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昼下がりの悪魔

 今、俺はとても正気の沙汰ではいられない状態に立たされている。
 俺と明日香の前に漆黒の悪魔が出現したのだ。
 焦っていた。頭の中では今すぐにでも、傍にいる明日香の命を救おうとしているのだが……
 選択のときは刻一刻と迫り来る。
 俺が明日香を救った場合、その後俺は死地に追い込まれるかもしれない。二度と明日香に会えないなんて事にもなりかねない。
 もちろんこの状況は俺自身の命も危ないのだ。そう、どちらにしろ俺達二人の生命は危険にさらされていた。
 行動にきりだせない葛藤。
 つまり。簡潔に言ってしまうとその時宮田明日香の……右の鼻の穴からは、言い難いのだが……その……いわゆる、鼻毛が出ていたんだ。

 それを教えるかどうかで俺の心はいっぱいだった。ドトールでコーヒーを飲んでいるのだが、コーヒーの味になど気が向かなかった。ブラックなんて飲めないのにブラックを飲んでいて、明日香に「あれ? 高嶋君ブラック飲めるようになったんだー。大人だねー」と言われて始めて気づいた。気づいた俺は砂糖を入れようかと一瞬考えたのだが、見栄を張りたくなったのか「そうだよ。あったりまえじゃんかよ。大人の男はブラックに決まってんだろ」とか調子に乗ってほざいてしまった。
 それよりも鼻毛に気づいてくれ!

 バイト先で同い年で違う高校の明日香に一目惚れして数ヶ月。やっとこの機会が訪れたのだ。地道に話しかけたり、仕事で困っているところを助けたりと頑張ってきただけにこのチャンスを無駄にしたくはなかった。準備も整ったし、俺のイメージも最高潮だと思う。別に自慢するわけじゃ無いが俺は身長175センチで茶色のミディアムヘアーで結構格好いいと自分では思っている。あわよくば告白などとささやかに計画していたんだけど。どうしたものか。
 それよりも、今日に限ってどうして鼻毛の処理を忘れて来るんだよ!

 思えばこの数ヶ月は努力の日々だった。初めてのバイト外での対面はバイト仲間でのカラオケ大会で、俺はその日のためにわざわざ、女の子が男の子に歌ってほしい曲トップ10(青年雑誌調べ)をレンタルショップで全部借りて覚えてきたのだ。ケツメイシにミスチルにオレンジレンジ――全て覚えてアピールした。
 その日の明日香はもうむちゃくちゃ可愛かった。初めて見る私服。普段は制服のまま来てコンビニの制服に着替えるから私服を初めて見たのだ。シンプルな膝丈のスカートにピンクのジャケット。清純そうな、それでいて明るく溌剌とした淡い色で統一されたカジュアルな服装。セミロングのトリートメントでさらさらの黒髪は春風にそよぐレースのカーテンのようだ。パッチリと開いた瞳。飾り立てるように付属する絶妙な長さのまつげすら可愛い。顔全体のバランスに見事に当てはまる少し小さな口。とにかく超俺好みで俺は明日香にもう一度惚れた。
 つまりは俺は、現在彼女のことが大好きで片思い中だったのだ。

「さっきからなんか変だよ。高嶋君?」
 脳をフル回転させていた俺は我に帰った。
「んん? そうかな? いやいや変な所なんて何一つ無いさ」変なのは君の鼻の方なのだから! と言えればどんなに楽だろうか。言ってしまうと明日香は「恥ずかしい! 高嶋君なんて最低よー!! 大っ嫌い!!」とか言って今後バイト先でも俺の事を避けるようになりそうだ。それだけはどうしても避けたかった。世の中にはそんな事はまったく気にしなさそうな女の子もいると思うが、俺の見てきた限り明日香はそんな女の子じゃなかった。繊細で純粋で無垢で穢れを知らない乙女で。だからこそこの問題は俺と彼女にとって致命傷となりうるのだ。

 今更後悔しても遅いが、こんなことなら悪魔に気づくんじゃなかった。知らないままでいられたらどんなに良かったことか。知らぬが仏。鼻毛知らぬが普段の俺って感じか。おいおいそんな事言ってる場合じゃないだろ!

「ねー高嶋君ってー。何か趣味とかあるの?」
 えっ? 趣味……「鼻……」
 突然の質問に俺は思考がそのまま言葉となって出かかった。ヤベー!!
「花?」不思議そうな表情。
「花……花……えーと。フラワー……あれだよ。フラワーアレンジメントだよ!」
 とっさに気転を利かせたつもりだが、誤魔化せたか?
「へぇー。そうだったんだー。意外だねー。高嶋君ってもっとスポーツ系かと思ってたんだけどな」
 実際そうなんだけどね。
「スポーツもできるんだけど、最近はもっぱら花にはまってんだよ。やってみるとなかなかいいもんだぜ」
 何言ってんだ俺は!
「そうなんだ。今度作品見せてね」
「もちろんさ!」と言いながら俺は視線を逸らした。
 あーもう俺何考えてるんだ! どんどん話がおかしな方向へ行ってるじゃないか! 打開案を打ち立てないと。早急に迅速に的確に!

 何とかしてあの黒い悪魔を取り除かねばなるまい。それしか二人に幸せな未来は訪れない。誰か町を歩いている人に気づかれるのもアウトだし。俺が直接「鼻毛が出てるぜ」っていうのも俺が嫌われてしまいそうだし。明日香が自分で気づいたとしても、「いやーっ!! 恥ずかしい!! 今までそんな格好で歩いてたなんて。私もうお嫁にいけない!!」なんてことにもなりかねない。
 残る方法はただ一つ。明日香にはわからないように俺が鼻毛を抜き、始めから何もなかったことにするのだ。そうだ。それしかない!
 よし、やるぞ。

 しかしその偉業をどのようにして果たそうか。明日香に気づかれないようにするにはどうすればいいのか。難しい問題だったが俺は咄嗟に閃いたのである!
 これぞハッピーエンドという方法を。
 作戦の概要はこうだ。
 まず、俺が告白する。で、明日香はもちろんオーケーする。(いままでのポイント高い俺の印象からして間違いないはずだ。)恋人になった訳だからキスをするために、俺が顔を近づける。明日香は眼を瞑る。そこでチャンス! すかさず悪魔を撃退。そして、ハッピーエンドのキス……
 
 俺は行動を開始する。
「あのさー」
 俺はやや緊張気味でオレンジジュースを飲みかけていた明日香に話しかける。
「どうしたの急に改まっちゃって」何も知らない笑顔。
「聞いてほしい話があるんだけど」
 人生で初めての告白なので心臓が早鐘を打ち、顔が熱を持って破裂してしまいそうだ。
「うん。何?」
 小首を傾げ、俺を真っ直ぐに見つめる。相変わらず悪魔も俺見つめていたが見えていないと思い込む。
「実はさ……」
 勇気を出せ! 
 実際沈黙していたのは一秒位のものだったのだろうが、永遠にも匹敵する程の永い時間が流れたかのように思えた。
「俺……明日香のことが好きだったんだ!! 俺と付き合ってくれ!」
 言ってすぐ下を向いた。顔が見れなかった。前を向くことが恥ずかしい。
 しばらくそのまま待っていたが、返事は一向に無かったので恐る恐る顔を上げる。
 明日香も下を向いていた。ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「ありがとう。うれしいな」
 オーケーか?
「でも……」
 でも? ん?
「返事は今度でいいかな? ちょっと落ち着いて考えたいから」
 何だそりゃー!! 計画が始めの始めに破綻してしまった。いや、なんとしてでも今オーケーをもらわないと。
「今すぐ返事が訊きたいんだ。ダメかな?」
 焦燥に駆られて急かす。
「えっ……」
 戸惑いながらも明日香は、「んーとね。私も前から高嶋君のこと好きだったんだ。でも突然だったんで頭が混乱しちゃってて。落ち着いて考えようって……うん。私も高嶋君のこと好きだよ。だから、私でよければ、お願いします」と言った。
 よっしゃー!! 第一ラウンドクリアー。しかもマジでオーケーだったし。今日は最高に幸せだぜ。絶頂期と言っても過言では無いぜ! おっと、危ない。もう少しでもう一つの目的を忘れる所だった。次は。キスだ!!
「ありがとう明日香。俺最高に嬉しい」
「うん。私も。まさか高嶋君も私のことが好きだったなんて。あはは」
 顔をほんのりと赤く染めて喋る明日香。要するに両思いだったってことか! これは次の作戦がやり易くていいかもしれない。
 まじまじと明日香の顔を凝視する。その視線に気づいたのか、「何? 何だか恥ずかしいね」と呟いた。

 俺は勝負をかけた。
「キスしねー?」
 明らかに戸惑った表情を見せる明日香。時期尚早か? もっとじっくり攻めるべきだったか。
「ここで?」
 当たり前の質問だ。
 俺は「うん」とだけ言う。
「ちょっとそれは……」
 やんわりと否定されたのだが。
「後でなら良いけど」
 おおお! 一応キスしてもいいんだ。でも今すぐでないとダメなのだ。
「えー。唇が乾いたなー。潤いてー」
 自分でも自分が馬鹿なことを言ってるなーというとこは分かっていたのだが、もう何か喋ってないとどんどん作戦が失敗に向かいそうなので自然とそう言っていた。
「何それ? 変なのー」と明日香は笑った。
 それから周りを二、三回見回してからこう言った。
「しょうがないなー。初キスなんだけどな。高嶋君可愛いし、いいよ。そのかわり一瞬だけだからね!」
 感激の嵐に打ち震えた。悪魔のことを忘れそうになった。今日の俺は奇跡に溢れている! ある意味悪魔様々だけども。
「本当にいいのか?」俄かに信じられない俺は再度確認する。
「いいよ」
 早速俺は椅子を明日香の隣に寄せる。
 明日香は大きな瞳をまるで今から眠るようにゆっくりと閉じる。
 かつて無い緊張が手に取るように感じられる。
 俺と明日香の顔が引き寄せられる。あと約10センチ。
 今だ!!
 俺は手を顔の間に滑り込ませて、指をピンセットのようにする。神経を右人差し指と親指に研ぎ澄ます。明日香に巣食う悪魔を退治しなくちゃならない使命を課せられた俺に失敗は許されない。たった一度の賭け。小刻みに指が動き、目標が定まらない。悪魔の頭を爪と爪で固定して一気に決めようとしたとき。明日香の眼が開いた。
 心臓が飛び出たかと思った。
「何して……」
 次の瞬間唇は重なっていた。俺の口で明日香の台詞を塞いだ。
「ん……」
 キスの味はオレンジジュースの味がした。
 南側に位置する窓から昼下がりの光が俺たちを包み込んでいた。
「綺麗な顔だなーと思って躊躇ってたんだよ。眼を開けんじゃねーよ。ビックリしただろ」
「ふふっ。」
 楽しそうに笑う明日香は、左手で少し唇の端っこに触れ「しちゃった」って言った。
 俺は人目も気にせずにしていた事が急に恥ずかしく思えて、椅子を明日香から微妙に離した。
 もう次の手が思いつかなかった。くそー……嬉しいんだけど問題は解決してない。複雑な感情が入り混じり嬉しいんだか悲しいんだかよくわからない。
 万事休すか……と諦めかけたその時。
 明日香が少し大きく鼻から息を吸った。
 なんと漆黒の悪魔は自ら暗闇の巣窟へと帰っていった。
 予想だにしない呆気ない幕切れに唖然とする俺。
 そして、気が抜けると同時にホッとため息を漏らした。
 悪魔は去り、世界に平和が訪れたのだ。

 春風。街角の花。金色の日差し。全てが俺と明日香を祝福している。
「そろそろ行こうか」
「そうだね」
 席を立つ二人。
 ハッピーエンドとレジに向かって歩いていく俺に明日香は言った。
「あのさー……今気がついたんだけどちょっといい?」
 何だか嫌な予感がした。
「どうかした?」
「えーとね。言いにくいんだけど。高嶋君……鼻毛……出てるよ」
 俺は驚愕の事実に身を凍らせた。


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