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大晦日、激闘の果てに在る物 |
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掃除をしなくてはならない。それも、かなり大掛かりな大掃除。なにせ、一年半の間全く使っていなかったマンションの一室を掃除しなければいけないのだから、その労力たるや、想像したくもないほどだ。
親父の弟、つまり俺の叔父である雄二さんが一年半ぶりに問題の部屋へと帰ってくる。 大晦日、親父と俺、二人でハードボイルド小説を読み漁っている所に、雄二さんから電話がかかって来たのだ。親父は電話を切った後、俺にこう言った。 「おい、掃除しにいくぞ」 なぜか俺にはその台詞が、ひどく不吉で禍々しいものに感じられた。見る事のできない凶悪な視線に射すくめられた様な、そんな気分になった。 ***** そして俺は今親父と二人、問題の部屋にいる。鍵はドアの横のポストに入っていた。無用心な事この上ないが、叔父らしい行動であるとも言える。 問題の部屋は地獄の様相を呈していた。それはまさに、阿鼻叫喚と言う言葉がしっくりくるような、そんな光景だった。 「くっ……」 親父が苦しそうな、何かに威嚇されたような声を上げた。俺は驚きと恐怖で声すら出せない。それほど凄惨な、予想だにしない光景が目の前に広がっているのだ。 2Kの部屋、扉を開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、中空を飛び回る無数の黒い生物達。打ち捨てれたように置いてある大量のゴミにたかる、翼を持つ凶悪なハイエナ達。 ――蝿。 それも大量にいる。十では効かないだろう。おそらく、ハイエナ達の幼虫がそのまま全て羽化してしまったに違いない。 「こいつを持って来ておいて、正解だったかもな」 親父の手には二本のハエ叩きが握られていた。奴らに有効な武器は、今の所これしかない。 「光一、いくぞ」 親父はやおら決心した声を俺に向けた。俺も頷いて同意を示す。度胸は決まった。闘いに躊躇いは必要ない。必要なのは、ただ冷静であり続ける事だから。 俺と親父は、無数の敵が入り乱れる中に飛び込んだ。ハエ叩きを振り回す。俺の、一匹の蝿に狙いを定めた渾身の一撃は空中を切った。 ――速い! 敵のスピードに感嘆している場合ではない。ちらりと親父に視線を移すと、その四肢を蝿にたかられながら、ハエ叩きで空気を叩いている。 ――くそっ、このままではやられる! 俺は一旦、戦線離脱した。親父も同時に抜け出してくる。 「光一、こうなったら、毒殺するしかない」 「毒殺……しかし、俺は持っていないぜ」 「ああ、だから買って来て欲しいんだ」 「そんな! その間、親父が危険になってしまう!」 親父はこちらを見て、不思議に穏やかな笑みを浮かべた。 「敵は俺が引き付けておく。俺の心配はするな。お前はお前のやるべき事をやるだけでいいんだ」 「そんな……親父……」 親父の目は決心の光に彩られている。親父は、大切な何かを犠牲にして俺に毒を買いに行かせるのだ。その気持ちに答えてやらなければいけない。俺達はその瞬間、親子ではなく、男と男だった。 俺は、ともすれば流れそうになる涙を堪えながら、近くのコンビニに走った。手に入れるべき、殺虫剤を心に描きながら。 ***** 雄二さんは、親父と七つ年の開きがある。親父が四十五歳だから、雄二さんは三十八歳である。しかしその年齢を、顔や風貌からは全く感じさせない。童顔なのだ。ファッションも若々しい。親父とは正反対だ。親父は老けているし、ファッションセンスも古臭い。 雄二さんはこの一年半、全く音沙汰が無かった。つまり失踪していたのだ。原因は、駆け落ち。雄二さんと親父の父、すなわち俺の祖父が、結婚に反対した。相手はどこかの病院の看護婦らしいが、詳細はあまり知らない。 分かっているのは雄二さんが執拗に結婚の承諾を祖父から得ようとし、祖父はそれをことごとくはね返したと言う事だけだ。そして、駆け落ちした。 帰ってきたと言う事は別れたか、祖父が結婚を承諾したのかも知れない。と言う事は雄二さんは、祖父とだけは何らかの方法で連絡を取り合っていたのか。 ***** 蝿達を殺虫剤で全て片付け、大量のゴミを捨ててきた所で、あまりの安堵感にため息が漏れた。親父も憔悴しきった表情をしている。 殺虫剤を買って帰って来たら、親父は扉から外に出て、マンションの廊下で煙草を吸っていた。俺は殺虫剤を親父に手渡しながら、聞いた。 「煙草、なんの味がする?」 親父はニヒルに笑い、こう言った。 「ああ……思い出の味さ……」 いつも通りの反応に、少し安心した。 奥の部屋で掃除機を使用している時、視界の端を何か黒い物質が横切った。俺はそれを見てある予感に心を苛まれた。それと同時に言いようの無い恐怖が脳髄を駆け抜ける。 親父はそれに気付かず、ベランダに通じる窓を薬拭きしている。 俺は黒い物質が横切った先の壁に視線を走らせた。 そして、見つけた。奴を。 黒い、悪魔。全ての人間を恐怖に貶める、地獄の申し子。その茶褐色の翼は、さながら堕天使の様に歪にゆがみ羽ばたく。黒くぬらりとした光沢を放つ体躯は、未知の海底の深遠を覗き込んだ様に、背筋を凍らせる。 ――ゴキブリ それも、かなり巨大だ。その体長は今まで俺の見た中では、まぎれもなく最大。約7センチメートルはあるのでは無いだろうか。 完全に硬直した俺を見て不思議に思ったのか、親父も俺の視線の先を追った。 そして、硬直した。その視線は奴を捕らえて離さない。いや、離せない。 硬直する事、約十秒。親父は言い放った。 「厳しい闘いになりそうだな、光一」 「ああ、親父。しかしこいつが使えるんじゃないのか?」 俺は片手に持った殺虫剤を掲げて見せた。 「そうだな、使ってみるか」 ゴキブリに殺虫剤の照準を合わせる。奴との距離は約1メートル半。必ず、当てる。はずせば明日は無い。絶対に、はずさない。 俺は意を決して殺虫剤を解き放った。しかし、必殺の煙幕が届く直前、奴はその禍々しいまでにグロテスクな翼を広げた。 俺と親父は叫び声を上げて、横に跳んだ。奴が頭上を通過する。俺は恐怖のあまり床にうつ伏せたまま硬直していた。 殺虫剤を解き放つたびに、奴は中空を飛んで逃げる。俺も親父も、もう疲労が限界に達していた。 こんなに周囲の状況を把握し、かつ機敏に動くゴキブリは初めて見た。恐らく、奴は他のゴキブリよりも幾分頭が良いのかもしれない。それもその体躯が巨大であるが故か。 俺は心中で発する言葉を、意識的に避けていた。しかしその言葉は否応無く脳までせり上がってくる。 ――勝てない 俺は絶望感にとらわれて親父を見た。そして驚愕した。親父の表情は自信に満ちた、不敵な笑顔に歪んでいたのだ。その視線はゴキブリを捕らえている。何か作戦があるのか。 「親父、何か思いついたのか?」 親父はこちらを見て、不適な笑いをその顔に浮かべたまま言った。 「ああ、勝てるぞ光一」 そう言って親父は俺の足元を指差した。そこには俺が先ほどまで使用していた掃除機が転がっていた。俺はそのアイデアに感嘆の声を上げた。 「そうか、こいつで吸い込んじまうんだな」 「ああ、しかし問題がある」 俺は困惑の表情を浮かべて親父を見た。問題とは何なのか。 「奴が隙を見せるのは、壁に止まった一瞬の間だけだ。つまりその瞬間を狙わなければいけない」 「つまり奴を飛ばして、壁に止まった一瞬の隙をついて吸い込むと言う訳か」 「その通りだ、相棒。奴を飛ばせる役は、俺がやる。お前は奴の息の根を止めてやれ」 相棒は最も重要な役を俺に押し付けた。 「いいのかよ、おいしい所をもらっちまって」 「ああ、お前にならメインディッシュを譲ってやってもいいと思ってな」 俺は、静かに心に湧いてきた勇気と共に大きく頷いた。 「準備はいいか」 「ああ、いつでもいいぜ、親父」 その言葉を聞くと親父はゴキブリに照準を合わせた。その姿は、まるで手馴れた狙撃者の様だ。俺は掃除機のスイッチを“強”に合わせる。 殺虫剤から幻惑の霧が放たれた。罠、それ故に幻惑。ゴキブリは翼を大きく広げる。しかしその時、予想だにしないアクシデントが起こった。 ゴキブリが親父の顔面に激突したのだ。親父は困惑と驚愕の入り混じった叫び声を上げて、床に転んだ。ゴキブリは親父の顔を離れ、床に着地する。 俺はすかさずゴキブリを掃除機で吸い込んだ。 そして後には、虚ろな目で宙を睨む親父が残されていた。その姿は俺の心の中に残る驚きと勝利感を悲しみへと変化させていった。 ***** 祖父から話を聞いたことがある。雄二さんの結婚相手は、非常に狡猾そうな女性だったらしい。それなりに金持ちである我が家の財産を持ち逃げしようと狙う結婚詐欺師かもしれないと、心配になったそうだ。よくそんな女性に惚れたものである。なにせ祖父の第一印象は“なんて狡猾そうな女だ”だそうだ。 大晦日のこの日にこんな大変な仕事(やま)を踏まなければいけないのは、雄二さんの趣味の悪さが原因なのだろう。 おかげで家の大掃除を母一人に押し付ける羽目になってしまった。できれば、母を手伝いたかった。 しかしそんな恨み言を言っても始まらない。闘いはまだ続くかも知れないのだから。 ***** トイレの掃除も何事も無く無事に終わり、後は風呂掃除だけになった。部屋は見違えた様に美しくなっている。部屋には西日が差し込み、その光を反射してステンレスの台所がきらりと光っている。 心地よい疲労と共に、清々しい気持ちが心を満たしていた。 「あとは、ここだけだな」 そう言って親父は風呂の扉を開けた。そして3秒間硬直した後、勢いよく扉を閉めた。 青白く変色した表情と共にこちらを振り返った親父に尋ねた。 「まさか……何かいたのか」 親父は口にするのもおぞましい、という感じで首を左右に振った。俺は親父を押しのけて風呂の扉を開けた。恐怖心より好奇心が勝っていたのかも知れない。 そして、見た。 形容できない恐怖の具現物。 さきほどの黒い悪魔を見た時とは比べ物にならない、頚椎を抜けて脳髄まで湧き上がる畏怖の感情。 遺伝子に刻み込まれた恐怖が、ある言葉を警報と共に紡ぎ出す。 ――逃げろ 湿気を好み、周囲の温度変化を敏感に察知すると共に、生物の生き血を主食とする黒き死神がそこにいた。死神の体は硬質のゴムを彷彿とさせる質感を擁し、煌々と光る電灯の光を反射して黒く光っている。ともすれば叫びそうになる衝動を抑え、奴の名前を反芻した。 ――ヒル 小型だが、間違いなく今までで最強の敵だ。しかしそれは、闘うなら、の話だ。俺は既に風呂場の掃除を放棄しようかと考えていた。ほとんど話した事の無い叔父のために、命を賭ける必要性は感じられない。 親父を振り向き、「やめよう」と言う言葉をかけようとした。しかし、親父の瞳にはまたもや鮮やかな光が宿っていた。その光は、決意。 「親父……まさか……」 「お前はここにいろ、光一」 そう言って親父は風呂の扉に手をかけた。 「待てよ親父! あんな死神と闘ったら死んじまう! 雄二さんなんかのために、そこまでしなくてもいいじゃないか!」 親父は振り返り、じっと俺を見つめた。諭すような光がその瞳にあった。 「理由が要るのか?」 不意に、親父が言った。俺はその意味が分からず、困惑の表情を浮かべた。 「男が命を賭けるのに、理由が要るのか?」 俺はその言葉に衝撃を受けた。心に電流が流れるような、感銘。 親父の言う通りだ。男が命を賭けるのに、理由なんか要らない。 「目の前に敵がいる。だから命を捨てる。それだけで十分じゃないのか?」 そうだ。それが男だ。もう止める事はできない。俺達は、男だから。 「相棒、俺も一緒に闘わせてくれ」 「駄目だ。お前はそこにいろ」 「なぜ?」 「見届けるためだ。全てを」 俺は微かに逡巡し、やがて言った。 「わかった、相棒。あんたの生き様と死に様、この瞼に焼き付けさせてもらう」 相棒は、鮮やかな笑みを浮かべて拳を差し出してきた。俺はその拳に、自分の拳を重ね合わせる。そして、晴れやかな笑顔で言った。 「あんたの死に様を見届けたら、次は俺の命を捨てさせてもらうぜ」 「ああ、それに関しては、俺に止める権利は無いな」 そして相棒は、地獄への扉を開けた。俺が数えることが出来た相棒の死への歩みは、たった一歩だけだった。 それからは周囲の状況もほとんど把握できず、何が起こったのかも全く分からなかった。しかし、風呂場から聞こえてきた親父の声や音、自分の発した声は不思議と鮮明に覚えている。 「うあっ! ちょ、ちょっと待っ……うああぁ! だめだって!」 「親父? 親父! 大丈夫かよ!」 「光一は入ってくるな! あ……そこは……そこは駄目!」 (ぢゅるるるるるるるる) 「親父、親父! どこを吸われてるんだ!」 「く、くそ!」 そう言った親父の声が聞こえた後、ライターを着火するカチッと言う音が聞こえた。そして、「よし!」と言う声。続いてシャワーを流す音。 そして無音の時間が数秒間、流れた。 しばらくすると、親父が扉を開けて出てきた。その顔は青白く、憔悴し切った印象を俺に与えた。 「親父……勝ったのか?」 「ああ……強かった。この人生で、初めて命を賭けた事の価値を感じられる敵だった」 「そうか、良かった。見届けたぜ、あんたの生き様」 親父はそれには答えず、ただ疲れた笑みを返しただけだった。 ***** 帰り道。夕日の沈みかけた空が茜色に染まっている。 親父は紫色の煙をその口から燻らせながら、ゆっくりと歩く。闘いの傷跡が大きすぎて、これ以上の速度では歩けないのだ。少しへっぴり腰だ。 紫色の煙が、闘いを終えた俺達の悲しい心を包み込む。 「親父……思い出を、俺にも味わわせてくれないか」 親父は、煙草のボックスを俺に差し出した。「ほろ苦いぜ」と言う言葉と共に。 煙草のほろ苦さは、少し悲しみに似ていた。 ***** 後日、正月空け早々、俺と親父は雄二さんをぼこぼこに殴り倒した。ちなみに狡猾そうな女とは別れたらしい。女が浮気したそうだ。 |