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手探りで手繰り寄せた時計は、ちょうど昼を回ったところだった。寝ぼけ眼を擦りながら頭の隅で「午前いっぱい無駄にしたなー」とかぼんやり思う。とりあえずベッド脇のカーテンを開け、Tシャツハーパンの寝巻き姿のまま起き上がった。
「腹が減ったな……」 ここが実家だったら昼食が用意されているだろうが、一人暮らし大学生の俺などは買うも作るも全て自分でやらなければならない。 「めんど……」 一人暮らしを始めたばかりの頃は毎日しっかり自炊していたものだが、一年も経ってしまえば面倒以外の何物でもない。俺はだるさが停滞する身体をフラフラさせながらワンルームの部屋を通り過ぎてキッチンに入り、冷蔵庫を開けた。 中に幼女が入っていた。 おかっぱ頭の黒い髪に真っ赤な着物。体育すわりをしながら幼女は目を閉じて眠っている。冷蔵庫の中には棚があったはずだが、それらは全て取り除かれていた。買っていた食材がクッションのように幼女の身体を取り囲んでいる。 俺は勢い良く扉を閉め、頭を抱えた。 待て待て待てマテマテ、ちょっと待ってくださいよ? 昨晩はごくごく平凡に一日を過ごしたはずだ。酔った勢いで幼女をかっさらって冷蔵庫に詰めたとか、そういったことはしていない、していない! 例え女の子を販売している人身売買上等なスーパーがあったとしても、俺は年上好みだから幼女は買わないぞ! まさか……! 「のりか先生……」 ……じゃねぇよな。そもそも俺の部屋はレオパレスじゃねぇ。 抱えていた頭を上げ、もう一度冷蔵庫を見る。恐る恐る取っ手に手を伸ばし、勢い良くもう一度扉を上げた。 「…………………………」 幼女が眼を開けていた。 黒々とした眼で俺を凝視している。 凝視されている俺は硬直している。 ハムやらマヨネーズに囲まれ、膝を抱えて体育すわりしていた幼女は一度だけ瞬きをし、やがてゆっくりと身体を動かし始めた。 「私の眠りを妨げ――」 扉を閉めた。 「冷蔵庫は内側から開かないから、かくれんぼするときに入っちゃいけないって先生に習わなかったかい?」 「なるほど。どうりであかないわけだ…………って、そんなことはどうでもいい!」 幼女は腕を組んで頬を膨らませた。足袋を履いた足の裏で苛々と床を叩いている。口調は尊大だというに、仕草の一つ一つが子供っぽい。 「お前、私に対してずいぶんな態度じゃないか? せっかく来てやったと言うのに礼の一つも言わずに」 「ごめんねお嬢ちゃん。お兄さんのお嫁さんになりたかったらお兄さんより二つ年上になって出直してきなさい」 俺はせっかく頭をなでてやったと言うのに、幼女はうるさそうにその手を払いのけた。見た目ともかく、口調も態度も可愛げのないガキんちょである。 「私は八百万の神の七百二十八万二千とんで一番目の神、座敷わらしだぞ!」 「ごめんねお嬢ちゃん。このマンションは座敷犬でも飼っちゃいけないって決まりがあるんだよ」 「犬畜生と神を一緒にするなバチあたり!」 俺の腰くらいしかない幼女は、膝の裏に鋭いローキックを決めてきやがった。右膝がカクンと折れ曲がり、俺は体勢を崩して片膝ついた状態になる。 くそっ、ガキんちょめ! 「OKお嬢ちゃん、まともにコメントしてやるよ。そんな格好して座敷わらしと言えば信じると思うなよ。神様なら神棚に宿ってくださいまし。冷蔵庫は食材を入れる場所であって宿るべきものは一つとしてないんだからな。ほら、帰った帰った」 俺は幼女の肩を掴んで玄関に回れ右させるが、帰ろうとはせずにまた曲がれ右をして俺を睨みつける。 「ふん、お前の部屋に神棚などないではないか。それに、何が冷蔵庫は食材を入れておく場所だ! 冷蔵庫の奥に私とともに入っていたこれのどこが食材なんだ!」 「うっ……!」 幼女が差し出してきた牛乳パックを見て俺は低く唸った。そこに記載された賞味期限は二ヶ月前。安売りのときに買ったはいいが、そのまま忘れていたらしい。 「これも!」 「うぁ……」 同じく差し出された卵パック。牛乳とセットで買ったものだからこれも二ヶ月以上前に賞味期限を突破している。 内部で恐ろしい変化を遂げているであろう二つの食材を見てうろたえる俺。こいつらはいったいどんな進化を遂げているのだろう? 処分するのも恐ろしい。かといってこのまま放置はさらに恐ろしい。 放置すれば煉獄、処分するのもまた地獄。 そんな俺を幼女はせせら笑い、食器棚からグラスを一つ取り出した。 「だがこれはいい機会だ。私の『奇跡』を見せてやる」 不適に言い放ち、幼女は俺にグラスを差し出した。 「飲め」 「え? 死ね?」 そうとしか聞こえない。 「いいから飲め! とりあえず開けてみろ! 神からの命令だ!」 「飲めるかよこんなもの……」 と言いつつ俺は牛乳パックに手をかけた。いや、飲まないよ? でも捨てるときは中身を空にして洗わなくちゃいけない。俺は身体から牛乳パックを極力離し、恐る恐るその口を広げた。 「………………」 人間、臭いものほど嗅いでみたくなる。 さて、二ヶ月放置された牛乳がどのような変貌を遂げているのか興味が湧いた。どれほど凄い臭いだろうか。もしかしたら卒倒するんじゃないか? チーズになっていたら友人に自慢できるだろう。 俺はゆっくりと牛乳パックを引き寄せ、理科の実験でアンモニアを嗅ぐようにして手を扇いだ。 「…………あれ?」 全然臭くない。拍子抜け。もしかしたら賞味期限は来年のものかと思ってみてみたが、そんなタフガイな牛乳などあるわけがなく、やはり賞味期限は二ヶ月オーバーしていた。 「ほら、注いでみろ」 幼女が俺の手に無理やりグラスを持たせる。俺は二秒ほど迷った後、グラスに向けて牛乳パックを傾けた。どうせ百円ショップで買ったグラスだ。変な臭いが残るようなら最悪捨てちまえばいい。 「………………」 見た目はまったく普通と変わらない牛乳。臭いも同じく。 「飲んでみろ」 幼女に促され、俺は恐る恐るグラスの縁に口をつけた。 そして、それを傾ける。 「……………………!?」 「ふふふ、どうだ? 搾りたてと変わりないだろ?」 「そんなはずは……」 二口飲み、三口飲み、一気飲みしてみる。へんな味もしないし、身体に異常もない。むしろ普通の牛乳より旨いんじゃないか、これ? この牛乳はいつも買っているが、こんなに美味じゃなかったと思う。ためしにもう三杯ほど飲んでみたが、問題ない。 「まさか……」 俺は卵パックから卵を一つ取ると、小鉢の中に開けてみた。すると、新鮮で健康的な卵黄と卵白が滑り出てくる。 俺は食器棚から茶碗を取り出すと、炊飯器から山盛りのご飯をよそった。箸で真ん中に窪みを開け、卵を流し込み、醤油をぶっ掛ける。 「いただきます」 ……………………うまい。 空腹は極上のスパイスといったのは何処のどいつだったか。牛乳たらふく飲んですでに空腹など忘れていても、この質素な卵掛けご飯は旨すぎる。 空白の二ヶ月の間、こいつらに何があったのだ? 「それとも……」 振り向くと、幼女が得意げな笑みを浮かべていた。幼女はその手に卵を一つ掴むと、皿の上で割った。 目玉焼きになって出てきた。 「これが私の『奇跡』と言う名の『何でもあり』だ」 「座敷わらし様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!」 俺はその場に膝を着き、大名行列を脇で見ている平民のようにひれ伏す。 両手を投げ出し、額を床にこすり付けて完膚なきまで土下座。 「疑ってしまって申し訳ない! すみませんでした! これからは心を入れ替えてあなたを崇め奉ります! お供え物も何でも申してくださいまし! ですから! ですからなにとぞサマージャンボでわたくしめに一等を! 次の考査で学年トップを! 美人で市内の病院で看護師やっている年上の彼女を!」 「あ、それは無理」 土下座の体制のまま硬直する俺。 顔を上げると、あっけらかんと笑っている座敷わらし様。 「そういうことできるのは八百万の神の中でも十七番目の座敷わらし。七百二十八万二千とんで一番目の私には管轄外」 座敷わらし様は自らをびしっと親指で指し示し、不敵な笑みを浮かべる。 「私は『台所専用座敷わらし』。台所に関することならばどんな奇跡でも起こせる!」 「はい?」 俺は一瞬だけ言葉の意味を理解できず、聞き返してしまった。つまりは神棚ではなく台所に宿る座敷わらし様なんだろう。なるほど、だから冷蔵庫に入っていたのか? 台所の神棚と言えば冷蔵庫…………なのか? 「じゃあ買ってきたサマージャンボを台所においておけば一等が!?」 「それは台所と関係ないだろう」 希望のともし火が消えていく。 世界が暗転していく。 座敷わらし……否、台所わらしは自らの出した目玉焼きを食べながら言う。 「例えば私がここにいる間に料理すれば、例えお前のような素人でもプロのシェフに自殺させたくなるような料理を作ることができるぞ? さっきみたいに賞味期限を世紀単位で延ばすことも可能だ! さあ! どんな困りごとがある?」 半熟の黄身で口の周りをべたべたにした台所わらしが俺の肩に手を置き、眼を輝かせる。 「気になる女の子に料理が得意と嘘をついてしまったとか、学校で家庭科の単位がやばくて先生を満足させるような料理を作らなければ卒業できないとか、伝説の調理器具をかけた料理対決をしなければならないとか!」 「ねぇよ、そんなの」 「………………………………」 「………………………………」 俺達は無言で見つめ合い、同時に呟いた。 「使えねぇ……」「使えねぇ……」 とりあえず台所わらしの力を借りてカップラーメンを作り、その場で食べてみた。コシとかコクとか、テレビでタレントが適当に言っているような言葉が初めて分かった。確かに、台所わらしが台所にいればどんな料理でも旨くなる。 「金にはならんが旨い飯が食えるなら儲けかな……」 台所の床に座ってスープをすすりながらそんなことを呟いてみる。一方、台所わらしはというと、グラス片手に流し場によじ登っていた。どうやら水を飲みたいらしいが、背が低い所為で蛇口まで手が届かないのである。 ようやくよじ登り、コックを捻る。 ――グレープジュースが出てきた。 最近の水道局は水道管にグレープをぶち込むサービスを行っているのだろうか? もしくはこの娘がぶち込んだか。 「おいコラ幼女。人の家の水道管にグレープをぶち込むのは止めなさい。俺に今日からグレープジュースの風呂に入れと? うっかり湯船の中で寝てしまおうものなら俺はワインになってしまうではないか」 「は?」 困惑顔で聞き返す台所わらし。とりあえず台所わらしは俺の言葉を無視してグレープジュースの放出を一度止めると、今度は温水のコックを捻った。 今度はソフトクリームが出てきた。 にゅるにゅると蛇口から出てくるソフトクリームを、グラスを回しながらグレープジュースの上に浮かべている。 「ハロハロ!」 「うるせぇっ!」 そりゃただのグレープフロートだ。てかお前ミニストップ行くのかよ……。 それにしてもデタラメだ。サマージャンボをあてるより蛇口からソフトクリームが出てくる確率のほうがはるかに低いだろうに。 「これは『奇跡』って言うよりも……」 嘆息しつつグレープフロートを食べている台所わらしを見る。 「『何でもあり』だな」 ピンポーン――と、俺と台所わらしが台所の床に座ってグレープフロートを食べていると、玄関のほうから気の抜けるような音が響いた。誰が来たんだろうか? どうせ新聞勧誘とかだろう。そのときは卵から目玉焼きを出して追い返してやる。 玄関専用座敷わらしとかだったら笑えない。 「はーい、開いてますよー!」 とりあえず俺は玄関に向かって叫んだ。普通なら出て行きたいところだったが、この台所わらしを放置しておくともっとひどいことをやらかしそうで心配だ。客と話しているときに台所で爆発なんかが起こったら本当に笑えない。 がちゃりとドアが開き―――――――― 「え? えええ? ちょ、ちょっと!」 突然中に入ってきたのは見知らぬ男。短く刈った坊主頭。眉がないせいでとても視線が鋭く見える。そいつは荒々しくドアを閉めると鍵を掛け、土足のまま部屋に上がりこんできた。その手の中で黒く光っているのは拳銃。男はそれを俺達に突きつけながらどんどん迫ってくる。 「な、なに? あなたも座敷わらし」 こんなパンチの効いた座敷わらしは嫌だ。 「うるせえっ! 少しでも少しでも騒いでみろ! ぶっ殺すぞ!」 男はドスの聞いた声で拳銃を突きつける。俺は反射的に両手を上げ、台所の奥まで後ずさった。男は俺を警戒しながら床に転がっているリモコンを拾い上げると、テレビのスイッチを入れる。 何度かチャンネルを回すと、昼のニュースが流れ始めた。 『――――護送中に脱獄した男は現在車を奪って逃走を――――――――――――』 その部分だけ聞いた男は舌打ちしてテレビを消した。アナウンサーが喋っている間、右上に写っていた写真――それは正に目の前にいる男だった。 ――もし。 ――もし俺が台所わらしの元を離れてドアへ向かってしまっていたら、間違いなくあの拳銃を突きつけられていただろう。今の状況とそんなに変わらないが、アレが自分の頭に突きつけられている姿なんかを想像したら背中に冷や汗が流れた。 「……おい、今の見たろ? 俺は脱獄犯だ。逃げるのに金が要るんだ、あるだけ出しやがれ」 「つ、机の一番上の引き出しに…………」 そこにあるのは今月の仕送りだったが、こんな状況では命のほうが大事だ。男は俺達に背を向けて、机の中をあさり始まる。 ふと隣を見ると、俺と同じく台所わらしが両手を上げたまま震えていた。 「っておまえ仮にも神だろ! 神通力とか超能力とかでナントカなんないの!?」 極力声を押し殺しながら尋ねると、台所わらしは冷や汗を浮かべながらフルフルと首を横に振る。 「む、無理無理! 私は台所に関することしかできないからそういうのは八百万の神の中でも……」 「あーもう! じゃあおまえは神なんだから拳銃で撃たれたくらいじゃ死なないだろ!? ロンギヌスとか神殺しの剣とかじゃないと! だったらちょっと……」 「それも無理だって! 不死身が売りなのはほんの一部の神様だけなんだって!」 台所わらしは瞳にうっすらと涙を浮かべながらかみ合わない歯を鳴らす。本当に無理で、本当に怖がっているようだ。 「お、これか……結構あるな。よし貴様! なんか作れ!」 「はい?」 再び拳銃を突きつけられて内緒話をやめる俺達。男は銃口の先で俺を指し示しながら顎で「冷蔵庫に行け」と促す。 「警察は今俺が車で逃げていると思ってやがる。下手に遠くに行くよりも今はここでじっとしていたほうが安全なんだよ。腹も減ったからなんか作れ! こっちは何年もマズイ飯しかくってねぇんだよ!」 「わ、わかりました!」 俺は声を裏返しながら立ち上がり、つんのめるようにして冷蔵庫に向かった。扉を開けて中を物色する。しかし、台所わらしが入っていたおかげで中はぐしゃぐしゃになっていた。使えそうなものなどほとんどない。とりあえず、さっき使った卵と牛乳と無事だったかまぼこを取り出す。 「た、卵焼きとかしか作れませんけど……」 「なんでもいい!」 「はいぃっ!」 俺はボールに卵を割って牛乳をかけた。賞味期限こそ切れているが台所わらしのおかげで普通のものより良質になっている。 「ほら! おまえも手伝え!」 「なんで私が……!」 文句を言いつつも俺からボールを受け取ると、台所わらしはそれをかき混ぜ始めた。その間に俺はまな板の上でかまぼこを切り始める。 それにしてもヤバイ……。見た目からしてあの拳銃は警察官が使っているようなヤツだ。恐らく奪ったりしたんだろう。後ろを向いていても視線と銃口を向けられているのを感じて気が気じゃない。なんにもしてなくても汗が出てくる。 「――って、えぇぇええっ!」 「どうした!」 「な、なんでもないです! そ、そう! 指! 指を切っちゃいました!」 なんだ、と脱獄犯は上げかけた腰を再び下ろした。俺は安堵に胸を撫で下ろす。 俺が切ったのは、指なんかじゃない。 「おいおい……」 ホームセンターで買ったなまくら包丁は、かまぼこと、かまぼこ板と、その下のまな板までも切断していた。 「おい台所わらし」 「『台所専用座敷わらし』だ。省くな。……で、なんだ?」 俺は切断されたまな板を指差す。 「これもお前の恩恵か?」 「ああそうだ。私に掛かればどんな包丁でも斬鉄剣よろしく、エクスカリパーさようならな切れ味になるのだ。どうだ、凄いだろう。これぞ神の所業」 といっても泣きそうになりながら卵をかき混ぜている姿じゃ威厳も何も合ったものじゃない。 「……おい、これなら拳銃も真っ二つにできるんじゃないか?」 「そ、そうだ! 拳銃どころか象だって三枚におろせるぞ!」 俺達は視線を交わし、互いに小さくうなずいた。 「ただし私の力が働くのは『台所の中』だけだ。それ以外の場所だと普通の包丁になってしまうから気を付けよ」 「わ、わかった…………す、すいませーん、だ、脱獄犯さん。ちょっと、その、味見してもらえないでしょうか?」 「あ? 味見?」 脱獄犯は腰を上げ、面倒くさそうにこちらに向かってくる。それでも銃を向けるのは忘れていない。 ゆっくりと、近づいてくる……近づいてくる……近づいてくる……真後ろに来る! 「どれ?」 「うおぁあああああああああああああっ!」 脱獄犯が俺の手元を覗いた瞬間、俺は叫びながら包丁を振り上げた。それを脱獄犯に目掛けて振り下ろす。――が、とっさに身を引かれたため、包丁は空振り、俺はたたらを踏んでしまった。しかし返す刃で――――――――。 「てめぇっ!」 ――返す刃で再び包丁を振り上げようとした俺の腕が止まった。銃口はぴたりと俺の額に当てられている。 俺の手から包丁が落ち、根元まで床に刺さった。 「よくも騙しやがったな! てめぇは殺すッ!」 「ま、待ってください! すみません!」 俺は硬直した体勢のまま泣き声交じりの声を上げる。 「えっと、その、これは、つまり…………」 混乱と恐怖で適当な言い訳が思いつかない。 「えっと……あ、えぇと」 「料理ッ!!」 突然、安全な位置まで避難してやがった台所わらしが声を張り上げた。その音量に俺と脱獄犯は一瞬だけ動きが止まる。 「そ、そいつは、実は料理がめちゃくちゃ得意なのだ。そ、そう! 将来はシェフを目指すほどのな! だ、だからもしそいつが主を満足させるような料理を作ることができれば、その、殺すのは勘弁ならないだろうか?」 「ほう?」 わずかに脱獄犯の眉がつりあがる。 「おもしれぇ。作って見せろよ。ただし、もう一回変な真似したら容赦なくぶっ放すからな!」 そういいながら脱獄犯は一歩一歩後退し、部屋まで移動した。それでも銃はしっかりと俺にポイントされている。 「ほら、作るぞ! 安心している場合などではない!」 「あ、ああ。でも俺、料理とか…………」 「バカが! ここに台所専用座敷わらしがいるのを忘れたか! 私がここにいる間は、愛妻弁当から高級料理フルコースを通り越しておふくろの味まで何でも再現可能! ほら!」 台所わらしがかき混ぜ終わった卵を差し出してきた。俺は小さくうなずくと、それを受け取って油を敷いたフライパンに流し込む。 威勢のいい音を立てながら、卵の香ばしい香りが台所内に充満した。香りだけでよだれが出てくる。ただの卵焼きを作っているだけだと言うのに、本当に高級料理を目の前にしているようだ。 「おい! いいものがあったぞ!」 「ん? って、ただのサバ缶じゃ…………!」 だが、台所わらしがサバ缶ふたを開けると中から本当にサバが飛び出してきた。しかも生きている。台所わらしの手の中で、水を探して必死に跳ねてやがる! 「刺身にしろ! 今のお前ならすぐにすし職人になれるレベルだ!」 「ほ、本当かよ……」 俺は床に根元まで刺さった包丁を引き抜き、ぴちぴち跳ねるサバをまな板の上に置いた。そして、ゆっくりと包丁の刃を立てる。 「………………」 魚を捌いた経験なんかないのに見事におろせた。隣では皿を構えた台所わらし。俺は自分でも驚くような手際でその上にサバの刺身を盛り付ける。 「これが台所わらしの力…………すげぇ。………………って! マズイ! ご飯がない!」 そういえばさっき卵掛けご飯を食べてしまっていた。 「任せろ! 私なら洗剤で米を洗っても十秒でふっくらご飯ができる!」 そういうと台所わらしは炊飯器の中に米と水と食器用洗剤をぶち込んだ。そのまま蓋を閉じて炊飯ボタンを押すと、本当に十秒後に炊飯終了のアラームが鳴る。 「まさか……」 炊飯器のふたを開けると、中は一面純白の世界。この香りをかいだだけで、ご飯の熱気を浴びただけで、日本に生まれてよかったと思えるようなくらい見事なご飯。 「あっ! 卵焼き!」 俺は慌ててコンロの火を消すと、フライパン返しで卵焼きを丸めた。今まで体験したことのないようなスムーズな動きで卵焼きの形が整えられる。 これら全て、『台所専用座敷わらし』の奇跡なのか……。 「すげぇ……」 出来上がった料理をお盆に乗せ、準備完了。見ているだけで生唾飲み込んでしまった。俺はそれを持って脱獄犯の元へと運ぼうとする。 「待て」 しかし、途中で止められた。 「変なもの入れたんじゃねぇだろうな? まずはてめぇが食ってみろ」 「え、あ、はい」 むしろいいの? って感じだ。俺はその場で割り箸を割り、まずご飯に手をつけた。 「――――――――――、――――――――――ッ!」 衝撃。 衝撃による激動。 激動による震撼。 震撼ゆえに感動。 感動ゆえに絶頂。 嗚呼エクスタシー。絶望も失望も鬱も吹っ飛んでいく。 「うまぇ…………」 言葉が変わる。味のないただの炭水化物の集合体だと思っていた白米がこんなに美味とは! 口内を暖める暖かさ! ほんのりとした甘み! しっかりとした噛み応えがあるにもかかわらずべたべたしない! 正にキングオブ主食! プロデュースバイ農家! 「うまぇ」 次に卵焼き。かけられたケチャップは濃すぎず卵本来の甘みを強調させることに全力を尽くし、トマトの香りが広がる後味! 外はふっくら中はトロトロ! 食べた後に漂うおふくろの味と言う名前のエッセンス! デザートでもいいような甘さだというのにご飯が進むことこの上なし! 「うまぇえぇええぇ!」 最後にサバの刺身。元は缶詰だと言うのにこの新鮮さ! サバ独特の生臭さが感じられず、ほんのり潮のかおりが漂ってくるようだ。筋などあってないようなもので柔らかな歯ごたえ! 歯茎でも潰せるようなトロトロ感! 備え付けのわさび醤油のおかげで舌を刺激するピリッとしたアクセント! 気づけば俺は泣いていた。 「も、もういい」 台所に膝を着き、天を仰ぎながらぼろぼろと涙をこぼす俺を見て脱獄犯は怪訝な顔をする。どんなに哀れな格好であろうと、この感動はそれだけの格好をするに値する。 「そこにおいて離れろ。下手な真似はするなよ!」 一瞬、全てこの料理を独占したい欲求に駆られたが、ギリギリのところで危機感が勝った。俺は台所の入り口に料理をおくと、ゆっくりと後退する。それにあわせて脱獄犯は前進し、神の料理が待つ台所へと足を踏み入れた。 「どれどれ………………………………!!?」 ご飯を一口含んだ脱獄犯の眼が見開かれる。 涙が一筋、床に落ちた。 「………………………………………………………………………………うまぇ」 その後は止まらない。脱獄犯は茶碗を持つと一気にかき込んだ。同時に卵焼きとサバの刺身をつまむことも忘れない。鼻をすすり、涙を拭いながら脱獄犯は料理を食い尽くす。 「くっ、うまぇ、うまぇすぎる! シャバにはこんなに旨い飯があったのか……。豚箱の飯なぞ食えたもんじゃねぇぜ!」 わずか数十秒で全て平らげた脱獄犯は、お盆の上に茶碗を置くと手の甲で涙と鼻水を拭った。 「………………決めた! 俺ぁ逃げ切れたらフランスに渡ってシェフになる! ありがとう兄ちゃん! ありがとう嬢ちゃん!」 脱獄犯は涙を流しながら俺達の手をとった。拳銃をベルトに挟め、くるりと後ろを向く。 「世話になったな……今度会うときがあれば、一流レストランの――――――」 脱獄犯は親指を立て、ウインクをする。その拍子に目に溜まっていた涙がまた一筋流れた。 「――厨房でだ!」 そう言い残し、脱獄犯は歩き出す。最後にもう一度だけ鼻をすすり、台所を後にした。 「…………………………………………………………うっ!?」 ――が突然、脱獄犯がその場に膝を着いた。唸り声を上げる脱獄犯の腹からは、同様にものすごい音が響いてくる。 「なっ、は、腹が……」 「ふっふっふ……」 そんな脱獄犯を見ながら台所わらしは薄く微笑む。 「かかったな!」 「……どういうことだ?」 俺が聞くと、台所わらしは人差し指を立ててそれを左右に振った。 「言っただろう? 私の力が働くのは台所のみだって。だから台所から一歩出れば私の力は消えてなくなるのよ!」 それはつまり………………。 「あいつは二ヶ月オーバーの牛乳と卵、洗剤で洗ったご飯、蘇ったとはいえ事実上何ヶ月も経過したサバで作った料理を食べたのだ! 常人なら間違いなく食中毒になるわ! ふふふ……ふっふっふ……あーっはっはっはっは! ざまあみろ! べーっだ! これが神に銃を向けた罰だーっ!」 もだえ苦しむ脱獄犯に向かって空になったサバ缶を投げつける神様。 「まぁ、なにはともあれ……」 ちらりと隣で高笑いする台所専用座敷わらしを見る。 全部こいつに助けられたわけか。 「……あのさぁ、台所わらし」 俺に呼ばれ、台所わらしは俺のほうを振り向く。 「…………ありがとうな。なんか色々言っちまったけど、これからもよろしく頼む」 「ふん、ようやく私のありがたみが分かったか」 俺が差し出した手を、小さな手が握った。 そして互いに笑いあう。 「……………………ってちょっとまて」 凄く、重要なことを忘れているような……………………。 「俺……俺もあれ食べたよな? それだけじゃなくて牛乳も卵も食いまくったよな!? なあ!? どうなるんだ俺!? ああなるのか!」 そんな泣きそうな俺に向かって座敷わらしは微笑み、親指を立てた拳を突き出した。 「大丈夫! 台所から出なければ安全だから!」 END |