| かざとさん 著作 | トップへ戻る | | ||
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その日は朝から、ひどく蒸し暑かった。
早朝ホテルを出た時点では快晴だったために、天気予報に気を付けるのを怠ってしまい、案の定、ほんの半日郊外からの風景を撮影するだけだからという考えの甘さを激しく後悔する羽目になってしまったのだ。 世界最大級のバスターミナルであるニューヨーク・シティ『ポート・オーソリティ・バスターミナル』。そのゲートの一つで、須刈アキラはタクシーを拾うべきか何時止むとも知れない雨をやり過ごすべきか、窓の外を眺めて思案に暮れていた。 家路を急ぐビジネスマン、ダークスーツに身を固め機械的な正確さで人混みを縫って歩くキャリアウーマン。もたもたと大荷物を抱えた旅行者。声高にわめき散らすアジア系の集団。 夏の夕暮れに降り出した雨で、多くの人種で込み合ったターミナル内はまるでサウナのような蒸し暑さである。慣れない構内で他人とぶつかり、荷物に躓き、「Sorry」という単語を100回近く繰り返して、ようやく8番街線の地下鉄入り口に辿り着くことができた。つい、何度か訪れた事のある「新宿」の駅ビルの光景を思い出し、苦笑する。その時も確か、JR線の改札がわからなくなって一時間以上も買い物客の間を歩き回った覚えがあるのだ。 激しい雨は、一向に衰える気配がない。電車がホテル近くの駅に着くまでに止んでくれることを願うしかないが、東28丁目まではわずかな距離であるため期待は出来なかった。防水加工してあるパーカーを被って走ればいいかと覚悟して、乗り場に向かおうとしたその時。 「そのパーカーを、譲ってくれませんか?」 背後から消え入りそうな声がアキラを呼び止めた。 「えっ?」 振り向くと、石造りの柱の陰から一人の少年がこちらを見ている。声をかけられたのは自分なのかと思わず胸を指さすと、少年は僅かに頷いてアキラを手招きした。 招かれるまま少年に近づいたが、警戒心は起きなかった。仕立ての良さそうなヨーロッパ調のきちんとした身なりに怪しげな雰囲気はない。アキラよりは少し小柄に思えたが、年齢的には同じか、もしくは欧米人の体格を考えると少し下かも知れなかった。柔らかそうなプラチナがかったブロンドの髪はゆるくカールして顔を半分ほども隠していたが、その下からは暗い緑色の瞳が見つめている。それが辺りをうかがうようなおびえた目つきに思えるのは気のせいであろうか。 「この雨じゃあ、パーカーを着ても直ぐにびしょ濡れになると思うよ。どこまで行くんだい?」 少年は何も答えない。 「家は近いの?誰かに迎えに来てもらうか、タクシーを使ったほうがいいんじゃないかな」 言葉が通じていないのかと思い考え込んだが、何も言わない少年にどうすることも出来ない。「Sorry」と言ってから、アキラはその場を後にしようと背を向けた。 「待って!」 何か面倒なことになりそうだな、と、思いながらも足を止めて振り向き、パーカーを持つ手を上げる。 「どうしてもこれがいるのかい? でも俺もないと困るんだ。もし手元にお金があるなら、ターミナルのショップで買えると思うよ。だから他の誰かに聞いてくれないかなぁ、生憎旅行者で案内できるほどこの場所に詳しくないんだ」 困惑の表情を浮かべるアキラに少年は首を振ると、少し変わったイントネーションの英語で答えた。 「見つかりたくない連中がいるのです。それを貸してもらえれば、人混みに紛れ込める」 確かに行き交う人々の中には黒っぽいレインコートが多く見られた。これから夜の町を楽しむためのおしゃれを、雨に台無しにされたくない人達であろう。アキラのパーカーもまた、黒に近い濃紺で膝近くまでの長さがあるため、フードを被れば少年の言う「見つかりたくない連中」から逃れるのには都合がよさそうだ。 「うーん……」 人助けは率先してやるべきだといつも思っていた。しかし町中で老人の手を取り横断歩道を渡るような事とは違う、何か危険な予感がするのだ。 「それなら南館1階の9番街側にポリス・オフィスがあるから、そこに行くまで着ていくといい、一緒に行ってあげるよ」 「警察は、だめです。味方にはなってくれません」 この場合、どうすればいいのだろう? アキラは大きく溜息をついた。関われば面倒なことになるのは分かり切っているのだが、このまま知らない振りをして立ち去ることは出来ない。 「困ったな。その連中に捕まると、君はどうなるんだい?」 「……死ぬまで自由を奪われる」 「ふうん、そうか」 アキラはパーカーを開いて少年に被せた。 「行く当てがあるの?」 「ない」 「しょうがないなぁ、とりあえず俺と一緒に来いよ。事情は後で聞くからさ」 アキラの視界には、既にこちらに向かって歩いてくる三人の背の高い男達が写っていた。揃いのダークカラーのスーツ、黒いコート。 「映画で見たFBI捜査官みたいだな」と、苦笑する。 無論、映画のように上手く逃げられる保証など微塵もない。もし勝機があるとすれば、彼らの肩にも届かないような細腰のアジア系少年に、よもや反撃をするつもりがあろうとは思いも寄らない油断にある。一人が、アキラと少年に気が付いた。背後で少年が、息をのむ気配。 「あんたの言ってた連中が、あの人達じゃないといいなって思ったんだけどなぁ」 少年を隠すように、アキラは前に立った。 「やあ、チャイニーズ・ボーイ。ちょっと君の連れの顔を見せてもらえないかな? 人を、探しているんだよ」 「はあ、こいつは空港から着いたばかりの俺を迎えに来てくれた友人ですよ。人違いじゃないですか?」 見上げるほど上背のある、いかつい顔の男は作り笑いを浮かべる。 「空港からのバスは、反対側に着くだろう?」 「地下鉄に乗るんですよ」 「ほう、どこまで?」 「東28丁目まで」 次第に男がいらいらしてきた気配を感じて、アキラは息を整えた。 「くだらん問答をしている暇はないんだよ。そいつの顔を見せろ!」 パーカーのフードに掛からんとしたその手首を、アキラは素早くつかんだ。そしてその勢いに乗じて、ぐい、と引っ張ると、体勢を崩した足を払い、背中を強く床に押しつけた。這いつくばり、腕をねじり上げられた体勢の男が「ぐえっ!」と情けない声を上げる。成り行きを見守っていた後方の二人の男は、一瞬呆気にとられたような顔になったが、一人が慌ててコートの懐に手を入れた。が、もう一人にそれを制される。 「こいっ!」 アキラは僅かな機会を無駄にせず、少年の腕を掴んで雨の通りに飛び出した。地下鉄ではタイミング良く電車で相手を捲く自信がない。ターミナル内には他に仲間がいるかも知れないと、判断した上での行動だ。激しい雨と、傘をさし窮屈そうに行き交う人波に紛れた方が、確実に難を逃れられそうに思えた。 案の定、下方をかいくぐるようにして走る小柄な二人に比べ、男達は顔の高さにある傘に邪魔され思うように追ってこれない。ちら、と、アキラはたすき掛けにして前に抱えたカメラバックのことを案じたが、まあ多分大丈夫だろうと、あきらめるより他になかった。 ◇◇◇ マジソン・スクエアガーデン方面を目指して3ブロックほど走り、周辺の好ましくない状況に気が付いたアキラは足を止めた。もとよりニューヨークの町並みに詳しいはずもなく、夜のとばりと雨の暗さが行きたいと思った方向への正常な判断を誤らせてしまったようだ。見回せば華やかなネオンと明るい人の話し声は絶え、暗く明滅する怪しげなネオンと饐えた匂いの充満する人気のない路地へと迷い込んでいた。 「何だか、ヤバそうな所だな」 どう見ても旅行者を歓迎しそうもない空気を察し、周りを見回す。表通りに出るためには、どの方向に行けばいいのだろうか? 闇雲に歩いては、ことさら悪い状況を招く事になりかねない。 夢中で走ってきた為に話し掛ける事もしなかった少年を改めて見ると、蒼白な顔をして小刻みに震えている。右手はアキラの手を握りしめ、左手は頼るようにシャツを強く掴んでいた。 「心配すんなよ、置いてきゃしないからさ。君、名前は?」 「キリアン」 「年は?」 「14」 聞く方もおぼつかない英語だが、答える方もどうやら英語圏の人間ではない気がする。かぼそい声には生気がなく、かなりの疲労が見て取れた。夜になって、雨に煽られた風が身体を冷やし始めている。せめてタクシーの拾えるところへ出なければと、アキラが来た道を探ろうとしたとき石畳を蹴る甲高い靴音が近づいてきた。 「嘘だろ? おい!」 一人の男の姿が派手なピンク色のネオンに浮かび上がった。ターミナルで床に払い倒した男だ。無線らしき物に向かって何かを叫んでいるが、やはり英語には聞こえない。どこの言葉か? ふと頭をよぎったが考えている暇はなかった。方向などかまわず路地の隙間に滑り込む。距離を離す方が先だ。 それにしてもと、アキラは疑問を抱いた。なんと鮮やかに、あの男達は後を追ってくる事が出来るのだろうか。逃走する者は無意識に一定の行動を取ると、聞いたことがある。もしそれを踏まえ、後を追い、先回りしているとしたら? つまりは追跡のプロと言うことであり、そんな相手に逃げおおせる訳がない。逃走者の心理を知っていれば裏をかくことも出来るかも知れないが、いかんせん自分は素人なのだ。 狭い路地が切れそうなところに、表通りらしき明かりが見えてきた。ほっと息を付いたのも束の間、明かりは人影に遮られる。やられた、と、アキラは立ち止まった。素人にはこれが限界か? 後ろからの追っ手に挟まれ、申し訳ない気持ちで少年を見た。すがるような瞳。 「ここまで来たんだ、もう一頑張りしてみるか」 前後を挟まれて立ちつくす二人に追っ手の男達は走るのを止め、ゆっくりと歩きながら近付いてくる。アキラは一メートルほど後に下がった。横目でとらえた小さなネオン、『ドラゴン・テイル』。酒場だろうか、半地下に隠れた頑丈そうな扉が見える……。 一か八か、願わくば誰か助けてくれと祈るような気持ちで地下に飛び込み、勢いよく扉をたたいた。 小さな覗き窓が開き、いぶかしそうに目を細めた男が顔を出した。視線の先が少し下を向き、意外な訪問客に眉をひそめる。「場違いだ、帰れ」といわんばかりに覗き窓を閉じる前に、アキラが叫んだ。 「キッド・ナップ(児童誘拐犯)だ! 捕まったら売り飛ばされる!」 男の目が見開かれ、パーカーの少年とアキラを交互に見た。咄嗟に思いついた助けを求める理由は、無理があったか? 無念の息を飲んだその時、扉が少し開いた。 「奥に入れ!」 低いだみ声に安堵する間もなく、 毛深い太い腕が二人を中に引きずり込み扉を再び固く閉じる。 暗い照明と、つんと鼻につく、きついタバコの匂い。まとわりつくアルコールと体臭が混じり合った空気に、路地裏にある汚物のような嫌悪感を感じた。手狭なバーといった感じのここが、どういった所かは知らないが、この場は安全を確保してくれるつもりのようだ。中で物憂げにグラスを傾けているのは5人ほど。皆体格のいい、一癖ありそうな強面をしている。ただ、カウンターの中にいる人物だけは、かなり年輩の品の良い紳士だった。 アキラは腕を引いた男に促されるまま奥のボックス席に身を隠す。間髪を入れず扉を激しく叩く音が響き、その男は覗き窓の扉を持ち上げた。 「その子達を渡してもらおう」 「いやだね」 黒服の男の、居丈高な物言いに冷静な声で答える。 「武力行使も示さんぞ」 はっはっは、と、酒場の男が笑った。 「やってみな、ここは海兵隊崩れのたまり場だ。みんな腕にはそれなりに自信があるし、武器もある。おまえさん達がまっとうな連中でないなら死んじまっても誰も文句は言わないだろうしなぁ」 男と話していた追っ手の一人は、振り向いて何事かを外国の言葉で後ろに伝えているようだ。しばらくして、「わかった、引き上げよう」と、扉の向こうから声がした。 覗き窓を閉じ、奥に戻ってきた男の前にアキラは怖ず怖ずと進み出る。 「あの……」 「ああっ?」 面倒そうな顔を向けた男に、どう礼を言うべきか? まだここが安全とは限らないのだ。 「あの、ありがとうございました。あいつらがいなくなったら直ぐに出ていきます」 「多分それは無理だな……マスター、このチビ共にタオルをくれ」 笑いながら、カウンターの老紳士がタオルを放った。すると男はカウンターに置いてあったグラスを手に取り、値踏みするかのように上から下までアキラとキリアンを睨め回した。 「ふん、キッド・ナップねぇ……」 びしょ濡れのパーカーを脱ぎ、渡されたタオルで髪を拭くキリアンはプラチナブロンド、グリーン・アイ。そばかす混じりだが白い肌、整った赤い唇。いかにも高く売れそうな容姿だ。アキラの方はアジア系にしては色白で、すっと通った鼻筋に薄い唇。意志の強そうな黒い瞳と、妖しい東洋の魅力を思わせる切れ長のまなじり。細い首と細い肩。にやにやした視線に、次第に気分が悪くなってきたアキラは男を睨み付けた。 浅黒く、彫りの深い顔。いかつく見えるが、どことなく愛嬌のある小さな目。大きな傷跡の残る頬と、そのために少し引きつった口元が笑っているようにも見える。短く刈り込んだ黒髪には、まばらに白いものが混じっているが年は30代くらいだろう。 だがアキラの視線など意にも介さず、男はグラスを煽ると真面目な顔になった。 「おまえら、何者だ? あの連中は誘拐犯なんかじゃねぇ、きちんとした組織で訓練されている……まあ間違いなく軍人だな。核ミサイルが落ちてこようと、店の前から動きゃしねえよ」 「軍人?」 意外な言葉にぽかんと口を開いたまま、アキラは少年を見た。そんな馬鹿な、何で俺が軍人に追われる少年とこんな場所に? 「キリアン、その、なぜ君は逃げなくちゃいけないんだい?」 狼狽え気味に尋ねると、キリアンは少し息を吸い大きく吐き出した。震えは止まっていたが、青ざめた顔のままだ。 「彼らに言わせると、私は特別な知能を持っているそうです……」 「天才少年、ってやつか」 ボックス席のソファーに身を沈め、アキラは溜息をついた。 「ところで、てめぇは? どうやら追われてんのはこっちの方らしいが」 二人にカウンターの紳士が用意してくれたコーヒーを手渡しながら、男が顎でキリアンを指す。 「ポート・オーソリティでパーカーを譲ってくれと言われて、理由を聞いたらあいつらに追われて困っているようだったからつい……」 つい一緒に逃げることになってしまったのだが、思いも寄らない成り行きに戸惑いを隠せない。これからどうすればいいのだろうか? 目の前の大男は助けてくれる気があるのだろうか? 「ジェフ、おまえさんが借金取りから逃げるルートで逃がしてやったらどうだ?」 カウンターの一番奥の席に座って、ビールのジョッキをあおっていた赤ら顔の男が笑いながら叫んだ。 「ちっ、てめぇこそ、女からこそこそ逃げ回るのに使ってるだろうがっ! ……まあ、いい。カウンターの後ろに下水道に通じている入り口がある、案内してやっからついてきな。どうも嫌な予感がするんだよ……覗き窓を閉めようとした時、追っ手の口元が笑っていやがった……」 「助けて、くれるんですか?」 躊躇いがちに聞いたアキラに、ジェフは引きつった口元をなお引きつらせた。 「つまんねぇ事、聞くんじゃねぇよ。ガキをやばい連中におめおめ渡したとあっちゃ、お袋にどやされらぁ。おっと、その前にかわいこちゃんの服を乾かした方がいいか。おまえも濡れたままじゃあ、その細っこい身体だ、冷えて肺炎おこしちまう。夏の雨は用心しないとな、チャイニーズ・ボーイ」 俺は日本人だしボーイじゃないと、言い返そうとしたその時。 「ヘイ、ジェフリー。急いだ方がいいぜ、まずい事になりそうだ。地下道を行くならどうせびしょ濡れになるんだ、一刻も早くここを出ろ」 見張り番のように覗き窓から外を伺っていた別の男が叫ぶと、アキラはジェフに抱きかかえられカウンターの中に放り込まれた。咄嗟に受け身の体勢を取り、後から同じように投げ込まれたキリアンの身体を受け止める。 「えっ?」 受け止めた感触は意外なほど軽く、柔らかかった。だが続けざまにジェフの巨体が覆い被さるように落ちてきて、アキラはキリアンを庇い身を捻る。 その瞬間、鼓膜が破れるような激しい爆発音が狭い空間を引き裂いた。木製の頑丈な扉は、破れたペーパークラフトのようにぼろぼろに散らばり、衝撃で砕けたグラスの破片が宙を舞う。その中にカランと、金属音がした。 「フラッシュバンだっ!」 誰かが大声で叫んだ。刹那、扉を破った爆発音よりも数倍激しい轟音に頭が真っ白になる。間近で破鐘を叩いたような耳鳴りと、眼の奥を刺すような痛み。しかし多人数の硬い足音を聞き分けて、アキラは店内を伺おうとジェフの下から首を伸ばした。 カウンターの継ぎ目に僅かな隙間を見つけて目を懲らすと、店の入り口近くに自動小銃を手にした黒い戦闘服の男が三人立っていた。その後ろにいるのは、アキラ達を追っている黒いコートの男だ。長めの金髪を後ろに流し、細い鷲鼻と鋭い目付き。長身でスマートに見えるが、体躯の良さが着衣の上からでも解る。バスターミナルで銃を取り出そうとした男を制したのは、確かこの人物だった。指揮官だろうか。 戦闘服の男達は機敏な動きで展開し、耳を押さえて床に踞る客を次々に拘束していく。カウンターの裏が、隠れ場所になるはずもない。 「グズグズするんじゃねえよ、さっさと潜るんだ」 囁くようなジェフの声に振り向くと、後ろ壁に開いた一辺が50センチほどの穴にキリアンが潜り込もうとしていた。アキラも促されるまま穴に入り、続いて身体をねじ込んだジェフが悪態をつく。 「ちっ、この穴は狭くていけねぇ……肩が引っかかって服が破れるからな」 カウンターにいた老紳士が穴を隠すように酒樽を置き、中からジェフが元のように板で塞いだ。 その直前、アキラの耳に入った言葉はやはり英語ではなかった。 『カザック少佐、標的はいません』 言葉の意味は解らないが、イントネーションからドイツ語のような気もするが……。 『探せ。もし我々以外の手に落ちるようならば、殺してもかまわん』 応えた低く威圧的な声は、鋭利な刃物のような冷たい響きだとアキラは思った。 ◇◇◇ 穴の中は小さな小部屋になっていた。丸テーブルに粗末な椅子が四脚。並べられたポーカーチップとカード。さしずめ隠れ賭博場といった様相だ。壁際には小さなテレビと頑丈そうなチェスト。そのチェストの棚からジェフが取りだしたのは二丁の拳銃だった。 「やれやれ、こんなもんでも何かの役には立つか。武器があるなんて言わなきゃ良かったな、小型拳銃くらいしかないのにあんな連中が乗り込んでくるとは思わなかった。どうやら脅しが利きすぎちまったか」 ほれ、とばかりにその一つ差し出され、アキラはごくりと咽を鳴らした。 「オートマチックが良いだろう〈SIG P203〉だ。これならその細っこい腕でも使えるはずだ」 ジェフはチェストの引き出しに弾を探しているのだろうか、しかし事もなげに言われても受け取ることなど出来ない。 「グズグズすんな! マガジンに弾は入ってるがちゃんと一発目を装填して忘れずにセーフティーを……おい、まさか使えない訳じゃねぇだろうな?」 無言で頷くアキラにジェフは、呆れたように口を開けて信じられないとばかりに目を見開いた。 「俺は日本からの旅行者です。アメリカの高校生と違って銃の扱い方なんか習ってないし、触ったこともない」 「はあ? ジャパニーズ・ボーイか」 「言わせてもらえば、もう18だ。ボーイは止めてくれ」 精一杯の虚勢に、ジェフが声を立てて笑った。 「ジャパニーズにしちゃあ、やけに鼻っ柱の強いガキだな。横須賀におまえみたいなのはいなかったぞ。いいから、とりあえずその大事そうに抱えてる鞄の中にしまっとけ。今は逃げるのが先だ」 言われて初めて、自分の胸に抱えていたナイロンバックの存在に気が付いた。クッションに包まれてはいるが、小型の一眼レフは無事だろうか? 早くしろ、と、グリップでつつかれ、アキラは仕方なくファスナーを開けると渡された銃をクッションの隙間に押し込んだ。いきなり、バッグがずしりと重い物に感じられる。 「俺の名はジェフリー・ヘイワードだ、ジェフと呼んでくれ。そっちの方はさっき聞いたが、おまえはなんて名だ? ボーイでよけりゃ、そう呼ぶが」 「アキラ、須刈アキラだ」 「OK、アキラ。この部屋には『ドラゴン・テイル』のカウンター裏と、表通りにあるデリの地下室からしか出入りできない。だが奴等はプロだ、すぐにここを見つけるだろう。床下から地下下水道に出てウエストサイドの方まで案内してやるから、あいつらを捲いて俺はそこでおさらばだ。いいな?」 頷くより仕方のないアキラを背に、ジェフは汚れた床のカーペットを引き剥がした。そこに現れたマンホールの蓋を腕の筋肉を張らせて引き上げると、暗く深い穴から冷たい風に乗ってゴミ溜めよりも酷い匂いが吹き込んでくる。 「早くしろ! 」 顎で促されて息を一つ飲み、アキラは底へと続く梯子に足を掛けた。不意に暗くなって見上げると、ジェフがカーペットを被った格好で蓋を閉めようとしている。 「奴ら、もう嗅ぎつけやがった……急ぐぞ!」 その言葉に慌てて底まで下りたアキラは、足下の見えない不安から壁に張り付いた。しかし見れば小さな電気が灯り、状況が確認できそうだ。 改めて辺りを見渡せば、そこは東京の地下鉄トンネルが狭く思えるほどの空間だった。 「ついてきな」 暗い補助等を頼りに、ジェフはまるで自分の庭を歩くかのように迷うことなく、数多に分かれたトンネルを進んでいった。多少は体力に自信のあるアキラでさえ、大柄なその歩幅についていくのがやっとだ。完全に息が上がったキリアンは、時折立ち止り倒れそうになる。 キリアンを案じて引き返したアキラが肩を支えようとしたとき、頭越しにのびた腕が軽々と目の前の身体を宙に持ち上げてしまった。 「この方が早い」 コーヒー豆の麻袋さながらにキリアンを肩に担いだジェフの歩は、緩むどころか早くなった。小走りになりながらアキラは、はぐれまいと必死に後を追う。 いったい何ブロック歩いたであろうか。雨に濡れた身体はすっかり冷え切り、疲労と眠気、加えて空腹が重なる。もう一歩も歩けそうもないと思ったとき、ようやくジェフの足が止まった。 「その様子じゃあ通りに放りだして、はいさようならって訳にはいかねぇな。……横須賀ではかみさんが日本人に随分と世話になってたから、ほっとくわけにもいかないか。ほら手を貸してやるからもう少しがんばれよ、俺のアパートが近くにある」 差し出された手を弱々しく払いのけ、アキラは前屈みになった上体を無理矢理起こした。 「一人で、歩ける」 「ほう、鼻っ柱だけじゃなくて根性もあるじゃねえか。気に入ったぜ、ボーイ」 反論する元気が既にないとわかって、にやりと笑ったジェフは壁に向かうと手探りで何かを探し始めた。薄明かりの中それが鉄の扉だと気が付いたとき、閂の所在を探り得たジェフによってそれが鈍い金属音と共に開かれる。四角に開いた暗闇の中から、明らかにこの地下道と違った匂いの空気が吹き込んできた。 「先に行きな、もう歩けないってんなら、おまえも担いでやるが」 からかうような口調にむっとして扉の中に入ったアキラは、ちろちろと細く水の流れる狭い石段を壁を伝いながら上っていった。十二、三段進むと頭が何かに当たり、暗闇の中振り返る。 「押してみろ、開くはずだ」 何も見えず、くぐもったジェフの声だけが下方から低い振動となって鼓膜に届く。体力的に自信がなかったが、ここでこのアメリカ人に馬鹿にされるのは真っ平だと、満身の力を込めて頭上の壁を押しあげた。 労せずして、錆びた鉄枠と鋲が打たれた分厚い木の扉が持ち上がった。差し込む明かりは眩しいほど強くなかったが、下方に位置するジェフの顔を判別できる。促されてアキラは穴の外に出た。 かび臭い、湿った空気。暗い裸電球一つに照らし出された部屋は、天井や壁に無数の鉄パイプが走り、ひび割れたコンクリートがむき出しの床には埃をかぶった旧い型のテレビや冷蔵庫、壊れた食器棚や破れたソファーの類が雑然と積み重ねられていた。 「奴等も流石にここまでは追ってこれまい。あの場にいた連中は俺のアパートなんざ知らねぇし、カウンターの爺さんは口が堅いから心配いらねぇ。安心しろとは言えないが、服を乾かして何か腹に入れるくらいの時間はあるはずだ」 ジェフはそう言うとキリアンを担いだまま、がらくたの中からソファーを足で蹴って引きずり出し下水道に通じる扉の上に運ぶ。アキラも僅かに残った力を出し切りそれを手伝った。スクラップになった冷蔵庫の後ろに回ると鉄パイプの隙間にドアがあり、扉の向こうになおも階段が続いていた。ジェフの後から段を上りながら、アキラは必死で頭を整理する。自分の置かれた状況が、まだ理解できない。いったい何から逃げ回っているのだろう? 何故逃げているのだろう? この男は何者なんだろう? 安全なのか? 信用できるのか? これからどうすればいいのだろうか? 「ぼうっとしてんじゃねぇぞ、大丈夫か? ジャパーニーズ……」 「アキラだ」 「OK、大丈夫そうだな、アキラ」 ジェフが笑った。その笑顔に、悪い人間ではなさそうだと、少し気が緩む。 階段を上りきったところに狭いエントランスがあった。そこで乗り込んだエレベーターを5階で降り、ぼろぼろのカーペットに躓きそうになりながらついていくと突き当たり右手の部屋の鍵をジェフが開けた。 「男やもめの部屋にしちゃあ、綺麗なもんだぜ」 綺麗、と言うよりは何もない殺風景な部屋だった。リビングにあるのはソファとテレビ。テーブル代わりらしい木箱、そして寝袋。 「さっさとその服を脱いで、これでも着ていろ。管理人の婆さんが乾燥機を持ってるから服を乾かしてもらってくる。業突張りのイタリア人でなぁ、いくらか取られると思うがおまえ金を持ってるか?」 奥の部屋に消えたジェフが、ネル地のシャツを二枚手に持ち戻ってきた。 迂闊に財布を見せるべきか。ちらりと頭の隅を不安がよぎったが、既に思考さえも曖昧になりかけていた。どうにでもなれと、バッグのサイドポケットから出した財布を渡すとジェフはその中から20ドル紙幣を取り投げて返す。 「何か食い物もいるだろう。安心しな、ガキからチップはとらねえから」 傷のある頬をゆがませ笑ったところを見ると、どうやらジョークのつもりらしい。懸念が去ったわけではないが、言われたとおり濡れた服を脱いで渡されたシャツに着替えた。冷え切った身体に乾いたネル地は心地よく、体温が戻っていくのを感じて、ほっと息をつく。大きすぎるシャツは袖口を半分も折らなければ手を出すことが出来ず、裾は膝がかくれるほどもあった。 「どうやらこっちは自分で脱ぐ力も残ってないようだ。手伝ってくれ、着替えさせてベッドに運ぼう」 見るとソファーにぐったり身体を預けたキリアンは、指一本動かす力も無いように思えた。ジェフがその背を支えアキラがパーカーを脱がそうとしたとき、うっすらと目を開けて弱々しくその手を払う。 「やめ……て、自分で出来る。バス……ルームを貸してくださ……い」 「なんだ、よほどお育ちがいいんだな。人前じゃあ脱げないとでも……」 不愉快そうな顔をしたジェフの表情が、次の瞬間、困惑のそれに変わった。 「おまえ、まさか。いや、そうだったのか」 ちっ、と低く舌打ちして憮然となったジェフは、再びキリアンをソファに横たえ「待ってろ」と言うと、呆然とするアキラに構わず部屋を出ていった。 しばらくして戻ったジェフが連れてきたのは、見たところ70歳には思える、かくしゃくとした一人の老婆だった。手にはなにやら着替えらしき物を持っている。 「管理人のナデイア婆さんだ」 紹介も終わらないうちに、二人そろってドアの外へと追いやられてしまう。 「いいかね、覗き見なんて下種な真似するんじゃないよ」 ヤニに茶色く染まった前歯をむき出すようにしてジェフを睨んだ老婆は、アキラに向かって、にっ、と笑った。 「おまえさんは中にいてもかまわんが?」 するとジェフはアキラの頭を掴み、忌々しそうに老婆を睨み返した。 「こいつはガキじゃねぇんだ、なりはちぃせえが一人前の男だ」 ふふん、と鼻を鳴らした老婆の姿がドアの向こうに消えると、アキラはジェフを見上げた。問いかける眼差しに苦々しく笑って、ジェフは肩をすくめる。 「ありゃあ、女だ」 「女? 確かに年を取ったご婦人ですが……」 「馬鹿、ナデイア婆さんじゃねぇ。キリアンのことだよ」 「ええっ?」 つい大仰な声を上げたアキラの口を、ジェフが手で塞いだ。 「でかい声を出すな、誰かに見られたら困る。東洋人のガキを連れた海兵隊崩れなんざ噂の元だ、いろいろな意味でな。追われてんだろ?」 黙って頷くと、その手が離れた。 「担いでるときやけに軽いと思ったが、そこまで頭が回らなかった。おまえも気が付かなかったのか?」 「はあ、俺もてっきり男の子だと思って……」 そう言えば酒場のカウンター裏で身体を受け止めたとき、柔らかな感触を受けた事を思い出す。置かれた状況下で深く考える暇も無かったが。 「やっかいの種ってのは一つ抱えると、どうしてこう次々に増えていくんだろうな」 溜息をつくジェフを横目に見ながらアキラも同様の思いにうなだれる。明日の夜には日本に向かう飛行機の中にいるはずなのに、今はそれが叶わぬ現状に思える。 「とにかく、あのお嬢さんから詳しく話を聞かせてもらおう」 ドアが開き老婆が顔を出すと、ジェフはそう言ってアキラの肩を、ぽん、と叩いた。 ◇◇◇ 濡れた服を乾かすのに10ドル、ピザとコーヒーにもう10ドルを要求してナデイアは自分の部屋へと戻っていった。 「まあ、仕方あるまい。あの婆さん、がめついが面倒見は良いんだよ。孫娘の着ていた服を何着か持ってきてくれたが、その代金はいらんそうだ」 部屋には熱い湯を張った洗面器が置いてあり、どうやら暖かなタオルで身体を拭いて乾いた服に着替えさせてくれたらしい。ソファで微かな寝息をたてるキリアンを抱え上げ、ジェフは奥の部屋のドアを開けた。そこにあったベッドには、華やかなキルトのカバーとレースとリボンの飾りが付いたクッション。 「そんな目で見るな、出てった女房のベッドだよ」 アキラがカバーを捲り、ジェフがキリアンを横たえる。女物の白いシャツと少しゆったりしたジーンズ姿で少女趣味なベッドに眠る姿は、確かにしどけない女の子そのものだった。まるで日に当たったことがないような青白い肌。運動したことがないような細い手足。 「これだけガリガリに痩せてりゃあ間違えもするさ、肝心なところに肉が付いてねぇ」 毛布をその身体に掛けてリビングに戻ると、ほどなくナデイアが食べ物を乗せたトレーを手に戻ってきた。コーヒーの香りとピザの匂いに、いかに空腹だったかを思い知る。 「このコーヒーは美味いぞ。俺の叔父がキューバでコーヒー園をやってるんだが、婆さんが気に入ったってんで送ってもらってるのさ。ピザはナデイアの特製だ」 アキラが、ちらっと伺い見ると「さっさと食え」という顔で頷いた。安心してピザに手を伸ばし、味の分からないまま飲み込む。その様子を笑って見ていたジェフは、急に真面目な顔になると大きく溜息を吐きコーヒーを啜った。 「暫くは匿ってやってもいいが……、いつまでもというわけにはいかねぇぞ。おまえ、どうすんだ?」 「どうって言われても……。俺は旅行者だし、こんな事になるなんて夢にも思わなかった。それに明日の夜には日本に帰る予定なんです」 「ああっ? まさか俺に押しつけて自分は帰りますって言うんじゃねぇだろうな」 アキラはピザを食べる手を止め俯いた。出来ればそうしたいと思っていたのだ。これ以上関わり合いになりたくない。 「警察……は、駄目そうだな。そうなんだろ?」 顔を上げることが出来ないまま頷く。 「参ったな、事情がわからないことには手の打ちようが……」 「あの、ご迷惑をかけてごめんなさい」 奥の部屋のドアが開き、かぼそい声がジェフの言葉を遮った。 「もう、大丈夫です。何とか一人で……」 言いかけてよろめき、キリアンはドアにもたれて座り込んだ。呆れた顔でジェフが抱き起こし、手を貸してソファに座らせる 「そんな棒っ切れみたいな手足で、一人でどうにかなるものか。とにかく、追っ手の正体を教えてもらおうか。それに男の真似をしていた理由もな」 キリアンは緑色の瞳で二人を見つめた。西洋人形のような綺麗な顔立ちは青白いままだが、心持ち頬に赤みが差してきたように見える。アキラがコーヒーの入ったマグカップの縁をシャツで拭い躊躇いがちに差し出すと、キリアンは僅かに微笑んでそれを受け取った。 「わたしは幼少の時から施設で育ったのですが、今までその敷地内から一歩も外に出ることがありませんでした。ところが一週間ほど前、彼等がやってきて男の格好をさせ、車で飛行場に連れて行かれたんです。飛行機は私の知る物とは違って窓もなく、狭い個室にたった一人で閉じこめられました。何時間乗っていたのか、何処に着いたのかも解らず車に乗せられ移動中、隙を見て逃げ出したのです。彼等が何者かは、よくわかりません」 「施設って、その、孤児院みたいな所なのかな?」 アキラの言葉に首を振り、キリアンは唇をかむ。 「病院、いえ、研究所と言った方がいいかも知れません」 そういえば、あの酒場『ドラゴン・テイル』で思い当たる話を聞いていた。 「研究者、だったんだ」 しかしまた、キリアンは首を振った。 「実験体、です」 アキラは思わずジェフを見た。ジェフは頬の傷をさらに歪め、気難しいとも怒りとも判断しかねる複雑な表情を浮かべている。 「彼等は私を何かから隠したがっているようでした。でも、それが出来ない場合は……」 「殺されそうになって、逃げてきたんだな?」 ジェフの言葉に頷いたキリアンの頬に、涙が伝い落ちた。 「何の実験だか知らねぇが、秘密を守るために子供を殺そうなんて連中は許せねえ! 安心しな、俺達が安全なところに匿ってやる」 「ええっ! 俺達って……」 狼狽えるアキラにジェフは片目をつむってみせた。 「逃げるつもりじゃ、ねえだろ?」 「俺は明日、日本に帰らないと……」 「ふふん、ママが心配するのか。首を突っ込んでおいて逃げるなんざぁ、やはり日本人は根性がないなぁ。少しは見所のある奴だと思ったが、俺の見込み違いだったわけだ」 そこまで言われては、黙っていられない。ピザと乾いた服で元気を取り戻し、おまけに女の子の前で恥をかいてなるものかと、つい挑発に乗ってしまった。 「あんたに助けてもらわなくても、俺が何とかしてみせる!」 はっ、と、言ってしまった後で後悔しても既に遅い。待っていたとばかりにジェフがにやりと笑った。 「いい顔だ、アキラ。そうでなくてはな」 からかわれていると気付いて、顔に血が上るのがわかった。 ◇◇◇ 最小限、身の回りの物だけ用意するように言われて、アキラは一旦ホテルに戻った。 逃げ出してしまおうと思えば、逃げることが出来る。日本に帰ればジェフがアキラを捜す手段など無いはずだった。それどころか逃げた卑怯者など探す気にもならず、あきれ果て、蔑み、日本人すべてを嘲笑するかも知れない。 それでもいい、関係のないことだと思う反面、自尊心が許さなかった。自分でも何か出来ると思いたかった。何よりキリアンの、あの瞳が頭から離れない。 結局、まんじりとしないままに朝を迎え、帰国が延びたとホテルに余計な荷物を預かってもらって、アキラは再びジェフのアパートに向かっていた。 まだ遅くない、まだ引き返せる。そう思いながらもナイロンバックの中、鉄の異物の重みが肩にのしかかる。一晩中気になっていたのだが、とうとう手にすることが出来なかった。これだけでも返しておかなければと自分に言い訳し、地下鉄に乗った。会えば、後戻りが出来ないことぐらい解っているはずなのに。それでも自分が思うほど深刻な事にはならないと、期待する気持ちがどこかにあった。 結局、バージニア州シャーロッツビルに暮らすジェフの母親にキリアンをしばらく匿ってもらうことになったのだが、その場所までの同行を当然の義務と言われれば返す言葉がない。他にアキラに出来ることはなく、ジェフの好意に甘えるより仕方ないのだ。 公共の交通機関利用は危険だから、車を調達すると言っていた。車となれば、たとえ何事もなくキリアンを送り届けても片道五百キロ以上の行程だ。少なからず三日は見て置いた方が良いいだろう。三日だ……アキラは深く息を吸い込み、ウエストサイドの外れ、雑然と建つ旧い雑居ビルの一つに足を踏み入れた。 部屋のドアをノックすると、隙間から伺うように顔を出したジェフは驚いた顔をした。 「内心、もう来ないと思っていたが」 にやりと笑われて、アキラは眉をひそめる。が、思いついたようにバッグのファスナーを開けて〈SIG P203〉を取り出した。 「あんたが逃げるなって言ったんだろう? それに返さなきゃならない物もある」 ジェフは、ちらりとそれを見たが受け取ることはせずアキラを招き入れた。 「まだ持っていろ、扱い方は後で教えてやる」 まさか本当にこれを使うことがあるのだろうか。 「あの……キリアンは?」 「昨夜おまえが出てった後にナデイア婆さんが来てな、泊めるつもりなら自分が預かるって連れてったよ。俺は正常な性癖の持ち主だから心配ないって言ったんだけどなぁ……。取り敢えず今から車を調達してくるから、おまえは婆さんの所からあの子を……」 突然言葉を切り、ジェフは険しい眼をドアに向けた。 「不用心だねぇ、ドアが開けっ放しじゃないか……」 女の声にアキラが振り返ると、ドアの向こうにキリアンと一人の女性が立っていた。 「見慣れない女だ、ここの住人じゃないな……あんた誰だ?」 ジェフはアキラの前に立ち、用心深くドアに近付く。 「あたいはシンシア、業突張りのナデイア婆さんの孫娘だよ」 シンシアと名乗った女は、にこやかに微笑んだ。魅力的な笑顔だ。 赤いスカーフで一つにまとめた、ブルネットの長い髪。はっきりとした目鼻立ち、気の強そうな太めの眉と黒い瞳。形の良い豊満な胸を際立たせるように首元が大きく開いた、オレンジ色のTシャツ。踵の高いサンダルを履いた長い素足は、短い黒革のスカートからすんなりと伸びて美しい。 「あの婆さんの孫娘がこんな美人だとは思わなかったが、キリアンを連れてきてくれて感謝するよ。婆さんの所に、よく来るのかい? 次に来るときに、食事に誘いたいんだが」 軽口を叩きながらも、ジェフは警戒しているようだった。アキラは成り行きを伺い、身を硬くする。 「生憎だけど、あたいの住んでるところはノースカロライナのダーラムなんだよ。スパニッシュ・ハーレムに住んでる叔母さんの所に遊びに来てたんだけど、今日ナデイアに会ったら帰るつもりなんだ。次に来るのが、いつになるかなんて解らないわ」 大げさにがっかりした顔になったジェフに、シンシアはお愛想で笑って見せた。 「ところでこの子は口がきけないのかい? 今朝会ったばかりなんだけど、ひとっ言もしゃべりゃしないんだよ。ナデイアに聞いても何も教えてくれなくて、ただあんたのとこに連れてってくれと言われただけなんだ」 ジェフが口止めしたのだろうと、アキラは思った。今朝のキリアンは顔色も良く、薄いピンクのTシャツに白いデニム地のスカート姿だ。シンシアのお下がりだとすれば、かなり幼いときの物に違いない。 「口が利けない訳じゃねぇが、わけありでな。ちっとばかりつらい目にあってまだ脅えてるのさ」 「へえ、何があったの?」 そこでジェフは、しまった、という顔になった。 「ま、まあ……いろいろとな。ところでシンシア、あんた今からダーラムに帰るのか?」 「そうよ、憂鬱になるくらい長いドライブだわ。一人だから退屈だし何より物騒で……連れでもいればいいんだけど」 「車で来てるのか?」 「そうよ」 ジェフは振りかえると、アキラを見て思案顔になった。そしてシンシアに向き直る。 「シンシア……頼みがあるんだが、俺たちを途中のバージニアまで乗せてっちゃくれねぇか? 実はシャーロッツビルに住んでる、お袋の所に急いで行かなくちゃならねぇんだよ」 「あら、それなら……」 シンシアは目を細め、また魅力的な笑顔をしてみせた。 「願ってもないわ、交代の運転手がいれば楽だしね。あんたが信用できるかわかんないけど、その子達も一緒なんでしょ? なら心配なさそうね」 「そいつはありがたい、是非お願いするよ」 「それじゃ、ナデイアに伝えて車を取ってくる。一時間後に表通りで待ってるから」 シンシアの後ろ姿を見つめるジェフに、アキラは不快な気持ちになった。ジェフにとってはキリアンの安全よりも、美人とのドライブの方が重要らしい。 「やれやれ、運がよかった。結構悲観的に考えていたんだが、思いの外簡単に済みそうだ。実は車を借りる金の当てが無くてな、ブルネットの美人とドライブも出来るしお袋の所までいければ金も借りられる。結構何とかなるもんだ。念のために州境に着く前に赤毛のウイッグとカラーコンタクトは用意するとして……」 憮然としているアキラに歩み寄ると、ジェフは肩に手を置いた。 「考えてみたんだが、おまえはやはり日本に帰った方がいい。深入りは身のためにならんよ。何事もなく済めばいいが、銃を持ったこともないおまえが万が一にでも不測の事態に巻き込まれたら命に関わる。俺一人では心許なかったがシンシアがバージニアまで一緒だ、追っ手の目を誤魔化せるだろう。チケットの予約はもう取り消しちまったのか? 確か今日の夜の便を……」 「いまさら、何だ!」 いい知れない怒りが込み上げ、思わずアキラは叫んでいた。 「俺は最後まで付き合うと決めた、自分の意志でだ。あんたの指図は受けない」 「だがなぁ……」 ジェフは困惑の表情を浮かべたが、譲るつもりはなかった。このまま引き下がっては、自尊心が許さない。 ジェフは大きく溜息を吐き、肩を竦めた。 「そうだな、悪かった。ではアキラ、おまえが自分で自分の面倒を見られるように、出発前にやることがある。〈SIG〉を出すんだ、扱いを教えてやる」 無言で頷きバックを持ち上げたアキラは、もう迷わないと自分に言い聞かせた。 ◇◇◇ ニューヨークを出てハイウェイをフィラデルフィア、さらにワシントンへと南下する。ペンシルベニヤの州境では何事もなく、変装用のウイッグとコンタクトを外しても良いのではとアキラが提案しようとした時。 「随分つらい目にあったんだろうねぇ、可愛そうに」 ジェフからキリアンの身の上を聞いたシンシアが、哀れみの表情をもって助手席から振り返った。旅立つ前、細かいことに気の回らないジェフにかわりアキラが用意したキリアンの身の上は「施設から引き取られた先で虐待を受け、そこを逃げ出し亡くなった父親の友人であるジェフを頼ろうとしてポートオーソリティーまで来たが、行き方が解らなかった」という経緯である。シンシアは人の良い性格らしく、素直に信じ込んで不振を抱いた様子はない。まして青白い顔に細い手足、俯きかげんの生気のない表情は話に大いに信憑性を与えたようだ。 「ところで、ポートオーソリティーから道案内をしただけのあんたが、なんで一緒にバージニアまで?」 予想していた質問に、アキラは用意しておいた答えを返した。 「夏休みを利用して、ヒッチハイクでアメリカを撮影旅行中なんです。フロリダまで行くつもりだったから途中まで便乗させてもらおうと思って」 「なあんだ、それならダーラムに帰るついでで、隣のローリーまで乗せてってあげるよ。フロリダに行くなら、そこからの方が車を拾いやすいと思うから」 納得の笑みを浮かべたシンシアに、少しばかりの後ろめたさを感じながらもアキラは努めて平静を装う。 「ありがとうございます。でもジェフがしばらく滞在していけと言ってくれたので、そこからワシントンやノーフォークまで足を延ばしてみるつもりなんですよ」 「ふうん、そう?」 すらすらと嘘を並べるその表情を、一瞬シンシアの目が鋭く探った気がして脇を冷たい汗が伝い落ちた。だが何かから逃れようとする者は、必要以上に猜疑心が強くなるものだと気を取り直す。ただの思い過ごしだろう。 「シャーロッツビルは良いところだ。チェサピーク湾にも行って見ちゃあどうだ? きっといい写真が撮れると思うぜ」 ハンドルを握るジェフが素早くフォローしてくれた。 「俺のお袋は子供好きでなぁ、アキラやキリアンを大喜びで迎えてくれるだろうよ。昨夜電話したら得意のポークビーンズとチェリーパイを沢山作って待ってると言ってたから、あんたも一緒に夕飯を食わないか? 良ければ今夜は家に泊まったらいい」 「そうねぇ……夜通し走るのも辛いし、そうさせてもらおうかしら」 また子供扱いしている。不機嫌な顔をしたアキラにバックミラーで気がついたのか、ジェフが肩をすくめた。 「生きてりゃ丁度、おまえくらいの背格好の男の子がいるはずだったんだ。そう思うとついガキ扱いしちまってな。悪く思うな、アキラ」 「あんた、子供がいたのかい? じゃあ、奥さんは?」 運転席に寄り添うように座っていたシンシアが、眉をひそめ僅かに身を引いた。 「離婚、したのさ」 絞り出すような、唸るような声に、アキラは運転席を伺い見る。 「三年前、息子はエリー湖のサマーキャンプに参加していた。やっと十歳になってボート体験が出来ると喜んでいたんだが……そのボートが転覆し、湖に落ちた息子が救助されたときには既に助からなかったんだよ。一人息子でね、かみさんは見ていられないくらい毎日泣き暮らしていた。その時丁度、日本の横須賀基地に行く話があって、気持ちを切り替えることが出来るかと思ったんだが……」 ミラーに映る苦渋の表情。 「今から考えてみりゃあ、かみさんは親しい友人や家族と思い出を話しながら傷を癒していきたかったんだろうな。俺は気付かなかった……自分が思い出を語るのが辛かったばかりに、かみさんのお袋や親父、兄弟、友人から引き離してしまった。日本では友人も出来て皆が良くしてくれたんだがね、アメリカに戻った途端に出ていっちまったのさ。俺と一緒では、傷がえぐられるばかりだと言ってな」 ジェフが、キリアンやアキラをここまで助けようとするのは、アメリカ人気質とも言える正義感や、強者は弱者をいたわるという理念に基づいた傲慢な国民性が為せる行動なのだろうと思っていた。しかし、もっと単純で悲しい理由があったのだ。アキラを子供扱いしながら、今まで逃げていた息子の思い出と向かい合おうとしているのかも知れない。銃の扱いを教えている時、時折手を止めアキラを見ていた顔は、そう思わせるような表情だった気がする。 「……」 同情したのか、シンシアがジェフの肩に手を置く。アキラもかける言葉が見付からなかった。 「まあ、そんなこたぁ、どうでもいい。キリアンを預かることになったのは何かの縁だ。退役してから、ろくな仕事もしていなかったが……この際キューバにいる叔父のコーヒー園でも手伝って、こいつの面倒でもみるさ」 それまで顔を伏せていたキリアンが、うっすらと涙が滲ませて上目使いにジェフを見た。その好意を喜んでいるのだろうと思ったアキラは、次の瞬間、まるで全てを否定する絶望の色をその瞳の中に見てしまった。 キリアンが恐れているのは追っ手だけではない。アキラは不安な思いを抱きながら、青白い整った横顔を見つめた。『実験体』の意味を深く考えてはみなかったが、何か恐ろしい秘密が隠されているのかも知れない。そうでなければ、あの物々しい追っ手の説明がつかないではないか? しかし、あまりにかよわく頼りなげなキリアンが、いったいどれだけの秘密を持つというのだろう? メリーランド州に入った所で昼時になり、ジェフはボルティモア郊外のガソリンスタンドを併せ持つハンバーガーショップで車を止めた。目的地までは、ほぼ半分来たことになる。 「マクドナルドでなくて、悪いな」 まるで、からかうのを楽しんでいるようなジェフの言葉をアキラは無視する。 「あたいはガソリン入れてくるから先に行ってくれる? オーダーはチリとダイエットペプシをお願いね」 助手席を降りたシンシアが運転席に座り直すと、ジェフが慌てて開いている窓に顔を入れた。 「給油なら俺が……」 「スタンドのコンビニで買いたい物があるんだ。男には用のない物だよ?」 渋々首を引っ込めた不満顔にウインクをして、シンシアは車を回す。 ハンバーガーショップに入って、アキラはコーヒーとシンプルなハンバーガーを頼んだ。キリアンはチキンサラダにオレンジジュースを頼んだようだ。 「いかんなぁ、それじゃ二人とも体力がつかないぞ」 トレーを持ってアキラの横に座ったジェフが、余計な世話を焼く。そのトレーの上には、うんざりするような大きさのハンバーガーにフライドチキン、ポテト、Lサイズのコーラ。 飢えた熊のようにがっつくジェフに笑みを漏らしたアキラは、いまだ浮かない顔のキリアンに気付いて眉を曇らせた。 「まだ、あの連中が追いかけてくると思うのかい? きっと追っ手はまだ、ニューヨークで君を捜しているさ。ここまで来れば安心だと思うけど」 「私が心配しているのは、シンシアさんのことです」 俯く口から、小さな声。 「大丈夫だって。追っ手が現れなければシンシアさんに迷惑は掛からないよ。このまま無事にシャーロッツビルまで行けると思うけどな」 「あの人は、シンシアさんではありません」 えっ、と、アキラは飲みかけたコーヒーの手を止めた。ジェフも口を動かすのをやめて、眉間にしわを寄せる。 「そいつは、どういうことだ?」 コーラで食べ物を流し込み、低い声で呟いたジェフを伺い見てキリアンは唇を噛む。が、目を閉じ深く息を吸うと決意の眼差しを返した。 「車もあの人の物ではありません、ハーツ社のレンタカーです」 「何故わかる?」 「私には、読めるからです」 当惑するジェフを差し置き、アキラはキリアンに向き直った。 「読めるって、どういうこと? 君は自分を実験体だと言ったけど、何か特別な人間なんじゃないのか? ちゃんと訳を話してくれないかな」 小刻みに震える手を、アキラはそっと握った。 「心配ないから」 キリアンの目から、涙が落ちた。 「彼等は私を《リーダー》と呼んでいます。私は手にした物から、その全ての情報を読みとる力があるからです」 「はあ? 情報を読みとるってどういうことだ?」 未だに状況が読めないジェフが、気の抜けた声を出した。敵意ある者と対峙する方法は心得ていても、事が微妙な場合においては頭が回らないらしい。 キリアンは、オレンジジュースのカップを手に取った。 「これを手にしただけで、オレンジの産地、砂糖の含有量、添加物の組成、残留農薬の濃度、製造過程、全てを読みとることが出来るのです。カップに印刷されているインクの化学式でさえ」 「んな、馬鹿な!」 そう言ったきり言葉を失ったジェフと同様、アキラもにわかに信じられない。 「じゃあ、彼女がシンシアでは無いというのは?」 「私が着ている服は、確かにナデイアさんのお孫さんの物だと思います。ナデイアさんの部屋には、テーブルやベッド、食器やソファー、いろいろな物にシンシアのイメージが付随していましたが、どれもあの人とは違ったものです」 「持ち主のイメージも読めるのか?」 「はい」 アキラはジェフと顔を見合わせた。もしもキリアンの言うことが本当ならば、あのシンシアは何者なのだろう。酒場での武力行使を考えると、追っ手の一人にしてはあまりに回りくどいやり方である。 「何でもっと早く言わねぇんだっ!」 怒りを露わに、しかし抑えた声でジェフが詰め寄ると、身を縮ませてキリアンは俯いた。アキラは庇うようにキリアンの前に身体を乗り出す。 「信じて貰えないと、思ったんだろう? もし信じて貰えたとしても、気味悪がられて見捨てられると? だから言えなかったんだ」 アキラの言葉にぽろぽろと涙を流すキリアンに狼狽えて、「悪い、別に責めてる訳じゃあねえんだ」とジェフは謝った。 「それにしても、やっぱり俺には信じられねぇ。テレビや映画の世界じゃあるまいし、なんだ、その、超能力っていうのがなぁ、あり得ないというか……。だいたい、そんな力が有っちゃあ普通に暮らせねぇだろう?」 ナプキンで涙を拭って、キリアンは顔を上げた。 「小さいときはそれほどではなかったのですが、研究所で訓練して強化されたんです。生活に支障のないように『凍結』と、『解凍』のやり方も覚えました。意識を凍結している間は、目と耳からの情報しか入りません。身体の感覚も無くしてしまうので、うっかり怪我をしても気が付かなかったりしますが。何か、思い入れのある物をお持ちなら私に持たせてください。嘘ではないことを、証明出来ると思います」 キリアンの抱える秘密、その真意を確かめようと決意して、アキラはバックから一番大切にしている一眼レフカメラを取りだした。 「このカメラのスペックが解るかい?」 頷きカメラを受け取って、キリアンは目を閉じる。 「〈NiKon F3〉・1980年三月五日発売、寸法148.5×96.5×65.5mm・本体重量700g・電子制御式35mm一眼レフ・フォーカルプレーンシャッターカメラ、デザイン〈ジョルジェット・ジウジアーロ〉、露出制御・絞り優先オート及びマニュアル両仕様、アイレベル・〈DE-2〉標準、ファインダースクリーン・スプリットマイクロ式〈Kータイプ〉標準、TTL中央部重点開放ボディ側光、シャッター・オート8〜1/2000秒無段階、マニュアルT・B・X 1/80秒・8〜1/2000秒十八段階、ボディ黒縮緬塗装部真鍮・上下左右カバー部チタン、ファインダーカバー・裏蓋チタン、使用レンズ……」 本当か、と、目を向けたジェフに、アキラは首を傾げた。詳細な仕様など、詳しく知っているわけがない。 「もういいよ、キリアン。AIレンズの化学式まで言われても俺には解らない。それよりも、持ち主の情報が見えると言っただろう? そのカメラは人に譲ってもらった物なんだけど、もとの持ち主がどんな人物だったかわかるかい?」 一瞬、開いた目線を泳がせ、再び目を閉じるとキリアンは意識を集中させた。 「ダークブラウンのタートルネック、ツイードのジャケット。黒縁の眼鏡、背の高い…四十歳くらいの男性。……アキラによく似ています」 「間違いない俺の父さんだ、どうやら信じるしか無いようだな。まだ疑うなら、ジェフもキリアンに何か渡してみたら?」 口をあんぐりと開けたままキリアンとアキラを代わるがわる見つめていたジェフは、いきなり憮然とした顔で立ち上がった。 「俺はいい! それよりも、あのシンシアを名乗る女が何の目的で俺達といるのか確かめねばならん!」 「ちょっ、ちょっと待てよ。相手の正体がわからないのに、いきなり正面から向かっていくのは危険だと思う。何か方法が……」 大股で駐車場に向かうジェフの後を、アキラは慌てて追いかけた。ようやく追いついたところで、少し離れた先に駐車してある車からシンシアが降りるところを見つけた。 「ごめんよ、遅くなって。コンビニでしつこい男に絡まれちゃってさ、連れがいるからって逃げてきたんだけど……」 二人に向かって微笑んだシンシアの表情がにわかに曇る。 「伏せてっ!」 その瞬間、アキラはジェフに突き飛ばされた。僅かに空気が震え、コンクリートにめり込んだ黒い痕跡。 何が起きたのかと思う間に、倒れたままの二人に駆け寄ったシンシアが銃を構える。が、その銃口は、正面に立つ黒いコートの男に向けられていた。 「穏やかじゃないわねぇ、サイレンサーでいきなりなんて。それにしてもあなた反応が良いじゃない? 海兵隊では軍曹だったそうだけど」 目線を銃口の先に向けたままシンシアがそう言うと、身体を起こしたジェフは苦々しい顔になる。 「取り敢えず礼を言うよ。狙われたのは俺の足らしいが、アキラに怪我はさせられねぇしな。あんたはいったい……」 「動くな!」 男の銃口が、新たな狙いを定めようとした僅かな動きにシンシアが叫んだ。 「自己紹介はまたの機会にするわ。早くキリアンを連れて車に乗りなさい、私があいつの動きを止めているから」 「あんたはどうすんだ?」 「仲間がいるから、心配しないで」 仲間? いったい何の仲間なのだろう? コンクリートに座り込んだままのアキラの手を、ジェフが引っ張った。 「いつまでも腰抜かしてるな、キリアンを入口まで連れてくるんだ!」 わけのわからないまま、アキラは急いで店内に戻った。 ◇◇◇ 店内に向かうアキラに銃口を向けた男は、肩口をかすった銃弾に狙いを外した。 「動くなと、言ったはずよ」 シンシアに向き直り、男は口元に冷たい笑みを浮かべる。 「思わぬ伏兵がいたな、腕もいい。どうやら甘く見すぎていたようだが、どのみち逃げられはせん」 「あんたの仲間は?」 質問には答えず、銃を上着の下のホルスターに収めて歩み寄る男からシンシアは銃口をはずさない。 「どこの組織の者だ? 〈CIA〉か? 〈FBI〉か?」 「何の事かしら? 私は悪い奴に追われている子供を助けようとしている、善良なアメリカ人よ」 その時、入り口に回した車にアキラとキリアンが乗り込むのが見えて、運転席のジェフに「早く行け」とシンシアは手を振った。男は目を細め、遠ざかる車を見る。 「あの子が何者か、わかっているのか? 早く我々に返すんだ」 「ただの、か弱い女の子でしょう? ちょっとした特技はあるようだけど」 「特技?」 男は苦々しく笑う。 「君達が、どの程度の情報を得ているかは知らんが……特技というほどのものなら我々も心配などしない。あの子の力は恐るべきものだ、奴らの手に渡ればグランド・ゼロの悲劇が全世界中で起こりかねない」 えっ、と、シンシアの銃口が下がった。 「手にした物の情報が読めるというだけでしょう? そんな物騒な事になんか……」 「強者の名に甘んじて、危機管理が疎かになりつつあるようだな。その結果があの悲劇を生んだのだよ。情報が読めると言うことは、僅かな資料から全てがわかると言うことだ。目に見えない残留物から使用された爆発物、その化学組成、破壊規模、全てが読みとれる。爪の先ほどの金属片から兵器の概要が読みとれる。そして彼女を狙っているのは、史上最悪と言われている国際テロ組織だ。事の重大さが理解できたならば、キリアンの向かった先を教えてもらいたい」 「いやよ、彼らを殺すつもりでしょう? ニューヨークでの件は知ってるのよ。私たちは彼らを守るように命令されているわ」 「殺すつもりはない、奴らの手に渡したくないだけだ。我々は彼女を守るためにノルウェーに向かう所だった。だが同盟国権利を持ち出され、アメリカで彼女の危険性を立証しなくてはならなくなったのだよ。協力を得て、より安全に隠蔽するためにね。彼女が逃げ出せるように空軍基地からの移動中、大型トラックで事故を起こしたのは君達だな」 とぼけても無駄と判断したシンシアは、警戒を解いた。男の言うように事故を装い、キリアンを拘束して情報を得るつもりだったのだ。キリアンが危険な『素体』だということは知らされても、その実状までは証されないと懸念したアメリカ側の策である。ジェフが保護したとわかった時点で、管理人の孫を装い近付いた。ナデイアの孫娘シンシアは麻薬中毒患者の施設に収容されており、その費用面で困っていたところに付け入ったのだ。拘束が相手に知られないよう一度身を隠すために、ジェフとの行動が隠れ蓑になるはずだった。 「あんたの言う、テロ組織とやらは? ヨーロッパからアメリカに来た時点で、心配は無くなったんじゃないの?」 「馬鹿が…っ!」 男が吐き捨てた。 「奴等の本拠地はアメリカだ、とうにマークされているよ。あんな事故を起こさなければ、無事ノルウエーに連れて行くことが出来たものを。もし彼女が奴らの手に渡る危険があれば、抹殺せねばならん。わかったら行き先を教えるんだ」 シンシアの肩から力が抜ける。が、直ぐに気を取り直して男を睨んだ。 「本部に応援を頼んで後を追うわ。彼らは我々が守る、あなた達からもテロ組織からもね。殺させはしない」 銃を収め、シンシアは駐車場に止まっていたランドローバーに乗り込んだ。運転席の仲間は、窓から狙っていた銃口を下ろし車を出す。ミラー越しに、男が携帯で話す姿が遠ざかった。 ◇◇◇ 発信器の所在をキリアンに頼んで確かめると、ダッシュボードの奥とシートの下に薄いカードのような金属片が二枚見付かった。 ジェフはそれを力任せに折り曲げ、忌々しそうに窓から外に放り出すと黙り込んだ。重苦しい沈黙を乗せ、車はワシントンを迂回して進路をリッチモンドに向ける。 「あの女は俺の素性を知っていた。敵か味方かわからんが、このままお袋の所に行くのは危険だな、待ち伏せされているかもしれん。それにしても迂闊だった、信用した俺の責任だ」 苦渋の表情で、ジェフが呟く。黙って頷きながらも、アキラの胸中は複雑だった。シンシアが敵とは思えないが、その正体が不明のまま危険を冒すわけには行かないとわかっている。しかし、ジェフがこれからどうするつもりなのか不安を口にして、弱気を悟られるのは厭だった。 「心配するな、アキラ。今夜はリッチモンドのモーテルに泊まって、明日早く空港へ行くつもりだ。キューバでコーヒー園をやってる叔父の話をしただろう? 現地では結構な有力者で輸送用のでかい船も持っているんだぜ。飛行機でマイアミまで行けば、パスポートが無くても何とか向こうに渡る段取りを付けてくれるはずだ」 アキラとキリアンの不安を少しでも軽くしようと、努めて明るい口調で言いながらジェフは顔を歪めて笑う。だがアキラは今にも後方に、黒いコートの男かシンシアの仲間の車が追ってきているのではないかと落ち着かなかった。キリアンも同じ気持ちらしく、しきりに後ろを気にしている。ふと見ると、片手はしっかりとアキラのシャツを握りしめていた。そういえば、ポートオーソリティーで初めてあったときもシャツを掴まれた。 小枝のような細い指を包むように、アキラは自分の手を重ねた。少し、安心したかのように微笑むキリアンに、自分の弱気を恥じる。きっと何とかなると、その手に力を込めた。 日の落ちる少し前に空港近くのモーテルに宿を取り、なるべく表通りから目に付かないところに車を置いて部屋に入った。途中のデリでテイクアウトしたベトナム風焼きそばでアキラは夕食を済ませたが、やはりキリアンはあまり口にしようとしない。 「少しでも、食べないと」 優しく諭すように言葉をかけると、やっとクリームチーズをはさんだベーグルを食べ始めた。 「おまえには、少し気を許してるようだな。素直じゃねぇか」 パストラミ・サンドをかじりながら窓の外を伺っていたジェフが、からかうように笑う。つい癇に障って睨み返すと、ジェフは肩を竦めて決まり悪そうに再び窓の外に目を向けた。 「とにかく何か食っとかないと、身体がもたないからなぁ。明日は早い、飯を食ったら二人はベッドを使ってもう寝ろ」 「あんたは?」 「俺は外を見張っている。なぁに、これでも優秀な歩哨だったんだぜ、一晩や二晩寝なくても何ともない」 そう言って笑いかける顔を見て、アキラは改めてジェフに出会えたことを感謝した。この人の良いアメリカ人がいなければ、今頃どうしていただろうか? 目の前でキリアンを連れて行かれ、正体のわからない男達に拘束されていたかも知れない。すぐに開放されたとしても、釈然としないままに帰国の途についていたかも知れない。今、自分のしていることに後悔はなかった。何でも出来そうな気がした。しかし……。 「ところでアキラ……おまえはリッチモンド空港からニューヨークに戻れ。そして日本に帰るんだ」 今までと違う、断固としたジェフの口調にアキラは不意を突かれた。 「キリアンが安全だとわかるまで、俺も付き合う。あんただって、そうするべきだと言ったじゃないか!」 「足手まといだ」 恐れていた、言葉だった。 「シンシアと名乗る女といい、暑苦しい黒服の男といい、あんな連中を相手に逃げるには素人のおまえがいたんじゃ邪魔なんだよ。キリアンだけなら、抱えて逃げることもたやすい。だが、ガキ二人の面倒を見る自信はねぇんだ。おまえは所詮、平和な国で育ったお坊ちゃんだ、この先一緒にいると怪我だけでは済まなくなる」 アキラは、返す言葉を失い唇を噛んだ。悔しさと情けなさが込み上げて、目尻に浮かびそうになる物を堪える。何でも出来る気が、していたのに。 「おまえは、あの子を俺の所に連れてきた。この先は俺に任せるんだ、それがキリアンを助けるために神様が仕組んだ思し召しってやつさ」 窓から離れ、ジェフは優しくアキラの頭に手を置いた。 「良くやった」 これ以上、ガキ扱いはごめんだと見上げれば、ジェフの小さな目が父親の慈しみを持って見つめている。心から身を案じてくれていると察し、渋々アキラは俯いた。 「……わかった、あんたの言うとおりにする」 傍らで話を聞いていたキリアンの手がそっと、アキラの背中を撫でる。 「お願いがあるの、アキラ。今夜眠るまで、あなたのカメラを貸して貰えないかしら。私には父も母もいなくて家族の暮らしがどんな物かわからない。だけどそのカメラには、とても暖かな家族のイメージがたくさん入っているから、せめてそのイメージを私に貸してほしいの」 足下のバックからカメラを取りだし、アキラは電源を入れてみた。しかし撮影可能を知らせる液晶は暗く、軽くシャッターボタンに触れてみてもオートフォーカスの回る音はしない。 「駐車場で転んだとき、壊れたのかも知れないな。記念写真でも撮ろうと思ったのに」 苦笑してカメラを手渡すと、両手で大事そうに受け取りキリアンは微笑んだ。 「かわいらしい男の子が二人見えるわ。一人は2歳か3歳、もう一人は10歳くらいかしら。小さい方の男の子は、キモノを着ている」 「多分俺と、弟だ。弟の七五三のお祝いの時だろうな」 「弟さんの名前は?」 「悠斗だ。今はもう十歳だから、その時の俺と同じくらいの背格好だよ」 「とても、かわいい。それに優しそうな女性、お母様ね。笑っている」 「カメラを向けたときだけさ。普段は怒ってばかりでちっとも優しくなんか無いけどな」 くすりと、キリアンが笑った。 「お父様も素敵な方だわ。ご家族を、とても愛していらっしゃるのね……」 「ああ、それは違うよ」 不愉快な語調でアキラが応じると、キリアンは驚いたように目を見開いた。 「父さんは、家族を愛してなんかいない。確かに昔は仲の良い家族だったさ、だけど今は……」 銀行員だったアキラの父は、取締役のポストに就いていたが支店の不祥事で責任を取らされ退社した。その後、証券会社に再就職したものの上手くいかず、家庭で暴言や暴力を奮うようになったのだ。いつも標的になるのは、何も言わない母と小さな弟。それを見るのが嫌でアキラは寮のある高校を選び、家を離れた。 「どんな家族でも、居てくれることが幸せだわ。間違いを正すことも、解り合うことも、愛し合うことも、出来るじゃない……」 「キリアン……だけど俺は……」 キリアンの眼から、また大粒の涙が落ちる。 「だって……私には何もない、誰もいない。ずっと、ずっと……一人だった」 細い肩を震わせて押し殺した嗚咽を漏らすキリアンを、アキラは強く抱きしめた。こんな風に、どれだけ涙を流してきたのだろう。安全だと解るまで、出来れば側にいてやりたかった。しかし自分の存在が危険を招くとあっては、叶わずとも諦めなくてはならないのだ。 「ジェフと安全なところに行けば、友達が大勢できるよ」 「おう、任せておけ」 アキラの慰めにジェフが相づちを打った。キリアンはアキラを見つめて少し微笑むと、カメラを抱いて目を閉じた。 ◇◇◇ 翌朝早く、ジェフはキリアンをモーテルに残しアキラと空港へ向かった。飛行機のチケットはモーテルからネットか電話で取ることが出来たのだが、所在が知られることを恐れて直接空港カウンターに行くことにしたのだ。 「便利なのか不便なのかわかりゃしねぇ。俺のように、ろくなハイスクールしか出てなくても今時コンピューターが使えないとどうにもならなくてなぁ。だがそのために、どこの誰が何をしようとしているのか、知りたい奴には筒抜けだ」 追っ手の正体は分からない。しかし強力な組織力を持って、近隣のモーテルからチケットを取ろうとする人間を調べることなどたやすいに違いない。 「俺も何度かこの空港を使ったことがあるが、ニューヨーク行きは何本もある。陸路を行くよりは安全だろう。ただマイアミ行きはあまり本数が無くてな、うまく早い便をとれればいいが」 アキラは無表情にジェフの話を聞いていた。バックの中には壊れたカメラがあり、役に立たなかった自分がいる。それでも、もう二度と会うことの無いであろうキリアンは別れしなに首に手を回し「あなたのおかげで自由になれたし、思い出も貰った。ありがとう」と言って頬にキスしてくれたのだ。ふわりとした甘い空気と、抱きしめた腕に残る感触が胸を締め付ける。 「カメラ、壊しちまって悪かったな」 突然、すまなそうに呟いたジェフに、アキラはキリアンの影を払った。 「いいんだ、たぶん直せると思うし。あの時あんたは俺を助けてくれた」 駐車場でアキラを突き飛ばし、覆い被さるように銃弾から庇おうとしたジェフの巨体を思い出してアキラは少し笑った。 「そうか、直るといいな。大事なもんなんだろう?」 「俺の初めてのカメラだ。いろいろな思い出があったけど、おかげでまた一つ増えた。それに……」 今までは、好きと言うだけでただ漠然とシャッターを押してきた。アメリカに来たのも特に強い目的があったわけではなく、漠然とした何かから逃げ出したかったからだ。だが今は、何から逃げようとしていたかが解る。目的を持って写真を撮りたい、そんな強い思いがある。このままでいるのは厭だ。キリアンのために何も出来なかった自分にも、出来ることがあるはずだ。それを見つけたい。 言葉尻を濁らせたアキラに、ジェフが訝しむ目を向けた。 「それに? 何だ?」 「あっ……うん、アメリカで頼もしい友達が出来たしね」 「それは、俺のことか?」 「ああ」 はっはっは、と、ジェフが笑う。 「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか。俺達は友達だ、もうガキ扱いは二度としねぇよ」 「そう願いたいな」 肩を竦め、すましてアキラはそう言った。 ◇◇◇ 空港の駐車場に車を止め、アキラとジェフは国内便のカウンターに向かった。 「ニューヨーク行きならデルタが一番早いか?」 目算を付けて周りを見回し、デルタ社のカウンターを見つけたその時。 「よお、ジェフ。こんなところで貴様に会うとは思わなかったぜ、元気にしていたか?」 いきなり背後から声をかけられ、驚いたようにジェフは振り返った。すると、いかにも親しそうな笑みを浮かべた男が、女のような歩き方で肩を揺すりながら近づいてくる。背の高い痩せぎすな体格。細い顎に薄い唇。獲物を追う猟犬のような鋭い目は、表情に反して笑ってはいない。危険を知らせる信号が、アキラの脳裏を走った。ジェフも警戒している、見知った人物でないことは確からしい。 「あんた、誰だ? 人違いじゃないのか?」 「おいおい、薄情なことを言うなよ。俺はなぁ……」 痩せぎすの男は言い終わるより早く、ジェフの脇腹に鈍く光る黒いものを突きつけた。油断した、と思う間もなく屈強な体格をした三人の男に挟まれ身動きが封じられる。身なりは普通だが、獣臭い感じのする三十歳前後の男達だ。 「《リーダー》はどこだ? おまえが連れ回しているはずだ」 「シンシアの、仲間か?」 ジェフの問いに、痩せぎすの男は唇の端を上げて笑った。背筋が凍る、残忍な笑顔。シンシアの仲間にしては荒っぽいやり方だが、黒服の男のような軍人の匂いはない。 「シンシア? ああ、ボルティモアのスタンドで一緒にいた女だな。コンビニで捕まえようとしたが上手く逃げられてしまった。あの女は、どこの組織の者だ? 《リーダー》と一緒にいるのか?」 スタンドのコンビニでシンシアに絡んだのがこの男だとすれば、かなり前からマークされていたことになる。第三の追っ手だろうか。そもそもキリアンは、何かから逃れるためにアメリカにきたらしいが、この男達がそうなのか。 「しつこく追い回すには、まだまだ色気不足だと思うがねぇ……。いったい、あの子のどこに惚れてるんだ?」 痩せぎすの男は唇を舐め、目を細めてジェフを見た。 「色気に勝る、宝があるのさ。さっさと居所を吐かないと、あの坊やと一緒にチェサピーク湾で魚の餌だ」 「この時期、海水浴も悪くない」 「貴様が良くても、あのガキはどうかな?」 男が合図をすると、アキラの肋骨の間に銃口がねじ込まれた。内蔵を圧迫する硬い異物に、全身が総毛立つ。抵抗すべきかと目で問えば、ジェフは小さく首を振った。だがその顔には、焦燥感が滲んでいる。 「あいつは関係ない……ただのヒッチハイカーで、ここまで乗せてきてやっただけだ」 「ほう、では二、三発プレゼントしてチェサピーク湾に捨てるとしよう。顔が知られては困る立場なのでね」 「やめろっ!」 大声を出したジェフに向かい、男は口元に指を立てると嬉しそうに言った。 「しいっ、ここで騒がれたら困るんだよ。これから大声を出せる場所に連れて行ってやる、そこでゆっくりと聞いてやるよ。のたうちまわり、命乞いする悲鳴をな」 ぞっ、とするような狂気の笑みを男は浮かべた。こいつらは、シンシアや黒服とは違う。まともな連中じゃない。アキラの背に、冷たい戦慄が走った。 ◇◇◇ 黒いランドクルーザーの中は運転席と助手席の他にシートはなく、ドアや天井には鉄板がビスで止められていた。広く開けられた空間の中央には三脚を固定した台座が据えられ、外に向けられた小さな椅子が設置してあった。ジェフに先だって車に乗せられたアキラは、その物々しい内装を不思議に思う。 痩せぎすの男は助手席に座り、四人のうちで一番若そうな男が運転席でエンジンをかけた。自由を奪う拘束はされなかったが、両脇から銃口を向けられては身動きがとれないことに代わりがない。素直に従ったのは、この連中に狂気の匂いを感じたためだ。躊躇い無く周りを巻き添えにして暴力をまき散らす、そんな匂いだ。 台座を挟んだ向かいに座るジェフが居心地悪そうに身体を動かすたび、脇の男が銃口をちらつかせた。どこに連れて行くつもりなのか? 目的はキリアンらしいが、この男達には渡せない。最も悪い事態が起こる、そんな予感がする。 「これは機銃の台座のように見えるなぁ。あんた達は何者なんだ? 随分と物騒な連中には違いないが」 リーダーらしい痩せぎすの男に、ジェフが声をかけた。助手席から振り返った男は、ジェフの横で銃口を上げた見張りを手で制す。 「立場が解っているのかね? 情報を知りたいのは我々であって、貴様らでは無い。まあ、ここに《リーダー》がいれば、その台座にあるべき物が〈FN MAG58〉だとすぐに解っただろうが」 「車載改良型機関銃……か、おまえらテロリストだな」 くっ、と、男の口元が歪んだ。 「その呼び方は、本意ではないな。思想を開放する者と言ってもらおう」 「ふざけやがって!」 激情に駆られ立ち上がろうとしたジェフの首の付け根に、がつり、と〈S&W M52〉のグリップが振るわれた。呻き声を漏らし蹲るジェフに、アキラは息を飲む。これまでとは違う、逃れられない暴力。酒場の爆発音やコンクリートに撥ねた銃弾に現実感はなかった。しかし今、肉体を打ち据える音と苦痛に歪む顔に、生々しい恐怖をおぼえて愕然とする。確実に迫る危機感は現実のものなのだ。 車は空港からのハイウェイを外れ、延々と続くのどかなトウモロコシ畑を抜けて人気のない森に入った。運転手は新しい轍がないことを確かめ、訪れる者の無い場所と判断したのか少し開けた場所に車を止めると降りるように促す。 それぞれ銃を持つ四人の男を相手に、勝機はないように思えた。ジェフの〈S&W M65〉は車に乗るときに取り上げられ、アキラの〈SIG〉は万一を考えてキリアンに渡してある。 少し道から外れたところまで歩き、ごつごつとした岩と木の根が隆起した足場の悪い場所で木の幹にジェフを縛り付けるように命じると、痩せぎすの男がホルスターから銃を取り出した。おそらくアキラの命と引き替えに、キリアンの居所を聞き出すつもりなのだろう。 今まで味わったことのない恐怖に膝が震えた。みっともない、と、抑えようとしても抑えることが出来ない。アキラは血の滲むほど唇を噛み、両手を握りしめて銃口が自分に向けられるのを覚悟した。 ぱん、と、乾いた音が、木々の間にこだました。その瞬間、ぎゅっと閉じた瞼を、ゆっくりと開く。何故だ? 何も感じない。 「私はこれでも紳士でね、むやみに子供を傷つけたくはない」 見ると、左足の太股から血を流し、低い呻き声を漏らしているのは後ろ手に縛られたまま身体をくの字に曲げたジェフだった。 「ほざきやがれっ!」 ジェフが吐き捨てる。と、続けざまに二度の銃声が響いた。男は手にした〈BERETTA M92F〉の硝煙を嗅ぐように顔に近付け、アキラに向かって笑った。 「左足、右足、左肩、次はどこにするかね? この男は退役したとはいえ軍人だ、《リーダー》の価値を考えれば君の命など取引材料にもならないだろう。しかし普通の旅行者が、命を惜しんでも恥にはならない。連れの少女の居場所を教えたまえ、悪いようにはしない。さもなくば……」 「駄目だ、アキラっ!」 叫び声と同時に、ジェフがのけぞるのがわかった。四発目の弾を右肩に受けながらも、声を上げるのを耐えるジェフの足下に血溜まりが広がっていく。 「居所さえ教えてくれれば、君達を殺すつもりはないんだよ。我々は《リーダー》を彼女の生まれ故郷に連れて行き、大事に扱うと約束しよう。今までのように軍の施設で寂しい思いなどさせない、あの子のためになることなんだよ。このアメリカ人は、所詮国益のために我々に渡したくないのさ。信用して貰えないかな?」 男の言うことを、信用は出来なかった。しかし黙っていても、いずれキリアンの居るところはわかってしまうだろう。アキラは迷っていた。もしかすると、本当に殺さないでいてくれるかもしれないと、期待が頭をよぎる。 「信用するなっ! 相手はテロリストだ!」 〈BERETTA M92F〉が、二度火を噴いた。ジェフの両脇腹から、じわりと血が滲み出る。 「決断は早めにしたまえ、死んでからでは遅いのだよ」 火のように熱い、その銃口がアキラの眉間に押しつけられた。頭の中が真っ白になり、そのじりじりと焼けるような熱も感じないまま、全身の力が抜けていく。父と、母と、弟の顔が、浮かんだ。奥歯が震え、苦い唾液が口腔内を満たす。ごくり、と、それを飲み込みアキラは口を開いた。 「モーテルに、いる」 口の端を上げて満足そうに笑う男の顔が、虚ろな目に霞んだ。 「では案内して貰おう」 二人の仲間をその場に残し、痩せぎすの男はアキラを車に乗せた。 「乱暴な真似をして、悪かったね。あのジェフという男は仲間がすぐに病院に連れて行き、手当を受けさせるから心配はいらんよ。君も《リーダー》の所在を確かめたら空港に送ってあげよう。カザック少佐に取り戻されるよりは、我々と来た方があの子のためだ。少佐は《リーダー》を殺すつもりだったからな」 「カザック……少佐?」 男の言葉に、アキラは小さく呟いた。ぼんやりとした思考が、バスターミナルとガススタンドで見た黒服を思い浮かばせる。 「キリアンを、どうするつもりなんだ。よってたかって追い回して、ただの女の子じゃないか」 「キリアン? ああ、名前があったのか」 その冷たい言葉で、男がキリアンを人としてではなく物として認識していると明らかにわかる。 「ただの女の子でないから困る。それでなくても少佐はやっかいな相手だ、《リーダー》を手に入れた方が戦いに勝つ」 どこの国の何の戦いなのか解らないが、キリアンをそんな連中に渡してしまうことになるのだ。だが今更、後悔しても遅い。モーテルの場所を自分は言ってしまい、車はそこに向かっている。 もう、どうすることも出来ないと、諦めるしか無かった。男達にアキラを見逃す気などはない、ほんの数時間死ぬのが先送りになっただけだ。仲間が病院に連れて行くなど詭弁にすぎず、今頃はジェフも、あの森で殺されているに違いないのだ。 だが利用されることになっても、キリアンが生きていてくれればそれでいいと、 アキラは深く息を吸った。すると何故か今までの恐怖心が消え、妙に冷静な気分になる。自分に、こんな度胸が据わったところがあるとは思わなかったと苦笑して、胸の中、両親と弟に軽率な行動を詫びていた。しかし、ふと、この時になってジェフの言葉が記憶に蘇る。 『俺達は友達だ、もうガキ扱いはしねぇよ』 (ごめん、あんたの最後を見届けることが出来なかった) 『首を突っ込んでおいて、逃げるつもりか?』 (仕方ない、これ以上どうすればいいかわからないんだ) 『なりはちいせぇが、一人前の男だろう? 諦めてんじゃねえよ』 はっきりと、声が聞こえた。はっ、としてアキラは周りを見回したが、ジェフの姿があろうはずはない。 アキラがキリアンの居場所を話した時点でまだ生かされているのは、人質としての利用価値があると判断されたからだ。カザック少佐と呼ばれている黒服も、キリアンを始末する事は躊躇わないかもしれないが、立場上他国の旅行者をむやみに殺すわけにはいかないだろう。 一度は確かに諦めた。だが今なら相手は二人だけだ、まだチャンスがあるかも知れない。諦めは逃げることだ、ただ死ぬのを待つものかと、気持ちを落ち着けて思い直す。俺はジェフに、何とかしてみせると言ったはずだ。抵抗は無駄に終わるかも知れないが、諦めるにはまだ早い。アキラは決意を新たにした。 ◇◇◇ モーテルに着いた男達は、アキラの言葉に偽りがないか受付で確かめると一階にある五部屋のうち、一番奥のドアをノックした。 細く開けた隙間から外を伺い、アキラの姿を目にしたキリアンが一瞬驚いたように目を見開いた。が、笑顔で迎え入れようとして、それはたちまち驚愕の表情に変わる。 「ほう、これはかわいらしいお嬢さんだ。おまえが《リーダー》だな」 銃口を向けられ呆然と立ちつくすキリアンは、アキラを見つめ、すがるような小さな声で言った。 「ジェフ……は?」 アキラは項垂れる。 「察しがいいな、奴は今頃冷たい土の下さ。ノーフォークで船に乗ったら、おまえも同じ所に行かせてやるよ。なぁに、海の中も土の中とかわりゃしない。さあ、お嬢さん、我々と来てもらおうか」 「いやっ……!」 「怪我はさせたくない、面倒だからな。おとなしく来るんだ!」 アキラに銃を向けていた仲間が、キリアンに歩み寄るとその手を掴む。自分への注意がそれた、その一瞬の隙をアキラは逃さなかった。 素早い動作で、銃を持つ男の二の腕を左手で掴み、右手で手首をひねり上げる。そのまま後ろに回り込んでねじるように床に払い倒した。 「ぐっ…はっ!」 胸から叩き付けられて、男は苦しげな息を吐く。取り落とした銃を急いで拾い、アキラはそれを倒れたままの男に向けた。 「キリアンを放せ!」 小柄な少年の反撃など、予想もしていなかった痩せぎすの男は一瞬意外そうな顔をした。だが口元を歪ませ、ゆっくりとアキラに歩み寄る。 「おまえに銃が扱えるのか?」 「ちゃんと習った、動くと仲間の命はないぞ」 まるで小学生のような返事だと内心思ったが、目の前の男に意識を集中させる。 「カラテか? ジュードーか? 少しはやるようだが……」 「合気道だ」 「実践としては経験が足らないようだな、直ぐにとどめを刺さねば意味がないっ!」 あっ、と思う間もなく、中腰の姿勢から懐に飛び込んだ男は、両脇に手を添えただけでアキラを背中越しに投げ飛ばした。宙を飛んだアキラは受け身の体勢を取る間もなく、ベッド脇のチェストに叩き付けられる。 「……痛っ!」 背中の痛みをこらえて立ち上がると、銃を取り戻した男が嬉しそうに笑った。 「生憎だったな、形勢逆転とはいかなかったようだ。元気のいい子供は私も嫌いじゃないが、この先下手に邪魔されると面倒だ。君とはここで別れるとしよう」 「ガキ扱いするな! 俺はこれでも十八だ!」 最後の虚勢に、痩せぎすの男は表情を変えた。冷たい、無機質な目がアキラを見下ろす。 「そうか、それは悪かった。……では遠慮はいらんな、相手が子供でないなら私も気が楽だよ」 万策つきた。ジェフ、俺はもう……キリアンを守れない。アキラは覚悟して、キリアンを見た。まただ、また泣いている……とうとう一度も明るい笑顔を見られなかった。アキラはキリアンから逸らした目を、男に向けた。 ばん、と、耳を裂く爆発音がした。が、それは銃声ではなかった。飛び散った窓ガラスと共に、黒い物体が飛び込んできたのだ。 「くそっ!」 もうもうと立ちこめる煙幕の中、忌々しく叫んで入り口に向き直った男は、自分に向けられた複数の銃口を目の当たりにして、ぎりっ、と歯噛みした。 「貴様に会えて嬉しいよ、マックス」 そう言って進み出た黒服の男に、アキラは小さく声を上げる。 「ちっ、私は嬉しくないがねカザック少佐。このガキの抵抗で、十五分ほどのロスタイムをあんたに与えてしまった」 「ふむ、貴重な十五分だったな、私には十分だ」 ちらりと、カザック少佐はアキラに目をやった。 「君の名は?」 「須刈アキラだ」 挑むように睨み付ける。もとはと言えば、こいつからキリアンは逃げてきたのだ。キリアンは、結局カザック少佐の手に落ち始末されてしまうのか? 「アキラ……か、覚えておこう」 カザック少佐は、マックスと呼ばれた男とその仲間を部下が鮮やかに拘束する様子をこともなげに見ながら、キリアンに歩み寄った。アキラは素早く、その前に立ちはだかる。 「キリアンを、どうするつもりだ。殺すのか?」 眉をひそめアキラを見た、薄い灰色の目がすっと細くなる。 「マックスは拘束した、その必要はない。どけ」 だがアキラは動こうとはしない。ふっ、と、カザック少佐は冷笑を浮かべた。 「何のつもりだ? ポートオーソリティーでは油断した部下が無様な体をさらしてくれたが、今度はそうはいかんぞ」 「キリアンを自由にして欲しい」 「貴様の関知することではない」 二人のやりとりをじっと聞いていたキリアンの手が、アキラの肩に置かれた。 「いいの、アキラ。ありがとう……」 そう言って笑った顔は妙に明るく、幸せそうに見えてアキラは言葉を失う。本当に、良いのか? 何故そんな顔をするんだ? 「少佐、バスルームで少し身支度する時間を下さい。あまり、ひどい顔のままで彼らと別れたくないんです」 目を泣き腫らせた顔を見て、カザック少佐は黙って頷いた。 「キリアン!」 バスルームの戸を開けようとしたキリアンの手が止まった。その聞き覚えのあるだみ声は……。 「ジェフ、生きていたのか!」 シンシアに肩を支えられ、入り口に立つジェフの姿にアキラは歓喜の声を上げた。 「馬鹿野郎、死んでたまるか。間一髪でシンシアに助けて貰ったんだがな」 「あと十分、見つけるのが遅れていたら危なかった。不本意だけど、少佐と協力したから間に合ったようなものね。ともあれタフな男だねえ、かなりの出血だったのに」 呆れた口調のシンシアに、アキラは駆け寄る。 「キリアンを、助けられないのか? もしかして、あんたなら彼女を助けられるんじゃないのか?」 シンシアは、その訴えに辛そうな顔で答えた。 「我々に、彼女の立場を擁護する権利はないのよ」 ジェフが無言で、アキラの頭を乱暴に撫でた。 「シンシアから話は聞いたが、どうにもならん」 「くそっ!」 やり場のない怒りを拳に込めて、振り上げる。だが叩き付ける先がみつからない拳を、ごつごつとしたジェフの大きな手が優しく包み込んだ。 「二人ともありがとう、私、行きます。短い間だったけど、何だかお父さんとお兄さんに守ってもらっているようで、とても嬉しかった。ずっと、忘れない」 キリアンが微笑んだ。精一杯明るく、そして、とても寂しく。だがバスルームのドアが閉めた瞬間、厭な予感がアキラを突き動かした。急ぎ駆け寄り、ドアに手を掛けたその時。 くぐもった破裂音が、聞こえた。 カザック少佐が前に立つアキラを突き飛ばし、バスルームに飛び込む。 「しまったっ! なんて事をっ!」 あり得ない、あって欲しくない。心の中に呟きながら、アキラはのろのろと立ち上がった。が、その願いは虚しくうち砕かれてしまった。バスルームから出てきたカザック少佐が抱きかかえるキリアンのこめかみから、幾筋も伝い落ちる、あざやかに赤い線条。 「この子に銃など持たせおって!」 怒りを宿した灰色の目が、責めるようにアキラを見た。絶望と恐怖。全身を虚脱感が襲い、手が震えた。 「うっ……あっ……あ、あっ!」 息が、出来ない。掻きむしるように、咽をおさえる。 「アキラっ!」 シンシアの手を振り払い、必死に足を引きずりながら駆け寄ったジェフが、倒れ込むアキラを支えた。 二人に冷たい視線を投げ、カザック少佐はキリアンを抱いたまま部屋を出た。 何も、言うことが出来なかった。 ◇◇◇ 己の無力さに絶望し、自暴自棄になれるならまだ、先に希望を見ることが出来る。記憶は薄れず残ったとしても、その時に感じた怒りや悲しみは曖昧になっていくからだ。そして、やがて光明を見いだし、立ち直ることが出来るかも知れない。 しかし責めることしかできない場合、なお深く傷をえぐり、逃れられない自己矛盾に陥り、崩壊か死を選ぶことになるだろう。 崩壊してしまえ、と、願いながら、アキラは白い壁を見つめた。眠ることは出来なかった。あるいは、意識が混濁しているとき、それが今の自分にとっての眠りなのかも知れなかった。記憶が白く取り変わるわけがないと知りながらも、目の前にあるものが形を成している時間、ただじっと壁を見続けた。目を閉じれば救うことの出来なかった少女の青白い顔と微笑みが、真っ赤な亀裂に引き裂かれる幻像をみて、声にならない声をあげる。思考を放棄して、どれだけの時間が経ったのか。 アキラの扱いに、どのような機関のどういった経緯があったか知る由もない。一人、美しい湖の見える郊外の病院らしきところに連れてこられて部屋の一つを与えられた。シンシアの組織か、カザック少佐の関連か、もう、どうでもいいことだった。 バスターミナルで正義漢を気取り、キリアンの手を取らなければよかった。ジェフのアパートに戻らなければよかった。車に乗らなければ、一人で置いて空港に行かなければ……。もし、の言葉を反芻し、逃避思考から所在を言ってしまった自分を責め、憎んだ。そして疲れ果て、死を望み、その手段を考えることに時間を費やすことで、皮肉にも正気が保たれたのだった。 考え及ぶ、あらゆる手段を講じて死を試みたが目的を果たすことは出来きなかった。繰り返す暴挙に、とうとう拘束服と流動食で対応すると脅された。それでもいいと思ったが、強硬手段を取られることはなく、自らを傷つけないようにクッション材で覆われた白い部屋で、監視されるようになった。 日に二度、カウンセラーが訪れた。優しそうな鳶色の瞳をした二十代後半の男性で、会話の糸口を掴もうと親しい友人のように、とりとめのない話を一時間ほどして帰る。しかし部屋を出るとき、彼はいつも落胆の溜息をつくのだった。 今日もまた午後のカウンセラーが訪れる時間になったが、意識を向けない英単語は意味を持たない雑音でしかない。アキラはベッドに腰掛け片膝を抱えたまま、壁と自分の間の空間をぼんやりと見つめていた。 ドアが開き、カウンセラーが入ってきた気配がしたが、顔も向けない。 「お客さんだよ、アキラ君」 異国の言葉は拒否されていた。だが……。 「よう、アキラ。あまり元気じゃなさそうだな、冴えない顔だ」 その声に、ゆっくりと意識が覚醒していく。まさか、と、思いながら声の方に目をやった。 「どうした? 鼻っ柱の強いおまえらしくないなぁ、まさか俺の顔を忘れたとか言うなよ、一言もしゃべらないそうだが」 頬の傷を歪めて笑う、ジェフの姿がそこにあった。 「……そうだな、あれからもう五ヶ月近くになる。英語を、忘れちまったか? 何とか言えよ、なぁ」 無言のアキラに近付くと、その頭に手を伸ばす。 「随分と、髪が伸びたな。切らせないそうだが……」 「……触るなっ!」 怒りを持って撥ね付けた低い声に、手は宙で止まった。 「あんたのせいだ、全部あんたが悪いんだ! だって俺は……」 俺は、何だ? 悪いのは全て自分だ。ジェフは精一杯やってくれたじゃないか。命を賭して、キリアンを救おうとした。俺にはそれが出来なかった……怖かったんだ。 ジェフは並んでベッドに腰掛け、アキラを抱いた。 「俺も、おまえも、悪くない。ただ少し、キリアンが弱かったんだよ。少佐の下を逃げ出した時点で、キリアンの秘匿性は無くなった。だから少佐はシンシアと協力して俺達を助けに来ることが出来たんだ。本心でキリアンを救い、もっと自由になれるように計らうつもりだったらしい。だがあの子は、少しの時間が耐えられなかった。希望を持って生きようとしなかった。俺やおまえが作った時間を、諦めで捨ててしまったんだ」 言葉が、渇いた感情に少しずつ染み込んでいった。 「おまえは強い、乗り越えて生きろ。俺の見込んだ、男だからな」 「うっ……うっああ……っ……! わああぁぁ……っ!」 抑えていたものが、堰を切って流れた。アキラはジェフにすがりつき、声をあげて泣き続けた。 カウンセラーの言葉を受け入れ、数々の書類に同意し、一ヶ月後にようやくアキラは帰国を許された。夏休みにJFKに降り立ってから半年。日本は桜の季節を迎えようとしていた。 ◇◇◇ 日本の両親には、旅行中に事故に遭い入院していると知らされていた。恐らく捏造された情報だろうが、入院先の町で感染性の高い病気が流行していると、両親の渡米と面会は国の厚生省から禁じられていたらしい。空港で涙を流す両親に迎えられたアキラは、複雑だが温かい気持ちに満たされた。 自分は変わったと思う。いや、思いたかった。 鏡の前で長く伸びた前髪を掻き分け、眉間に残る三日月型の白い傷跡を事あるごとに確認する。これは刻印だった、自らが犯した過ちの贖罪なのだ。 今まで見過ごしてきたことに怒りを持つようになった。己の無力を呪い、強くなりたいと願った。だが、真っ直ぐにぶつかることが出来なくなっていた。 母や弟に奮われるう暴力を、今までは父の身体を抑えて止めていた。ある日、些細なことで暴れ出した父が母を殴ろうとしたとき、アキラは自然に母の前に立ち振り下ろされた腕を掴んでいた。明らかに反意を持つ行動に父は驚きアキラを罵ったが、昔のような畏怖の気持ちを持つことはなかった。腕を振り回す父をかわしながら、母と弟を守った。 息を切らせ敗北を悟った父親は、憮然として部屋を出て行くと数日家に戻らなかった。それから父は留守がちになったが、やはり母は何も言わない。時折アキラに向けられるもの言いたげな眼は、決して責めてはいなかったが寂しそうだった。 現状は簡単には変えられない。しかし、変えるためにやらなくてはいけないことがある。その為に踏み出す最初の一歩が、果てしなく遠い。少しでも、進みたかった。それしか出来ることはないと、思っていた。あの少女のためにも……。 帰国して半年が経ったころ、一通のエアメールが届いた。差出人の名に心当たりはなかったが、封を切り文面を読んだアキラの手が震える。懐かしい、ジェフ・ヘイワードからの手紙だった。 『日本に来る予定があるので会いたい。直接、渡したいものがある』 胸の奥、刺すような痛みを意識しながら、アキラはジェフが日本に来る日を確かめた。 ◇◇◇ 成田空港第一ターミナルビルの到着ロビーでアキラは、大きな荷物をカートで押しながら次々と旅行者が出てくるところを落ち着かない気分で見つめていた。が、その中に一際大きな体格の人物を認めて片手を挙げる。 「よう、アキラ。久しぶりだな、元気だったか?」 「まあね、あんたも元気そうだ。連絡くれて嬉しいよ、最初は誰かと思ったけど……」 アキラは差出人の名を思い出す。 「むこうでも色々あってなぁ……今はエリック・スペンサーって名前で、コーヒーの卸業者だ」 「あのキューバ・コーヒー、日本に売り込みに来たそうだね。送ってもらった豆を、知人に分けてあげたら評判が良かった。きっと売れるんじゃないかな?」 「ほう、それは嬉しいね。しかし日本に来たのは、他にも用があったからだ。おまえに、渡したい物があるんだよ」 エリックは、手にした大きな旅行鞄の中から大事そうにスチールケースを取り出した。受け取ったアキラが蓋を開くと、クッション材に包まれていたのは〈ニコンF3〉だ。 「おまえが病院に入っている間、俺が預かっていたんだ。専門店で見て貰ったらなおせると言われてな、帰国までに間に合わせたかったんだが」 しげしげとカメラを眺め、アキラは電源を入れた。聞き慣れたオートフォーカスの音。 「どうしても、直接渡したかった。それに……」 肩に手を置かれ、アキラは顔を上げた。そしてジェフの肩越しに人影を見て、驚愕の目を見開く。 白い、コートの少女が立っていた。ニットの帽子からこぼれる、くるくるとした柔らかそうな長い金髪。幼さの残る顔立ちにエメラルド色の瞳。血色のいい赤い唇にはこぼれるような笑みを浮かべ、アキラを見つめていた。が、口元を押さえた少女の目から、みるみる大粒の涙が溢れ出し床を濡らした。 「キリ…アン?」 手にしたカメラを足下に置き、アキラは足を一歩踏み出した。しかしそこから動くことが出来ない。ジェフが少女の手を取り、アキラの前に連れていった。 「メリーアンだ、今の名はな。幸いなことに致命傷にはならなかったんだよ、力は無くしてしまったがね。おかげで今は、俺の娘としてキューバで暮らしている。少佐の計らいだ」 その場に座り込み、両手で顔を覆ったアキラの肩が震えた。少女は膝をつき、その頭をそっと抱きしめる。 救いたかった、救えなかった。守りたかった、守れなかった。ぼやけた焦点が収束し、探し続けていた物が、ようやく見えそうな気がした。 キリアンの背に手をまわし、その温かさと甘い空気をアキラは抱きしめた。空港の喧噪から遮るように、二人をジェフの大きな手が包み込んだ。 |