高得点作品掲載所      龍咲烈哉さん 著作  | トップへ戻る | 

ランナーズ・ハイ

 トラックを走る先頭集団の、そのまた先頭を走る一人の女子に目がいったのは、それがオカザキだったからという理由だけではなかった。
「なんで、オカザキは裸足なんだ?」
 ぼくは隣でだらしなく口を開けて女子の太腿を見ていたハタノに聞いた。ハタノは知らないと言った。「別にいいんじゃねえの、どう走ろうがさ」
 オカザキが安っぽい紙テープを胸で切り、かなり遅れて二着三着がゴールしていった。ぼくは体育教師が呼び止める声を完全に無視して、オカザキの所へ駆け寄った。オカザキは肩で息をしながらぼくの方を向いた。オカザキの体操着は汗で濡れ、青いブラジャーが透けて見えていた。オカザキはどうしたの、と笑った。何してるの、先生が怒ってるよ。
 女子の視線がぼくに集まる。ぼくは構わずに聞いた。 
「なんで、オカザキは裸足なんだ?」
 オカザキは一瞬きょとんとしたが、ああこれ、と座り込んで自分の足を見せた。オカザキの綺麗な足の裏は砂にまみれ、土踏まずの柔らかい皮膚には血が滲んでいた。それでもオカザキはにやっと笑い、ぼくにVサインをしてみせた。
「あと二十キロは余裕で走れるよ」
 二十キロって、いきなり何だよそれ。ぼくの反応に彼女はまた笑った。
「やっぱり知らないか。知らないよね」
「知らない。ていうか、分からない。なんで裸足なんだ?」
「裸足はマラソンを制するんだよ」
 オカザキの血まみれの白い足は、ぼくの目に焼き付いていた。

 体育の授業が終わり、皆が引き上げていく。オカザキも靴を履いて教室に向かっていた。ぼくは教師に殴られて痛む頭をさすりながら、誰もいなくなったグラウンドを眺めていた。
 なぜ、裸足なのだろう。こんな砂と土と砂利の上を裸足で走るなんて、痛いに決まっているのに。オカザキをばかにしながら、靴を脱いで裸足になっているぼくがそこにいた。ハタノが気付いて、何やってるんだ、と言った。試してみるのさ、とぼくは言った。そのまま靴を放り投げ、ぼくはトラックへ飛び出した。ハタノがなにか言ったが、それもすぐに聞こえなくなった。
 土の感触が、ざらざらした砂が、足の裏をざかざかとなぜていく。砂ならまだ良い。走っているとときどき、小石が足の裏に喰い込んだ。思わぬ激痛。トラック半周で、ぼくの足は限界にきていた。オカザキはこれでずっと走っていたのか。あのスピードで? 信じられなかった。靴を履いて走るのと、裸足で走るのとではぜんぜん違う。
 あと二十キロ? ばかを言え、百五十メートルで限界だ。
 ぼくはジャージが汚れるのも構わずに、グラウンドに寝転がっていた。
 気付いたら、オカザキがぼくの顔をのぞき込んでた。

 オカザキは足が速い。陸上部だからといえばそれまでだったけれど、オカザキは走ることに関しては、こと長距離に関しては誰にも負けなかった。もしかすると、男子の誰よりも早いかもしれない。上背があるわけでもないし、他に運動が得意なわけでもない。可愛かったけれど、格別に美人だったというわけでもない。ただ、走るのだけは得意。オカザキはそんな女の子だった。  
 だから気になった。

 放課後、ぼくはオカザキを誘った。
「オカザキ、一緒に走ろう」
 いいよ、とオカザキは答えた。
 そしてやっぱり、オカザキは裸足になった。ぼくは靴のまま走った。

「陸上は面白い?」
 あるときぼくはオカザキに聞いた。オカザキは首を横に振った。
「陸上って言うより、走るのが面白い。だから、別に陸上部でなくてもいいんだ。長距離を走れればサッカー部だってラクロス部だって、茶道部だってかまわないの」
「裸足で走れるならどこだって、か?」
「別に裸足じゃなくてもいいんだけど、どうせならとことんやらなくちゃと思ってね」
「わざわざ靴を脱ぐ、それが不思議なんだ」
「そういえばこの前、キミ、私の真似して試してたよね。馬鹿みたい」
 オカザキは他人事のように笑った。
「痛かったでしょ?」
「それなりに」
「ねえ。フルマラソンで走る距離がどれくらいだか知ってる?」
「それくらい小学生でも知ってるさ」
「裸足で走れる距離だと思う?」
「四二・一九五キロを? 無理だ。ぼくはトラック一周も出来なかった。オカザキだって、この間走ったのはたかが三キロくらいだろう」
 ぼくがそう言うと、オカザキは「走れるよ」と言った。
「ううん、走る。私も走ってみせる」
「裸足でフルマラソン走って、どうする気だよ」
「裸足で走って、四二・一九五キロをフルに走りきって、テープを一着で切って、そんで、テレビカメラが寄ってきてインタビューしてきたら、にやって笑って、Vサインでこう言うんだ。『あと二十キロは余裕で走れるよ』ってね」
「だから、何で二十キロなんだ?」
「キミは分からなくても良いの。これは、私の夢みたいなものなんだから」
「ヘンな夢だな。それに、妙に具体的だ」
 ぼくは腕組みをした。オカザキは怪訝な顔になってぼくを見た。
「笑わないんだね」
「笑いどころが分からないだけだ。分かったら大笑いしてるさ」
 オカザキはふうん、と言った。
「キミ、いいひとだね」 
 
 オカザキが走るとき、少なくともぼくが見ている彼女はいつも裸足だった。体育の授業中、ぼくの視線は何度もオカザキの足に行っていた。ハタノがときどきそれに気付いて冷やかしてきたが、ぼくは意にも介さなかった。
 オカザキの白い足は、ぼくの脳裏を何度も駆け巡った。
 
 オカザキが唐突に彼の名前を出したのは、たしかその頃だったように思う。ぼくは「何だそれ」と言った。「人の名前?」
「金メダリスト。すッごく速かったんだって」
「速かったって、そいつ、ランナーなのか」
「うん。おじいちゃんから聞いた話。東京オリンピックの頃だったから、五十年以上も前だって。当時のマラソン界の英雄」    
「ふうん……それで、何で半世紀も前の選手が出てくるんだ?」
 オカザキはその何とかが目の前にいるかのように、目を細めて呟いた。
「目標なんだ」

「オカザキの足って綺麗だよな」
 ハタノが言った。ぼくはそんなことはとうの昔に知っていたけれど、なんだか鼻が高くなって、そうか、とうなずいた。ぼくはハタノに何となく聞いてみた。
「なんで、オカザキはあんなに走ることにこだわるんだろう。それもただ走るんじゃなく、その綺麗な足を傷つけてまで――」
「好きなんだろ」
「走ることがか」
「走ることも、裸足も、さ」
 ハタノは分かりきったようだった。ぼくはなぜかむっとした。 
「そうかな」
 オカザキは走ることは面白いと言ったし、得意なのは誰もが認めている。けれど、好きだという言葉は聞いたことがなかった。屁理屈だけど、ハタノに雷同したくなかった。
「そうさ。見てて分かるだろう」
「分からないよ。オカザキが何を考えているかなんて、ぼくには分からない。それに、そこまでじいっとオカザキを見る趣味はない」
「ウソつけよ」
 ハタノはめずらしく真面目に言った。
「おまえ、オカザキのことが好きなんだろう?」
 ぼくは言葉につまった。ちょっと間をおいて、分からないよ、と言った。好き? たしかに興味はあるけれど、ぼくはオカザキが好きなのだろうか。
「分からない、か。まあそれならそれでいいけどな」
「なんでおまえがいいんだよ」 
「俺は好きだぜ」
 ハタノはめずらしく真面目に言った。

 授業中、走っていたオカザキが派手に転んだ。転んだというよりは、倒れた、に近かった。オカザキが倒れるところを、ぼくはばかみたいにじっと見ていた。さすがに救急車まではこなかったけれど、ちょっと大変な騒ぎになった。オカザキは少しのあいだ息ができずに、青い顔で苦しんでいた。
 ぼくはそのとき初めて、胸の病気のことを知った。
 
「昨日、オカザキと一緒に飯食った」
 ハタノは自慢げだった。
「陸上の練習が休みで、ヒマそうだったからな。俺が誘ったら、嬉しそうにしてたぜ」
 ココロに絆創膏を貼って騙しながら、ぼくは、だからなんだと言った。
「いま告白したら、アイツ、俺と付き合ってくれるかな」
 ずきん。

 息を切らしながら追い越しぎわに「ハタノくん、最近明るいよね」とオカザキ。誰のおかげで明るくなったと思っているんだ。もう一周どころか三周差ついている。ぼくに体力は残ってなかったけど、必死で追い上げた。背中から声をかける。
「大丈夫かあ、胸え!?」
「ありがとー、平気だよー!」
 オカザキはずっと先で愉しそうに叫ぶ。
「なんで、メシ、食いに行ったの?」
 ようやく横にならんでぼくは聞いた。おなかすいてたんだあ。オカザキは笑った。
 ぼくはいま、おなかが痛いよ。ついでに胸も痛い。君の足と同じくらいに。
 なんでだろう?

 みんながうわさをしはじめた。オカザキとハタノは最近仲がいい、って。まわりのやつらに、あいつらは付き合ってるのかと聞かれた。
 そんなん、しらねえよ。
「お前、二人と仲いいじゃん」
「親友だろ。そういうこと聞いてないのか」
「あいつら、キスとかしたのかな」
 だから、ぼくに聞くな。聞くなよ。

 今日、ハタノとオカザキがしゃべってるのを見た。がまんできなくなった。
 二人がぼくに気付く。オカザキは手をぶんぶん振り、ハタノは勝ち誇ったように笑う。
 やめてくれよ。

「付き合ってるの?」ぼくはオカザキに聞いた。
「付き合ってるよ?」きょとんとした顔でオカザキは答えた。
 ショックだった。それで分かった。ぼくはオカザキが好きだったんだ。 
 その日から、ぼくはハタノとしゃべらなくなった。オカザキとも。
 そうしたら、オカザキから言われた。どうしたの、最近って。君のせいだろ。もうぼくにかまわないでくれよって言ったら、オカザキは悲しそうな顔をしてた。 

 オカザキ――ぼくの好きな女の子。
 ハタノ――ぼくのトモダチで、敵。
 ぼく――何だろう? 
 とりあえず、世界でいちばんなさけないやつ。

 ハタノがずうずうしく、オカザキの肩をたたいている。
 ここはぼくの望まない空間だ。

 それから数日経ったある日、電話がかかってきた。「もしもし?」ハタノだった。ハタノはひとこと、ふられたと言った。
 肩からチカラが抜ける。ホッとしている自分がそこにいた。ぼくはトモダチとして最低だと思った。――あれ? じゃあ、いまオカザキは誰と付き合ってるんだ?
 それで、ぼくは電話をかけた。オカザキは弾んだ声で、すぐ行くと言った。

「―――キミと、でしょ?」オカザキは答えた。
「だって、前に言ってくれた。一緒に走ろうって」
「それは、」
「私のこと、嫌い?」
「いや、」
「よかった。じゃあ、いいじゃん」
 オカザキは微笑んで、ぼくと手を繋いだ。オカザキの手は冷たかった。

 ハタノに言った。
 ハタノはぼくを殴った。勝手にしろ、と吐きすてて。口の中が鉄臭さで満ちた。

 それから、ぼくと彼女はふつうの恋人になった。ふつうにデートをし、ふつうにキスをし、ふつうにセックスをした。高校二年で付き合いはじめて、卒業まで一年とちょうど半分。ぼくらは思ったより相性がよかったのかもしれない。彼女の傷だらけの足の裏を、ぼくは何度もなでた。彼女はいつもくすぐったそうに顔をしかめた。
 
 ぼくはトラックに座り、彼女が走っているのをぼんやりと眺めていた。こうしていると、彼女が病気なのだということがウソに思えてくる。陸上部のやつらの、まったくかなわない次元。そこに裸足の彼女は立っていた。なぜ彼女は、そうまでして走るのだろう。その理由を、ぼくは彼女の口から聞いたことがなかった。
 急に怖くなった。彼女はぼくにとって他人なのだ。宇宙人かもしれない。 
「オカザキにとってマラソンって、走るって一体なんなんだ?」
 白い息を弾ませている彼女に駆け寄り、ぼくは聞いた。ぼくの顔を引き寄せて口づけ、彼女は微笑んだ。「キミ、あの時と質問が違うよ?」
「同じだよ。根っこの部分は同じだ。分からないんだよ。オカザキが何を考えているのか。オカザキがなんで裸足なのか。そもそも、なんでオカザキは走っているのか。ぼくは一つも答えをもらってない。頼むよ。ぼくに大笑いさせてくれよ」
 ぼくは無我夢中で言った。そうしないと、彼女がすぐにでも走り去ってしまいそうだったから。いやだ。ハタノみたいなやつらに、彼女を渡したくなかった。彼女はちょっとのあいだぼくを優しく見つめて、子供をあやすようにぼくをぎゅっと抱きしめた。汗の匂い。横にならんで座ると、彼女は静かに口を開いた。
「本当はね、走るのは好きじゃないの。面白いけど、だからって好きにはなれない」
「面白いと好きは、同じじゃないのか」
「違うよ。私はキミのことを面白いとは思わないけど、好き。ハタノくんは面白いけど、好きだっていう気持ちはない。そういうこと」
「じゃあ何で、好きでもないのに裸足で走るんだ? 病気なんだろ?」
 何でかなあ、一応それバクダンだし、ねえ。彼女はオレンジ色の空を見上げた。
「――自分への宿題かな。ちゃんと走れて、彼みたいになれたら、それでいいの。やりがいはあるけど、夢みたいなものだし、ケド何とかなりそうだし。もしそうできたら走るのをやめてもいいって、いまなら思えるんだ」
「その夢を叶えて、走るのをやめたら、その先はどうするんだ?」
「さあ? よく分かんないや。分かんない。キミと一緒だね」
 彼女は笑って、もう一度ぼくにキスをした。
 
 そして、春。彼女はスポーツ特待生として大学に入り、ぼくは受験をして別の大学に入った。進路が分かれても、ぼくらの仲は変わらなかった。どちらも近い大学だったから、遠距離恋愛ではなかった。ぼくらは毎日のように電話をし、週末にはデートをした。彼女は部活で疲れていることもあったが、それをぼくに見せようとはしなかった。
 彼女は陸上部に入った。同じ大学に行った友達の話だと、彼女はただもくもくと走っていたのだという。
 
 彼女は走った。本当にただ、走った。
 
 新聞に彼女の名前がのったのは、その夏のことだ。女子フルマラソンの大学選手権で準優勝したのである。二着のくせにやたら大きな写真と、『はだしのランナー、彗星の如し!』という、陸上界の新しいヒロインの登場を祝うインタビュー記事。彼女はそつなく、優等生のような答えを返していた。当然ぼくはスポーツ新聞を買いあさり、切り抜きを集めたけれど、本当はそんなものは必要なかった。だってぼくはそのとき、特等席で彼女の白い足を見ていたのだから。

「おめでとう」ぼくが言う。
「ありがとう」彼女が微笑む。
「でも、二着じゃ意味ないんだ。私、まだ走らなきゃ」

 
 そして一瞬の煌きを残し、彗星は消えていく。

 
 その年の秋に、彼女は死んだ。
 長距離ランナーとして将来を嘱望された女の子の最期は、まどろみの中の夢が終わったときみたいに曖昧で、あまりにあっけなかった。はねられそうになった猫を助けようとしてだとか、そういうたぐいのドラマも何もない。 練習中の発作だった。
 走るのをやめてしまった、ぼくの彼女。涙は出ない。出なかった。
  
 彼女の遺影は、ただひたすらに無表情だった。彼女の母親に会ったのは、葬式のときが初めてだった。ぼくは請われるがままに、彼女のことを話した。
 彼女は母親や医者の反対を押し切ってまで、走ることに固執したらしい。いつかこういう日が来ることを、母親はずっと覚悟していたのだと言った。
 彼女が憧れていた選手の話になったとき、母親は静かにうなずいた。
「アベベ・ビキラですね。娘は、同じマラソンランナーとして彼に憧れていました」
「――そのアベベ・ビキラとは、一体どういう選手だったのですか?」
 彼女の母親は、彼女の祖父に聞いた話だと言って語りはじめた。
「彼は、とても足の速い黒人ランナーでした。マラソンではむかうところ敵なしとまで言われていたそうです。ある大会で、彼は何を思ったか、四二・一九五キロをすべて裸足で走りきり、独走状態のまま一着でゴールしたのです。裸足になった理由は分かりませんが、いま考えると、きっと黒人の強さと誇りを見せたかったのでしょう。その頃はまだ、黒人に対するいわれのない差別が平然とまかり通っていましたから。彼は驚く記者たちのインタビューに対し、笑顔でこう言ったそうです――」

 五十年前の、そして目の前の、二人のマラソンランナー。
 アベベは何を思い、裸足で走ったのだろう。
 彼女は何を想い、裸足で走ったのだろう。
 
 彼女の母親がタクシーを呼んでくれると言ったけれど、ぼくはそれを断った。急に走りたくなったのだ。彼女と一緒に走って以来だった。ぼくの家まで、十キロもない。きっと、余裕だ。走りきれる。走りきって、ぼくは――どうするのだ?
 彼女は――どうした? 走って――

 ――ああ、そうか。
 証明したかったのだ、自分の誇りを。病魔をねじふせる、強い躯を。
 たったそれだけのことだったのだ。ぼくは大笑いしたくなった。
 エウレーカ!

 そこで気付いた。今のぼくは、全身黒ずくめだ。
 そうだ。家までたどり着いたら、ぼくはどんなに疲れていても、息一つ乱さずVサインを作り、にやっと笑って言うことにしよう。あと二十キロは余裕で走れるよ、と。
 そうすればこの涙も、きっと汗に見える。そうすればこの感情も、何もかもを忘れて気持ちよくなれる。何ていうんだっけ、そういうの?
 ――まあ、いいや。
「オカザキ、一緒に走ろう」
 スタートラインに立ち、ぼくは革靴を脱いで裸足になった。


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