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言葉

 いつの間にか、当たり前になってしまった光景。
 ユアニは、こっそりと自分の隣で食器を洗う赤毛の青年を横目で伺った。
 村の他の男達とは、彼は違っていた。手は固いが、それは農作業に携わったためではなさそうだ。身体もすらりと引き締まっていて、動きがきびきびしていた。そして何より、彼は美男子だった。
 彼の名前は、ルディルという。聞き慣れない響きなのは、彼が遠くからやってきたからだ。ちょうど六ヶ月前に、彼はたくさんの人間と精霊と一緒に、海を越えてきたのだ。
 ふと、ルディルが顔を上げたので、図らずも視線がぶつかってしまう。ユアニはあわてて顔を伏せた。頬が紅いかもしれない。
 桶にためた洗い水につけたままだったユアニの手を、彼女の持っていた食器ごと、彼の手が引き上げた。じんじんとしびれる皮の上から、彼のぬくもりを感じてますますユアニは困惑する。
『ルディルさん……』
 彼女は、彼女の<言葉>で、彼に語りかけた。彼女は、肉の声で話すことができない。誰かと意思の疎通をするときは、いつもこの方法を使うしかないのだ。
『あの、』
 しかし、彼に何を<言え>ばいいのか、思いつけない。いたたまれなくて下を向くと、彼は手を放した。
――そろそろ、中に入ろう。――
 彼の話す言葉は、耳で聞いてもユアニには理解できない。ユアニが<言葉>を使うときに特別な力――“魔力”が働くおかげで、彼と会話ができるのだ。
 耳ではない部分で彼の言ったことを聞き、彼女はうなずいた。水を捨て、洗い終わった食器を桶にまとめると、それを危なげなく抱えて彼は先に立って歩き出した。ユアニは数歩遅れてその後に続きながら、先ほどルディルの触れた箇所を、そっと胸に抱いていた。


 初めて会ったとき、ルディルをとても怖い人だと思った。兄に頼まれて、ルディルと彼の友人達の身の回りの世話をするために、ユアニは彼らの家を訪れたのだが、そのとき彼はひどく硬い表情をしていたし、自分に向ける感情も尖っていたのが感じられた。
 それ自体は、ユアニは特にめずらしいこととは思わなかった。村人達は誰も、彼女が覚えている限り彼女と距離を置いていた。今はすっぽりと布を巻いて隠している白い髪と、彼女が言葉を話せないことが原因なのだろう。
“魔力”は、彼女の一族のみが使える特別な力だ。使い方は、幼い頃に兄が教えてくれた。言葉の意味と使い方もまた。そうでなければ、きっと今のユアニは存在していない。
しかし村の者達は、彼女がこの力を使って話しかけると、決まって過剰な反応を見せる。そうそれは恐らく、『畏怖』に近い。だが、ユアニはそれでも<話>ができることを嬉しいと思っている。相手に何も伝えることができず、相手の言いたいこともわからないのは、あまりに悲しい。
 けれどその力を使っても、ユアニにはどうしてもできないことがある。


 ことり、と食器の触れあう音がして、ユアニは顔を上げた。
 亜麻色の髪の大柄な青年が、大きな手で自分の腹をなでていた。彼は食べるのが早い。
「――、――」
 彼が何かを言って、大らかに笑いかけてきた。今は“魔力”を使っていないので、言葉の内容はわからない。彼の表情から、とても満ち足りた気持ちであることはわかったけれど、ユアニは曖昧に微笑を返すことしかできなかった。
「とても、おいしかった。ありがとう」
 ややぎこちないが、ユアニにもわかる言葉で礼を述べたのは、銀髪の優しげな青年。彼は、ユアニの兄から直接この地の言葉を学んだのだ。今でも積極的に村人の中に入っていき、どんどんうまく話ができるようになっている。
 そして、ルディルは。
 静かに食器を置いて、彼は顔をユアニに向けた。胸がなって、彼女はいたたまれなくなったが、目をそらすことはしなかった。彼が不愉快になったらと思うと、いやだ。
 彼の黒い双眸が、ユアニを捕らえる。ふ、とそこに柔らかい何かが溶ける。
 言葉はなく。
 瞳だけで、彼は心を伝えてくれているようで。
 とうとう、ユアニは顔をうつむけて椅子から立ち上がった。きっと、変な顔をしているに違いない。見られたくない。
 全員分の食器をまとめ、洗い桶に入れる。それを抱えて裏口から井戸の方へ出る。暗闇の中に包まれると、ようやく彼女はほっと息をつけた。
 でも。
「……ユアニ」
 危うく、桶を落としそうになった。手が震える。呼吸をするだけで、胸が痛くなる。
 背中にとんと触れた声は、赤い髪の青年のものだ。
 彼が自分の名前を呼んでくれることは、とても少ない。決して無口なわけではないのだろう。彼と一緒に暮らしている、あの二人の青年達と一緒の時は、楽しげに会話もするし、笑みすら零すのだ。
 彼もまた、この地の言葉を身に着けつつある。簡単なことなら、話せるはずなのを、彼女は見たことがあるから知っている。なのにユアニと一緒の時は、彼はほとんど何も話してくれない。必要なことしか、言ってくれない。
「手伝う」
 今も、彼はその一言だけで、彼女の手から桶を取っていってしまった。
 井戸で水をくみ上げて、彼は桶の中にそれを注いだ。家の中から漏れる微かな灯りで、彼の横顔がほんのり照らされる。
 遠くを見ているようで、気づけばユアニのとても近いところに彼のまなざしがある。そんなことが、最近とても多くなっていた。
 そして、ユアニも。
 ルディルのその視線と、目がぶつかってしまうことが多くなっていた。
「……寒い、から」
 ふと、ルディルがつぶやいた。
「中に、入った方が」
 ――自分を、気遣ってくれているのか。いたわって、くれている。
 ルディルが。
 ほとんど何も考えず、ユアニは強く首を横に振っていた。ようやく足を動かすことができて、洗い桶の前にかがみ込む。ルディルはしばし動かずにいたが、おなじように姿勢を低くした。
 暗くてよかった。ユアニは泣きたいくらいに安堵した。
 これをきっと、『好き』というのだ。
(サージェン兄様……)
 今は近くにいない兄に、彼女は切なく呼びかけた。胸が痛いけれど、どうしてこんなに幸せなのだろう。
(ユアニは、『好き』を理解しました)



 あれは、六つの時だったろうか。
 花を摘み、頬を赤く染めて嬉しそうに歩く女性を見て、彼女は兄に尋ねたことがあった。
『兄様、どうしてあの人、嬉しそうなの?』
 見上げた先で、兄は困ったような顔をしていたように思う。当たり前かもしれない、彼は四つしか年嵩でなく、あのころはまだ十歳の少年だったのだから。
 けれど幼い日のユアニにとっては、兄は誰よりも賢く誰よりも素晴らしい人だった。このときも、兄は一生懸命に考えて、答えてくれたのだった。
「あの人は、誰かを好きなんだと思うよ」
『好き?』
「僕がユアニを好きな気持ちと、それは同じようで少し違うんだって」
 首をかしげると、兄と繋いでいる手のぬくもりが、深くなった。それに彼女がにこりと笑うと、兄は、
「今のユアニの気持ちが『好き』だよ。だけど、『好き』は、とてもたくさんある人の心の形なんだって。僕にもよくわからないけど……」
 兄は、ユアニと目の高さを合わせてくれた。とてもとても綺麗に澄み切った青い瞳が優しく溶けて、その中にいるユアニの姿と混ざり合った。
「とても幸せだというその気持ちを、君がいつか知ることができるといいと思っているよ。僕の大事なユアニ」



「ユアニ?」
 また。
 彼女を何より動揺させるその声に、びくりとした拍子に持っていた木の食器がぼちゃんと洗い桶の中に落ちた。あわてて拾い上げようとして――今度こそ、ユアニは泣き出すかと思った。
ルディルの手を、自分のそれが水の中でしっかりと握っている。
(!?)
 水しぶきを跳ね上げて、ユアニは急いで手を引き抜いた。自分の服にも、顔にも少し水がかかった。
『ごめんなさい!』
 その冷たさで、少しだけ落ち着くことができて、彼女は“魔力”で謝罪の言葉を紡いだ。
 ――なぜ謝る?――
 次の瞬間、ルディルの<言葉>も明確にわかるようになる。咄嗟にユアニは“魔力”を使うのをやめようとしたが、それを読みとったかのように彼が首を横に振った。
 ――君に一度、きちんと訊いておこうと思っていた。――
 怖い。何を言われるのか、予想できなくて怖い。聞きたくない。
 それを叶えるのはとても簡単なはずなのに、ユアニは自分の<耳>をふさぐことができなかった。彼の目が、強く強く自分を捕らえていたから。暗闇の中でも、それが感じられてしまったから。
 ――俺は、君に嫌われているのだろうか?――
 “魔力”で聞く言葉は、肉の声にて紡がれるそれよりも感情を強く纏っている。ルディルは……辛い、苦しいと、感じている。
(どうして?)
 ――最初に会ったとき、とても失礼な態度を取ってしまった。ずっと、謝るべきだと思っていたが……こんなに時間がかかってしまって、本当に申し訳ない。――
 そんなことは、もういいのだ。気にしていない。ユアニにとっては、こうして彼が一緒にいてくれることの方がずっとずっと重要で大切で。
 ――君のことを聞いた。サージェンから。――
 彼はそのとき、視線を一度だけ落とした。けれどすぐに顔を上げ、元のように真っ直ぐユアニを見つめてきた。
 ――だが、安い同情で、こんなふうに君を手伝ったりしたいと思ったわけではない。純粋に、君にばかり頼りたくなかったからだ。君の負担に、なりたくなかった。――
『……負担なんて』
 少しずつ、嬉しくなっていったのに。彼のために何かができること、それが喜びになっていったのに。
 彼は、とても優しい人だ。一緒にいるうち、わかっていった。言葉少なだけれど、ユアニを気遣ってくれるのが、何気ない動作からわかる。たとえば、さっき寒いからと中に入るよう勧めてくれた。いつも、洗い桶をユアニの代わりに持ってくれる。
 真摯な態度で、真っ直ぐに謝ってくれる。あんな、些細なことを。
『私、負担なんて思っていません』
 伝えたい。彼に、苦しい気持ちでいてほしくない。
『私は、ルディルさんを嫌いじゃありません。いつも嬉しいんです。ルディルさんみたいに、優しくしてくれる人は兄以外いませんでした』
 なのに言葉は、うまく形になってくれない。こういう風に、言いたいわけではないのに。
『私は……ルディルさん』
 胸が痛くなる。呼吸も苦しくなる。顔もきっと、赤い。
 全部それは、先ほどまでこの気持ちと一緒に感じていたものだけれど、それよりずっと、ユアニは強く望んでいた。
『あなたが、とても好きなんです』
 不思議だった。
 あんなに自分を締め付けていた痛みと苦しさと熱が、すうっとどこかへ溶けてしまった。
 笑いたかった。その心のまま、ふわりとユアニの頬がほころんでいた。
 ――……。――
 ルディルの、戸惑いの気持ちだけが伝わってきた。困らせてしまったのだろうか、ユアニは不安になりかけたが、すぐに彼が大きく溜息をついた。
 ――少し、悔しいな。――
(?)
 本当に、ルディルはどうしたのだろう。こくりと首をかしげた彼女の手だが、何と彼は突然、彼女の手を取ったのだ。
 ――少し心配だったから、言えずにいた。君に嫌われていないのなら、俺から先に言おうと思っていた。――
 彼は、ユアニの手を持ち上げて、そして。
『あ……っ!?』
 指先に、唇で触れた。
 目を大きく見開いた彼女に、やはりルディルは真っ直ぐ顔を向けたけれど、彼もまた自分と同じくらいにどきどきしているのがわかった。
 “魔力”ではなく、触れ合っている指先で。
「俺は、君が好きだ」
 彼女の知る言葉で、流れるように彼はそれを口にした。
「言いたくて、練習した」
 きゅ、とルディルが自分の指先を握ってくれた。その瞬間、ユアニは大きな爆発が身体の中で起きたように感じた。
 なんだろう、名前のわからない感情。
 ただ一つ、はっきりしているのは。
『私、嬉しいです。ルディルさん……!』
 そう、今とても幸せな気持ちで、どうしたらいいかわからないということ。



 人を好きになると幸せ。人に好きになってもらえると、もっと幸せ。
 兄がいつか帰ってきたら、真っ先にそのことを話そうと思った。
 ユアニはその幸せを知ったのだと、誰より大好きな兄に、教えたいと思った。
(兄様)
 どうしているのだろう。青い目の優しい人は。
(兄様も、私と同じ幸せを知ることができていますように)
 幼い時に兄が自分にくれた想いと同じことを、ユアニは心から祈った。


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