| 野々宮真司さん 著作 | トップへ戻る | | ||
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教室の中に、シャーペンを走らせる音だけがコツコツと響いていた。 算数のテスト問題をとっくに解き終えた僕は、壁の時計をちらりと見やった。 1時半だ。 (そろそろ、やるか……) 教卓の方を伺うと、担任の茅葺(かやぶき)先生と目が合った。いかにも体育大出身らしいジャージ姿の教師は、腕を組んだまま僕に向かってうなずいた。 それが合図だった。 僕は、解き終えた解答用紙を提出すべく、勢いよく席を立った。その拍子に、後ろの席に座っていた田村の筆箱に手が当たる。田村の筆記用具が床の上に散らばった。 「あ、ごめん」 僕はしゃがみ込んで筆記用具を拾い集めた。田村が、太った顔に気弱げな微笑を浮かべて言った。 「あ……自分で拾うからいいよ、桐島くん」 僕は田村を無視して筆記用具を拾い続けた。そして、落ちていた消しゴムを手に取ってしげしげと眺めた。田村がそんな僕を見て怪訝そうな顔をする。 それから、僕は打ち合わせ通り、大きな声で言った。 「先生。田村君の消しゴムになんか書いてあります」 「なんだと」 茅葺先生は大柄な体でのしのしとこちらに歩み寄って来た。クラスの視線が一斉に集中する。たちまち、田村が怯えた顔をして俯いた。 僕は田村の消しゴムを先生に手渡した。そこには、今日のテスト問題を解くための公式がサインペンで書き込まれていた。 先生は田村に向き直り、怒るというよりも、哀れむような声音で言った。 「田村君。いくら君がバカだからって、こんな卑怯な手を使ってはいけないよ」 クラス中の生徒たちがくすくすと忍び笑いを漏らした。追い打ちをかけるように、先生が言う。 「罰として、今日の掃除は君一人にやってもらおう」 「あ、あの、ぼくは……」 田村は、何かを言いかけたが、先生に睨まれて黙り込んでしまった。今日の掃除当番だった生徒たちは、嬉しそうに先生を見ていた。 先生は、田村の消しゴムを高く掲げて言った。 「みんなは、カンニングなんて絶対するなよ。そんなことしたら、田村君と同類になってしまうからね」 生徒たちは元気よく、「はーい」と返事をした。田村は泣きそうな顔をして俯いていた。 すべて計画通りだった。 「ご苦労だったな、桐島」 放課後、『学級安定委員会』の会合に出席した僕は、茅葺先生から労いの言葉をもらった。先生は褒美として、明日のテストの解答が印刷されたプリントを僕にくれた。 「いつもありがとうございます、先生」 「お礼を言うのはこっちの方だよ。おまえのような優秀なエージェントがいてくれて、先生も大助かりだ。これからもよろしく頼むぞ」 「はい、がんばります」 僕はランドセルを背負って、委員会の席を後にした。 学級安定委員会。それは、学級崩壊を防ぐため、この城山小学校に極秘裏に創設された組織である。 その存在は教師たちと、「エージェント」と呼ばれるごく一部の生徒にしか知られていない。 学級安定委員会の活動内容は、クラスに一人ずつ指定される「ターゲット」を、いじめられっ子に仕立て上げることだった。「ターゲット」には、教師に反抗できない気の弱い子供が選ばれる。委員会によって意図的に作り出された「いじめられっ子」は、教師への不満をそらしたり、他の生徒への見せしめにするために利用される。また、一人のターゲットをみんなでいじめることは、クラスの一体感を保つ上でも効果的だった。つまり、学級安定委員会とは、組織的にいじめを遂行することで学級崩壊を予防する機関なのだ。 各クラスには、「エージェント」が一人ずつ配属されている。エージェントは教師と協力していじめを煽動し、クラスの一体感を保つべく秘密裏に活動する。僕、桐島悟(きりしまさとる)もまた、そんなエージェントの一人だった。 僕の所属する5年3組における現在の「ターゲット」は、田村優という男子生徒だった。今日の消しゴム騒ぎも、すべてエージェントである僕が仕組んだものだ。あの消しゴムは本当は田村のものではなく、僕があらかじめ作っておいて、自分で落としたものだった。 僕は優秀なエージェントとして、教師たちからの信頼も篤かった。最初のうちは罪悪感を感じたりもしたが、そのうちすっかり慣れてしまった。慣れてしまえば、こんなにおいしい立場はなかった。教師には気に入られるし、さまざまな特典が与えられるし、なによりも自分がいじめられることは決してないという安心感があった。 廊下を歩いていくと、田村が一人で掃除をしているのが見えた。田村は僕に気づくと、何か言いたそうな目をしてこちらを見た。僕は目をそらして、無言のまま田村とすれ違った。 二学期が始まった。始業式は校庭で開かれ、校長先生がお決まりの退屈な話を延々と繰り広げた。 始業式のあと、担任の茅葺先生が、僕のところに来て小声で言った。 「田村が転校した」 「えっ」 驚く僕に、先生は不機嫌そうな顔で続けた。 「父親が転勤になったそうだ。――残念だなあ、あいつはうってつけの『ターゲット』だったのに」 「そうですね……」 先生に相槌を打ちながら、僕は田村の気弱な笑顔を思い出していた。 これでようやく田村は「ターゲット」の苦しみから解放されたわけだ。僕は心のどこかでほっとしている自分に気がついた。 (僕にも、少しは良心のかけらが残っているんだろうか……) だが、良心などというものは、エージェントの僕にとっては邪魔なだけだった。僕は、また新たなターゲットに対していじめを仕掛けなければならないのだ。僕は、ただ命令を遂行する機械のようになるべきだったし、そうなりたかった。そうすれば、心の痛みも感じずに済むだろう。 僕は田村のことを頭から追い払った。気を取り直して先生に訊ねる。 「それで、新しいターゲットはどうするんですか?」 「ああ、そのことなんだが――委員会が指名した新しいターゲットは、『雪村理沙』だ」 「雪村理沙……!?」 思わず大きな声を出した僕に、先生が怪訝そうな目を向けた。 「どうした? なんか問題でもあるか」 「い、いえ……大丈夫です」 委員会の決定は絶対だった。逆らえば、今度は自分が新たなターゲットにされてしまうのがオチだった。ずっとエージェントの仕事を続けてきた僕には、ターゲットにされる恐ろしさが嫌というほどわかっていた。委員会はそうして脅すことによって、僕たちエージェントを固く縛っているのだ。 「頼んだぞ。おまえには期待してるんだ」 先生はにっこり笑って、逞しい手で僕の肩を叩いた。 僕は内心の動揺を押し隠しつつ、 「任せてください」と、応えた。 雪村理沙は、僕の幼なじみだった。 家が近く、幼稚園でも同じ組に入っていたから、幼い頃はよく遊んでいた。その頃の雪村は、幼いながらもずいぶん恋愛に積極的な少女で、よく僕にキスしてきたりした。「大きくなったら悟くんと結婚する」と周囲に言いふらして僕を困らせたこともあった。雪村は色白で可愛らしい顔立ちをしていたから、僕は友人たちにずいぶん妬まれたものだった。 もちろん、そんな無邪気な関係は、幼稚園児だからこそのものだった。小学校に入ってからは、雪村との関係は疎遠になった。四年生まで違うクラスだったせいもあるが、それだけが原因じゃない。小学生ともなれば、男子と女子の間には薄い膜のようなものができるのだ。その薄い膜が、僕らを遠ざけていた。子犬がじゃれあうような無邪気な関係は、いつまでも続くものではなかった。 別に、そのことを寂しいと思ったことはない。五年生になり、初めて雪村と一緒のクラスになっても、特に関係が深まったわけではなかった。雪村のほうも、すっかり大人しい少女に成長し、積極的に僕に近づいてくることはなかった。僕にとって、雪村はもう、たくさんいる女子のうちの一人に過ぎなかった。 だから、雪村が新しいターゲットに指定されたからと言って、なにも問題はないはずだった。僕は今まで通りの仕事を淡々とこなせばいいだけだ。 それなのに、どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。始業式の校庭から教室に戻る僕の足取りはいつになく重かった。 少し前を、雪村が友人と話しながら歩いていた。三つ編みにされた薄い色の髪が、少女の両肩で揺れている。僕はそれをぼんやりと見つめながら、雪村の肩は、こんなにも、か細かっただろうか、と思った。 僕は雪村に向かって、呼びかけた。 「雪村」 雪村が振り返った。不思議そうな顔をして僕を見ている。 「なに?」 「ええと……」 僕は言葉に詰まった。声をかけたものの、僕は何を言うかを考えていなかった。 いったい、僕に何が言えるのだろう。これから、彼女をいじめようとしているこの僕に。 さんざんためらった後、 「いや、なんでもないよ」 それだけ呟いた僕に、雪村はおかしそうに笑って言った。 「変なの。でも、珍しいね、悟くんから話しかけてくるなんて」 僕は、その美しい笑顔を正視できず、ただ俯くことしかできなかった。 2 けっきょく僕は、雪村をいじめられっ子に仕立て上げていく工作を翌日から始めていた。自分の身を守るためには、そうするよりほかなかったのだ。 その日の朝、僕が教室に入っていくと、何人かの女子が集まって騒いでいた。教室の後ろに備え付けられた棚の前だ。 僕は彼女たちの後ろから、棚を覗き込んだ。 棚の上には、昨日、みんなが家から持ち寄った夏休みの課題作品が並べられていた。牛乳パックで作った船や、手袋でつくった人形などが所狭しと棚の上に置かれている。 その中の一つ、手編みの生地でつくられたクマのぬいぐるみが、無惨にもバラバラに解体されていた。頭も四肢ももがれて、中の綿がはみ出してしまっている。誰かの悪戯であることは明らかだった。 「ひっどーい」 「誰がこんなことやったんだろう」 みんなが口々に言うなか、一人の女子が、怒りのこもった声で言った。 「……絶対に許さない」 それは、ぬいぐるみを作った当の本人、神崎しおりだった。強気な性格のおかげで、女子のなかではリーダー的な立場にある生徒だ。 周囲にいた女子生徒たちが追随するように言った。 「しおりちゃん、絶対、犯人見つけようよ」 「そうだよ。こんなの、ひどすぎるもん」 彼女たちの後ろにいた僕は、タイミングを見計らって言った。 「……昨日の放課後に、雪村がやったのかもしんないな」 女子たちが一斉に振り返って僕を見た。 「桐島、それ、本当?」 神崎が僕に詰め寄って言った。僕はとぼけた風を装って応えた。 「そんな噂を聞いたけどね。僕には分かんないや」 僕はそれだけ言うと、その場を離れた。 実際のところ、犯人は僕だった。今朝、他の生徒が誰もいないうちに登校して、こっそりぬいぐるみをバラしておいたのだ。女子のリーダー格である神崎のぬいぐるみを選んだのも、もちろん意図してのことだった。工作を済ませた僕は、図書室で時間をつぶした後、あたかもたった今登校してきたようなふりをして教室にやってきたのだった。 僕は自分の席についた後も、神崎たちのやり取りに耳を澄ませていた。 「ねえ、どう思う?」 「きっと雪村がやったんだよ。だって、雪村、しおりのことあんまりよく思ってないみたいだったし」 「そうなの?」 「絶対そうよ。こないだのお祭りの時だって、私たちが誘ったのに来なかったじゃん」 「そうそう。あの子、前からなんか生意気だと思ってたんだよね〜」 僕は複雑な心境で、下唇を噛んだ。僕の予想通り、彼女たちは、いとも易々と雪村犯人説に飛びついた。もともと、神崎の率いるグループと雪村とは、あまり折り合いがよくなかったのだ。雪村を「いじめられっ子」に仕立て上げるための下地は十分すぎるほど整っていた。だからこそ、委員会も雪村を「ターゲット」として指定したのだろう。 「あの子、今日からシカトだね」 神崎が、審判を下すようにそう言うのが聞こえた。 それからの展開は、あっという間だった。 雪村が登校してくる頃には、すでにクラス中に噂が広まっていた。特に、女子の間では、神崎が出した雪村シカト指令が徹底して行き渡っていて、雪村は友人に挨拶するたび、完全に無視されていた。 雪村は、何が起こったのかまったく分からない様子だった。彼女は自分の席に座って、ただ途方に暮れていた。 僕は本を読むふりをして、できるだけ雪村のほうを見ないようにした。僕の胸のなかで、得体の知れない黒々とした塊が大きく膨らんでいくような気がした。 結局その日、雪村に話しかけようとする者は誰もいなかった。雪村はずっと、辛そうに顔を俯けて過ごしていた。 とどめは、授業が終わった後の「帰りの会」だった。茅葺先生が、突然、声を高めて言ったのだ。 「みんなに言っておかなきゃいけないことがある。今日、とても残念なことが起こってしまったんだ」 それまで騒いでいた生徒たちが、しーんと静まり返った。僕は、始まったな、と思った。すべては打ち合わせ済みだった。先生は皆が自分に注目するのを待って、ゆっくりと切り出した。 「後ろの棚に置いてあった神崎さんのぬいぐるみが誰かに悪戯された」 みんなは緊張した面持ちで、後ろの棚を振り返ったり、互いに顔を見合わせたりした。 「誰がやったことか分からんが、先生は悲しく思う。先生は、みんなに、人の心の痛みが想像できる人になってほしいんだ」 そして先生は、はっきりと雪村の方を見て言った。 「もし、このなかに犯人がいるんなら、今すぐ申し出なさい。先生は怒らない。ただ、二度と同じことをしないと約束してほしいんだ」 教室は水を打ったような静けさに包まれたままだった。誰もが横目で雪村の様子をうかがっているのが、わかった。 先生は雪村をじっと見つめて黙っていた。雪村は俯いたままだった。僕の席からは雪村の後ろ姿しか見えなかったが、その細い肩が微かに震えているのがわかった。 やがて、先生はあきらめたように首を振ると、溜め息をついて言った。 「まあ、いいだろう。自分から言い出す勇気がないのなら、仕方がない。だけど、いつか必ず謝ってほしい」 帰りの会が解散されるとすぐに、僕は逃げ出すように教室を後にした。ひとりぼっちで苦しみに耐えている雪村の姿を、これ以上見ていたくなかった。 雪村はたった一日で、完全ないじめられっ子に成り果てた。 それは、僕が今まで手がけてきた数々のミッションのなかでも、ずばぬけてスムーズな進行だった。翌日、先生は上機嫌で、僕の鮮やかな仕事ぶりをたたえた。 「さすが桐島だな。おまえほど有能なエージェントは他にいないよ」 「ありがとうございます」 そう応えた僕の声は、自分でも驚くほど、機械的で冷え冷えとしたものに聞こえた。 ――そうだ、僕は機械にならなくてはいけないんだ。僕は機械だ。ただのロボットだ。 僕は必死で、自分にそう言い聞かせた。そうでもしないと、胸のなかで成長していく、あの黒々とした塊が体から溢れ出て、僕をまるごと飲み込んでしまうような気がした。 職員室から昼休みの教室に戻ると、今日もまた雪村はただ一人、友人たちから離れてぽつんと座っていた。教室のあちこちで、雪村への陰口が囁かれていた。神崎たちのグループは、雪村の方を見てにやにや笑っていた。僕はその全てを無視し、自分の席につくとすぐに、机の上に突っ伏した。 僕は機械だ。何も見ないし、何も聞かないのだ。 はっきり言って、ここまで事態が進行してしまえば、もう僕がすることはあまりなかった。あとはただ、雪村に対するみんなの憎しみが自然に成長していくのに任せていればよかった。僕自身、雪村へのいじめを煽る工作はもう、うんざりだった。 実際、僕が何もしなくても、雪村へのいじめは日々、本格化していった。僕はそれを横目で眺めながら、それこそ機械のように淡々と日々を過ごした。雪村との関係をいっさい断ち、雪村など存在しないかのように振る舞った。そうしていれば、僕はかろうじて心のバランスを保つことができた。 けれども、茅葺先生は僕が何もしないことを快く思わなかった。先生はしばしば、自らいじめのプランを練ると、僕にそれを実行するように言ってきた。僕がそれに逆らう術はなかった。 二学期が始まって一月ほど経ったある日のことだった。体育の授業が始まる前、茅葺先生が雪村を呼んで言った。 「雪村、昨日の飼育当番はおまえだったよな?」 「――はい、そうです」 怯えた表情で、体操着姿の雪村が応えた。あの日以来、先生は雪村ばかりを集中的に注意していたから、彼女が怯えるのも当然だった。体操着に着替え終わった生徒たちは、期待と緊張を孕んだ目で、先生と雪村のやり取りを見守っていた。 茅葺先生は、声を荒げて怒るようなことは決してしない。けれども、雪村にむかって説教する先生の表情は、いつもぞっとするほど冷たいものだった。他の子供たちは、そういう場面を見るたびに、雪村への軽蔑心と先生への恐れを増幅させていくのだ。 先生は無表情のまま、雪村に言った。 「飼育小屋の鶏が一羽、殺されてたそうだ」 雪村は言葉を失っていた。ただでさえ白い肌がさらに青ざめている。 先生は淡々と続けた。 「昨晩、野良犬が入り込んだらしい。――飼育小屋の鍵がかかってなかったせいでな」 先生はそこで言葉を切って、じっと雪村を見つめた。 飼育小屋に出入りするのは、えさを与える飼育当番だけだった。したがって、鍵をかけ忘れた人間がいるとすれば、それは雪村以外にはありえないということになる。 雪村の体が、がたがたと震えだした。彼女の細い体は、今にも倒れてしまいそうだった。先生はまったく表情を変えないまま、そんな雪村を見つめていた。 「おまえのせいで、尊い命が一つ、失われてしまったんだ」 先生がことさら重々しい声でそう言うのを聞いて、僕は心のなかで黒い塊が膨れ上がるのを感じた。 雪村は、鍵をかけ忘れてなどいない。飼育小屋の鍵を僕に渡して、鶏を殺害するように指示したのは茅葺先生だった。その時、先生は僕に向かってこう言ったのだ。 『まあ、鶏なんて沢山いるんだから、一羽ぐらい殺したって構わんだろ』 先生の言葉を思い出して、僕は思わず拳を握りしめた。けれど、僕に先生を批判する資格はなかった。先生の指示にしたがって実際に鶏を殺したのは、他ならぬこの僕なのだから。握りしめた拳のうちに、昨夜、鶏の首を絞めた感触が蘇ってきて、僕の全身から、嫌な汗が湧いた。 茅葺先生は、鍵をかけ忘れた罰として、雪村を校庭の片隅にある飼育小屋に閉じ込め、そこから体育の授業を見学させた。鶏が恐ろしくて普段から飼育当番をいやがっていた雪村にとって、それは耐え難い拷問だった。 クラスのみんなは、バスケットボールやサッカーに興じつつ、鶏に追い回されて泣きそうになっている雪村の姿を面白そうに眺めていた。僕はと言えば、相も変わらず、雪村の姿が目に入らぬように、飼育小屋から遠く離れた場所で、ひたすらボールを追いかけることに集中していた。 ようやく体育の授業が終わった後、先生は雪村を飼育小屋から出すよう、僕に指示した。 僕が飼育小屋の扉を開けると、雪村がほっとしたような顔をして僕を見た。雪村は泣き腫らした目をしていた。 僕は雪村から目をそらし、そっけない調子で言った。 「もう出てもいいってさ」 その時だった。 雪村がしゃくり上げながら、僕の体にすがりついて来たのだ。 「悟くん……!」 僕の体操服の袖をぎゅっと握りしめ、雪村は幼い子供のように泣いていた。 突然のことに、僕は言葉を失った。 「悟くん……悟くん……」 ただそれだけを繰り返す彼女に、僕はなんと言っていいのか分からず、ただ突っ立っていることしかできなかった。だが僕は、自分の心のなかで何かが決壊するのを、はっきりと感じとった。 雪村はずいぶん長いこと、僕のそばで泣き続けていた。 3 僕はもう、自分の感情を押し殺すことができなくなっていた。これ以上、雪村を放っておくことはできない。僕ははっきりとそう思った。そんなことを思ったのは、エージェントの仕事について以来、初めてのことだった。 けれど、僕に出来ることはごく限られていた。雪村を表立って助けるようなことは、とてもできなかった。そんなことをすれば、先生やクラスメイトたちは、容赦なく僕を攻撃しはじめるだろう。今度は僕が新たなターゲットとして、さまざまないじめを受けることになるのだ。 僕がなによりも恐れたのは、エージェントとしていじめを煽っていたことを、雪村にばらされることだった。僕は茅葺先生にもクラスメイトにも気づかれないような形で、なんとか雪村を援護する方法を考えなければならなかった。 結局、僕が思いついた方法は、ひどく陳腐で中途半端なものでしかなかった。 ある日の放課後、僕は学校の玄関ホールの片隅で、じっと下駄箱のほうを伺っていた。 廊下のほうから、ランドセルを背負った雪村が歩いてくるのが見えた。僕は下駄箱の陰に隠れて、そっと雪村の様子を観察した。 クラスメイトたちが、友人同士集まって次々と下校していくなか、雪村はひとりぼっちで廊下を歩いていた。俯き加減のその姿は、いくぶんやつれて見えた。 やがて、雪村は下駄箱の前に来ると、靴を取り出そうとした。ふと、その手が止まる。雪村は『なんだろう?』という顔をして、自分の靴の上に置いてあった紙切れを取り上げた。 それは、僕がこっそり書いておいた雪村への手紙だった。ついさっき、急いで書き上げたので、文面はごく簡単なものだった。 『雪村さんへ。ぼくはいつも君の味方です。事情があって、名前は言えないけど、ずっと君を見守っています。だから、どうかくじけないでください。クラスメイトより』 名前を伏せたのは、教室にいる時、雪村が僕を頼ってくるようなことがあると困るからだった。先生やクラスメイトたちの手前、教室での僕はあくまでも冷徹なエージェントに徹しなければならなかったのだ。 自らいじめを煽動しておきながら『君の味方だ』などと書いている自分が嫌になった。雪村を励ますために、この程度のことしかできない自分を情けなくも思った。だが、この手紙を読んで、雪村の苦しみが少しでも軽くなるのなら、それでいいと僕は考えたのだ。 雪村が手紙を開いた。僕は固唾を飲んでその様子を見守った。 僕が予想していた以上に、手紙の効果は大きかった。 雪村は最初、驚きに目を見張った。それから、手紙の文面を何度も繰り返し、目で追っていた。まるで、その言葉を、一言一句しっかりと心のなかに刻みつけるかのように――。 やがて、雪村は手紙を胸に当てると、目を閉じて、じっとその場に立ち尽くした。その横顔は、いつになく安らかで、少し微笑んでいるようにも見えた。 雪村の姿がそれほど綺麗に見えたことは、今までなかった。その姿に見とれる僕の目に、なぜか涙が込み上げてきた。 僕は泣きそうになるのをぐっと堪えて、静かにその場を立ち去った。 僕は、ただひたすら安堵していた。自分の罪がほんの少し軽くなったような気さえした。もちろん、それがただの誤摩化しでしかないことも分かっていたけれど、それでも、雪村のその表情が、僕のなかに巣食っていたあの黒々とした塊を少しだけ溶かしてくれたのは確かだった。 あの手紙によって、雪村の孤独が少しでも癒されてくれればいい。僕は強く、そう願った。 だが、僕の思いとは裏腹に、雪村へのいじめは日に日にエスカレートしていった。 今では、雪村の持ち物が隠されることなど日常茶飯事だった。神崎たちによる雪村シカト作戦も、相変わらず続いていた。自分の机のなかにカエルの死体を放り込まれた雪村が、なす術もなく泣いている時も、助けようとする者は誰もいなかった。 僕はひそかに、雪村を励ます手紙を書き続けた。最初と同じように下駄箱に入れておくこともあったし、雪村の机のなかに入れておいたこともあった。 いじめが酷くなるにつれて、雪村の顔からは次第に表情が消えていったが、僕の書いた手紙を発見する時だけは、その顔にわずかな光がさした。つらい出来事がある度、雪村は僕からの手紙をそっと取り出して、長いあいだ飽くことなくその文章を見つめていた。僕の書く手紙は、いつもごく短く、代わり映えのしないものだったけれど、雪村はまるで物語に没頭する読者のような熱心さでそれを読んでいた。そんな雪村の表情を見るにつけ、僕はまた新しい手紙を書かなくては、という気分にさせられるのだった。 僕は雪村の苦しみを軽くしたい一心で、手紙を書く以外にも、さまざまな努力を続けていた。僕が手紙を入れるために雪村の下駄箱を覗くと、そこにはしばしば、雪村の嫌がりそうな虫や、『殺す』などと書かれたメモが入っていた。そういうものを見つけると、僕はすぐにそれを下駄箱から取り出し、かわりに僕が書いた手紙を入れておいた。 雪村の持ち物を誰かが隠しているのを発見した時は、ひそかに元に戻しておいた。どうしても隠し場所が見つからない時は、かわりに、自分が持っている物を雪村の机に入れておいたりもした。雪村は自分の物ではない道具が机のなかにあるのを見つけると、不思議そうな顔をして、教室を見回していた。 こうした僕の活動は、誰にも気づかれることなく、ひそやかに行われていた。長いことエージェントとして活動していたおかげで、僕はそういった隠密の行動に慣れていたのだ。 一方で、僕は先生が命令するエージェントとしての仕事もこなさなくてはならなかった。茅葺先生が雪村に対する迫害の手を緩める気配はまったくなく、それどころか、それはますます厳しさを増していた。 茅葺先生は、僕に次々と新たなミッションを与えた。先生は、クラスの一体感の維持という委員会本来の目的を超えて、いまや自分自身の楽しみのために、雪村へのいじめを煽っているようだった。僕は雪村を励ます手紙を書く傍ら、彼女へのいじめ工作も仕掛けるという、まるで二重スパイのような生活を送っていた。 僕は毎日をびくびくして過ごした。雪村を助けていることがみんなにばれてはいけなかったし、いじめを煽っていることが雪村にばれてもいけなかった。僕はこれまで以上に慎重に振る舞わなければならなかった。今のところ、僕は全てをうまく隠しおおせていたけれど、それがいつまで保つかは分からなかった。僕は、誰にも言えない秘密をどんどん抱え込み、そのたびに神経をすり減らしていった。 いったい、僕はなにをやっているのだろう。 飼育小屋で雪村が僕に泣きついてきたあの日、僕は彼女を守りたいと思ったはずだった。 でも、いま僕がやっていることは、彼女を傷つけては癒し、傷つけてはまた癒すという不毛な繰り返しでしかなかった。どこにも出口の見えないその生活は、確実に僕の精神を蝕んでいった。 結局のところ、そのすべては僕の中途半端さが原因だった。僕は、機械に徹することもできず、かと言って、雪村にかわって自分がターゲットになる覚悟もできない臆病者だった。 雪村が、こんな僕の生活を知ったら、どんな顔をするだろうか。 その時のことを想像すると、僕はたまらなく恐ろしくなった。 ある日の放課後、僕が学級安定委員会の会合を後にして教室に戻ると、雪村が一人で掃除用具を片付けていた。雪村は今日も、しごく些細なことで先生から注意され、たった一人で掃除をするように命じられていたのだった。 秋の日差しは、もうだいぶ赤みを帯びて傾いていた。教室に入って来た僕を見ると、雪村は弱々しい微笑みを浮かべて言った。 「……また、居残りさせられちゃった」 雪村は、以前に比べるとだいぶ痩せたようだった。透き通るように白い肌とあいまって、その姿はどこか病人じみてさえいた。 僕はいたたまれなくなって、思わず雪村から目をそらした。 教室には、僕と雪村しかいなかった。雪村は、帰り支度をしながら僕に言った。 「悟くんも大変だよね。こんな時間まで学校に残って」 僕は表向き、生徒会の役員ということになっていた。 本当は、学級安定委員会で、明日のいじめのプランを先生と話し合っていたなどとは、口が裂けても言えなかった。 僕は、雪村のほうを見ないまま、ぼそっと言った。 「……それほど大変じゃないよ」 雪村のほうが、よっぽど大変だよ。僕なんかより、何倍も、何十倍も大変だよ。 僕はその言葉をかろうじて飲み込んだ。僕が手紙の主であることを、雪村に悟られてはならない。僕はできるだけそっけない態度を貫くことにした。 雪村のほうをうかがうと、彼女は机の上に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。そして、僕のほうに振り返って、唐突に言った。 「夕焼け、きれいだね」 僕はなんと言っていいか分からず、ただ頷きを返した。 雪村が、僕に訊ねた。 「悟くんも、これから帰るの?」 僕は返答をためらった。雪村とは家が近かった。だが、一緒に帰るわけにはいかない。雪村と歩いているところを、誰かに見られるのはまずかった。 「――僕は、まだ用事があるから」 しばらくの間の後、僕はそう応えた。雪村は一言、 「そっか」 と、言った。逆光のために、雪村の表情はよく見えなかった。 雪村は、自分のランドセルを背負って歩き出した。教室の出口でもう一度、僕のほうを振り返って言った。 「それじゃ、さよなら」 「ああ。じゃあな」 それが、僕が雪村と交わした最後の言葉になった。 翌日の朝。 朝食を食べ終えた僕は、学校へ行く支度をしていた。僕は机の上の手紙を手に取った。それは、昨晩あたらしく書き上げた雪村への手紙だった。昨日、雪村と別れたあと、僕は教室で手紙を書き始めた。『用事がある』と言った手前、僕はすぐに帰るわけにはいかなかったし、前に比べてすっかりやせ衰えてしまった雪村の姿を見ていたら、書かずにはいられなくなったのだ。僕はかつてない真剣さで手紙の執筆に取り組み、さらにそれを家に持ち帰って推敲を重ねた。結果として、それは僕が今まで雪村に書いた手紙のなかでいちばん長いものとなった。 僕は手紙をランドセルに仕舞い、自分の部屋を出た。リビングでは、まだパジャマ姿の両親がテレビを見ながら朝食を食べていた。 「行ってきます」 僕は両親に声をかけて、リビングを通り抜けようとした。その時だった。テレビを見ていた母親が、突然言ったのだ。 「あらっ。これ、うちの近所じゃない」 僕は思わずテレビの方を振り返った。 NHKの男性アナウンサーが、淡々とした声でニュースを読み上げていた。 「――昨夜8時頃、横浜市緑区のマンションの中庭で、女の子が倒れているのを住民が発見し、警察に通報しました。女の子はすぐに病院に運ばれましたが、全身を強く打っており、まもなく死亡しました。女の子は、近くの城山小学校に通う小学五年生、雪村理沙さん11歳で、」 ――雪村理沙。 「自宅の部屋からは、『もう生きていくのがつらい』『お父さん、お母さん、いままで育ててくれてありがとう』などと記された遺書が見つかっています。警察では、理沙さんがマンションから飛び降り自殺したものと見て、調べを進めています」 ――雪村が、自殺。 「遺書には、自殺の詳しい動機などは書かれておらず、城山小学校の金子昌幸校長は、『理沙ちゃんは明るく活発な子で、いじめなどもなかったと聞いている。なぜこんなことになってしまったのか、まったく分からない。たいへん残念で悲しく思う』とコメントしていました。――それでは、次のニュースです」 母親が、緊張にうわずった声で、僕に言った。 「理沙ちゃんって、あの理沙ちゃんよね……?」 呆然としていた僕は、母親の声で我に返った。 ――雪村が、死んだ。 僕は、こわばった表情でこちらを見ている母親を無視して駆け出した。 「ちょっと、悟!?」 母親が背後で僕を呼んだが、僕はいっさい振り返らずに家を飛び出した。 4 僕はランドセルを背負ったまま走り続けた。 学校ではなく、雪村が運ばれた病院に向かって。 テレビに映っていた病院は、家から歩いて1時間ほどのところにある大学病院だった。僕も以前、骨折の治療のために通っていたことがある。 空には、灰色の雲が重くたちこめていた。空気はいちだんと冷え込み、辺りには冬の気配が漂いはじめていた。通学路を、学校とは逆の方向に走っていく僕を見て、城山小学校に登校する生徒たちが、不思議そうな顔で振り返った。 僕は全力で走った。走ることに専念して、何も考えないように努力した。けれども、あとからあとからいろいろな思いがわき上がってくるのを止めることはできなかった。 雪村が死んだということを、僕はすぐには事実として飲み込むことができなかった。 何かの間違いだ。きっとそうだ。雪村が死んでしまうなんて、そんなことがあってはならないんだ。 僕は走りながら、何度も自分にそう言い聞かせた。 だが、そんな僕の心の声は、昨日見た雪村の姿が思い出されるにつれ、簡単に打ち消されてしまうのだった。 痩せ細った雪村の姿は、まるで、今にも溶けて消えてしまいそうなほど儚く見えた。いま思い返してみれば、そこにはたしかに濃厚な死の香りが漂っていたのだ。 僕が想像していた以上に、雪村は追いつめられていたのだった。 なぜ、僕はそれに気がつかなかったのだろう。なぜ、僕は雪村の苦しみの深さに気づいてやれなかったのだろう。 答えは分かりきっていた。 結局のところ、僕は、自分の身を守ることしか考えていなかったのだ。雪村から自分の秘密を隠すことだけで頭がいっぱいで、雪村の苦しみ、雪村の淋しさに思いが至らなかったのだ。 そう思うと、僕は身を切るような罪悪感に押しつぶされそうになった。声をあげて叫びだしたくなる衝動を抑え込み、僕は病院に向かって、ただひたすら駆けた。 病院の前には、十数人の報道陣が集まっていた。僕は、寒そうに身を竦めているカメラマンやリポーターたちを横目に、広々とした玄関口に入っていった。 ここまで走り通しだったせいで、僕の息はすっかり上がっていた。僕は息を整えるため、玄関ホールでしばらく立ち止まって体を休めていた。 胸に手を当てると、心臓がどくどくと早鐘を打っているのが分かった。それはたぶん、これから直面することになる現実への緊張のためでもあった。 そう、僕は恐れていたのだ。 僕は、雪村の死という現実に直面することが恐ろしかった。ここまで来てなお、僕の心はその動かし難い事実を受け入れることを拒絶しようとしていた。 けれども、ここで引き返すわけにはいかなかった。僕は意を決して、病院の受付窓口へと向かった。雪村理沙のクラスメイトであることを告げると、看護婦さんは親切に霊安室の場所を教えてくれた。 霊安室は、一階のいちばん奥まった場所にひっそりとあった。中に入ると意外と明るかったが、線香の香りの混じった空気は異様に冷たく感じられた。広々とした室内は、いくつものカーテンで間仕切りされていた。 僕は、雪村の両親の姿を見つけて、そちらへ歩み寄っていった。母親の里子さんが、僕の姿に気がついて驚いた顔をした。 「……悟くん?」 里子さんは憔悴しきった顔をしていた。無言で頭を下げた僕に、里子さんが近づいてきて言った。 「学校があるのに、わざわざ来てくれたのね? 本当に、どうもありがとう」 里子さんは、僕をカーテンの仕切りの一つに招いた。そして、仕切りのなかの寝台に向かってそっと呼びかけた。 「理沙。悟くんが来てくれたわよ」 寝台の上には、顔に白い布を被せられた雪村が横たわっていた。 寝台脇のスチール椅子に腰かけていた雪村の父親が、立ち上がって言った。 「悟くん、来てくれてありがとう。理沙の……」 父親は、涙をこらえていた。 「理沙の顔を見てやってくれ」 そう言って、父親は雪村の顔を覆っていた白布をそっとはがした。 雪村は、まるで眠るような表情で、そこに横たわっていた。死化粧を施された顔は、不思議なほど安らかに見えた。 里子さんが、僕に線香を手渡してくれた。僕は、寝台の傍に設けられた小さな祭壇に線香を供え、雪村に向かって静かに手を合わせた。 父親が、雪村の顔に白布を戻して言った。 「悟くんが来てくれて、本当によかった。理沙は、幼稚園の時からずいぶん君と仲よくしていたようだから」 「そうね。きっと理沙も喜んでるわ」 里子さんも、頷いて言った。 ――違う。違うんだ。 僕は唇をぎりっと噛んで俯いた。 僕が……。 僕が、雪村を殺してしまったんだ。 僕がいじめを煽動したから、僕が雪村の苦しみに気づいてやれなかったから、僕が雪村の身代わりになれない臆病者だったから、だから雪村は死んでしまったんだ。雪村は僕が殺したようなものなんだ。 僕は、それ以上その場にいることに耐えかねて、 「じゃあ、僕はこれで失礼します」 そう言って頭を下げると、霊安室の出口へと足早に向かった。そんな僕の背中から、里子さんが慌てたように声をかけた。 「あ、ちょっと待って、悟くん!」 里子さんは、床に置いてあった自分のバッグのなかを探ると、一枚の白い封筒を取り出した。そして、廊下で立ち止まっている僕のところまでやって来て、それを僕に手渡した。 「理沙が、悟くん宛てにこれを遺していたの。読んでやって」 「雪村が……僕に?」 僕は目を見張って、その白い封筒を受け取った。封筒には確かに、雪村の字で、『悟くんへ』と記されてあった。 何度も頭を下げて見送る雪村の両親のもとを去り、僕はいま、病院の前に広がる庭に設けられたベンチに腰掛けていた。手には、雪村の手紙が入った白い封筒が握られていた。 僕は『悟くんへ』と記された文字を凝視したまま、ただじっと座っていた。 ――雪村が、わざわざ僕に宛てて残した遺書。 封を開けなくても、そこに書いてある内容は想像がついた。 きっと雪村は、僕がいじめの工作をしていたことに気づいていたのだ。雪村は最後に,僕の罪を告発し、僕の責任を問いつめるためにこの手紙を残したのだ。 いったい、そこにはどれほどの恨みの言葉が、どれほどの呪いの言葉が記されてあることだろう。僕は、その言葉を正面から受け止めることがどうしようもなく怖かった。 だが、それは僕がきちんと引き受けなければならない言葉でもあった。それは、僕が一生背負わなければならない言葉だった。 長い時間が経ったあと、僕はようやく覚悟を決めた。震える手で、手紙の封を切った。 中には、薄紫色の便箋が何枚か入っていた。便箋には、女の子らしい丁寧な文字で長い文章が綴られていた。 『悟くんへ。 とつぜん、こんな形でお別れしなければならなくなって、ごめんなさい。悟くんもきっと、とても驚いたことと思います。この手紙を読むころには、少しは落ちついているでしょうか。 私は長い手紙を書くのが初めてなので、いま、とても緊張しています。悟くんとは、年賀状のやりとりとかはしていたけど、きちんとした手紙を書くのは初めてのことですね。読みづらいところもあるかもしれないけど、どうか最後まで読んでください。 私は、悟くんにどうしてもこれだけは言っておかなくてはなりません。 悟くん。 みんなにないしょで、私に手紙を書きつづけてくれて、ほんとうにありがとう。 最初に手紙を見つけたときは、すごくびっくりしました。まさか、私の味方になってくれる人がクラスにいるとは思わなかったんです。私は、悟くんからの手紙だけを支えに、学校でのつらい生活を耐えていました。学校へいくのは嫌だったけれど、もしかしたら今日も手紙が来てるかもしれないと思うと、登校する勇気がわいてきました。 私は、しばらく前から、手紙の主が悟くんであることに気づいていました。そのことを黙っていて、ごめんなさい。でも、みんなに無視されてる私が悟くんに近づきすぎると、悟くんに迷惑がかかると思ったし、私が気づいていることを悟くんが知ったら、もう手紙を書いてくれなくなるんじゃないかと思ってこわかったんです。 手紙を書いているのが悟くんだということを知ったのは、偶然でした。悟くんが私のゲタ箱に手紙を入れているところを、たまたま見てしまったんです。 その時、私はうれしさのあまり、必死で涙をこらえていました。 悟くんが私に手紙を書いてくれている。私にとって、それほど幸せなことはありませんでした。 なぜかと言えば,私は、ずっと悟くんのことが好きだったから。 最初に幼稚園で会ったときから、ずっと好きでした。 お母さんとはなれて、わんわん泣いていた私に、最初に声をかけてくれたのが、悟くんでしたね。私は、悟くんのおかげで、他のみんなとも仲良くなることができました。 私は、いつもなにかと私を助けてくれる悟くんをすぐに好きになりました。幼稚園で開かれた運動会の徒競走で、私がひとりだけ転んだときも、悟くんはわざわざ引き返してきて、私を助けおこしてくれましたね。悟くんと手をつないで、いっしょにゴールしながら、私はこれ以上ないぐらいの幸福感につつまれていました。 あの日のことを思い出していると、なんだか泣きたくなってきます。私が悟くんと手をつないだのは、あの日が最後だったと思います。たぶん、私のみじかかった人生のなかで、悟くんと思いっきり遊んでいた幼稚園のあの頃が、いちばん幸せで、かがやいていた時期だったと思います。 小学校に入ってからは、別々のクラスになってしまって、ほんとうに落ち込みました。すぐにまた一緒のクラスになれると思ったのに、けっきょく四年間も違うクラスに分かれたままでしたね。 そのぶん、五年生になって、また悟くんといっしょのクラスになれた時は、もうそれだけで幸せになりました。 二学期になって、とつぜん私へのいじめがはじまっても、同じ教室に大好きな悟くんがいると思うだけで、私の胸はあたたかい気持ちで満たされました。 私はそうやって、悟くんだけを心の支えにして、今まで過ごしてきました。 でも、もう限界です。 悟くんとこれ以上いっしょにいられないのは、ほんとうに悲しいけれど、あの教室でみんなから冷たい目で見られ続けるのは、もっと耐えられません。 だから、私はもう行きます。 私がいじめられていたことは、誰にも言わないでください。私はお父さんやお母さんを、よけいに悲しませたくないんです。かってなお願いを言ってごめんなさい。 生まれて初めてのラブレターが、こんな形になってしまったのは残念だけれど、私は人生の最後に、こうして悟くんに思いを伝えることができて幸せです。 悟くん。 世界でいちばん、あなたが好きです。心の底から、悟くんが大好きです。 ずっと、私のことを見守っていてくれて、ほんとうにありがとう。 さようなら。 雪村理沙』 僕は便箋を読み終わると、それを丁寧にたたんで、封筒のなかに戻した。 僕は、かつて雪村がそうしていたように、その手紙を胸に当て、目を閉じた。そうして僕は長い間、雪村のことを想っていた。 顔を上げると、はるか彼方で、雲の切れ間から光が射していた。 僕はそれをぼんやりと眺めながら、雪村はもう無事に天国に辿り着けただろうか、と思った。 5 雪村が死んだあと、僕はすぐにエージェントの仕事を辞めた。 茅葺先生は僕を引き止めたが、僕の決意は揺るがなかった。 けっきょく雪村の自殺の動機は最後まで明らかにされず、学級安定委員会は何事もなかったかのようにその活動を続けていた。委員会は、エージェントを辞めた僕を、速やかに次のターゲットに指定した。 新たなエージェントには、神崎しおりが任命された。クラスのなかで実質的な権力を握っている神崎は、僕よりもはるかに有能なエージェントとなった。僕はたちまち、いじめられっ子の地位に転落した。 今さらエージェントの仕事を辞めたところで、僕の積み重ねてきた罪が清算されるわけではない。僕はただ、雪村と同じ苦しみを味わうことで、もう二度と会うことのできない彼女に、少しでも近づきたいと思ったのだ。 僕は、雪村とまったく同じように、雪村が書いた最後の手紙を心の支えにして、苛酷ないじめの日々を耐えていた。ターゲットの立場は、僕が思っていた以上に辛かったけれど、僕はもう二度と機械になりたいなどとは思わなかった。 こんな僕の姿を、天国の雪村はどんな思いで眺めているのだろう。すべてを知った雪村は僕を軽蔑しているだろうか。いまの僕の苦しみを、当然の報いと嗤っているだろうか。 だが、それでも構わなかった。いまの僕は、ただ雪村のことを想っているだけで幸せだったから。 ある日の図工の時間、僕は絵の具セットの入った小さなカバンを、ランドセルから取り出そうとした。道具を机に入れておくと、すぐ誰かに隠されてしまうので、最近はいちいち家に持ち帰って、必要があるたびに学校に持ってくるようにしていた。 しかし、ランドセルに入れてあったはずの絵の具カバンは跡形もなく消えていた。 途方に暮れている僕を、神崎しおりがにやにや笑いながら見ていた。さっき僕が席を外したわずかな隙に隠してしまったらしい。茅葺先生のほうを見ると、先生は、絵の具カバンを持っていない僕を叱るべく、今か今かと待ち受ける表情をしていた。 僕は今日の居残りを覚悟して、溜め息をついた。先生に報告する前に、僕は、一応、机のなかも確かめてみた。 ――そこには、あるはずのない絵の具カバンが入っていた。 僕のものではない。カバンの色合いが微妙に違うし、僕のものよりずっと汚れも少なかった。 僕は絵の具カバンを机のなかから取り出した。先生と神崎が、予想外の展開に息を飲むのが分かった。 僕は、カバンを裏返してみた。カバンの下のほうに小さな名札が縫いつけてあり、そこには女の子らしい丁寧な文字で、持ち主の名が書かれていた。 『5年3組 雪村理沙』と。 |