかしたら、帰るまで一言も喋らないかもしれない。それでも鳥羽は根気強く待っていた。
 ナビから聞こえる女性の声が、この先の交差点を曲がるように指示する。大学までもう少し。あずさの家が何処なのか知らないが、近くに住んでいるとは聞いたので、とりあえずそこまで行けば後は何とかなると思って大学を目的地にしたのだが、あずさは相変わらず何も言わず、鳥羽は途方に暮れていた。
 ハンドルを切って交差点を右に曲がり、真っ直ぐに伸びる道路を道なりに走る。
「次の交差点、左に曲がって」
 その抑揚のない声に、鳥羽はナビが壊れたのかと思った。
 だが、その声はあずさのものであった。横を向くと、あずさは相変わらず前を見つめたまま、冷たささえ感じる横顔を晒していた。
「左?」
 鳥羽が聞き返すと、あずさは小さく頷いて見せた。それに従い、鳥羽は次の交差点でハンドルを左に切り、細い路地に車を入れた。
 一方通行の道をスピードを緩めて走る。あずさの言葉を聞き漏らさぬように耳を澄まして、慎重に車を進めた。
「ここでいいわ」
 慌ててブレーキを踏むと、そこは二階建てのアパートの前だった。
「──ここに住んでるの?」
「そうよ」
 あずさは高級マンションに住んでいると勝手に想像していた鳥羽にとって、ごく普通のアパートの外観は意外に思えた。車をアパートの空いた駐車場に入れ、サイドブレーキを引いた。だが、あずさはすぐに降りようとはしなかった。
「──ありがとう」
 消え入るような小さな声であずさは呟いた。鳥羽は笑みを浮かべてそれに応えた。
「御礼を言われるほどのことじゃないよ。車で送るくらい簡単だよ」
「違うわ」
 あずさはやっと、鳥羽の顔を見た。だが、その顔は未だに無表情で、怒っているようにさえ見える。
「オレ、他に礼を言われるようなことは何もやってないと思うけど」
 鳥羽がそう言うと、あずさは呆れたようにため息をついた。
「──あなたって、本当に嘘つきね」
 鳥羽から目を逸らし、再び前を向く。
「本当は本気でレイプするつもりなんてなかったんでしょう?」
「さあ、それはどうかな?」
「あなたは私に反撃させたかったんだわ。あの時の記憶から私を解放するために……」
「そんな大それたこと考えてないよ。何のつもりか知らないけど、AVの撮影現場にのこのこやってきた君があまりにも無防備だったんでね、つい襲いたくなっちゃったんだよ」
「それはあなたが前に言ったことと矛盾するわね。あなたは女性が好きになれないって言った。身体を求めないとも言ったわ。今のあなたの言葉が真実なら、やっぱりあなたは嘘つきってことになるわね」
 あずさらしい論理展開に、鳥羽は思わず声を上げて笑ってしまった。
「いやあ、やっぱ君は頭がいいよ。さっきの寝技といい、君には驚かされてばっかりだな……で、どう? 何か変わった?」
 しかし、あずさはニコリともせず、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
「……今はまだわからないわ」
 再び、車内に沈黙が訪れる。
 鳥羽はあずさをじっと見つめ、あずさは前をじっと見つめている。だが、さっきまでのような重苦しさは何処にもない。
「どうして……スタジオまできたの?」
 鳥羽が一番聞きたかったことだ。しかし、あずさは意外な答えを返した。
「さあ……何でだったか……もう忘れちゃったわ」
「まさか。AVも見たことないような女の子が、モザイクなしの生本番を見に来るぐらいだよ。しかも君の大嫌いなAV男優のオレに会いに来るなんてさ、説教の一つでもするつもりじゃなかったの?」
 あずさは首を横に振って見せた。
「もうどうでもよくなっちゃったわ。今日は色々なことがありすぎたからかしら……現実をありのままに受け止めるって事も大事だってよくわかったわ」
「そりゃどうも……」
 手ごたえのないあずさの様子に、鳥羽は少し落胆していた。こんならしくないあずさは見るに忍びない。これなら怒鳴られる方がまだマシというものだ。
 あずさはドアを開け、自分の足で降りていった。そして車の周りをぐるっとまわって鳥羽の座る運転席の横に立った。
「──ありがとう」
 窓を開けると、今度は鳥羽の目をしっかりと見つめて、あずさはもう一度礼を言った。
「私の傷にちゃんと向き合ってくれた人、あなたが初めてよ。友達も親戚も、家族でさえも私の傷に触れようとしなかったのに……多分、私、大人になれたと思う」
 その言葉で鳥羽の心は晴れた。
 無表情のまま感謝の言葉を伝えるところにあずさの心の葛藤が見え、可笑しささえ感じる。冗談の一つも言いたくなる気分だ。
「そっか。じゃ、オレは君の初めての男になれたわけだ。痛くなかった?」
「ものすごく痛かったわ。だけど……案外気持ちいいものね。こんなこと初めてだわ」
 鳥羽の下卑たジョークにも、顔色一つ変えずに真面目に答えるあずさ。ジョークの意味をわかって言ってるのだろうか。わかっていたら、こんなセリフは出てこないだろう。
「ここまで送ってくれたお礼に、うちでコーヒーの一杯でもご馳走するわよ」
 鳥羽は苦笑いを浮かべてそれを断った。
「気持ちはうれしいけどね。あずさちゃん、君はやっぱり不用心だよ。信用できない男を簡単に自宅に入れるものじゃないよ」
 初めてあずさの表情が変わった。頬を朱に染め、悔しいとも恥ずかしいとも取れる顔で鳥羽を睨みつける。だが、そこには以前のような憎しみは見当たらなかった。
 鳥羽は車のサンバイザーに挟まっているレシートとボールペンを取り出し、レシートの裏に何かを書き始めた。
「代わりにさ、オレの携帯番号、受け取ってよ」
 数字が並ぶその紙を差し出すと、あずさは恐る恐る受け取り、それをしげしげと眺めた。
「何か相談したいことがあったら電話して。オレでよかったら何でも相談にのってあげるよ。何ならロストバージンの相手に指名してくれてもいいけど」
「……ごめんだわ」
 鳥羽は声を上げて笑った。
「ま、それは冗談だけどね。でも、オレはもっと君といろんな話をしたいよ。君と友達になりたいって言ったでしょ? 無理強いはしないけどさ、よかったら電話してきて。んじゃ、おやすみ」
 あずさは口をつぐんでいた。何をどうやって答えたらいいのかわからないのか、複雑な表情で鳥羽を見つめている。
 しかし、鳥羽はそれを遮るようにパワーウィンドウのスイッチを入れ、窓を閉めた。互いの姿がスモークのかかった窓の向こうに霞む。車はそのままゆっくりとバックし始め、来た道に戻った。
 バックミラーに映る、車道に飛び出したあずさの姿。
 その追いすがるような瞳を振り切るように、鳥羽はアクセルを踏み込んだ。






  第三章 

 あずさのわずかな異変に最初に気付いたのは、やはり有里子であった。
「あずさ、あんた最近変よ?」
 目の前で手製の弁当をパクついているあずさに向かってそう言うと、あずさはキョトンとした顔をして見せた。
「変? 何が?」
「何って……うーん、何て言えばいいのかな……妙に落ち着いてるっていうか……」
「ああ、オレもそれ思った。あずさちゃんてさ、どっかビクビクしてる感じが前はあったんだけど、最近なんとなく堂々としてるって感じがするよね」
 横でトンカツにがぶりつく雅登の言葉に有里子は頷いた。
「そう、そんな感じよ。ねえ、やっぱりなんかあったんでしょ? この間のAV騒ぎからよ、あんたが変わったのは。何があったのか白状しなさいよ」
 自分に変化が訪れたことは、あずさが一番よくわかっている。そしてそれが鳥羽のおかげだということもわかっている。
 誰もが、自分でさえ目を背け続けてきた忌まわしい記憶に、ただ一人、それに真正面から向き合うことをあずさに強いた鳥羽。少々荒療治ではあったが、いつも心のどこかにあったあの悪夢に対する脅えが薄れて、心が平穏を取り戻しつつある現実は、彼の一芝居のおかげであることに間違いない。
 あずさは鳥羽とのことを話すかどうか迷っていた。話せばあまりに無鉄砲な行動を有里子にたしなめられるのは目に見えている。だがあずさは基本的に隠し事が上手でない性質だ。下手な弁解を続けるよりは、真実を正直に話したほうが変に勘繰られることも無く、自分の気も楽になる。
 あずさは意を決して、鳥羽との出会いからこの間の荒療治の一件までを洗いざらい話した。当初鳥羽に好意を持っていたことだけは伏せておいたが。
 当然ながら有里子は母親の如く小言を並べようとしたが、あまりに落ち着いた雰囲気のあずさの様子に、その気勢を削がれたようにため息をついた。
「あんたって子は……ホント、怖がりのくせして一度決めたらどこまでも突っ走るんだから。実は乱暴されたけど『言うな』って脅されてるんじゃないの?」
 真面目に心配している有里子だったが、あずさは笑ってそれを否定した。
「大丈夫よ。あの人、本気だって言ってた割には隙だらけで、私が反撃するのを待ってたのよ。逆に私のほうがあの人に大ケガさせちゃうところだったんだから。その後送ってもらって、帰り際に電話番号渡されたけど……本当にそれだけよ」
 とは言うものの、疑い深い有里子に信用してもらうのは難しい。その証拠に、有里子は疑惑の表情をなかなか崩そうとはしなかった。
「あずさ──あんたまさか、その男のこと好きになったんじゃないでしょうね?」
 有里子の言葉に、あずさは顔を強張らせ、きっぱりと否定した。
「そんなわけないでしょ。助けてくれたのは事実だけど、AVに関わる仕事してるような男は簡単に信用できないわよ」
「じゃ、その男にはもう会わないのね? 電話もしないのね?」
「……当たり前でしょ。あの人とは住む世界が違うのよ……もう二度と会うことはないわ」
 その言葉が出るまでに間があったことに有里子は気付いていたが、吐き捨てるような言い方に少し安心して、極めて冷静に言葉を返した。
「あんたが置かれている立場を考えたら当然のことよね。それを聞いて安心したわ。さつき伯母さんからあんたのこと任されてる私としては、あんたがこれ以上道を踏み外すのを黙って見てるわけには行かないからね」
 その言葉にあずさは気色ばんだ。
「私が道を踏み外すってどういう意味よ。私は何も悪いことしてないわ」
「あんたが悪いことしてなくても、AV男優なんかと付き合ってたら、よからぬ噂立てられるのは目に見えてるでしょ?」
 あずさは黙り込んでしまった。有里子に言い返す言葉が見つからないのだ。
「ま、とにかくその男とは今後一切関係を持たないことね。話は終わり。午後の授業が始まるわよ」
 有里子は何か言いたそうにしている雅登の腕を掴んで無理矢理引っ張っていった。
 一人取り残されたあずさは空を仰ぎ、青々と生い茂る木の葉の隙間から漏れる陽光に目を細めた。
 本当にこれでいいのだろうか──
 もちろん、鳥羽に恋愛感情を持っているわけではない。
 しかしながら、鳥羽に別れの言葉を言えなかったことがずっと心にひっかかっていた。あの日から胸の内には様々な想いが溜まる一方で、その捌け口を鳥羽に求めようとしていたことも事実だった。
 有里子の忠告はもっともで反論の余地もないのだが、では一体この胸のつまりをどうすればいいというのか、降り積もる想いを持て余してあずさは途方に暮れるしかなかった。
 だが、意外にもその願いはすぐに叶えられることになる。数日後の夜のことであった。

 その日、あずさは自分の所属するボランティアサークルの飲み会に参加していた。
 あずさはこういったくだけた場が嫌いだった。酔っ払ってバカ騒ぎすることに空しさにも近い嫌悪感を感じていたし、何よりも親しくもない男に囲まれて酒を飲むことが苦痛以外の何者でもなかったからだ。
 それが今日に限って、妙に参加したくなった。
 酒が飲みたかったわけではなく、ただ何となく、誰かと話したい気分になったからだ。一人で過ごす夜は別に寂しくはないけれど、今夜だけは無性に言葉を吐き出したかった。
 そう思って慣れぬ飲み会の場にやってきたのだが、誰と話しても胸がつかえる感じが一向に取れない。男達はあずさを酔わせようとどんどん酒を勧めるばかりだし、女達はあずさがチヤホヤされる様を面白くない様子で見ていたからだ。
 あずさはアルコールに強かった。「ザル」といっても過言ではない。水かジュースを飲むよう顔でワインやカクテルをどんどん吸収していくあずさに対し、仲間達は酔いが回る一方だ。
 場は段々と狂宴の様相を呈してきて、その中で一人冷静を保つあずさはこの場に来たことを後悔し始めていた。馴れ馴れしくくだらない話を延々としてくる男に向かって一応の愛想笑いを見せるものの、その陰であずさは失望の深いため息をついていた。
 ふと気付くと、女達は端に固まって何やら話し込んでいる。隣で話しつづける男のくだらない話よりはマシかもしれないと思って、あずさは彼女達の会話に耳を傾けた。
「昨日の『LamLan』見た?」
「見た見た。ちょっと、あんなに格好いいと思わなかったよね」
「私、あの人のファンなんだ。AV持ってるよ」
「マジで?」
「彼氏にAV見せられたのが最初なんだけどね。でもめちゃ格好いいし、テクニックはすごいし、一度でいいからああいう男に抱かれてみたいわよねぇ」
「あたしも。あの記事読んでから、あたしの中では『抱かれてみたい芸能人』ナンバーワンだな」
「あの指テクは一度味わってみたいなあ。私さ、実はイッたことないんだよね」
「あたしもあたしも。あの指にかかっちゃえば、誰でもイケるんでしょ?」
「そうらしいよ。殆どの女が『潮吹き』するんだって」
「いいなあ。私も鳥羽充に『潮』吹かせてもらいたいなぁ」
 耳が鳥羽の名前を捉えた瞬間、あずさは女の集団に向かって身を乗り出した。
「ね、ねえ、何の話してるの?」
 女達は急に割り込んできたあずさに、皆一様に驚いている。このサークルの副代表を務める梶山夏実が率先してあずさに答えた。
「今週の『LamLan』に載ってた、AV男優の鳥羽充の話よ」
 夏実はその雑誌をカバンから取り出して見せてくれた。指定されたページを開くと「今、最もセクシーな男特集」と銘打って、何人かの男性芸能人が連なる中の一人として鳥羽充が載っていた。
 モノクロのページの中で、ポーズをつけた上半身裸の鳥羽が不敵な笑みを浮かべてあずさを見つめている。この間見たのと同じ筋肉質の引き締まった肉体で、改めて写真で見ると案外格好よく見える。思わず唾を飲み込んでいたことに自分で気付いていない。
 あずさはその下も見てしまったことも思い出したが、そこには靄がかかって詳しい映像は浮かんでこなかった。思い出せないならそのままにしておこう。
 それにしても、あずさでさえ時々目を通すようなこんなメジャーな雑誌にAV男優としての鳥羽が堂々と掲載されているとは、その世間一般的な認知度の高さにあずさは少なからずショックを受けた。
「鳥羽充って……有名なの?」
「何言ってんの。超有名じゃない。あー、でもあずさは知らないか。AVなんか見たことないお子様だもんね」
 夏実の子供扱いするような物言いに、あずさはカチンときた。
「私だって……見たことぐらいあるわよ」
「またまた……そんなことで嘘ついてどうするのよ」
 真っ赤な嘘というわけではないが、あずさが見たのは撮影現場であってAVそのものではない。細かいことではあるが、それを思って黙っていると夏実は調子付いてきた。
「ま、あずさみたいなお子様にはAVは刺激的過ぎるもんね。AV男優なんか知らなくて当然よね」
「お子様って何よ! 失礼ね! 私だって鳥羽充のことくらい色々知ってるわよ」
「へぇ……鳥羽充の何を知ってるっていうのよ」
「──電話番号」
 夏実は突然高笑いし始めた。
「AVも見たことないあんたが何で鳥羽充の電話番号知ってるのよ。大体向こうは芸能人みたいなものでしょ? そんな簡単に電話番号なんか教えるわけないじゃない」
「そんなこと言ったって、電話番号もらったのは本当のことだもの」
「じゃあ、鳥羽充をここに呼んでよ。電話番号知ってるくらい親しいなら、ここに来てくれるでしょ?」
 あずさは言葉に詰まった。鳥羽の携帯番号を手渡されたのはまぎれもない事実である。だが、呼んですぐ来てくれるほど親しいわけではない。
 確かに鳥羽は「友達になりたい」と言っていたが、あずさにはまだその心の準備ができていなかった。あの日から胸に渦巻く様々な想いは未だもつれたままで、心の整理をどうつければいいのかわからないまま今日に至っている。
「ほら、やっぱり嘘なんじゃない。見え透いた嘘なんてつくもんじゃないわよ」
 夏実が得意げにそう言うので、あずさもついついキツく言い返してしまう。
「嘘じゃないわ!」
「じゃ、今ここで電話してよ」
 ただ電話をかけるだけならばすぐにでもできる。携帯電話のボタンを押せばいいだけだ。しかし、いきなり電話しても何から話せばいいのかわからない。迷うくらいに話したいことは溜まりに溜まって、もはや話の糸口を見つけられないほど絡まっていた。
 夏実をはじめとする女性軍団の視線が、急かすようにあずさをじっと見つめている。溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、あずさが困り果てている様を楽しんでいるのだ。
 ついに耐えられなくなって、あずさは携帯電話を取り出し、メモリに登録しておいた鳥羽の電話番号を呼び出して通話ボタンを押した。
 恐る恐る耳に当てると、呼び出し音が鳴り出していた。
 一回、二回、三回……
 出てほしいような、出てほしくないような、複雑な心境だ。
 四回、五回、六回……
 もしかしたら、今は仕事の真っ最中かもしれない。
 七回、八回……
 そして、あずさが諦めて電話を切ろうとした九回目のコールで呼び出し音が途絶え、男の声で「はい、もしもし」と聞こえてきた。あずさの心臓が途端に跳ね上がる。
「あ、あの……鳥羽さんでいらっしゃいますか?」
『はいはい。そうですけど……その声はもしかして……あずさちゃん?』
「はい。あずさです」
『マジで? いやあ、ホントに電話してくれるなんて嬉しいなあ。実はさ、また嫌われたかなって心配してたんだよね。で、今日はどうしたの? なんか相談事でもできた?』
「いえ、あの……その……」
 何から話そうか迷うあずさに、夏実の厳しい視線が突き刺さる。まだ疑っているようだ。
「あの……お仕事は終わられたんですか?」
『うん、今ちょうど終わったんだ。今からシャワー浴びて帰ろうかって思ってたところ。あずさちゃんは今何してるの?』
「今はサークルのコンパで飲んでるんですけど……」
『サークル? まさか……ヤリサーじゃ……』
「何ですか、それ? 私が入ってるのはボランティアサークルですけど」
『あはは、そうだよね。あずさちゃんが変なサークルに入るわけないよね』
「あのですね……もしお時間があったらでいいんですけど、飲み会の場まで来ていただけないでしょうか」
『お時間はたっぷりありますよぉ。でも、オレがそんなとこ入っていってお邪魔じゃないかい? みんなT大の仲間でしょ?』
「いえ、その仲間が……鳥羽さんに来て欲しいと……」
『あずさちゃんのことだから、オレと知り合いだって口を滑らせて、嘘つき呼ばわりされて引っ込みつかなくなったんじゃないの?』
 実はこの近くにいて一部始終を見てたのではないだろうか、と思うくらいに図星を指されて、あずさはぐうの音も出なかった。
『まあいいや。喜んでお邪魔させてもらいますよ。大学の近くだよね? そうだなあ……三十分くらいかかるけどいい?』
「はい、お待ちしてます」
 鳥羽に店の名前と場所を教えて電話を切ると、途端に夏実が詰め寄ってきた。
「演技が上手いわね」
「演技じゃないわ。あと三十分程で来れるって……」
「ふーん……じゃ、あずさの顔に免じて三十分待ってあげようじゃないの。もし一時間経っても来なかったら、今日はあずさのおごりってことでいいわね」
「ちょっと待ってよ! 何よそれ!」
「鳥羽充は来るんでしょ? なら大丈夫じゃない」
「それは……そうだけど……」
 あまりに一方的な賭けに、あずさは少し不安になってきた。
 本当に鳥羽は来てくれるのだろうか──口約束だけで何の確証もない。今は鳥羽を信じて待つしかないのだ。
 約三十分の間、あずさは針のむしろに座らされた気分だった。一分一秒がとても長く感じ、頬に突き刺さる夏実達の冷たい視線が痛い。こんなにも鳥羽を待ちわびている自分に気付いて、あずさの胸が不思議と疼く。
 相変わらず浴びせられる夏実達の冷笑。あずさは居たたまれなくなって席を立ち、個室の襖を開けようとした。と、その時。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン」
 あずさは思わず吹き出してしまった。
 黒スーツに身を固め、夜だというのに真っ黒なサングラスをして、首には金のネックレス、手には超高級腕時計にブランド物のセカンドバッグ。ホストかヤクザかといういでたちの鳥羽が、そんなつまらないギャグを口にして登場したからだ。ホッとするよりもあまりにバカバカしくて、大して面白くもないのに鳥羽の顔を見上げてコロコロと笑い転げてしまった。
「な、何だよ……オレ、そんなに変?」
 鳥羽はサングラスを外しながら聞いたが、あずさが答えるよりも早く、夏実達女性陣の黄色い声があがった。
「鳥羽充よ!」
「本物?」
「マジ?」
 それに気付いた男性陣からも声があがった。
「鳥羽充だ!」
「すげぇ、本物のAV男優だぞ」
 皆、あずさを押しのけるようにして鳥羽に駆け寄る。人の輪の外に放り出されたあずさは、鳥羽を取り巻いて騒ぎ立てる皆の様子に、彼を「超人気AV男優」と言った雅登の言葉をつくづく実感せざるを得なかった。AVがこれだけ一般的なものだとは未だ信じ難かったが、これもまた現実なのだ。
 夏実はあずさを疑っていたことなどもうどうでもいいようで、上機嫌で鳥羽の腕に抱きつき、手をしきりに触っていた。
「すごーい。指長―い。爪きれーい」
「オレの大事な仕事道具だからね。念入りに手入れしてるんだよ」
 まるで恋人のように寄り添う夏実に鳥羽は優しく言った。反対の腕には別の女が抱きついて、鳥羽の胸を触っている。
「意外といいカラダしてるんですね」
 そう言って胸をペタペタさわる手を払うこともなく、鳥羽はなすがままだ。
「毎日鍛えてるからね」
 女達は寄って集って自分の隣に鳥羽を座らせようとしている。呼び出した張本人のあずさなどもはや完全に蚊帳の外だ。ここまで車で来たという鳥羽はウーロン茶を注文し、結局一番奥の上座に座らされた。
 周りに女をはべらせ、更にその周りに従者のように男を従えて、まるでハーレムの王様のような鳥羽をあずさはテーブルの一番離れたところから眺めていた。次々と投げかけられる質問に鳥羽は飲み食いもままならなかったが、それでも一つ一つの質問に丁寧に答えて皆を感嘆させている。あずさが話に割り込もうにも、知らない単語がたくさん出てきて全然意味がわからないので割り込みようがない。黙って皆が話す内容に耳を傾けることしかできなかった。
「えっ? 生でやってるんじゃないんですか?」
「やることもあるみたいだけど、少なくともオレはちゃんとつけてからやるよ」
「でも、女優にかけてますよね?」
「素早く外すの。モザイクかかってるからわかんないでしょ?」
「なんでつけるんですか? 感じにくくなるでしょう?」
「君達、わかってないなぁ。セックスをお仕事にしてるってことは、それだけ病気をうつす、うつされるリスクが高いってことだよ。ゴムつけるだけじゃなくて、抗生物質飲んだり、定期的に検査したり、この仕事を続ける限りは徹底した自己管理が求められるわけ。それにね、相手の女優だってピル飲んで避妊してるけど、生でやるってことはそれだけ妊娠させる確率が高くなるってことでしょ? セックスの時にゴムをつけるってことは最低限のマナーなんだよ。別にこの世界のことに限らず、君達にも言える事だよ」
 学校での性教育が「机上の空論」という訳ではないが、三千人の女と交わった鳥羽の言葉程の重みはない。皆が頷く中、あずさも細かいことはわからないものの、何となく納得がいったように心の中で頷いていた。
「やっぱり、プライベートでもヤリまくりなんですか?」
「プライベートではもうかれこれ九年くらいヤッてないね。女いないし」
「マジですか?」
「仕事でセックスしてるから、プライベートでまでヤリたいって思わないんだよね。だから家にはAVもエロ本もないよ。それにあまり信じてもらえないんだけど、オレ、性欲ないんだよね」
「まさかぁ」
「ほんとほんと。仕事でも『ヤリたい』って思うことないんだよ」
「それじゃ勃たないんじゃないんですか」
「オレの場合、頭が『仕事モード』になれば余計なこと考えないでも自然と勃つんだよ」
「だからどんな女でも相手できるんですね……じゃあ、どんな女でもイカせることができるんですか?」
「百パーセントではないけどね、限りなく百パーセントに近いことは確かだよ」
「すごいよなぁ。あんな可愛いAV女優と仕事でヤレるなんていいよなぁ。あー、オレもAV男優になりてぇ」
「そう思って男優になるヤツは多いけど、大抵厳しい現実の前に挫折するね」
「厳しい現実?」
「んじゃ、君。今ここで全裸になってマスかけって言われたらできる?」
 鳥羽に指差された男は皆の視線を集め、辺りを見回して冷や汗をかきながら答えた。
「えっと……それはできないですね……」
「それがAV男優なんだよ。カメラが回ってて、スタッフがたくさん見ている中でセックスする。簡単なようだけど、なかなかできないんだよね、これが。それにね、見た目以上にシビアな世界なんだよ。女優を気持ちよくさせられなかったり、射精できなかったら当然ダメだけど、時間や約束を守れなくてもダメだし、意外なようだけど基本的な生活態度がなってないとダメなんだよ」
「でも、セックスして金が稼げるんなら最高ですよね」
「確かにオレは結構な額稼いでるよ。でもね、今でこそ事務所があってマネージャーもいるけど、それまではマネジメント全部自分でやってたんだよ。全ては自己責任でやりくりして、監督や制作会社の人に頭下げて使ってもらってたんだから。使ってもらう以上は当然、期待に応えなきゃならないよね? そのためには毎日筋トレして身体作って、柔軟体操してどんな体位でもできるようにしておくし、病気で仕事に穴あけないように体調管理にも気を配る。タバコも止めたし、酒も休日前に嗜む程度にしてる。食べるものにも気を配って、早寝早起きを心がける──そういう細かな努力を積み重ねて、信頼を勝ち取って、ようやくオレはここに立ってるわけ。たかがセックスって思うかもしれないけど、仕事する以上は何事にも最善を尽くすのがオレの主義だよ」
 噛み締めるようにして語られる鳥羽の言葉を、この場にいる誰よりも心に響かせていたのはあずさであった。彼の意外な一面を見たような気がして、皆が下劣な質問を続けているなか、あずさは一人、楽しそうに語らう鳥羽の顔を真剣な目で見つめていた。
 皆に取り囲まれ、持て囃されるその姿からは、超一流の人間特有のオーラが見えるような気がする。雑誌の中の精悍で逞しい鳥羽の姿とあわせて、彼が本当は自分の手の届かない場所にいる人間なのだとあずさは改めて思い知った。
 恋人同士などでは決してない、友達と呼べるほど親しいわけでもない。わかっているはずなのに、心に感じるこの寂しさはなんだろう?
 得体の知れない感情に思い悩むあずさの耳に、夏実の高い声が入ってきた。
「鳥羽さん、あずさとはどういう関係なんですか?」
 あずさは驚いて顔を挙げた。その勢いで鳥羽と目が合うが、慌てて視線を逸らす。だが鳥羽はおもむろに立ち上がり、人の輪から離れて一人ぽつねんと座っていたあずさの隣に腰掛けた。
「な、何ですか……」
 あずさが席を離そうとすると、鳥羽の腕があずさの肩にかかり、それを押し止めた。
「離して下さい」
「そんなつれないこと言わないでよ。君とオレは、ベッドの上で組んず解れつ激しく絡み合った仲じゃない」
 皆、唖然となり、あずさと鳥羽を凝視する。夏実は口をあんぐりと開けて、やっとのことで言葉を搾り出した。
「あ、あずさ……あんた……まさか……」
「ちょ、ちょっと、何誤解してるのよ」
「だって、『ベッドの上で』って……」
「何もしてないわよ!」
 だが、鳥羽はそれを否定するかのようにあずさの肩を強く抱き寄せ、頬を寄せ合う二人の姿を皆に見せつけた。
「何を言うんだい? あの夜、君はあんなにも激しく乱れたじゃないか。君に攻められるのはなかなかの快感だったよ。でもあの体位はちょっと痛かったな」
 皆の耳が「体位」という言葉に敏感に反応した。
「体位? やっぱり……」
「何が『やっぱり』なのよ! だから何もないのよ!」
「あずさ……AVに出たの?」
「出るわけないでしょう! いい加減にしてよ! 誤解を招くようなこと言わないで!」
 鬼のような形相のあずさに詰め寄られても、鳥羽は全く怯まなかった。
「だって、本当のことだもーん」
「例え本当でも、言い方ってものがあるでしょう!」
「やっぱり本当なんだ……」
 ひそひそと囁きあう皆に向かって、あずさはついに真実をぶちまかした。
「私はこの人に襲われそうになったから寝技で撃