| 北崎陽一郎さん 著作 | トップへ戻る | | ||
|
|
雨が降っていた。
しとしとと、まるで永遠に降り続けるのではないかとも思う、陰湿な雨だった。 その雨は、僕に三年前の出来事を思い出させる。僕は部屋の窓から外を見て、過去を思い出した。 三年前。こんな雨の日。近くの公園で。 僕は。 「――殺っちゃった……」 僕の眼下で人が倒れていた。頭から血を流し、驚きに目を見開いて。 一応首筋に手を当ててみたが、既に脈は止まっていた。 頭上から降ってくる雨が、容赦なく僕を濡らす。 「はああ……どうしよう……」 ここは家の近くの公園。公園と言ってもジャングルジムや滑り台があるような公園ではなく、自然公園だった。辺りは木々が生い茂り林のようになっていて、そのおかげでとても空気は澄んでいる。とても広く、一周するのに三十分はかかる。 時刻は八時半。公園の門が閉まる三十分前だった。当然そんな時間なので辺りに人はいない――はずなのだが。 「き、きゃあああ!」 かん高い声がした。僕がそちらを向くと、青い傘を差した、スーツを着た若い女性が立っていた。察するに、会社帰り気分転換に、久しぶりに公園に寄ってみた――と言ったところだろうか。ただ、何にせよそれは僕にとって。 「あちゃあ……最悪……」 目撃されてしまった。決定的な現場を。 「ひ、人殺し!」 そうお決まりの台詞を呟いて、女性は走ってどこかに行ってしまった。大方、公園内の園長の小屋に警察を呼びに行ったのだろうけど。 「あーあ。どうしよ。この状況じゃ、確実に僕が犯人だよな……」 僕は、もう一度眼下に転がる死体を見た。 それは僕の兄だった。正真正銘の、血を分けた兄である。 背が高くほっそりとした体つき。メガネをかけていて、髪はぼさぼさだった。良く見れば整った顔をしているのだが、今はそれが大きく歪んでいた。目は大きく開かれ、口もだらしなく開けたまま。既に何も映していないであろうその瞳は、立っている僕に向けられていた。 「うーん、せめて目撃されなければな……正当防衛で済んだのに……」 意味も無く呟いてみた。 一応言っておくが、僕が兄を殺してしまったのは仕方無くである。 ことの次第はこう。今日の夕方、珍しく兄が僕を誘ってきた。今日は親がいないし、一緒に飯でも食いに行かないか、と。僕は断る理由が無かったので、ついていくことにした。 適当なファミレスで食事を取り、店を出た。僕はそのまま帰るつもりだったのだが、どういう風の吹き回しか『たまには公園で散歩しようぜ』と、兄が言ってきた。僕がどうして? と聞くと、兄は真面目な顔で『話があるんだ』と返した。仕方なく僕は着いていくことにした。今思えば、あの時気づくべきだったのだ。兄の、何かを隠すような抑揚の無い声に。 公園に入った。木々が深く生い茂り、人が来ないであろう場所へ、兄は歩いていった。僕も黙って着いていった。 しばらくして、兄は足を止めた。 そして、ゆっくりと僕に振り向いた。それから興奮した声で僕にこう言った。 「ずっと前から好きだったんだ! アキラ!」 言うやいなや、差していた傘を捨てて僕に飛び掛ってきた。ちなみにアキラとは僕の名前だ。 いきなりだったので、僕は何の抵抗できずに兄に押し倒される羽目になった。危うく気絶してしまいそうだった。濡れた芝生が、僕の背中を濡らした。冷たかった。 状況を理解できずにいるうちに、兄は僕の服を乱暴に脱がし始めた。 「ちょ、ちょっと待った!」 僕は、かろうじて言った。 「あの、兄貴! 知ってると思うけど、僕たちは肉親だよ!? 血が繋がってるんだよ!? そんな禁忌に手を出すの!?」 兄は、僕のズボンに手をかけながら言った。 「関係あるもんか! 俺はお前が好きなんだ!」 「そ、それにしたってどうしてこんなとこで……!」 僕が必死に言うと、兄はきっぱりとこう返す。 「禁忌に手を出すには誰もいない公園が筋と決まっているだろう!」 決まってねえよ。 僕ははっきりと身の危険を感じた。 必死に抵抗した。 それから後は何も覚えてない。ただ、兄を思いっきり押した手の感覚は残っている。兄は吹き飛んで、木の固い所に頭をぶつけて、死んだ。 それが、ことの次第だった。 はっきりとした、僕の正当防衛である。 「でも、兄貴がそんな趣味だとは思わなかったな……」 黙って兄の部屋を覗いた時に、そういうゲームが机の引き出しの奥にあった(まあ、僕もそういうのを期待して調べたのだけど)。しかしそれを実際に行動に移すとはさすがの僕も、というより全国民が思わないだろう。ああいうゲームは、あくまでそういった普段感じているアブノーマルな欲望を満たすためにあるのであって、決してやりなさいと促すためや、練習のためではないのだ。ほとぼりが冷めたら、ゲーム会社を訴えてやろうか、と思った。 ――まあそんなことはどうでもいい。とにかく、これからどうするか。僕はとりあえず投げ捨てられた傘を拾って、雨をしのいだ。もう全身びしょ濡れだったけど、一応顔は隠せる。 「早くしないとまずいよな……人が来るし……」 僕は懸命に考えた。話せば、分かってくれるだろうか。兄が悪いんです、僕を襲ってきたんです、僕は被害者です――しかし、兄の死体を無慈悲に見下ろしている現場を見られたのだ。これじゃ、誰が見ても冷酷な殺人犯だ。弁解はできないだろう。じゃあ、どうするか。 隠すしかない。何かのトリックを使って。僕が、兄を殺したということを。 頭をフル回転させて、考えて考えて考えた。 しばし。 ――思いついた。 「何だ。その手があるじゃないか」 僕は思わず呟いてしまった。 簡単なことだ。というより、どうして今まで気づかなかったのだろう。この異常事態に慌てていたからだろうか。 今のこの姿を利用すればいい。そうすればアリバイは完璧だ。 「よし。とにかく見つからないように逃げないと」 僕は急いでその場所から逃げた。兄の死体を放っておいて逃げた。死体をいじくって死後硬直が云々とか、ばらばらにして隠してやるとか、そういう趣味は僕には無い。それ以前に時間が無い。捕まってしまっては、総ての意味が無い。 できるだけ、木々が生い茂る見つかりにくい場所を通った。幸い時間も時間なので、誰にも見つからなかった(そう、さっきのは本当に偶然だったのだ。とてつもなく、悪い偶然)。少し離れた場所で、「こっちです」という声がしたが、僕には気づかなかったようだ。 正門から出るのはまずいので、少し離れた所で塀を越えて出た。 傘で顔を隠し、出来るだけ早歩きで帰った。 家に着いた。 誰もいない。僕の両親は共働きで、今日は両方とも特に遅くなると言っていた。二階にある自分の部屋に入り、着替えて元の姿に戻った。 念のため、部屋にある大きな姿見を見る。 「――うし。完璧」 これで、ばれることは無いだろう。僕はそう確信した。 外からは、いまだに雨の音がする。 ぴんぽん、とチャイムが鳴って僕は玄関に向かった。時刻は十時半。予想より早く来たな、と僕は思った。 ドアを開けると警官が二人立っていた。 二人は手帳を胸ポケットから取り出して、僕に示した。『警視庁』と書かれた、ドラマでよく見るそれだった。 「警視庁の者です」 一人が切り出した。 「少し、お話したいことがあるのですが――」 僕は、『目の前の人の言うことが釈然としない人・A』を演じた。何故だ。何故家に警察が来る。何かやったか。間違いじゃないのか。僕は何もやってない。本当はやったが、何もやってない。 「上がってもよろしいですか?」 「はあ。どうぞ」 そう言って、僕は二人をリビングに通した。 お茶を出そうと思ったが、「いえ、お構いなく」と言ったので、本当に構わなかった。 二人はリビングのソファーに座って、黙った。 「――あのう。何か、あったんですか?」 僕は、聞いてみた。本当は、分かり過ぎているほどに分かっているのだが。 「ええ。ありました。――ところで、ご両親はどちらに?」 「仕事です。忙しくなる、と言っていたので多分二人とも午前様でしょうね」 「そうですか」 しばらく、静寂がこの場を包んだ。僕は『嫌な予感がしてきた人・D』に役を切り替えた。何だ何だ、父が痴漢でもしたか。母が愛人を刺し殺したか。それとも、兄が公園で頭をぶつけて死んじゃったりしたか。 「――実は」 静かに、警官の一人が切り出した。 「長男のユウキさんが、近くの公園で死体となって発見されました」 僕は『衝撃の事実を聞かされて、開いた口が塞がらない人・Z』を演じようとして――何だか急に面倒くさくなってやめた。 「はあ。そうですか」 僕のあまりにも普通の返答に、警官が二人ともがく、となった。 「――えっと、ユウキさんは頭を強打して死亡しました。明日にでも確認をして頂きますが、よろしいですか?」 「はあ。構いませんが」 僕は、比喩するなら『この豆腐実は木綿じゃなくて絹ごしだよ』と言われたような感じで返した。 「――あの、驚かないのですか?」 喋っていなかった方の一人が、おそるおそる僕に聞いた。 「ええ全然。何て言うか、最悪の兄だったので」 本当に最悪の兄だった。 「――こほん。目撃情報によると、現場に『細身の少年』がいて、その少年が、倒れているユウキさんを見下ろしていたそうです。現在モンタージュを製作中ですが、――ユウキさんに恨みや憎しみを持っていた人の、心当たりはありますか?」 「いえ。まったくもってありません。一体全体誰ですかそいつは」 まあ少なくとも、そんな人知りませんね。僕なんだから。 しばらく、気まずい空気が流れた。 「ええ、では、時刻も遅いので、詳しくはまた明日、ということで――」 「はい、分かりました」 警官たちは、そそくさと帰っていった。 「――やれやれ。これで、一件落着、かな」 僕は誰もいなくなったリビングで呟いて、思い切り伸びをした。 ――案の定、犯人はそれから見つからなかった。事件はお宮入りとなり僕に平和が訪れた。 「もう、三年も経ったのか」 僕は一人呟いた。 何となく、公園に出かけることにした。三年前と同じ、顔を隠した傘を差して。 公園に入って、僕が兄を殺した場所へ歩く。 そこには何も無かった。当時は花束が置かれたりしていたが、時間が経つにつれて忘れられてしまったのだろう。 僕はしゃがみ込んで地面をよく見た。兄が頭から流した血は、綺麗に消えていた。雨が総て洗い流してくれたのだ。兄のいた痕跡を、残さないように。 もう誰も事件のことを覚えていないだろう。終わったのだ。何もかも。 よっしゃー、と僕こと、ユウキの妹アキラは呟いた。 もうあれから、趣味だった男装はしていない。 |