| 野々宮真司さん 著作 | トップへ戻る | | ||
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気がついた時にはもう、私は幽霊になっていた。 もう日は暮れていたけど、辺りは時ならぬ喧噪に包まれていた。道路の片方は広い空き地、もう片方は林に面している。いつもはほとんど人通りのないこの道が、今や警官や野次馬でごった返していた。その真ん中で、私はただ呆然と突っ立っている。 周囲では、刑事さんや鑑識の人たちが眉間にしわを刻んで現場の検証に当たっていた。私が倒れていたところには、白いチョークで体の輪郭が描かれていた。死体はすでに運び去られていたが、アスファルトの上にはべっとりと血糊(ちのり)が広がっていた。 そこに立っている私に気がつく人は誰もいない。 自分の掌(てのひら)をかざしてみると、うっすらと向こう側が透けて見えた。体にはまったく重さが感じられず、地面を踏みしめているという感触もない。さっきナイフで刺されたはずの首筋に恐る恐る手を当ててみたが、そこには傷の痕跡すら残っていなかった。 どういうわけか服装も変わっている。さっきまで着ていたセーターとスカートは跡形もなく、かわりに天使が着ているような白くて長いワンピースが、ふわふわと頼りない感じで体を包んでいた。これが幽霊の「制服」というわけなんだろうか。なんだかネグリジェみたいな格好だったのですごく恥ずかしかったけど、誰にも見られないのがせめてもの救いだった。 立ち入り禁止のテープの外には、近所の人たちが集まって不安そうな顔で囁きあっている。ただでさえ狭い道路に大勢の人が詰めかけているので、まだ冬だというのに辺りは奇妙な熱気に包まれていた。パトカーの赤い回転灯に照らされているせいか、人々の顔もどことなく興奮しているように見える。それを眺めているうちに、私はだんだん怖くなってきた。 ――このなかに、もしかしたら私を殺した犯人がいるかもしれない。 私は刺された瞬間のことを思い出して、背中がぞくっとするのを感じた。 近所のコンビニに買い物に行こうとしていた私の背後から、犯人はいきなりナイフで襲いかかってきたのだ。 抵抗する暇もなかった。何が起こったのか分からないまま、すぐに意識が薄れていき、私はその場に倒れてしまった。朦朧とする意識のなかで最後に見たのは、走り去っていく犯人の後ろ姿だった。濃いグレーのパーカーに、着古したジーンズ。フードを被っていたので髪型などは分からなかった。 最近、この辺りでは同じような通り魔殺人が二件も起こっていて、警察やマスコミでは、二件とも同一犯人によるものであろうと目していた。おそらく私が三人目の被害者ということなのだろう。 (だけど……) あの後ろ姿に、どことなく見覚えがあったのは気のせいだろうか? ひょっとして、犯人は私の知っている人ではないか? だとすれば、この野次馬たちのなかに犯人がいる可能性も十分ある。そこにいるのは近所の人たちばかりで、なかには顔見知りの人も結構いたのだ。 もうこれ以上、この場にいたくない―― 私がそう思った時だった。 突然、後ろから声をかけられた。 「サオリさん、サオリさん、こんばんは」 私は驚いて振り返った。 そこに立っていたのは、小学生ぐらいの男の子だった。まっすぐな黒髪をおかっぱにして、神主さんみたいな袴(はかま)姿に身を包んでいる。男の子の体は、私と同じようにうっすらと透けていた。 その男の子は、にやにや笑いながら、じっと私を見つめていた。 (――私のこと、見えてるの!?) 思わず身構えた私に、男の子が笑いかけた。 「やあやあ、はじめまして。そしてご愁傷さま、藤川サオリさん」 「――なんで私の名前を知ってるの?」 男の子はおかしそうに笑って言った。 「そりゃあ知ってるさ。だってぼく、死神だもの」 私は呆気にとられて、少年の無邪気な笑顔を見つめた。 「まあ、死神って言っても、魂を取って食うとか、そんな恐ろしいことはしないから安心して。ぼくは言わば案内役みたいなもんだから」 私たちは、事件現場を離れて、夜の住宅街を二人で歩いていた。歩くと言っても、地面を踏みしめることができないので、宙を滑るようにして移動していたんだけど。 「案内って、どこに案内するの?」 「もちろん、来世に決まってるじゃない。あんたは別の人間に生まれ変わるんだよ。でも、すぐってわけじゃない。七日間だけ、その幽霊の体のまま漂っていなくちゃならないんだ。いわゆる“初七日”ってやつだね」 地獄に連れていかれないというだけで、とりあえずほっとしたが、生まれ変わるというのもなんだか面倒に思えた。 (どうせ、生まれ変わっても代わり映えのしない人生を送るんだろうな……) 私は漠然とそう思った。 死神は黙ったままの私には構わず、説明を続ける。 「この七日間は、幽霊の体を存分に活かしていろんなところをうろつき回れるよ。思い出の場所を訪ねるもよし、自分の葬式に行って参列者が泣いているのを眺めるもよし。そうして、“藤川サオリ”としての人生に別れを告げて、次の人生を始める心の準備をしておきましょう、ってことだね」 「……別に私、そんなことしなくていい」 なにもかも面倒くさくなってきて、私は投げやりに言った。 「おやおや、ずいぶん自分の人生に未練がないんだねえ。最後に会っておきたい人とかいないの? 彼氏とかさ」 「いないよ、そんなの」 自分でも意外なくらいに不機嫌な声になってしまったが、死神は一向に気にする様子もなく笑っていた。 「……ふーん。まあ、いいや。とりあえず、七日後には生まれ変わっちゃうってことだけは覚えておいて。その時はぼくも付き添うよ。それまでは完全に自由行動。この一週間はほんとうに貴重な時間なんだから、大事に使いなよ?」 「………」 「ぼくはこれから別件があって行かなくちゃいけないんだけど、もし何かあったら心のなかで強く“死神来い来い”って念じてみて。すぐに駆けつけるから」 そう言うが早いか、死神は夜空に向かって軽やかに舞い上がって行く。 「それじゃあ、幽霊ライフを満喫してね!」 「あ……」 ちょっと待ってよ、と言う暇もなく、死神の姿はまたたくまに遠ざかっていった。 死神に言われてはじめて気がついたが、私には未練らしい未練が何も残ってなかった。 叶えたかった夢もなければ、別れを惜しむような友達もいない。 幼い頃から、内気で人見知りする子供だった。そのせいで、どこに行ってもなかなか友達ができず、友達になったとしても、一緒に遊びに行くことなどしなかった。 私は声も小さいし、明るい性格でもない。だから、みんなと一緒に遊びに行ったら楽しい雰囲気を壊してしまうんじゃないかと思って怖かったのだ。その分、人と一緒にいる時は、いつも必死で笑顔を繕っていた。 けっきょく一人でいるのが一番楽だったので、高校に入ってからは、もう友達を作ろうともしなくなった。 休み時間の間、私は教室の片隅でひたすら本に読みふけっていた。週末の予定を楽しそうに話し合っているクラスメイトたちのことを少し羨ましくも思ったけれど、そんなのは私の柄じゃないと自分に言い聞かせた。 そうして来る日も来る日も、私は誰とも喋らないまま、学校と家の間を往復するだけの生活を送っていたのだ。 こんな私だから、もちろん彼氏なんているわけなかった。“ちょっといいな”と思うクラスメイトがいても、話しかけることはおろか、目を合わせることも近づくこともできなかった。 でも、それでよかったのかもしれない、と今では思う。そのお陰で、私は何の未練もなく自分の人生と別れを告げられるのだから。もし彼氏がいたりしたら、死ぬのが悔しくて仕方がなかっただろう。 そう、きっとこれでよかったんだ。平凡でつまらない人生だったかもしれないけど、不幸な人生ではなかったはずだ。これはこれで、悪くない一生だったんだ。 私は心のなかでも何度も何度も、「これでよかったんだ」と呪文のように繰り返した。 けれども、行くあてもないまま、ただ一人街をさまよっているうちに、心の底からなにやら熱いものがこみ上げて来た。 ――本当に、こんな人生でよかったの……? 気がつけば、私は誰もいない夜の住宅街の真ん中で、声も上げずに泣いていた。自分でも訳が分からないまま、涙はあとからあとから溢れてきた。 (幽霊になっても涙は出るんだ……) 今さら泣いたってどうしようもないのに。もう何もかも取り返しがつかないのに。 こんなに辛い思いをするのなら、今すぐ生まれ変わって全てを忘れてしまいたい。 私は心の底からそう願った。 私は、自分の体が運び込まれたはずの大学病院に行くことにした。 そこに行けばたぶん家族に会えるだろうと思ったし、他に行くあてもなかったからだ。 幽霊の体にもだんだん慣れてきて、私は地上から一メートルほど浮き上がったまま、滑るように夜の街を飛んでいった。生きている頃は身長が百五十センチぐらいしかなかったので、いつもより高いところから街を眺められるのはちょっとだけ気持ちがよかった。 一時間ほどかかって、私は大学病院に到着した。 幽霊の体では入り口の自動ドアが開いてくれないのではないかと心配したが、実際はなんの問題もなかった。ドアが開かなくても、ガラスを通り抜けることができたからだ。 病院の待合室に通りかかると、設置されているテレビでたまたま事件のニュースをやっていた。 「――今日午後五時頃、川崎市T区の路上で、女子高校生が血を流して倒れているのを付近の住民が発見し、警察に通報しました。倒れていたのは県立A高校に通う藤川サオリさん十七歳で、首の辺りをナイフのような刃物で刺され死亡していました。 警察では、サオリさんがコンビニに買い物に行く途中、背後から何者かに襲われたものと見て調べを進めています。T区では、先月にも同様の事件が二件あいついでおり、連続通り魔の可能性もあるとして警察で注意を呼びかけています」 テレビには現場の映像とともに、私の顔写真も映し出された。学生証に使うために学校で撮影したものだ。いかにもつまらなそうな自分の顔がアップで映し出されるのを見て、私は恥ずかしさのあまり、急いでその場を離れた。 ようやく探し当てた霊安室では、両親や親戚たちが疲れきった表情で私の遺体を囲んでいた。すでに検死を終えたらしい遺体の顔には白い布が被せられていた。 妙にひんやりした空気のなか、みんな黙りこくってベッドに横たえられた私の遺体に目を注いでいる。私はなんとなく気まずい思いでみんなの背後に立っていた。 お母さんのほうを見やると、泣き腫らした目をしてうなだれていた。 私は慰めるつもりで、思わずお母さんの肩に手を置こうとしたが、私の手は虚しくその肩をすり抜けてしまった。 「……お母さん」 と私は呟いてみたが、もちろんその声が聞こえるわけもない。 (――ここにいても、気分が塞いでくるだけだな) 私は悲しい気持ちでそう思った。 誰にも気づいてもらえないことなんて、学校での生活で慣れっこになっていたはずだった。でも、家族にまで気づいてもらえないというのはあまりに辛かった。 そうして、私がしょんぼりしてその場を立ち去ろうとした時だった。 霊安室の入り口から、突然、人が飛び込んできた。 (――きゃっ!) 幽霊だから人とぶつかる心配はなかったのだけど、私は思わずぎゅっと目をつぶって身をすくめた。 恐る恐る目を開けると、すぐそこに男の子の顔がある。私は慌てて後ろに飛び退いた。 目の前に立つ男の子をあらためて見て、私は一瞬、自分の目を疑った。 ――そこに立っていたのは、クラスメイトの小田桐(おだぎり)くんだった。 黒いタートルネックのセーターにジーンズ姿。ここまで駆け通しでやってきたのか、肩で大きく息をしている。色白の肌にうっすら汗がにじんでいた。 「……藤川サオリさんのご家族ですか?」 小田桐くんは苦しそうな呼吸のまま訊ねた。 母親が意外そうな声で応える。 「そうですけど……もしかして、サオリのお友達ですか?」 「はい。サオリさんの同級生で、小田桐カズマと申します」 そう言って小田桐くんはまっすぐ私のほうに向かって歩いてきた。小田桐くんの切れ長の瞳が私を見つめている。 いや、小田桐くんが見つめているのは私の背後にあるベッドのほうだ。けれども、私は小田桐くんの眼差しに金縛りをかけられたみたいに、その場を動くことができなかった。 小田桐くんが、私の体を通り抜ける。その瞬間、心臓がどくんと跳ね上がるような気がした。もう心臓なんてないはずなのに―― 小田桐くんは、幽霊の私に気づくことなく、そのままベッドの傍まで歩いていった。 (どうして小田桐くんが……) 私は呆然としたまま立ち尽くしていた。小田桐くんとは特に親しいわけでもなく、喋ったことすらほとんどなかった。なんでわざわざ駆けつけてくれたのだろう。 私の疑問をよそに、お母さんが馬鹿丁寧に頭を下げながら小田桐くんに言う。 「こんな夜中に、わざわざありがとう。どうか、サオリの顔を見てやって」 そしてお母さんは、白い布を遺体の顔から取り去った。 私は小田桐くんの背後から、そーっと自分の遺体を見た。 死化粧を施された私の顔は、自分で言うのもなんだけど、ぞっとするほど綺麗に見えた。まるでお人形さんみたいだ。とりあえず、ひどい顔ではなかったのでほっとした。 私はなんとなくどきどきしながら、小田桐くんの様子を伺った。小田桐くんは唇を噛みしめて険しい表情をしていた。いつもはクールな小田桐くんがそんな顔をするなんて、少し意外だ。そうして小田桐くんは、ずいぶん長いこと私の死に顔を見つめていた。 あまりにその間(ま)が長いので、私はだんだん気恥ずかしくなってきた。 その時だった。小田桐くんの手が伸びて、私の遺体の頬にそっと触れたのだ。 (――え?) 体に、電流でも流れたような衝撃が走る。 私はその場で凍りついたまま、遺体の頬を撫でる小田桐くんの手を見つめていた。指の長い、綺麗な手だった。まるで壊れやすいガラス細工でも扱っているかのように、おずおずと、けれどこのうえなく優しい手つきで、小田桐くんは私の頬を撫でていた。 気がつけば、両親や親戚たちがみんな、小田桐くんを怪訝そうな眼差しで見つめている。 小田桐くんの振る舞いは、まるで死んだ恋人に対するようなものだったから、不審に思うのも当然だ。私は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。 小田桐くんは、そんな周囲の視線も知らぬげに私の死に顔だけを見つめていた。噛みしめられた唇から、痛切なつぶやきが漏れる。 「……藤川」 心なしか、その声が涙で震えているような気がした。 2 病院の屋上で、私は夜風に吹かれるまま、ぼんやりと街の灯りを見つめていた。 ――小田桐カズマ。 彼とはじめて出会ったのは、高校の入学式でのことだった。背が高くて色白で、素敵な人だなあとは思っていたけれど、もちろん声をかけることなんてできなかった。小田桐くんとは二年間一緒のクラスだったけれど、その間、彼と言葉を交わしたのはたったの一度きりだ。 それは、たまたま当番で、一緒に教室の掃除をしている時だった。 ――藤川、そこの黒板消し取ってくれ。 ――はい。 たったこれだけのやり取り。ずっと一緒のクラスにいながら、私と小田桐くんは初対面の時から全く距離が縮まっていなかった。 私の内気な性格のせいもあるけれど、小田桐くんもけっこう人と距離を取るタイプだったのだ。成績優秀、そのうえスポーツも万能ということで女子からは人気があったけど、どこか影のある小田桐くんの態度には人を寄せつけないようなところがあった。 その小田桐くんが、わざわざ病院まで来てくれて、そのうえ私の頬を撫でてくれた―― さっきの場面を思い出しただけで、恥ずかしさのあまり悶々としてしまう。 それは苦しいようなくすぐったいような、とにかく今まで経験したこともないような感情だった。 もしかして、これが恋というものなんだろうか? だとしたら―― だとしたら、何だと言うのだろう……。 私は溜め息をついて首を振る。 勘違いしちゃダメだ。小田桐くんはべつに私に特別な感情を持っているわけじゃない。そんなことがあるわけないんだ。彼はきっととても責任感が強い人で、クラスメイトの突然の死を悼む(いたむ)ために来ただけなんだ。きっとそうだ。 第一、私はもう死んでしまった人間だ。一週間後には生まれ変わってしまうんだ。今さら恋に落ちたところでなんになるだろう。 こんな感情は――きれいさっぱり忘れてしまったほうがいい。 けれども、忘れようとすればするほど、先ほどの光景が鮮やかに蘇ってきて、私の胸を甘酸っぱい想いで満たすのだ。 「――ああ、もう!」 とうとう私は、その場にくずおれてしまった。 ――苦しい。 なんで幽霊になってからこんなことに苦しまなきゃならないんだろう。 切なくて哀しくて、私はまた泣きそうになった。 その時、後ろからふいに声をかけられた。 「――そんなとこでなにしてんの?」 振り返ると、すぐ後ろに死神少年がいた。 「うわあっ!」 驚いた私は、大声を上げて思わず飛び退いてしまった。 そんな私を見て、死神少年が呆れたように言う。 「……そんなに驚かないでよ。まったく、幽霊のくせに怖がりだね」 「――だって、いきなりいるんだもん」 私は憮然として言った。 「べつに私、あなたを呼んだ覚えはないんだけど」 死神少年はふざけた感じで空中を漂いながら言った。 「いやあ、なんとなくあんたのことが気になってね。一人ぼっちにしといたら、あんた、淋しくて泣いちゃうんじゃないかと思ってさ」 「な、泣いてなんかないよ。子供じゃないんだから。もう私のことなんか放っておいてよ」 死神は私の顔を面白そうに見つめた。泣きそうになっていたのがバレないように、私は思わず目を逸らした。そんな私に、死神が突然訊ねた。 「――あのお兄さんは誰?」 「お、お兄さんって?」 「さっき来てたお兄さんだよ。あんたのほっぺた触ってた奴。彼氏じゃないの?」 「そ、そんなんじゃないよ! っていうか、見てたの?」 「見てたよ。すぐ傍でね」 「ぜんぜん気がつかなかった……」 「あのお兄さんに見とれていたからでしょう?」 「な……!」 図星だったので何も言い返すことができなかった。 死神は空中で胡座をかいたまま逆さまになると、いたずらっぽく微笑んだ。 「――幽霊なら、ストーカーもやりたい放題だよ」 「……バカ言わないでよ。小田桐くんとは本当になんでもないんだから」 それを聞いた死神は、逆さまになったまま、ふいに表情を改めた。 「ぼくは、真面目な話をしてるんだよ。あんた、このまま何もせずに一週間さまよってるつもりかい? それじゃあ、生きてる時と何も変わらないじゃないか」 「………」 「そんなことじゃ、生まれ変わっても、また同じような人生を歩むことになるよ。幽霊になってる一週間はね、人間観察したり自分の人生を振り返ったりするのに最適な時間なんだ。有意義に使ったほうがいいと思うよ」 「――余計なお世話よ」 「そうだね、余計なお世話だった。気分を悪くしたなら謝るよ。でも、これだけは言っておこう」 死神は元の体勢に戻ると、風に流されるように夜の街へ遠ざかっていきながら言った。 「――今からだって、遅くないんだ。手遅れになるようなことなんて、本当は何もないんだよ、サオリさん」 ――私はいま、小田桐くんの家の前にいる。 死神にからかわれた時は本当に腹が立って、絶対ストーカーなんかするもんかと思っていた。けれど、病院の屋上から、家路につく小田桐くんの姿が見えた時、私はほとんど無意識のうちに彼の後ろ姿を追っていた。 ……これぞまさしく背後霊。 自分で自分が嫌になったけれど、結局彼の家までついてきてしまった。 白いタイル張りの、大きな一戸建て住宅だった。 小田桐くんはそのまま家に入っていったが、気後れした私は玄関の前でもじもじしたまま、なかなか家に入ることができなかった。 幽霊になっても、人の家に勝手に入るのはやっぱり抵抗がある。それに私は友達の家に遊びに行ったことがなかったから、そういうことに対する免疫がまったく出来ていなかったのだ。 けっきょく私は、庭のほうにまわって、窓からそーっと中の様子をのぞいてみることにした。 そこはリビングルームで、帰ったばかりの小田桐くんがソファに座っていた。ずいぶんぐったりした顔をしている。少し離れたダイニングテーブルには、母親と妹らしき女の子が座っていた。 三人の視線はテレビに注がれていて、窓からのぞいている私に気づく様子はまったくない。当然と言えば当然のことだったが、私はなんとなくほっとした。そして、思い切ってリビングに入ってみることにした。 そのまま、窓ガラスをすり抜けて、家の中に入る。 テレビではトーク番組が放送されていた。テーブルについているお母さんと妹はときどき笑い声をあげていたけれど、小田桐くんのほうはくすりとも笑う気配がなかった。ただぼーっと画面を眺めているだけ、といった感じだ。まるで小田桐くんの周囲にだけ、冷たい空気が淀んでいるようだった。 私はなんとなく近寄り難いものを感じて、リビングの隅っこから小田桐くんを黙って見つめていることしかできなかった。 やがて、小田桐くんのお母さんが心配そうに声をかけた。 「大丈夫、カズマ? なんだかすごく疲れた顔してるわよ」 「……ああ」 小田桐くんは、お母さんの言葉が聞こえたふうでもなく、ぼんやりしたまま頷いた。 小田桐くんの妹がテーブルから立ち上がって、ソファのところまでやって来た。小田桐くんの前に手をかざしながら言う。 「お兄ちゃーん、聞こえてる?」 「……なんだよ、カナコ。聞こえてるよ」 「よっぽどショックだったんだね、藤川さんのこと」 「――うるさいな。あっち行ってろよ」 私はリビングのはしっこで突っ立ったまま兄妹のやり取りを眺めていた。 妹のカナコちゃんは、小田桐くんに似て色白で、背も高かった。私なんかよりもずっと大人びていて、ちょっとモデルさんみたいだ。唇がいつも微笑んでいるような形をしている。すごく朗らかな感じのする子だった。 (背格好は似てるけど、雰囲気はお兄さんと正反対だな……) 私はひそかにそんなことを思った。 カナコちゃんは小田桐くんの肩にそっと手を置くと、静かに言った。 「――落ち込むのも無理ないよ。藤川さんって、いかにもお兄ちゃんが好きそうなタイプだもんね。ああいう、ちっちゃいけどクールな感じの子が好きなんでしょ?」 私は思わず息を飲んだ。また心臓が跳ね上がったような気がした。 (まさか、小田桐くん、本当に私のこと……) 私は小田桐くんの反応が気になって、彼の表情にじっと目を凝らした。 小田桐くんがのろのろとカナコちゃんの方を振り向いた。 「――おまえ、藤川のこと知ってんのか?」 「会ったことはないよ。でも、さっきニュースで顔写真が出てたから。一緒に見てたじゃない」 「……ああ、そうか」 「好きだったんでしょ、藤川さんのこと?」 「………」 私は固唾をのんで、小田桐くんの答えを待った。 けれど、小田桐くんは俯いたまま、一言も発しようとはしなかった。 やがて、小田桐くんのお母さんが、カナコちゃんをたしなめるように言った。 「カナコ、お兄ちゃん疲れてんだから、そっとしといてあげなさいよ」 「――そうだね」 カナコちゃんは素直にテーブルのほうに戻って行った。 同時に、私も一気に肩の力が抜けた。小田桐くんの答えが聞けなかったのは残念だったけど、私は心のどこかでほっとしていた。 ――私は、小田桐くんの本当の気持ちを知るのが怖かったのだ。 お母さんが心配そうな顔をしてカナコちゃんに言う。 「最近、物騒なことばっかりだから、あんたも気をつけなさいよ。今日もずいぶん帰りが遅かったじゃない」 「しょうがないじゃん、ブラスバンドの特訓があったんだから」 「ほんとに気をつけたほうがいいわよ。カナコは狙われやすいルックスしてんだから」 「なにそれ」 そう言ってカナコちゃんは屈託なく笑った。ソファでくすぶったままの小田桐くんをよそに、お母さんとカナコちゃんはいかにも仲良さげに話し続けていた。 もしかすると、小田桐くんは家にいる時も家族と距離を取って過ごしているのかもしれない。 自分と小田桐くんが似た者同士のような気がして、私はなんとなく親近感が湧いた。私は小田桐くんの傍に腰かけると、そのきれいな横顔を見つめた。小田桐くんの眼差しは、ちょっとぞっとするほど虚ろに見えた。 (――そんなに落ち込まないで、小田桐くん。私はここにいるんだから) 心のなかでそう念じながら、小田桐くんの手にそっと自分の手を重ねる。私たちの手は文字通りぴったり“重なり”あってしまうが、小田桐くんが気づくことはない。そのことが、たまらなく哀しかった。 やがて小田桐くんはのろのろと立ち上がると、ソファの肘掛けのところに掛けてあったパーカーを羽織った。 「あら、どっか行くの?」 そう訊ねるお母さんに向かって、小田桐くんがぶっきらぼうに応える。 「ちょっとコンビニ行って来る」 そう言って玄関に向かう小田桐くんの後ろ姿を見た瞬間。 突然、私の頭のなかに、ついさきほど見た光景が蘇った。 ――濃いグレーのパーカーに、着古したジーンズ。 小田桐くんの後ろ姿は、私を刺し殺したあの犯人と驚くほどよく似ていた。 3 まさか、そんなはずはない。 小田桐くんが通り魔殺人の犯人だなんて、そんなことあるはずがない。きっと、たまたま服装がかぶってるだけだ。そうに違いない。 私はかなり距離を取って、コンビニに向かう小田桐くんの後を尾けていた。 小田桐くんは、すこしうなだれた感じでゆっくりと夜の街を歩いていた。 ――小田桐くんが、犯人なわけない。 私は懸命に自分に言い聞かせた。けれど、前を歩く小田桐くんの後ろ姿を見ていると、たちまちその確信が揺らいでしまう。見れば見るほど、その姿はあの犯人とそっくりなのだ。 ――病院に駆けつけてくれたのも、もしかして自分が殺した相手の死体をじっくり観察するためだったのだろうか。そう考えると、遺体の頬を撫でていた小田桐くんの手つきも、なんとなくおぞましいもののように思えてくる。 小田桐くんはコンビニに入ると、しばらく雑誌を立ち読みしていた。けれど、私はどうしても店内に足を踏み入れることができなかった。 私は、小田桐くんに近づくことが怖くなっていた。すでに私は、頭のどこかで小田桐くんが通り魔殺人の犯人であることを受け入れてしまっているのだ。 もし小田桐くんが犯人だとすると、彼がまた同じような犯行を重ねる可能性はかなり高い。 (どうすればいいんだろう、私……) 途方に暮れた私は、とりあえず死神を呼び出してみることにした。今の私には、あの少年しか頼る相手がいなかった。 (――死神、来い来い!) その時、コンビニのドアが開いて、ペットボトルを手にした小田桐くんが出て来た。 私は、その必要もないのに、思わず電信柱の影に隠れた。 コンビニの光を背景に、真っ黒なシルエットと化した小田桐くんの姿は、いつもよりも大きく不気味なものに見えた。 小田桐くんがこちらに近づいて来る。 向こうからは見えないと分かっていても、どうしようもなく身体が震えてしまう。 そして、小田桐くんがちょうど私の目の前を通り過ぎようとした時だった。 後ろから突然、肩を叩かれた。 「よう、お待たせ!」 「ひっ!」 緊張の糸が張りつめていた私は思わず大声を出してしまった。私は振り向くと、そこに浮かんでいる死神をにらんだ。 「どうしてあなたはいつもいつも後ろから登場するのよ!」 相変わらず呑気そうに微笑んでいる死神少年は悪びれた様子もなく言った。 「ごめんごめん。だってあんた、ものすごく真剣な顔してたから、正面から声をかけずらかったんだよ。――それで、用事はなんだい?」 「実は……」 私は、家に向かって歩いて行く小田桐くんの後ろ姿をちょっと見遣った。 「まだ、はっきり分かったわけじゃないんだけど……もしかしたら、あの人が私を殺した犯人かもしれないの……」 「ふうん? それで?」 死に神がたいして動じた様子もなく訊き返してきたので私は泣きそうになった。本当に頼りにならないヤツだ。 「……私、どうしたらいいの? どうしたらいいのか分かんないんだよ」 「そんなこと言われてもなあ。ぼく、困っちゃうよ」 死神はそう言って呑気に頭をかいた。 私は思わずカッとなって言った。 「人が真剣に悩んでるのに、どうしてそんなに呑気でいられるのよ! 私がどれだけ不安だか分かってるの?」 死神はふいに真剣な目をして言った。 「不安なんだったら、自分で確かめてみればいいじゃないか。あんた、子供じゃないんだろ? だったら自分の問題は自分で解決しな」 思いのほか死神の口調が厳しかったので、私は黙り込んでしまった。 だが、死神は次の瞬間には表情を緩めて、いたずらっぽくウィンクした。 「幽霊の体は、探偵業にはもってこいだよ」 そういうわけで、私は真相を確かめるべく、小田桐くんを監視することにした。 小田桐くんは、一見したところ、普段通りに日常生活を送っているようだった。どんよりと暗い表情はそのままだったが、翌日はいつも通りの時間に登校し、何事もなく授業を受けていた。少なくとも、人目を盗んでこっそりナイフを磨いたりとか、そういういかにも犯罪者チックな行動は今のところ見られない。 クラスの様子も、まったくもっていつも通りだった。私の机の上には、白い菊の花が供えられていたけれど、それ以外には何の変化もない。クラスメイトたちはいつもと同じように勉強したりふざけたり、冗談を言い合ったりしていた。私の死を悲しんでいる人は誰もいなかった。 (やっぱり、私なんていてもいなくても同じだったんだな……) 結局、クラスのなかで、私の死に何らかの反応を示した人は小田桐くんだけだったのだ。小田桐くんが容疑者となってしまった今では、そのことさえも素直に喜ぶことはできないけれど。 (どうして私だけがこんな酷い目にあわなくちゃいけないんだろう) いかにも青春まっさかりといった感じでスクールライフを謳歌しているクラスメイトたちを見つめているうちに、心がだんだん重くなってくる。 私のなかに積もり積もった悲しみが、次第に凝り固まって、怒りへと変化しつつあった。 それでもまだ、私は小田桐くんが無実であってほしいと願っていた。 小田桐くんはいま、流暢な発音で英語の教科書を朗読している。 年の割には、深く、落ちついた声音だ。私は、小田桐くんの声が大好きで、彼が教科書を読み上げるたびにうっとりと聞き惚れていたものだった。 今でもそれは変わらない。私を殺した犯人かもしれないと分かっていても、それでも小田桐くんの声は、私の心に染み渡った。その仕草の一つ一つが、私の心を心地よくくすぐった。 恐怖や悲しみや憧れや愛情が、私のなかでぐちゃぐちゃに混じり合っていく。 ――最悪の初恋だった。 異変が起こったのは、監視を始めてから三日目のことだった。 異変、というにはあまりにも些細な事柄ではあったけれど、それでもそれは、小田桐くんが初めて見せた「普段と違う行動」だった。 その日、サッカーの部活がなかった小田桐くんは、まっすぐ家に帰らなかった。 帰りの電車を途中で降りて、小田桐くんは見知らぬ商店街を足早に歩いて行ったのだ。 (どこに向かってるんだろう……?) 私は小田桐くんの後を追いながら不審に思った。 駅前の商店街はとてもこじんまりしたもので、駅から五十メートルほど歩いたところにある電気屋のところで終わっていた。そこから先は閑静な住宅街になっている。 電気屋のはす向かいには中学校のグラウンドがあった。小田桐くんは校門の前でちょっと立ち止まった後、中学校の敷地内に入って行った。 校門から出て来る生徒たちの制服に、私は見覚えがあった。 (あれは……カナコちゃんの着てた制服と同じだ) 私は校門に刻まれた学校名を見て驚いた。そこは、中高一貫の進学校で、県内でも有数の名門校とされているところだった。 (――兄妹そろって頭いいんだなあ) しかし小田桐くんは、妹の通う中学校に、いったい何の用事があるのだろうか。 小田桐くんの後を追おうとした私は、電気屋から聞こえてきたテレビの音声にふと振り返った。 電気屋のショーウィンドウに展示されているテレビには、あの通り魔事件のニュースが流れていた。 私は、またか、と思った。ここ数日間、通り魔に関するニュースを見る機会は何度かあったのだが、その度に、例の顔写真が放映されるのでうんざりしていたのだ。 他にもっと写りのいい写真があったはずなのに、なんであの写真ばっかり使うんだろう。テレビ画面のなかでむっつりしている自分の顔を見るたびにそう思う。 私はどんよりした気分で電気屋の前を離れた。 (……あれ?) ふと気がつくと、小田桐くんの姿が見当たらなかった。 どうやら、テレビに見入っているうちに見失ってしまったようだ。もう中学校の校舎に入ってしまったのかもしれない。 私は慌てて校舎に向かって飛んで行った。 校舎内をさんざん探しまわったが、小田桐くんの姿を見つけることはなかなかできなかった。 有名私立中学だけあって、校舎は広くて綺麗だった。行き交う生徒たちも、なんとなく育ちのよさが感じられる子ばかりだった。私は、自分がひどく場違いな存在のような気がして、だんだん惨めな気分になってきた。 ずいぶん長いこと校舎内をさまよったあと、私は思った。 (――私、いったい何やってんだろう) ふいに、自分がバカバカしいことをやっているような気がしてきて、私は小田桐くんを探すのをあきらめた。 (どうせ、もうすぐ生まれ変わっちゃうんだから、私がじたばたしたところでどうしようもないんだ) そうだ。どうして、そんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。 もう、私にできることは何もないんだ。 無力感だけが、心の中に満ちていく。 私は校舎の壁を抜けると、ふらふらと校門に向かって漂っていった。なんだかぐったりして、幽霊なのに身体が重くなったような気がした。 その時だった。 私は、校門の影から道路のほうをじっと見つめている小田桐くんの姿を見つけた。 (いた……!) けれど、私は小田桐くんに近づくことができなかった。 小田桐くんは、ぞっとするほど暗い目つきで、駅へと向かう道を見つめていたのだ。 しばらくして、小田桐くんは校門から離れ、さっきよりはゆっくりしたペースで商店街を歩いて行った。視線は相変わらず、食い入るように前方の一点を見つめている。 (……誰かを尾行している?) 私は心なしか寒気を感じた。 小田桐くんの視線の先には、中学校の女子生徒たちが集団で下校していた。 そして、そのなかに、私はここ数日間で見慣れた姿を発見した。 他の子たちに比べてひときわ身長が高かったのですぐに分かったのだ。 ――小田桐くんの妹、カナコちゃんだった。 カナコちゃんに対する小田桐くんの尾行は、それから数日間続いた。 学校が終わると、小田桐くんは部活もさぼってカナコちゃんの中学校に向かい、下校する妹の後ろをずっと付け回しているのだ。 カナコちゃんを見つめる小田桐くんの眼差しは、なんだか獲物を狙う肉食獣のようだった。 私は暗澹たる思いで、そんな小田桐くんの様子を観察しつづけた。 事ここに及んで、ようやく私は小田桐くんが通り魔の犯人であることを受け入れざるをえなくなった。 ――次のターゲットは、実の妹、小田桐カナコ。 おぞましさと同時に、得体の知れない怒りが心の底からこみ上げてくる。 私を狙った時も、あんな風に後を付け回して生活パターンを探っていたのだろうか。 (……絶対に許せない) 小田桐くんが病院に来てくれた時、あんなに舞い上がっていた自分が馬鹿みたいに思えてきた。小田桐くんに裏切られたような気がして、自分でも驚くほど激しい憎悪が湧いてくる。 私はなんとしても小田桐くんに罪を償ってもらいたかった。もう二度と同じような犯行を繰り返してほしくなかった。 しかし、幽霊になった私にいったい何ができるというのだろう? もう時間がなかった。明日の夕方には、私は生まれ変わらなくてはならないのだ。私は再び、死神少年を呼び出した。 現れた少年に向かって、私は開口一番、こう訊ねた。 「ねえ、なんとか小田桐くんと話す方法ってない? 幽霊になった私が化けて出れば、小田桐くん、きっとものすごく怖がって、通り魔をやめると思うんだけど」 「方法はあるよ。ちょっと面倒っていうか、時間がかかるかもしれないけどね」 死神少年はこともなげにそう言った。 4 真夜中が近かった。 私は窓の外に浮かんで、じっと小田桐くんの様子を観察していた。 小田桐くんの部屋は二階にある。私は宙に浮いたまま、じりじりした気持ちで小田桐くんが眠りにつくのを待っていた。 (小田桐くん、まだ寝ないのかな) 死神少年が教えてくれた、小田桐くんと話す方法。 それは、小田桐くんが眠った後、彼の夢枕に立つというものだった。 死神少年は真面目くさった顔をしてこう言っていた。 「幽霊の身体は夢と同じ素材でできているんだ。だから、現実の物質には触れることはできないけれど、夢のなかであれば物に触ることもできるし、生きている人と会話を交わすこともできる。 けれど、夢枕に立つのも簡単なことじゃないんだ。まず、人間は眠っている時ずっと夢を見ているわけじゃない。相手が夢を見ている時に、うまくその中に入り込むことが重要なんだ。それに、相手と自分の波長が合うかどうかも大事なことだ。相手が心を閉ざしていたり、波長が合わなかったりすると、なかなか夢に入り込むことができないんだよ」 何はともあれ、小田桐くんが眠ってくれないことには手も足も出せないのだ。 明日はいよいよ生まれ変わってしまう日だった。チャンスは今夜しかない。 しかし、小田桐くんが床につく気配は一向になかった。小田桐くんは何をするでもなく、机に座ったままぼんやりと宙を見つめていた。 いったい、彼の頭のなかではどんな思考が展開されているのだろう。今まで殺してきた被害者の姿を思い浮かべているのだろうか。 その時、突然、小田桐くんが席を立って部屋を出ていった。私は慌ててその後を追った。 小田桐くんが廊下にでると、ちょうど隣の部屋からカナコちゃんがでてきたところだった。カナコちゃんは大柄なジャンパーを羽織っていて、これから外に出かけるようだ。 小田桐くんは、階段を下りていく妹の背中に声をかけた。 「どっか行くのか、カナコ?」 「うん、ちょっと友達に会いに」 「………」 小田桐くんの沈黙を不安と受け取ったのか、カナコちゃんはなだめるように笑って言った。 「大丈夫だよ、すぐ近くだから。心配しないで」 「……ああ」 小田桐くんはそれだけ言うと、表情のない暗い瞳でカナコちゃんを見送った。 小田桐くんはしばらくそこに佇んでいたが、やがて部屋に戻ってグレーのパーカーを羽織ると、カナコちゃんの後を追うように玄関に向かった。 (まさか、今からやるつもり!?) 小田桐くんはもどかしげな手つきで靴ひもを結ぶと、玄関を飛び出した。私も小田桐くんに続いて家の外に出る。 二十メートルほど先の路上にカナコちゃんの姿を見つけると、小田桐くんは足音を立てないようにその後をつけはじめた。 ――このままでは、カナコちゃんが危ない。 小田桐くんが足を速める。そうして少しずつ、カナコちゃんとの距離を詰めていく。 深夜の住宅街に人影はない。青ざめた街灯の光だけが、等間隔に道を照らしだしている。街灯を通過するたびに、カナコちゃんと小田桐くんの影が伸び縮みする。辺りにはひっそりと、だが確実に、禍々しい予感のようなものがたちこめはじめる。 幽霊の私にはもちろん影もないし、小田桐くんを止める力もない。私はただ、なす術もなく小田桐くんの後を追うことしかできなかった。 カナコちゃんが小田桐くんに気づく気配はまったくない。 放っておけば、カナコちゃんは確実に小田桐くんの餌食になってしまうだろう。 ――どうすればいい。どうすれば。 私は死神を呼び出すべく、心のなかで強く念じてみる。 (死神、来い来い!) けれど、死神少年は現れない。 その間にも、刻一刻とカナコちゃんと小田桐くんの距離は縮まっていく。 カナコちゃんが、前方の角を右に曲がった。 それを見た小田桐くんはついに駆け出した! 「――だめ! 小田桐くん、やめて!」 声のかぎりに叫ぶが、私の声はどこにも届くことなく宙にかき消えてしまう。 ものすごいスピードで走っていく小田桐くんの後ろから、私は必死についていく。 小田桐くんの肩に手をかけようとするが、もちろんその手には何の手応えも得られない。 (――お願い、やめて! 止まって、小田桐くん!) 小田桐くんが角を曲がる。 少し先で、カナコちゃんが足早に歩いていた。その前方に人影が見える。女の人だ。カナコちゃんの友達だろうか? 私は一瞬、安堵する。 しかし、ほっとしたのも束の間、小田桐くんは速度を緩めることなく、カナコちゃんに向かってまっすぐ駆けていく。 (まさか、二人とも襲う気?) カナコちゃんが女の人へ向かって歩いていく。 その時、私はカナコちゃんの手に何か光るものが握られているのを見る。 (――あれは!?) そして私は激しい混乱に襲われる。 小田桐くんが全速力でカナコちゃんに迫る。その顔には、激しく切迫した表情が浮かんでいる。 カナコちゃんが前を歩く女の人の背中に向かって手を上げるのが見える。 (これは一体、どういうことなの……?) 女の人が振り向く。 次の瞬間、カナコちゃんの手に握られているものを見て、女の人が声にならない悲鳴を上げる。 高々と掲げられた凶器。それは、凶悪な光にきらめくナイフだ。 (どうして……) カナコちゃんが死をもたらす一撃を下そうとする瞬間。 小田桐くんが、背後からカナコちゃんの手をがっしと掴んだ。 驚いて振り返ったカナコちゃんに向かって、小田桐くんは静かに言った。 「――やっぱりおまえが犯人だったんだな。カナコ」 女の人はほとんど声も上げず、髪を振り乱して逃げていった。 その場には、小田桐くんとカナコちゃん、そして私だけが残された。もちろん、二人は私の存在には気がついていない。 長く重苦しい沈黙を破ったのは、カナコちゃんのほうだった。 「……いつから気づいてたの?」 カナコちゃんはまったく普段通りの様子だった。おぞましいことに、口許には朗らかな微笑みさえ浮かべていた。 小田桐くんはカナコちゃんの顔を正面から見据えて言った。 「藤川が死んだ日のこと覚えてるか? あの日、俺が病院から帰った時に、おまえと藤川のこと話しただろ?」 「ええ、話したわよ」 「その時からだよ。おまえが怪しいと思ったのは」 「………」 カナコちゃんは動ずる様子もなく、かわいらしく微笑んでいた。それで? というように首をかしげて見せる。ナイフを手にしたままそんな愛らしい仕草をするのが、いっそう凶悪に感じられた。 「――あの時、おまえは藤川と会ったことないって言ってたよな。テレビで顔写真見ただけだって」 「ええ」 「だけど、おまえは藤川のこと、こう言ったんだ。ちっちゃいけどクールな感じの子って。テレビに映されていたのは顔写真だけだったのに、どうしておまえは藤川が小柄だってこと知ってたんだ?」 「………」 カナコちゃんの表情は変わらない。得体のしれない微笑みを浮かべたまま、じっと小田桐くんを見つめている。 そんなカナコちゃんの様子を見て、小田桐くんがギリッと唇を噛んだ。 そして、怒りを抑えた声で続けた。 「その時はまさかと思ったよ。おまえが通り魔殺人の犯人だなんてあり得ないって。だけど、一応、おまえの学校に行ってアリバイを調べてみたんだ。あの日、おまえはブラスバンドの特訓があって遅くなったって言ってたよな?」 「ええ」 「でも、顧問の先生に聞いてみたら、そんな特訓はやってないって言われたんだ。これはますます怪しいと思って、ここ何日間かおまえのこと監視してたんだよ」 小田桐くんがカナコちゃんを尾行していたのはそういうわけだったのか……。 私は、小田桐くんを犯人と疑っていた自分を恥じた。 カナコちゃんは確かに小田桐くんと背格好が似ているから、私が小田桐くんと見間違えてしまったのも無理はない。しかも、彼女はあの時、小田桐くんのパーカーを着ていたのだ。 けれど、おそらくそれも彼女の計算のうちだったのだろう。カナコちゃんは背が高いから、男物の服を着ていると女の子には見えないのだ。 小田桐くんは感情を無理に押し殺したような声音でカナコちゃんに訊ねた。 「……どうしてこんなことしたんだ?」 カナコちゃんはにっこり笑って応えた。 「――楽しいからに決まってるじゃない。ゲームなのよ、これは」 瞬間、小田桐くんの目の中に、ぞっとするほど激しい憎悪の炎が燃え上がったような気がした。私は今にも小田桐くんがカナコちゃんを殴りつけるのではないかと思った。 けれど、小田桐くんは、ひとつ大きな溜め息をつくと俯いて言った。 「――一緒に警察に行こう、カナコ。今さら自首しても遅いかもしれないけどな」 「ええ、そうね。今さら自首してもなんにも変わらないわ。三人殺そうが四人殺そうが同じことよ」 そう言うと、カナコちゃんは大きく目を見開いてにやりと笑った。 ――嫌な予感がした時には既に遅かった。 (――!!) カナコちゃんはなんのためらいもなく、手にしたナイフを小田桐くんの胸に突き立てていた。 「――小田桐くん!!」 絶叫する私の目の前で、小田桐くんの顔が苦悶に歪む。 小田桐くんの服が、たちまち血に染まっていく。 「……ぐ……が……」 言葉にならない呻きを漏らしながら、小田桐くんの大きな身体がゆっくりとくずおれた。 深夜の住宅街に、カナコちゃんのおぞましい高笑いが響き渡る。 やがて、遠くのほうからパトカーのサイレンが近づいて来るのが聞こえてくる……。 5 丘の上に立つ一本の楡(にれ)の木の下に、私は座っている。 眼下には、緑に萌える草原が地平線の彼方にまで広がっている。吹き渡る風が、広大な草原をそよそよと波立たせる。厚い雲の隙間から射し込む陽の光に照らされて、緑の波が時折ちらちらときらめく。 それは、息を飲むほどに美しい光景だった。 私の傍には、小田桐くんが目を閉じて横たわっている。 その顔は今まで見たこともないほど安らかな表情を浮かべていた。そうしていると、小田桐くんはいつもよりほんの少し幼く、あどけなく見えた。 まつげの長いその瞳が、やがてゆっくりとひらかれる。 「――小田桐くん、気がついた?」 私がそっと声をかけると、小田桐くんは不思議そうな目をして私を見る。 「……藤川?」 私は小田桐くんを安心させるように微笑んで言った。 「よかった、一命は取り留めたみたいね。一時はほんとに危なかったけれど」 「……ここは?」 怪訝そうに辺りを見回す小田桐くんに私は説明した。 「ここは、小田桐くんの夢のなか。あなたが昏睡状態だったから、さっきまでは真っ暗だったんだよ。ほんとに怖かった」 「――俺のこと、ずっと呼んでたのはおまえか?」 「ええ」 小田桐くんがゆっくり立ち上がる。そして、二三歩あるいて立ち止まると、丘の下に広がる壮大な風景にしばし目を奪われていた。 私も小田桐くんの傍に立って、そっと彼の横顔をうかがった。 小田桐くんは強い風に吹かれながら、ただじっと立ち尽くしている。 やがて、小田桐くんは哀しそうに目を伏せて言った。 「……カナコはどうなった?」 「――逮捕されたよ。あの後、カナコちゃんに襲われた女の人が警察に通報してくれたの。小田桐くんもすぐに病院に運ばれて、ずっと手術を受けてたんだよ」 「そうだったのか……」 小田桐くんはしばらく黙ったまま俯いていた。 風の音と草がこすれ合う音だけが広大な空間を満たしている。 やがて、小田桐くんが私を見つめてぽつりと呟いた。 「……おまえも夢なのか」 「ううん。私は本物の幽霊よ。あなたに会うために、夢のなかに入り込ませてもらったの。幽霊だけど、手で触ることもできるのよ。ほら」 私はそっと小田桐くんの手を取った。自分でも不思議なほど、照れや迷いは感じなかった。 小田桐くんの手が、一瞬びくっとこわばったけれど、すぐに優しく私の手を握り返してくれた。 (ああ……) 手と手をつなげる。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。 けれど、小田桐くんは握りしめた私の手をじっと見つめたまま、苦しそうな顔をしていた。 「……小田桐くん?」 俯いた彼の瞳から、一筋の涙がこぼれた。 「――本当にすまなかった、藤川」 「え……」 「俺がもうちょっと早く気づいてれば、おまえも死なずに済んだかもしれないんだ。すぐそばに殺人犯がいたのに、俺はなんにも気づかずに……」 そこから先は言葉にならなかった。小田桐くんは肩を震わせて、静かに嗚咽していた。 「――いいんだよ。小田桐くんはとてもよく頑張ってくれたもの。それに――」 私は小田桐くんに一歩近づいた。涙に濡れた彼の頬にそっと手を添えて、言う。 「それに、こんなことがなかったら、私きっと、一生あなたに想いを伝えられなかった」 「……?」 怪訝そうな顔をする小田桐くんに、私は意を決して告げる。 「――ずっと好きだったよ、小田桐くん」 「………」 小田桐くんの返事は期待していなかった。 私はただ、小田桐くんに自分の想いを伝えられればそれで十分だった。 小田桐くんは唇を引き結んだまま俯いている。 私は無理に微笑みを作った。別れの時間が近づいている。 「――私、もう行かなきゃ」 そう言って、私は小田桐くんの頬から手を離した。 「さようなら。最後にあなたと話せてよかった……」 「――待って!」 小田桐くんが私の手を取った。 そのままぐいと私を引き寄せると、大きな身体で包み込むように私を抱きしめた。 (――!) 突然のことに、私は声も出せなかった。 小田桐くんは何も言わなかった。けれど、肌のぬくもりを通じて、彼の想いが痛いほど伝わってくる。 私たちは、しばらくそうして、黙ったまま抱き合っていた。 自分は今この瞬間のためだけに、これまで生きてきたのかもしれない―― 私はどこか熱に浮かされたような頭の奥で、ぼんやりとそんなことを思った。 「――小田桐くん、ひとつだけお願いがあるの」 私は小田桐くんの腕に抱きしめられたまま言った。 「他の女の子のこと、好きになってもいいから……私のこと、ほんの少しだけでも覚えていてくれる?」 小田桐くんは私の顔を見下ろすと、大きく頷いて言った。 「――ああ。きっと忘れないよ」 「ありがとう」 私は小田桐くんから離れた。小田桐くんが見守る前で、私の体が静かに浮き上がる。お別れの時間だ。 そのまま私は、楡の木をこえて、死神少年が待っているはずの遥かなる高みへと上昇していく。 思い残すことはもう、何もなかった。 雲が次第に晴れ、辺りが強い光に包まれていく。 最後にもう一度、小田桐くんのほうを振り向くと、彼は泣き笑いのような表情を浮かべて大きく手を振っていた。 (ありがとう、小田桐くん……) その姿をしっかり目に焼きつけてから、私は光のなかに飛び込んでいく。 ――新しい世界、新しい私へと向かって。 |