高得点作品掲載所     穂村 一彦さん 著作  | トップへ戻る | 


<タナトピア>ボクはキミの死体と生きる

 キミの輝くような金髪が好きだった。
 キミの大きな青い瞳が好きだった。
 キミのぷっくりと膨らんだ愛らしい唇が好きだった。
 その口がつぶやく『愛してる』の響きが好きだった。
 キミのことが好きだった。
 この気持ちは決して変わらない。
 キミの髪がもう伸びることはなくなっても、
 キミの瞳がもう何も映していなくても、
 キミの口がもう何もしゃべることはなくなっても、

 キミが死体になっても、
 ボクはキミが好きだった。



 青みがかった柔らかな光が食卓を照らしている。正午過ぎの日光もこの霧を通しては朝の日ざしのように優しい。平和で平穏な春の午後。
 つい浮かれて、らしくもない鼻歌なんて歌ってみる。体を揺らしてリズムを取りながら食器を並べる。
 そんなボクをキミはじっと無言のまま見つめている。そのまっすぐな瞳に、ボクは少し頬を赤らめた。
「だって天気がよかったから」
 わざとらしく頭をかきながら言い訳する。
「そうだ、食事が終わったら、公園に散歩に行かないか? 一緒にひなたぼっこでもしよう」
 それを聞いてキミは心配そうにボクの顔をうかがった。君の不安も分かるよ。つまらない内職で生計を立てている僕らは、気軽に休みがとれるほど呑気なご身分ではない。
「たまにはいいじゃないか。こんないい天気に家へ閉じこもってたらバチが当たるよ」
 珍しく積極的なボクの態度に、キミもようやく納得してくれたようだ。
「よかった……じゃあ、まずは食事にしよう」
 ボクはキミの向かいの席につくと、ナイフとフォークを手にした。パンとサラダ、安いハムと卵という質素な食事を黙々と口に運ぶ。
 キミはただ座ったまま、そんなボクの様子を見つめている。
 何も食べようとしないキミ。
 食器に触れることすらしないキミ。
 でも、いいんだ。全く動かなくてもキミはちゃんと食事をとっている。この村を覆う青い霧。それがキミにとって何よりのご馳走だ。この霧があるかぎり、キミの体は腐ることも朽ち果てることもないのだから。
 これ以上、死ぬことはないのだから。


 村一帯に充満する青い霧。
 この霧には『死体の腐敗を止める』という効果があった。
 その正体は地中から吹き出すガスなのだそうだ。ある特殊な鉱物が地熱によって蒸発してるのだとか。まぁ理屈はどうでもいいし興味もない。
 霧は少し薬品臭いけれど、一年も暮らしていればさすがに慣れた。
 人体に無害とは言い切れないという説もあるが、それもどうでもいい。寿命が縮むくらいなら構わないし、むしろ歓迎したいくらいだ。
 ボクは死ぬまで、この霧の中キミの死体と暮らそう。
 死んだら、今度は天国でキミと暮らそう。
 一年前にキミが病気で死んだことも、いつかはボクが死ぬことも、もう悲しむ必要なんてない。
 結局のところ、ボクらはずっと一緒なんだから。


 ドアを開けると、少し肌寒い風がボクらを出迎えた。
「ほらね。厚着しといて正解だったろ?」
 ボクが問いかけてもキミは黙ったまま。まだすねているみたいだ。
 キミは本当はお気に入りの桃色のワンピースで出かけたがった。久しぶりの外出だし、気持ちも分かるけど。でも春とはいえ、まだ風は冷たいんだ。そう言ってボクは無理やり白いニットのセーターを着せた。そうやって子ども扱いされることが面白くないらしい。
(そんなふうにすぐすねるところが、また子どもっぽいんだけどなぁ……)
 もちろん、これは言わない。キミをますます怒らせるだけだからね。
 大丈夫。きっと散歩してるうちに機嫌を直してくれるさ。
 ボクは車椅子をゆっくりと押した。きいっと錆びた音を響かせてボクらは歩き出す。
(ひざ掛け毛布も持ってくればよかったかもしれない)
 そんなことを思って、我ながら自分の過保護ぶりに苦笑した。
「あら、お出かけかしら?」
 急に上のほうから声がふってくる。
 驚いて見上げると、隣の家のベランダに一人の女性が立っていた。
 お隣のマリアさんだ。いつもは長く広げている黒髪を、今日は後ろで一つに束ねている。天気がいいから洗濯していたようだ。物干しには服がずらりと並んでいた。女物はマリアさんのもので、男物は彼女のだんなさんのものだろう。
「ちょっと二人で散歩にでも行こうかと思って」
 ボクが言うと、マリアさんはうらやましそうに、
「仲がいいのね……うちの主人なんか休日くらい家でゆっくり寝ていたいって起きようともしないんだから。せっかくこんないい天気なのに。ねえ」
 ボクは苦笑した。彼女のだんなさんならボクも会ったことがある。ボクと同い年くらいだった。
(寝ていたい、か……)
 もちろん、彼女のだんなさんが『起きている』ところなんて見たことない。
 だが、それを言うのはタブーだ。
「あら、ごめんなさいね、引き止めちゃって。じゃあ、いってらっしゃい」
「ハハ……じゃあ、いってきます」
 ボクは会釈して立ち去った。しばらくしてから、ちらりと振り返る。マリアさんは洗濯物を干す作業に戻っている。それはどこから見ても、家事に精を出す普通の若い奥さんだ。
 どうなんだろう。マリアさんはまだ理解してるのだろうか。だんなさんはもう目覚めたりなんかしないということに。
 本気なのか、演技なのか。どちらでもいいことだ。
 全てが狂ってるこの村では、『どれくらい狂ってるか』なんて問う意味もない。


 この村に住む人たちは、みんな優しい。それでいて、人との距離は心得ている。踏み込まれたくないところまで踏み込んでくることはない。
 他人を傷つける人なんて決していない。
 なぜなら、この村の住人は全員が傷を抱えているから。もうこれ以上傷つくのは嫌だからだ。
 他人の傷に触れないかぎり、誰も自分の傷に触れてこようとはしない。
『気付かない振り』が、この村の日常。
 たとえ隣人が死体と暮らしていても。
 死体の服を着替えさせて、その服を洗濯していても。
 まるで死体がまだ生きてるかのように話していても。
 決して指摘してはいけない。
 こちらが指摘しないかぎり、マリアさんもボクの恋人について何も言わない。
 それがこの村の暗黙のルール。
 過去も、真実も、幻想も、死体も。
 全ては青い霧が覆い隠してくれる。
 この村の名前は『タナトピア』
 死体であふれながらも、もっとも死から遠い理想郷。
 世界で一番優しいユートピア。


 ぼくらは公園で小一時間ほど横になったあと、足を大通りへと向けた。
 タナトピアに店は一つしかない。おばさんが趣味でやってるような小さな雑貨店。それだけだ。
 だから仕事を見つけるのには苦労した。村の外まで出稼ぎしようとしても、タナトピアの住人にまともな仕事なんか与えられない。ほとんどの人はボクのように内職で稼いでいる。または遺産や保険金で細々と食いつないでいるか、だ。
 買い物はなるべくおばさんの雑貨店で済ませる。どうしてもそろわない物だけ、村の外まで買い出しに行く。
 あんまり外に出たくないんだ。タナトピアの住人に、世間の人たちはあまりに冷たいから。もちろん買出しはボク一人で行く。ボクだけなら何を言われてもいいけど、キミまで傷つけられるのは我慢ならないから。
「あ……」
 雑貨店に着くと、店先におばさんが座っていた。
「こんにちは」
 ボクが声をかけると、おばさんは「しいっ」と指を口に当てた。
「ごめんなさいねぇ、今ちょうど眠ったところなのよ」
 声をひそめながら、腕の中の赤ちゃんをあやしている。
「あぁ……すいません」
 ボクは小声で謝ってから、赤ちゃんの様子をうかがった。柔らかそうなほっぺたと、小さな手足。今にもすやすやと寝息が聞こえてきそうで。それは本当に、ただ眠っているだけに見えた。
 おばさんは赤ちゃんを軽く揺らしながら子守唄を歌っている。
 ボクには分からない。
 町の人たちはタナトピアをゾンビ村と呼んで忌み嫌う。ボクらを見かけると、侮蔑と嘲りの言葉をぶつけてくる。石を投げられたことだってあった。
 ボクには分からなかった。
 大切な人の死体を地面に埋めて、その土を踏みつけながら愛情も悲しみも忘れてしまう彼らと。
 愛しい我が子を決して忘れることなく、その死体を腕の中で優しくあやしつづけるおばさんと。
 一体どちらが『人間的』だというのだろう。


 夕飯をすませるとボクはキミを寝間着に着替えさせた。最初の頃はなかなか手こずったけど、今ではもう慣れたものだ。
 キミをベッドまで運び、ボクらは同じ布団に入る。
 そしてキミを抱きしめながら眠る。
 冷たいキミの体も、じょじょにボクの体温で温められていく。
 氷が溶けるように、いつかキミの『死』が溶けて消えてしまいますように。
 そんな幻想を胸に、ボクらは眠る。


 誰かの声で目が覚めた。窓の外はまだ暗い。時計を見ると午前二時を回ったところだ。
 こんな時間だというのに、外が騒がしい。誰かが言い争ってるようだ。それはタナトピアでは非常に珍しいことだ。タナトピアでケンカが起きることはない。他人と争ってまで欲しい物なんて、もうないからだ。(あったとしても、それはもう絶対に手に入らない物だ)
 ということは、この声は……何かまずいことが起きているのだろう。
 キミはボクの隣で眠ったままだ。起こさないようにそっとベッドを抜け出す。一応の用心のために、引き出しから拳銃を持っていくことにした。階段を下りると、そっと玄関のドアを開ける。
 きぃという音に、二人は言い争いをやめてボクのほうを向いた。
「あ……」
「……マリアさん?」
 家の外で言い争っていたのはお隣のマリアさんだった。もう一人は年配の男性で、マリアさんの腕をつかんでいる。当然だが、彼女のだんなさんではない。誰だろう?
「離して……ッ!」
 男がボクに気をとられた隙に、マリアさんは男の腕を振り解いた。そしてボクの元へ駆け寄ってくると、背中に回りこんで隠れた。
 自然とボクはマリアさんと男のあいだに立つことになる。男は不審そうにボクをにらんだ。マリアさんはボクの背中をぎゅっとつかみながら、
「ごめんなさい……」
 と謝った。その言葉がボクに向けられたものか、男に向けられたものかは分からなかった。
「誰だ、お前は?」
 男が問いかけてくる。まいったな。この状況で、ただのお隣さんだとか言っても通じるのだろうか?
「隣に住んでる者です。あなたこそ、どなたですか? こんな時間に……」
「お前には関係ない」
 とりつくしまもない。こんな時間に人を起こしといて関係ないもないもんだ。
「あれは私の父です」
 マリアさんが代わりに答えた。マリアさんのお父さん、か……。それだけでボクは大体のところを理解した。タナトピアではたまに起きることだ。
「なるほど……娘さんを連れ戻しにきたんですね?」
「そうだ。何か文句でもあるのか?」
「あります。娘さんはここに残ります。あなたは帰ってください」
 これには父親も、そしてマリアさんも驚いたようだ。目を丸くしてボクを見つめた。
「なぜお前がそんな……マリアとはどういう関係だ? ただの隣人じゃないのか?」
 隣人だ。しかし、『ただの』じゃない。
 タナトピアには色々な過去を持った人が色々な死体を連れてやってくる。共通しているのは、みんな傷を持っているということだ。痛みは分けあえない。でも分かりあえる。大切な人を失った心の痛み。それがタナトピアの住人をつなぐ絆だ。
「お父さん。この人の言う通りよ。私はあの人と一緒に残ります。お父さんは帰って」
「ばかな……あいつは……あの男は死んでるんだぞ!」
 父親の言葉が突き刺さる。マリアさんは顔をゆがめて、耳をふさいだ。
「やめて!」
 全てを拒絶するように叫び、うずくまった。
 ああ、どうして……タナトピアに住んでない人は、こうも他人の心に土足で踏み入ってくるのだろう。どうして、そっとしておいてくれないのだろう。ボクらはただここで静かに暮らしていたいだけなのに。それさえも許されないというのか。
「お前はまだ生きてるんだ! 未来があるんだ! こんなことを続けてたって、死んだ人間は喜びやしない!」
 父親は説得を続ける。それはボクも幾度となく言われた言葉だ。でも、納得したことは一度もない。
 もしも立場が逆だったら。先に死んだのがボクで、キミがボクの死体と暮らしてくれたなら。ボクは感動するだろう。その色あせない愛に感謝するだろう。理屈なんてどうでもいい。そこまで深く愛されたなら、喜ぶに決まっている。
 あるいは、もしも……もしもキミがボクのことを忘れてしまったなら。ボクの死体を地面に埋めて、違う男と並んで去っていったなら。ボクは決して許さない。一生恨みつづけるだろう。
 ボクは自然とマリアさんの肩に手を置いていた。
「……聞く必要はありません。あなたのお父さんには何を言っても無駄です」
「……そうですね」
 マリアさんに手を貸して立たせる。ボクもマリアさんも父親も、早く自分の家に帰るべきだ。
 だが父親は引き止めるように怒鳴った。
「待て! 貴様、汚らわしい手で娘に触るな!」
 ……ケガラワシイ?
 追い討ちをかけるように叫ぶ。
「貴様も女の死体と暮らしてるんだろう? 気持ち悪い男だ!」
 キモチワルイ?
 ああ、ボクには本当に分からない。どうして、そうやって人間を、ただ死んだというだけで、汚いとか気持ち悪いとか言えるのだろう。さっきまで『そんなことをしても死んだ人間は喜ばない』とかもっともらしいことを言っといて、これだ。結局こいつらは死体を物としか思っていないんだ。元は同じ人間だったのに。キミはこんなにも美しいのに。どうして、そんなひどいことが、どうして、ボクらはただ静かに暮らしたいだけなのに、どうして、どうして、
「ひ……ッ!」
 どうして、土足で、どうして、入ってくる、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうし
「やめて!」
「………………え?」
 マリアさんがボクの腕にしがみついている。ボクの指は拳銃の引き金にかけられていた。銃口の先には彼女の父親……
「あ……」
 いつの間に……ボクは……なんてこと……違う。こんなことするつもりは……
「父の無礼は私が代わりに謝ります。だから……」
 ひざから力が抜けた。崩れるように座り込む。マリアさんはボクを抱きかかえるようにかばいながら、父親をにらみつけた。
「帰って」
「マリア……」
「聞こえないの? 帰って。次は私も止めないわよ」
 父親がつばを飲む音がここまで聞こえた。
「お前ら……お前らは狂ってる! 狂ってるぞ!」
 はたから見たら、わめきたてている父親のほうがよっぽど狂人だ。そう思うと少し面白かった。マリアさんの顔を見上げると、
「ええ、そうよ……」
 彼女もやっぱり、
「私たちは狂っている」
 笑っていた。


 ようやく父親は帰っていった。「また来るぞ」とか捨て台詞を残していったけど、何度来たって結果は同じだろう。
 ボクの腰は抜けたままで、そばにマリアさんが付き添ってくれている。まったく、これじゃどちらが助けに来たのか分からない。情けない。
「あの……すみませんでした」
 ボクが謝ると、マリアさんは不思議そうな顔をした。
「何がですか? 謝るのはこちらのほうなのに……」
「いえ、ボクはあなたのお父さんを……」
 殺そうとした。ごまかしようもない。マリアさんが止めてくれなければ、確実に彼を撃ち殺していた。それほど憎かった。
 せっかく忘れていたのに。もう少しで完全に忘れることができたのに。キミがただ寝てるだけだって信じ込むことができたのに。
 もう少しで……完全に……気が狂えたのに……
「あ、れ……?」
 ボクの目から涙が流れている。バカな。キミが死んだときに、もう涙は涸れ果てたと、思って、た……
 マリアさんは隣に座り込み、心配そうにボクを見つめる。
「だいじょ、うぶ、ボクは、泣く、つもり、なんて……」
 声にならない。涙は後から後から流れ出る。おかしい。泣くのは、おかしい。ボクは今幸せなんだから。キミと一緒に暮らせて、不幸なはずはないのだから、だから、泣くのは、違うと、幸せじゃないと、認めてしまう、
「もう、しゃべらないで……」
 そう言ってマリアさんは自分の手のひらをボクに広げて見せた。
「この手は何度となく夫と触れ合った手です。死体の匂いが染みついたこの手を……あなたは汚いと思いますか?」
 彼女が何を言いたいのか分からなかった。ただ逃れられない迫力だけはあった。ボクは無言で首を横に振る。
「あなたなら、そう言ってくれると思ってました……」
 マリアさんの手がボクの頬に触れた。思わず体を固くする。避けようにも金縛りにあったように動けない。
 強烈、圧倒、官能。一年ぶりの『体温』は一瞬にしてボクの感覚を支配する。
「マリ、ア、さん……?」
 マリアさんがボクの顔を覗き込む。その妖しく光る瞳から目がそらせない。マリアさんがゆっくりと近づいてくる。その口が動いた。
「この唇は何度となく主と口づけを交わした唇です。死体の味が染みついたこの唇を……あなたは汚いと思いますか?」
 動けない。答えられない。もう何も考えられない。
「答えてください」
 マリアさんが近づいてくる。ボクはのどからしぼりだすように、乾いた声で言った。
「思わ、ない」
 答えた瞬間、彼女の唇がボクの口を覆っていた。


 部屋に戻ると、キミは眠ったままだった。起こさないように気をつけながら横にもぐりこむ。
 今日は抱かない。今日だけはキミに触れたくなかった。
 キミの冷たい体に触れたら、きっと比べてしまうだろうから。熱いとすら感じた、あの温もりと。
 その温度差は、あってはならない感情をうんでしまうかもしれないから。
 キミはただ眠り続けている。
 キミは外で言い争う声がしていたのも気づかなかったし、ボクが様子を見に行ったのにも気づかなかった。当然、ボクとマリアさんが何をしたかも知らない。何も知らずに、ただ一晩中眠り続けていた。
 そういうことに、しておこう。


 眠れなかった。何度かウトウトとしたが、そのたびに恐ろしい夢で目が覚めた。夢の内容は覚えていない。そんなことを繰り返すうち、いつの間にか朝日はとっくに昇り、もう昼近くになっていた。
 今日はこのままベッドの上で過ごそうか。そう思ってると、ドアがノックされる音が聞こえた。
 誰だろう。でも、なんとなく予想がついた。窓を開けて見下ろすと、外にいたのはやはりマリアさんだった。マリアさんがボクを見上げ、二人の視線が合う。気まずかった。昨日の今日だし、ましてや……今日はすぐ後ろにキミがいる。
「おはようございます。ごめんなさい、寝ていました?」
「ええ……いえ、いいんです。そろそろ起きようと思ってたんで……それよりも、今日は……?」
「実は……お願いしたいことがあるんです」
 マリアさんは、悲痛な思いつめた表情をしている。
「私一人じゃどうしようもなくて……」
 言っちゃいけない。聞いちゃいけない。そんな気がした。
 その一言を発したら、もうボクらの世界は、
「死体を埋めたいんです」
 世界は、崩れた。


 眠っているようにも見えた。
 二人とも。
 二人はずっと一緒に暮らしていた。
 でも一緒に生きてはいなかった。
 これからは一緒に生きられる。天国で。そう思うと二人の死に顔がとても幸福そうに見えた。
「今朝買い物に来たら、店先で倒れていたんです」
 おばさんの死体を見下ろしながら、マリアさんはさみしそうに言った。
 マリアさんとおばさんは仲がよかった。この村に女性は少ない。女性は男性と比べ、過去や傷への対応が違うのか。とにかくこの村にいる女性はおばさんとマリアさんだけだった(もちろんボクとか他の男性の『連れ合い』を除いての話だ。彼女たちを含めると男女比はちょうど半々になるのだろう)
「おばさん……」
 外傷はないようだ。まだ老衰という歳でもないはず。ということは、病死……?
 思い出す。この霧は人体に有害で、即効性はないがジワジワと体を蝕んでいくという噂。やはり本当なのかもしれない。常識的に考えて、死体の腐敗を止めるガスが体にいいはずがない。でも……他に選択肢なんかない。ボクらが生きていけるのは、この村しかないのだから。
「おばさんの親戚とか……連絡先、知ってますか?」
 ボクが尋ねると、マリアさんは無言で首を横に振った。
 仲がよかったマリアさんでも知らないのか。
 当然だ。他人に干渉しないことがこの村のルールなんだから。
「それにいたとしても、きっともういないことになってるでしょうね」
「いないことに?」
 マリアさんは赤ちゃんの頭を優しくなでながら、
「知ってますか? 本当はこの赤ちゃん、十歳なんですよ」
「十歳って……十歳が、こんなに小さいはずが、」
 言いかけて、言葉を止める。
 そうか、それはつまり……十年前に死んだ、のか。
 おばさんを見つめる。歳の離れた親子だとは思ってたけど、十年もこの村で暮らしていたなんて……
 十年後、ボクはどうしてるのだろう。変わらずにキミを愛し続けているのだろうか。それを望んでいるような、それを恐れているような、複雑な気分だった。
「お墓は店の裏でいいですよね。スコップはそこにあります」
 当然のことのようにマリアさんが告げる。ボクはおそるおそる聞き返した。
「あの……埋めるんですか?」
 親戚も引き取り先もいない以上、それが普通なのかもしれない。いや、違う。タナトピアの外では普通なのだろう。でも、ここでは……
「だって……埋めてあげなくちゃかわいそうだわ」
 そうなのか……? やっぱり死体にとっては埋めて弔ってもらうのが一番なのか? 違う。そんなことを言ってはいけない。それを認めてしまったら。ボクは……ボクのしてることは……
「安心してください」
 ボクの考えが分かったのか、マリアさんが微笑みかけてくる。
「私が言ってるのは、あくまで死体の話です。もう誰にも愛されることのない死体。そんな死体は生きていてもしょうがない。埋めてあげるべきだわ」
 そう言ってから、今度はニヤリと口を歪ませた。
「埋めたくないというのなら……いっそ、赤ちゃんの死体だけでも残しておきますか? あなたが養子として引き取って育てればいい」
 ボクの背筋を寒いものが走る。
「そ、んな、こと……」
 うろたえるボクを楽しむように眺めながら、マリアさんは高らかに笑った。
「アハハッ……冗談よ」
 青い霧に覆われた村、タナトピア。
 この霧を通しては、どんなに強い日ざしも柔らかな光に変わる。
 暗く濁る村、タナトピア。
 そんな中で彼女の明るい笑顔はただ異質で……
 ボクはこの村に来てから初めて、
(気持ち悪い……)
 と、思った。


 地面を掘るのはなかなか重労働だったけど、穴が一人分ですむのは助かった。おばさんの体を横たわらせ、その腕に赤ちゃんを抱かせる。
 なるべく見ないように気をつけながら、土をかぶせていく。
 埋められると、どうなるのだろう。土の中でも霧の効果はあるのだろうか。地面の下じゃ霧は触れない気がする。となると、やはり普通に腐っていくのだろうか。
 作業が済むと、最後に板で作った簡単な十字架を立てた。即席の墓標。もしかしたらタナトピアで初めてのお墓かもしれない。
「安らかに……」
 ボクとマリアさんは並んで手を合わせた。おばさんと赤ちゃん、二人分の冥福を祈る。
「あなたも……いつかこうなるのですか?」
 唐突にマリアさんが問いかける。固く目を閉じて手を合わせたまま。一瞬、誰に話しかけてるのか分からなかった。
「あなたもタナトピアで死ぬまで暮らし……死んだら恋人の死体と同じ墓に入るのですか?」
「そ、れは……」
 なんて答えていいのか分からない。マリアさんは目を開けると、ボクのほうを向いた。視線が合う。ただそれだけで、たちまち動けなくなる。
「私とタナトピアを出ましょう」
 理解できない。言葉は言葉として機能せず、ただの音となって脳に叩き込まれる。
 わたしとたなとぴあをでましょう。
 どういう意味だ。タナトピアを出られるはずがない。だって、ここを出たら、ボクは、キミは、マリアさんだって……
「私と……結婚してください」
 分からない。マリアさんが何を言ってるのか分からない。結婚できるはずがない。ボクにはキミがいる。マリアさんにだって夫がいるんだ。
「マリアさん……とにかく……落ち着いて……」
「私は落ち着いています」
 そう。彼女は確かに落ち着いている。
 ボクはといえば、さっきからガタガタと体が震えて、冷たい汗をダラダラと流している。
 ははは、これじゃ、まったく、どちらが、落ち着いていないのか、どちらが、狂っているのか、わかりゃしない、じゃないか……
「タナトピアには本当の狂人もいるけれど、あなたは違うわ。まだ狂いきれていない。理解しているんでしょう? 恋人はもう死んでるということを」
 理解、している、はずがない、キミ、は、生きてる、今は、ベッドで、眠っている、だけ、だ、
「ねぇ、私のことが嫌いですか……?」
 マリアさんの手がボクの手に触れる。温もりがボクの体に伝わる。それは甘い毒のようで、体が、痺れる。
「マリア、さん……あなたはさみしいだけなんだ……それを愛と勘違いしている……」
「いいえ、違います。私は本当にあなたが好きなんです……あなたのためなら……」
 ボクの腕にしがみつくように、決して逃がさないというように、自分の胸にかきいだく。
「何でもしてあげるから……何でも……死体にはできないことを」
 やめろ。やめろ。その手を離せ。もう何も話すな。離せ。話すな。はなせ。はなすな。はなせはなすなはなせやめろやめろやめろ
「やめろ!」
 大きく叫び、マリアさんを突き飛ばした。彼女の体は地面に倒れこむ。
「あ……」
 しまった、思わず……
 助け起こそうと、慌てて駆け寄る。
「来ないで!」
 今度はマリアさんが叫んだ。ボクをまっすぐに見つめる瞳は、涙でにじんでいた。
「どうして……あの女は死んでるのよ? 今は辛いだろうけど、私と一緒ならいつか忘れられる。忘れさせてあげるから……どうして、あの女を選ぶの……? 生きてる私より、死体のほうがいいというの……?」
 肩を震わせながら、必死で訴えるマリアさん。彼女は何一つ間違っちゃいない。それは確かだと思う。ボクは深呼吸を一つしてつぶやく。
「しかたない……」
 しかたないじゃないか。マリアさんはここまで言ってるのだから。
 もう、はっきり答えるしか、しょうがないじゃないか。
「そうです……ボクは生きてるあなたより、恋人の死体を選ぶんです」
 告げた瞬間、顔面に土を投げられた。マリアさんの顔は憎悪と怒りで歪んでいた。
 ボクは軽く土を払いのけると、その場を立ち去ることにする。
「マリアさん……だんなさんを埋葬するのなら、掘るのを手伝います。あなたは……タナトピアを出たほうがいい」
 最後にそう言い残したボクの言葉は、はたして彼女に届いたのだろうか。


 家に帰ると、キミはちょうど目を覚ましたところのようだ。
「おはよう……今朝は遅かったね」
 そう言うと、キミは恥ずかしそうに頬を赤らめる。その顔はやっぱり誰よりもかわいらしく、いとおしかった。
 ボクは倒れこむように、キミの隣へ寝ころんだ。
「実はね……おばさんが死んだんだ……そう、あのお店の……うん、そうだね、さみしくなるね……え? さあ、わからない……たぶん心臓麻痺か何かじゃないかな……いや、安らかな死に顔だったよ。そんなに苦しまなかったんじゃないかな……うん、そうだね……キミは優しいね……うん、お墓を作ってきた……今度一緒にお墓参りに行こうね……大変だったよ、穴を掘ってさ……疲れた、ひどく疲れた……だから今日はもう寝ようかと思うんだ……仕事は……しばらく休むことにするよ……疲れたから……何か、もう、とても……疲れたから……」


 夢を見ていた。
 夢の中でキミは生きていた。キミの隣にはマリアさんがいた。
 ボクもいる。ボクは死んでいる。二人の前にボクの死体がある。
 二人は相談し、ボクの死体を分けあうことにした。
 首から上はキミに。首から下はマリアさんに。
 キミとマリアさんは協力して大きなのこぎりを引いた。ボクの首から血が吹き出す。ボクはヤメテクレと泣き叫ぶけど、キミたちは死体の声になど耳も貸さない。ごりごりと一心不乱に刻みつづける。それはそれは楽しそうに……
「はっ!」
 息苦しさで目が覚めた。目を開けてすぐに、その光景にギョッとした。悪夢の続きかと思った。
「な……あっ……!」
 暗い部屋の中で、横たわるボクの上に誰かが乗っている。
 声が出ない。
 息ができない。
 首を絞めつける。絞めつづける。馬鹿な。なぜ。
「は……あ……!」
 ボクの首を絞める手は決して力を緩めず、ボクは、息ができない、苦しい、死ぬ、もがく、嫌だ、死にたくない、助け、なぜ、殺し、なぜだ、マリアさん!
「うあぁッ!」
 無我夢中で腕を振り回す。ボクの拳がマリアさんの顔か体に当たったようだ。一瞬、力が緩む。その隙を逃さず、ボクはマリアさんを突き飛ばした。
「……ッ!」
 短い悲鳴をあげてマリアさんは倒れる。ボクはすかさず起き上がると距離をとった。
「はーっ、はーっ」
 呼吸を整える。暗闇の中に響くのは、ボクの荒い息とマリアさんの嗚咽。
 ばくばくと鳴りつづける心臓を押さえながら、ボクは問いかけた。
「マリア、さん……なぜ……ボクを……殺そうと……」
 ようやく呼吸が落ち着いてきた。一度大きく息を吸ってから叫んだ。
「なぜボクを殺そうとした!」
 マリアさんはうずくまったまま、顔を伏せて泣き続ける。ボクは答えを待ちながら、ちらりとすぐ横の机を確認する。
 一番上の引き出し、拳銃、安全装置は……たしか入ってない。開けるのに一秒。取り出して狙う、一秒。引き金を引くのは一瞬。よし。二秒でできる。
「く……くくくっ……」
 ……嗚咽じゃない。マリアさんは泣いてなんかいない。彼女は声を押し殺して……笑っていた。
「あなたが……フフッ」
 誰にともなく、マリアさんはつぶやいた。
「あなたの死体が欲しかったから……」
 確認! 拳銃、上の引き出し、開ける、出す、狙う、バン! 二秒だ!
 もう、この女は正気じゃない。怖かった。心の底から怖かった。いざとなったら殺すんだ。さもなくばボクが殺される。
「ボクの死体を、どうするつもりだったんですか……」
 恐怖に気づかれないように、平静を装いながらボクは尋ねた。だが、どうしても声はかすかに震えてしまう。
「ボクの死体と暮らすつもりだったんですか……!」
 彼女は何も答えない。その沈黙は肯定の意味だ。
「あなたが悪いのよ……私の言うことを聞いてくれないから……」
 ゆらりと立ち上がると、生気のない瞳でボクを見る。
「私は……あなたを助けようとしてあげたのに……あなたが死体なんか選ぶから……だから……私に殺される羽目になる……」
「マリアさん、あなたは……狂っている」
 ボクの言葉に、彼女は甲高い声で笑った。
「アハハハハッ! 狂ってる? あたしがぁ? それはあんたでしょう! 死体と寝てるあんたが、なに正気の人間を気取ってるのよ!」
 叫びおえると、マリアさんは右手をかざした。どこに隠していたのか、その手にはナイフが握られている。
「傷つけたくなかったのに……きれいな死体が欲しかったのに……」
 近づいてくる。
「待て!」
 すばやく引き出しを開けると、拳銃を手に取った。安全装置、外れている。構える。狙う。そして、引き金を、
「……動くな」
 引き金を……
「……ナイフを捨てろ」
 引き金を……
「……出て行け」
 引き金は……引けない。
 なぜ! 引け! 殺せ! しかたがないじゃないか。殺さなきゃ殺されるんだから。たいしたことじゃない。死体が……死体が一個増えるだけのこと!
「殺さないの……?」
 マリアさんは本当に不思議そうに首をかしげる。
「あたしは殺しますよぉ? あなたのこと……」
 また一歩近づいてくる。まずい。ぎりぎりだ。今彼女が飛びかかってきたら、撃つのも間に合わないかもしれない。殺すなら今だ。今しかない。
「それ以上、近づくな……本当に撃つ、おどしじゃない」
「ふふ……いいわよ……でもね、約束してね」
 彼女の左足がゆっくりと前に。
 彼女の右手がゆっくりと上に。
「もしも、あなたが先にあたしを殺したら……」
 殺すんだ。今殺さなくちゃ、よくて相打ちだ。いいのか。殺されたいのか? 死にたいのか? 生きたくないのか?
「あたしの死体も……一緒にかわいがって……ねえッ!」
 彼女が、跳んだ。右手が振り下ろされる。銀色が目の前に迫る。
 待て。撃て。殺せ。殺すな。どっちだ。ボクは……ボクは……本当に生きたいのか?
 

 ぱん。

 初めて聞く銃声は、あっけないほど小さく夜空に響いた。



 神様がいたらなあと思う。
 神様がいたら、きっと死体が残ったりはしなかったのに。
 だって、おかしいじゃないか。
 生きてるから体が必要になる。死んだらもう体は必要ない。必要ないものが、なぜ残り続ける? おかしいじゃないか。
 死んだ瞬間に、消えてなくなってくれればよかった。
 そしたら、ボクは想いを断ち切ることができたろう。
 こんなことにも、ならなかったろう。


「……まだ起きてますか?」
「はい、どうにか……マリアさんは?」
「う〜ん……アハハ、だめそう、です」
 乾いた笑い声をあげて、マリアさんはごろんと床に横になった。強がってはいるが、相当苦しいようだ。ぜいぜいと荒い息が聞こえてくる。いや、これは……ボクの息か?
「あ〜あ……ろくでもない最期になっちゃったわ……」
「そうですね……」
 最期だというのに、まるで他人事。なんだか無性におかしくて、ボクも小さく笑う。
「……ごめんなさい」
 マリアさんはポツリと謝った。まるで子どもがケンカした友達に謝るように。おそるおそると、ちょっと恥ずかしそうに。
「今さらですね……」
「ん、そうですけど……やっぱり怒ってますか?」
「……いいえ」
 ボクは首を振った。別に気をつかったわけじゃない。それは正直な気持ちだった。
 自分の体を見下ろす。ナイフが胸に突き刺さり、その傷口からはとめどなく血が流れ出ていく。服は最初の色も分からぬほど、赤く染まっていた。ボクの中にこんなに血が入っていたなんて驚きだ。もう痛みすらなく、ただ熱かった。
「遅かれ早かれ、こうなってただろうし……」
 これで全てから開放される。そう思うと、むしろマリアさんには感謝したいくらいだ。それに……
「ボクは恋人を抱きながら死ねますから……」
 腕に力を入れ、隣に横たわるキミの体を抱き寄せた。
 マリアさんはそれを聞いて悲しそうに笑う。
「アハ……いいですね、あなたは……私もどうせなら、あの人の腕の中で死にたかった……」
「浮気なんかするからですよ」
「アハハ、うん……そうね……あの人に会ったら謝らなきゃ……」
 そして、ふぅ……と大きく息をつくと、暗闇に向かってつぶやいた。
「ごめんなさい」
 誰に謝ったのかは分からない。だんなさんか、ボクか、父親か。それを問うことはできない。
 マリアさんは……もう死んでいた。
 彼女は本当に狂っていたのだろうか。最期だけ正気を取り戻したのか、最初からずっと正気だったのか、あるいは最初からずっと……
 まあ、いいや。もう終わったんだ。
 腕の中にキミの重みを感じる。もうすぐ行ける。もうすぐ会える。血が流れる。体が冷える。傷口だけが熱い。視界がかすむ。
 不思議と恐怖は感じなかった。タナトピアの人口は生者が半分、死者が半分。ボクは左側にいたけれど、これからは右側で暮らす。ただそれだけだ。右側……そっちにはキミがいる。きっと首を長くして待っているだろう。
 キミの顔を見る。ああ、ため息が出るほど……最期までキミはきれいだった。
 キミの体を抱く。冷たいはずの死体に、ボクは温もりを感じた。


 ここはタナトピア。
 嘘と狂気と死体が彩る、この世の楽園。
 世界で一番優しいユートピア。


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