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「ヨシキ先輩、リナ先輩、自分のためにわざわざどうもでしたっ」
「あいよ、お大事にね」 「じゃーね、ナカッペ」 ドアを静かに閉めて、僕とリナは病室を後にした。ナカガワは陸上部の後輩で、足の靱帯を切って入院している。今日はそのお見舞いに来たのだが、正直、ちょっと疲れた。 「あいつ、あんなにおしゃべりだったっけ?」 「入院してて人恋しくなったんだよ、きっと」 「だけどさ、2時間もしゃべり倒すかな、普通」 帰る前に休憩所に寄り、僕たちはそこで休むことにした。自販機で紙コップのジュースを買い、黒い長椅子に腰掛ける。テレビに映し出されたデイゲームの野球中継では、地元チームの試合をやっていた。地元のチームが戦っているんだから、スポーツ好きとしては応援せねばなるまい。 「おっし、6−4−3でダブルプレー! スリーアウトチェンジだ!」 小さくガッツポーズ。芸術的なプロのプレーは、やはり見ていて気持ちが良い。 「ろく・よん・さん?」 リナは、隣で首を傾げていた。どうやら野球用語がわからなかったらしい。すぐに僕に聞こうとはせず、とりあえず自分で考えようとしてぶつぶつ言っている姿が、ちょっと可愛らしかったりもする。 「……ろく・よんさん……ロク・ヨンサン!」 何かに思い当たったのか、リナはぱっと顔を輝かせ、僕を見た。 「韓流スター?」 「ちがうっ」 「ぼくは、はんでぃか〜む」 「ちがうと言っている! しかも古いっ!」 こんなリナは、僕の幼なじみ。彼女とは家が隣同士で小さい頃から家族同然に育ち、幼稚園から高校までずっと一緒で、今でもリナは毎朝僕の家まで迎えに来てくれる。ある意味お約束ってやつだ。 それにしても、最近はリナのテンションが異様に高い。もともと天然ではあったのだけど、さらに磨きがかかってきた感じだ。まったく、いちいちツッコミを入れなきゃならんこっちの身にもなれっての。 ※※※ 「野球では、背番号とは別にポジションごとに番号が振られていて、6がショートで4がセカンド、3はファーストを指すんだ。だから、ショートが打球を取ってセカンドに……」 リナのために僕は熱心に説明を始めたわけだが、30秒とたたず彼女は空になった紙コップで遊びだした。 「リナ、聞いてる?」 「うんにゃ。飽きた」 「……秘孔がどこにあるか、教えてやろうか?」 我知らず、どす黒いオーラが全身から流れ出していた。そんな僕に恐れをなしたのか、リナは取り繕うような笑みを浮かべる。 「よ、ヨッちゃんってさ、本当にスポーツ好きだよね。あたし、スポーツ苦手だから」 「知ってる。けど、苦手ならどうして陸上部なんか入ったのさ?」 「だって、ヨッちゃんが陸上部入るって言ったから」 黒目がちな瞳で、リナは僕を見上げてくる。上目づかいでちょっと唇を尖らせたその顔は、並の男なら一発でKOされてしまうほどの破壊力を持っていた。本当に、憎らしいほどその顔が可愛くて、僕はリナの小さな額にデコピンをかましてやった。 「はぷっ。な、なんで〜?」 「知るか」 「そんなに怒んないでよぅ。一発芸やったげるからさ」 どうせろくなもんじゃないだろうと高をくくる僕の前に立ち、リナは空の紙コップを口にあてがった。そして思いきり息を吸い込んでそれを口の周りに吸い付けると、両腕をぶわっと広げ、前傾姿勢を取る。さらに顔を前に突き出し、 「あ゛〜、あ゛〜」 と、喉の奥で不気味な呻き声をあげながら迫ってきた。 はっきり言って、キモイ。 「なんのつもりだっ」 「あ゛〜、あ゛〜」 「ひっ、こっちに来るな!」 椅子から転げ落ちるようにして僕が逃げると、リナは紙コップをはずして頬をふくらませた。 「見てわかんない? ドナルドダックだよ」 「わかるかっ。そんなの――」 小さい子が見たらトラウマになる――そう続けようと思ったのだが、リナの顔を直視したら、全部吹っ飛んでしまった。 「ぷ……ぶふぅっ」 突然吹き出した僕の顔を、リナは不思議そうに見ている。僕はリナの鞄から手鏡を取り出してやり、それを彼女の鼻先に突きつけた。 手鏡をまじまじと見るリナ。 「…………」 無言で顔を上げた彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。その口元には、くっきりと紙コップの丸いあと。 女泥棒、ここに見参。 「心配いらないよ、リナ。きっと、時間が解決してくれるさ……ぷふっ」 「うぅ、他人事だと思って〜」 泥棒ヒゲの女の子が涙目でむくれる姿は、とてもシュールだった。 ※※※ ナースステーションの前を、上体を低くして駆け抜け、観葉植物の陰に素早く身を潜める。廊下の角から顔だけを覗かせ、人影がないことを確認してから、僕はリナを手招きして呼び寄せた。それこそ、本物の泥棒のように。 「マチャミにこんな顔見られたら、きっとメチャクチャばかにされるよ〜」 リナが泣きそうな顔でそんなことを言いだし、なぜか僕まで、人目を避けてこそこそと移動するハメになってしまったのだ。 マチャミ――マサミさんは、6年前に僕たちの高校を卒業していった陸上部の大先輩。今はこの病院で看護師をやっていて、ナカガワもそのつてでここに入院したらしい。マサミさんはたまに部活の練習に顔を出して、差し入れをしてくれたり、ときには僕たちを指導してくれたりもする。それでいて先輩風を吹かせることなく、ユーモアがあって、人望もあつかった。そして僕とリナも、例に漏れずマサミさんを慕っている。 けれど、今日ばかりは挨拶をしていくわけにもいかない。僕はともかく、これはリナの名誉にかかわることなのだ。 「ここまで来たはいいけど……」 最後の難関、広い玄関ロビーを前にして、僕とリナは二の足を踏んでいた。街で一番大きな総合病院ともなると人の出入りが激しく、ロビーの性質上、遮蔽物も少ないため、否が応でも人目につく。だからといって下手にコソコソしようものなら、かえって目立ってしまうだろう。 さて、どうするか――ロビー全体を見回したところで、受付で事務の人と会話をしている看護師の姿が目に入った。長身のうえに、顔が小さくてスタイル抜群のその人は、白衣がとても良く似合っている。 「あ、マチャミだ」 同じようなタイミングで、リナもマサミさんの存在に気がついたようだ。 ……嫌な予感がする。そう思った、次の瞬間。 「お〜い、マチャミ〜!」 誰がために ロビーを駆ける リナの声―― 思わず一句詠んでしまった。と同時に、3階から泥棒ごっこをしながら降りてきた苦労が、僕の中で音を立てて崩れ去る。 「おまえ、ばかだろ」 「なんでさ? ばかって言った方がばかなんだよーだ」 いや、この場に限り、断じてそれはない。その決めゼリフは、全力をもって否定しよう。 ※※※ 「あっはははは! リナちゃんらしいや」 リナの顔を見たマサミさんは、おなかを抱えて豪快に笑った。対するリナは、さっきから僕の背中に隠れてずっともじもじしている。 何か、変な感じだった。いつものリナなら、顔を赤くしながらもマサミさんに向かっていきそうなものなのに。 「いやいや、それにしてもリナちゃんは後輩思いだよね。ここんところ毎日のようにお見舞いに来るんだもん。ま、おかげでこっちは退屈せずにすんでるけどさ」 「え……そうだったの?」 僕の問いに対し、こくりと頷くリナ。 知らなかった。たしかに、最近付き合い悪いな、とは思っていたけど。 「そうだ、今日の仕事はもう終わりだから、これからドライブでも行かない?」 突然、マサミさんがそんな提案をしてきた。それはもの凄く魅力的だったけど、たしか数学の宿題が―― 「いきます!」 と、それまで僕の後ろに隠れていたリナが飛び出してきて、勢いよく返事をする。……まあ、いいか。宿題なんてどうにでもなるさ。 「うん。それじゃ、準備してくるから駐車場で待ってて」 手をさらりと振って、マサミさんは立ち去った。何気ない仕草だったのに、なんだかとてもセクシーだった。これが、大人の魅力というやつなのだろうか。 「さて、僕たちも駐車場に――」 言いながらリナの方を見て、思わず、息を呑んだ。胃がキュッと縮む感じがして、鼓動が早くなる。 なぜって? だって、マサミさんの後ろ姿を見つめるリナの顔が、乙女のそれになっていたから。 口は白い歯がわずかに覗くくらいに開いていて、上気した頬は桜色に染まっている。何よりも雄弁な目は熱病患者のように潤み、あのリナが、ばかでガキで天然のリナが、艶っぽく見えたのだ。 衝撃が僕の胸を貫く。そしてその後には、なぜ自分がそんな衝撃を受けたのかがわからず、モヤモヤとした想いだけが残った。どうにも落ち着かなくなり、僕はリナの腕を強引にとって、駐車場までの道を急いだ。 ※※※ 会話ができない。外に出てかれこれ10分くらいになるが、あれから僕とリナは一言もしゃべっていない。 空を見上げる。晴れていた。それだけ。駐車場はケヤキの木に囲まれている。それがどうした。今、大切なのはそんなことじゃなくて…… あー。僕はなんでこんなに焦っているんだろう? ダメだ。こんな空気、もう耐えられない。 「リナさ、もしかして、マサミさんのこと好きなの?」 「うん」 ストレートな問いに、ストレートな答え。 「……どこが?」 「背が高くて、目がおっきくて、優しくて、それから……たくましくて男らしいところ」 そう。言うまでもないと思うけど、マサミさんは男だ。フルネームは“セト マサミ”。漢字で書くと、“瀬戸 正三”。前に「女みたいな名前で嫌じゃない?」って聞いたら、「マサゾウって読みにされるよりは良かった」って笑っていたっけ。 「ねえ、ヨッちゃん」 俯いたまま、リナが話しかけてきた。その表情がなんだか大人びていて、ドキリとする。が、リナの次の言葉を聞いて、さらに心臓が飛び跳ねた。 「二人っきりに……してもらえないかな?」 それはつまり、リナとマサミさんを二人っきりにするというわけで。 「ええっ、でも、そんなっ……」 「ドライブで長時間座ってると、ヨッちゃんの痔、悪化しちゃうよ?」 「んなもん、ないわ! 人を勝手に痔主よばわりすな!」 「おっとっと、どしたの? ケンカ?」 気づけば、マサミさんがすぐそばまで来ていた。なぜかはわからないけど、僕は彼の顔を直視することができなかった。 「えと、ヨッちゃん、痔が悪化するから帰るって――」 「だから、痔なんかないってば!」 「あはは、どうしたのさ二人とも。いつもはあんなに仲いいのに」 「あたし、マチャミと二人でドライブに行きたいの!」 「え……」 マサミさんの顔から、すぅっと笑みが消える。リナの言葉が何を意味するのかは、大人なマサミさんには言わずもがなのことだろう。 「あたし、マチャミに大事な話があるんだ」 ――ダメだ! リナ、言うな! そんな言葉が、喉の奥まで出かかっていた。だけど……だけど、拳をギュッと握りしめ、こらえる。告白を邪魔する権利なんか、誰にもない。そんなことをしたら、豚に蹴られて死んでも文句は言えないんだ。……あれ、なんか違ったかな? まあいいや。ともかく、僕にはリナの告白を遮ることなんてできなかった。 だって、僕とリナは――幼なじみなんだから。 「ヨッちゃん……ごめんね」 ぽつりと、リナがこぼした。リナは、とっくの昔に僕の気持ちに気づいていたのかもしれない。土壇場になってやっと自覚できたこの想いを、僕自身よりも、はっきりと。 「あたし、マチャミのことが好きになっちゃった。マチャミのことを考えるとね、すごくドキドキして、楽しくて、うわぁーって飛び跳ねたくなるくらい嬉しいの。だから、あたしを、マチャミの彼女にしてください」 ぺこりと頭を下げるリナ。マサミさんは最初、呆然としていたものの、すぐに顔をきりっと引き締めて、リナに歩み寄った。 腹の底から何か熱いものがこみ上げてきて、胸が苦しくなる。吐き出す息も熱くて、鼻の奥がツンとした。 決意に満ちた、二人の顔。僕が自分の気持ちを押し殺して黙っていれば、二人はこのまま幸せになれるのかもしれない。二人が幸せになってくれるのなら、僕も本望だ。 でも―― やっぱり、 やっぱり嫌だ! こんな不完全燃焼で終わりたくなんかない! 当たって砕けろ! 人生いつでもフルスイング! 「ちょっと待ったぁ!」 リナとマサミさんの体がびくりと跳ねて、二人同時にこちらを見る。自分の顔面がばかみたいに紅潮しているのがわかったが、この想いはもう止まらない。熱い奔流が喉の奥から流れ出し、僕は魂の叫びに身を任せる。ごめん、リナ! ドントストップ、マイラブ! 「僕も――僕もマサミさんが好きだぁっ!」 三者の動きが停滞し、正三角形のフォーメーションを組んだ僕たちの間を、木枯らしがひゅう、と吹き抜ける。 季節は、秋。ケヤキの木から、枯れ葉が二枚、はらりと落ちた。 ※※※ オレンジに染まった街を、とぼとぼと歩いて帰途につく。 僕の名前は“ヨシキ アリサ”。髪は短いし、背は高いし、おまけに言葉遣いも男っぽいってよく言われるけど、僕はれっきとした女だ。思春期の女の子が、ちょっと年上の男性に憧れるなんて、よくあることでしょ? 今回の恋も、きっとそのようなもの。 ……そうでも思わなければ、やってられない。 リナは―― 「〜〜♪、〜〜♪」 リナは僕の少し前を、鼻唄を歌いながらスキップして歩いている。まったく、二人して見事にふられたっていうのに、いい気なものだ。マサミさんには、婚約者がいるらしい。だから、初めから僕たちなんか眼中になかったってわけ。それなら花の女子高生をドライブなんかに誘うなよ、と。きっと、妹ぐらいにしか思われてなかったんだろうなぁ。 「ねーねー、ヨッちゃん」 リナが立ち止まり、僕の方を振り返る。そして、 「“ろく・よん・さん”だね」 と言って、笑った。 「……はぁ。ダブルプレーかよ」 「あははっ、ろく・よん・さん!」 そう言ってぴょこんと跳ねたリナの顔には、いまだ泥棒ヒゲがくっきりと浮かんでいた。 了. |